いのち伝えることば
 
                     早稲田大学教授 東 後(とうご)  勝 明(かつあき)
一九三八年兵庫県生まれ。早稲田大学教育学部英語英文学科卒業、同専攻科修了。ロンドン大学大学院修士、博士課程修了。専門は英語学、英語教育学。現在、早稲田大学教育学部教授。一九七二年から十三年半の間にわたりNHKラジオ「英語会話」の講師をつとめる。一九九五年にキリスト教の洗礼を受け、最近は外国語・母国語を問わずことばが心に与える影響について深い関心を持つ。著書に『教育音声学の研究』『コミュニケーションとしての言語教育(翻訳)』『聞ける英語、話せる英語』『なぜあなたは英語が話せないのか』『英語ひとすじの道』『子どもの英語、今こんなふうに』『ありのままを生きる』ほか。
                     ききて     山 田  誠 浩
 
山田:  これ、線の引いたところは全部覚えたということですか?
 
東後:  まあ覚えたつもりになったんでしょうね。とにかく一冊の辞書を征服したというかですね。
 
山田:  ほんとだ、すごい!
東後:  大学に入る前、ずっと浪人中もそうやって一ページずつ読みましたね。ここにこんなことが書いてありますね。「Where there is a will, there is a way」と書いてあるんですよ。「意志のあるところに必ず道あり」というんですか、
 
山田:  これご自分で書かれたんですか?
 
東後:  自分で書いたんですね。
 
山田:  そういう思いで、これを覚えていらっしゃったんですね。
 
東後:  そうですね。ここに「一日十ページ」とかなんか書いていますね。でもこういうものをお見せする機会を与えて頂きまして有り難うございました。
 

 
ナレーター:  東後勝明さんは、長年NHKラジオの英会話の講師を務めたことで知られています。一九七二年から十三年半、ラジオを通じて年間八十万の人々に親しまれてきました。当時海外旅行がブームとなり、外国に出掛ける機会が増えてきた日本人が会話を楽しめるように、自らの体験をもとにした、いきいきとした会話文が人気を集めました。イギリスのホテルで朝紅茶を頼むと、ベッドまで運ばれてきて驚いたというエピソードは、モーニングティの習慣を知らなかった東後さん自身の経験です。
 

 
東後:  それで常に日本人の視点からテキストを書こうという、ネーティブ(native)の先生にお願いすれば、ササッとそれは素晴らしい英語で書いて頂けるんですけど、やっぱりそれだと、どうも靴の上から掻いているようで、私たち、いわゆる外国語として英語を勉強をするnon・native の立場と言いますか、視点と言いますか、それが表面に現れないものですから、何とかということで、ですからほとんど私の失敗談ばっかりですよ。でもみなさんはそれに共感してくださいましたね。
 

 
ナレーター:  東後さんは、現在英語教師を目指す学生たちを対象に大学で教えています。テーマは、「英語によるコミュニケーション」。学生たちに学んでほしいのは単なる英会話の技術ではありません。言葉には内面の深い思いを伝え合う大切な働きがあることを知ってほしいと願っています。それは東後さん自身の体験からくるものでした。二十年前に起こった家庭内の出来事をきっかけに言葉の持つ力に気付かされ、言葉への認識を大きく変えられていったのです。
 

 
東後:  言葉にはコミュニケーションの手段としての、つまりツールとしての側面もたしかにあります。けれども、果たしてそれだけだろうか、と。もし仮に言葉が単なるコミュニケーションの手段だけだとすれば、英語を教える、あるいは言葉を教えるということが、ある意味ではモールス信号を教えるような、記号を教えることになるわけですよね。どうも記号だけではなさそうだ、と。やはり言葉にはそれプラス(+)アルファ(α)の何かがある、と。そしてズーッと考えていきますと、〈そうだ、実は私たち人間は、言葉はある目的がないと使わない。つまり目的というのは、言葉を使う人の意志がそこに働く。その意志、その言葉の裏にある思い―それを心と言ってもいいんですけど―さらにその奥にあるいのちまで言葉はどうも繋がっているんじゃないかな〉と。それでそういうことに気が付いたのは、私の娘がたまたま中学校の頃に不登校になりまして、それで学校に行けなくなって、それで技術的な側面の言葉でいくら話しても、それは相手に伝わらなくて、言葉の裏にある心とか、もっと極端に言えば、いのちとか、そういうものが触れ合うことによって初めて言葉が生かされてくる、ということに気が付いてきたんですね。
 
山田:  東後さんは、英語を勉強していこうと思われた最初のきっかけというのは何なんでしょうか?
 
東後:  そうですね。みなさんそれをお尋ねになるんですけど、小学校の五年生ぐらいの頃ですかね、私の家の近くに米軍の駐屯地があったんですね。そこのアメリカ兵が私の家にたまたま訪ねて来て、で、父は小さな衣料品のお店を持っていましたから、そこへ買い物に米兵が二人入って来たんですね。それで、私、父はどうするのかなあと思って見ていましたら、幸い父は昔少し英語の会話を勉強していましたし、インド商会というような貿易関係の仕事をしておりましたから、それで、〈ああ、父は英語を話している。そして、あ、これが英語なんだ〉という、その英語との最初の出会いと言いますか、それが一つのきっかけですね。
 
山田:  お父さんが英語を話すというのはその時始めて知られたんですか?
 
東後:  いや、必ずしもそうじゃないんですけどね。それまでも多少英語とマレー語ですかね、それを家の中で時々使っていましたよ。だから「時間何時?≠ニいう時には、What time is it now≠ニ言うんだよ」とかね、
 
山田:  家族に向かって?
 
東後:  はい。とにかく外国人はものすごく背の高い、そして色の白い、目の青い、と言っていいのかどうかわかりませんが、子どもの目にはそういうふうに映りましたね。それで下から見上げますと、鼻の穴が大きくって、なんか鼻の穴だけこうやって見ていた記憶があるんです。
 
山田:  それでどういうふうに英語をやる気持がその後盛り上がっていくんでしょうか?
 
東後:  そうですね。私は自分の父をそういう意味では尊敬をしておりましたし、信頼をしておりました。その父が私が高校二年の時に病気で亡くなったんですね。今でこそ癌という病気は早期発見すれば、治療は可能な病気になりましたけど、結局手遅れで病気が見つかってから数ヶ月後に亡くなったんですね。それで最期に父が息を引き取る寸前に私を呼んで、「勝明、おまえ出世しろよ」ということをほんとに絞り出すような声だったですが言いました。私は父を揺すって、「出世ってどういうことなんだ。偉くなることか、お金いっぱい儲けることか、有名になることか、権力を手に入れることか、何なんだ。父ちゃん教えて!」って訊きましたら、父はそれに応えずに息を引き取りました。それで私の中に、とにかくこのままではいけないんだな、と言いますか、出世しなければいけないんだな、と。つまり人以上に努力をして、何か人よりも一歩前に出るという生き方が、父が私に望んできたことではないかな、と自分なりにそう思ったんですね。それで得意であり、父がある程度できた英語を使うという、英語のそういう側面に少しずつ惹かれていきまして、それで英語だけは負けたくない。英語だけは、という思いが少しずつ自分の中で湧いてきたんですね。
 

ナレーター:  英語だけは負けたくない。しかし父親の死後、家業を手伝うため高校に通えない日々が続きました。東後さんは、NHKのラジオ英会話講座を聞き独学で勉強を続けます。二年の浪人を経て早稲田大学に合格。英語で身を立てようと、英語の教師を目指し、教育学を専攻しました。大学では英語でのスピーチやディベート(debate)の腕を競う倶楽部に入ります。常に辞書を持ち歩き、英語漬けの毎日を送る東後さんは、三百人の部員を纏める幹事長を委されます。頭角を現したのは一年生の暗記コンテストの時でした。
 

 
東後:  「The Gettysburg Address by Abraham Lincoln」。リンカーンの「The Gettysburg Address」をみんなやったんですけど、六百人ぐらいそれに参加したわけですね、予選から。
 
山田:  リンカーンの演説を暗唱するんですか?
 
東後:  そうです。ある出版社から「The Gettysburg Address」のレコードが出ていたんですよ。それを何度も何度も聞いて、それとそっくりに私は真似をして当日やったんですね。そうしましたら、私、その時まで知りませんでしたけど、その元になったモデルがイギリスの発音だったんですね。それで何とか優勝することはできたんですけど、審査員が最後のコメントの時に、「私は今日初めてリンカーンがイギリス人であるように演説をしたのを初めて聞いた。だからあなたの発音はとても素晴らしかったけれども、まったくのイギリス風で、私は戸惑った。でも素晴らしかった」というふうにコメントを頂いたんですね。
 
山田:  それからは外国人と話す機会をつくるとか、そういうことにも一生懸命励まれました?
 
東後:  そうですね。いろんなことをやりましたよ。ヒッチハイクをしているような若者が泊まるところがないというふうな時に、大概私は、「じゃ、家へいらっしゃい」と、私のアパートに連れて行って、鍵を渡して、「その代わり四六時中英語を使ってください。それで英語についていろんなことを教えてください」と言って泊めたこともありました。その人は私のことを、「You are an Engilish tiger(おまえは英語の虎だ)」なんて言っていましたけどね。
 
山田:  それはどういう意味ですか?
 
東後:  どういう意味なんでしょうね。何でも英語のことになったら食い付いてくるという意味じゃないですか。
 
山田:  泊めてあげている間、東後さんがとにかく英語のことばっかり聞くもんだから。
 
東後:  いろんなことを聞くもんですから。大概一日なんか仕事を捜して帰ってきて、さぁじゃ、これから話し合おう、という時に、「OK, Mr.Togo ,your turn, shoot」と言っていましたよ。「shoot」というのは「撃つ」ということですけど、とにかく「質問しなさい」ということですね。
 
山田:  そんなふうにしても、とにかく英語を上手になりたいと思ったわけですね。
 
東後:  そうですね。なんとか英語を、アメリカ人、あるいはイギリス人のように話したいというのではなくて、native speaker 以上になりたいと思っていましたね。技術的にパフォーマンス(performance)、つまり発音することもできるし、それからその内容的に、あるいは言語学的に解説することもできるし、というふうに、ただ単に物真似でnativeの人のように話せるようになりたいというだけではなかったですね。
 
山田:  でもそこまで英語を勉強することに一生懸命になられた、それは何がそうさせたのでしょうか?
 
東後:  いや、私も時々それを考えますけども、敢えて言えば二つあったかなと思うんですね。一つは、「不安」ですね。
 
山田:  不安?
 
東後:  父が亡くなって、それで家庭的、経済的にも不安定になりましたし、それから自分の将来を見通した時に、結局自分も父のあのように人間最後は死ぬんじゃないのかなあという死への恐怖ですね。それから今言いました経済的な不安。それから社会的にも親が亡くなって―当時どこまで本当だったかわかりませんけど―親のない子どもは金融関係に就職できないとか、両親揃っていないとまともな職業に就けないとか、そういうことが囁(ささや)かれているようなまだ時代だったですから。しかも自分の周囲の親戚、あるいは肉親はみんなが「お前はしっかりしないといかんよ。お父さんが早く亡くなったんだから、お母さんを助けて、お前がしっかりしなければ、お前は男の子だから」と。なんだか昔は男の子というのは大変だったですね。それでじっとしていられないというか、なんかやっていかなければならない。なんかしていないと、そういう気持と、もう一つはやっぱり身を立てよう。父が、「出世しなさい」と言ったことがあったから、とにかくなんらかの形で社会の中で自立していかなければいけない。今の言葉で言えば、「キャリア(career)」ですよね。その二つの間を行ったり来たりしていて、その時に自分が最後まで自分の生きていくうえの一つの武器として選んだのが英語だった、と思うんですね。
 

ナレーター:  東後さんは、大学卒業後、中学や予備校などで英語を教えます。しかし、さらに英語に磨きをかけたいと留学試験を受け続けます。奨学金を得てロンドン大学に留学したのは三十歳の時でした。帰国後、NHKのラジオ英会話講座の講師に抜擢されます。独自の英語教育法で定評のあった松本亨(とおる)さんの後任でした。ところが一年後再度留学のチャンスが訪れます。講師の座を手放すのかどうか、東後さんは悩みました。
 

 
東後:  松本亨先生というのは私から見ましたら、もう大変な雲の上の方で、私自身が松本先生の放送を聞いて英会話の勉強をしてきたわけですから、その先生と同じ番組で月曜日から金曜日までは東後勝明で、土曜日は松本亨先生だ、と。それで一年間番組に出たんですね。で、私にしてみれば、一年で辞めますと、やっぱり東後勝明はダメだったんだというふうに世の中の人に思われるのは辛い、と。その頃はそんな感覚だったですね。それで私自身の恩師の五十嵐先生に相談に行きました。そうしたら五十嵐先生は、「放送を下りても再度留学をすべきだ。あなたは若いんだし、これからのことを考えると、勉強第一に考えればいいですよ」と、そんなふうにおっしゃったんですね。五十嵐先生は、「辞めるとか辞めないとか、そういうことをあなたがいう必要はありません。ただ再度奨学金を頂きましたので、一年間留学をさせて頂きたい、ということをNHKに言いなさい」とおっしゃったんですよ。で、その通りに言いました。そうしたら局の方で、「多少時間的に厳しいですけど、録音で一年間繋ぎませんか」とおっしゃって、それで繋いだんですね。
 
山田:  それはまた凄いことですね。
 
東後:  そうですね。ですからお休みは全部こっちに帰って来ました。それで向こうの授業がある期間だけロンドンにいましたですね。家族は向こうにいましたけどね。私は飛行機で帰って来て収録を終えてまた飛ぶという。テキストを書くのがちょっと大変だったですけどね。
 
山田:  その間留学中もずっとテキストを書いていらっしゃったわけですから。
 
東後:  書いていましたね。それで私のどこかに劣等感がありましたね。というのは、「東後は英会話の先生だ」というふうに言われるのがとても嫌だったですよ。だから、「あの英会話の番組、あの彼がやっていることにはこれだけの理論的、あるいは学問的な裏付けがあってのことですよ。そして技術的なこともできますよ」という。
 
山田:  どういうものを目指していたわけですか?
 
東後:  英語で身を立てたいと思っていた頃に、自分が目指したものというのは大学の研究者、教授ですよ。中学校の教員が行っても高校の教員は聞いてくれない。高校の教員が行っても大学の教員は聞いてくれない、と言いますかね、そういうまあある意味でのhierarchy(ピラミッド型階級制度)ですよね、社会的なね。そういうものがやっぱりあるなということに気が付いて、それならば階段を上には上ってみようということで、留学、学位取得、それで大学という道を選ぼうとしたんですよ。
 
山田:  着々と実績もそういうふうにつくっていかれたわけですね。
 
東後:  そうですね。お陰様で順風満帆で進んでいるように見えましたね。娘から何度か「パパはどうしてそんなにいろんなことができるの。力があるの。エネルギーがあるの。私見ていて不思議でしょうがない」ということを言われたことがありますけどね。私はその時、当時の私は、「為せば成るなんだよ。やればできるんだよ」と、そういう答えしか応えられませんでしたね。
 

ナレーター:  東後さんは、三十七歳の時、母校早稲田大学に講師として迎えられ、八年後念願の教授の座を手にします。東後さんが次ぎに目指したのは博士号の取得でした。家族を伴ってイギリスに三度目の留学をし、論文の準備を進めます。しかしそのイギリスでの生活で家族に思いがけない異変が起こったのです。
 

 
東後:  あまりにも目まぐるしい私の生活態度と言いますか、そういうものが家族の人間関係を少しずつ歪(ゆが)めて、それで子どもも自分の本当のことがなかなか言えない。家内も言えない。ただ私一人が自分の思いで家族全体のことを取り仕切っていた、というと適切な表現かどうかわかりませんが、それをよく言えば私を中心に家族がいたわけですが、その家族が私を中心にほんとに心と心が触れ合って信頼関係のある、そういう本来ある姿ではなくて人間関係がギクシャクしていた、ということでしょうかね。
 
山田:  どういうことだったでしょうか?
 
東後:  娘が不登校になったのは、中学二年生の時、ロンドンのインターナショナルスクールに通っていたころですね。それでなんとなく勉強も難しいし、日本の小学校を出てそのままロンドンのインターナショナルの中学校に入れましたから、ですからほとんど英語ができないままですよね。彼女の場合にはそれについていけなくなって、それで少しポツポツと学校を休むようになったんですね。中学二年生の頃ですね。でも何とか三年までは卒業して日本に帰ってきたわけですが、日本に帰って来れば日本の学校に行って、昔からの友だちがいることですから、と思っていたところが高等学校に入ってもなかなかうまく適応しませんで休む日が続いたんですね。それでこれはある意味ではいけないなということで、いろいろ私自身も本を読んだり、あるいは人の話を聞いたりして対応している時に、たまたま娘自身が教会の牧師さんのところに相談に行ったんですね。それでいろいろ話を聞いてもらって、家に帰って来て、それから数日後にその牧師さんから電話がありましてね、「お嬢さんと先日お話しましたけど、だいぶ疲れておられるようですね」ということで、それで「こういう問題というのは、家族の中での人間関係の歪みが原因で、それでお子さんの、家族の中の特定の人のところに重荷が重なっていくという、そういう現象だと思いますから、誰が悪いとか彼が悪いという、そういう犯人捜しをしないで、もう一度東後さんの家族の人間関係を見直してご覧になったら如何ですか」という電話を受けたんですね。その時に、「少し時間がかかるかも知れませんよ。だからそんな一週間や二週間で回復する、あるいは物事が良い方向に向かうということではなくて、まあできれば何ヶ月、あるいは何年ぐらいのスパンで関わってあげてください」と言われたんですね。
 
山田:  東後さんはどういうふうに思いになったんですか?
 
東後:  それは当然のことながら、「あ、そうですか。なるほど。私も実はそのことを心配しておりました」というふうな返事が、私にその時できるようであれば、そういう問題は起きていなかったでしょうね。ということは、逆説的な言い方をしましたが、要するに、「何故子どもが今こういう状態なのか」ということについて、ほとんど知識がありませんでしたね。知りませんでしたね。だからとても驚きました。
 
山田:  学校を休んだりしておられるという事実はご存じでしたね。
 
東後:  それはロンドンの時からそうですからね。
 
山田:  そのことが「家族が原因している」と言われて、「そんなことがあるか」という感じがなさいました?
 
東後:  勿論その通りですよ。とんでもない、と、私は思いましたね。ただその時の思いをあまり強くすればするほど、実はその後で牧師さんがおっしゃったことがほんとにその通りだった、というふうに私自身が思うようになり、私自身が変えられていくわけですから、あまりそこで「そういう自分であった」ということを強く言いたくはなかったんです。それで専門家の、いわゆる神経科、あるいは臨床心理のカウンセリングの先生、そういう方とも相談をしましたね。それで、「まあ現在の状況は心因性の抑鬱状態ですから、とにかく静かに休ませてあげてください。ご自分を取り戻す時間が必要です」と。ということは、言い換えれば自分を見失っていたわけですね、子どもはね。
 
山田:  具体的にどういうことをやっていこうとなさったんでしょうか?
 
東後:  そうですね。一つは、まずそういう関連の書物をたくさん読みました、勉強しました。もう一つは、カウンセリング。普通の臨床心理のカウンセリング、あるいは牧会、つまりキリスト教のカウンセリング、そういう講習を受けました。
 
山田:  ご自身がですか?
 
東後:  私が。何度も受けました。言葉をどういうふうにかけたらいいのか、というふうなことをカウンセリングの講座では学ぶわけです。それを実際にやってみるわけですが、例えば相手が何かを言った時に、相手の言葉をそのままそっくりと受けて、それで返す、という。これはカウンセリングのほうでは「エコー(echo)」というらしいですけども、例えば、「頭が痛い」と言ったら、「頭が痛いのね」と。「寒い」と言ったら、「寒いのね」というふうに、そのまま返しなさい、と。そうすることによって二人の人間関係が、いわゆる上下関係と言いますかね、「こうしたらいいよ」という指示、それに対してそれを受け入れるという、こういう人間関係が同じ対等の人間関係になれるということですね。それでそういうことを一生懸命実際にやるわけですが、ここが怖ろしいところというか、人間の素晴らしいところで、言葉はちゃんと話せていても、心がついていないと、心の方が通じちゃうんですよ。つまり言葉は習った通りに言うんですよ。例えば、「もしお子さんが学校に行かれないのであれば、無理に行かせないで、行きたくないの。じゃ、今日は休んだ方がいいんじゃない≠ニいうふうに言いなさい」と教わるわけですよ。それで、「今日は休んだ方がいいんじゃない」と言うんですけど、言っている本人の気持ちが本当は行った方がいいと思っていれば、つまり行かないお前はダメと思っていれば、そっちの方が通じちゃうんですよ、言葉じゃなくて。
 
山田:  じゃ、東後さんがお嬢さんに言葉をかけられた時、お嬢さんはどう反応されましたか?
 
東後:  怒りましたね。最初は全然入っていかないですもの。受け付けませんよ。こっちの本当の心を読み取っていますから。つまり、「お前はどうして学校に行けないの」というのが親の本当の心だから。それを読み取っていますから。そして、「いや、行けなければ行かなくていいのよ」なんて言っても、それは口先だけだから伝わりませんね。それから少しずつ少しずつ心の問題ということであれば、一体その家族の中で何がどのようになっているのか、ということを見つめ直してみようという、そういうところに立ち返ったわけですよ。「私が家族を束ねている」という言葉を使いましたけれども、自分の思い、というものが、ある程度家族一人一人にきちっと伝わっている、と私は思っていたんですよ。ところがある時、実はそうではないということがわかって、私も驚きだったですし、家族はそういうことを知らない私に驚いたようですね。それはどういうことかと言いますと、たまたま毎夏千葉の方に海水浴に行っていたんですね。それで子どもはまだ小学校の頃ですから、それこそ私は連日このテキストの原稿を書いたり、自分の論文を書いたりするのに忙しかったですから、原稿用紙を抱えて海水浴に行っていたわけですよ。そして子どもたちとくつろぎながらも原稿を書いている。そうすると子どもが騒ぐと、「静かにしなさい」ということになるし、家内はその間に入って大変な思いをしていた。だから、私は、こんなに大変でも家族サービスをしていますよ、という思いだったわけですよ。自己満足ですね。そうしたら家族の方は、海にまで行っているのに、なんかピリピリして顔色見ながら大きな声ではしゃぐこともできないというような夏休みでは困る、と。だから家内の方もその間に入ってほんとに気を遣って大変だった、と。ポロッと子どもがなんかの時に、「ほんとに家族でゆっくりゆったりと海水浴ぐらいに行きたかったよ」って言った。だから私は、「行ったじゃないか。毎夏行っているじゃないか。何を言うんだ」というところから話が始まったんですね。ですから、事々左様にと言いますか、なんか恥を曝すようですが、人間関係―表面的には、私は私として父親を演じていたわけですよ、ある意味でね。家内は家内で母親を演じていて、子どもは子どもを演じていて、そして家族関係が成り立っていた。ところがそれが全部表面的な自分を演じているだけであって、本当の内面の、それこそありのままの自分というのは表に出ていなかったわけですね。家内はこんなふうに言いましたね。「夫がやろうとしていることを助けるのが自分の第一の仕事だと思っていたから、そのことで子どもが多少犠牲になっても、それは仕方がないと思っていた」と、ある時言ってくれましたね。「だから、外から帰って来てすぐに仕事という時にはテレビを消して、ラジオを消して、あるいは子どもを静かにさせて、つまり子どもの方を押さえて主人を立てるということが自分としての務めだというふうに思っていた。ところが、それが大きな間違いだった―大きな間違いかどうかわかりませんが―少なくとも、それだけでは家族の人間関係が豊かに、あるいはスムーズにいかないんだな、ということに気が付いた」ということを言っていましたね。
 
山田:  奥様はそういうふうに考えて、ご自分の立場で行動されたわけですが、そのことは奥様ご自身にやっぱり大きなストレスをもたらした?
 
東後:  ありましたですね。それでカウンセリングを娘だけではなくて、ある時期家族全員が受けたんですね。「家族カウンセリング」と言うんですけど、そのカウンセリングを受けている最中に、こうやってお話をしていましたら、椅子からドサッと倒れ落ちたんですよ。
 
山田:  奥様がですか?
 
東後:  はい。それで「頭が痛い」と。もの凄い激しい頭痛だということを訴えましてね。家内をタクシーで乗せて行って、それでレントゲンを撮って、即入院。それで翌日朝八時半から手術ですね。網膜下出血ですよ。それで十二時間ぐらいの長い長い手術でしてね、外で待っていてほんとに辛かったですね。
 
山田:  一方で東後さんご自身も五十代の働きざかりの、まだ大学の教授として博士論文を書いておられたんでしょう? 
 
東後:  はい。やっぱり論文を仕上げたいという気持がありましたね。それは自分のやはりアカデミズムの一つの完成と言いますか、集大成として、これはどうしても完成したいと思っていました。それから大学の中では教務主任という役職に就いていましたから、その教務主任の役職は無事果たしたいというふうに思っていました。そういうことで娘の問題を抱えながらもまだ自分の今まで歩んできた道を一筋に進もうという気持がありましたね。それに最終的な、決定的なパンチをもらったのが教授会での私の病気ですね―病気と言いますか、私が倒れたことですね。
 

 
ナレーター:  東後さんが突然大学で倒れたのは、一九九四年、五十五歳の時でした。教授会の席上、意識が薄れるほどの激し腹痛に襲われます。病院に運び込まれますが、原因がわからないまま一晩が過ぎました。翌日、腹部に大量の出血があることが判明。このままでは命が危険だと手術室に運ばれます。ところが手術を始める直前、突然出血が止まりました。
 

 
東後:  そうこうしているうちに、外科のお医者さんが私の耳元で、「東後さん、出血が止まったよ!」とおっしゃったんですね。「このまま様子をみます」ということで、それで手術室から病室に戻されたんですね。それで休んでいましたら、それから数時間後ですけれども、教会の牧師先生が訪ねて来られて、ちょうど家内が属している教会の牧師さんだったですね。「東後さん、お祈りしよう。その前に聖書を読みます」とおっしゃって、私はほんとに死ぬかも知れないという気持でベッドの上に横たわっていましたら、突然、先生が「ちょっと起きられませんか」とおっしゃったから、座れるぐらい座れたんで、座って、そして聖書の詩編―今思えば詩篇の二十三ですね。ちょっと読んでみましょう。
 
     (しゅ)は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
     主はわたしを青草(あおくさ)の原に休ませ
     憩いの水のほとりに伴い
     魂を生き返らせてくださる。
 
     主は御名(みな)にふさわしく
     わたしを正しい道に導かれる。
     死の陰の谷を歩むとも
     わたしは災いを恐れない。
     あなたがわたしと共にいてくださる。
     あなたの鞭(むち)、あなたの杖
     それがわたしを力づける。
         (「詩編二十三」)
 
こういうところだったんですが、これを聞いた時に、目から涙がボロボロとこぼれてきて、それで全身の力がスーッと抜けて、体が熱くなって、それでフッとなんか目が醒めたような感じで、どこからかとなく、「お前さんはもうそのままでいいんだよ。それでいいんだよ」という、そういう声が聞こえたんですね。それが私がおそらく神様と出会った一瞬じゃなかったのかな、と思うんですね。父が死んでから、ズーッと「このままではいけない。なんとかしなければいけない。頑張らなければいけない」という、そういう一種の強迫観念みたいなものに追い掛けられていましたから、そういうものから一気に解放されたんですね、その瞬間に。それでフッと気付いてベッドの上で、〈あ、自分は生きている、というよりも、何か自分よりももっと大きな力に自分が生かされている〉という、そういう感覚で、今までの不安、あるいは強迫観念、あるいは追い掛けられているようなものからすっかり解放されて、〈あ、これでいいんだ。このままでいいんだ〉という体験をしたんですね。「今がいけない。だからこうしょう」「今がいけない、こうしよう」というのは、数学の式で言えば、前にマイナス(−)がついているんですね。ですからどんなに頑張っても、結局数値がどんどん増えていってもマイナス(−)なんですよ。それがプラス(+)に替えられたわけです。つまりダメだから頑張るじゃなくて、そのままでいいよ、になって、そこからスタートなんですね。その日はたまたま私の五十六歳の誕生日だったんです。それで退院の時に外科部長の先生のところに呼び出されて、で、私、話していて、「いやぁ、先生、とんでもない誕生日だったですよ」と言って叱られましてね。外科部長の先生が、「東後さん、何ということを言うんですか! あなたはあの夜あのまま死んでいてもちっとも不思議でなかったんですよ!」って。「だからあなたは神様から命のプレゼントをもらったのに、とんでもない夜だったとか、とんでもない日だったというのは、それはちょっと拙いんじゃないですか。あなたは命のプレゼントを五十六歳の誕生日に神様から頂いたんですよ」。その先生は別にクリスチャンでもなんでもない方だったと思いますが、そういう言い方をされたんですね。ちょっと信仰的になりますけれども、私たちのいのち、あるいは存在そのものをもっと大きな力によって与えられた。自分で作り出した、あるいは自分で達成したというものではなくて、与えられたいのち、与えられた存在、それを否定も肯定もしないでそのまま受け入れる。ですからそのありのままを生きるということは、存在そのものを大切に生きる、ということでしょうね。
 
山田:  それは「そのままでいる」ということと同じなんでしょうか?
 
東後:  いや、それはちょっと言葉の遊びのような感じがしますが、「ありのまま」というほうがなんか深いですよね。「その人の本来の姿を生きる」という感じがしますけどね。「そのまま」というのは、要するにそのままでいいのか。例えば、今日実は来る途中、都電の中で足の不自由な方が私の前に乗って来られたんですね。それで見ていると残念ながらどなたもその方に席をお譲りにならなかったんですよ。それで私はそれを見ていて、あぁ、と思ったんですが、足の不自由な方が乗って来られた。誰も席を立たなかった。ありのままでいいんならそれでいいのか、ということですね。そういうありのままの捉え方。でも実は「ありのまま」というのは、私たちの本来の姿、つまり神様から頂いたいのち、そしてもう一つのいのちがそこにあって、そしてその人が困っておられる時に、その方に手を差し伸べるということが、本当は私たちの心の、あるいは内面は喜ぶ筈なんですよ。その喜びをそのまま素直に、そういう人の思いを素直に外に出す。だからむしろその場合の「ありのまま」というのは、親切にすることが人間の本来の持っているそういう思いなり気持を外に出して生活をしていくということが、実はありのままなんですよ、と。だから実際に席を譲らないで、みなさんこう坐っておられるという、その姿がありのままじゃないんですよ。
 
山田:  「その思い」というのはどんなふうな?
 
東後:  そうですね。あの時はたしかに自分が大きな力に包まれて、「そのままでいいんだよ。何も、ああしなければいけない。こうしなければいけない、ということはないんだよ」という、そういう思いを持ったわけですから、自分がそういう思いになったのと同じように、今度は人に対しても、例えば娘に対して、「ああでなければいけない、こうでなければいけない」という娘の行いに対して、周りにあるすべてのものを脱ぎ払って、神様から頂いたいのちとしての、存在としての娘であり、人間ですよね。その部分に目が少しずついくようになって、そうしますと、周りのことがそれほど気にならなくなって、少しずつ親子の関係が改善していった、ということでしょうかね。実際にあったことをお話しますと、ある十二月の暮れだったと思いますね、三十日か三十一日でしょうかね、娘から―その頃娘は写真学校に通っていまして、それで東京に一人でアパートで住んでいたんですね。だからそういう生活が自分でできるほどもう回復していたわけですよ。その時に電話がかかってきて、それで「実はお願いがある」というんですね。それで僕は、「何だい?」と言ったら、「ほんとに言ってもいい?」というから、「いいよ」。それで、「実はベランダにゴミがいっぱい溜まって出せなくて困っているんだけど、取りに来てくれないか」というわけですよね。私も、「あぁ」と思って、「勿論いいよ、行ってあげるよ」と言って、「でもどうして?」と聞いたら、「朝また起きられないんだ」というんですね。それで「夜中のうちに出して置くと怒られる。それで朝気が付くともう行っちゃっていない。で、一つ溜まった、二つ溜まった、とやっているうちにいっぱいになっちゃった」と。三十キロ離れた浦和から東京まで車を飛ばして、そしてそのゴミを浦和まで持って帰って来る。どう考えても、合理的に考えると間尺に合う話じゃないんですけど、その時に私は娘がそこまで心を開いてくれているから、「そうだったら行ってあげるよ」と言って、私、行ったんですよ、世田谷区までね。そしてニコッと笑って喜んでいて、それで荷物をライトバンの車の後ろに積んでね。それで娘と話をしながら帰ってきたわけですね。そうしたら娘がその時、「私って世界中で一番幸せな子どもだと思う」と言ってくれたんですよ。「どうして?」と聞いたら、「だってそうじゃない。この暮れの三十一日の忙しい時にね、わざわざ浦和からゴミだけ取りにこうやって来てくれるお父さんなんてどこにもいないんじゃない」と言われたんですよ。それで、「いやぁ、そういうふうに言ってくれればパパも嬉しいよ」と言って。「でもそういう話がこうやってできるようになったということは素晴らしいね」と言って、それで帰って来たことがあるんですね。ここに彼女の傑作といいますか、本人も一番気に入った写真のようなんですね。これは後ろ姿の子どもなんですが、実は向こう側にお母さんがいるんですね。
 
山田:  そうですか。この顔の見えないのがお母さんですか?
 
東後:  ええ。ところが、そのお母さんが存在するということはわかるんだけど、顔は見えないし、また体も見えないですよね。何かそういう母親の存在、そして子ども、そういう母子の関係の中に自分の何かを写し出したんじゃないでしょうかね。それでその後すぐに結婚して家庭に入って、今は主婦として幸せに暮らしていますけどね。
 
山田:  そういうふうにお嬢さんがなっていかれるのにどれくらいの期間を要したということになりますか?
 
東後:  一番最初に不登校になったのは中学二年生で、それで結婚したのが二十八歳ですから十四年ぐらいかかっているんじゃないですか。それぐらい。
 
山田:  そういうお嬢さんとの関係、そこへいく経過の中で、ご自身は博士論文を目指しておられましたでしょう。そういうことはどういうふうに考えることになったんでしょうか?
 
東後:  非常に悩みましたけどね。ある時期とても葛藤はありました。つまり自分がこのまま自分の研究に集中することで家庭が崩壊し、あるいは場合によっては娘の社会的生命が脅かされるんじゃないか、というふうに感じた時に、人が生きていくうえに、あるいは自分の人生にとってもっとも大切なものは何なのか、ということをもう一度思い起こす、考え直す、そういう時期だったですね。それで最終的に私は、博士論文とかそういうものではなくて、もう一度家族が本来の形になって再生していくということが、私の人生においてもっとも大切なことであり、自分の幸せにも繋がる、と。そういうところに立ち至って、論文は書ければ書けたで良し、書けなければ書けなくてそれも良し、という、そういう心境になりましたですね。
 
山田:  それはとてもその前の一生懸命頂点を目指していらしゃった東後さんの心境からすると、大きな変化ですね。
 
東後:  そうですね。それは大きな変化だったですけど、でも価値観が変われば、つまり人生における物差しが変わったんですね。今まで使っていた私の物差し、それよりも自分自身が神様から頂いたこのいのちをほんとにどのように受け入れて、どのように生きていくのかという、そういうことのほうが大切なんで、人が生きていくうえに、学位の取得というのは必ずしも必要なものではないんじゃないかな、というところに自分の気持ちが落ち着きましたね。まったく葛藤がなかった、と言えば嘘ですけれども、でも今はそんなふうに考えていますね。
 

 
ナレーター:  自分のいのちを受け入れ、ありのままに生きる。その大切さに気付いた東後さんは、言葉の働きの深さにも思い至ります。そして専門領域である英語教育についても考えを深めていきました。二十年来執筆してきた中学校の英語教科書。主人公の中学生が身の周りの出来事を通じて心の成長を遂げていく姿を、三年間のストーリーとして描くことを思い立ちました。今まで取り上げなかったいじめなどの問題も登場します。主人公はいじめに遭っている友だちに声をかける勇気が持てず、クラスメートと共に悩みます。またペットの死に直面し、その悲しみといのちの尊さについて友人と語り合います。自分の心に向き合い伝えようとする主人公の姿を通して、東後さんは単なる英会話の上達だけでなく、子どもたち自身が成長していくことを願っています。
 

 
東後:  私たちの言葉というのは、単に私たちの思っていることを、あるいは為そうとしていることを相手に伝える道具というだけではなくて、もう少し深いところで人の内面、そういうものを育てると言いますか、そういうところに関わっているのではないかなと思うんですね。それで聖書の中に、確かにいろんなところに言葉のことが書いてあるわけですけれども、「ヨハネの福音書」の第一章のところに、
初めに言(ことば)があった。
言(ことば)は神と共にあった。
言は神であった。
 
そういう有名な記述があるわけですが、どうして言葉が神なのか、と。それで、私、いろいろ考えていましたら、まず言葉の本質というのは一体何なんだろうか。もっと分かり易くいうならば、言葉からあるものを取り去ると、言葉が存在しなくなる。さて、そのあるものとは何でしょう?と。なんかテレビのクイズ番組みたいですけれども、そういうふうにまず考えたんですね。そうすると、言葉というのは音声なんですね。ですから、言葉から声を取り除くと言葉が成り立たないですね。言語の実体は声。そしてその声を作り出しているのは声帯。その声帯を振動させているエネルギー源というのは何でしょう? 息ですよね。そうしますと、息、つまり息の源は生きているという、いのちですよね。そしてそのいのちはどこからくるんでしょう?というと、まあいろいろ意見があるかと思いますけれども、仮にいのちの源が「神」というふうに考えますと、一番こちらの端に「神」が来て、そして「言葉」とがイコール(=)になるんですね。「言葉」、そして「音声」、それから「息・いのち」、そして一番こちらに「神」と。で、やはり言葉というのは、ただ単に意志の疎通の道具として、ただ記号のように私たちは日常生活に用いるその側面だけではなくて、もう一つの人と人とが交わる、関わる、あるいは人と人とが心を通わせ合う、あるいはいのちといのちを触れ合わせるというふうな、そういう深いところで、私たちが生きていくということに関わっているものではないかな、というふうにだんだん思うようになってきたんですね。
 
     これは、平成二十年七月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである