露の世の光と闇―小林一茶の死生観―
 
                      俳 人 宮 坂(みやさか)  静 生(しずお)
昭和十二年、長野県松本市に生まれ。信州大学文理学部人文科学国文学専攻卒。中学時代から俳句に親しむ。信州大学で長く教鞭を執り、平成十五年医学部教授を定年退官。信州大学名誉教授。昭和五十三年俳誌「岳」を創刊・主宰し、俳句や評論に活躍中。著書に「子規秀句考」「正岡子規―死生観を見据えて」「俳句からだ感覚」「語りかけて季語ゆるやかな日本」など。句集に「青胡桃」「山開」「山の牧」「宙」ほか。
                      ききて 白 鳥  元 雄
 
ナレーター:  長野県北部、黒姫山と野尻湖の間に広がる信濃町は、北国街道の宿場町として栄えた所です。この信濃町の柏原(かしわばら)地区は江戸時代後期に活躍した俳人小林一茶(いっさ)(本名:弥太郎:1763-1827)の故郷として知られています。一茶は十五歳でこの土地を離れ、江戸に出て俳人として名を成し、帰郷してこの地で没しました。一茶のもっとも古い句碑、
 
     松蔭に寐て喰ふ六十餘州かな
一茶没後の三回忌に建てられたものです。町内だけでも現在百十六基の一茶の句碑があります。一茶六十五歳の夏、柏原に大火が発生し、一茶の家も焼け落ちました。一茶は、焼け残った土蔵に仮住まいしましたが、その年のちに生涯を終えました。町の中心の小高い丘にある小丸山(こまるやま)公園には一茶を偲ぶ建物が建てられています。公園の下から緩やかな段を登って行くと大きな句碑が迎えてくれます。
     是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
               一茶
 
明治四十三年に建てられた一茶俤堂(いっさおもかげどう)。一茶は、自分の俳号を俳諧寺(はいかいじ)とも称したことから俳諧寺とも呼ばれています。五十歳で故郷に戻った一茶は、五十二歳で結婚しますが、妻や子どもに次々と先立たれます。今も多くの日本人に愛されている作品を残した一茶の人生そのものは、辛く厳しい歩みであったようです。若い時から学んでいた仏教の教えが一茶の心の支えとなりました。小丸山公園には、一茶記念館が建てられ、平成十五年には新館がオープンしました。館内には、一茶や一茶を取り巻く俳人たちの資料が集められ展示されています。一茶自身の筆になる俳句と絵。
 
   うまさふな雪やふふはりふふはりと
              人も一茶
 
「人も一茶」とあります。一茶が愛用したと伝えられる硯や矢立、行李なども集められています。一茶没後三回忌に、門人たちによって出版された一茶の句集。俳句や俳文のほか日記や短冊、書簡などもたくさん残っています。今日は一茶の生涯やその人生観について研究しておられる俳人の宮坂静生さんを長野県松本市のご自宅にお訪ねしてお話を伺います。
 

 
白鳥:  小林一茶という方は、私たち昭和一桁生まれの世代から言いますと、ちょうど小学校国語の五、六年のところで出会う人物で、あの頃のことですから国定教科書で、まあ日本の全小学生が知っている俳人ということになりますね。今までも、例えば「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とか、「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」とか調子のいいあの句は覚えていますね。
 
宮坂:  そうですね。「我と来て遊べや親のない雀」とか、私は雪国に住んでいますと、「雪解けて村いっぱいの子どもかな」なんていう、そんな春になった喜びを端的に表した句が覚え浮かびますね。
 
白鳥:  改めて読んでみますと、随分多様な句があるんですね。
宮坂:  そうなんですよね。
 
白鳥:  この軸も「一茶」と署名してありますね。
 
宮坂:  「一茶」ね。題が「豊秋」とありますね。豊作だということですね。
 
     豊秋
     日本の外ヶ濱までおち穂かな
           鳴子も一茶
 
「鳴子も一茶」と書いて、鳴子の絵が上に描いてありますね。この絵も一茶が描いたという。これは一茶の複製なんですけどね。私はこの軸を前にしますと、一茶という人は亡くなって四十一年経って明治維新を迎えるんですよ。だからきわめて幕末に近い俳人ですね。
 
白鳥:  そうですか。「日本の外ヶ濱までおち穂かな」。明治維新の四十一年前とおっしゃいましたね。そうすると、幕末の戦が始まって、いろんな人が「日本は」とか、「大和の国は」という、明治維新より四十一年も前に、「日本」という感覚があったんですね。
 
宮坂:  そうですね。「外ヶ濱」というのは津軽半島の陸奥(むつ)湾のことを古く呼んだ名称ですから、そうしますと、日本の国は外ヶ濱が日本の一番外れだというような意識があったんでしょうね。そこも落ち穂拾いをするくらい豊作だ、というんですね。
 
白鳥:  おめでたい詩ですね。
 
宮坂:  なかなか「豊の秋」という表題だけに、そんな日本を讃えた俳句なんですが、これがその頃相継いで外国船が、特に蝦夷(えぞ)地北海道辺りへやってくるというような、そういう一つの海外問題が世間の注目を浴びていた時ですからね。例えばゴローニンなんていうロシアの海軍士官が国後島(くなしりとう)に上陸して捕まるというような事件(日本の江戸時代にあたる一八一一年、ロシアの軍艦ディアナ号艦長のゴローニンが日本に抑留された事件)があったわけですから、こんな外ヶ濱とか、日本というふうな一茶のきわめて現代的なテーマ―流行に敏感な一面が現れているでしょうね。一茶の俳句は生涯に二万句も作っているんですよ。
 
白鳥:  二万句は俳句作者として多いほうですか。
 
宮坂:  多いですね。芭蕉が大体九百八十七、蕪村がおよそ三千と言われますから多いですね。
 
白鳥:  江戸期の三人を並べても、二万というのは凄い創作力ですね。私も文庫本に収められた二千句を一生懸命読みました。その量が―二万句とおっしゃいますと、この十倍。そして多様性みたいなものにほんとに感心しましたね。
 
宮坂:  『一茶文集』―これは矢羽勝幸(やばかつゆき)さんを初めとして丸山一彦(まるやまかずひこ)先生やたくさんの方が出された実に立派な全集で、この全集が出て一茶研究はぐっと進みましたね。しっかりした全集ですね。
 
白鳥:  八巻と別巻がある。これだけ膨大な作品群がある。
 
宮坂:  そうなんですね。作品の他に、例えば一茶は俳諧師ですから連句も二百五十巻巻いていますし、それから俳諧歌というような歌も四百あまり作っていますね。その他にたくさんの文章を書いています。それからメモ魔ですよ。絶えず一茶は句帖を持っていて、それにメモを付けている。ですからほんとに多様な作品活動を送った俳人ですね。
 
白鳥:  生い立ちというのは必ずしも幸せなものではなかったようですね。
 
宮坂:  そうですね。大きく分けますと、十五歳まで信州の柏原という北信濃におりまして、それから三十六年間江戸を中心にしてこの故郷柏原以外に住んでいます。それから帰って来てから十四年間柏原に定住して、そして六十五歳で文政十年に人生を終わるという。十五年、三十六年、そして十四年という、こういう区切りが一茶の生涯にはできますね。
 
白鳥:  生まれて十五年で故郷柏原を離れなければいけなかったということは、どういうことなんですか。
 
宮坂:  それはお母さんが、一茶が三歳の時に亡くなられまして、で、おばあさんがおります。そのおばあさんに八歳まで育てられ、大変可愛がられたんでしょうね、おばあちゃんっ子なんですね。それから八歳の時に継母が来まして、そして二年経って、その継母に子どもが生まれるんです。つまり一茶の弟ですね。十歳違いの弟が生まれる。そうしますと、自ずからやはり実の子どものほうに母親の愛情は移りますからね。先妻の子どもであった一茶がだんだん辛く当たられるということなんんでしょうね。ところがおばあさんが、一茶が十四歳の時に亡くなってしまうんです。父親はほんとに気のいい働き者の父親だったんでしょうけれども、やはり自分が迎えた継母との関わりが勿論深いですから、一茶になんとかしなくてはいけないということで、十五歳で長男でありながら柏原を出ることになるんですね。
 
白鳥:  その頃は十五歳で余所の土地へ稼ぎに行かなければいけない子どもも多かったかも知れませんけど、小林一茶の場合には、むしろ経済的な問題よりも家庭内の新しい母との葛藤みたいなものがあったわけですね。
 
宮坂:  そうですね。小林一茶のお宅は柏原の中では必ずしも貧しくないんですよ。中の上くらいの―これは長野の小林計一郎(けいいちろう)さんという地元の研究者が明らかにしていますけれども、柏原の本百姓百三十八戸のうち、石高で順番から言いますと四十七番目と言いますからね。そんなに貧しいお宅ではない。ですから食べるに困るとかというようなことはなかった。稼ぎ手というのではなくて、奉公ではなくて、やはり家庭問題でしょうね。
 
白鳥:  痛々しい江戸出発だったんですね。
 
宮坂:  そうでしょうね。父親が自分を護ってくれなかったという父親に対する思いと言うのは、ある屈折した思いとして出てきますね。後から父親の看病のためにたびたび江戸から帰って来ますから、父親に対する愛情は勿論深いです。けれども、必ずしもそれは単純なものではない。
 
白鳥:  江戸へ行った一茶は、どういうことになりますか。
 
宮坂:  江戸へ行きまして、二十五歳で「一茶」という号で初めて俳句が明らかになる。それは信州の佐久(さく)の俳人のお祝いの句として一茶の句が初めて「一茶」の号で出るんです。芭蕉の友人に山口素堂(やまぐちそどう)(1642-1716)という友人がありまして、素堂は「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という句でも知られています。葛飾(かつしか)にいましたものですから、葛飾派葛飾蕉門(しょうもん)というんです。その素堂の系統に二六庵竹阿(にろくあんちくあ)(1710-1790)という俳人がおりまして、その二六庵の門へ入ったようですね。ですから必ずしも羽振りの良いというか、今を時めくような派ではないわけです。
 
白鳥:  一茶の名前が出てきたのが二十五歳で、十五歳から二十五歳までの十年は?
 
宮坂:  何をしたのかわからない。だからその間に一茶が俳諧というものに馴染んだということはたしかですね。それで江戸に三十六年間いるうち、西国へ―四国、九州、さらに帰ってきまして、大阪、京都という関西の方へ、西国旅行を足かけ七年間やるんですね。その時も二六庵竹阿先生がちょうど亡くなったものですから、二六庵先生の遺稿集『其日ぐさ』を携えながら、二六庵先生の門人たちのところを廻るような形で、各地の有名な名のある俳人のところを七年間転々としながら、修行したといいますか、勉強したといいますか、世間が広くなると同時に、一茶自身も鍛えられて一茶の作力があがってくる。名前も広まるということですね。
 
白鳥:  その頃の俳句を見ますと、江戸下町の裏店(うらだな)で住んでいた貧乏の俳人が食べていけるようになったんでしょうかね。
 
宮坂:  どうもなかなか食べていくのは難しかったようですね。『一茶園月並(いっさえんつきなみ)』なんていう宗匠になるための俳句を集めて、そして今度は冊子を作りまして、それを配るというようなことを一年間ぐらいやっていますね。必ずしもそれが成功しない。それで今おっしゃった下町の蔵前にいた有名な俳人の夏目成美(なつめせいび)(1747-1816)の門に入るんですね。
 
白鳥:  とにかくそういう形で江戸で頑張っていたんだけれども、三十六年間江戸で頑張った末にこちらへ戻るというのは、どういうきっかけですか。
 
宮坂:  それは父親が亡くなったのが、一茶が三十九歳です。その父親が臨終の枕元で、「弟仙六と財産を折半するように」という遺言を残してくれたんですね。その父親の財産を自分のものにしたいということで、これから実際に父親の遺言が実行されるまで十三年間の間、継母と弟を向こうにまわしながら、一茶は江戸から絶えず帰って来て交渉する。その父親の遺言にしたがって財産の折半の話がついたのが文化十年、つまり一茶五十一歳の時です。
 
白鳥:  五十一歳になってからやっと落ち着いた。
 
宮坂:  そういうことです。家を―一茶は屑家と言っていますが―家を南半分、田畑が三石六斗、それから山林少しというような形で財産を貰う。その土地は弟仙六が小作しているという形ですね、言ってみれば。だからその小作料のようなものを要求するんですよ。
 
白鳥:  しぶとい一茶なんですね。そういう一面はあまり知らなかったですね。
 
宮坂:  結局それも三十両要求して、十一両二分というふうな形で小作料も貰うことができた。先ほど申した通り家屋や田畑も折半して貰えた。それが五十一歳。それから十四年間の柏原生活が始まるわけです。
 
白鳥:  避けたい骨肉の争いですけれども、それが解決して、彼は柏原の村に住む。根城(ねじろ)ができるわけですね。
 
宮坂:  そういうことですね。根城ができますと、今度は結婚するわけです。一茶五十二歳で、きくさんという二十八歳の奥さんを迎えた。一茶は自分自身の子どもを残したいという思いが痛烈だったんでしょうね。その奥さんのおきくさんとの間に長男千太郎という長男が生まれる。ところが長男は生後二十八日ぐらいで発育不全で亡くなってしまう。さらに今度は長女さとが授かる。この長女さとが一年二ヶ月生育するわけです。そのさとも結局天然痘で亡くなってしまう。その長女さとを亡くした悲しみを中心にして描かれたのが『おらが春』という一茶の代表的な句文集なんです。さらにその後次男の石太郎が生まれる。盤石の命を授かってほしいという思いで石太郎という固い名前を付けるんですよ。この石太郎も働き者のおきくさんの背中で九十六日で窒息して亡くなってしまう。働いている最中に亡くなってしまうんですね。可哀想ですよね。それから今度はさらに三男の金三郎(こんざぶろう)が授かるんですけども、一年九ヶ月で栄養失調で亡くなってしまう。その前におきくさんが産後の肥立ちが悪くて、きく自身も亡くなってしまうんですね。愛する妻も亡くなってしまう。その中でさらに二番目の奥さんを迎えますが、二番目の雪さんという奥さんとは二ヶ月ぐらいで離婚していますから、肌が合わなかったんでしょうね。そして一茶が亡くなる一年前に、三番目のやをさんという奥さんを迎えることになる。ちょうど柏原の小升屋という旅籠に奉公していた三十二歳の女性です。倉吉という一子を連れて結婚する。その三番目の奥さんのお腹に、一茶が亡くなった翌年生まれたやたという子どもさんが一茶の血筋を継ぐことになる。生まれたのは一茶が亡くなった翌年ですからね。
 
白鳥:  次々に生まれた子どもが次々に早死にしていく。そして奥さんのきくさんも死んでしまう。その不幸の中で句集を見ていますと、病とか老いという句もだんだん多くなってきますね。
 
宮坂:  そうですね。
 
白鳥:  彼自身もなんか病気をしたようですね。
 
宮坂:  そうです。中風で倒れて、そして回復するけれども、言語が不明瞭になる。その言語が不明瞭になり、中風になりながら、なおかつ一茶社中を巡って俳句の指導をして歩いているんですよ。
 
白鳥:  執念ですね。
 
宮坂:  執念ですね。そういう中で一茶は文政十年、六十五歳の年に柏原の大火によってお宅が焼けてしまった。土蔵だけが焼け残る。その土蔵で息を引き取るという。
 
白鳥:  悲痛な人生ですね。
 
宮坂:  悲痛な人生ですね。逆境というか、悲痛というか。私は一茶の俳句というのは、何か「光」と「闇」と言うような二つの面から一茶の俳句が見れるんじゃないかという気がしているわけです。
 
白鳥:  悲痛な人生があったからこそみたいな光と闇ですか。
 
宮坂:  そういうことですね。自分の一つの苦しみ悩み、そういうふうなものを闇として見つめながら、なおかつ光を求めるというか、そこに一縷の夢と言いますか、理想と言いますか、光を求めるところに一茶の俳句の本質があったんじゃないか、と。
 
白鳥:  先ほど「多様な」という大雑把な言葉で、私は言ってしまったんですけど、「光と闇」ですか。
 
宮坂:  そんな感じがしますね。例えば先ほど「家を折半する」なんていう話をしましたけれども、そういう俳句があるんですよ、一茶の句の中にね。
 
     鶯や家半分はまだ月夜
 
これは五十一歳の頃、父親の家を半分に折半して貰いましたね。だから家半分というのは一茶にしてみれば大変重い意識としてあったんですよ。一方では鶯が鳴いて春の朝が来ている。一方ではまだ月夜だ、というんでしょう。ですから鶯が鳴いて春が来た。そんな朝を早く迎えた。そうすると早起きの人の気配が感じられますね。ところがこっちは夜でまだ眠っている、休んでいる、という句なんですけどね。よく考えてみますと、鶯が来て、「早起き者の」というのは弟の家かな。あとまだ月夜というのは我が家ですかね。だから闇と光というような、ちょっとこれは構図的な鮮やかな句ですけども、こんな句も私は「家半分」という言葉にかなり拘りますね。さらに、
 
     名月の御覧の通り屑家哉
 
これは「屑家也」という句形もありますけどね。「屑家」という言葉は、我が家を屑家と見た。茅葺きのお宅でしょうけどね。その「屑家」という言葉自身も、その屑家を巡って相続争いをした、という感慨が勿論あるんでしょうね。その上を名月が照らしているという。光と闇という鮮やかな一つの対比ですね。
それから私が大変好きな句は、
 
     秋風にふいとむせたる峠かな
 
というんですよ。これは私は単なる風景句ではないんだろうと思うんですね。なんか一茶自身が、先ほど申した通りの人生を送りながら、生きるということがもう既に罪を犯しているんじゃないか、というような意識が彼の中にないと、こんなふうには詠めないんじゃないか。つまり常に自分自身を見つめながら山道を歩いてくる。ふっと峠に差し掛かって、秋風にむせかえる。その香煎(こうせん)にむせかえるように、なんか秋風にむせかえった、というんですけどね。そんな秋風にむせかえる、なんていうのは、既に心の闇というふうなものを見つめ続けなければ、ふっと秋風にむせかえるなんていう体感覚、自分の体でもってこんな秋風を引きつけて詠むことはできない。芭蕉だったら、「秋風や藪も畠も不破の関」というこんな句を残している。秋風というと歌で有名なのは、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(古今集・秋上・一六九)という古今集の藤原敏行(ふじわらとしゆき)の歌ですけれども、そういうふうな秋風とは違うんですね。
 
白鳥:  体で感じて、反応して、と言いますか。
 
宮坂:  体で感じている、反応している。ですからそういう反応の仕方というのは、そんなふうに自然の秋風を自分に引きつけるというのは、引きつけるだけの自分の中に闇と言いますか、暗さと言いますか、自分をこう見つめている。そういう一つのある業(ごう)の意識というものがないと、風をそんなふうに捉えることはできないんじゃないか、という気が致しますね。
 
白鳥:  心にわだかまる肉親の争いを抱えながら、山道を歩きながら、ふっと感じるものね。
 
宮坂:  新しい句ですね。一茶にして、こんな秋風というのが発見されたという感じが致しますね。一茶のそういう客観的に自分を掴みながら、なおかつ生身の人間として叫びが現れたのは、可愛がっていたさとが亡くなった時の句ですよ。
 
     露の世は露の世ながらさりながら
 
という。文政二年、さとが亡くなった時のことを振り返って作った句というのは、俺の人生は凄くムダ歩きだったんじゃないか、というふうなことを思っていた。またそれまでの自分とは違う、言うに言われない叫びのような形にして、この句は作られていますね。この世は露の世とは言え、その露の放つ一条の光にすがり生きるものが、その光にも見放されて闇に落ちていく悲しみ、そういうものがひしひしと読み手に伝わってきますね。
 
白鳥:  今の「光と陰」という二項対立みたいな句は、もう少し変わっていくことになるんでしょうね。
 
宮坂:  そういうことです。一つになるんですね。それまでの二面的なものが一つに変わってくる。そういう句が出てきますね。一つになった形としては、例えば、
 
     春立や愚(ぐ)の上に又愚にかへる
 
の句がありますね。
 
白鳥:  これは文政六年の初春の句なんですね。
 
宮坂:  そういうことですね。「春立や」ですから、初春の詩ですね。還暦を迎えた時の句なんですけれども、これはいよいよ齢(よわい)を重ねるということは愚の上塗りをすることだ、ということを新年の闇を見つめながら言っているという、凄い句ですね。
 
白鳥:  この時に彼が言っている「愚」というのは、どういう観念なんですか。
 
宮坂:  そうですね。自分が業(ごう)にとらわれているその姿がもう見えなくなっている、自分の目にはね。本当の自分の姿が見えなくなっている。だから「無明(むみょう)」と言ってもいいし、「愚」と言ってもいいと思うんです。一茶自身が、「自分自身は無明の鬼ではないか」というような、これも一茶の言葉というよりも、一茶が引用した古典の中の言葉ですけど、一茶自身「自分が無明の鬼だ」という言葉を遣っていますね。そこに私は愚という本当の姿が自分にはわからなくなっている一茶がいる。一茶自身が浄土真宗の大変篤い信者ですからね。親鸞さん自身が愚禿親鸞(ぐとくしんらん)、と。自分を愚禿だ、という、その親鸞の自称というのは一茶にこう強く響いているんでしょうね。
 
白鳥:  そうすると、この「愚」というのは、むしろ宗教的な観念ですか。
 
宮坂:  そういうことだと思いますね。一茶も大変向学心が旺盛で、雑学的な知識欲からたくさん宗教書も読んでいますね。それはお父さん自身が熱心な門徒でしたし、柏原自体が九十パーセント近くがみんな真宗の信者ですよね。
 
白鳥:  雪深い信越国境の辺りはね。
 
宮坂:  そうですね、環境から。そういう中で、例えば空海の『三教指帰注(さんごうしいきちゅう)』なんていう本も実際読んでいるんですよ。難しい本です。これは仏教が一番勝れているということを空海が説いている。さらに親鸞さんとか、蓮如(れんにょ)さんの本というのは、一茶は何冊か繙いています。「正像末(しょうぞうまつ)浄土和讃」「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」、それから「御文(おふみ)」というふうなものをかなり熱心に読んでいた。だから雑学的な知識の旺盛ということではなくて、実際それを読んで消化しているんでしょうね。
 
白鳥:  それだからなんでしょうけども、辞世の句に近い句がありますね。
 
     花の陰寝まじ未来が恐しき
 
この「未来」という言葉を一茶が遣っているのも、私には非常に事新しい感覚がしたんですけど、これなんかは宗教的なというか、浄土教的なと言いますか、そういう感じがしますね。
 
宮坂:  そうですね。これは私も凄い句だなと思いますね。「未来」というのは死後の世界でしょうかね。死後の世界に極楽があるなんていうことは信じない、と。死後が自分には恐ろしい、というんでしょうね。それだけ現世―此の世に執着してきた自分にとって、俺のこの六十五年間の命終を前にして思った思いがこれだというんですね。ですから西行(さいぎょう)(1118-1190)は、ご存じの通り、「願はくば 花の下にて 春死なん」という、実に上手いことを言ったけど、「俺は花の下陰でもって寝釈迦のようになって寝たいな」とは思わない。そういう一茶のほんとにこの世に執着する気持。こんな最期の辞世の句に纏めたんでしょうね。未来が恐ろしいという。
 
白鳥:  先ほどさとという長女を亡くした時の、「露の世は露の世ながらさりながら」という、その悲痛な詩、愚の辺りから、一茶は変わっていった、というお話をなさっていましたけれども、やはりあの辺から今お話になったような宗教的な、それまでの基盤に蓄えてきたいろんな知識や、あるいはもっともっと肉体的にお父様から伝えられたようなものを含めて、そういったものはやっぱりだんだん構築されていく。それが表現の中にも表れていく、ということなんですかね。
 
宮坂:  そうなんでしょうね。ですから『おらが春』というのは、一茶の死生観―生と死を考えるうえで、ほんとによくできた句文集ですね。ここにあります『おらが春』は第五版で明治十一年に信州の中野の白井一之(しらいいっし)さんが出版したもので、中味は一茶の自筆の、その版木なんです。『おらが春』というのは、さとが生まれた年に、さとの成長を讃えるような意味で書き出しているんですね。ところがさとが一年二ヶ月で亡くなってしまうんです。で、初めに書き出した文章を、そのさとの死に遭って変えるんですね。それは『おらが春』の特に冒頭が変わっているわけですね。どういうふうに変わっているかと申しますと、『おらが春』の冒頭を見てきますと、京都の普甲寺(ふこうじ)というお寺の上人が二十五菩薩の来迎に憧れて自作自演の狂言をするわけですよ。つまり元旦に自分を二十五菩薩が迎えに来てくれたんだ、というようなことを小僧にやらせまして、自分もほんとにそんな気持になるわけですね。
 
白鳥:  「上人裸足にてをどり出て」などと書いていますね。
 
宮坂:  そうです。それで「弥陀仏をたのみに明て今朝の春」なんていう、一茶はそういう句を作っているんですけど、ところがさとが亡くなった後変わるんです、その句自身が。「弥陀仏をたのみに明て今朝の春」を変えて、「目出度さもちう位也おらが春」にしまして、そしてお上人さんの自作自演の芝居というのは、あれは一茶が初めに書いた文章では、素晴らしい上人さんの行為だ、と讃えている。ところが書き直してからは、そのような上人さんの如何にもデモンストレーションといいますか、それがあまりにも自分にはそぐわないと、
 
白鳥:  「口上めきてそらぞらしく思はるる」と書いていますね。
 
宮坂:  そういうことですね。だから阿弥陀さまを迎える、阿弥陀にすがる、そういうお坊さんの評価をまったく変えちゃっている。
 
白鳥:  有名な「目出度さもちう位也おらが春」という句も、最初は違っていた?
 
宮坂:  そうです。阿弥陀さまを讃える句だったんですけどね。「弥陀仏をたのみに明て今朝の春」という。そして最後のところが一茶の一番言いたいところなんですね。
 
     たゞ自力他力、何のかのいふ芥(あくた)もくたを、
     さらりとちくらが沖へ流して
     さて後生の一大事は、其身を如来の御前に投出して、
     地獄なりとも極楽なりとも、あなた様の御はからひ次第、
     あそばされくださりませと、御頼み申ばかり也。
                  (『おらが春』)
 
こういうような信心を持っていれば、「あながち作り声して念仏申(もうす)に不及(およばず)。願はずとも仏は守り給ふべし。是(これ)則(すなわち)当流の安心とは申(もうす)也(なり)」と言って、「ともかくもあなた任せの年の暮」が出てくるわけですよね。
 
白鳥:  これは字もなかなか読みづらいんですが、「たゞ自力他力、何のかのいふ芥(あくた)もくたを、さらりとちくらが・・・」
 
宮坂:  「ちくら」というのは、日本海の果てという意味でしょうね。日本海の果てに流してしまって、ただひたすら自分は如来の前に自分自身を投げ出して、地獄へ持っていってくれても、極楽へ持っていってくれても、あなたさまの御はからい次第だ、と。すべてを任せると。そういう態度でいえば、「最後は念仏だって唱えなくていい」というんですよ。
 
白鳥:  そうすると、『おらが春』を、彼は纏めることによって、ちょうどその途中で起こったさとの死という、自分の人生体験の中で一番辛いものを通して、本当の他力本願に到達したんだ、ということですか。
 
宮坂:  そういうことですね。最愛の娘を失うことによって、自分自身が一つの他力本願の思想をほんとに肌身につけていくというか、深化されていく、そのことが具体的に俳諧の資料にも表れているんですね。ただ自分自身のそういう悟りだけの中にではなく、『芭蕉会偶感(ばしょうえぐうかん)』という俳諧の資料に表れている。それが一茶の北信濃の社中、長野市の長沼というところにある。
 
白鳥:  一番の勢力だったみたいですね。
 
宮坂:  そうです。そこに三十人近い一茶の門人たちがいたという。その俳諧指導そのものが、縦の師弟関係ではなくて、横の仲間としての、同朋としての一つの句会の形式―これはある種の浄土真宗の講の組織ですね。
 
白鳥:  横文字を遣えば「ユニオン」と言いますか。
宮坂:  そういう感じですね。これは一茶記念館に掛かっている軸なんですけど、「俳諧寺十哲画像」という長沼の門人たちの寄せ書き(長沼一茶門人連衆寄書)を集めた、長沼の農民であり、絵描きであった村松春甫(むらまつしゅんぽ)(1772-1858)さんの描いた大変名高い絵がありますね。
 
白鳥:  真ん中が一茶ですね。
 
宮坂:  真ん中が一茶ですね。一茶を囲んで、春甫さんは一番左側の前の硯を前にしている方ですね。
宮坂:  みんな平場に顔を寄せ合って、というような、
 
白鳥:  顔を寄せ合ってね。一茶の句を御覧頂くと、
 
     やれ打つな蠅が手をすり足をする
 
それぞれみんなご自分でこう句を書いたものですね。これはなかなかいい軸だな、と思いますね。
 
白鳥:  先生がおっしゃった「講的な」と言いますか、ユニオン的な座の持ち方というのは、これは俳諧の世界では、
 
宮坂:  珍しいでしょうね。ですから『芭蕉会偶感』という、たまたま長沼の経善寺(けいぜんじ)で開かれた十月十二日の芭蕉の追悼―芭蕉会ですね。時雨忌という。そこに集まった人たちにこう言っているんですよ。芭蕉会をやるために門のところに簑や笠が掛けてあって時雨忌だから濡らしてあったという。ところが、「濡らすなんていうのは作為的だ。そんなことはするな。自然なほうがいい」ということを書きまして、こういう文章があるんです。その一節としては、
 
     我宗門にては、あながちに弟子と云ず、師といはず
     如来の本願を我も信じ、人にも信じさすことなれば、
     御同朋、御同行とて平坐にありて讃談するを常とす。
     いはんや俳諧においてをや
                 (『芭蕉会偶感』)
 
という。
 
白鳥:  「我宗門にては」というのは、つまり浄土真宗の、つまり一茶が小さい時から薫陶を受けてきたその宗門をまず説いて、さらにその最後のところで、俳諧の道はなおさらのことだ、というような、こういう論理になるんですかね。
 
宮坂:  そういうことですね。すべて先生もお弟子も同じ仲間だ、友だちだ、同行だ、という考えですね。こんなことを書き残した俳諧の指導者は一茶をおいていないですね。
 
白鳥:  すべてを「御同朋、御同行」と捉える。
 
宮坂:  そういうわけですね。
 
白鳥:  一茶は実践していったわけですか。
 
宮坂:  実践していったんでしょうね。ですから一茶自身の句会というのは、必ずしもそれで上手くいったかどうか、というとなかなか難しいですね。先生がいて、お弟子がいて、というふうに統制のとれた形じゃありませんからね。仲間ですからね。ですから一茶が元気なうちはいいけれども、一茶が亡くなっちゃうと、その組織というのはちりぢりバラバラになっちゃいますものね。だけどほんとに抜きん出た一つの考え方―句会組織の―それは一茶の一つの死生観というか、『おらが春』で一つ深められた「あなた任せの思想」と言いますか、「自然法爾(じねんほうに)」というか、その考え方がここにも表れている。
 
白鳥:  ものを作る、創作する時に、全部の人がご同朋ご同行という、平らな位置で言っている。一つの理想型として、一茶はそれを宣言していた。
 
宮坂:  そういうことですね。一茶の大変貴重な資料が見つかりましてね。真筆はまだ出てこないですけど、写しが、多分はこれは一茶のものだ、というふうに言われている資料が見つかりましたものですから、しばらく前からこれは大変大事な貴重な一茶の考え方だということになっています。実は「一茶」というペンネーム自体―二十五歳の時に初めて使ったと申しましたけれども―このペンネーム自体が、白波に翻弄される泡(あぶく)のようなものだ。儚いものだ、ということで、「一茶」というふうに名付けたようですね。『寛政三年紀行』という紀行文に出てきます。そしてさらに一茶は別のペンネーム「菊明(きくめい)」とか、「菊明坊一茶」という号を持っているんですよ。「菊明」というのは『方丈記』の著者、菊大夫長明(きくたゆうちょうめい)(鴨長明(かものちょうめい))の「菊」と「明」をとって「菊明」と言っている。ですから『方丈記』の作者鴨長明の考え方にかなり共鳴いているという点があったんじゃないですかね。
 
白鳥:  無常観みたいなものがね。
 
宮坂:  そういうものがベースにあったんでしょうね。その無常観が初めは何かやや上着のように着ていたものではあるけれども、だんだんそれが身に付いてきたというか。ちょうど定住してから後、さらに「俳諧寺(はいかいじ)」というペンネームも使っているんですよ。柏原にも俳諧寺という、のちに作られた建物がありますけどね。
 
白鳥:  それはやはり文化十年前後の定住した頃から、
 
宮坂:  そういうことですね、その年辺りからね。
 
白鳥:  先ほどの、「こういうふうにやろうじゃないか、我宗門にては」という、あの長沼の例の一種の宣言と同じ頃なんですね。
 
宮坂:  そういうことですね。ですから「俳諧寺」というのは、「俳句と仏道も一つだ」という、そんな境地を象徴する言葉ですよ。そう考えますと、一茶自身「なむあみだぶつ」というふうに名号を唱えること、念仏はしなくてもいいよ、といったけど、その「なむあみだぶつ」という念仏を唱えるということ、それが一茶にとっては、俳句を作ることだったんじゃないか。
 
白鳥:  「作り声して念仏申すに及ばず候」というところですね。
 
宮坂:  そうですね。「俺には言ってみれば、俳句が仏だ」という、そういう思いと言いますか、それがペンネームにも、それからそのようなことが『おらが春』の大事な文中にも入っていますね。芭蕉が、最後に「日々旅にして、旅を栖(すみか)とす」という『奥の細道』の冒頭のあの文が芭蕉の哲学だった。同じように一茶は、「念仏を唱えることが俳句だ」という、そこに一茶の生涯を懸けた行き着いた哲学と言いますか、思想と言いますか、死生観が表れているんだと思いますね。
 
白鳥:  こうやって伺ってきますと、私の小学校時代の教科書でイメージした一茶とは全然違うところまで歩いてきたような感じ致します。ほんとに今日はいろいろ有り難うございました。
 
宮坂:  どうも失礼致しました。
 
     これは、平成二十年十月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである