回峰行に生きる
 
                   大行満大阿闍梨 光 永(みつなが)  覚 道(かくどう)
一九五四年山形市生まれ。七五年鶴岡工業高等専門学校卒業。得度受戒。八一年延暦寺一山・大乗院住職。八九年明王堂輪番。九○年千日回峰行満満行。北嶺大行満大阿闍梨。九六年十二年籠山行満行。二○○○年延暦寺一山・南山坊住職。著書に「回峰行を生きる」「千日回峰行」など。
                   き き て    西 橋  正 泰
 
ナレーター:  京都府と滋賀県の界に聳える比叡山。平安時代に最澄(さいちょう)が開いた延暦寺があります。その中腹にある南善坊(なんぜんぼう)(大津市坂本)と呼ばれる僧坊です。光永覚道さんは比叡山独特の行である千日回峰行を七年かけて修め、三十五歳で大行満大阿闍梨(だいぎょうまんだいあじゃり)となりました。千日回峰行(かいほうぎょう)はほぼ千日かけて比叡山山中で人間の体力の極限まで修行する荒行です。
 
西橋:  比叡山の中腹ということで、この眼下に琵琶湖が広がっていますね。
 
光永:  はい。
 
西橋:  眺めのいい所ですね。
光永:  ちょうど標高的には低いんですけれども、ちょうど琵琶湖の八割がここから見えるという非常に景色のいい所にあります。
 
西橋:  そうですか。一九九○年(平成二年)三十五歳の時に満行。
 
光永:  はい。
 
西橋:  随分お若くて。
 
光永:  まあ若いと言えば若いですし、それくらいの人間でないと大変ということもありますけども、私の前に千日回峰行をされた酒井雄哉(ゆうさい)さんの場合はかなり高齢になってからされていますけども、そういうご縁があって行に入らせてもらった年齢にもよりますので、ただ私と同じくらいの年齢で千日をされている方が非常に多いですね。
 
西橋:  そうですか。戦後でいうと十人目でいらっしゃるんだそうですね。
 
光永:  はい。ということらしいですけども、大体織田信長の焼き討ちで資料を失っていますのでわからないんですけども、それ以後の資料としては大体十年に一人くらいの割合で、江戸時代からずーっと続けておられる行になります。
 
西橋:  もともとスタートはいつ頃なんですか。
 
光永:  大雑把にいうと、千年ぐらい前からこの回峰行というものが大体形つくられて、この比叡山の諸堂をずっと巡拝をして歩くという修行が行われてきたことになります。
西橋:  この比叡山の特徴はどういうことでしょうか。
 
光永:  比叡山を代表する喩えとして、「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」ということがありますけれども、「論」というのは、比叡山延暦寺は法華経というお経が教団の根本経典になります。その法華経の教えについていろんな教義があります。いろんな教えがありますから、それについて勉強して論議をする。そういうふうな教学―勉強することの大変さ。「湿」というのは湿気ですね。今日もちょうど雨上がりですけども、比叡山山上は非常に霧が出る日が多いですし、ですからそういう湿気が非常に厳しい。それから「寒」寒い。遅い年には五月でも雪が降る年があります。そして最後は「貧」貧しい。清貧ということですね。ですから延暦寺の場合、根本中堂には昔は賽銭箱がなかったということがあるように、修行の山、学問の山として、もともと檀家も持っておりませんので、いろんな寄進によってなりたっているということで、ある意味では豊かなではないということで、「貧」ということになって、「論湿寒貧」というのが比叡山を表す代表的な表現方法になるんです。
 
西橋:  湿気が多くて寒い、しかも清貧に甘んじて、そういう中で法華経の経典をしっかり学びなさい、ということなんでしょうかね。
 
光永:  はい。ですから回峰行も、基本的には「常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)」というんですけれども、その中の常不軽菩薩の教えに則って「歩行禅」ともいうんですけれども、「但行礼拝(たんぎょうらいはい)」一木一草に仏性を感じながら、それぞれの山の中で、それこそ石や木やお堂、そういうものすべてに礼拝して歩くという気持を持って歩かせて頂く。「歩々声々念々(ほほせいせいねんねん)」というんですけども、「歩々」一歩一歩歩きながら、「声声」お経を唱えて、呼吸を調えて、呼吸を調えると心が静まるわけですから、心が調った状態で、「念々」一つ一つに仏様に礼拝して歩くというのが回峰行の基本になります。
 
西橋:  さて、少し遡って光永さんの人生を伺っていきたいんですけども、先ず山形市のお生まれでいらっしゃいますね。
 
光永:  はい。
 
西橋:  一九五四年(昭和二十九年)山形市のお生まれで、お父さんは公務員でいらっしゃった。
 
光永:  はい。国家公務員で文部省管轄ですね。
 
西橋:  そうですか。で、少年時代の思い出としては、魚釣りがとっても好きな少年だったというふうに伺っておりますが。
 
光永:  取り敢えず暇があったら魚釣りに行っているという生活をしていまして、小学校中学校高校とひたすら魚釣りをしていましたけども、あまり殺生し過ぎてお坊さんにならなくちゃならなかったのかも知れませんね(笑い)。
 
西橋:  一番最初に比叡山に来られたのは鶴岡工業高等専門学校のまだ学生の時ですか?
 
光永:  学生の時ですね。縁があって比叡山に、今風に言ったら年寄りくさい高校生なのかも知れません。魚釣りも好きだったんですけども、庭を観るのも好きで、縁があって京都のお寺の庭なんかを見に寄せてもらった時に、比叡山の延暦寺の住職さんのお寺に、お金がないものですから山形からのご縁で紹介して頂いて、泊めて頂いて、そのお寺から毎日京都のお寺を見に行っていたんです。その住職に「おまえ、山に上がって来い」と言われまして、それで初めて比叡山の回峰行の根本道場である明王堂(みょうおうどう)のほうに伺わせて頂いて、私の師匠である光永澄道(みつながちょうどう)師に会いました。怖い人だなと思って、一日お世話になって、こんなとこかなわん、と思って帰ったわけです。帰ったら山形のほうのお寺さんのほうに、「弟子に来い」という連絡がありまして、そうしたら、うちのお袋は二つ返事で、「こんないいご縁はない」と、本人の意志を無視しまして返事をしてくれていたらしいです。私もどうしようかなあ、と思ったんですけども、まあ小さい頃から「うちのおじいちゃんがお寺に入れられて帰って来た」というのは聞いていたんです。田舎のほうで、「一族から一人お坊さんが出ると、その一人のお坊さんが積んだ徳で七代助けて頂ける」という話があって、「おまえのおじいちゃんは、昔お寺に入れられたんだが帰って来たんだ」ということを小さい頃からさんざん言われて育ってきたんです。私はちょうど男三人の三男坊で、私の師匠から「弟子に来ないか」と話を頂いた時に、「おじいちゃんの代わりなのかなあ」という思いはありました。それで何となくそのまま周りに押し切られて、というか、自分でもお坊さんになってもいいかな、という気持もありましたので、普通ではない縁ですけども、ご縁でありますので、そちらのほうへ進んでみようかなあということで、自分で選んで高専に入りましたので、けじめとして高専を卒業して、二十歳で比叡山に寄せて貰ったということになります。
 
西橋:  お寺に入ろうという最後の決断は、どういうことからだったんですか。
 
光永:  中学生の時に自分で人生設計を描きまして、大体理科系が好きでしたので、技術者になりたい、と。しかしあんまり勉強するのは好きじゃない。そうしたら高校受験、大学受験をするより、高専に行ったら受験が一回で済むということで、高専に行こうと思いました。高専に行って五年間で卒業して、それで企業に就職をして、というふうになると、大体自分のレールが全部引ける。ですから高専に入った時に、「二十歳で卒業して、二十五歳で結婚して、三十で子ども三人目ができて、五十で課長になって」と、大体自分の人生設計がすべてできてきたんです。その時に私の師匠に「お坊さんになれ」と言われた時に、「う〜ん」と考えてみても自分の将来像が全然浮かばなかったんですよ。お坊さんになって、どういうお坊さんになるのか、という可能性も何にも見えない。自分の人生が真っ暗だったんです。全然絵が描けない。しかし、〈描けない自分の人生が面白いんじゃないだろうか〉と思った。技術者(エンジニア)となって会社勤めをした場合の人生というのはほとんど予測がつきます。この頃流行っています「想定の範囲内」という人生を歩んでいくわけですけど、お坊さんになったら元々の想定ができない。想定ができないほうに興味を持ってしまった。後でよく聞いたら、私のおじいちゃんがお寺に入ってお坊さんにならなかったものですから、悪いと思ったのか、私の親父もお寺に入れているらしいんですよ。私の親父もお寺に入ったが帰ってきてお坊さんにならなかった、と。ですから、私は、うちの三度目の正直でお坊さんになった人間です。普通におじいちゃんあたりがお坊さんになって、私が生まれていたら普通のお坊さんになれていたと思うんです。だんだんぎりぎりになったみたいですんで、こういうふうな厳しい修行をさせてもらうご縁を頂いたのかも知れません。
 
西橋:  じゃ、二十歳の青年としては、未知数の僧侶の道に賭けてみよう、というような思いがあったんですか。
 
光永:  「賭けてみよう」と言ったら格好いいですけども、取り敢えずやってみよう、というのがあったと思います。
 
西橋:  で、鶴岡高専を二十歳で卒業して、八日後にはこの比叡山で得度受戒をなさったわけですね。
 
光永:  はい。明王堂の本堂で三月二十七日の日に得度させて頂いて、その日の晩には私の師匠が、「先達(せんだつ)」と言って、その年の百日の行をする者を連れて行って、どこでお詣りするか教えるんですけども、それのお供をさせてもらった。山での生活が始まったわけです。とんでもないところに来たと思いましたね。私がお坊さんになった時に「仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)」といって、「まずお坊さんらしくなりなさい」と師匠に言われたことを覚えています。まず形を作って、形ができたらそれに対して心もついてくる、と。私は、「在家」と言って普通の家の出身ですから、それまでにたくさん延暦寺のお寺さんとか、地方のお寺さんのように、当たり前のようにお堂の中で仏さんを毎日お詣りをしながら育ったわけでありません。そういう意味では、「お坊さんの形に早くなりなさい。そうすると、自然に心もお坊さんの心になります」ということで、取り敢えずお坊さんの姿が似合うようになりたい、と。小僧をしていますから、衣を着て、私の頃で朝五時半からお勤めをするんです。それ以外は薪割りとか道直しとか、いろんなことをさせてもらいながら、お坊さんの勉強をさせしてもらった、ということになります。
 
西橋:  小僧さんの頃に、やがて厳しい修行に自分も入るんだ、という覚悟はおありだったんですか。
 
光永:  自分が、したいという気持だけで、できる行ではありません。他の先達たちさんが、「あの者だったらさしてもいいだろう」というふうに思って頂かないと、許可が出ませんので、それこそ縁があったら、ということになります。目の前の自分の為すべきことを一つ一つ積み重ねていって、その中でもし縁があったら回峰行という行をさして頂きたい、という気持を持ち続けてきたということは事実ですね。
 
西橋:  先ずは、「三年籠山行(ろうざんぎょう)」という行に入られるわけですね。
 
光永:  今、延暦寺の制度として、延暦寺の住職になるために三年間比叡山に籠もって、「下座行(げざぎょう)」と言いますけども、小僧生活をしながら、いろんなお堂の手伝いとか、修行の手伝い、または自分自身が修行させて頂いて、いろんなことを覚えていく。それで三年間修行を重ねて、はじめて延暦寺の住職になれる、という制度があります。延暦寺の住職をさせて頂くために三年間延暦寺のほうで小僧をして修行をさせてもらった、というわけです。
 
西橋:  その「三年籠山行」の中に「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」という行があるんだそうですね。
 
光永:  はい。天台宗に「摩訶止観(まかしかん)」というお経があるんですけど、その中に「四種三昧(ししゅざんまい)」といって、「常行三昧」「常坐三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」という四つの種類の修行を決めてあります。「常行三昧」というのは、「行道(ぎょうどう)」と言いまして、仏様の周りを廻る。阿弥陀如来の周りを念仏を唱えながら歩くんです。「歩々声々念々(ぶぶせいせいねんねん)」になりますので、回峰行とまったく同じことになります。これをお堂の中に籠もりまして九十日間行います。
 
西橋:  九十日!
 
光永:  はい。不眠で行うんです。
 
西橋:  それともう一つが、最初の回峰行の百日間も、その三年籠山行の中でなさったわけですね。
 
光永:  はい。
 
西橋:  一九八四年の三月二十八日の、その百一日目から千日回峰行というのがスタートして、で、七年かけて満行された。
 
光永:  はい。そうなりますけども、基本的に最初の百日間いろんなことがありまして、今、百日回峰をした者の中から発心を起こして、それに相応しい、できるであろうという者を千日の回峰に入らせてもらう、ということになります。それで百一日目に千日回峰行に入ったということになります。また百日その前にやっていますので、トータルで千日ということになります。
 
西橋:  その百日間というのは、今日は雨だから休んで、明日一日延ばせばいいや、というわけにいかないんだそうですね。
 
光永:  はい。「行不退(ぎょうふたい)」と言って、始めたら百日間どんなことがあってもする。もしできないんだったら死になさい、ということで、行者の格好には必ず「四手紐(しでひも)」と言って、腰に首つり用の紐ですけれども、その四手紐を腰に結んで、「手巾(しゅきん)」と言いまして、死んだ方に被せる手巾(しゅきん)を持って、それで百日行者の場合は短刀は持ちませんけども、今、ここに「檜扇(ひせん)」が置いていますけど、檜扇(ひせん)を自害用の短刀代わりに持ちます。私の前に千日回峰行をされた酒井雄哉さんは実際に短刀を腰に下げて行をされています。
 
西橋:  そうすると、体の具合の悪い、例えば風邪を引いてしまったとか、ちょっと今日は具合が悪い時でもやらなければいけない。
 
光永:  私自身がむち打ちとヘルニアの持病を持って回峰させてもらっていますので、どこも痛くない状態で歩いたことがないわけです。私の後で行をやった者にいうんですけども、「痛くても死なない。痛いのは大変だろう。ご苦労さん。話を聞いてやったから、明日も行って来い」と言って、必ずやりますけどね。痛くても死ぬことはありません。
 
西橋:  そのむち打ちとか腰痛とか、膝が痛いというのは中学時代になんか体操で怪我をされたんだそうですね。
 
光永:  今風にいうと、やんちゃで体操で宙返りして頭から二回落ちて、走り高跳びで跳びすぎて腰から落ちて、あんまり誉められたことじゃないですけどね。
 
西橋:  それだけの持病を持っていらっしゃって、それでも千日回峰行をやろう、という決断というのは、何がそこを支えたんですか。
 
光永:  よく聞かれるんですけども、登山家の方が、「何故登るんですか?」と訊かれて、「そこに山があるから登るだ」というのと同じで、私の場合は、ご縁を頂いた師匠が千日大行満で千日回峰行の行者さんでしたから、やはり師匠に近づこうと思うと、取り敢えず同じことをさせて頂かないと師匠に近づくことができません。そういう意味でも、ご縁があってさせて貰えるんだったら回峰行をさしてほしい、と。師匠も後でわかったことなんですけども、行中に靱帯を切って大変な思いをして歩いています。何もなしで行ができるということではありません。やっぱり世間でいう苦行ですから、それだけのリスクを背負っています。ですから私は、当然最初から持病を持っているだけで、それを自分の中で織り込んで行をしたらいいだけですから。
 

 
ナレーター:  千日回峰行では、比叡山に点在するお堂やお墓・石仏など、およそ二百六十箇所を礼拝しながら歩きます。行者の衣は死装束を意味する白一色です。手には数珠と提灯、草履は死者と同じように部屋の中で履きます。光永さんは、深夜二時に回峰行者の根本道場である明王堂を出発します。比叡山には東塔、西塔、横川の三塔十六谷があり、そこにある堂塔伽藍を巡り礼拝します。峰峰を巡る間、道端の石仏や植物の一木一草の生きるものすべてにお経を唱え歩きます。玉体杉(ぎょくたいすぎ)と呼ばれる大木の下では、遙かに望む京都御所に向かい、国家国民の平安と平和を祈ります。比叡山の峰峰を巡った後は、山を下り、麓の日吉大社などを礼拝します。朝の八時に元の明王堂に戻ります。一日に歩く距離は七里半、およそ三十キロになります。
 

 
西橋:  一九八○年の三月二十八日から七月五日までが最初の百日になるわけですね。
 
光永:  はい。
 
西橋:  歩き始める時はどなたかが案内してくださるわけですか。
 
光永:  回峰行の場合には、比叡山の三塔十六谷、そして坂本の中をずっと巡拝をして歩くわけです。何もなしでは歩けませんので、「先達(せんだつ)」と言いまして、「必ずどこをどういうふうに、どの場所で、このお経を唱えて、この仏さんをこういうふうな真言でお詣りしなさい。ここのこの仏さんはこの真言ですよ」ということを、すべて「伝法(でんぽう)」というんですけども、すべて先達さんが教えてくだる、ということになります。それを初百日の最初の一日目に、先達さんについて、ずっと「手文(てぶみ)」と言いまして、お詣りする場所を全部を手で書き写しておくんです。それを見ながら、ここに書いてある場所はここだ。そして、ここに書いてある仏さんはこの真言で―サンスクリット語の特別な読み方ですけども―その真言を唱えて、ということを一遍に教えて頂けるんです。
 
西橋:  覚えられないですね。二百六十箇所以上でしょう。
 
光永:  覚えられませんね。ですから手文(てふみ)を見まして、「口伝法文(くでんほうもん)」というんですけれども、口で伝えていきますので、無駄に書いてはいけない、という決まりもあります。ですからある程度山の中で住んで小僧をさせてもらって、ある程度場所がわかっていたんで、まだ良かったんですけども、初めて比叡山に来て右も左もわからなくちゃ大変だと思います。
 
西橋:  七里半だそうですね。
 
光永:  はい。「七里半」と言いまして、約三十キロ。それでいつもご縁があって話させてもらう時に必ず「七里半」と言わせてもらっています。現代風に直すと、三十キロということになるんです。実際には三十キロありません。二十五キロしかないと思います。こういう時代ですから、「三十キロ」と言っていますと、測りにくる方がいるんですよ。
 
西橋:  そうですか。
 
光永:  測りに来まして、「三十キロないじゃないか」と。私が早い時ですと四時間あったら廻れるんです。四時間あったらゆっくり廻れる距離ですから三十キロありません。ですから「三十キロと言っているのに、三十キロない。回峰行者は嘘つきや」ということになりますので、私は必ず「七里半」と言わせて頂くんです。これは何故七里半と言いますと、八に満たない数ということで七里半になります。これは仏教の教えの中で、「阿頼耶識(あらやしき)」というのがあるんです。「第八識」と言いまして、「第八識の阿頼耶識」というのは悟りきった、ということで、悟りきる、悟りを得るということが第八識になりますので、八が一つの成仏、悟りの世界になります。比叡山の行は「菩薩行」というんです。悟りに近づくための修行になりますので、悟りを得てしますと如来さんになるんです。悟りきってしまうと如来さんになって、非常に穏やかに禅定に入って、こういうふうに穏やかにしておられることになります。比叡山の場合は「菩薩行」と言って、如来さんになるための修行をしている最中の行ということで、菩薩行ということになります。菩薩さんというのは本来いつでも悟りきることができるんですけども、一人でもいろんなご縁のある方たちが一緒に悟りの世界に入っていけるように、ということで一緒に悟りの世界に近づくために修行をさせているという立場でおられる。今風にいうと、「現在進行形―ing」の形になるんです。現在進行形で修行している最中であるという形になります。八になったら悟ってしまうんで、八にならない、八の寸前の数ということで、七里半。七・五ということで七里半を歩く。悟りに近づくために修行を続ける。回峰行のことを「練行(れんぎょう)」というんです。練行という修行を続けていくということが非常に大切なことでもありますので、ですから八に限りなく近づくために毎日七・五―七里半を歩く、と。
 
西橋:  最初の百日を歩かれてお詣りなさって、「あ、これなら千日回峰行はできる」という自信のようなものがつかれたんですか。
 
光永:  自信がついたとは思いません。最初の百日をさせてもらった時に、腰痛とむち打ちを持っていましたし、はっきり言いまして三日目に根本中堂まで一時間ほどかかってお詣りするのに行っているんです。普通にお詣りして行って、十五分ほどで行けるんですけど、腰に痛みがきていまして、もう一歩歩く毎に激痛が走って、それこそ脂汗を流しながら根本中堂までやっと進めたんです。ちょうどその時私のお坊さんになるご縁をくださった山形のお坊さんが自分のところの信者さんを連れて根本中堂で待ってくださったんです。夜中に私を待っていてくださったんです。普通十五分、遅くても三十分で来れる。というのは、夜中の二時過ぎで、四月入ってすぐですから根本中堂の寒い中で待っていてくださったんです。一時間ぐらいじりじりして待っている。私は自分なりには必死になって行ったんですけど、いきなり山形のお坊さんに怒られました。その方も回峰行を百日された方です。痛いというのはあくまでも個人的な問題であって、行者の問題ではないわけです。腰が痛いとか、足が痛い、膝が痛いというのは、私の場合はもともと悪いんですから、痛くなるのが当たり前です。ですからその中で歩かせてもらって、それを理由にすることはできないわけですね。そういうこともくり返しながら一つ一つやって、百日もさせてもらいました。その中で別に健脚でもありませんし、ただそういうふうにして一つ一つ向かい合って、それを乗り越えさしてもらうことによって確実に前に毎日毎日が積み重ねることができますので、百日をやることによって、千日もやれる自信がついたということはまったくありません。
 
西橋:  一九八四年に「十二年籠山行」という、新たな行に入られるわけですね。
 
光永:  千日回峰行、要するに百日を先にやっていますので、トータルでは百一日目に入らせてもらう年に、行をする上で、伝教大師が決められた籠山行である十二年の行も一緒に合わせて「双修(そうしゅう)」というんですけれども、合わせて行をしなさい、ということになっています。それで十二年籠山行と千日回峰行に入行させて頂いた、というわけです。
 
西橋:  百一日目から始まるわけですけども、そこから七年かけて、それから毎年百日とか、二百日という単位でやられるわけですね。
 
光永:  いろんな決まりがありまして、百日できる年と二百日できる年がありまして、そういうのをいろいろ合わせて最長で十年ですね。百日やっていますから九年になりますけれども、最短で六年でできることになりますけども、私の場合は七年をかけて千日をさせて頂いた。
 
西橋:  非常にシステマテックになっているんだそうですね。
 
光永:  私にいわせると、非常に昔からの経験を踏まえてたくさんの方々が修行されてきて、そういうことを積み重ねたうえで作り上げられた行ですので、その行の趣旨をしっかりと理解して、それに則ってきちっと修行をさせて頂きましたら、必ずそういうふうになって進んでいける。ですから私でもむち打ちとヘルニアを持っていますけども、行を重ねることによって、それに合わせて心身ともに強くなってきます。仏さんの護りも得られますし、そういうものを信じて進んでいくことによって必ずさせて頂ける行だと思っています。ですから、後は仏さんの加護と自分の行ってきたことが間違いのなかったことの積み重ねによって必ずできる行である、と思っています。
 
西橋:  第五百日目に白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)になる、と。
 
光永:  これは行者に三クラスありまして、「上・中・下」があるんですよ。世間でいう、「上・中・下」がありまして、白帯行者(びゃくたいぎょうじゃ)を「下根満(げこんまん)」と言いまして、そこの行が満じられた者として下根満(げこんまん)の行者として白帯行者になります。五百日経ったところで白帯行者になることができまして、「加持(かじ)」と言いまして、人のためにお経を唱えることを許して頂ける。回峰行というのは基本的に「自利行(じりぎょう)」というんですけども、七里半を自分自身の修行のために歩いている。僧籍にあるお坊さんが修行すると言いますと、「衆生済度」と言いまして、みなさん方のために修行をしているということが多いんですけども、回峰行者の場合、基本的に「自利行」と言いまして、行者自身が仏さんに近づくために修行している行になります。ですから、自利行と言いまして、自分のために行をしているんですけども、僧籍にある限りは「化他行(けたぎょう)」と言いまして、人のために修行をしなければいけませんので、回峰行者の場合には、「化他行(けたぎょう)」といいまして、人のためにあげるお経を「加持(かじ)」というんですけども、加持をするために白帯行者になってお加持をさせて頂く。人のためにお経を唱える。それで下根満の行者になるわけです。
 
西橋:  その「自利行」と「化他行」のちょうど間に「堂入り」というのがあるんですね。
 
光永:  あります。
 
西橋:  これがなかなか非常に厳しい「死のリスクもある」と言われる行だそうですが、一九八八年に二百日歩かれて、そして十月十三日に第七百日目になると、そのまま、その日から明王堂の山籠入り―堂入りをされるんですね。、
 
光永:  堂入りをさせて頂きます。
 
ナレーター:  堂入り前に、行者は縁(ゆかり)のある僧侶たちと最後の食事をとり、今生(こんじょう)の別れをします。僧侶や信者に見送られ、明王堂に向かいます。お経を唱えている間に、他の僧侶たちは次々と出て行きます。
 

西橋:  堂入りという修行を七百日が終わったその日から続きで行をするんですけども、これは「断食・断水・不眠・不臥」という条件が付けられまして、お堂に籠もりまして、お不動さんの前で「お給仕」と言いますけども、お不動さんに水を供えて、そしてまたお経を唱えるんです。何故こういうことをするか、と言いますと、修行していると言っても、人間である限り欲から離れることができないわけです。普通の人間というのは、「三欲」と言いまして、「食欲・睡眠欲・色欲」がある。「色欲」というのは、「色の欲」と書きますけども、「出世欲」とか「金銭欲」とか、「セックス」とか、いろんなものを全部合わせて「色欲」と言っています。そしてその前に「食欲」と「睡眠欲」があります。それで行者として修行をしていっても、人間として存在している欲から離れていないわけです。ですから食事もします。まったく肉も魚も食べませんけれども、食事は体を養うために精進食事を頂きます。短いと言っても睡眠もとります。そして「色欲」と言っても、「我欲」というと悪い欲になりますけど、「大欲」と言いまして、大きい欲で、向上欲があるからこそ、人として向上して仏様に近づこうという向上欲があるから修行ができるわけです。ですから欲というものは否定するものではなくて、コントロールするものですから、あくまでも行者として修行していると言っても、欲をコントロールしながら、欲を上手にしながら、行者として少しでも仏様に近づこうと思って修行しているわけです。ところが「欲」というのは、基本的に人としての存在の基盤になりますから、その欲がある限り仏様にはなりきれないわけですね。先ほど話したように七里半で、あくまでも八に近づくために修行する。八に近づくために修行していますけども、「堂入り」という修行は、断食・断水によって食欲を否定するんです。そして不眠・不臥によって睡眠欲を否定する。ですから欲から完全に離れるというのが堂入りという修行になります。
 
西橋:  九日間でしょう。
 
光永:  九日間です。九日間欲に完全に離れることによって、人であることを否定できるわけです。人であることを否定することによって仏様になれるという考え方です。
 
西橋:  不動明王に近づく。
 
光永:  そうです。お不動様自身になれる。一体化する、ということを願って、完全に欲から離れた状態。食欲も睡眠欲も完全に断食・断水・不眠・不臥によって否定しますので欲から離れます。ですからその後お不動さんにお給仕をして一心にお経をあげさせてもらうことだけになりますので、完全に人でなくなりますので仏さんになれる、と。ですから堂入りが終わると、お詣りの信者さんたちが「生き仏さん」とか「生き不動さん」と言ってくださいます。九日間だけですけど、人間としての存在の理由をまったく否定して、欲を離れて生活をさせてもらうからお不動さんになれる、と。九日間だけですけれども、お不動さんになって還ってくるんです。そのまま行きっぱなしだったら死んでしまいます。よく「大行満」とかいうと、みなさん勝手に想像して、お年寄りで白髪の老人で仙人みたいだと思っているんですね。私のところに来て、「あ、若い!」という人がいるんですけども、勝手にみさなん決めていますね。堂入りということで、欲から離れることによってお不動さんになりますけども、そういう疑似体験をして、またこの世に還ってくるわけです。そしてまたそのうちで、「当行満(とうぎょうまん)」と言って、一応行を満じた者として「中根満」の行者として、次の行を続けるということになります。
 
西橋:  九日間食べない。水も飲まない。眠れないんでしょう。横にならない。それは限界になりますね。
 
光永:  突然「やりなさい」ということだったら大変だと思いますけども、それまでの七百日間の修行を重ねているわけですし、仏様の加護もありますし、突然やるわけじゃないです。今の医学的に何故無理かと言いますと、三日目乃至四日目に個人的には脱水症状に入るんですね。はっきり言いまして、厳しいのは断水だけで、それ以外は全部付随してくっついてきます。みなさん経験あると思いますけども、ものを食べなかったら夜中に目が覚めてなかなか寝付けないんです。ですからその延長線上で、ものを食べていませんから眠くないんです。眠くないですし、横にならなくてもいいんです。断食だけでしたら誰でも一ヶ月はできます。食べなかったらいいんですから。ただ水を飲む量をちゃんと決めないと修行にはならないんです。ただこの堂入りだけは水を飲まないということで、経験的には九日間が限界である。そして堂入りという行はお釈迦さんの追体験で、お釈迦様がずっと苦行されて、これでは悟りきれないということで、苦行林(くぎょうりん)から出て来られて、スジャーターから醍醐味を頂いて、それで体を養って禅定に入って悟りを得た、という。ある意味では追体験になりますので、それと同じように、ずっと七百日間自利行―自分自身のための行というのは、ある意味では苦行ですから、苦行を積み重ねてきて、それでは悟りきれない。お釈迦さんと同じように、ということで堂入りに入らせて頂いて、それでそれこそ心穏やかに仏様と向かい合うことによって悟りの世界に入る、というのが堂入りになるわけです。
 
西橋:  その間はお経を読んでいるんですか。
 
光永:  お経を読んでいます。ですから一日三回のお勤めと、あと自分は水を飲みませんが、仏様にお供えする水を汲みに行くのと、あと空いている時間には「一洛叉(いちらくしゃ)」というんですけど、十万回お不動さんの真言を唱える。
 
西橋:  十万回ですか! お不動さんの真言を。一回は短いものなんですか。
 
光永:  一回は非常に長いです。「ナーマク・サマンダ・バザラナセンダ・マカロシャナ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」これで一回になりますので。
 
西橋:  それを十万回!
 
光永:  はい。ですから壇に坐ってお勤めしている以外の時間は、「脇座(わきざ)」と言って、脇のほうに席を作って、そこで持仏であるお不動さんの前で、それをずっと唱えさせて頂くんです。
 
ナレーター:  堂入りの間、深夜二時に一度だけ外に出ます。仏に供える水(閼伽水(あかすい))を汲みに行く取水(しゅすい)です。お堂と井戸の間は二百メートルですが、一日毎に足取りは重くなっていきます。
 

 
光永:  実際には最初の日は、また行をして歩いていますからサッサと歩けます。それこそ往復三十分もあったらできますけども、それが断食・断水をして非常にもう衰えていきますので、それが一時間ぐらいかかるようになってきますね。
 
西橋:  どなたかが介添えされるんですか。
 
光永:  自利行ですので、介添えがつくことができない。触ってはいけないということになります。ですから代わりに天秤棒を一緒に支えて、間接的に支えてくれます。閼伽水(あかすい)に近づくとだんだん閼伽水(あかすい)の湿気を頂いて元気にならして頂いて、そこで取水をして、またお堂のほうへ向かって帰ってお勤めをさして頂く。ですから「断水」と言って、口からは飲めないんですけども、ある意味では体全身から冷気を吸って生き返らせて貰いながら、お堂の中に戻って行くということになるんです。
 
ナレーター:  九日間の断食・断水・不眠・不臥の行を終えた光永さんは、一口の薬湯を飲みます。堂の外では三百人ほどの信者が光永さんを迎えます。
 

 
光永:  満行の日に、たくさんの方が夜中のことですけども随喜して下さいまして、みなさん方がお不動さんの真言を唱えてくださっている中から自分の母親の声が聞こえましたね。やっぱり聞き慣れた声ですから。
 
西橋:  何とおっしゃったんですか。
 
光永:  「ご苦労さん」と言っていました。
 
西橋:  そうですか。そして九日間の堂入りを終わって、終わった時の状態というのはどうだったんですか。
 
光永:  インドに行くと釈迦苦行像という上半身がガリガリでグッと細くて、肋骨が浮いているのがありますね。あれと全く同じ状態になっています。写真は人には見せられませんので、自分の記念だけで持っています。
 
西橋:  そうですか。意識としては?
 
光永:  意識としてはしっかりしています。私の師匠が、「ご苦労さんやった」ということで、朝の五時前に、自分の宿坊にしている所で布団を敷いて待っていてくださって、「休んだらいいぞ」と言って、朝の七時過ぎに帰って行かれました。結局夜中の一時まで全然私は一睡せずにごそごそやっていましたので、食べていないので眠くないんですよ。一時過ぎに一応寝たんですけども、三時には目を覚ました。ただお世話してくれる者がみんな寝ていますので、することがなくて困っていたんです。まる九日間飲まず食わずでいますので、一遍に食べると体を壊しますので、一分粥からじわじわ馴らすんですけども、食べる量が増えるに従って睡眠時間が増えていく。
 
西橋:  ご本の中にこの堂入りについて、「私一人の胸のうちに大切にしまっておきたい」というふうにお話になっていましたね。苦行の中でも特別な行であるわけですね。
 
光永:  そうですね。私の先満さんに堂に入る時に、「何でそんなに嬉しそうな顔をしているんだ」ということを言われました。千日回峰行に入らせてもらって、前半の七百日というのは、堂入りに入らせてもらって、無事に人のために修行する資格があるか、審査を受けるために七百日間修行を重ねていきますので、ある意味では堂入りに入らせてもらうことが非常に嬉しかったんです。それでお不動さんが、「してもいいんだよ」ということだったら、無事に出てこれるだろうし、お不動さんが、「おまえはあかん」と言ったら、どっかでぽくっと死ぬかも知りません。ただ私自身は、これでもし認めて貰えなくて仏様に許しがなくて死んでも、することはしたし、という気持で堂入りに入らせて頂きましたので幸せでした。
 
西橋:  堂入りが終わりますと、七百一日目からが「化他行(けたぎょう)」という行だそうで、この化他行は人の手を借りたりするんですか。
 
光永:  化他行というわけでなくて、化他行を加える、ということになります。ですから「赤山苦行(せきざんくぎょう)」の場合は、昔から「十五里」と言うんですけども、自利行としてこの比叡山の山上山下七里半を歩きます。それに対して化他行として、人のためにお経を唱えるために比叡山の京都側に赤山禅院というお寺がありまして、その赤山禅院まで人のためにお経を唱える。お加持をするために下りていく。で、赤山まで行ってお経を唱えて、そして帰ってくるのに化他行のために七里半を歩くという考え方で十五里になります。要するに自分の自利行として七里半。人のために七里半を歩く。人のためにも七里半を歩いて、お堂塔と同じ重みで初めて行ができるということで、七里半足す七里半で十五里を歩く、と。
 
西橋:  それが七百一日目から八百日まで赤山苦行(せきざんくぎょう)(十五里)ですね。
 
光永:  ということになります。回峰行は「苦行、苦行」と言われますけども、わざわざ「赤山苦行」と「苦行」をつけてあります。これは人のために行をさしてもらうことが如何に大変なことかという現れでもあって、行程の大変さ、行としての重さとしての大変さのためにわざわざ「苦行」を付けてあります。
 
西橋:  そして翌年一九九○年、いよいよ最後の年ですけども、京都大廻り(三十一里)というのがありますね。
 
光永:  これは比叡山の山上山下の自利行に、今度京都の絡中絡外を化他行として歩く、ということを百日間行わさせて頂く。ですから比叡山の中の自利行として一周させて頂く。それから京都に下りて絡中絡外を二十一里歩く。僧侶がお宮さんでお詣りするのはおかしいと思われるかも知れませんけども、京都の中のお寺とお宮さんをずーっとお詣りをさせてもらって歩いて行きます。それが京都の大廻り中は往復になりまして、往く日と還ってくる日がありまして、前の日に京都をずーっとお詣りして、京都のご縁のあるお寺で宿舎にさせて頂いて、そこでお勤めをして、また朝お勤めをして、仮眠をとって、また今度は逆に京都の中を廻らせて頂いて還って来て、また山の山上に戻って、山の山上の中のお詣りをする。ですから往復の生活を百日間、そして九百一日目からは化他行をさせて頂く。最後は自分の行として、自利行としての山の山上の修行をさして頂く。それの積み重ねで千日になるわけです。
 
西橋:  光永さんは千日回峰行というのは、「一日一日の積み重ねだ」というふうにおっしゃいますね。
 
光永:  はい。千日回峰行が終わった時にインタビューで、「終わってどう思われますか?」と尋ねられて、「どうと言っても、昨日一昨日も毎日毎日歩いていたら、足し算したら千日になっただけで、今日するべきことをしただけであって、来年の回峰行の季節になって、自分が歩かずに他の者が行を歩く時に先達として歩きますので、その時になって、〈あ、自分の行としては終わったな〉ということをはじめて思うでしょうね」ということで非常に面白くない答えをしたんです。毎日のことですから、今日も無事に歩かせてもらった。今日も無事に七里半を歩かせてもらってお詣りをさせてもらったことが千日目であっただけであった、という。それで先ほど「七里半」といいましたけども、回峰行も非常に変わっていまして、私は「千日大行満」と言って頂くんですけども、いろんな慣わしがりまして、「九百、千と続けて歩く場合に、九百七十五日をもって千日に代える」という決まりがありまして、大回りで八百一日目から九百日目まで歩いて、そして千日というのは九百一日目から千日まで本来は言うんですけども、九百、千と続けて歩く場合は―別々に歩く場合には千日まるまる歩きます―九百七十五日をもって千日に代えるという決まりがありまして、千日全部歩いていないんです。二十五日残しております。ですから「千日大行満」と紹介して頂く度に、〈ああ、二十五日さばをよんでいるな〉と、こういうことをいうと怒られるなと思いながら、いつもいうんですけどね。一つ区切ってしまうとそこで終わってしまう。行として続けられないんで、九百七十五日をもって千日に代えて、残りの二十五日残っているのを一生かけて修行しなさい、と。ですから回峰行として、その後に先達として新行の指導なんかで何度も歩いていますし、信者さんとも歩いていますし、足し算をしましたら、千日は軽く越えていますけども、自分の行として歩いたのは九百七十五日です。九百七十五日を歩かせて頂いて、千日に代えて、その足りない二十五日を一生かけて自分の行として重ねていくということになります。
 
西橋:  千日回峰行を終えて、なんかご自分の中で変わったな、と思われるようなところがありますか。
 
光永:  みなさんそれを聞かれるんですけども、全然何も変わったような気はないんですね。ただそれは自分自身で決めることではなくて、周りで見てくださる方がやはり決められることであり、おかしな喩えなんですけども、「医者・坊さん・カボチャ」というんですけど、「医者と坊さんとカボチャは陳(ひ)ねているほど味があって美味しい」というんです。まだ現在でもまだ五十代になったところですし、お坊さんで五十で一人前、六十で働き盛り、というのがお坊さんの世界ですので、まだまだこれからいろんなことを勉強さしてもらって、こうしてお話を聞いて頂いていますけども、同じことを言うんでも、やはり齢を重ねてというのがお坊さんの世界ですし、それに見合ったようになれるように毎日のことの積み重ねとして、年を重ねると同じように、言葉に重さが増すように心掛けて生活をしていきたいと思いますね。
 

 
ナレーター:  平成十二年、光永さんは二十歳で出家して以来、二十六年間続いた山内での生活に別れを告げました。今は住職として人々のために加持祈祷をする傍ら講演活動も行っています。さらに千日回峰行者として毎年沖縄戦争犠牲者慰霊行脚に参加してきました。
 

 
西橋:  沖縄から帰って来られたんですか。
光永:  はい。沖縄で慰霊行脚と言いまして、ご縁がありまして今年で七年目になるんですけども、沖縄戦跡を慰霊のために行脚をさせて頂く、と。何故行脚かと言いますと、そういうことを発願(ほつがん)されてご縁があって、私もそういうことでは一緒にさせてもらいます、ということで行かせて頂いております。沖縄の各地でそれこそいろんなところでいろんな方が亡くなっている。
 
西橋:  沖縄戦ですね。
光永:  沖縄戦ですね。ですから慰霊地があるところだけ亡くなっているわけではなくて、それこそ道の辻や辻や、あそこのところでも、田圃とかね、いろんな所で人が亡くなっていて、そういう所を一つ一つ縁がある限り歩かせて頂いて、そういうものを一つ一つ慰霊をさせて頂こう、と。その中でまた一つ点として慰霊碑をお詣りさせてもらった。それまでの慰霊碑の間を歩いて行って、その慰霊の気持を持って行脚をさせてもらうという趣旨で始めさせて頂いて、今年で七年目になるんです。
西橋:  こちらから何人かで、
 
光永:  はい。比叡山からは有志ですけど四人ほどで寄せてもらっているんです。
 
西橋:  他のところからも来られているんですか。
 
光永:  はい。
 
西橋:  じゃ、相当の数になって歩かれるんですか。
 
光永:  今年は四十人ほどにだんだん増えてきましてですね。始めた頃は二十人ぐらいでやっていたんですけども、だんだん賛同される方が増えてこられて、今年は四十人越しまして、なかなか大変でしたけども。
 
西橋:  未知数の人生を選ばれて、このお坊さんの道に入られたわけですけども、今まだ五十三歳でいらっしゃいましたよね、これから僧侶としてなさりたいことというか、どんなことをお考えですか。
 
光永:  言ったらおかしいんですけども、たくさんの木を植えましたんで、ここに下りて八年でちょっと植えた木が慣れてきた、と。あと十五年辛抱すると大体姿ができますんで、二十年後の姿を見守りたい。こういうふうになるであろうと思って植えているんですけども。やはりその中で勝ち負けがあったり、合わないものは消えてしまったり、いろんなことがありますんで、みんな思ったような姿に育ってくれるわけじゃないです。その中に人と同じであったり、ご縁のある方が同じで、「こちらが相談にのらせてもらいますけど、心配はしてあげますけども、代わってあげられません」といつもいうんです。手を貸すことはできても、代わってあげることはできません。この植えさせてもらった花でもそうですし、やはり植えさせてもらって、それぞれが成長していく。それを見守る。そして出来ることは応援させてもらうという気持で、これからそれこそ植えたものを、それこそご縁のある方々の少しでも手伝いが出来れば、と思っています。
 
西橋:  ほんとにお花とか木がお好きなんですね。
 
光永:  嫌いじゃないですね。
 
西橋:  二十歳でお坊さんになられて、今五十三歳。これまでの僧侶として人生を振り返ってご覧になって如何ですか。
 
光永:  まあその時々できることは精一杯それなりにやってきたのかな、と思いますけどね。ただほんとにこれでもう十年二十年経って振り返ってみないとわからないことがたくさんあるんですけども、今できるであろうことは取り敢えずさせてもらう、と。ですからお経でもまだまだいろんなお経がありますので、この前も初めてのお経本を引っ張り出して、小一時間ほどかかってもたもた読んでいたんですけども、まだまだ唱えられないお経もたくさんあります。まだまだするべきこともたくさんありますので、ほんとに取り敢えず一人前にはなれましたけども、これからやっぱりお坊さんとして恥ずかしくないようになれるように、努力は重ねていきたいと思います。
 
     これは、平成二十年六月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである