宝なるいのちを
 
                   沖縄県看護協会会員  與 儀(よぎ)  千代子(ちよこ)
                   元沖縄公衆衛生看護婦 新里厚子(しんざとあつこ)・仲本初子(なかもとはつこ)
                   ききて        山 田  誠 浩
 
 
ナレーター:  沖縄の看護教育の中心、沖縄県立看護大学。保険医療の分野で県民の期待に応える人材を育てようと一九九九年に開学しました。およそ三百六十人の学生が学ぶこの看護大学は、戦後沖縄に作られた独自の看護学校の流れを汲んでいるものです。最新の医療技術を教えるだけではなく、いのちを大切にする心をもっとも重視しています。この大学の一角に、かつてこの地にあった看護学校の記念碑が残っています。沖縄では戦後独特の看護教育と制度が育まれてきました。荒廃の中で沖縄の医療を支えた女性たち。彼女たちは新しい看護教育を受け、患者中心のきめ細かな看護活動を行いました。医者のいない離島を含め、すべての市町村に駐在して人々の健康を守る公衆衛生看護婦という制度も沖縄の独特のものでした。この画期的な看護活動を支えたものは一体何であったのでしょうか。與儀千代子さんは、看護行政の責任者の一人として、沖縄の看護の充実に力を尽くしてきました。看護婦になったのは戦後間もなくのこと、若い頃から後輩たちの指導にもあたっていました。
 

 
山田:  まだご自身も若い頃でしょう。
 
與儀:  二十七歳、
 
山田:  この頃にもう看護の先生だったわけですね。
 
與儀:  そうですね。まだ未熟な者が教えたので、学生には申し訳なかったなあと思いましたけどね。
 
山田:  いいえ、そんなことありませんけど。この頃は建物は新しくなっていましたでしょうけど、まだ初めの頃ですからいろいろ大変なことがありましたでしょう。
 
與儀:  水道もちゃんと水が出ないし、それから電気もつかないところがありますね。それで備品類が入っていませんしね。備品とか消耗品とか机とか椅子とか、肝心なものも入っていないんですよ。看護学生さんたちに食事をしないといけない。
 
山田:  食事も作るんですか?
 
與儀:  そうです。石を三つ並べてかまどを作り、お鍋とかバケツとか、でお湯を沸かして、ミルクを作ったり、それからスープを作ったりして、パンとミルクをあげたり、お蕎麦をあげたりね、そんなことから始めたんですよ。
 
山田:  なるほど。そんなことに忙殺されながらも若い看護婦を目指す人たちに、どういう思いで教育に当たられましたですか。
 
與儀:  そうですね。いい看護婦さんになってほしいと思うので、私は若いけど、大事に育てたいな、って思っていましたね。
 

 
ナレーター:  戦後間もない沖縄の医療事情は劣悪な環境のもとにありました。アメリカ軍が民間人収容所の中に作った診療所。戦禍で傷ついた人、マラリア、フィラリアなどの感染症に罹った人、大勢の人々が詰めかけました。各地にはアメリカ軍払い下げのカマボコ型兵舎を利用して俄作りの医療施設が作られました。沖縄戦で医者の三分の二が死亡し、極度の医者不足にも陥っていました。辛うじて戦禍を生き延びた医者と看護婦たちが、増え続ける患者の対応に追われていました。医療環境を整えることが急務とされ、各地に病院と付属の看護学校が作られ、慌(あわ)ただしく看護婦たちの養成が始まりました。コザにできた看護学校は、のちに沖縄の看護教育の中心となっていきました。與儀千代子さんが通称コザの看護学校と言われた沖縄中央病院付属看護学校に入ったのは、戦後五年経った一九五十年、十八歳の時でした。アメリカ軍のカマボコ型兵舎を利用した校舎は、入学して間もなく建て替えられ、本格的な看護教育が始まっていました。
 

 
山田:  コザの看護学校に入学されて看護婦としての勉強を始められたわけですね。
 
與儀:  解剖生理から各臨床別に、内科、外科、産婦人科とか、いろいろ基礎的なものもあるわけです。そして個人衛生、公衆衛生。看護については基礎看護、それから看護倫理、そして内科看護、小児科看護たくさんあるわけですよ。私たちが学生の頃はテキストがないですよ。それで先生のテキストを写本していたんです。休憩時間というと、「わぁ、嬉しい」と言いますでしょう。休憩時間というと、「はい。今日は何ページからですよね」って、黒板に当番が書くんですよ。そしていっせいに書き写すんです。そういうような感じですけど、今の学生はもう豊富に選べるぐらいテキストや参考資料もありますでしょう。だから時代の違いで、あの時は何にもなかったですから、一冊の本が大事でしたね。
 
山田:  いろんなものを学んだ中で、なかなか説明しにくいことかも知れませんが、何が一番大事なこととして、與儀さんの心の中に残りましたでしょうか。
 
與儀:  「患者中心の看護」と言って、患者さんのことを考えて、ほんとに思いやりを持って親切に誠実に、そしてどちらかというと、肉親に対する愛情を持って、余所の人じゃない、もうほんとに肉親同様にケアをしてあげる。口では簡単に言いますけど、実践する時にはいろいろの思いがあったり、トラブルがあったりしますね。でもそれを自己コントロールする。思いをすぐぶっつけるんじゃなくて、看護婦になるために相手の迷惑をかけないようにしなければいけない。そういうことを訓練していくんです。それを「職業調整」というんですよ。昔は「看護倫理」並びに「職業調整」という科目があったんですよ。今はないですけどね。そうしますと、素晴らしい看護婦になれる、と。
 

 
ナレーター:  看護学校で学んだ與儀さんたちには、ある共通の体験がありました。それはいのちの瀬戸際を生きたという戦争の体験でした。一九四五年四月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸、三ヶ月にわたって激しい地上戦が展開され、住民の四人に一人が命を落としました。彼女たちは十代の多感な時期に戦場を彷徨い、かけがえのない命が無惨にも消えていく光景を目の当たりにしていたのです。戦禍にみまわれたのは、沖縄だけではありませんでした。南洋群島テニアンは沖縄からの移住者が多く、鰹漁やサトウキビ栽培に従事していました。與儀さん一家もテニアンに移住していました。戦争が始まり、母と幼い兄弟たちは沖縄に引き上げましたが、防衛隊員だった父親と與儀さんは島に残っていました。島への攻撃が始まった時、與儀さんは十三歳、テニアン尋常高等小学校六年生でした。アメリカ軍の攻撃に追われ、父親と二人、山中を転々と逃げ惑いました。
 

 
與儀:  戦争が始まって、あちこち燃えたりしますでしょう。そうしたら酷くなると玉砕命令が加わるわけですよ。山のほうにみんな移動していくわけです。どんどんどんどん奥へ奥へと進むんですよ。逃げて行くんですね。そうしたら艦砲射撃や照明弾が打ち上げられて、見れば前の人も倒れて、後ろの人も倒れて、横の人も即死して、という状況下で、たくさんの戦死者がある。
 
山田:  逃げて行く人が艦砲射撃でやられて倒れていくわけですか。
 
與儀:  ええ。空から上から機銃機でね。それで私はいつも逃げたんですけど、やっぱりもとに戻ったほうがいいなということで、また元ある壕に辿り着くわけですね。そうしたらもうそこは前の人たちが誰も見えないんですよ。見えないどころか、肉屋さんかな、と思うぐらい骨やら肉が飛び散っているんですよ、その壕の中で。自決ですよ。
 
山田:  自決!
 
與儀:  ええ。一緒にいた人たちがみんなすぐ手榴弾を使って自決して亡くなったわけですよ。で、うちの父は自分もそこに入るつもりで戻ったんだけど、私の体を粉々(こなごな)にしたり飛び散らかしたりしたくないという思いで見せないようにしていたんですね。それで「行こう! 行こう!」と言って、どんどん別のところへ行くんですよ。そうしたらちょうど辿り着いたところが絶壁で、それからもう行き着くところがないというような風景で、中に入って行ったらもう絶壁ですからね、出られないんですよ。そこに私の小学校の同期生なども避難しているわけです。兵隊もいるし、民間の人もいるし、だいぶ入っているんですね。もう戦争が始まったんですよ。そうしたらどんどんどんどん中の人も死んじゃうわけですよ。ズーと奥の方に逃げるんですけど、絶壁でしょう。逃げ場がないので、みんな落ちたんですよ。落ちる場面を私は見ているわけですよ。すぐは落ちないですよ。ころころとくねって捻って途中で骨折するじゃないかなと思うほど、捻って落ちるんですね。そういう場面を見ていて、もう二人しか残っていないんですよ。みんな落ちちゃって、
 
山田:  二人というと誰と誰?
 
與儀:  父と私と、
 
山田:  二人だけ残ったんですか?
 
與儀:  残ったのはね。そうしたら父も飛び込もうとするわけですよ。私は、父のズボンを掴まえて、「跳びたくない!」って言ったんですよ。そうしたら父は、「この子は、こんな時に!」と言って、私の手を払うんですけどね。私は、「生きられるだけは生きて、自分から進んで飛び込むようなことはしたくない」って言ったんですよ。「バカだな!」と言われて。でも父親だなと思いますね。娘がそう言うから、「じゃ、お父さんが下りていくのをよく見て、で、ちゃんと掴まえて下りられたら下りよう」と。私も下りられるだけ下りて、努力して落ちるんだったらいい、と思っているわけですね。だから何もしないですぐ飛び降りるというのは、死しか繋がりませんから。そうしたら結局は父は偉かったですよ。もう一生懸命下りて、ちゃんと下りれたんですよ。それで私は、「足かけて、草に手を掛けて」と教えられてやるわけですよ。ほんとに即死をしている人も多いし、それから「助けて!」と叫ぶ人もいます。だけど、私は何もお手伝いできないわけですよ。もうほんとに無惨だけど、この後はまたウジが湧いて、この人はどんなになるのかなって。ウジがわいていたり、亡くなっているから気持悪いとか、痛いとかかゆいとかないでしょうけど、もっと死ぬんだったら清潔な感じのところで死にたいな、という思いがあるわけです。父と海の方を目指すわけですよ。そうしたら海の絶壁のところで立っていましたら、下に兵隊や民間の人がいっぱい隠れているんですよ。そして向こうの方にはアメリカの船が見えるわけですよ。それで下の兵隊さんが「そこに立っているのは誰か! 下に下りて来なさい! あなた方のお陰でここ全部全滅になるよ! 下りて来なさい!」って。見たら私の同期生もいるわけですよ。その同期生には九人の女の子どもと初めて男の赤ちゃんができた。その男の赤ちゃんが泣いているわけですよ。そうしたら、兵隊が、「泣かせないで何とかしなさい」って言っている。翌日その子は居ないんですよ。十番目に生まれた男の子で、とても可愛いがられて喜ばれて生まれたのに。結局、「泣いてばかりいると、みんなに影響がある。全員殺されるかも知れないから、なんとかしなさい」と、お母さんは言われているわけですよ。
 
山田:  その赤ちゃんはどうしたんですか?
 
與儀:  赤ちゃんは、だから私は見ていないからわかりませんけど、殺しているわけですよ。だから戦争って嫌だ。とっても望まれて生まれてきた子どもがこういう巻き添えになるなんてほんとに嫌だなあと思いましたね。
 
山田:  小さい頃にそういう悲惨な人たちが死んでいく光景に遭い、そういう体験をしたということは、與儀さんの心の中にどういうものを残した、というふうに思いますか。
 
與儀:  沖縄で「命(ぬち)どぅ宝」という言葉があります。「命(ぬち)」というと「いのち」なんですよ。「いのちは宝」ということです。ほんとに命がなくなってしまったら何にもなりませんよ。これは貴重な宝ですよ。だから私は、看護の専門の学校があるんだからそこへ行きたい、と。それで、志願者は書類を出さないといけないんです。何故志願するか、その目的を書かなければならない。私は、「人命救助」と書いたんです。人の命を助けることのできる職業を選びたい、と思っていたから。あの時の亡くなった人たちに何もしてあげられませんでしょう、小学生で。何かしたいわけですよ。何かしたくても逃げるしかないわけですよ。自分も死ぬかも知れませんから。だからやっぱり可哀想だなあと思いますでしょう。だからそういうふうに思い込んじゃったんですね。
 

 
ナレーター:  與儀さんが学んだのは、当時のアメリカの進んだ看護教育でした。沖縄にあったアメリカの陸軍病院での研修や実習も頻繁に行われ、近代的な看護技術と理論を吸収していきました。当時看護学生たちが忘れることのできない二人の恩師がいます。ワニタ・ワーターワースと真玉橋(まだんばし)ノブです。ワニタはアメリカ軍の看護顧問として十年間沖縄に滞在、沖縄の看護制度の基盤を作った人です。真玉橋ノブは沖縄戦の時は陸軍の看護婦長として従軍。戦後は沖縄中央病院総婦長、付属看護学校の主事を務めていました。かつてはいわば敵同士であった二人が協力し、沖縄の看護制度や教育の改革に取り組んだのです。
 

 
與儀:  ワニタさんは国際看護の最高のレベルに沖縄を持っていきたい、と。それで自分は沖縄で骨を埋めるつもりで、それで看護に国境はない、ということで、ほんとに一生懸命沖縄で看護のレベルアップを目指しているわけですよ。真玉橋先生も凄く厳しかったですよ。「それじゃいけないじゃないの」とか、言葉づかいであるとか、やっていることに対して少しでもおかしいなと思ったらすぐ直すわけです。いい看護婦を作りたいという思いが強いから、いろんな面で厳しさと優しさとを兼ね備えておられたんですけど、特に私が思うに、米国民政府のワニタさんと、それから琉球政府の真玉橋ノブさんがほんとに思いを一つにして、そして協力しあって名コンビで推進をした。向こうは米国民政府、こちらは琉球政府、ほんとによくチームワークがとれていたと思います。
 
山田:  そのワニタさんがみなさんに一番教えようとされたことというのはどういうことだったんでしょうか。
 
與儀:  ワニタさんはナイチンゲールのような存在に思いましたね。ナイチンゲールの『誓詞朗唱』とか、それから『ナイチンゲール書簡集』というのがあるんですよ。その書簡は看護の人たちに向けてたくさん書いてあるんですよ。その書簡集をきちんとアメリカでは教育していると思うんですよ。だからそれが徹底して彼女の中に植え付けられているんですね。勿論テキストで書簡集も教えますけど、もう身に沁みて彼女の中にはあるわけですよ。ナイチンゲールはクリミヤ戦争でほんとに病人に灯火(ともしび)を点して勇気づけたり、励ましたり、いろんなことをやっていますでしょう。そういうような実践のできる人作りを彼女は非常に思っているわけですね。
 

 
ナレーター:  ワニタの教えたナイチンゲールの看護の精神。ナイチンゲールはイギリスの敬虔なキリスト教の家庭に育ち、一八五三年のクリミヤ戦争では、敵味方の隔てなく、前戦の傷病者を献身的に看護したことで知られています。ナイチンゲールにとって看護の仕事は天から与えられたかけがえのない使命であり、信仰の実践でもありました。生涯に書き残した百数十冊の膨大な著書と二万通を越える手紙。特に自ら設立したロンドンの看護学校の生徒と若い卒業生たちへ宛てた書簡は、今も読み継がれています。そこにはキリスト教にもとづく看護の基本「奉仕と博愛の精神」。一人の人間として自らを律し、絶え間なく進歩することの大切さが書き綴られています。
 
私たちが神の備(そな)えられた道に従っているかぎり、
私たちに与えられた看護という仕事は、
大きな恵みとなるでしょう。
なぜなら、それによって(私たちは)、
常に人の役に立ち、
人に「仕える」ことができるからです。
そして「仕えられるためにではなく」
仕えるために来たと言われた神の教えに、
文字どおり従う人間になれるからです。
病んでいる肉体を適切に看護すること、
それもたしかに愛です。
病める心や悩み疲れた人々に
忍耐強く適切な看護すること、
それはさらに大きな愛です。
しかしそれより以上にもっと大きな愛があります。
それはたとえば、
私たちに対して不善なる人にも善を行ない、
私たちに対してつらく当たる人にも好意をもって接し、
私たちの好意を素直に受け入れてくれない人に対しても
愛をもって仕え、
私たちが侮辱を受けたときにも、
また受けたと思われたときにも、
またもっとひどく傷つけられたときでも、
相手をその場で許すということなのです。
世の中で看護ほどに、
その仕事において
(自分が何を為しうるか)が、
(自分がどのような人間であるか)に
かかっている職は、
ほかにはないのです。
 
ワニタ・ワーターワースから学んだナイチンゲール精神。その根底にあったキリスト教に感銘を受けた與儀さんたち、当時の学生の多くが教会に通い、またキリスト教の洗礼を受けました。ナイチンゲール精神は彼女たちの中にあった「命(ぬち)どぅ宝」かけがえのない命の大切さを思う沖縄の心とも響き合い、看護の魂を育んでいったのです。
 

 
與儀:  「愛は寛容にして慈悲あり」という聖書の愛の定義があるんですよ。それを私は大好きです。だから時々聖書を開くんです。文語体では、「愛は寛容にして慈悲あり」という。今は新仮名では、
 
愛は寛容で情け深い
愛は妬まず、自慢せず、
高慢にならず、礼儀に背かない。
自分の利益を求めず、受けた悪を気にしない。
不正を喜ばず、真理を喜ぶ。
愛はすべてを包み、すべてを信じ、
すべてを希望し、すべてを堪え忍ぶ。
愛は決して滅びない。
(コリントの信徒への手紙―一の十三章)
 
という言葉が書かれています。看護する人は愛が溢れて、そして看護をすることが大事なんじゃないかなあと思うんです。沖縄の方言で、「肝心(ちむぐくる)」と言います。「肝心(ちむぐくる)」の「ちむ」というのは「肝(きも)、魂」のことです。例えば看護だったら「看護魂」と言いますでしょう。根元になっている。「肝苦(ちむぐ)りさん」という言葉もあります。これは、例えば相手の方に悲劇があったり、いろいろな不幸があったりしますでしょう。そうすると自分の心がその人の気持と共感して痛くなるんですよ。その人の悲しみは私の悲しみ、その人の苦しみは私の苦しみになっちゃうんですよ。
 
山田:  沖縄には他人の不幸が私の心を痛めるよ、という「肝心(ちむぐくる)」「肝苦(ちむぐ)りさん」という言葉があるわけですね。
 
與儀:  そうなんですよ。「いちやりばちょうでい」でみんな兄弟みたいに、親戚みたいになっちゃうんですね。だから遠い海外の人でも同じなんですよ。
 
山田:  真玉橋さんはずっと沖縄で活動しながら、従軍看護婦もしたんですね。そういう中で実際に地道に活動しながら、ワニタさんが言うナイチンゲール精神に何か共感する何かを沖縄の中でご自身掴んでいらっしゃったということでしょうか。
 
與儀:  そうだと思いますね。私は、とても珍しいと思ったのは真玉橋先生がそんなに英語がお得意ではないわけですよ。今までは日本語しか使っていませんから。ワニタさんは日本語がわかるわけじゃないですよ。だのによく通ずるなと思いましたね。それは何だろうと思っていましたね。看護精神ですよ。「肝心(ちむぐくる)」の入った、ナイチンゲールの気持ちの入った看護魂が共通しているんじゃないかと思いますよ。それが私なんか感染しているんです、伝染しているわけですよ。
 

 
ナレーター:  ワニタ・ワーターワースと真玉橋ノブらの尽力で沖縄独自の看護制度が作られていきました。公衆衛生看護婦たちの地域駐在制度です。医師のいない離島や山村僻地などを含めた全市町村に看護婦を派遣して駐在させ、地域の保健医療活動に当たらせるという画期的な制度でした。公衆衛生看護婦「公看(こうかん)さん」と呼ばれた人々は、紺の制服に身を包み、担当地域を巡回、時には医師に代わって治療を行うなど、地域の健康を守る活動を続けました。その中の一人、新里厚子(しんざとあつこ)さんは、一九六○年から二十年近く公衆衛生看護婦として働き、最初の頃結核の撲滅に奔走していたといいます。
 

 
新里:  復帰は四十七年ですが、それまでの沖縄は戦後の感染症の蔓延(まんえん)の時代ですね。
 
山田:  感染症?
 
新里:  はい。終戦直後はマラリアやいろいろ下痢、腸炎、いろいろありますけども、それに加えて結核がかなり蔓延したんですね。当時、一九五八年頃からいろんな調査団が来られて結核の調査をしたら、人口の一パーセントは結核に罹患しているんじゃないか、と言われるほどに結核が蔓延していたんですね。もう最初の頃は非常に貧しいですから、ほんとに小さな、今でいう仮小屋のような、掘っ建て小屋のような規格住宅というのがあったんです。何もない頃ですから、当時結核の療養には「大気・栄養・安静」と言われていたんです。「大気・栄養・安静」と言われましたけども、大気―綺麗な空気はいいんですけど、貧しいからまず栄養がないですよ。病院には入院できない時代ですからね。安静しておかなくちゃいけない。ベッドもないので、ベッドなども工夫して作らなくちゃいけないわけです。雨戸を一つ取って来て、当時配給所に食料の配給がありましたので、配給所に行きますと、木の箱がいくつかあるんですね。それをもらって来て、四つに置いて、その箱の上に雨戸を置いて、で、そこにカバーを被せてベッドを作る。そして周囲をちょっと落下傘の布(きれ)だとか、いろいろシーツで囲って、安静ができるようにということですね。とにかくあるものを利用して療養できる環境を整備していかなくちゃいけない。喀血の処理なども痰壺にちゃんと取って、それを庭に出て火を付けて燃やすというような、そういうことを家族にも教えながらですね。当時は沖縄も結核に対しては偏見がかなりありましたので、地域によっては公衆衛生看護婦に、「いろいろと赤ちゃんの相談をするとか、いろいろ相談したいけども我が家に訪問して来ると、向こうの家に結核の人がいるんじゃないか、と周囲からそう見られたら困るので、来てほしいけども制服では困る」とか、保健婦が訪問して来ると、「あ、あの家は誰かが結核なんだ、というふうに疑われてしまう。そうしたらまずいので制服でなく私服で来て欲しい」とか、そういうこともありましたね。
 
山田:  そうですか。「公衆衛生看護婦魂」と伺ったら、どういうふうにお答えになるでしょうか。
 
新里:  そうですね。沖縄の保健婦を指導してきた当時の指導者が、「公衆衛生看護婦として地域住民に向かう時には、奉仕の精神がまずなくちゃいけないんだ」と先輩に言われたそうです。そういう「公看魂」をたたき込まれて現場に出ていた、ということですね。そういう先輩と一緒に仕事をしている中で、ほんとに先輩の姿がそう見えるわけですね。駐在をするということは、例えば一つの市町村を地域として委されるわけですね。「この地域にあなたが駐在し、あなたの担当地区だ」と。奉仕的な精神―住民のために担当の保健婦として何ができるか、ということを考えるようになっていき、そして課題が出たらそれに対してどう解決をしていくのか、ということをほんとに真剣に取り組むようになっていった。我々もそういうふうな「公看魂」と言われるようなものが自ずからできていたのかな、というふうに思いますね。
 

 
ナレーター:  仲本初子さんも公衆衛生看護婦として沖縄の本島北部の離島や山村に駐在していました。かつて久志村(くしそん)と言われたこの地域には十三の集落が点在していました。仲本さんはこの駐在所を拠点に、そこを一人で担当していました。
 

 
仲本:  懐かしいですね。健康体操なんかはおばあちゃんを集めて、みんなさせていました。で、昼になるとみんな集まって来て健康体操したりとか、健康相談したりとか、という。
 
山田:  ここでなさったわけですね。
 
仲本:  そうです。だから週に一回は健康相談日と決めて、みんな集まってきました。
 
 
ナレーター:  医者のいない地区が多かった北部の公看さんは、感染症が蔓延する各地域を周り、緊急の呼び出しや、夜の看護などにも家庭をかえりみず対応しなければなりませんでした。
 

 
山田:  結核の人と接することの中で一番大変だったのは何ですか。
 
仲本:  そうですね。昔はストレプトマイシンを指示されると、今は一週間に二回とかなんですけど、昔は一日朝晩二回だったんですよ。「一グラムの一つの薬を半分に分けて、朝と晩と打ちなさい」という指示がでるんですよ。医者の指示ですけど、やるのは私たちですね。そうしたら、例えば家から遠いんですけど、朝早く起きてバスに乗ってその人の家に行くんですよ。そして注射して帰って来て、準備して仕事に行きます。また仕事終わったらまた五時からその人の家に注射しに行くんですよ。ここら辺の近くの方は、「保健婦には結核は移らない」と言うんですよ。「どうして?」と言ったら、「あんたたちには移らないから、自分たちはもう死んだら菌が飛んで来て人にこうくっつくので、あんたは予防しているから移らない」という。だから夜でも呼ばれて、死亡の処置をしなければならない時もありました。
 
山田:  住民の人にしてみたら結核ということがよくわからないので、そこに対する不安もあって看護婦さんにお願いするという形だったんですね。だからそういう処置をしなければいけなかったわけですね。
 
仲本:  結核だけじゃなくて、昔は血圧で倒れてもなかなか入院もさせられませんし、入院するとしても一、二ヶ月入院しているうちに帰されますよ。そうしたら鼻腔栄養(びこうえいよう)があります。昔は「鼻腔栄養」と言っていましたけど、鼻から入れて食事をとるんです。その場合に夜中からでも、「ホースが抜けてしまったんで入れてください」と言って、夜中からでも来ました。夜でも車に乗って、遠いですけど行って処置して、「何でもない」と言っても、この人たちは抜けたというのが不安なんですよ。私は、「嫌」と言えないですよ。これは私がやらないとできないと思うんですね、自然に夜中でも。本人たちには、「こうこうで明日の朝も大丈夫ですよ」と言っても、本人は非常に不安ですから、家に来てほしいわけですよね。それでこれは私の仕事だから、と自分に言い聞かせて行きました。それでまたこの方が亡くなる時はいろいろ洗髪したりいろいろすると、その檀那さんが「この人は何もわからないけれども、ちゃんとあんたがやることは知っているんだよ」ということで涙流してやっていましたけどね。そういうのを見ると自然にやらなければいけないと思うんですね。
 
山田:  そういう大変さの中で、仕事をやられたわけですけれども、どういう気持でみなさんに接していらっしゃったんですか。
仲本:  「私の天職かな」と思っていたんですけどね。
 
山田:  「天職」と思っていた。なぜそういうふうに思っていらっしゃるんですか。
 
仲本:  そんなふうに教育されたんですかね。だって学生時代から、「これは私の天職だよ」と言われましたのでね。いつもナイチンゲールの話とか、そういう話をしますでしょう。だからそれが当たり前だ、と思っていましたよ。とにかく「看護という仕事は最高の仕事である。あんたたちに与えられた天職である」と言っていましたよ。夜中でも呼ばれたり、子どもが病気でも出て行かなければいけなかったりすることがあったんですよ。その時に天職じゃなければ行かないですよ。
 

ナレーター:  一九七二年、沖縄が本土に復帰。さまざまな制度が本土並みへと変わっていく中で、県の看護係長だった與儀さんは、国との交渉や看護団体の取り纏めに当たりました。看護の精神だけでなく、その実行力も恩師であったワニタと真玉橋から学んだと言います。
 

 
與儀:  ワニタさんがせっかく駐在制度を敷いてくださったわけですよ。それによって離島や僻地に保健婦が配置されまして、医者がいなくても安心して相談をして診療、看護とか保健指導をやって頂いていたわけですよ。でも復帰をすると駐在制度がなくなるのではないか、という心配がありました。やっぱり離島僻地の人たちにとっては死活の問題ですよ。お産とか、あるいは手術をしなくちゃいけないとか、緊急の病気だとかという時は飛行機に乗ってわざわざ行く。それ以前に保健婦さんがいろいろの連絡調整をやったりしていますからね。だからそんなのがなくなると、地域としては大変なんですよ。みんな運動して、駐在制度は継続させてほしい、と。そこら辺もやっぱりお互いに協力しあってやれば、何でもできるんですよ。
 
山田:  それはワニタさんや真玉橋さんがどんどんやっていかれる姿を見ていて、看護婦としての高い精神性を追求しながらも、交渉面や実行力を非常に具体的に示してくださった。それを学ばれたということでしょうか。
 
與儀:  それを見ていて、直に学びましたね。
 

 
ナレーター:  沖縄の独特の公衆衛生看護婦は、復帰後、「保健婦」と名前が変わりましたが、地域駐在制度は継続されました。新里さんは復帰後も保健婦として活動し、一九九四年に退職しました。今は海外からの研修生に公衆衛生看護婦の地域駐在制度の体験を語り続けています。これまでの研修生は南米、アフリカ、アジアなど三十カ国、三百六十人にものぼっています。何もない状況から出発した沖縄の看護の精神と貴重な経験は同じ志を持つ海外の研修生にも通じると新里さんは考えています。
 

 
山田:  新里さんたちがやられたような、何もないところで、どういう工夫をして、何をやっていくかという、そういうことがまさに必要な現場がたくさんあるということですね。
 
新里:  現場がたくさんありますね。研修生は、「政治が悪いんだ。制度が悪いんだ。お金がないんだ。だからこんなことできないんだ」というようなことで、凄く最初は諦めの声が強かったんですよ。ですけど、「こういうこともあったりしたよ」「こういうこともしたよ」「こんなふうにしたらどうか」と、いろいろ具体的な指導の話をしたら、「やられることから一つずつやるしかない。やっていけばいつかは変わってくるんでしょうね」というようなことを言って帰りますからね。
 
山田:  自分たちのやったことを紹介し教えながらも、そういう考え方そのものを受け継いでほしいというお気持があるでしょうか。
 
新里:  ありますね。「今、住民に何が一番問題なのか、ということを見きわめるその目。ただがむしゃらに働くだけじゃなくて、温かいハート≠ニクールな判断力≠ェ保健婦には欠かせない。そこら辺が地域で働く者として一番重要な姿勢じゃなかろうか」ということを後輩に言っています。
 
ナレーター:  戦争による荒廃の中から出発した沖縄の看護制度、看護教育。地域の保健看護を担ってきた使命は、新しい教育機関へと受け継がれてきています。若い人たちを教えているのは與儀さんや新里さんたちの教えを受けた後輩たちです。與儀さんはその長い経験の中で命を支える看護の基本となるのはやはり人間の心だと改めて実感しています。
 

 
與儀:  私は看護婦になって良かったなあと思うのは、いろいろと私が実際にやって、そして時には感謝されたり、いろいろのことがありますよ。具体的に感動したことを一つご紹介しますと、病院で重症で、「九十九パーセントダメです」とお医者さんがおっしゃった患者さんが、何回も手術をして、そして意識不明、意識混濁になって、それで天国に一歩近づいていたわけですよ。ですけど、奥さんはおめでたしているんですよ。赤ちゃんがいます。それで奥さんとお母さんが、先生に、「どうか助けてください。この子どものお父さんをどうぞ助けてください」って懇願するんですよ。でもその若い医者はほんとに難しいとわかっているんですけど、でも偉いなと思ったのは―私はその時の婦長でしたけど―本土の先輩のお医者さんにお電話していろいろ教えてもらうんですよ。で、それを処方するんです。そして教えてもらったことをやっているんです。普通、看護婦が看ているからお医者はあんまりいなくてもいいんですよ。でもそのお医者さんはずっと付きっきりしまして、自分が指示しているものの効果をみていくわけです。で、私が、「先生は家族の方に、その後どうなるのか、ということを説明なさいました」と言ったら、「まだしていない」とおっしゃるわけですよ。普通家族の方に説明されるんですよ。例えば、「もう危ないんだ」ということを言うんですが、全然言っていない。「もしそうお思いになるんでしたら、家族の方たちにもお伝えしていたほうがいいじゃありません。準備もあるでしょうから」と、そういうような話をしていたら、そのうちに患者さんの様子が変わってきたんですよ。そして意識が出てきたんですよ。意識回復して、目を開いて、最初は朦朧としていて誰なのかわかりませんけど、そのうちにお母さんだとか、奥さんだとか、看護婦だとか、わかるようになったんですよ。その後退院されて家族から手紙がきたんですよ。その手紙が私にとっては死の知らせかも知れないし、その後どうなったかとっても不安なんですね。元気であってほしいと願うけど、手紙を開いたら何が書かれているかわかりませんでしょう。糸満療養所の総婦長をしていた時で、総婦長室で一生懸命見るか見まいかしばらくそっとしていて、見たんですよ。「お陰様で主人も元気になって赤ちゃんもできて云々」と書いてあるんですよ。とっても嬉しくて、涙ぽろぽろ流して、「ああ、良かった」と思いました。私は何にもしてあげられてなかったけど、やっぱり看護婦になってよかった。少しでもお役に立つことができたんだったら嬉しいって、わざわざ八重山から手紙をくださったです。あの時に初めて看護婦になってよかったなと思いました。だからやっぱり最後まで望みを持つということですね。医師や看護婦、そして母親、奥さんの祈るような気持で最後まで信じてベストを尽くし、それに答えて下さった患者さんの生命のすばらしさに感動しました。「人(ちゅ)がる薬(くすい)やんどぅ」という言葉が沖縄にあるんですよ。方言なんですけどね。「人(ちゅ)」と言ったら「人間」のことなんです。「薬(くすい)やんどぅ」というのは、「薬なんですよ」ということなんですよ。「人間が薬なんですよ」ということです。これは面白いですね。病気をして、入院して、それで注射してもらったり、処置をしてもらったり、手術をしてもらったり、いろいろなことをやってもらって、病気は治るし、また退院できる、と。そして健康になるんだ、と思いますよね。ですけど、ほんとに素晴らしい言葉だと思います。機械があって、それを活用したりとか、あるいはいい医薬品があって、医薬品で治るとか、注射で治るとか、手術で治るとか、そういうようなことではないですよね。そういった技術的なものではなくて、一番大事なことは、「何をするのにも人間なんですよ」と。人間がルーズであるか、あるいはほんとに誠意をもって一生懸命やっているか。重症患者さんの傍に居て看護するわけですね。お薬よりも、その人が傍にいるだけで安心感があるんですよ。だから、「人(ちゅ)がる」というのはそういう意味じゃないか、と思うんですよ。何にもしなくても、傍にその人がいるだけで安心なんです。治ったような気がするんですよ。信頼しているんです。尊敬しているんですよ。だから「人(ちゅ)がる薬(くすい)やんどぅ」という言葉は、私は、「愛情・人間愛・博愛の精神・ナイチンゲールの精神」であり、そういった愛の定義「愛は寛容にして慈悲あり」ということである、と。だから看護の根元は愛なんですよ。そして看護魂は「愛・慈悲の心」だと思います。
 
     これは、平成二十年六月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである