親子として結ばれて
 
                        里親  坂 本  洋 子
                        ききて 山 田  誠 浩
 
ナレーター:  よく晴れた日曜日。坂本家のベランダでは、五人の子どもたちの布団が太陽の光をいっぱいに浴びています。夫婦二人に五人の子ども。坂本家は七人の大家族です。休日の料理は夫・好一(こういち)さんの担当です。普段は子どもたちの世話でてんてこ舞いの妻洋子さんが少しでも休めるように、夫婦二人三脚の子育てです。坂本さん夫婦は、子どもたちのいずれとも血縁がありません。親が養育できず、施設で暮らしてきた子どもたちを里親として育てているのです。子どもたちは、ここでは家族の一員です。坂本さん夫婦を父・母として大きくなります。坂本さん夫婦は、通っていた教会で一緒に障害者のボランティア活動をし、一九八○年結婚しました。この二十年あまりで里親として十一人の子どもを育ててきました。
 

 
山田:  今、五人のお子さんと、それからご夫婦と、そうすると賑やかですか?
 
坂本:  いやぁ、賑やかなんていうものではないです。いのちが満ち溢れているという感じですね。(笑い)
 
山田:  最初のお子さんを預かる、つまり里親ということをやってみよう、というふうにお考えになったのは、それはどういうことからだったんでしょうか?
坂本:  結婚したのは二十八年前になりますが、その時に新婚旅行に行った時に、子どもの名前も考えたんですけれども、その新婚旅行の時に、「もし私たちに子どもが授からなければ親御さんのないお子さんを引き取って育てようね」って、たまたま主人とそういう話をしていて、そこからスタートですね。
 
山田:  そうですか。たまたまそういう話を、
 
坂本:  たまたまなんですね。あの時はたまたまなんですけど、今になってみると、この人生は、〈私には決められた人生だったんだろうな。神様は、あなたはこの道を歩みなさい、と決めて下さっていたんだろうな〉というのは、途中で気が付きましたね。
 
山田:  それが実際こういう形になるというのは、どういうことからなっていくんでしょうか?
 
坂本:  それから数年しても私たちに子どもが授からなかったんですね。授からないということがわかった時に―まあ少しは病院もかかったんですけれども―もうこれ以上人間の力で何かをしよう、ということは、もうやめよう、と。でも私たちはやはり父になり母になりたい。子育てをみんながしていらっしゃるように私もしたい。私も子どもをやっぱり抱っこしたいというのがあって、それでそう言えば、あの時あんなことを喋ったよね、ということを思い出して、じゃ、里親になろうか、ということになったわけですね。
 
山田:  最初のお子さんが来た時の様子を伺いたいんですけど。
 
坂本:  最初三歳過ぎた男の子だったんですね。生まれてからずっと乳児院にいて、乳児院で育ってきた子どもでした。
 
山田:  実際に家庭に来る前にどんな子も何度か会って見て、顔合わせのようにすることがあるみたいですけれども、そういう時にその子に会った時はどんな印象を持たれましたですか。
 
坂本:  ああ、やっと会えたな、という気がしましたね。これが私の子どもになる子どもなんだって、凄く嬉しかったですね。勿論不安も片方にはあるんですよ。だけれども、ああ、これでみんなと同じ親になれる。あ、この子が私の家に来てくれる。この子と一緒に私は暮らせるんだって、凄い喜びもありましたね。
 
山田:  坂本さんたちと会った時、その子はどんなふうなそぶりを?
 
坂本:  とても警戒心が強くって、なかなか近づいてくれなくて、それでまずは一緒に中でお昼御飯を食べたりとか、園庭で遊んだりして、その後施設の外に遊びに行ったり、徐々にこう範囲を広げていくんですけれども、その時もなかなか手を繋いでくれなかったり、とても警戒心が強くて、ずっと向こうから私たちを見ながら泣き続けていたり、担当の保母さんと一緒にずっとそちらにいて、私たちのほうにはもう見向きもしないとかね、たくさんそういうことはありましたね。
 
山田:  そんなことだと、なおさら不安が大きくなりますね。
 
坂本:  なりますね。果たして家へ来てくれるんだろうか、っていう気持にだんだんなりましたね。でも諦めずに通い続けましたけれども。
 

ナレーター:  一九八五年、初めて里親になる坂本さん夫婦の元に、純平君がやって来ました。三歳でした。純平君は家庭生活というものをまったく知りませんでした。お父さんは行方不明、お母さんは病気のため育てられず、生まれてからずっと乳児院で暮らしてきたからです。乳児院や児童擁護施設には、実の親がいても養育困難や虐待などで家庭生活を送ることができない子どもたちがたくさんいます。そのため親たちに代わって家庭で十八歳まで育てる養育里親が求められているのです。坂本さんは純平君の養育里親として手探りのスタートをきりました。
 

 
坂本:  あの頃はまだほんとに私も二十代でしたので、絆を作るとか、そういう余裕は一切なくて、もうとにかくひたすらその子どもが家に慣れてくれることを願って必死にやっていた、という感じでしたね。
 
山田:  どういうことをやっていかれたんでしょうか?
 
坂本:  まず子どもが、あるキャラクターがとても好きだったので、そのキャラクターのふりかけとか、そのキャラクターのエプロンとか、そのキャラクターが付いたものをたくさん買い揃えて、気をそらさずにすべていろんなものを間髪入れず出してくるとかね、そういうことをしましたね。
 
山田:  最初に受け入れてくれるかな、というふうにちょっと不安を持たれたと言いますが、実際に来て生活始めてみたらどうだったんですか?
 
坂本:  やはり大変なことがたくさんありましたね。それを当然だと思うんですね。純平もずっと施設だけで暮らしていましたから、家庭という生活を知らないわけですね。ですから家庭生活に突然入って、小さなトイレがあって、そして小さなお風呂があって、そして「この人がお父さんだよ」「この人がお母さんだよ」「ここはあなたの家だからね」と言われても、まるでイメージができないわけですね。私たち家庭に暮らしている者というのは、当然のように、お父さんというイメージ、お母さんというイメージ、そして家というイメージがあると思うんですけれども、純平にとっては、「お父さん」という者が何かよくわからない。「お母さん」と言われてもわからないわけですね。ですから私が朝起きて、同じ人が朝起きたらいるということを、彼はまずビックリするわけですね。施設では交代制ですから、担当の職員さんが変わりますね。朝起きても私がいるということにビックリする。私がお洋服を取り替えていることにまたビックリするわけですね。
 
山田:  違うものを着ていらっしゃる、と、
 
坂本:  そうです。そうすると、昨日と違うものを着ているだけで、「お母さん、きれい!」って、私を眺めたり、お洋服を誉めてくれる。私たちが当然だと思うことが、彼らはとても不安に思ったり、これは何だろう、と思うわけですから、それこそ冷蔵庫というものも新鮮だったり、そしてまた薬缶が沸いているんだって、「これは危ないんだよ」と教えなければいけないし、いろんなことがすべて初めての経験ですので、
 
山田:  そういう純平君に親御さんとしては、どんなふうなことを、どういうふうにしていこう、というふうに生活をやっていかれるんでしょうか?
 
坂本:  取り敢えず普通の子どもの生活を私はさせてあげたいんだけれども、でも彼は普通が恐いんですね。純平を連れて公園にいこうとすると、もう公園の近くまで来ただけで、もう「恐い!恐い!」って。「あそこは恐い!」と言って入らないんですね。普通の公園で普通の子どもたちが遊んでいるだけなんですけれども、そこに入っていけないということがありました。
 
山田:  それはどういうことなんですか?
 
坂本:  わからないですね。どういうことなのか。予測ですけれども、彼は公園に行っていろんな子どもたちと遊んだことがないという、まず経験の不足でしょうね。そして明らかに彼は自分とは違う子どもたちがそこにいるという、そういう感覚を持ったんだと思います。
 
山田:  そういう状態で、どうしていかれましたか?
 
坂本:  非常に警戒心が強い感受性の豊かな子どもでしたので、一度恐いと思ってしまうとそこへ入れなかったので、もう二人だけでいろんなところへ行ったり、二人だけでお弁当を持って公園に行ったり、人のいないところを探しながら川の側に行って二人でお昼御飯を食べたり、いろんなことをしましたね。まあなるべくご近所のお子さんとご挨拶をしたりとか、そういうほんとに小さな触れ合いから始めましたね。
 
山田:  徐々に長い間には解け合って近所の子どもたちとも交流するようになってきたんですか。
 
坂本:  はい。なりました。
 
 
ナレーター:  坂本家に来て一年半あまり、純平君が幼稚園入園の日を迎えます。坂本さんは近隣の幼稚園をくまなく調べた結果、大学の付属幼稚園を選びました。極端な人見知りでやんちゃなところもある純平君にしっかりした教育をしてくれることを期待したのです。しかし家庭で育ってきた子どもたちとの集団生活は、純平君にとっては戸惑うことの連続でした。
 

 
坂本:  幼稚園の頃なんかは、「どうしてあなたは、今朝靴下履いて行ったのに、どこにあるの? どうしたの?」と訊いた時に、靴下を履いていない彼が、余所のお友だちの家に入って行って、そこの家の子どもの靴下を持ってきてしまったことがあって、私はほんとにビックリしたんです。だけれども、確かに彼がいた乳児院の生活を考えてみると、彼のものというのは何もなくて、そこにある靴下を、なければ履いていい、という決まりだったわけですね。そういうことを考えれば、自分の靴下がない。だったら靴下のあるところから持ってきて履けばいいというふうに、彼は考えてもおかしくないんだ、ということに、その時に気が付いたわけですね。お友だちのお弁当を食べてしまったこともありましたね。自分のお弁当はあるにもかかわらず、余所のお弁当を食べてしまって、だからあの頃私は一時彼のために二つお弁当を持って行かせたこともあるぐらい、いろんなありとあらゆることを私はしてみました。
 
山田:  愛情の貰い方というものも十分だったかどうか、ということもあった時期があったんじゃないですか?
 
坂本:  そうですね。彼を引き取ってすぐの頃ですかね、私は、「お父さんお母さんは、ずっとあなたがこの家に居てほしいんだよ」って、私が彼に声をかけた時に、彼は、「じゃ、お父さんお母さんがそう思わなくなったら、僕はどうなるの?」と聞いたことがあったんですね。親にそう思われなくなったら、自分の運命はどうなるんだろうか。そう感じている。そう考えている子どもがいる、ということに、私はあの時衝撃を受けましたね。そんなにも自分の人生を不安に思いながら生きてきているんだなあ、ってことを。
 
山田:  坂本さんと一緒に生活をしながらも、純平君の中にはいつも自分がほんとに愛されているんだろうかとか、そういうことが不安になることっていうのもあったんでしょうかね。
 
坂本:  あったと思いますね。ある時公園の側を通っていたら、猫が通りかかったんですね。そうしたらその猫を見て、彼は、「お母さん、あの猫にお家あるかなあ」と訊いたことがありましたね。だから自分は家庭を持っていなかったのに、家庭を得ることができた。あの猫はどうだろうか。あの猫にも家があってほしい、ということを彼は願ったんだと思いますね。
 

 
ナレーター:  お父さんお母さんと呼べる存在が出来て二年。五歳になった純平君は、「妹が欲しい」と言い始めました。純平君の願いに答えようと、坂本さんは二歳の女の子・薫(かおる)ちゃんを里子として迎えます。四人になった生活は、坂本さん夫婦に家族の喜びを教えてくれるものでした。何かと妹の世話をやく純平君。薫ちゃんが泣くと、一生懸命慰める兄の姿がそこにはありました。この幸せがずっと続くことを、坂本さんたちは少しも疑いませんでした。一九八九年、小学校入学。しかしこれ以降、坂本さん夫婦は、育て親の難しさを痛感することになるのです。純平君が心を許すことができたのは、家族の間だけでした。家庭では落ち着いていても、学校では友達に手を出したり、悪戯に巻き込んだり、他人とうまく付き合えない純平君。周囲との軋轢(あつれき)が日に日に大きくなっていったのです。
 

 
坂本:  小学校へ入ってみると、幼稚園の頃の問題とは別の深刻な状況がたくさん出てきましたね。給食調理員の方がオープンカーに乗っていらっしゃって、そのオープンカーに休み時間に土足で上がってしまって、「スーパーに買い物にいく人乗って!」と言って、そこでプップッとかやってしまって、オープンカーがドロドロになってしまった。それから廊下で同級生をずっと並ばせて、そこの上を彼が歩いてしまったとか、昇降口の厚いガラスを蹴ったとか、そういうことが次々に出てくるようになりましたね。
 
山田:  純平君としては、どういうつもりでしている行動だったりするんでしょかね?
 
坂本:  彼は何かの遊びの延長だと思いますね。その廊下に子どもを並ばせてその上を歩いていたという時も、すぐに先生からお電話がかかってきて、「こういうことがありました」と言って、ご報告下さるんですけれども、「先生、どうしてそういうことをしたんでしょうか?」と逆にお聞きすると、先生は、「さぁ」と、お聞きしたのに答えにならない。だんだん親御さんたちが不安になってきたみたいで、その親御さんたちが私たちのところにいろんな苦情を持っていらっしゃったり、不満をぶっつけにいらっしゃったりということはありました。
 
山田:  それはどういう形で苦情がぶち込まれるんでしょうか?
 
坂本:  「もうあなた、親なんていうものはね、食べて寝せているだけが親じゃないのよ!」と言って、ずっと私叱られ続けたことがありましたね。一時間ぐらいずっと電話の向こうでがなり立てられたこともあったし、そしてちょっとでも私が、「でも」とか言うもんなら、二倍にも三倍にもなって苦情がきたり、あるいは学校の登下校に常に親が後ろの方を監視するために歩いていたり、また教室の中にクラスの様子を見るために親が立っていたり。
 
山田:  それは純平君の行動を見ていたりするためですか? 監視するために。
 
坂本:  そうですね。自分の子どもと純平が接触するのを避ける、ということですね。ですから異常な事態でしたね。「あの子は施設にいたから、ああいうことをするんだ」「施設にいたから、ああなんだ」「親が違うからこうなんだ」「甘すぎる、いや、厳しすぎる」。ありとあらゆることを言われた、ということは数限りなくありました。もうどんどん坂道を転がるように私たち親子は孤立していくわけです。それを見ていた主人は、自分の勤務を休んで親御さんたちにお話をしに行ったり、理解をして頂くために足を運んだりということは何度もしておりましたけれども、事態は改善することはありませんでした。
 
山田:  純平君としては遊びの延長だから、何か満たされないものがあるとか、そういうことではないということですね。
 
坂本:  でも満たされないものはあったかも知れませんね。家に来た頃になかなか公園に入れなかったのと同じように、やはり小学校に上がっても、この同級生の子どもと僕は違うんだということは、彼は感じていたように私は思います。それまで止まっていた夜尿もまた復活してしまったり、そういう子どもを差別する偏見がたくさんありましたね。そういう場所に出していくということが、もう私は切なくてできなくなりましたね。もうこんなに小さな子どもが、彼の責任では何にもないのに、彼に責任があるかのような言い方をされて、彼が傷ついていく。ズタズタにされていくというのは、もう見るに忍びなかったですね。で、「学校を休もうか」って、私は言いました。
 
山田:  そういう状況の中で、一時的に学校を休んだほうがいいじゃないか、となるわけですね。
 
坂本:  そうですね。私たちにとって、ありとあらゆることをしたんですね。ありとあらゆることをした結果、もう残されているのは引っ越しをすることか、学校を休むことか、もうほんとに少ししか残っていなかったんです。その中で、「じゃ、引っ越しをする前に学校をちょっと休んでみようか」という、それぐらいの気持だったんですけれども、純平ともほんとに一週間程度なんですけれども、穏やかな時間を二人で過ごすことができた。その間には学校からだって親御さんからだって電話かかってくることはありませんでしたから、ですからお互い二人で平和な時間を過ごすことができました。
 

 
ナレーター:  しかし事態は思わぬ方向に動きます。学校に行っていないことが里親を管轄する児童相談所で問題になります。関係のこじれているこの地域に、つまり坂本家に純平君を預けておけないとの判断がくだりました。小学二年生の冬でした。我が子のように思っていても、純平君は東京都の委託で預かっている子どもです。児童擁護施設に移すという都の決定に、坂本さんは従わざるを得なかったのです。
 

 
坂本:  もう悲しいも悔しいももうすべて一緒でしたね。私は初めて彼と出会って子どもを手にしたわけですね。そして彼は生まれて初めて三歳で、「お父さん」と呼べる存在、「お母さん」と呼べる存在を手にしたわけですね。ずっと親子できていて、そしてお互いが嫌いなわけじゃなくって、お互いに愛し合っているのに、親子として、これからもやっていきたいと思っているのに、それを引き離されたというのは、その引き離された傷痕というのは、そう簡単に癒えるものではなくて、お互いにほんとに生々しいものがたくさん残りましたね。
 
 
ナレーター:  純平君が、坂本さんたちと過ごす最後の日。家族は一日中遊園地で遊び、何度も行った思い出の串カツ屋で夕食をとりました。坂本さん夫婦は、純平君に明日一時家を離れなければならないことを伝えました。しかしそれが児童擁護施設に移ること、もう一緒には暮らせないことを意味するとは、最後まで告げることができませんでした。
 

 
坂本:  お食事をみんなでして家に向かって帰る時、車の後ろの方から、彼が、「お父さん、僕の小学校を通って」と言ったんですね。主人が、「うん、わかったよ」と言って、車を小学校の方に向けたんです。で、小学校の校庭に差し掛かった時に、もう一回後ろから彼が、「お父さん、ゆっくり走って」って言ったの。主人が車をゆっくり走らせたんですね。そうしたら、真っ暗な車内から真っ暗な校庭と校舎をじっと彼が見ているということを私たちは感じるんだけれども、でも私はそれを振り返って見ることはできなかったですね。彼は何にも言わなかったけど、〈明日、自分はこの家をさようならする。もうこの学校には戻れない〉それを彼はよくわかっているんだなあと思ったら、もうあまりにも辛くって、後ろ振り向いて見ることはできなかったですね。私は、世間の人に向かって窓を開けてほんとに言いたかったですね。「この子どもをこんな思いにさせたのは誰ですか! この子どもに何の罪がありますか!」と、私はほんとに叫びたかったし、言いたかったけれども、それは今もずっと私の中にある思いですね。それから家に戻って、みんなでお風呂に入って、その日はさすがに彼も興奮しているのかなかなか寝られなくって、主人が聖句を話して、そして聖書の中にある「ぶどうの木のたとえ」を彼に分かり易く伝えた、というのが、私たちにとって忘れられない夜でした。
 

ナレーター:  「ぶどうの木のたとえ」とは、十字架に架けられる前、別れを予感したイエスが弟子たちに語った言葉です。「私はぶどうの木、弟子たちはその枝として、私につながっている(ヨハネによる福音書十五章)」というものです。
 

 
坂本:  で、主人が、ぶどうの木の絵を描いて、そして、「これは神様ね。神様から繋がっている者はどこへ行っても、何があっても、いつも自分たちも一緒で一つなんだよ」ということを伝えたくて、そこに具体的に絵を描いたわけです。「これはお父さんね、この枝はお母さんね、これは純平、ここは薫だよ」と、そう言って、「私たちは明日別れてしまうんだけれども一緒なんだからね」ということを伝えたかった。
 
山田:  「一緒に住めなくなってしまうんだけど、私たちはいつも一緒で気持は繋がっているんだからね。忘れないでね」という、そういうことですね。
 
坂本:  そうですね。神様に繋がっている私たちは、いつだって一緒なんだよ。どこに暮らしていようと一緒なんだよ、ということを伝えたかった、ということですね。
 
山田:  それはちゃんと受け取って貰えた感じだったですか。
 
坂本:  次の日の朝、純平が起きてきて、「昨日の夜の話、僕、まだ覚えているよ」と言ったので、ああ、彼の心にはちゃんと私たちの思いは届いたな、と思いました。そしてその時描いた絵を彼は持って出たようで、その後も児童擁護施設に行った時も、その絵をまだ持っていると、彼は私たちに教えてくれました。
 
山田:  当時は純平君が家を離れて行かなくちゃいけなくなった時には、妹さんの薫ちゃんは家におられたわけですね。
 
坂本:  居ましたね。ですから薫は世間から何を私たちが言われているのか。彼がどんなことを言われているのか。小さな目で全部見聞きしていたわけですよ。ですから彼女はほんとに傷ついていましたね。彼女も傷ついていました。自分も里子としてあんなことを言われるのか、ということは、彼女も凄い予測ができるみたいでね。その頃でしたかね、彼女と一緒にお風呂に入っていたら、薫が突然、「私、大きくなっても結婚しないの」と言ったんですね。その時に、「どうして?」と言ったら、「だって結婚したって、私みたいな子どもが生まれるんでしょう」と言ったことがあって、そうやって自分のことをマイナスのイメージで受け取っていて、マイナスの自分がいて、この先もそうなんだ、という、それはとても聞いていて切なかったし、ほんとに家族中が真っ暗闇の感じでしたね、あの頃はね。
 

 
ナレーター:  もう一度純平君と暮らしたい。坂本さんは、何度も児童相談所に掛け合いました。しかし願いは聞き届けられないまま一年が過ぎていきました。純平君を思い出す時、坂本さんの心に浮かんでくるのは、純平君と出会った乳児院の他の子どもたちの姿でした。「家庭が欲しい。お母さんが欲しい」と言っているように見えた子どもたちの目。その中から純平君一人しか連れて帰れないことが負い目にも感じられたあの時。坂本さんは、再び子どもを迎えること、それも最も家庭を待ち望んでいる子どもを育てることを決心します。当時、養護学校の教員だった夫の希望もあり、里子に迎えられることの少ない障害のある子どもや心に傷を負った子供たちを育てることにしたのです。
純平君が去った後の坂本家には、さまざまな事情を持つ九人の子どもたちが次々にやってきました。
 

 
坂本:  彼らが負ってくる重荷というものもそれぞれ違いますから、それは子どもの年齢によるというようなものではなくって、ほんとにまちまちですね。
 
山田:  年齢が同じぐらいであってもまったく違う?
 
坂本:  そうですね。年齢が小さいからこの子は軽いものを持っている。年齢が大きいから重いものを持っている、というような差ではなくって、生きてきた年齢に資することなく、それぞれいろんな経験をして、ここに来ているわけですね。
 
山田:  小学校五年生で来たお子さんとは、どういう形での親子関係がスタートしていくんでしょうか。
 
坂本:  そうですね。彼は、ずっと一人で暮らしていた、と言っても過言ではないぐらい一人ぼっちの生活をずっと家の中でしていたんですね。彼の相手というのはもうテレビだけという状態でした。彼はずっとアニメを見ながら多くの時間を過ごしていた子どもでした。ですからほんとに一人の中でイメージを創って、一人の中でずっと笑ったり怒ったり、ぶつぶつ呟いていたりという、そういう子どもだったんですね。私が、彼に何かを問いかけてもなかなか反応を返してくれなかったり、で、私は彼をリビングの真ん中に座らせて置いて、そして一日中の流れというものをずっと彼に、〈こうやって一日が流れていくんだよ。いろんな刺激が家の中にあるんだ〉ということをまず彼にわかって貰ったんですね。夕食を作る時には、トントンと音がして、そしていい香りが流れてくる。そして御飯になって、みんなで「頂きます」と言って食べる。お父さんが帰って来る。みんなでお風呂に行って順番で綺麗になっていく。そして寝るんだよ、という、そういう生活のサイクルというものを、彼にわかって貰うようにしたんです。
 
山田:  それはどういうことなんでしょう。彼にこの家の生活が少しずつわかっていって安心していく、ということなんでしょうか?
 
坂本:  「あなたはもうその世界から出ていらっしゃいね。もうここは安全だから大丈夫よ」という無言のメッセージを伝えた形になったと思いますね。その中で彼はだんだん自分の殻から出て来て、そして私たちの問い掛けにも答えるようになっていくという、そういう段階を踏んでいくんですね。
 
山田:  心にも傷を負っていると言いますか、そういうお子さんとも一緒に生活をされたわけですね。
 
坂本:  ええ。ほんとに一回パニックになると、もうそのパニックからなかなか出られなくって、もう泣きわめいたり、自分の激しい怒りが抑えられなくって、机を投げ飛ばしたり、机をひっくり返そうとしたり、襖一枚なんか簡単に―四歳の子どもがですよ―襖一枚取ってパッと投げたりするんですね。手当たり次第に物を投げ散らかしたり、私に噛み付いてみたり、いろんなことをしてきましたね。
 
山田:  坂本さんはどういうふうになさったんですか?
 
坂本:  私は、決して彼から逃げない、ということをしましたね。その時噛まれたから逃げないとか、そういう具体的なものではなくって、〈その子どもから絶対私は逃げないんだ〉ということを彼に伝え続けたんですね。〈あなたは何をしてもいい。だけども私はここにいるから、私はいつだってここにいるよ。あなたを見ているよ。大丈夫なんだよ〉というメッセージをずっと彼に伝え続けたんです。
 
山田:  耳に障害のあるお子さんというのは、おいくつの時にここにいらっしゃったんでしょう。
 
坂本:  四歳でしたね。その子はたしかに聞こえないんだけれども、だからと言って手話ができるわけではなかったし、口話ができるわけでもないし、筆記ができるわけでもないという状態で私の家に来たんですね。で、専門の施設が空くまで数ヶ月お願いします、という短期の里子だったんですけれども、私の家に来て一緒に生活をしました。
 
山田:  そうすると、その意思疎通なんかはどうやってはかっていかれたんですか?
 
坂本:  もうほんとにお互いの気持と表情だけですべての生活をこなしましたね。だけれども彼女はとても能力のある子どもだったので、私たちが何か捜し物をしていると、彼女はそれをじっと見ていて、〈ああ、今、あの人たちはこれを探しているのかな〉ということを気が付くらしくって、私たちが探しているような物をちゃんと出してきて、「これでしょう」と言ってきたりするんですね。
 
山田:  でも日常っていろんな話するじゃないですか。いろんなことを言い合わないといけないですが、それはどうやって過ごすんですか。
 
坂本:  それがちゃんとどういうわけだか出来ているんです。勿論おやつが欲しいって彼女が思っているのに、それが意味がわからなくって、おやつを私たちが出せなくって、私たち大人に噛み付いたこともありますけどね、腹を立てて。だけれども、その時に薫がいましたから―薫との歳の差が二歳だったんですけれども―薫とは一緒に絵を描いたりとか、いろんなことをしながら、ちゃんと遊べたんですね。いろんなことも気持が通じたので、そう私たちが苦労したということはなかったんです。で、その中で私は、〈ああ、人間というのは、こうやってハンディがあるとかないとか、私は区別をして考えていたけれども、そういうことを思う必要はないんだな〉ということに気が付いたんですね。ハンディがあるというと、とても大変なことのように思いがちで構えがちですけれども、そういう必要はないんだ。子どもというのはいろんなものを持ってそこにいるんだから、その子どもに応じたやり方を私がしていって、その子どもを丸ごと受け入れることによって子どもに添うていく。私はとにかく子どもが主であって、私はその二番手にいて、子どもの時々に応じて添うていけばいいのかな、というふうにその頃から思うようになりました。
 
山田:  それは純平君を育てた頃の坂本さんと、この障害を持っている子供たちと一緒にいらっしゃった頃の自分とは全然違った考え方が?
 
坂本:  はい。ほんとにあの時に戻ってもう一回やり直したいぐらい全然違うと思いますね。あの頃はほんとに「私が」と思いましたね。「私がこの子をしっかり育てないと、この子の人生は酷いものになる」という思いがありましたから、もう一生懸命やろうとしたし、完璧を目指そうとしました。どこへ出しても恥ずかしくない人間にしてあげようって、妙な力み方がありましたね。肩に力が入っていて、彼がしたいということは全部させてあげたいんだけど、それ以上に「私がこうしたい」と思うことがいくつもあったんですね。だからピアノを習わせたいとか、スイミングに行かせたいとか、皆がしているようなことを同じようにしてあげようというのがあったので、誰かが「スイミングへ行っている」と言ったら、じゃ、この子もスイミングへ行かせなければ、スキーもやらせなければいけないって、いろんなことを考えて、いろんなことをやらせたんですね。それはたしかに親の愛情だとは思いますけれども、今思えばあんなにいろんなことをさせることはなかったな、と。もっと他の形でできることはあっただろうな、と反省することはあります。
 

 
ナレーター:  いずれは坂本家の子どもたちも、この家を巣立って行きます。それまでに暮らしで必要なことを教えておきたいと、坂本さんは願ってきました。夕食作りが始まると、子どもたちが次々と集まってきて、坂本さんを手伝います。坂本家に来たばかりの頃は、家庭でのお手伝いも初めての体験でした。坂本家に来た当初、不安を抱えていた子どもたちも家族の中で自分なりの役割を果たすうちに、自らの居場所を見付けていきます。そうして少しずつ家族の形ができていくことを、坂本さんは実感してきました。
 

 
坂本:  ある時ね、一番小さい男の子が、上の子が風邪で寝ていて、学校をお休みしていたんです。そうしたら幼稚園から帰って来た時に、キャベツの葉っぱを一枚ひらひらさせながら持って帰って、「ママ、今日はこれでスープ作ってね。そして寝ているお兄ちゃんにこれを食べさせてあげて!」って言って、幼稚園のお庭から先生に言ってキャベツの葉っぱを一枚貰ってきたんです。私はそのキャベツを刻んで、ちゃんとスープにして、「これは幼稚園から貰ってきたキャベツなんだって。あなたに食べて欲しくって、風邪を早く治して欲しくって、それで取ってきたんだよ」と言ってあげたら、上の子が食べて、「美味しいよ。治るよ、これで!」と言った。そうしたらキャベツ一枚ひらひら持って来た子がもうほんとに嬉しそうな顔をしている。こうやって愛情というのは、上流から下流に流れていって、〈あ、この子にもそうやって人のために何かをしよう〉という気持が芽生えたんだな、ということを、その姿を見ていて、私はとても嬉しかったです。
 

 
ナレーター:  里子たちとの暮らしの一方で、坂本夫婦は純平君を忘れることはありませんでした。毎月面会に通い、家族で公園に出掛け、長期の休みには自宅に迎え入れて一緒の時を過ごしました。しかし純平君は小学校卒業を前に、児童擁護施設でも問題を起こし、教護院に移されます。中学卒業と同時に社会に出たものの、なかなか仕事が続かない純平君を坂本さん夫婦はずっと見守り続けていました。
 
夫・好一: 一緒に生活はできなくなったけれども、でも神様は、場所は異なっても、家族としての絆はちゃんと保っていてくださる、ということを信じたかったんですよ。帰ってきた時も勉強を教えたりして、私が怒鳴ったりとか、また行った先でいろんな問題を彼が起こしたりとか、ということがありましたけれども、そういう時に迎えに行くこともしんどいなと思う時期もあったけれども、結局そういう揺れる中でも、続いていったというところに、やっぱり神様の深い計画というのがあったんだろうな、と思いますね。
 

 
ナレーター:  離れてはいても、心配していてくれている坂本さんに、純平君は何度か手紙を寄せます。
お母さんとお父さんは本当に俺のことをよく考えてくれているんだなあとよくわかりました。俺は生きぬくことの強さを身につけたいと思っている。つい二日前死んでやると思った。とても悩んだけど、やっぱり生きる。頑張って笑顔で又この家に帰ってきたい。お父さんが言っていたブドウのように、俺と坂本家はいつまでも結ばれているということがとてもよくわかった。本当にどうもありがとう。
 
しかし、この手紙の翌年、十七歳の純平君の命は突然絶たれます。盗んだバイクを無免許運転した末の事故死。坂本さん一家が旅行中のことでした。
 

 
坂本:  夏休みにバリ島に行って帰って来たら、彼はもう亡くなっていたという知らせが留守番電話やファックスにたくさん入っていて、もうその瞬間に初めて私たちは彼が亡くなった、ということを知りました。
 
山田:  それはどういう感じだったですか?
 
坂本:  既にもうその時には骨になっていたわけで、私たちがバリ島に出掛ける前に元気な声で電話で話をしたあの彼がもうこの世の中にはいない、ということは一度には信じられなかったですね。生活も別にしていましたから、私の家でお葬式を出すとか、そういうことはなかったわけで、そういう意味で、私は彼が亡くなったということが、自分の中でストンと落ちていかない、ということもあったんですけれども、「彼が亡くなった、死んだ」ということを、とてもじゃないけど、この口に出して言えなかったんですね。あの時私は、ほんとに苦しいこと、辛いことっていうのは口に出せないんだ、ということをあの時に知ったんです。それで半年ぐらい経ってから漸く私はいろんな方たちに、「実は彼はこういう形で亡くなられました」ということをお話をすることができるようになったんですけど。
 
山田:  そういうふうに時を経ることによって、どういうふうに純平君の死を受け取っていかれるようになっていくわけですか。
 
坂本:  私は里親になってから、〈私がやるんだ〉という気持があったし、それから〈気持さえあれば、思いさえあればどんなドアも開くし、どんなこともできるんだ〉と思い込んでいたし、確信していた部分があったんですね。だけれども、彼が亡くなったことによって、ほんとに彼はアッという間に私の手の届かない、人智では遙かにはかり知れない部分にいってしまったわけです。それによって私は、〈何でも自分でできると思っていたし、この子の人生も私の手で作り替えることができるぐらいの傲慢さが私の中にあった〉ということに気が付いたんですね。私は、〈私の手では開くことのできない扉がある。そういう大切な部分があるんだ〉ということに気が付いた時に、私は、〈今、私としてこんな小さなものです、愚かな者ですけれども、私のできることを淡々とさせて頂きます〉という、そういう気持に変えられた、ということです。
 
山田:  そういうふうに考えることで、平静な状態を取り戻していかれた、ということですか。
 
坂本:  そうですね。実は最後に彼と話をしたのが、私たちがバリ島に行く前だったんです。その時に彼から電話があって、「今度新しい子どもが来ることになったんだ」と言ったら、純平がフッと淋しい声を出したんですね。で、〈あ、彼はまた自分の席が遠のいた、というふうに感じたんだろうな〉と思いましたけれども、その時に彼が、「そんなにやって、お父さんお母さん、体大丈夫なの?」と聞いたので、私は、「大丈夫だよ。お母さんもお父さんもこれ好きでやっていることだから」って言ったら、純平が、「ふ〜ん、じゃ、頑張って!」って言ったんですね。で、私にとっては、もうその言葉が私にくれた彼の遺言だ、というふうに私は感じていますので、そういう意味では前に向いて進んでいこう、という決心ができていましたし、それからもう一つは、彼の骨に会って、新しい子どもに会えにいく途中に、主人が私にこういう声かけをしたんですね、「これから会う新しい子どもに亡くなった彼の分まで愛情を注いであげようね」って、言ったんです。それによって私は、〈そうだ。これからもこの歩みを、同じ歩調で続けていこう〉そういう決心ができました。
 

 
ナレーター:  純平君の死後も里親を続ける決心をした坂本さん。その坂本さんの耳に、二○○二年信じられないニュースが飛び込んできます。里親が三歳の里子を殺してしまった事件でした。実の親と離れ、大人の都合で翻弄されてきた幼い子どもたち。その心の痛みは、里親一人ひとりでは受け止めきれません。坂本さんは他の里親たちに呼び掛け、互いに悩みを語り合う場を持つようになりました。幼い頃の体験はいつまでも心に刻まれていることを、坂本さんたちは実感してきました。今も気がかりなのは、五歳で兄純平君との別れを経験した薫ちゃんのことです。薫ちゃんは思春期に荒れて家出をくり返し、坂本さんを悩ませました。二十二歳になった今、一人暮らしを始めていますが、仕事がなかなか続きません。制度的にはもう里子ではありませんが、坂本さんは薫ちゃんに向き合い続けています。
 

 
坂本:  高校生ぐらいの時に、「もうこんな家なんか出てやる! 誰がこんな家なんかいるもんか!」と言って、もの凄い勢いで、結局出ていってしまって。で、その一時期他の里親さんのお宅に行っていたことがあるんですね。その時に私は、あんなに一生懸命私は心を尽くし、頑張ったんだけれども、この子どもに、「あんな家なんか! あんな里親なんか!」というふうに言われてしまった時に、〈ああ、もう私は里親をやっていてはいけないな〉と思ったことはありました。
 
山田:  どうなったんですか?
 
坂本:  結局里親の世界を見れば、やっぱり自分の家はここなんだ、ということに気が付いて、私の家にまた戻ってきて、「やっぱり私の家はここだからよろしく」みたいな感じで、家出も何度も繰り返して、まあ大変いろんなことがありましたけれども、ただなかなか一人の人間が落ち着くまでに、成長するには時間がかかるなぁ、ということをしみじみ感じています。最近もまだ感じています。
 
山田:  やっぱり純平君が家を離れて行ったことというのは、薫さんの中にも、後々まできっと大きなものとして残っているんでしょう?
 
坂本:  今でも傷になっていると思いますよ。今もなかなか人のことを信じられなかったり、全面的に委ねなかったり、一人きりになりたかったり、人との付き合いがなかなかできず、距離感が上手くとれない子どもなんですね、今もね。ですから、それはたぶんあの頃のそういうものが―全部とは言えませんけれども―影響しているというふうに感じています。
 
山田:  純平君と薫さんと二人だけの兄妹だったんですものね。とても仲良かったんでしょう。
 
坂本:  そうですね。
 
山田:  そういう間柄だっただけに、そういうことが積もっていったんでしょうね。
 
坂本:  そう思いますね。お兄ちゃんは妹をとても可愛がっていたし、妹はお兄ちゃんを慕っていましたからね。やはり血縁はなくても、兄妹として育っていましたから、その一人がこの家から消えてしまった。そして施設へ行ってしまった。それが彼女にとってはとても大きなことだったと思います。
 
山田:  そういう薫さんの行動については、今は距離をおきながらですけど、どこまでもずっと見守っていこうというつもりなわけですね。
 
坂本:  そうですね。あの日にぶどうの木を絵に描きましたけれども、やはりあの枝の一つは彼女ですから、どこまで行っても、私たちはぶどうの木に繋がった枝として、彼女とは一つの家族だ、というふうに思っています。私は、この子どもたちを育てることによって、夫と結ばれた、というふうに思っているんですね。神様はこれをするために私たち夫婦を結び合わされたんだ、というふうに思っているんで、主人と私というのは、夫婦というよりも同士みたいな感じなんです。ですからほんとに前に向かって子どもたちを育てるために力を合わせているという感じで、そういう意味では、家庭を供給するための同士という感じですかね。なんか私にとっては、家庭というのはみなさんのイメージとはちょっと違っているかも知れないですけど、私は、〈この子どものためにこの家庭がある〉というふうに思っています。たしかに血縁の親子とは違うかも知れないですけれども、人間としては結ばれたご縁としての血縁があるというふうに、私は思っているのです。
 
 
     これは、平成二十年五月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである