祈り―苦難をともに40年―
 
                  三浦綾子記念文学館館長 三 浦(みうら)  光 世(みつよ)
大正一三年東京生まれ。昭和二年父の開拓地・北海道滝上村に家族と共に移住。昭和一四年高等小学校卒業後、北海道小頓別丸通運送社に勤務。昭和一五年中頓別営林区署、昭和一九年旭川営林区署、旭川営林局勤務。一九五五年、キリスト教誌『いちじく』を通じて療養中の堀田綾子と知り合い、一九五九年に結婚。一九六六年退職。以後妻・綾子への著述のマネージャー及び三浦綾子記念文化財団理事長を務める。一方アララギ派の歌人で「昭和万葉集」に名を連ね、昭和四六年からは日本基督教団発行の「信徒の友」短歌欄の選者をつとめる。著書に「吾が妻なれば―三浦光世集」「愛に遠くあれど」「太陽はいつも雲の上に」ほか。
                  き き て       山 田  誠 浩
 
ナレーター:  北海道旭川市。北海道を舞台とした数多くの小説を生んだ作家三浦綾子(あやこ)さんが暮らした街です。綾子さんが亡くなった今も作品に込められた思いとその生涯を伝え続けているのがこの文学館です。作家としての綾子さんの人生は、絶えず病の苦しみとともにありました。綾子さんの執筆を支えたのは、キリスト教の信仰と夫三浦光世さんでした。光世さんは綾子さんの作品を口述筆記し、常に創作の場に立ち会ってきました。光世さんの存在なしに綾子さんの著作はありませんでした。綾子さんが亡くなって間もなく十年、光世さんは自分しか知らない三浦文学誕生の場を記録し、妻を支えて歩んだ四十年の意味を見つめ直そうとしています。ご夫妻の思い出の地、そして小説『氷点』の舞台ともなった林の中で伺いました。
 

 
山田:  ほんとに今日は良いお天気で、青空に見本林(みほんりん)(外国樹種見本林の通称名)が映えて見事ですね。
 
三浦:  そうですね。ほんとにいい天気で、
 
山田:  ここは見本林と言いますけど、外国樹種がたくさん植えられているところだそうですけれども。
 
三浦:  そうですね。私は以前営林局に勤めておりまして、歩いて七、八分で来ることができまして、昼休みによく来たんですよ。綾子と出会って、綾子が臥(ね)ている時、まだ脊椎カリエスと肺結核で臥ている頃でしたですね。よく見舞いに行って、それから営林局にも、私は転勤になりましてから、見本林良いなと思って眺めて、ある時見舞いに行って―綾子の旧姓は堀田と言いました―「堀田さんはあの神楽(かぐら)の見本林見たことありますか?」と言いましたら、綾子は、「はい。私、小学校の時と女学校の時と二度遠足で行ったことがあります」。そうか。もう一度なんとか見せてやりたいなと思いまして、この林へ来てはよく快復の日を陰ながら祈っていたんですけどね。まさか小説の舞台になるとは思いもよらなかったんですが。結婚して一年経った時―結婚した年はちょっとまだ歩き廻れなかったものですから―一年経った時におにぎりを持って来たもんですよ。
 
山田:  そうですか。
 
三浦:  そこの土手を越えて、美瑛川(びえいかわ)の畔まで行きまして、おにぎりを食べた記憶があります。
 
山田:  じゃ、お二人の生活の中にこの見本林は非常に深く結び付いているんですね。
 
三浦:  そうですね。
 

 
ナレーター:  三浦文学は、夫婦二人切りの書斎から生まれてきました。執筆はいつも光世さんの祈りから始まりました。
 
三浦:  今日もいのちを頂いて有り難うございます。こうして働けることを感謝します。どうぞこの小説を通して、また全能の神の御名(みな)が崇(あが)められるようにおとりはからいくださいますようにお願い致します。貴重な人生を生きている私たち一人一人でありますけれども、どうか良き歩みをなしえますように、神さまの愛をどうかこの小説の中にも表すことができるようにお導きくださいますように、口述する綾子のうえに、特に智慧が与えられ力が与えられますようによろしくお願い致します。小さき一言の願い、感謝の祈りをキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
 

 
ナレーター:  綾子さんは、苦難に遭った実在の人物をモデルにしばしば作品を書いてきました。罪や赦し、そして愛といったキリスト教の信仰に関わるテーマを、主人公たちの人生の中に浮かび上がらせていきました。綾子さんが亡くなって九年。光世さんは何故綾子さんの手助けに自分の人生を捧げることができたのかを問われ、自らの生い立ちを書き綴るようになりました。光世さんにもまた苦難の幼少期と、そこから生まれた信仰があったのです。三浦さんの両親は福島から北海道の滝上村(たきのうえむら)へ移住した開拓農でした。しかし思うように収入を得られず上京。光世さんは一九二四年に東京で生まれます。生活が安定したのも束の間、光世さんが三歳の時、父貞治(ていじ)さんは肺結核になり一家は北海道への帰郷を余儀なくされました。
 

 
三浦:  もう肺結核と言えば、死刑の宣告ですね、当時は。
 
山田:  当時はそうなんですね。
 
三浦:  もう何にもない。特効薬もないですからね。で、どこで死のうかと考えて、まあ北海道の滝上(たきのうえ)の拓いた土地へ子どもたちを連れて帰れば、親たちがなんとか面倒をみてくれるかも知れないということで、三十二歳の父は、母や私の兄や私と妹を連れて滝上村という―今は町ですけど。芝桜で有名になりました―その山奥へ帰って、帰った当時はまだ元気に見えましたけどね。油絵が好きでチューリップなど大きな額に描いていたのはまざまざと忘れないですね。でもどんどん肺結核が進んで、夏頃に滝上に帰って、十一月二十八日に亡くなりました。
 
 
ナレーター:  三浦さんの母は一家の生計を立てるため髪結いになろうと村を出ます。そして十年間帰りませんでした。その間光世さんは兄弟とも離れ、一人母方の祖父の家に預けられます。キリスト教の信仰を持つ祖父はしばしば聖書を読んでくれました。壁にキリストの絵が掛かり、賛美歌が流れる開拓村の家で光世さんは育ちます。この頃から光世さんは父と同じ病に苦しめられていきます。
 

 
三浦:  三歳の頃は、父が肺結核になった時に、もう私が一番側にまとわりついていたんですね。兄は五歳上でどんどん外を飛び回って遊んでいた。妹は母がいつも抱いている。私が一番父の側にいたもんですから肺結核になった。結核菌が感染したんです。
 
山田:  どこへ結核菌が?
 
三浦:  一年ぐらい経ってリンパ腺結核。ここにこんな大きな傷があるんですよ。リンパ腺結核だけで終わればどうということもなかったんですけど、これが十年後、十五、六歳の時に右の腎臓に下りてきまして、右腎臓の腎臓結核ですね、腎臓の結核菌が膀胱に下りてきて膀胱(ぼうこう)結核。これが苦しい病気でして、拷問のように苦しみましたですよ。
 
山田:  例えばどういうように苦しいんでしょうか?
三浦:  尿がトイレに行っても出ないんですね。出そうと思っても。出ないと思ってまた部屋に帰るとまたしたくなる。そしてしかも血尿が出る。特に「終末時出血」といって、尿が終わる頃に血が出るんですよ。痛かったですね。苦しかったです。兄に、「こんなにもう苦しんで生きているならバカバカしい。自分で適当に命始末したほうがいいな」なんて自殺をほのめかした。兄は、「お前は愛のわからん奴だな」って。「親兄弟がお前をどんなに考えているか、そういう愛情をわからないか」ということだったんですね。苦し紛れに母の持っていた聖書を棚から下ろしまして、なんか希望を持てないかと思って、読もうと思ったけれども、何がなんだかわかりませんでしたね。新約聖書の「マタイによる福音書」は名前ばかりがずらずら片仮名で出て。で、兄が私が聖書を読み始めたのを見て、「おッ光世、おまえ聖書読んでいるのか。ちょっと一人じゃ無理だな。どっかへ行って牧師さんを呼んで来なきゃ」と言って訪ねて行って、家に来てもらったんです。ぼつぼつキリスト教は排斥される時代だったんですけども、兄は一生懸命やってくれたんですね。私が聖書を読んでいるのを見て、「なんだおまえ情けない奴だな。そんなものに頼らなきゃ生きていけないか」と言われたら、私は読むのを止めて、二十歳(はたち)代を生きることはできませんでしたね。
 

 
ナレーター:  痛みのあまり、光世さんには自らの苦しみしか見えていませんでした。しかし母は困難な暮らしの中で、ただただ祈り続け、読書の好きな兄は自分の進学を諦め、光世さんの学費を稼ごうと出稼ぎに出ます。十年以上に及ぶ闘病の陰には、家族の深い思いがありました。
 

 
三浦:  戦後にはストレプトマイシンというアメリカで開発された特効薬が出たんですね。兄はすぐにも闇で闇値で買って、それを注射を受けさせようとしたんですけれども、高いわけですよ。兄はストレプトマイシンを買うために自分の蔵書を売りました。ちょっと残念そうでしたけどね、その表情を忘れられません。
 
山田:  病気はそれでよくなってきたんですね。
 
三浦:  ほんとに一晩に五回も七回も夜トイレに起きるのが、もう五回、四回、三回、二回とぐんぐんよくなっていくわけですね。兄もビックリしまして、「う〜ん」と言っていましたね。
 
山田:  そういう中で聖書を繙(ひもと)きながら牧師さんと共に過ごされて、お兄さんが、「愛のない奴だ」とおっしゃったんですけれども。
 
三浦:  青年会の連中何人かで牧師さんに質問したことがあるんですね。「先生、愛ってなんですか?」と。牧師さんは大阪から来ておられた方で、「何じゃ、おもえたち、そんなこともよう知らへんのか。困ったもんじゃなあ」って、大阪弁でそう言いましてね、「愛とは何人を幸せにしようとする意志や」と言ってくれました。幸せにしようとする感情ではなくて重い意志ですね。人を幸せにしようとする心、志、意志。それを忘れられませんけどね。
 

 
ナレーター:  綾子さんは旭川に生まれ、一九三九年、十七歳で小学校の代用教員となりました。軍国主義が高まるなか、綾子さんは子どもたちに熱心に神国日本を教える教師でした。ところが戦後それまで信じて教えていたものが一変、教科書に墨を塗ることになります。投げやりな気持で退職した綾子さんは、二人の男性と同時に婚約します。しかし突如結核で倒れ、十三年間に及ぶ療養生活を送ることになります。自暴自棄に陥った綾子さんに聖書を勧めたのが幼なじみの前川正(まえかわただし)さんでした。何度断られても生きる希望を説き続けた前川さんに打たれ、綾子さんは洗礼を受けます。しかし前川さんは結核で亡くなります。一年後失意の綾子さんを訪ねたのが光世さんでした。共に投稿していた結核患者の同人誌の編集者から見舞いを頼まれたのが縁でした。
 

 
三浦:  堀田綾子の文章や手紙など上手いなとは思ったんですけれども、若い女性のところへぽかぽかと行って、後でややこしくなるのは困るなと思いました。何でも愚図でしたからね。もし応対する方が、迷惑そうな顔をしたら一回で行かないぞ、と覚悟を決めて行ったんです。そうしましたら堀田綾子の母親が玄関に私の応対に出てきた。これが優しい顔をしていましてね、もうすっかり安心して、「まあどうぞどうぞ」と言われて、六畳奥の間の離れに連れて行かれた。綾子は臥た切りで、脊椎カリエスと肺結核でギプスベッドに臥ていました。
山田:  ギプスベッドというのはどういう感じのものなんですか?
 
三浦:  石の床と言っていいでしょうかね。石膏の床ですよ。腰の辺りまででしたけどね。七年間寝返りできない状態―これは後で聞きましたけど―〈これは大変だな。これは治れるのかな〉と思いましたね。で、一回目は、「どうやって御飯を食べているんですか?」なんて愚問を発して、「はい。私、胸の上にお膳を置いてもらって食べています」と言いましたね。胸の上に置かれた御飯を手鏡で写して、写しながら箸で御飯を食べている。〈いやぁいやぁ、これはとても治らないんじゃないかな〉と思った。初めての時、綾子から、「聖書を読んで下さいませんか」と言われましたね。「はい。いいですよ」ということで、「ヨハネによる福音書」の十四章でしたが、キリストが弟子たちに、「お前たちはここの世を去って、死んでも心配するな」と、キリストが弟子たちに諭しているところがあるんですね。「天国には住むところをたくさん神さまが具えていてくださる」。いつ治るかわからない重病人に、「天国には住むところがある」というところを読んでやったんですよ。「もう帰ってください」と言われても仕方がなかったんですけども、綾子にはそういう発想もなかったんですね。結婚してから初めて会った時、「私、三浦さんって変わった人だと思ったのよ」と言われましたね。
 
山田:  三浦さんとしてはどういう思いでそこを読まれたんですか。
 
三浦:  ほんとに希望を持っていったらいいと思って、天国への希望を持ったら楽になる、気持も楽になるんじゃないかな、と思ったんだと思いますよ。
 
山田:  その時、最初にお会いになった時の綾子さんの表情というのは、なんか印象に残ったことはございますか。
 
三浦:  臥ていましたけどね、目が黒くて、とても大きな目をして、綺麗な目をしていました。忘れられないです。それからその時だったか、次の時だったか「賛美歌を歌ってくれませんか」というわけです。これも「よろしいですよ」と言って、歌ったのが、「主のみもとに近づかん」という賛美歌です。賛美歌ですからいつ歌ってもいいんですけれども、葬式の時にもよく歌われる。だから「縁起でもない」と言われても仕方がなかったんですけども、そういう発想は綾子にはなくて、聞いてくれていました。ですから綾子が、前川さんのことを何回も話してくれました。嫌だと思うことはまったく一度もなくて、ほんとに感謝して、見習わなければいけないと思うばかりでしたですね。綾子が戦時中に天皇陛下を神さまだと信じて、日本は神国だと信じて、もうそんなことはとんでもないことだったんだ、ということで、もうとんでもないことを信じた私は生きていられないということで、戦後斜里の海へ行って自殺を図るわけですよ、夜中に。前川さんはこの綾子を小さい時から知っていたんですね。何とかして本当の希望を持たさなければ、また自殺を図るだろう、ということで、聖書を一生懸命勧めるわけです。ところが綾子はなかなか読まない。読もうとしない。もう戦時中とんでもないことを信じて、「信ずるって何ですか? バカバカしい」ということで受け付けない。ところが前川さんは、一回や二回、三回でひるむ方ではなかった。何回でも来て勧めたわけです。綾子は、「私があれだけバカにしてまで追い返すのに、これは何か本物でないかな」と思ったんですね、綾子は。前川さんのお陰で、綾子はほんとに聖書をついに読むようになって、信ずるものになったわけですね。私は、その前川さんの写真をいつも持って歩いているんです。何よりも綾子を立ち上がらせた、生き延びさせた最大の恩人だということで、いつも持って歩くことにしたんです。で、三度目の時は、「私のためにお祈りしてくれませんか」というわけですよね。これも「いいですよ」と言って、で、「どうか全能の御神さま、この堀田綾子さんを、どうぞ御心に叶うならば、お癒し下さい。大変な病気から解放されますように」。それで止めておけばいいのに、偉そうなことをいうバカな癖がありまして、「もし、私の命が必要でありましたら差し上げてもよろしゅうございます」ということを付け加えたわけですよ。綾子はビックリしまして、「そんな祈りを聞いたことはない。ほんとによしわかった。お前の命を取り上げてこの堀田綾子にやることにしよう≠ニいうことになったらどうしようかと心配した」と言っておりました、後にね。
 
山田:  光世さんご自身としては、どういう思いでそういうことをおっしゃったんですか。
 
三浦:  私は、さっき大分私の苦しいこと言いましたけれども、ストレプトマイシンでもうほんとに良くなりましたですからね。夜も起きなくなって、もうほんとに有り難いことになったもんですから、もういつ死んでもいいと、本心思っていました。それで威張ることもない言葉だったんですけど、「どうぞ、私の命を上げてくださってもいい」と。これに綾子は感動したわけです。「こんな祈りを聞いたことない」と、ほんとに感動してくれました。
 
山田:  最初の時に「とても目の綺麗な女性だった」と思ったとおっしゃいましたけれども、その堀田綾子さんにとても気持を動かされて、女性としてお好きになられた、というのは?
 
三浦:  というのはほとんどなかったですね、正直言って。
 
山田:  ないですか?
 
三浦:  なかったです。治ってほしいと思って、いつも朝に夕にお祈りしておりました。ところがある時、ありありと、堀田綾子がとうとう亡くなった、という夢を見たんですよ。いや、これは残念だ、と思いましてね。それでもうキリストの足にしがみつく思いで、あれだけ長く同じことを祈ったことはありませんけど、「何としても治してください、治してください。あの苦しみから逃れさせてください。元気にしてください」と、まあくどくどと一時間近くもお祈りした。その時に胸に響いた聖書の言葉がありました。キリストが弟子たちに、「お前たちは私を愛するか」ということを言った。その「愛するか」という、その一語が非常に胸に迫るように迫ったんですね。これは一体どういうことなんだろうか。その時いろいろ思いまして、〈これは一緒に結婚して生活していかなければならないだろうか〉と思いました。思いましたけれども、しかし私には愛はない。兄にも言われるように、「お前は愛のわからん奴だ」と言われて、結婚しても、妻を愛していくなどという愛は私にはない。そういう愛というものを―それこそ人を幸せにしようとする意志や、ということは後で聞いたわけですけど―その愛を頂きたいと思って随分お祈りしました。そうしているうちに心が静かになりまして、それが決断でしたですね。毎年正月にはお見舞いに行っていたんですよ、元旦に。元旦に行きまして、四年目の時に、綾子が、「来年もまた来てくださるでしょうか。元旦に」と言いました。私は、「いいえ、来年は」と言いましたら、「あら、来てくださらないんですか。もうこれで終わりですか」というわけですよ。「いや、来年の元旦は二人でお父さんお母さんに新年の挨拶に来ることに致しましょう」と言ったんです。格好いいんですけども。これが告白です。
 
山田:  光世さんって意外にきざっぽいですね。
 
三浦:  そうですね。
 
ナレーター:  光世さんは、綾子の快復を待ち、一九五九年、人々に見守られながら結婚式を挙げました。出会ってから四年後のことでした。それぞれが長い闘病生活を送ったのち、光世さん三十五歳、綾子さん三十七歳の春でした。
 

 
山田:  あの新婚生活が始まった頃は、まだ光世さんご自身は営林署に勤めていらっしゃったわけですね。
 
三浦:  勤めています。
 
山田:  お弁当なんか綾子が作ったりしたんですか。
 
三浦:  そうです。中に手紙を入れたり、それから御飯の上に片仮名で二つ三つの言葉が・・・生姜で、
 
山田:  例えば二つ三つの言葉ってどんなことが書いてあるんですか。
 
三浦:  「愛しています」とか、そんなような言葉ですね。
 
山田:  綾子さんにお会いした印象では、とても率直にものを言われる方だという印象が私にはあるんですけど、ご夫婦の間でもそうでしたか。
 
三浦:  ええ。率直でしたですね。私が、「こういう短歌(うた)ができた」と言って見せると、「つまらない」、一言のもとに葬り去られたこともありましたね。
 

 
ナレーター:  光世さんとの暮らしの助けになればと、綾子さんは雑貨屋を開きます。そして二階の住まいで書いた文章を婦人雑誌などに投稿し始めました。一九六三年の元旦、綾子さんは新聞で一千万円の懸賞小説募集の記事を目にします。その時心に浮かんだテーマは、「人間の罪」でした。軍国教育に邁進し、闘病時代には荒れた心で他人を傷付けてきた過去。その罪に気付いた時の凍えるような思いと、罪をも赦す神と出会った喜び。綾子さんは、人が生まれながらに持つ罪。聖書の原罪を描きたいと考え、光世さんに相談を持ち掛けました。
 

 
三浦:  で、明けて二日の朝、綾子が意外なことを言い出した。「私ね、夕べ一つの小説の粗筋ができたの。書いてもいい?」と言ったんですよ。まあその時、私、当然「あれ夕べ関係ないようなことを言ったのを、さては一千万円が頭にきたか」と思ってもよかったと思うんですけど、全然そうは思わなかった。そして、「あ、小説か。ああいいな。読んでくださる方の希望になるような、力になるような小説を書いたらいい」なんて、海のものとも山のものともわからない時点で、そんなことを言って。
 
山田:  その粗筋をお聞きにならなかったんですか。
 
三浦:  聞かなかったですよ。
 
山田:  聞かないまま「書いたらいいんじゃない」とおっしゃったんですか。
 
三浦:  そうですね。「主人公の陽子という少女が自殺しようとする時に、遺言の中で、〈心が凍えてしまった〉という、そんな遺言を書かせるような小説を書いてみたい」ということは言いましたけどね。それで、「ああいいな。書いたらいい」「あ、嬉しいわ。書くわ」と言って。で、五日の日でしたかね、「舞台をどこにしようかな」と言った。「舞台な、どうせ主人公は旭川の人間なんだろう。それならそうだな、神楽の見本林の近くに家があることにしたらどうだ」と言ったんですよ。「ああ、あそこは良いわね」と。そして九日でしたかね、『氷点』というタイトルを―私の家からこの神楽の営林局に通う時に、四条八丁目というところでバスを乗り換えなければならなかった。乗り換えのバス停で、今日も寒いなと思いながら、辺りを見回していて、今日は氷点下いったい何度あるのかな、と思って、ふと〈氷点下。うん、あのタイトル氷点≠ヘどうだろうな〉と思って、一日仕事をして帰って、「どうだ。今書き出した小説のタイトルは、氷点≠ニいうタイトルでどうだ」といいましたら、綾子はビックリして、「あら、素敵ね。さすが光世さんね」と言って、何度も誉めてくれました。それで「氷点」が決まったんです。一年かかって、十二月三十一日の午前二時ぐらいだったでしょうかね、原稿用紙を私は小包にして、そして横へ置いて感謝の祈りを捧げて、翌朝九時か十時に起きたんだったでしょうかね。それで十一時には六条十丁目の本局へ私が持って行きました。十二月三十一日のスタンプがあればよろしいという規約でしたので、郵便局の係の方に、「すいません。スタンプをはっきり押してくれませんか」とお願い致しました。「はい。わかりました。二回押しておきましょう」と二回押してくれました。そして「氷点」は矢を放たれていった、ということですね。
 

 
ナレーター:  『氷点』が当選し、作家三浦綾子が誕生します。四十二歳の時でした。無名の主婦の成功に世間は湧き、執筆の依頼があいつぎます。綾子さんは作品の誕生に掛け替えののない役割を担ってくれた光世さんに、出版された『氷点』を手渡しました。
 
     神の与え給うたわが夫三浦光世様へ
     いいつくしがたき感謝と愛を以てこの本を捧ぐ
                     綾子
 
以後綾子さんは、作品を書くたびに、光世さんへ献辞(けんじ)を添えて手渡すようになりました。しかし結婚後も病気がちであった綾子さんは、やがてペンを持てないことが多くなります。
 

 
三浦:  ある時、綾子が、「私ちょっと今日肩こりが酷くて、手も痛いし、私の言う通り原稿に字を書いてくれない。文章を書いてくれない」「ああ、いいよいいよ」と言って書いてあげました。原稿五、六枚か十枚ぐらいの時に、「これ大変楽だから、今度これでいきたいわ」なんて言いましてね。その後ほとんど口述筆記になりました。私はなるべくいい返事しました。「はい。はい」と言ってね。
 
山田:  それは口述の合間に?
 
三浦:  そうそう。文章を一、二行ずつ言っていくわけですけど。
 
山田:  綾子さんが一行ずつ言っていかれる。それに対して。
 
三浦:  「はい。はい」と聞きながら。そしてなるべく早く、ぐずぐずして流れが乱れると困ると思って、早く書きました。そしていい返事をしないと、「私の文章おかしいんだろうか」と思わせたら、流れが乱れると思ったんで、なるべくいい返事して、なるべく綺麗に書いてやりました。「さあ、口述するからね」というと、私は何をおいても「うん」と言って、すぐ。
 
山田:  それは口述を始められて、それで支援を強めるために営林署を結局退職してそのことに関わったわけですね。
 
三浦:  ええ、そうですね。
 
山田:  営林署を辞めてまで綾子さんの作業に協力していこうというふうに考えられたのはどうしてなんでしょうか。
三浦:  誰か他に口述筆記してもらう適当な人はなかなかいないなと思いましたし、だんだん仕事もたくさん増えて、これは共にいてやるのが必要だなと思いまして辞めることにしたんです。まあおもしろおかしいだけでなくて、いろいろな良い作品も書いて、若い人などが、「三浦さんの本を読みまして自殺を思い留まりました」なんていう青年なども家に来たこともありました。たしかに書くことは大きな使命だな、と思ったものですから、これは辞めてでも協力したほうがいい、と思って決断しまして辞めたんですよ。
 

ナレーター:  三浦文学は、一貫して「如何に生きるべきか」を問いかけてきました。愛に躓(つまず)き悩む若者。他人のために自分のいのちを投げ打つ生き方。信仰によって苦難に立ち向かった人物。二人は書くことは神から与えられた使命であると受け止め、病や苦しみはそのための糧として生かされていきました。苦難の中にある人が少しでも心を軽くできるよう祈りながら、九十六冊の作品を書き綴っていきました。
 

 
三浦:  仕事の前は祈りを致しました。特に綾子が、「さあお祈り」と言って促してくれましたからね。綾子は自分でも黙祷はよくしていたんでしょうけども、「さあお祈りするね」とは言わないで、私に祈らせていました。
 
山田:  実際に作品をお書きになる時なんかは、どういうことをお祈りなさったんですか。
 
三浦:  そうですね。必要な言葉与えられ、読んでくださる方がほんとに力づけられる言葉、表現を与えて頂けますようにお願いしましたね。
 
山田:  その『氷点』から始まって、およそ九十冊にわたる著作をずっと書かれるんですけれども、
 
三浦:  私が勧めて綾子が書いた小説は『泥流地帯』と『母』だけですけどね。綾子は初め「はい、わかりました」と言わなかったですね。「いやぁ、泥流地帯。私の体験にないのね」と言いましてね。これは人間の苦難には単なる因果法では割り切れないものがあるということです。これ聖書自体が示しているんですね。旧約聖書の「ヨブ記」に、ヨブという人物がもうほんとに完璧な人物であったにも関わらず、ある時ハンセン病でしょうか、大変な病気になる。家族は次々に殺される。大変な苦難に遭うわけです。その素晴らしい良い行いをしてきた人にそういう苦難があったという箇所があるんですね。劇詩とも言われている一大ドラマなんですが、それをテーマにこの『泥流地帯』を書いたらどうかな、と勧めたわけです。
 

 
ナレーター:  『泥流地帯』は一九二六年の十勝岳(とかちだけ)の噴火で、多くの人が家族や家を失った実際の出来事を題材にしています。真面目に生きてきた人たちに降りかかる「ヨブ記」のような苦難を、人はどう捉え、どう生きればいいのか。光世さんは綾子さんに突き詰めてほしいと提案したのです。このテーマの重さに、綾子さんはすぐには執筆に取りかかれませんでした。綾子さんは苦難に真っ正面から向き合う主人公耕作の姿を光世さんの生い立ちに重ね書きあげます。主人公たちは最後にこう語ります。
 
あのまま泥流の中でおれが死んだとしても、馬鹿臭かったとは思わんぞ。もう一度生れ変ったとしても、おれはやっぱりまじめに生きるつもりだぞ
 
綾子さんは、光世さんに宛てて、次の言葉を記しました。
 
    耕作は光世さんの中にある沢山のものを持って生まれました。
    光世さんへの敬愛がこの少年を生んだとも言えます。感謝です。
    一九七七・三・二五
三浦綾子
    敬愛する光世様
 

 
山田:  綾子さんご自身も、ご結婚後もほんとにいろんな病気をずっと、そういう意味では苦難を背負っていますね。
 
三浦:  そうですね。綾子は特に大変な病気もしましたね。帯状疱疹(たいじょうほうしん)(ヘルペス)という顔が火ぶくれのようになって、もう酷いものでした。「三大痛い病」の一つだというんですけど、お医者さんに行ったら、「左の目がこの病気に冒されているから、左の目はもうダメでしょうね」―失明ですね。綾子はそれを聞いて、「ああ、私、失明するの」と言って、そして目を瞑って壁に手探りで歩く練習をしたりしていましたね。でも失明は免れました。もう一つ、「この病気には癌が潜んでいるから気を付けてください」とお医者さんから言われましたね。癌はなりましたよ、直腸癌に。この癌になった時に、綾子は、「ああ、私は癌にまでなった。神様に依怙贔屓(えこひいき)されているんじゃないだろうか」。神様に特別にこんなにしてもらってもったいない、ということです。「癌にまでなって、十三年の病気がなければ読んで貰える小説もおもしろおかしいだけであったのに、それがこのように多くの人に読んで貰って有り難いことだ」と、そんなことを言っていました。
 
山田:  つまりそれは神様がそういう苦難を与えることによって目をかけてくださっている、というふうに解釈されたという。
三浦:  そうです。そういうことです。
 
山田:  光世さんご自身も、綾子さんの作品はそういう苦難の中から勝れた作品が生まれている、というふうに考えられますか。
 
三浦:  いや、そんなふうにはその時全然思いませんでしたね。でも後には苦難をしたお陰で書けたな、と思ったことは何度もありましたけども。
 

 
ナレーター:  最後の長編小説となった『銃口』。太平洋戦争前夜、綴り方教育が左翼的だとして、三百人にのぼる小学校教師が検挙された事件を描いています。軍国教育に邁進していた綾子さんの痛みとも重ねる作品です。
この頃から綾子は、パーキンソン病も発病し、徐々に体の自由が奪われていきました。『銃口』出版後は、日常生活も不自由となり、光世さんの看護が欠かせなくなりました。そして一九九九年九月、七十七歳の生涯を閉じました。『銃口』の献辞には、光世への感謝の言葉が短く記されています。
 

 
三浦:  難病の一つのパーキンソン病という病気になったんですね。歩き方も悪くなりまして、並んで歩くとすぐつんのめるような歩き方になってきましたので、「綾子、歩く時はな、踵から地面につけて歩くといいぞ」なんて偉そうなことを言ってね。大変な病気だったんですね。だんだんそれが進んで歩けなくなって臥たっきりになって。食事も口に持っていくのが大変困難になりました。うまくいったなと思うとポロッと落とす。そろりそろり持って、あ、上手くいったなと思ったら、ポロッと。私としたら箸を板の間に叩き付けてやろう、と思う。そういう感情は綾子にはなくて、ほんとに忍耐強くしていましたけどね。可哀想でしたね。
 
山田:  綾子さんは生涯を全うされたんですけど、お一人になられてからはどういうお気持ちですか。
 
三浦:  そうですね。四十年も有り難かったなあという感謝はありましたけども、こんなことになって、というふうな愚痴っぽくは考えたことはないですね。まあよくやってくれたなあと思っています。今もそうですけど―また会う日がくるんだろうと思っておりますけど。それは勿論夫婦としてではなく、人間としてこういう人生が与えられたのかなあと思っています。考えてみれば四十年も一緒にいたんだなあと思って、四十年という長さをよく思いますね。四十年というのは、旧約聖書には、イスラム民族がエジプトから故国イスラエルに辿り着くのが四十年かかっているんですね。それと同じ長さなんだと思いながら、四十年も一緒にいたか、と。有り難かったなあと思って、ほんとに有り難いですね。
 
     これは、平成二十年十月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである