観音の道を歩む
 
                     西国三十三所第二十九番札所
                     松尾寺名誉住職 松 尾(まつお)  心 空(しんくう)
一九二八年、大阪府堺市生まれ。京都大学文学部哲学科卒。一九五五年、西国二九番札所松尾寺住職となる。昭和三十二年バスによる霊場巡礼をはじめ、昭和六十二年、西国三十三所観音霊場の法灯リレーをきっかけに、古道のみを徒歩で歩む巡礼に変えて実践。「アリの会」を主宰している。著書に「人生往来手形」「人生まんだら三十三話」「猫と和尚さん」「西国札所古道巡礼」「人はなぜ巡礼に旅立つのか」ほか。
                     き き て   西 橋  正 泰
 
西橋:  京都府舞鶴市にあります松尾寺(まつのおでら)にお邪魔しています。福井県との境の青葉山の中腹に位置します西国三十三所の第二十九番札所、創建千三百年のお寺です。そちらの名誉住職でいらっしゃいます松尾心空さんは、西国巡礼五周を含めて、ざっと七千キロの徒歩巡礼を続けてこられました。今日はそのご体験を通して徒歩巡礼の意味などをお伺いしたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
 
松尾:  どうぞよろしくお願い致します。
 
西橋:  御本尊は馬頭観世音(ばとうかんぜおん)で、七十七年ぶりのご開帳だそうですね。
 
松尾:  はい。前回は昭和六年でございまして、爾後機会をなかなか得ることができず、この千三百年という節目を迎えましたので、この機会に是非ご開帳を、ということで七十七年ぶりのご開帳をさせて頂きました。
 
西橋:  秘仏ということで、普段はお前立を通して拝ませて頂く、
 
松尾:  はい。宮殿(くうでん)といいまして、宮殿に秘仏はいつも扉を閉じてお祀りしております。さる十月一日に七十七年ぶりの開帳ということで、みなさん方の前に拝んで頂くようになりました。
 
西橋:  先ほど拝ませて頂いたんですけれども、お顔はちょっと恐い顔をしていらっしゃいますね。
松尾:  観音様は慈悲のお顔ということが一般的に理解されておりますけれども、馬頭観音様は馬頭明王とも申します。観音様であると同時に明王でもあるというのは馬頭観音様だけで、明王様というのは、不動明王、愛染(あいぜん)明王、いずれも忿怒(ふんぬ)の姿をなさっておられます。従って馬頭観音様は慈悲に兼ねて忿怒、そういうお顔でございますので、自ずと厳しいお顔になるわけです。
 
西橋:  七十七年前に生まれた方が今年喜寿ということになりますね。この一年間ご開帳で拝むことができる。
 
松尾:  前回の時は一週間のご開帳でございまして、十万人の人出がございました。ご承知の通り、車社会になりましたので、こういう山では駐車場も限られてきますので、一年間のロングランということになったんです。
 
西橋:  千三百年のお寺で、あそこに大きな木がありますね。
 
松尾:  そちらの木は鳥羽天皇のお手植えの木だと伝えられております。一一一九年(元永(げんえい)二年)にこちらへ来られたという言い伝えがございますが、その時のお手植えの公孫樹(いちょう)の木です。
 
西橋:  大きな公孫樹の木ですね。こちらには大きな杉がありますね。
 
松尾:  細川忠興(ほそかわただおき)が肥後の藩主になります時に、ここへ植えていったと言い伝えられております。
 
西橋:  あの石段はちょうど三十三段になっていますね。
 
松尾:  偶然にも三十三段ありまして、私は徒歩巡礼致しますためのトレーニングというような意味で、毎朝ここを上がり下りするのを一つの私の日課に致しております。
 
西橋:  トレーニングをなさって七千キロを歩かれたわけですね。
 
松尾:  左様でございます。
 
西橋:  じゃ、あちらの方丈でお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
 

 
西橋:  こちらは西国三十三所の第二十九番札所ということで、西国三十三霊場の概要を少しお話頂きたいんですけれども、この松尾寺(まつのおでら)はここですね。舞鶴市にある二十九番札所で、一番は和歌山県にある青岸渡寺(せいがんとじ)(那智山)ですね。那智の滝のあるところですね。ここから二番が和歌山の紀三井寺。いろいろあるんですけれども、最後の三十三番札所は岐阜県にある華厳寺(けごんじ)になりますね。
 
松尾:  通称は谷汲山(たにくみさん)と呼ばれていますね。
 
西橋:  谷汲山華厳寺。全部観音様をお祀りしてあるお寺ということですね。
 
松尾:  はい。観音経の中に、観音様が三十三に姿を変えて人をお救いになる、ということが説かれておりますので、それに因(ちな)んで三十三の観音様をお祀りした寺を選んで巡礼する、というしきたりが生まれたわけです。
 
西橋:  この松尾寺はご本尊が馬頭観世音菩薩ですが、
 
松尾:  類型的には、千手観音(せんじゅかんのん)様、如意輪観音(にょいりんかんのん)様、聖観音(しょうかんのん)様とか、いろいろあるわけですけれども、二十九番の松尾寺は馬頭観音です。
 
西橋:  三十三の観音様の中で、特に松尾さんが心に残る観音様をいくつかあげて頂けますか。
 
松尾:  強いてどうということはないんですけれども、やはり五番の葛井寺(ふじいでら)さんの十一面千手観音というのは、奈良時代の素晴らしいもので代表的なものじゃないかと思いますね。
 
西橋:  観音様の観世音(かんぜおん)という仏様は、どういう仏様なんですか。
 
松尾:  簡単に言えば、世音を観る、と。俗世間のいろんな願い事やお頼み事を聞き入れてくださる。それが観音様のお慈悲だ、というふうに言われているわけですね。いろんな苦悩を転換して心の安らぎにもっていく、という。それが観音様そのもののお慈悲を我々が実行しているということでもあろうと思います。同時に仏教では「入我我入(にゅうががにゅう)」という言葉があります。自らが仏に入り、仏が自らに入って頂く。観音様と自分とが一体になる。世音を聞いて頂くことが、我々がその世音を遂げていくんだ、というような思いがその中にあるわけですね。これが観音信仰ですけども、これは繰り返し繰り返し観音様に念仏するということが大事なんで、お経の中に、
 
     朝念観世音(ちょうねんかんぜおん) 暮念観世音(ぼねんかんぜおん)
     念念従心起(ねんねんじゅうしんき) 念念不離心(ねんねんふりしん)
 
という言葉があります。朝(あした)に観音様を拝み、夕べに観音様を拝み、絶えず心の中に観音を呼ぶ。そうした心から始めて、いわゆる心の錬金術ですね、苦から安らぎに至るという。喩えが卑近な例になりますけれども、「納豆は繰り返し繰り返し練るほど良い味が出る」と言いますけれども、観音様に一生懸命念仏しているのは、いわば本当の心の熟成言いますか、醸をし遂げていくための一つのてだてなんだとこういうふうに考えるわけです。
 
西橋:  そうやって観音霊場を廻られる時に、こういう笠を被(かぶ)って歩く。この笠に文字が書いてありますね。これをちょっと教えて頂けますか。
 
松尾: 
     本来無東西 (本来東西無し)
     何処有南北 (何処(いずく)にか南北ありや)
     迷故三界城 (迷ふが故に三界の城)
     悟故十万空 (悟るが故に十万空)
 
こういうような言葉があるわけですけれども、私の解釈では、「東西南北」というのは、それぞれの社会的な地位とか、貧富というようなことを意味するのに対して、「本来無東西」だと。死装束した白衣の姿はみんな平等なんだ、という意味で仏様の前ではみんな平等の一人の人間としてあるく、というような意味を込めていると私は理解しているんです。北極に立てば全部南方なんですね。南極に立てば全部北方なんです。同じように一つの局所に立てば、みな同じ仏の前の一人の人間だ、と。そういう姿を具現しているわけです。いわばこの世のいろんな世俗を脱ぎ去った、そういうことを強調している。
 
西橋:  歩いているうちに傷んだりして、こうテープが貼ったりしていますね。そしてこの杖ですが、七千キロの間には何本も?
 
松尾:  これで三本目です。
 
西橋:  割合長持ちするものですね。
 
松尾:  そうですね。昔は要するにお遍路さんが途中で倒れたりしますですね。彼らは往来手形というものを自ら属しておりますところの檀那寺とか庄屋さんに行って身分証明書を書いてもらうわけです。関所でそれを提示するというのがならいになっておりまして。そこに書かれております文句には、「万一のことがあった場合、その土地の作法で自分を処置して頂いてけっこうです」という、くだりが必ず書き加えられているわけです。巡礼の道中に亡くなった場合、土葬してもらって、これを墓標に立てるというようなことが一つのならいであったようです。かつてある新聞に自分の一生を振り返る記事がありまして、ある実業家が大きな脱税をしまして、すっからかんになる。その方の言葉に、「漁夫一生竿一竿(ぎょふいっしょうさおいっかん)」漁師はどうなろうと一本の竿で生きていけるんだ、と。私はそれを捩(もじ)りまして、「巡礼一生杖一杖(じゅんれいいっしょうつえいちじょう)」と、これを頼りに歩き続けていくんだ、というような気持を持って書きました。最後死んだらこれをお墓の墓標の代わりにというような思いで、昔の人たちは歩いた、という。往来手形は、いわば「死んだ時にはこういうことをしてくれ」という非情な片道切符でもあったわけですが、それだけの思い入れを持って昔の人は巡礼したんだと思います。
 
西橋:  一番下のところがむくれてひしゃげて、先の方が割れていますね。これをつきながら歩かれた。これが三本目ですか。
 
松尾:  杖とも柱とも頼んで、と言いますから、やはり坂道にはこれがあると大きな助けですね。下りも勿論身を支える助けになります。
 
西橋:  膝を痛めないように、
 
松尾:  そういうことですね。
 

 
西橋:  一九五五年(昭和三十年)に二十七歳の時に、こちらのご住職になられて、五十三年ということになりますね。もともと大阪の堺のご出身だそうですね。
 
松尾:  そうです。敗戦の年の昭和二十年二月まで堺におりました。
 
西橋:  陸軍予科士官学校にいらっしゃった。
 
松尾:  当時の時代風潮ですから、軍人になるのがみんな定まったような時代でした。通常「陸士(りくし)」と申しましたけど、当時の海軍兵学校、陸士、海兵へ行くというようなことは大方の風潮でしたので、私もその一人であったわけです。
 
西橋:  軍人になるんだ、というお気持ちだったわけですか。
 
松尾:  ええ。それほど大仰なものではありませんけども、どうせ軍人になるんだから、というような思いも半ばあったかと思います。
 
西橋:  その間に堺の空襲で焼けてしまったそうですね。
 
松尾:  はい。自分の住んでいる家は空襲のためにダメになってしまいました。学校が廃校になって、復員してまいりましたので、身を一時寄せましたのがこちらのお寺であったわけです。当時の師匠から私の生涯の問題として、「住職にならんか」というようなお話を頂いて、それがご縁でこちらの住職という私の運命が定まったわけです。
 
西橋:  ご住職になられる前に、三高、京大と進まれるわけですけど、終戦直後の京都での学生生活は如何でしたか。
 
松尾:  一方ではデカダンスのような流れもあれば、一方ではよりマルキシズムの主張も非常に盛んであったように思いますし、一方ではまた敗戦後自由を謳歌する、いわゆるデモクラシーに立脚した自由主義の謳歌というような流れがいろいろ混ざっていたと思いますので、寄宿舎におりましても、それぞれのタイプの学生がいまして、時代の流れを象徴しておったように思います。
 
西橋:  青春を謳歌した、という思いがおありですか。
 
松尾:  私はちょっと身体を損ねておりまして、あまり謳歌というようなことを言えるような青春ではなかったですね。
 
西橋:  昭和三十年、二十七歳でこちらの松尾寺にいらっしゃった当時の全体の環境というのは如何でしたか。
 
松尾:  いわば今日流にいうカルチャーショックと言いますか、かなり大きな格差を感じましたですね。例えば、新聞はここから約六キロ離れた小学校へ子どもたちは通っていまして、その子どもが持って帰って配ってくれる新聞が当日の朝刊なんです。ですから夕方にならないと新聞が読めない。日曜日になると一日抜けるわけです。これが正月休みになりますと、一週間分ぐらいドカッと入ってくるわけで、三日前の古新聞もいいところで、そういう新聞を読むという。ラジオなんか電波の調子が大変悪くて、放送が二つも三つも一緒に入りまして、「高級なラジオは一遍に聞けるや」なんて言ったりしておりましたですね。雪はいっそう今日(こんにち)より深かったですから、極端な時は一ヶ月間ぐらい山をおりなんだようなことがありましたね。
 
西橋:  ではお寺に籠もりっきりで、
 
松尾:  そういうことですね。当時のことで冷蔵庫があるわけじゃございませんし、食べ物なんかは、御飯は頂戴するんですけど、主として味噌汁とか、お漬け物とか、というようなものが主食で、よくすればへしこなんかあるという、そういう食生活に甘んじておりました。へしこというのは、鯖を糠で漬けたようなもので保存食なわけですね。そういうような暮らしでした。それが当たり前だと思っていますから、今から思うと大変な環境の中で暮らしていたという感じが致します。
 

ナレーター: 西国三十三所第二十九番札所の住職となった松尾心空さんは、寺を訪れる巡礼者たちの思いを見つめ続けてきました。六十歳を迎えた時、西国や四国の巡礼を始め、二十年で七千キロを歩きました。
 

 
西橋:  徒歩でずっと巡礼されたわけですけれども、その前に乗り物を使っての巡礼は、昭和三十二年ぐらいからなさっているんだそうですね。
 
松尾:  はい。三周ぐらいは、バス、電車なり、JRを使ってお詣りしたんですが、いつか本来の姿の徒歩巡礼をしたい、という気持が予てからございまして、ちょうど昭和六十二年に「花山法皇西国霊場中興一千年」という節目を迎えまして、札所の各御山主猊下(ござんしゅげいか)がお集まりになって、何か行事を、という中の一つに「法灯リレー」ということを提案申し上げたところ受け入れられまして、この催しが行われました。

 
ナレーター: おおよそ一千年前に花山法皇が修行したと伝えられる那智山の奥で、西国三十三所を巡る法灯は採火されました。法灯は各札所で次々と受け継がれ、西国三十三所の巡礼道、およそ一千キロを一年かけて巡り終えました。
 

 
西橋:  昭和六十二年の「法灯リレー」というのは、先ず一番札所の青岸渡寺で火を採火して、それを順番に一番から二番、二番から三番と、それぞれのお寺の責任で一番から二番に持って行くという。そうするとこちらは二十九番ですから、二十九番から三十番に運ばれるわけですね。
 
松尾:  そうです。それが最初の道でございました。
 
西橋:  ご住職ご自身でずっと古道を歩いて運ばれたわけですね。
 
松尾:  はい。そうです。
 
西橋:  三十番は琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)ですね。
 
松尾:  そうです。ここからザッと六十八キロございますが、歩いて行ったんです。
 
西橋:  何人かで?
 
松尾:  グループを作りまして。その時は大変な雨に遭いまして随分苦労しました。もうこんなにしんどい目をしたら、次の機会に私が歩く計画しても、参加者がないんじゃないかと思ったんですけども、むしろ参加の人数が増える状態で次から次へと今日まで続けてきたわけです。
 
西橋:  「巡礼古道の再発見」というのは、どんな形でなされたんですか。
 
松尾:  「再発見」というとちょっと大げさにもなるわけですけれども、トンネルができたり、高速道路ができたり、道路拡張があります度に自ずと古い道が削られたり、姿を隠したり、また道しるべなんかが心ない処置を受けまして捨てられたり、あるいは半分ぐらい埋められてしまったりというようなことがございますので、そういうのをどちらかいうと、もう一度昔の形に戻すというような意味で歩いて行っておりますと、本来はこの道を歩んだのだ、と。
 
 
ナレーター: 兵庫県姫路市にある第二十七番札所円教寺(えんぎょうじ)、昭和六十三年松尾さんは西国の札所を徒歩で巡ることを思い立ち、この寺から仲間三十人と共に出発しました。
 

 
西橋:  円教寺から二十八番の宮津の成相寺(なりあいじ)まで何キロぐらいあるんですか。
 
松尾:  百二十キロあります。瀬戸内から日本海までですね。比較的大まかな言い方ですけれども、大体真っ直ぐに歩けるんですが、最初の日に生野(いくの)まで歩きまして、四十五キロあったんで、その時が一番辛かったですね。
 
西橋:  大体一日三十キロぐらいだそうですね。
 
松尾:  そうですね。昔の遍路は八里(三十二キロ)と申しましたが、私どもも三十キロということを一応の目安に致しております。しかし昔の遍路さんの巡礼はいろんなものを担いでの巡礼ですから、雨具の簑笠も持っておらんといかんでしょうし、着替えも持っておらんといかんでしょうし、それに比べますと、私どものほうは高齢者もおりますし、途中で何かあってもいけませんので、伴走車を付けておりますので、そこへ持ち物をある程度載せてもらっていますから。随分その点は楽をさせて頂いていると思っています。しかし今の時代に三十キロというとかなりきつい徒歩になります。
 
西橋:  百二十キロを何日間で歩かれたんですか。
 
松尾:  四日間です。
 
西橋:  巡礼道全体をいくつかに分けて少しずつ歩いて行かれたわけですね。
 
松尾:  十二に分けまして。なんと言いましても一番距離の遠いのは一番(青岸渡寺)から二番(金剛宝寺:通称紀三井寺)に至る二百キロの道で、これを六日半で歩きました。今、世界遺産になっております熊野古道(平成十六年「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録された)は印象深かったものですから、爾後我々の巡礼の会を「蟻の熊野詣」に因んで、「アリの会」という名前を付けて歩くようになりました。
 
西橋:  「蟻の熊野詣」(熊野古道は平安時代初めから熊野三山へ詣でる多くの人々が行き交わった)という言葉が昔からあるわけですね。
 
松尾:  あるわけです。蟻の這う如くたくさん熊野へ詣でたという。我々の歩く順路はそれとは逆ですけれども、それに因んで「アリの会」と名付けました。
 
ナレーター: 平成元年十一月、第一番札所青岸渡寺に集まった巡礼の参加者十五人です。松尾さんをはじめ東京や広島から駆け付けた人もいます。ここから第二番札所紀三井寺までおおよそ二百キロ、嶮しい熊野古道を歩くため巡礼の中でもっとも厳しい旅となりました。
 

西橋:  二百キロを何日ぐらいですか。
 
松尾:  六日半です。
 
西橋:  道はかなり上り下りがあるんですか。
 
松尾:  それは熊野の道には「大雲取」「小雲取」と呼ばれるところもありまして、雲を取ると言うんですか、高くてなかなか険峻でしてね。そのアップダウンは歩くと魅力がありまして、どうしてこんなしんどいとこへまた来たんだろうと思いつつ、回を重ねまして、熊野の自然に浸りましたです。
 
西橋:  ここを歩かれた時、最高齢の方はどれくらいのお歳で?
 
松尾:  もう八十八ぐらいの方で、特別頑健の方ですけれども、さすがに坂道は我々寄ってたかってロープで縛るようにして歩いてもらいました。
 
西橋:  十二に分けて全体を一周し終わったのが、一九九一年(平成三年)の五月十六日に元の書写山(しょしゃざん)円教寺に戻って来られた。「満行(まんぎょう)」というそうですね。大体一千キロを何年ぐらいかけて歩かれたわけですか。
 
松尾:  三年ぐらいかかりましたね。その時は年に何度も出ませんでしたから。爾来五回ぐらい出るようになりましたね。三周を三年ぐらい歩きましたのが平成七年です。感動して涙する人もありますし、ある面では泊まるのは民宿ですし、雑魚寝ですし、食べる物は決して贅沢な物はあがらない旅であるにも関わらず、それが一番現代での最高に贅沢な旅ではないか、巡礼ではないか、と。六十キロぐらいの道程は自動車で行けば、二、三時間で通れるわけです。これを私どもは二日かけて歩くわけですから、それに対する閑、手間、そういうのを考えますと、ある面では非常に贅沢な旅だ、と思います。
 
西橋:  手帳をちょっと見せて頂けませんか。
 
松尾:  その都度、「7.35 start、国道24号、8.00 佐保川」というような形で書いてまいりましたね。ページがたまたま飛んだりしていますけどね。
 
西橋:  歩きながらという感じですかね。
 
松尾:  そうですね。ただ杖を持っておりますんで、挟んで書くのが、雨が降りますとボールペンがよくつかなくて、滲んだりしまして困りました。後で自分で書いた字がわからなくて、早急に帰ってから纏めました。
四国遍路を致しました時に、石碑に和歌が刻まれておりまして、
 
     金とひま 使いて歩む 遍路道
       この痛みこの疲れ ありがたきかな
 
お金と閑は随分かけている。この痛みもこの疲れも有り難い、という心境ですね。これはまあ贅沢な旅である故の和歌(うた)ですね。
今一つ、遍路道で見ました俳句ですが、
 
     百薬にまさる遍路に出でにけり
 
なかなか真髄をうがった句ですね。
 
西橋:  どんな薬よりも、お遍路さんにでかけることであると。
 
松尾:  そういうことです。
 
西橋:  「アリの会」ですけれども、松尾さんご自身で「アリの会」の歌を作られたんですね。
 
     「アリの会」の歌
     落葉しく道 花の道
     山道 野道 峠道
     玉なす汗の けもの道
     歩もう歩もう ただ歩もう
     我らは行ず アリの会
     (漢詩)
     行路は厳し
     水に在らず 山に在らず
     ただ人情反覆(はんぷく)の間にあり
 
     連なる愁(うれ)い 尽きずとも
     山なす欲(ねが)い 重ぬとも
     神(こころ)を鎮(しず)め 念(おも)い断ち
     歩もう歩もう ただ歩もう
     我らは信ず アリの会
 
松尾:  いわばいろんな道がありますので、道のシンフォニーというような意味で、落ち葉しく道もあれば、花の道、山道野道峠道、われわれはひたすら歩もうと。我々は行をしているんだ、と。その間に白楽天の漢詩を挟みまして、二番もあるんですけれども、そこに書いてありますのが三番目です。要するに歩いておりますと、日頃のいろんな悩みとか、いろんな欲望とか、そういうものがある種忘れさられますんで、疲れそのものに身体がなります。そこに一種の法悦を認めまして、「神(こころ)を鎮(しず)め 念(おも)い断ち」というような表現を用いたわけです。大体三十キロぐらいから一キロというのは、幾何級数的に疲労が増しますので、もう右足左足、前へ出しておれば進めるんだ、というような思いになります時に、一瞬振り返った時に、これが法悦というものではないか、というような気持になります。
 
西橋:  普段の生活の中では、いろんな苦しいこともあるし、悩みもあるし、欲望もあるし、みなさんがそれぞれの思いを持ちながら歩かれるわけですね。そういう中に元従軍看護婦の方がおられたんだそうですね。
 
松尾:  はい。当時の熊野の道を歩かれました時は七十五歳ぐらいになっておられたかと思うんですけれども、中国で数多い兵士の死を見送ってきた。いわゆる英霊に対する鎮魂の旅というような思いも随分抱いておられたようですね。特に熊野の道の中では糖尿の気(け)のある方でなんか目の前が青い火赤い火が飛んで、その場にうずくまってしまわれました。
 
西橋:  元従軍看護婦さんの方が、
 
松尾:  そうです。地元の一緒に歩いておられた元気な人が、縄に前後に結び目を作りまして、それで引っ張って歩きました。この方は、「亡くなる時には、着る自分の着物にこの縄を襟に縫い込んでおきたい」と言っておられたんですが、すでにお亡くなりになったんで、そうした着物を着てあの世へ旅立たれたんではないか、と思っております。
 
西橋:  「アリの会」のメンバーの方は全国から来られるんですか。
 
松尾:  いろんなご縁で参加されています。具体的な例をあげますと、最初熊野を歩きました時に、たまたま新聞社の方が取材なさって、それを記事にされたんです。ちょうど道中道端にその方の家がありまして、待っていてくださって、思う様ミカンのお接待を受けまして、たまたまそこのお家の先代さんの命日の日であると耳にしたものですから、読経させて頂いて、非常に喜んで頂きまして、そういうことがご縁で、ご自分が次の機会から参加なさる。今度は自分の奥さんの妹の御主人がそれにまた参加なさる。また数少ない外国旅行でしたけれども、我々のグループがスイスにまいりました時に、同じグループに入っていた、まったく違う方が我々の話を聞いて、そういうところがあるなら参加したい、と言って来られた。私の寺が年に限られた回数ですけれども、『菩提樹』という布教紙を出しております。それに「アリの会」のことを書きますので、それを読んで参加なさる。まあそういうようないろんな形で参加なさいますんで、いろんなメンバーが来られます。すべて来た者は拒まずで、入って頂いて歩いて頂いているわけです。
 
西橋:  みなさんお一人お一人がいろんな思いを抱えながら歩かれるわけですね。
 
松尾:  そうですね。やっぱり素直にこの思いを受容するという気持になってくるんではないかと思うんですが、非常に卑近なまた下世話な例ですけれども、避雷針というのがございますね。避雷針自身は何も雷を避けるわけじゃない、雷を誘っているわけです。避雷針と名付けるのがちょっと矛盾しているように思うんですが、むしろそれを受け入れることによって災難を防ぐというのが避雷針の機能です。いろんな苦難を受け入れるということが、その苦難を避ける手立てだ、と思います。良寛が言っていますように、
 
災難に逢う時は災難に逢うがよく候 死ぬ時には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる唯一の方法にて候
 
こういうような話が出てまいりますけれども、歩くということが、いろんな苦難を背負っている人生が生かされていくと言いますか、素直に受け入れていって、むしろそれを変容していく、そうした面があるのではないか、と思います。
 
 
西橋:  「徒歩巡礼というのは自然との出逢いである」というふうにおっしゃっていますね。
 
松尾:  はい。熊野ではリンドウがかつては道に随分たくさん咲いていましてね、なんか踏みしだくのが惜しいような、最近歩かれる方が多くなったのか、リンドウの姿も随分少なくなったように聞いております。
 
西橋:  これは朝焼けですか。
 
松尾:  那智山を出発致しますのに、早い時間、五時ぐらいに出るんですが、その出発の時の写真です。ここから那智高原というところまで、高度差にして五百メートルあるんです。ずっと坂で上らんといかんのです。
 
西橋:  覚悟の出発で、それでこういうふうに自然の中に身を置くということによって自然からいろいろ受けるものがあるんじゃないですか。
松尾:  コンクリート砂漠の中で暮らし慣れているのと、ほんとに自然に抱かれて歩くと、いわばほんとの自然人に戻る、という。それだけでも大きな心の転換をはかることができると思いますし、その魅力に取り憑かれて、今、七、八十人の人が、何かあると集まって話をし、思い出も語る、と。現在はお歩きになるのが三、四十人ですけれども。
 
西橋:  これまでに合わせて七千キロぐらい徒歩巡礼をなさったということですけれども、徒歩巡礼ということと、宗教信仰ということの関係について少しお話頂けますか。
 
松尾:  宗教には、一般的にいって、こういう類型の仕方が正しいかどうか知りませんが、「歩く宗教」「坐る宗教」「拝む宗教」というようなパターンが考えられるわけです。お念仏の拝む宗教、坐禅―坐る宗教、巡礼遍路の歩く宗教、というふうになるわけですが、歩くということによる功徳というものを考えてみました時に―非常に話が横に飛びますけど―実はこの寺には随分大きなムカデがおりまして、この間私の家内がムカデに刺されました。手が随分腫れまして痛がりました。私自身もそれに刺された経験があるんです。考えてみますと、昔はムカデを菜種油に浸けて、それを傷薬に使ったんです。昔は蝮(まむし)―毒を持った蛇ですね、あれを一升瓶の焼酎の入っている瓶に入れて、当然これは毒を吐ってあえなくなるわけですけれども、なんか強壮剤として飲む、というようなことがございました。一体ムカデの毒、蝮の毒が、菜種油や焼酎の中でどういう化学的変化を遂げるのか。そういう毒が薬になるという変化の面白さということを思いました時に、いろんな人生の苦悩というものを歩いて経巡って、仏様にいろいろ祈りをかけ、願いをかけることによって、むしろ歓喜とまでは言わぬまでも、いわゆる「抜苦与楽(ばっくよらく)」と言いますが、苦を抜き楽を与える、という。そういうところへ心の安らぎが生まれてくる、と。喩えが非常に唐突ですけれども、「歩く」ということが、ここでは焼酎だし、菜種油だ、と。毒を化して薬にする。心の安らぎを得る、と。「苦しみの息を吸って感謝の息を吐け」というような言葉がございますけれども、そこで仲立ちになってくれますのが「歩く宗教」、それが一つの大きな仲立ちになる。しかも巡礼の場合は白衣を着ます。あれは死に衣装、亡くなった時に棺桶へ入れて貰う時の衣装でもあるわけなんですが、生あるままにして一つの今までのいろんな罪過、罪状、苦しみ、そういうものを一端人間としては死ぬ。そしてまた今度は最後の谷汲山で生まれ変わるわけです。いわば一つの大きな胎内くぐり―お母さんのお腹へもう一遍入って、今までの自分が一遍生まれ変わるんだ、と。「死してなれ」という言葉があります。そういう一つの行なんです。歩くということと、信仰との結び付きというのは、そこにあるのかな、と思います。重ねて申しますけれども、一方では苦難の歩みの中にこれが法悦だ、と。悦びだという気持を芽生えさせるということも、一つの苦から楽への大きな心の転換でしょうし、こういうようなことが歩くということを通じての私の大きな心の祈りではないか、と。従って喩え話で、私は、「右足は鋤(すき)、左足は鍬(くわ)だ」と。その鋤と鍬でもって心田―心の田圃を耕す。耕すというのはどういうことなのかと言えば、今申しますいろんな「抜苦与楽」という観音さまのお慈悲のままに、我が背負っている苦を楽に転じていくような行、これが心田を耕す意味だ、というふうに思いますとともに、一方ではまた坐禅の時には、「一寸座れば一寸の仏、二寸座れば二寸の仏」という言葉がありますが、一方「一歩歩めば一歩の仏、二歩歩めば二歩の仏」だ、と。自分の足は仏像彫刻する鑿(のみ)のようなもので、一歩歩んで一歩の仏を心に刻むんだ、二歩歩いて二歩の仏を心に刻むんだ、と。一日三万歩歩いて行けば、三万歩の仏が刻まれておる、と。その仏との出会いというような気持を心に絶えず語りかけながら歩く巡礼というものを続けてきたわけです。
 
西橋:  五周なさったのは松尾さんお一人ですか。
 
松尾:  まだ他にも私の小学校の時の友だちがずっと一緒に歩いています。家内も歩いています。これも五周しています。その他にも二人おってくれたんですけれども、小学校以来七十年の付き合いで一緒に歩いてくれました。残念ながらここ二、三年の間に亡くなりました。しかし歩く巡礼でのその時のちょっとした仕草とか、ちょっとした語りかけとかがよく思い出になって甦ってきます。
 
西橋:  最近「アリの会」のみなさんに、松尾さんはお手紙を出されたんだそうですね。
 
松尾:  「この寺が開創千三百年という節目を迎えて十月一日に兼ねて七十七年ぶりの開帳法要をします」ということの案内で、その時に書いたのが、「一番昂揚した気持になるのは、今日これから徒歩巡礼に出立するというんで、スニーカーの紐を締めて、そして白衣で杖笠被って、そしてトンと杖を突いて敷居を跨いだ時の昂揚した感じ。これを百何回続けて今日を迎えた。またそれだけにお互い行を終えて別れる時の寂しさもあった」という思いも込めて、今までの七千キロの巡礼を振り返って手紙を出したのが、そういう内容になりました。
 
西橋:  松尾さんの「アリの会」のみなさんもそうですけれども、巡礼の歴史というのがあるわけですね。そこには大勢の人たちの人生がこう重なって、今の巡礼の歴史に繋がっているわけですね。
 
松尾:  歩く度に何万人何百万人の人がそこにいろんな思いを込めて歩いてきたのだ、と、こういう思いが甦って来ますね。それから京都大学に阪倉先生という国文学の先生がおられまして、よく手紙をくださったんですけど、「あんたの歩いている道は、心の道だ。私は中国で一兵士として歩いたけど、これはただ歩くだけの歩みであった。血と汗の結晶の熊野道を歩めるあんたが羨ましい」というような手紙を頂いた時に非常に嬉しかったことを覚えています。「血と汗の結晶の道だ」というようなことが書いてありました。
 
西橋:  そういうのを込めてでしょうか、「巡礼の歴史の心音が聞こえる」とおっしゃっていますね。
 
松尾:  脈を打っている一つの文字通りの心の音ですね。一つの古来保たれてきた一つのリズムと言いますか、そういうものを感じることができますね。歴史というものの持っている一つの重さであろうと思います。みな元気でこの道を歩める幸せというものを噛みしめているというのが今日の姿です。
 
西橋:  七千キロ徒歩巡礼して来られて、僧侶でいらっしゃるわけですけれども、お若い頃からご自身の心の中の何か変化というようなものをお感じになることがおありですか。
 
松尾:  「坐禅をして功徳があるか」と問われて、「無功徳」と返事された偉いお坊さんもあるわけですけれども、「徒歩巡礼にもこれだけの功徳があった」と、目に見え、手に載せて申し上げるようなことはあまりないと思います。しかし、ただ今申しました「疲れの果てにそれを法悦として受け取る。痛みとして受け取るんじゃなくて、そういう心構えというものは、何遍も歩いているうちに、ここにこそ悦びがあるんだ、と。疲れの果ての悦びというものを、我が身に説き聞かせ、思い、そういう気持で高まっていくという悦びを度重ねるうちに自分の心の中に芽生えてきた」という気持はございます。
 
西橋:  今、七十九歳で、もうすぐ八十歳でいらっしゃいますね。この後歩くことについては?
 
松尾:  今後とも歩き続けたい。先ほども申しましたように、靴の紐を締めて、菅笠つけて杖を突いて出発する時のあの昂揚感は得も言われない一つの緊張感、心の高ぶりですので、これは今後とも続けていきたい。有名なアメリカの陸上選手でカール・ルイスという人がおられましたけれども、彼は引退に臨んで、「run forever:走ろう永遠に」ということを申しましたけれども、それをもじって私の気持ちとしては、「walk forever:歩こう永遠に」という気持なんです。たといこの足が歩けなくなっても歩きたい。歩いたあの感動と心はいつまでも保ち続けていきたい。こういう気持でございますので、今もまだ歩くことはできますので、能う限り「walk forever」、そういう思いです。
 
西橋:  有り難うございました。
 
     これは、平成二十年十一月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである