農の営み いのちの営み
 
                     「麦の家」主宰  山 崎  隆(たかし)
昭和二三年富山県生まれ。昭和四二年萬世協会「麦の家」創始者松井浄蓮師に出会い師事。昭和四六年大学卒業、公務員。昭和五一年萬世協会「麦の家」専従。平成四年「麦の家」主宰。日枝紬工房代表。
                      ききて     西 橋  正泰
 
西橋:  私は、今、琵琶湖の西の湖岸に来ています。この更に西の方に比 叡山が聳えています。その比叡山の麓の谷間で三十年あまりにわたって自給自足の暮らしを続けてこられました山崎隆さんをこれからお訪ねします。山崎さんは、ご家族三世代八人です。そのご家族とともに三十年あまり農業の営みを通して人間のありよう、それからいのちの営みの根元を見つめ続けてこられました。
 
ナレーター:  山崎隆さん、五十九歳。大学を卒業後大蔵省に入り、公務員生活を送りますが、二十八歳の時大きな決断をします。農業を実践する思想家からの誘いを受け、悩んだ末、五年間勤めた大蔵省を辞めて農の道に入ります。以来三十二年間、日々食べるものはわずかな例外を除いて、すべて自分で賄(まかな)う自給自足の暮らしを続けています。「麦の家」と名付けられた茅葺きの建物は、山崎さんの家族の暮らしの場であり、またさまざまな人々が交流し学び合う場でもあります。
 

 
西橋:  稲刈りの後の、ああいう稲架(はさ)の風景というのはほとんど余所では見られませんよね。
 
山崎:  そうですね。もう無くなりましたね。今やっぱり農業の形態が非常に大型化して、良くいえば合理化ですけれども、機械化されてしまって、こういう稲架の風景はもうほとんどと言っていいくらい無くなりましたね。我々はこういうやり方がより大事だということと、私らの農業は非常に小さいですから、だから逆にこういうこともできる、という。
 
西橋:  手で刈るわけですね。
 
山崎:  手で刈るんですね。ここは稲刈り鎌で、みなさん寄って頂いて、 それで稲刈りをする。
 
西橋:  田圃の広さとしては、ここと、それから下の方にもありますね。
 
山崎:  そうですね。これでおおかた一反ぐらいあると思うんですね―大雑把ですけどね。その下にまた桑の畑がある。家の前は畑がある。これも大体一反ぐらい。だから農地としては三反(九○○坪、約三十アール)ぐらいでしょうかね。でもこういう小さい農業というのは、ある意味では日本の農業の原形だと思うんですね。田圃の場合は、春は手植えをして、それで秋は鎌で刈って、それで稲架に乾(ほ)して、逆に言えば、人力だけみたいなものですよ。だから今でいうエネルギー問題とか、そういうことが非常に少ない。このやり方でやれば、私は永続的な農業ができるな、と思っているんですよ。
 
西橋:  有機農法?
 
山崎:  基本的には有機農業ですね。だからここで採れた野菜の屑とか、それから土手の草刈りをしますね。あそこにちょっと置いていますけど、ああいうふうに草を全部また戻すわけです。だからお茄子の下に敷いた りとか、
 
西橋:  でも化学肥料とか、農薬とかはほとんど使わない?
 
山崎:  そうですね。基本的に使わなくてもいける、ということですね。そういうものを全部否定するわけではありませんけど、なるべく使わないでもいけるようにしているんです。
 
西橋:  この下の桑畑は、あそこで桑を作って、蚕を飼っていらっしゃるんですね。
 
山崎:  そうです。ここでは「衣・食・住」というようなことを総合的にやっている暮らしなんですよ。
 
西橋:  野菜のほうですが、目の前は?
 
山崎:  賀茂茄子なんですよ。
 
西橋:  賀茂茄子、京都の。
 
山崎:  そうです。丸くて、あれは美味しいですよ。こういう時期だからかなり勢いがありますので、これから小一ヶ月ほど楽しめますね。京都の古い種野菜屋さんと半世紀近いお付き合いになるんですが、いつも時期になると声を掛けて頂いて、「良い苗が入ったよ」ということをおっしゃって頂く。この苗だけは京都から頂いている。
 
西橋:  こちらの方はまだ植えたばっかりみたいな感じですけど、小さいのは?
 
山崎:  小さいのは大根。ちょうど一週間ほど前ですが蒔いたものなんですよ。次が白菜です。ちょっと葉が開いて。その隣にちょっと光っている葉があるでしょう、あれがキャベツ。その隣がブロッコリー。そういういわゆる葉菜類ですね。
 
西橋:  こういうのがだんだん実っていくと見事ですよね。
 
山崎:  これがやっぱり楽しいんですよ、作っていて。ここへお見えになる方は、「わぁ広い畑や田圃、大変ですね!」と言われるんですね。全然大変じゃない。もう楽しくてね。逆にこれを育てることの中で私はエネルギーを貰うというか、
 
西橋:  こうやって土を見ていますと、ほんとに土というのは有り難いもんだな、ということがよくわかりますね。
 
山崎:  そう言って頂くと嬉しいですね。これは昔から言い伝えですけど、「万物―生あるもの、万物すべてが土から生まれ土に還る」という。いのちを受けるのも大地からいのちを頂いて、そして最後は消えていく時も大地へ―土に還る。だから土というのはこの大元なんですよ。
 
ナレーター:  生け垣はお茶の木です。初夏には茶摘みをします。さまざまな果物の木も植えています。魚と牛肉と豚肉以外は、食べ物はすべて自ら育てて賄うという暮らしです。
 

 
西橋:  鶏小屋ですね。
山崎:  まさに掘っ建て小屋で、もうそこらにある丸太で建てたもんですけどね。
 
西橋:  今、何羽くらい?
 
山崎:  今、六羽と向こうに古いのが一羽、七羽ぐらいですか。元々は一桝に十羽ぐらいずつ入れて、二十羽近く若い雛を飼っていたんですけどね。だんだん鶏さんも歳がいくと卵の産みが悪くなるもんですから、そこら辺で上手にお肉の方へ変わって貰うということで。だから毎朝今も少しは産んでくれますんで、それを頂いて、そのうちだんだんお肉に変わって成仏して貰おう、と。そういうことでまさに命を頂かせて貰っているということですね。
 
西橋:  そういう鶏の絞め方とか、捌き方とかというのもお孫さんたちにも教えて、
 
山崎:  そうですね。孫はまだですが、子供らけっこう上手にやりますよ。子どもらにも小さい時から一緒に―ちょっと辛い話ですけど―当たり前に食べているけども、食べるためにはこういう厳しいこともしなければいけない。例えば鶏ですが命を頂きますから、コツンと叩く―簡単に言えばコツンだけどね―やはり心が痛みますよ、実際やってみるとね。鶏のお肉でも「ああ、そうなんだ。尊い命を頂いているな」ということをいちいち意識しなくても、生活全体で、やはり食べるということはほんとに大変なことで、また尊いことだ、と。ほんとに美味しいし喜びいっぱいだけども、その根っ子にはほんとに大変なことがあるんだ、と。またそうしないと自分たちの命を長らえることができないという。だからこういう作物を育てたり、鶏を飼って卵を頂いたり、また最後はお肉として頂いたり、そういう日々の中で自然にまず食べ物を粗末にしない。感謝する。それがいちいち感謝ということではなくて、形としては毎日「いただきます」「有り難うございました」「ごちそうさまでした」という。それはちゃんとしますし、そういうことが全般の自分の生き方の中に入ってくるから、だからほんとに小さい時からこういう環境にいるということは、私はむしろ有り難いし、大切なことだな、と思っていますね。
 
西橋:  害虫を殺したりするのもお孫さんに見せて、
 
山崎:  そうです。上の孫が二歳半ですね。茄子にもいっぱい虫が付いたり、それからああいう葉物ですね―キャベツとか、そういうものに蝶々がどんどん来て卵を産んで青虫がいっぱい付くでしょう。どんどんキャベツが食べられる。僕は一生懸命虫を捕るわけですよ。そうすると孫が、「おじいちゃん、何しているの?」というわけですね。「おじいちゃん、虫捕っているんだよ。虫捕らないと虫に全部大事なキャベツ食べられて、おじいちゃんや―望というんだけど―望の食べ物が無くなるから、虫さんには悪いけど、これ捕るんだよ」と。「どうするの?」というから、「悪いけど、この虫さん潰す。それから鶏さんにあげる。それから―あそこの池に鯉がいますよね―鯉にあげる。そうやっているんだよ」と。「だから虫さんは死んでしまうよ。死んで―仏さんと言ってもわからないから―なむなむさんになってしまうんだよ」と言うと、孫は「青虫さん、なむなむさんありがとう」といいますよ。これなんですよね。大人になって意識の中でそういう自然の祈りとか感謝を伝えようとしてもなかなか伝わらないですね。頭で判断してしまう。だから物心が付いた時に、こういう自然の中の営みですね、命を頂きながら命を長らえる。これはやむを得ない自然の哲理ですからね。そのことを身を持って五官の中に入れ込む。そうすると人間が間違いないと言ったらおかしいですけども、常識感のある、ごく普通の当たり前の安定した人間になると思うんですけどね。
 
西橋:  全体が美しいですね。パアッとなんかホッとしますね。
 
山崎:  よくお客さんや知り合いが見えたりすると―下の県道をどんどん車も走っていますね。そこからちょっと脇道の細い山道を入って来ると、もうどこへ行くんかな、と逆に不安になるというんですよ。全部木で塞がっていますから。細い道を来ると、そうするとちょうどあのカーブ辺りへ来ると、この「麦の家」がパッと見えてくる。わぁっとなるというんですね。何となく心が和む。同時に山に囲まれて「麦の家」の茅葺きの屋根が見えるとほんとに美しい、と。だからこの自然の空間とぴしゃっとマッチするというか、一つになるんですね。違和感がない。
 
西橋:  日本の故郷という感じですものね。
 
山崎:  やっぱりこういう建物があって、目の前に畑がある。玄関先には鶏がコッココッコしている。目の前の田圃に稲穂がある。あるいは稲架がある。これはやっぱり日本の暮らしの原形だと思うんですね。
 
西橋:  山崎さんは富山県の農家のお生まれだそうですね。
 
山崎:  そうです。
 
西橋:  小さい頃から農作業のちょっとした手伝いとかは、子どもの頃からやっていらっしゃったんですか。
 
山崎:  そうですね。私の家も典型的な農家で、代々熱心に農業に取り組んできていまして、私の両親もけっこう熱心に地域のことも含めて農業を大事に、いろんなことをやっていましたね。だから幼い時―小学校低学年ぐらいからの記憶ですけども、とにかく農業にどっぷりの生活―これ大変だなというのと、牧歌的な豊かさ。家族が一つになる、あるいは地域で助け合う。これなんなのかなあというのがずっと自分の心の中にありましたね―三つ子の魂の喩えではありませんけれども、そんな思いで大人になってきたなという気がしておりますね。昔はみんな手仕事ですからね。今のように機械じゃないですから、一から十まで苗を育てるところから、田植えから、稲刈り、草取り、そしてまた刈り取った後の手で乾したり、或いは稲架に架けたり、もう子どもであるけど、親の生き様を見ていたら、何かしないでおれない、という。そういう意味では自分もわりに真面目にお手伝いをしたほうですね。だから私の体の基本にやっぱり農的な暮らし、その思いとささやかな実践がずっとこう染み付いている。
 
西橋:  大学は京都へ来られたわけですね。
 
山崎:  そうですね。十八までは郷里でどっぷりと浸かって、後はたまたまそういう時代柄であったんでしょうか、なかなか農業だけでは食べていけない、と。そういう時節―昔から農業は一生懸命やるんだけど、「食えない、食えない」というのは子ども心に―大人たちがそういうように言うもんだから、まあそういう時代の流れもあって、幸いだと思うんだけど、「最高学府へ行ったらどうか」ということを言って貰って、私はそれなら、という思いで、京都の方へ出てきましたね。
 
西橋:  その学生時代に「麦の家」の先代の松井浄蓮(まついじょうれん)(1899-1922:土に生きる実践思想家)さんとお会いになるわけですね。
 
山崎:  そうです。
 
 
ナレーター: 松井浄蓮(まついじょうれん)は、広島県の生まれ。生家は製糸業を営んでいましたが、若くして家を出ます。漂泊と修行の末、戦後すぐ比叡山の麓の谷間を開墾して、自給自足の暮らしを確立します。そして、「農業に基づく戦後復興運動」を提唱。これが全国的な広がりとなり、萬世(ばんせい)協会「麦の家」を結成します。多くの人々と交流を深め、「近江の百姓菩薩」と呼ばれました。
 

 
山崎:  私の実の父親が松井浄蓮という人を信仰しておりまして、農業、それから農業に纏(まつ)わる精神性、それからもう一つ広くは人生といいますか、そういうことを含めて「これは大した人だ」ということで、私の父親なんかが中心になって地元の郷里富山県に松井浄蓮師を招いて、いろんな農業実践研修というようなことで講演をして頂いた。だから私も幼い時から松井浄蓮という、なんか凄いけど怖いようなおじいさんがいるな、ということはわかっていたんです。ただ直接的にはまだ幼かったですから、なかったんですけど。京都の大学へ来た時に、私の父親が、「まあ大学へ行ってうろうろしている閑があったら―京都ですから―比叡山一つ越えれば大津の坂本であるからそこへ行って松井浄蓮師に教えを乞いなさい。お前も百姓の子だから農業のお手伝いをしながら少しでも松井浄蓮先生の教えを乞うようにしたらどうか」と言われた。だから十八で京都の大学へ来て、間なしだったと思うんですが、それがこの「麦の家」との初めての出逢いです。ちょうど松井浄蓮師は、先ほどの大根が植わっている辺りで鍬を振るっておりましたね。なんかちょっと近付きがたいような印象を覚えていますね。でも「富山の山崎です」とご挨拶をすると、「おぉっ」と言われて、「儂はちょっとこれやりあげんといかんから、あなたちょっとそこへ入って何か本でも捲っていなさい」ということだった。はっきりと内容は覚えていないけど、「とにかく近いんだからまた来なさいよ」というような、そういう話にまでなってくると、何となく親しみを逆に覚える。なんか自分の本当の爺さんのような、こういう雰囲気で何か鍬を振るっている。もともとそうものが自分の根っ子にあるものですから、何か非常に大きなものに包まれるような、どういう関係になっているのかわからないけど、あ、なんかこれ安心できそうなところだなあ、というような思いでしたね。
 
西橋:  大学を卒業されて、大蔵省に入られて、大阪国税局で五年間勤められた。で、二十八歳の時ですか、こちらに来られることになるわけです。
 
山崎:  いわゆるお勤め人ということの豊かさと言いますかね、それとまた気安さというとおかしいが、何か楽にいける。若かったし非常に快適な生活でしたね。仕事は勿論一生懸命やるだけやるんですけども。ただこれをずっと三年四年とやっていくうちに―それはそれでちゃんとやっているし、ほんとに有り難いご縁で、私を育ててもらったんですけども―ただそういうことをやればやるほど、なんか自分の中の深いものが空回りというのは変だけど、なんかこのままずっといくのはおかしいな、これで良いのかなという疑問が出てくるんですね。それはやっぱり幼い時に農業の中でどっぷりでしょう。田植えをする、田の草を取る、稲刈りをする、何とかそこまで持っていった。そうすると台風が来るわけですね。そうしたら稲架(はさ)に架けていたものが一気に飛ばされたり、あるいは刈り取り前に台風の大荒れで一気に稲が潰される。それに対して向かっていくわけです。家族一丸となって死に物狂いで稲を押さえに行く。それから出来上がった稲を大八車で野道を押してくるわけです。今はもう車でドッといくんだけども、昔は大八車で―荷車で稲をいっぱい積んで自分の家まで来るわけですね。その時なんかとても一人でできない。その時が大事なんですよ。その時は父親ですよ。親父はいつも真ん中をダッと背負っているんですね。こう綱をかけて両端の綱というか、ハンドルを持って、ガッガッと引っ張る。その横を母親がまた引っ張るんですね。一人ではとてもできない。とにかく野道というのはこんなふうにぬかるんだり、村総出でそういう道を直す普請もやるんですよ。でもすぐ雨が降ったりして傷むんですね。そしてまたおばあちゃんがいれば、おばあちゃんがその脇を引っ張る。上に姉がおれば姉も後ろから押す。とにかく家族が一丸となって実りの米を押して行くわけですよ。そうやって家族六人七人―当時私らも八人ぐらいいたと思うんですけどね。みんな家族総出で暗くなってもその作業を続ける。ほっとくと濡れたりしますからね。そうやって自分のところの作業小屋まで運んでくる。それはけっして私の家だけではない。村中がみんなそれをやっているんです。隣から一生懸命押して貰うと、またこちらも「押すぞ!」と言って、押すんですよ。我々でも「押してやるぜ!」と言って、助けてやる。だから人間が仕事―働きということの中で、一つになって自然に向き合う。そして人間同士が力を合わせる。このことが世の中を作っているな、と。人の絆もそれで深まるな、と。だからそのことが身に付いているから、だんだん自分のやっている大変な公務であるし、大事な仕事なんだということがわかっているけども、心のウエイトがだんだんそういうことが根っ子にあって、この「麦の家」の生き方、それから松井浄蓮師をはじめご家族やここで学ぶ人たちのやっていることの尊さというのが、だんだん自分によく入ってくるんですね。
 
西橋:  で、折りもおり、「ここの松井さんの後継者として来ないか」という話があったわけですね。
 
山崎:  そうなんですよ。
 
西橋:  山崎さんの決断の決めてというのは何でしたか。
 
山崎:  随分決断するのに一年かかりましたね。決断と決めては、理解者のお一人の方に、私が言ったのは、「私はとても松井浄蓮師のようなことはできない。ご覧になってわかるように、そんな大きな人物でもないし、深い考えができる人間でもないから、そういうことはできない。ただ私がもしできるとしたら―松井浄蓮師は幸いお元気ですから―あの方が指図をして、これやれ∞あれしなさい∞これをこういうふうに考えたらどうか≠ニいう形で、ほんとに今のような関係でご指示を頂けるなら、私はずっと農家で育ってきましたから、農的なことはできる。さらその上に多少なりとも役に立てば、ということで、社会のそういう習い事も自分なりに経験をさしてもらったから、言われればそのことをそつなくこなせるだろうと思う」と言ったんです。そうしたら、「それだ!それだ! 何もいきなりそんな難しいことを考えなくてもいい。楽な気持で裸になったつもりで浄蓮先生の言われることをはい∞はい≠ニいろんなことをやって貰えば、それでいいんだよ」と言われたんですね。そう言われると、「あ、それぐらいならできるのかな」と。今思うと、半分騙されたような凄いことをしたんだなと思ったですね。何とも言えん気持ですけどね。だから宗教の世界ではないですけど、大きな決断というものは、そう何もかも「やるぞ、やるぞ」と決まっている時というのは意外とものはできないんですね。なんかスッと抜ける、自分の身の丈に合ったものの価値判断で、スッと抜ける瞬間が、人生の大きな時にはあるんですね。それは今になって、そういうことがわかるような気がするんですけどね。
 

ナレーター:  一年かけて決断し、二十八歳で農業の道に入った山崎さんは、同じ年、さらにもう一つの決断をします。松井浄蓮の愛娘京さんとの結婚です。
 

 
西橋:  松井浄蓮さんと共にこの「麦の家」を支えていかれるわけですけれども、一緒に生活をして間近にごらんになって、山崎さんは、松井浄蓮さんという方を「土に生きる思想家」というふうにおっしゃっていますけれども、松井浄蓮さんの農業に対する考え方とか、土に対する考え方ということでは?
 
山崎:  そうですね。私自身は、ここで生活そのものが一緒になって二十年近く、出会ってからというと、もう大方三十年弱になるわけです。その間最初から人生の大師匠であり、そして大きな決断をして、この「麦の家」に入って、娘である京さんと結婚して、ほんとに間近で、今度は師であるけれども同時に父としてずっと見ていると、やはり生き方の姿勢というのはほんとに揺るがない人でしたね。単なる思いだけではなくて、そのことを実践されてきた人ですから、やっぱり「大地に生きる、土に生きる思想家」と言っていいんじゃないかな、と思っていますね。人間は鍬を取ってみて初めてわかることだけれども、自然の一員だ、と。そうすれば何も気張って大きなことをしようとか、「あいつがどうだ、こいつがどうだ」ということではないんだ、と。自然から学ぶ。こういう野菜から習う。そうすることが非常に心が穏やかになる。人とも助け合いが必要だし、助け合いもする。だからまさにこれは私は大きな一つの思想だ、と思いますね。それを単に論として説くだけではなくて、鍬を握りまさに生産をしながら、実践しながら、そういうごく当たり前のことこそ尊しということを我々に自覚させてくださる。よく若いたくさんの塾生さんがおられるんです。まずここはみんな朝早く起きてお掃除をするわけですよ。そうすると初めての塾生さんで若い子が来ると、あまりそういうことの経験がないから大変なわけですよ。そうすると、その時にまあ説教するわけではなくて、ごく当たり前に、「みんな朝早くから大変だね。しかしみんな頑張りなさいよ。朝早く起きて、縁側を拭いたり、庭を掃き掃除したり、あるいは工房を綺麗に拭き清めたり、ほんとに大変なことかもわからんけど、それ頑張ってやりなさいよ。やっているうちにそれが当たり前になるんだよ。やっていると、それが身に付いてくると、毎朝起きたら、さっと雑巾を持って拭き掃除をしたり、あるいはさっと竹箒を持って庭を掃いたり、今度はそれをせずにおられなくなるから―実際にそうなんです。それが朝早く起きて、それでお掃除をしないとなんか一日きまりが悪いと言いますか―そういうふうにちゃんと一生懸命頑張っていると、だんだんいろんなことが見えるようになるし、だんだん自分の心も豊かになりますよ」そういうこと言われましたね。
 
西橋:  松井浄蓮さんは、京都の五条坂の陶芸家の河井寛次郎(かわいかんじろう)さんととても親しく付き合っておられたんだそうですね。
 
山崎:  松井浄蓮の生き方としては、今申し上げた「耕して生きる」ことが軸で、ずっとその中で実践されてきたんです。そのことをずっと貫いてこられた陰には、河井寛次郎先生を抜きには私は語れないように思いますね。松井浄蓮としては、土というものを根っ子に耕して生きるという道ですからね。寛次郎先生は陶芸ですから、
 
西橋:  陶芸も土ですからね。
 
山崎:  だから出会うべくして出会った。だからお互いに終生ほんとに尊敬しあって、寛次郎先生もいつとはなく、事ある毎に、この「麦の家」が建つ前からもそうだし、建ってからもここにお見えになっている。寛次郎先生が謙虚というか凄いなと思ったことがあるんですね。ここでいろんな催しがあるんです。そうすると、昔の農家の人たちは全部手仕事だから―まあ私なんか農業やっているけど、これ優しい手ですよ―もうこんな二倍もあるような手でね、ふしくれだって、真っ黒で、ガサガサして。腕でもこんな腕をして。農家の方の手を取ってね、「この手を見て下さい。この手が日本の民族の命を預かってやってくださっているんです」と言って、もうそこで感激して言葉が出ない。よくそういうことがある。もうその話をほんとによく聞くんです。だから人間としてしなければならないということを寛次郎先生はちゃんとわかっている。それはまず第一に命の糧である食を生産する農業ですね。言い換えれば「農」と言いますか、そのことが一番尊いことだ。それがなければ人間生きていけない。同時にその中に深い精神性もある。そのことを寛次郎さんは、自分は器を作っているけども、そのことをまず一番尊しとされているわけですね。
 
西橋:  河井寛次郎さんは、ここへ来られて、「松井浄蓮さんは土を造形している」とおっしゃったんですね。
 
山崎:  そうですね。こんな言い方は良いかどうかわかいませんが、それだけ河井寛次郎先生が凄いということだろうと思うんですね。松井も言うていましたし、書いたものもあるんですけど、河井寛次郎先生の言葉として「私はたまたま信楽の土を拈っている、こねて拈っている人間だ。そんな土を拈って、あるいはこねているそんな人間に過ぎない。しかし松井浄蓮先生は、まさにこの大地を造形している。ここに田圃がいる。これに畑がいる。ここには家がいる。ここにはちゃんと拝む場所もいる、ということですね。決して間違いなく、そういうことをされている」。これはしかし破格の言葉を得たと思いますよ。

 
ナレーター:  家族は三世代八人。山崎さんと長男は主に農業。妻は織物。次男は織物と家の修繕。次男の妻は家事を分担し、長女は勤めに出ます。自給自足を基本とする暮らしは、家族が一つとなって立ち向かわねばなりません。農繁期の田畑の耕作、収穫を前に、猿、鹿、猪に荒らされないよう夜通しの見回り。織物を作るため、桑の木を育て、蚕を飼って糸を採り、染め上げて機織りをする。どの仕事も家族全員がさまざまな役割をし合って初めて成り立つものです。
 

 
西橋:  奥様が中心になっている織物のことを少し伺いたいんですけども、先ほど桑畑がありましたね。桑畑の桑を、今度は蚕を飼って、蚕が食べるわけですが、蚕を飼っている蚕室(さんしつ)みたいなものがあるんですか、蚕の部屋みたいなものが。
 
山崎:  ほんとは蚕室というものがあるんだけど、私のところはそれは作っていないんですね。私が飼うのは春だけなんですね。春のお蚕さん―「春蚕(はるこ)」というんです―春蚕だけを飼う。それはここで畳をあげて、棚を作って飼うんです。昔の農家はみんな畳をあげてお蚕さんを飼っていたわけです。だから蚕に「お」が付くんですね。
 
西橋:  「お蚕さん」。「さん」も付きますね。
 
山崎:  だから「お蚕さん」なんです。非常に大事に思って。それはもともと非常に尊い生き物だということ。そのお蚕さんが繭になって、農家の人にとっては経済価値を―現金収入としての価値を生む。ほとんど農家がどこでもやっておりましたね。非常に蚕というものに対して敬意を払っている。だから「お蚕さん」という。
 
西橋:  春蚕だけというのは何かわけがあるんですか。
 
山崎:  お蚕さんは桑があればいつでも飼えるんです。お蚕さんは桑しか食べない。こういう小動物なんですね、昆虫ですけどね。春は何故良いかというと―今も桑があるんですよ。見て貰えればわかりますけど、もう今の桑は秋ですから、もうちょっと茶色くなったり、バサバサして荒れてきている―春の桑の新芽の色は、私ら見ていてもかぶりつきたくなるぐらいの柔らかくてふぁっとした新鮮な葉ですよ。だからその新鮮でもっとも健康な葉を食べたお蚕さんがやっぱり良い糸を吐く。だから、「全ての道は食に通ずる」じゃないけど、人間もそうですよ。逆に蚕がそのことを教えてくれた。だから私らはなんか特別のことを考えているわけでもないですよ。何が一番健康体で、何が一番ほんとの糸なのか。結局その結果が春蚕という。妻の場合は春蚕に拘り非常に大事にしています。物作りとしては素材なんです。何でも素材がしっかりしていないとダメなんですね。
 
西橋:  しかも蚕は「小石丸(こいしまる)」というんだそうですね。
 
山崎:  ええ。名前が出ましたけど、これは日本古来のほんとに大事な蚕なんです。
 

 
ナレーター:  どうすればさらに良質の糸を採ることができるのか。専門家の指導も受けながら、毎年試行錯誤を繰り返し辿り着いたのが、小石丸という日本の古来の貴重な蚕です。
 

山崎:  糸が非常に細い、そして小さいから糸の長さもあまり長くない。細いけど長くない。だから簡単にいうと、もともとはそういう糸だったけど、これではなかなか生産性は合わないということで、良く言えば、改良して、一個が大きくて糸がたくさん採れるそういう繭を改良して作っていったわけです。そういう小石丸のような、非常に糸質は良いし、粘りもあるし、光沢も良い。逆に言えば、私らからみると、非常に絹本来の輝きと粘りを持った繭、それを産み出す蚕なんですね。それが消えてなくなった。改良のほうがどんどんいってしまってね。だから結局量産―質より量へという方へ、時代の流れで、経済的な流れでいってしまったわけで、それが一般には使われなくなってしまった。
 
西橋:  糸を作られて、それをしかも自然の草木染めで染めて、そして織 る。織るのも手機で、
 
山崎:  だからここでしかできない織物ですね。そういう循環になっていますからね。
 

 
ナレーター:  貴重な蚕から紡いだ糸と絹の織物は、関係者から注目を集めるまでになっています。
 

 
西橋:  ここの田畑はおよそ三反(三十アール)と伺いましたけれども、昔から「三反百姓」という言葉がありましたが、零細な小規模農家の代名詞のようにも言われるんですけれども、この三反という広さの持つ意味というのは、自給自足という生活の中でどんなふうにお考えですか。
 
山崎:  私は、子どもの頃から「三反百姓」という言葉を聞いているんです。農家に生まれていますからね。今、おっしゃったように、「三反百姓」というのはある意味では揶揄(やゆ)する言葉で、「ちっちゃいのをやっていて」という。そうだけれど、逆に三反というのはちょうど農業の最少単位の原点だった。日本という国を考えた場合に、日本というのはほんとに小さな島国です。そこに一億二千万ぐらいの人がいるわけです。そういう人たちが自然に向き合って―単に向き合うのではなくて能動的に―自然から耕すことによって、大きな精神的なものを得る。口にする、いのちの糧である作物は勿論ですけどね。そうなると、私はこの三反ということが逆に輝いてくる。この三反でなんとか生きられるという慎ましやかさ。これが余計あると無造作になります。こんな丁寧なことはできない。「これやったら次ぎあれせんならん」と、もう年がら年中走り回っていなければならない。ということは、私には織物もある。またいろんな人も迎えたり、講座もやる。そうなると、この三反というのは、人間が人間らしく耕すこともするし、織ることもするよ、建物を守るよ、人とも仲良くなるよ、ということをやるのに、ほんとに全き人間と言いますか、人間トータルなものとして、これはちょうど家族が向き合っていくのに最適である。これが大きくなると、これに没頭しなければいけないし、機械化をしなければならない。そうなると、いろんなエネルギーを使わなければならない。大きい農業は大きい農業で、今の時代となれば、私は否定しません、必要なんですよ。みんながこういう小さな農業に向き合いばいいけど向き合えないですから。大きい農業は大きい農業で、若い人たちがこれからやっていくんだから、ある程度合理化しながらやっていくことが必要ですけれども、ただそれをやるにしても、一つの原点として自ら鍬を持って耕す。その心を持って大きな農業をやらないと、ただ無造作にダァッと―今はトラクターとか、コンバインとか、田植えさえみんな車を運転するように、運転しながら田植機―機械がタッタッタッと植えていきますからね。それではいけないわけです。今の現状から言えば、大きい農業もやむを得ないと思いますけど、それにしても、その原点であるのはこの三反―三反百姓というもの―この中で初めて人間が食べる糧を一家としても得られるし、同時に精神性もこの中で磨ける。人ともまたほどよくお付き合いできる余裕がある。私はむしろ積極的にこの「三反百姓」を勧めたいと思う。今、いろんな流れで、定年退職された、いわゆる私と同じ世代の方々が、農業とか、自然に入っていかれますね。その人たちはある意味では、余暇として、あるいは楽しみとして、農業とか自然に向き合うことをやられるけれども、ここの場合はもう一つ、「これはほんとに人間の生きる根っ子ですよ」という思いを込めてやっている。でもこういう小さい農業が、できるだけ私は広がればいいな、と思うんです。
 
西橋:  今、食ということについても、あってはならないようないろんな悪事が発覚したりして、不信感、不安が広がっていますよね。
 
山崎:  人間生きていて何が大事か。豊かの根本はまず健康です。己の健康、家族の健康、それなしに絶対幸せや豊かさというのはあり得ない。だからみなさんも何故一生懸命働くかといえば、それは豊かさを得るためでしょう。健康であり、そして幸せである。それを掴むための手段として一生懸命働いているわけです。だからこの農の中には、その一番大事な健康であるという命の本である食。これは自分で自ら作っていますから、これはある意味で絶対的なものだと思いますね。ところが多くの人が食の生産、あるいは流通も含めて、それから離れてしまいますね。そうなると、食というものが完全に人に頼ってしまうわけです。これは一番危ない。しかし国として、それが完全に確保されていればいいけども、日本の場合には量としての食料自給率というものは、いわゆるカロリーベースで言いますけれども、相対として、四割ぐらいなんですね。これは昭和三十年代前半ぐらい迄はおそらく七、八割はあったんですね。ところが昭和三十年半ばからドッと所得倍増とか、いわゆる経済というものの方が豊かさが掴めるということで、政治的にも舵を切ったものですから、ドッと農業というものが置き去られてしまって、どんどん農家の人が少なくなってしまった。逆に経済だから金を持てば何でも食べられる。外国からも輸入できるということになっていく。どんどんほんとの食というものの素材の真実の食材から離れていってしまった。だからもう一度心に手を当てるチャンスを多くの人が持てれば、ごく自然に自分の生き様に目覚める。「仕方がないや、仕方がないや」と言って、谷底へ落ちていくのか、「よし踏ん張ろうじゃないか」と言って、真実の道へ戻ろうする動きをするのか。とにかく自分のためであると同時に、可愛い孫子のためですからね。そして自分らもそうやって幼い時から大きな判断を先達がしてくれて、そして今を得ているわけですから、やはりその大きな判断はしなければならない。

 
ナレーター:  毎年一月、「麦の家」では新春講座が開かれます。「麦の家」はさまざまな人々が交流し、学び合う場ともなっています。新春講座の他、初夏には御田植祭での手植え、秋には抜穂祭(ぬきほさい)で鎌で刈り取る収穫を体験します。農業関係者だけでなく、環境に関わる公務員、建築家、エンジニア、コピーライターなど、さまざまな人が全国各地から集まって来ます。普段農業とまったく縁がない人も、実際に田圃に入って手植えをし、稲刈りを体験すると。自然に対する感謝、食べ物を有り難く感ずる気持、祈りの心が自然に湧いてくるといいます。
 

 
山崎:  みなさん生き様を求めておられると思うんですね。「どう生きるのか」ということだと思うんですね。それと多いのは、ここは農業的なことをやっているということは、基本的にはご存じですから、「どう生きるか」ということと、「農ということがどういう接点になっていくのか」。また若い人もそれを求めていますね。農業をやりたいがどうなるのか、という。具体的なこともあるけど、接点―精神性なことも含めて。これは私は非常に嬉しいと同時に大事なことだ、と思うんですね。だからこの農業というものをどういうふうに捉えるか、という、そこに帰結すると思うんですね。この農業をやっていれば、人間として健康に生きて、そして豊かさに到達するんだ、という。このことがはっきりしていないといけない、気持の上ではね。そうなると、「人間はどういうふうに生きるのか」ということに通ずると思うんですね。人間はいくら文化だ、経済だと言っても、これは良いも悪いも人という動物ですから、先ずは食べないとどうにもならない。その具体的なことが、まず農というところへ向かないんです。本能的にちょうど乳飲み子がお母さんのおっぱいにむしゃぶりついていくのと同じなんですよね。だからほんとの人間、と言ったらおかしいですけど、「ほんとにどうなのか、真実は何か」と思ったら、耕すところへいく、と。非常に明快だと思うんですね。そして初めて自分の食が得られるから、そこで食べられ生きている、という安堵が得られると思うんですね。それと同時に周りも豊かに広がっていけば、次ぎに人間は叡智を持っていますから、社会智を持っていますから、今度は別の意味での大きな広がり、社会性を伴った豊かさになるわけですね。
 
西橋:  ここに来られる方たちの中には必ずしもみんなが農業できるわけではありませんし、自給自足の生活がみんなできるわけでもないけれども、でも自分の生き方―サラリーマンならサラリーマンで、OLならOLで、自分の生き方を見直す一つのチャンスの場でもあるんでしょうね。
 
山崎:  ええ。だからみなさんが大変感激して、初めての若い方もたくさんおられるんですよ。そして、「良いところだな」とまた仲間を連れて来られる。みんなほんとに思いを深く持っておられて、ああっという思いをここで掴んでいかれる。だからここはそういう農的な営みをし、農的な場を目の前にして、人が心と心を通わせる。そしてこう気持ちよくなって、また次のスタートへ立っていく。
 
西橋:  大蔵省にお勤めになって、いわば国の経済を動かす方の立場の一員としておられて、で、この「麦の家」の自給自足の農民の生活を三十年以上続けてこられた。その三十年以上ぶれずに続けてこられたのは、何が山崎さんの思いの中に一番強かったからですか。
 
山崎:  役人生活がそんなに大したことをやり切れているわけではないけれども、それなりに切りを付けて、そしてこの「麦の家」で三十年あまりやれてきた、ということは、ここにいのちがあるからですね。いのちを育む仕事がいつも生身で向き合える。作物を育てることもそうだし、お蚕さんを飼って、繭から糸を採って、機を織る。お蚕さんの命を頂かなければいけない。ということは、そのいのちを頂いた糸で良い織物をしなければいけない。常にいのちと向き合いながら、ささやかですけども日々がある。そのいのちを頂いて、我々はここで暮らしている。子や孫たちもその元で生きているんですね。だから一番素朴なことですが、「いのちに向き合って耕している」ということですね。
 
西橋:  「麦の家」での暮らしを一言でいうと、どういうふうに表現できますか。
 
山崎:  ずっと自分なりに思っていることを言葉にすると、暮らしというのは、ムダがあってはいけない。物にも心もムダがあってもなかなかほんとに幸せになれませんから、一言で言えば、「簡素で祈りのある暮らし」ということですね。私はそうなりたいと思うし願いでもある。またここはそうであろう、と思う。この言葉を忘れずに、私は日々鍬を振るっていきたいと思います。
 
 
     これは、平成二十年十月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである