百一歳の七福
 
                      龍源寺前住職 松 原  泰 道(たいどう)
明治四十年東京生まれ。昭和六年早稲田大学文学部卒。岐阜・瑞龍寺専門道場で修行。昭和二十六年臨済宗妙心寺派教学部長。昭和五十二年まで龍源寺住職。全国青少年教化協議会理事、「南無の会」会長等を歴任し、各種文化センター講師をつとめるなど、講演、著作に幅広く活動。著書に「松原泰道全集」全六巻、「般若心経入門」「観音経入門」「法華経入門」ほか多数。
 
                      き き て   亀 井  鑛(ひろし)
 
ナレーター:  松原泰道さん、明治四十年生まれ、百一歳の禅僧です。月に一度東京三田(みた)の喫茶 店で、松原さんから仏教の話を聞く会が開かれています。題して「南無(なむ)の会」。 僧侶が寺から出て仏教の教えを人々に語りかける、いわば説法の出前です。この日は松原さんの百一歳の誕生祝いを兼ねた説法会。サラリーマンや主婦、教師や職人などさまざまな人が集まりました。松原さんは昔の辻説法のように現実の人々の悩みや苦しみに向き合い、心の杖となる言葉を届けたいと願ってきました。松原さんは自分の人生で出会った出来事や幅広い読書 で得た知識を交え、仏教を噛み砕いて伝えようとしています。
 

 
松原:  だんだん寒くなってきましたけど、みなさんお元気な様でけっこうでございます。どうぞ風邪を引かないように。風邪をお引きになるのはご自由ですけれども、私に移さないように(笑い)。明日は私の百一回の、仏教語で申しますと「祥月命日(しょうつきめいにち)」なんです(笑い)。「祥月命日」というと死んだ日のように受け取りますけど、これは古語彙でしてね、よくそういう仏教語が間違って紹介されて、つまらない心配をされる方がありますが、「祥月命日」は世間で考えているような死んだ日じゃないんです。漢字でご覧になるとわかりますね。「祥月(しょうつき)」は生まれた月と書くんです。「命日(めいにち)」は命の日です。だから「祥月命日」は死んだ日じゃなくて、生まれた月の命を頂いた日、これが正しくは「祥月命日」です。ですから私は明日は祥月命日でありまして、お祝い頂きましてどうもありがとうございます(拍手)。長生きをしますと、ほんとにお釈迦様の言われたように、長生きもまた苦労ですね。肉体的には非常に苦しくて、元気なように見てくださいますけれども、もう自分の身体は自分の思うようにならないです。寝る時もベッドに腰掛けるまでのことで、後横になることができないんですね。それから起きる時も起きれないんです。ベッドに腰をかけて着物を着せて頂く。まだ私は幸いに苦労はありませんが、長生きをすると、幼い者や若い者が先に死ぬんじゃないんだろうか。こういう不安があるわけです。だからどちら考えても、長生きしても短命であっても、やはり人生は苦だということに代わりはないわけです。そのマイナスの苦をどうやってプラスにしていくか。ここに生き甲斐があるわけです。「釈迦(釈尊)の教えは人間は生まれたから死ぬ」という、こういうきわめて簡単明瞭な定義であります。何故死ぬのか。生まれたから死ぬ。この原因と結果の関係、きわめて明瞭です。人間をはじめ生物はすべて生まれたから死ぬ。この大前提を命題として、その生き方を教えるのが、釈迦の教えです。これは例外のない事実だが、それを問いとして人間はどのように生き方を学んでいくか。これが釈迦の教えの総てなんですね。
 

 
ナレーター:  松原泰道さんが住む東京三田の龍源寺(りゅうげんじ)。江戸時代から続くという古い寺です。今日は、松原さんが百一年の人生の中で見出し てきた幸福論を伺うことにしました。
 

 
亀井:  松原さん、百一歳におなりになったということでございますね。
 
松原:  ええ。十一月二十三日、
 
亀井:  勤労感謝の日ですね、お誕生日が。
 
松原:  私の誕生は国民の祝日に当たっています。
 
亀井:  ほんとですね。国民こぞって祝ってくださるというような。
 
松原:  あなた方お休みなのを私の誕生日だから。(笑い)
 
亀井:  松原さんはお正月と言っても必ずしも目出度くないというような気持ちを持っていらっしゃったことが暫くあったそうですね。
 
松原:  あります。私がちょうど三十歳、昭和十一年の元旦に父であり師匠である祖来(そらい)和尚がぽっこり亡くなったんですよ。私が本堂で元旦のお勤めをする用意をしておりました時、方丈(ほうじょう)(住職の居間)の方で大きな音がしました。行ったら父親の祖来和尚がトイレを出たところで、脳溢血で倒れておりました。誰も知らんかったものですから、年賀でお出でになる方が「おめでとう」と言って見えて、様子が変なので、慌てて悔やみを述べられるという。ちょうど六十六歳でしたね。だから私はそれから非常に懐疑的になりましてね、お正月が何がお目出度いんだ、と。私の父親の師匠の祥月命日じゃないか。何がお目出度いのか。それで反抗的になりましたね。それから何年か経って、待てよ、元旦に死ぬのは親父には限っていないんで、私だってその可能性が十二分にある。誰でも可能性がある。父親を亡くして、今まで職業柄お檀家など亡くなった人のところにお経を読みに行きました。生きているのがこんなに悲しいのかと思った時、私が今まで読んできた霊前のお経というものが本当に虚しいものだ、と気が付きましたね。心からお経の読めるお坊さんになりたいという気持ち。一休さんじゃないけど、人は生まれたら必ず死ぬんですからね。それが当たり前のことなんだけれども、死ぬもせず生きていて、また新しい年が頂ける。ほんとにそれがわかった時に、父親の死によってお正月が本当にお目出度いということがわかりましたね。だから生きた人たちの心に明かりを灯すような意味で法を説きたいなと思っていました。それが現在の私の一番の元になりますね。
 
亀井:  人間の幸福といったような問題を今日はテーマにしてお話をして頂こうということでございますけれども、これからますます老人が増えてくる時代でございますね。そういう「老いる」という、「歳をとる」ということの中に、ともすれば寂しさとか、切なさとかというようなものが、先に立つんですけど、「老いる」ということの中に込められた幸福、幸せというものをどのように見出していったらいいのでしょうか。
 
松原:  今、その事について勉強の真っ最中ですね。たまたま若い時に読んだアメリカの代表的な詩人ホイットマンですね。この人の詩に、
 
     女あり、ふたり行く、
     若きはうるわし、
     老いたるはなおうるわし
 
この「うるわし」という字をどういう漢字なり仮名を当てるか。この頃私は、若きうるわしは、「麗人」の「麗」。老いたるは、仮名で書くほうがいいと思うんですけれども、強いて漢字で当て嵌めれば「美」、普通の「美」ですね。
 
亀井:  一般的な美しい、
 
松原:  「若きうるわし」は天性の美だけれども、「老いたるはうるわし」は物事を丹精(たんせい)する。丹精の美だと思うんです。よく「ご丹精の品を頂きまして」という。
 
亀井:  「丹精込めて」という丹精ですね
 
松原:  ええ。丹精を込めたものにして、新品とは違った、次元の違った美しさというものもある。「老いたるはうるわし」人間もそうです。お釈迦様も言っているんで すけれども、「頭髪白きがゆえに尊(たっと)からず」頭の髪の毛が白いからといっても貴重ではない、と。どういう生き方をしたか。この生き方が丹精。これが問われているわけですね。禅語でいい言葉で、「閑古錐(かんこすい)」という言葉があるんです。「閑古錐」というのは錐を使い古してしまって、もう先が丸くなってしまって錐の用はなさない。しかしそれがあると机の上が何となく賑やかだ、という。用には立たないけれども、そこにある限り、そこがなんか落ち着いている。人間の場合、若い時はそれこそ切れて切れて切りまくって、錐のように本当にやり通してきたけれども、歳をとったらその先が丸くなった。役には立たないけれども、そのまま役に立たないものがそこにいることで、その場所が温かく感じた。何となく安心していける。何にもしなくてもあの人がいてくれれば、この場が豊かになってくる。そういう「閑古錐」になりたいんだ、といっている。
 
亀井:  「閑古錐」、それが「老いる」ということの幸せであり、老いることの意味である。
 
松原:  「老いたるものはなおうるわし」という。
 

 
ナレーター:  百一歳の今も、松原さんは一日のほとんどを読書や執筆などに費やします。朝五時に床を離れ、まず般若心経を唱えることから一日が始まります。今を生きている私があるのは自分だけの力ではない。そう考える松原さんは、自分を支えてくれるさまざまな縁を思いながらお経を読みます。これまでに書いた本は百三十冊。その力の源は毎日続けている読書、そして思索の中にあります。松原さんの信条は、「生涯修行、臨終定年」。修行に終わりはなく、命尽きるまで学び続けるとの思いです。松原さんの父であり師匠でもあった祖来さんは、岐阜県の貧しい農家に生まれました。兄弟が十一人もあったため寺へ小僧に出されたという苦労人でした。一人息子だった松原さんは、九歳の時、得度しました。松原さんは自分を生んでくれた母親の顔を知りません。生母の要(よう)さんは三歳の時、亡くなりました。代わって松原さんを育ててくれた継母よねさんは感情の起伏が激しい人でした。よねさんに対して抱く心のわだかまりを、松原さんは長い間どうすることもできませんでした。父の祖来さんは、息子に立派な僧侶に育ってほしいと願っていました。「儂はなぁ、貧乏な家に生ま れてろくろく勉強ができなかった。学問がないことはどれだけ惨めなことか。どうか儂の分まで勉強してくれ」。父は手をついてそう頼んだそうです。松原さんは父の願いを受け止め大学に進みました。大学時代になっても胸にすみついていた義母(はは)のよねさんへのわだかまりはますます根を張っていくばかりでした。その義母との確執に悩む中で、松原さんは「自分の出生は祝福されたものではない」と自暴自棄に陥ったこともありました。「人間とは何か。人は何のために生きるのか」といった青春の悩みに苦しみました。そんな松原さんが、哲学書や 歴史書をむさぼり読むなか出会ったのが、幸田(こうだ)露伴(ろはん)(1867-1947)の『努力論』という本にある「幸福論」でした。幸田露伴は人間の赤裸々な葛藤や飽くなき理想を描いた作品などで知られる明治の文豪です。露伴が百年前に書き綴った「幸福論」には、「惜福(せきふく)」「分福(ぶんぷく)」「植福(しょくふく)」と いう三つの幸福の道理が示されています。「惜福」とは福を使い尽くし、取り尽くしてしまわないこと。何が起こるかわからない将来に備えて、福を預けおく、福への心構えのことです。第二の「分福」とは自分の幸福を他の人と分かち合う心。それは人が人である所以(ゆえん)の気高い情懐(じょうわい)の表れだと綴られています。そして第三の「植福」とは未来を生きる人のために徳を積み幸福の種を蒔くこと。松原さんは、この三つの幸福を自分なりに受け止め発展させていきました。
 

 
亀井:  「幸福」という漠然とした掴み所のないような言葉ですね。私たちもお釈迦様の「幸福論」とか、学び合ったことがございますけれども、なんか幸福ということがわかったようでわからんのですけれども、先生はどんなふうに思いになっていらっしゃるんですか。
 
松原:  私もやっぱり同じような遍歴をしましてね。やはり学生時代に読んだ幸田露伴の『努力論』という本の中にありました露伴の幸福が一番印象に残っていますね。またそれ以上にいろいろとまた勉強してみたことを、今日お話してみたいと思います。なんか一般に幸福ということが、英語でパッピー(happy)、それから出てくるハプニング(happening)ということで、「偶然」ということが幸福の基本になっているように考えられますけれども、私はそうじゃなくて、「幸福とは縁」ということで、縁によって幸福ということになる。私はその幸福になるためには、お互いが何か働きかけていかなければいけないんで、「果報は寝て待て」というようなあまいものではないと思いますね。私は一番初めの「惜福」―露伴は「惜しむ」でしたけど、私は字を変えて「積む」という字を書いて、徳を積まなければいけない。人知らず善いことをするとか、物を大事にしていくとか、人間の命と同じようにすべてのものの命を大事にしていく。そういう一つの行(ぎょう)を積む必要から、一番初めの字を変えて「積徳」としたわけです。露伴の「分福」を一番大事にしていますね。独り占めしてはいけない。必ず分けていかなければいけない。これができるのは人間だけだと露伴は言っています。他の生き物は幸福を独り占めしてしまうけれども、人間だけは必ず分けるということ。この「分福」が人間のすべて頂くべき幸福だ、と言っておりますね。それから三つ目の「植福」は、人々の心に植え込んでいく。日本の文化は農業文化ですから、農村で田圃に稲を植えると同じように、心田といって心の田圃に徳を植えていく、という。やはり木を植える。植えるということが大事なんですね。
 
亀井:  まさに「積福」であり、「植福」でもあるわけですね。
 
松原:  植えるという、後へ残すということになる。
 
亀井:  そういうことが露伴のいう「幸福論」。
 
松原:  深く解釈すべきだと思うんですね。
 

 
ナレーター:  幸福の道理をリンゴの木に譬えながら示した幸田露伴。福の神を酷使するような自分本位の幸福の追求を戒めています。松原さんは、「幸福とは人と人との関わ り、縁というものの中にこそ見出されるものである」と考えています。そして露伴が示した三つに加えて、合わせて「七つの幸福論」を展開しています。
 

 
松原:  「福の神を虐待酷使しないように」ということも言っているようですね。それは次の私のいう足ることを知る「知足福(ちそくふく)」。
 
亀井:  これは露伴から離れて、
 
松原:  いや、露伴に続いて、合わせて私は「七福」にしたいと思っているんです。そんな野心を持っているんです。私は「知足福」が本当の幸福だ、と思うんですね。その「知足福」というのに、ちょっと話がそれるようだけれど、一時日本が泡沫(バブル)景気の時に「消費は美徳だ」という間違った指導がありましたね。
 
亀井:  そんな言葉が流行りましたね。
 
松原:  私はその時から同じ発音だけど、「正費(しょうひ)は美徳」と言いましたが、「消費」の「消」の字が違うんです。私は「消す」じゃなくて「正しい」という字。「正しく費やす」。正しい金の使い方、物の使い方、これが美徳で「正しい正費は美徳だ」というので、正しいという字を使いました。昔の歌に、「足ることを知ること真理なれ、二匹鯛釣る恵比寿なければ」という。この間正月用のパンフレットを書いて、私の創作で、「恵比寿大黒対話」というのを書きましたけどね。大黒さんの質問に、「恵比寿さん、あなたは何故一匹しか釣らないんですか」。「足ることを知ることこそ真理なれ、二匹鯛釣る恵比寿なければ」。これは足ることを知るということが、足るを知るのは人間だけですよ。他の動物は足ることを知りませんものね。満足を知らない。だから満足を知るということは大きな幸福となるでしょう。私は新聞の読者の投稿作品を読むのが好きなんですが、時々教えられることがありますがね。その中に目に見えるような歌がありました。それは、
 
     老夫婦並びてバスに席を取り
       幸福らしも何か語ろう
 
本当にそこにソクラテスじゃないけど、「満足は最大の幸福だ」ということを感 じて、しみじみしたような、
 
松原:  ほほえましいような一首ですね。
 
 
ナレーター:  松原さんは、父の祖来さんが亡くなり三十歳で寺を継ぎました。そして二年後静子さんと結婚します。しかし、新たな人生のスタートに立った松原さんには、試練が待っていました。幼い頃から心の中にわだかまっていた義母(はは)よねさんとの確執が、結婚を機に一層深刻になっていったのです。松原さんは、「その苦しみの中から困難の中にあっても、苦しみを人間として成長していくための福とすることができる、と教えられていった」と言います。
 

 
亀井:  実は私は昨年三度も入院を致しまして、そのうち一回は肝臓にパイプを差し込んで膿を吸い取るような手術の病気を致しました。それから肺炎を起こしてさんざんな目に遭いまして、つくづく歳を感じさせられたということでございますけれども、そういうような病とか、そんなようなことがよく私たちの身辺に起きてくるわけでございますね。
 
松原:  幸福のままの出あいは順縁で、その反対の悲しみとか悲境とかという出あいはこれは逆縁。逆縁が一つの幸福の縁になる。私はこれを「逆縁福」と言っています。私はこの逆境というのは、書留郵便とか、それから宅配郵便のように、受取人指名なんです。他の者が絶対受け取ることができないわけなんです。誰も代わって受け取ることができない。自分で確認するわけです。確認してそこで仕方がないというんで、いわゆる諦めるんじゃなくて、この頂き物をお裾分け―さっき申しました人間だけは頂いたものを自分だけのものにしないで、近所にお裾分けとか、何とか言っていますけどね。それと同じようにこのマイナスの頂き物をプラスにして人様に教えとして贈り物にしていく。そういう努力をしていきたい。それが世の中がほんとに幸福になっていくんだという。これを私は「逆縁福」といいます。私は幼い時に生母に別れました。これはどこでも世間であるわけですね。また同じことでありますけれども、私は継母に―これも嫌な言葉ですけれども、継母に育てられました。この継母で、今私のいう「逆縁福」、今になってみれば逆縁福を頂いたんだなあと思うんですね。故人のことを悪くいうのはよくないですが、義理の母は非常に感情が激烈で本当に感情のままに、良い時はとっても優しい母親なんですね。それから逆の面が出た時は虐めになるわけです。で、そういう苦労をしましたが、プラスの面では般若心経を教えてくれたのが継母でした。針仕事をしながら―こっちはまだ学校へあがる前ですから、口伝てに覚えるわけです。これは教える身になってわかりましたけど、口伝てで教えるということは教える方も大変なんですね。それで般若心経や観音経の一部などを教わって、今日あるのは継母の恩なんです。たまたま中学へ入る時、今と違って義務教育じゃなかったわけです。ですから試験を受けなければいけない。試験を受けて入学の手続きに戸籍抄本が必要だ、と。で、戸籍抄本を見た時に初めて私は義理の母だということがわかったわけです。一番感情の波立つ時でしょう。「あ、あれは義理の母だったのか。本当のお母さんじゃなかったのか」と。こちらが冷たくなると行為にも現れるわけです。そうすると義理の母にとっては裏切られた感じがする。今度はまた逆の手になって、それで親子ともに苦しみましたね。
 
亀井:  松原さんだけじゃない、共々に、
 
松原:  母も今になってわかれば、母も随分苦しんだと思うんですね。
亀井:  逆境の坩堝(るつぼ)になっていったわけですね。
 
松原:  私が家内を貰って―家内は三重県のお寺の娘で、私に見合いをさせずに、義理の母が自分で見に行ってそれで決めてくるんで すよ。それで一ヶ月経って家内と結婚式。で、義理の母が自分で、「この娘は良いから貰えなさい」と言って、私は「はい」と言って貰って、貰って仲良くなったら、今度は焼き餅を焼き始める。
 
亀井:  微妙ですね、そういうところが。
 
松原:  これでも随分と苦しんだ。今度は夫婦がこの義理の母に苦しめられました。
 
亀井:  三つ巴で、
 
松原:  で、戦争になって、義理の母は自分の故郷が三重県の津なんで、縁故疎開で疎開しました。それから私の家内も子どもがあるもんで、家内も三重県の四日市ですから疎開した。食べ物が不自由なもんだから、継母が近くなんでしょっちゅう私の家内の実家寺へ食べにきた。これはいいんです。そういうわけだから家内と母とはだんだん親しくなりまして、最後は義理の母は三重県の津の疎開先で昭和二十年七月三十一日から八月一日終戦間際、津の大空襲で義理の母は防空壕で焼け死んだんですね。直撃弾だそうです。私は五月に召集を受けて出征中で知らなかった。家内はその時代ですから、はがきで翌日か翌々日に母の死を知って防空壕から掘り出した。頭蓋骨だけだったそうです。身体はわからなかった由。口をあ〜んと開いた髑髏(しゃれこうべ)のそれだけ。私も帰って来て、頭蓋骨を見ましてね、どんなにか苦しかったろうなあってつくづく感じました。最後に家内が、「お母様ってお可哀想な方でした。本当の愛情ということを知らないので、お母さんは本当に可哀想な方でした」。私はそれを聞いて、ほんとに今までの憎しみ―これは前に言ったように、「私が救われなければ、母は救われるわけがない」ということから、逆境で人様の幸福を願わなければいけない、というのが、これが一つなんです。
 
亀井:  義理のお母さんと松原さんご夫婦との三つ巴の桎梏(しっこく)と申しましょうか、その中で改めて亡くなられた後、松原さんが実感なさったことが書物に書かれてありますけれども、
 
松原:  「倒懸苦(とうけんく)」です。これは地獄の苦しみのいろいろなことがありまして、「倒懸」は逆さ吊りで、早い話がカチカチ山の狸のように、足を上にして頭を下にしてい る。
 
亀井:  拷問みたいなものですね。
 
松原:  私はそれを深く解釈しまして、「倒懸」は逆しまに懸かる。懸はハンガーに吊り下げられた状態です。これを「倒」は逆しま、「懸」を「見る」という字に換え まして、「倒見」逆しまの見方。「見る」は「知る」に通じます。真理と逆しまの人生観、真理と逆しまの世界観に陥っておった。そういう一つの苦しみ。だから頭を上にして足を下にする正常の立場に帰らせる。これが幸福に繋がる「倒見苦」。
 
亀井:  「倒見苦」の自分だったと気付かされた。
 
松原:  こちらが逆しまの考え方をしておれば、向こうも同じ考え方をせずにおれない。それは被害者でなくて加害者であった。
 
亀井:  「被害者だ、被害者だ」と思っているのは自己中心なんですか。
 
松原:  自分が正しいと思いこんでいる。それに執着している。悪いのは向こうだ、と。すべてこちらが正しいんだ、と思っていたから苦しんだわけですね。それに気が付いた時、「死んだ姑が帰ってこない以上、生きている人々は何がわかったらいいか」ということを、私はそう気が付いたんです。今までもそういうことはざらにあるんですけどね。自分が正しいという考え方を一遍淘汰しなければ道は開けない。執着心。一番手近に教えられるのはね、子どもさんの自作の童謡なんかをよく新聞や雑誌に出ている。あれ見ていると本当にお経のような詩を感じますね。私が感じたのは、岐阜の小学校六年生の子が創った俳句でしたけどね。「風吹いて洗濯物が手をつなぐ」。絵に描いたようなものです。子どもはそれだけだけどね。今度はそれを深読みするのは大人の姿勢。作品は作者から違った人の元で花を開くことが多いわけです。無心に子どもさんが文字通り「風吹いて洗濯物が手をつなぐ」。
 
亀井:  「風吹いて」というところに逆境ということが感じますね。風吹けばこそ洗濯物が早く乾いて、そしてそこにすぐ手をつなぐ状況が成り立つという。まさに人間を言い当てているような深い思いがしますね。
 
松原:  風に吹かれなければいつまでも棹にしがみついて執着する。そういう風が吹いてくると、洗濯物は乾いてどちらからともなく寄り添ってくる。
 
亀井:  「自分が正しい。自分は間違いない。自分は善人なんだ」というところに立っていますと、そうすると手がつなげないんですね。
 
松原:  だから「何とか幸せになるにはどうしたらいいでしょう」と言ったら、ほんとに目を開いて自然の姿を見ていると、何かが教えられることがある。また教えて貰おうと。どうしたら嫁姑の仲がうまくいくだろうと思って考えていかれると、何でもない状況の中から、「ああ、そうだったのか」と見えてくる。そういう頷く勉強。頭で考えるだけではなくって、心の底で頷くという。そういう発想法を進めたい。
 
亀井:  風が吹くことによって、逆境を頂くことによって、洗濯物である私は、義理のお母さんと手を繋いでいける。そういうことを教えてくれている。
 
松原:  「倒懸」ですから、倒(さか)(逆)さまの人生観が、倒しまの世界観がね、
 
亀井:  そんなことが「逆縁福」ということの具体的なご自身のご体験から割り出された実例でございますね。
 
松原:  はい。気付くこと。
 

 
ナレーター:  死んだ人がものを言えない以上、生きているものは何を為すべきか。父の死から学んだことが、義母(はは)よねさんの非業の死で甦りました。義母も同じように苦しんでいたのに私は自分の不遇を嘆くだけだった。そのことに気付くようになった松原さんには、よねさんとの確執も人間としての徳を積ませるための義母(はは)の慈愛であったと受け止められるようになったと言います。以来、松原さんは義母よねさんが残した帯を袈裟にして説法の度身に付けるようになりました。それは亡くなったよねさんと共に仏の道を一層深めたいという願いの現れでした。「人は巡り会いによって本当の人間に育つことができます。その巡り会いと出会うために、私は毎日本を読み、仏教の深い知恵を学ばせてもらっているのです」。松原さんは百一歳の今なお学び続ける思いをそう語ります。義母との長い確執を乗り越えて、漸く人生の第二ステージに立てたと振り返る松原さん。その心に懐かしく甦ってくる人があります。眼の不自由なマッサージの女性、そしてサイパン島で戦死した従弟。二人の思い出の中に松原さんは更なる幸福のありようが見えてきた、と言います。
 

 
亀井:  第六福を、松原さんの幸福論として承らせて頂きたいと思うんですけれども。
 
松原:  六番目に、「心に点灯。心に灯火を点けよう」と。このことを考えついたのは、たまたま同じ知り合いの人の結婚式の披露宴に招かれた時に、新郎新婦がキャンドルサービスをします。あれでふと気が付いて、今、世の中は暗澹としているとか、何とかと言っているけれども、社会を作っていくのは個人個人だから、一人ひとりの心が明るくなれば社会全体が明るくなるだろうと思って、一人ひとりの心に教えの灯火を点けていこう、と。これは私の今の願いなんです。これが全世界全体を明るくしていこう。戦争前後から私の寺へ出入りして、私の肩をよく揉んでくれた山本のぶさんという全盲の女性のマッサージ士がいました。五十ぐらいでしたでしょうか。本当に可愛いお人形さんのような女性です。非常に人がいいんで技術はあまりうまくなかったんですけどね、みんなから「おのぶさん、おのぶさん」と可愛がられていました。私の肩を揉みながら、おしゃべりが欠点で―それは悪い噂話でなくて―どこそこで猫が何匹子を産んだ。どこそこで嫁さんもらったとかね、そういうような話を喋り詰めに喋るんです。私が、「おのぶさん、あんた見えないけど、私、今朝頭剃ったばかりで、あんた背中で喋りまくるからね、頭が唾でべとべとして気持ちが悪いから少し黙って揉めよ」と。「申し訳ありません」。黙っていたら眠くなるんでしょうね、私の肩に凭(もた)れて寝てしまう。そういう人柄ですけど、みんなから可愛がられた。で、戦争になって、私の寺にもいましたけど、方々の家を居候していましたがね。最後に東京を引き揚げていくお得意の家が、「おのぶさん、一坪しかないけど、トイレを付けておいたから、お前さんにやるよ」というわけで納家(物置)を貰ったという。それがお得意に、「私、家持ちになりました。物置ですけどね、一軒の家持ちになりました」。暫くしたら、「私ね、電気を引きました」というんです。これは私は勿体 ないことをした。その時分戦後ですからね、電気引くというのは大変なんです。工事費のほかに米とか衣服とかを添えるという悪習慣がありました。だからマッサージ費用では容易でなかっただろう。だから「無駄なことをしたね」と言ったら、「はい。私は目が見えませんから、要りませんから家の外へ点けました」。私が、「もうちょっと踏ん張ったらね、たとい見えなくとも家の中は温かい気がする。何故そんな外へ付けたんだ」と言ったら、「私は目が見えません。私の家の前は狭い路地で、雨が降ったら傘もさせない。表通りに出る近道だそうで、目明きの方がよく私の前を通りますが、雨の日などどろんこになるんです。それで私は家の中は要らないから、家の外へ外灯を付けたんです。そうしたらみな通る方が喜んで、おのぶさん、ありがとう。助かるよ≠ニ。それを聞いて、私、嬉しいわ」と言って、背中に凭れて泣いているんです。私はこういう人様の幸せの仕方があるのか。生き甲斐というのは人のお役に立つということが具体的に私は生き甲斐だ、と。
 
亀井:  それが「点灯福」ということでございますね。そうすると七番目は?
 
松原:  「保福」ですね。私の従弟の葛谷醇一(くずやじゅんいち)という岐阜県の生まれで、戦争中でありますがこの寺の弟子になって、私の弟弟子になった。修行中に召集を受けまして、名古屋の第三師団衛生兵に入隊しました。ある日東京の私のところへちゃんと装備したまま別れにきました。当時ですからこれは出征で別れの挨拶にきたと思ったんです。何もいわず台所の入り口で挨拶したまま帰ると申します。「晩ご飯でも一緒に食べようじゃないか」。「それはしたいけれども、名古屋から此処まで来る間に二十何回空襲を受けて、そのために列車が停まって二十時間以上かかって来た。帰りはまた空襲が酷かろう。帰隊に遅れたら大変なことになる。これで帰ります」と言うんですね。「じゃちょっとご本尊様にご挨拶だけしていったらどうだ」と言ったら、これには断りかねて、上にあがって醇一が本堂をお詣りしている間に、彼はお茶が好きだったもんで、私もお茶好きだったもんだから、貰い合わせの玉露を湯加減して水筒に入れさせようと思って、そうしたら、遠慮するもんですから、「この場になって遠慮はなんだ」と言ったら、「兄さん、この水筒は自分が飲むんじゃありません」。「お前の名札が付いているじゃないか」と言ったら、「兄さんは軍隊のことを知らないけれども、衛生兵は戦時中でも病院でも医師や看護婦の代理が務めです。で、この水筒も自分の名札が付いていますけど、自分が飲むために下げているんじゃないんで、戦友のそういう大変な場合のために、飲ませるために預かって持っている水筒です。病人や怪我人には冷たい水や濃いお茶は禁物です。自分が飲むんなら兄さんビールでも入れてくれ、と言います。病人や怪我人には冷たい水や濃いお茶は毒です。台所の番茶を頂いていきます」。靴を履いて、「兄さん行って参ります」と言ったかと思う間もなく、「再びお目にかかれないと思います。長い間お世話様になりました。ありがとうございました。さようなら」と挙手の礼をします。私はそれからは「他のために預かって持っている」という。「他人の幸福を預かって持っている」という思いを深くするようになりました。
 
亀井:  衛生兵に限りませんね。人間すべてお預かりのもの、みんなと分け合うもの、そういうところに共に生きると申しましょうか。いつも意識していくという。
 
松原:  他の幸せを願って。保管しているわけですから、これが最高の幸福になっていく。
 
亀井:  いろいろお話を頂きました。ほんとに豊かな知恵を授けて頂きまして、ありがとうございました。
 
松原:  いいえ。あなたさまのお蔭でこちらも勉強できました。ありがとうございました。
 

 
            (南無の会の説法から)
 
松原:  いろんな不幸とか災難とかいうものは受取人が決まっているんです。そうですね。だから自分より他に受け取る者がないと思 って、私たちは仕方なしに認め印を押します。問題はこれからです。好ましくないけれども、受取人が決まっているから災難や何かを受取人が判を押して、今自分はマイナスの立場になるけれども、このマイナスの立場をどうやってプラスにして人様のお役に立てていこうか。自分の災難を自分の苦しみはそれを愚痴を言ったりなんかしてもどうにもならないけれども、これを縁として人様のお役に立つことが必ずできるんだという確認をしたい。むしろ順調の時より逆境にある時のほうが人のお役に立てるようですね。苦しみも何もない。恵まれた時よりも、絶対絶命に追い詰められた時に、もう一人の真実自分が静かに目を開いてくれています。で、私が今申し上げる自分を救うものはもう一人の自分。このもう一人の自分が自分の中にいるということを、今日のこの「法句経」中で確認をしてまいりたいと思います。
 
     これは、平成二十一年一月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである