道元のことば D報いを求めず
 
                       駒沢大学教授 角 田(つのだ)  泰 隆(たいりゅう)
                       き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「道元のことば」、今日は五回目です。私たちは、例えば何かの行為をした時、その行為に対する正当な報い、報酬を求めるというのはごく当たり前のこととして考えているというふうに思うんですが、今日のテーマは全くその逆で、道元禅師は『随聞記』の中で、「報いを求めない」「報いを求めず」というところを、いろいろなことをいろいろなところで説いているわけですね。何故道元禅師は「報いを求めない」というふうに言っているのか。そして、「何を言おうとしているのか」ということについて、今日はいつものように駒沢大学教授の角田泰隆さんにお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
角田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  前回、四回目は「貧に道あり」というテーマで、その中で「少欲知足」という話が出てきたんですね。つまりあまり欲張るな、ということで、今日のテーマはそれとの繋がりの中で当然考えていくということになるわけでしょうね。
 
角田:  そうですね。「少欲知足」というのは、「少欲」欲を少なくして、「知足」足るを知る、満足することを知る、ということなんですけれども、やはり我々は欲がありますと、そこからいろいろな欲が叶えられなかったりして、苦悩が生じてくるわけであります。そういうことから「欲を求めてはいけない」という話をしたわけですが、「何故求めない、求めてはいけないのか」ということについて、ちょっと三つほどご説明をしたいと思うんです。まず一つ目は、求めても私たち人間というのは決して満足するものではない、と。人間の欲望というものは限りないものであって、もっともっとというふうに求めてしまう。そこでここまでで満足だというものがなかなかないんですね。そういうことからもっと便利、もっと快適というものを求めてしまって、そこで求めるということで満足できないから、それが苦しみの原因になる。そういうことでまず「求めてはならない。求めない」ということを言っているんだ、と思うんですね。二つ目は、「報酬を求めない。代償を求めない。見返りを求めない」という、そういう意味での求めないということなんです。それはその行為そのものが打算的な、と言いますか、純粋な行為にならない。それは自分にとっても何か自分の心も清らかでなくなってしまいますし、また他人がそれを見ても何か良い印象を受けないわけですね。三つ目は、何故求めないのか、と言いますと、これは外に求めなくても本来私たちは素晴らしいものを持っている、と。それに気付くということが大切である。だから、「求めない、求める必要がない」と言っていいかも知りませんけれども、そういう意味で求めない、と。ちょっと三点について申し上げましたが、前回はその中で、求めても満足を得られないから少欲知足―欲を少なくして足ることを知るということを申し上げましたけれども、今日は「報酬を求めない」という意味での求めない、ということと、それから「本来我々は素晴らしいものを持っているんだから、求める必要がない」という意味での求めない、ということを中心にしてお話をさせて頂きたいと思います。
 
草柳:  最初の一つ目の「報酬を求めない」ということなんですけれども、ただそうは言っても、人間というのはまあもともと求めるということは性(さが)ではないか、と思うんです。だから『随聞記』の中でもいろんな例を挙げて、で、人は求めるものだけれども、「けれども」というふうな言い方をしているわけですね。
 
角田:  そうですね。求めるということはやはり必要なことだと思うんですね。例えば食欲ということをとっても、これは一つの欲望であり、食べるということを求めるわけです。これは例えば鬱病等になって、食欲というものがなくなってしまう。食べる欲というものがなくなってしまって、それによって物を食べなくなってしまうということがありますね。そうしますと、もう食べたいとも思わないし、食べるということが苦痛になってしまう。我々人間というのはそういう欲と言いますか、生きていくために身体そのものが空腹感というものを与えたり、またその空腹の時に食べますと、そこに満足感が得られる。いわゆる快感を得るというような、私たちには感覚を与えられていて、だからこそ食べ物を食べたり、積極的にするんだと思うんですね。私はそういう人を見まして、ほんとに食欲があるということは大切なことだな、と。これがあるからこそ私たちは食べるということもするし、そうでなかったら面倒なことですから、食べるということもしなくなってしまうんだな、ということを感じたことがあるんですね。だから食欲にしても、性欲にしても、睡眠欲にしても、すべてそうだと思うんですけれども、その欲があるということは大切なことなんですね。それは生きるために必要なことであって、ただその欲というものが、今度は逆に非常に強い欲望になっていきますと、非常に美食を好んだり、食が偏ったり、また食べ過ぎたり、飲み過ぎたりと、そういうことで身体を壊してしまうことになりますので、その辺のバランスが問題でありまして、前回もそんな話をしたわけですけれども、欲望そのものが否定されるべきものではないですね。
 
草柳:  つまり禁欲ではないわけですね。
 
角田:  禁欲ではないですね。仏教でいえば、中道と言いますか、生きるために必要なこととして食べるということをする。あるいは寝るということをする。我々にとってほんとにどうしても必要なことですね。そういう意味での欲というものは、仏教でもこれは決して否定するものではない。戒めるのは過剰な欲望、ということになろうかと思うんですね。ですから今日の「求めない」というのも、「求める」ということ自体がいけないということではなくて、強く求める、と言いますか、そういうものが我々を苦しめていくからいけない、というようなことになろうかと思うんですね。
 
草柳:  第一、求めるということがなければ向上なんていうことはあり得ないわけでしょうからね。
 
角田:  そうですね。ですからその辺のところをちょっと今日はもう少し詳しく整理してお話できればと思うんですが。
 
草柳:  で、『随聞記』の中では、例えば中国の故事などを例にとりながら話を進めているところがありますので、まずそこからお話頂けますでしょうか。
 
角田:  これはまず「報酬を求めない」というんですね。「報酬や代償というものを求めない」ということについて、道元禅師が、「そうあるべきだ」というお話をされているものがあるんです。これは中国の春秋戦国時代でございますけれども、その時代に平原君(へいげんくん)という四人の名君の一人だと言われている名君がいるんです。その元に魯(ろ)の仲連(ちゅうれん)という人が将軍として仕えていたわけです。この将軍はよく朝敵―朝廷の敵を破って軍功を立てて国をよく平定された方なんですが、その平原君がその功績を讃えて、魯の仲連に褒賞と言いますか、金銀を与えようとした、褒美を取らせようとしたわけですね。その時に、魯の仲連が、「私はただ将軍としての任務を果たしただけであって、ですから褒美を頂くつもりはない」と言って、それを断るわけですね。そういう話がありますけれども、これは道元禅師も『正法眼蔵随聞記』の中で引かれているわけであります。
 
草柳:  それに続いてこういうふうなことを言っているわけで、そこのところを読んでみます。
 
俗猶(な)ほ賢なるは、我れその人としてその道の能を成すばかりなり。代はりを得んと思はず。学人(がくにん)の用心も是(かく)の如くなるべし。仏道に入りては、仏法のために諸事を行じて、代はりに所得あらんと思ふべからず。内外(ないげ)の諸教に、皆無所得なれとのみ勧むるなり。
(『正法眼蔵随聞記』二ノ十一)
 
これは今のエピソードを受けているわけですね。
 
角田:  そうですね。ここで、「俗猶ほ」と言っているこの「俗」というのは、今の魯の仲連のことを言っているわけですが、「俗」という言葉は、これは僧侶ではない一般の人ということなんです。一般の人である魯の仲連も、「賢なるは」賢く勝れたこういう人は「我れその人としてその道の能を成すばかりなり」私は将軍という役割を与えられた者として、その任務に自分の能力を発揮しただけである。「代はりを得んと思はず」代わりというのは代償とか、報酬とかということですね。そういう代償とか報酬を得ようとは思わない。思わないでしたことである。「学人の用心も是の如くなるべし」ですから仏道を修行する者の心得もこのようであるべきである。「仏道に入りては」仏の道に入ったならば、「仏法のために諸事を行じて」仏法のためにいろいろなことを行う。つまり修行者としてやるべきことをやるということなんですが、やるべきことをやって、そこに「代はりに所得あらんと思ふべからず」その代償として何か得るところがあるというふうに期待をしてはいけない。「内外の諸教に、皆無所得なれとのみ勧むるなり」「内外」の「内」というのは、仏教のことです。「外」というのは、儒教などの、仏教以外の教えでありますけれども、仏教においても、仏教以外の教えにおいても、いろいろな教えにおいて、「皆無所得」所得を求めてもいけない。代償とか報酬とか、そういうものを求めてはいけないというふうに勧めているのである、と。そういうことになりますね。
 
草柳:  つまりここで、「報酬を求めるな」というふうに言っているということは、どうしたって報酬を求めたくなりますよね、人情としては。
 
角田:  そうですね。
 
草柳:  それを敢えて「捨てなさい」というふうに言っているわけでしょう。
 
角田:  そういうことを言っているわけですね。
 
草柳:  かなり無理なことですね。
 
角田:  無理なことですね。それでも無理なことだけれども、実際に平原君のもとの魯の仲連という人は、将軍としての役割を果たしている、と。そして褒賞を受け取らなかった。そういうことをあげて、一般の人でもそうなんだから、僧侶はなおさらそういう気持で修行しなくてもいけないということをおっしゃっているわけですね。平原君の話にあるような魯の仲連のような家臣がいたら、ほんとに素晴らしいと思うんですね。報酬を求めることのない家臣は大切にすべきだと思うんですが、なかなかそういう人はいないんでしょうけどね。もし報酬を求めて、私利私欲を求める家臣がいたら、これは大変だと思うんですね。より多くの報酬を与える者とか、そういうものに就いて今度は随ってしまうということもありますから、ほんとに真に忠義を尽くすということがないわけですよ。だからこういう人というのは、一般にも少ないと思いますけれども、仏法においては、修行者はそうでなければいけない、と。
 
草柳:  で、道元禅師は今の例を引き合いに出しながら、報酬の中身というのをどういうふうにここでは言っているわけですか。
 
角田:  この報酬というのは、結局修行すればその結果として悟りを得ることができるとか、あるいは厳しい修行をしているんだということが有名になって人から讃えられるとか、そういうようなことを言っているんですね。主には悟りを求める修行ですが、そういうことを言っているというふうに考えられますけどね。
 
草柳:  悟りを求めるための修行ということですか。
 
角田:  通常は修行というと、やはり結果として将来的に悟りを得よう、と。それが修行の目的であるわけです。ただ道元禅師の場合は、それではいけない、と。修行そのものが大切であって、修行そのものの中に悟りがあるんだ、と。こういうことを言われるわけですね。魯の仲連は、ただ将軍の道であるから敵を討っただけである、と。同様の言葉が先ほども出てきました「仏道に入りては仏法のために諸事を行じて」ということですね。ただひたすら仏道を行ずる。そしてそれ以外は何かを求めてもいけない、ということになるわけですね。私たち修行をしておりますと、やはり何か確実に得るものが欲しいんですね。結果が欲しいと言いますかね。何か張り合いが欲しいんです。これだけやったから、何かこれだけよくなったとか、そういう目に見えたものが欲しいんですね。ところがそれがどうも修行の妨げになるということがありますね。ちょっと例はよくないかも知りませんけれども、一般の方でも宗教とか信仰の世界でもそんなことが言えると思うんです。例えば霊感商法的なものがありまして、「これを買うと良い事があるますよ」とか、あるいは「そんなことをすると障りとか祟りがありますよ」というようなことを言われますと、やはり我々は本来心が弱いものですから、そういう方にいってしまうんですね。「何かこれをすれば良い事がある」とか、「それをしたらこういうことがあるからいけないよ」とか、そういうことにどうも心が靡(なび)いていってしまう、ということがあるんですけれども、しかし本来の仏道修行というものは、仏教というものはそういうものではないんだ、と。そういうことを我々が説明したとしても、やはり一般の人というのは「祟りがある」とか、「こういう障りがあるよ」という人の方を信じてしまう。また「これを買えば、こういう信仰をすれば良い事がありますよ」という、何かそういう確実なことを言われると、それをやっぱり信ずるわけですよ。でも本当の信仰というものはそういうものではなくて、もっと常識的なと言いますか、日々の生活をきちんと整えていったり、こういうことが原因となってこういう結果がある、ということをよく考えながら問題を解決していくというのが本来のあり方なんですが、ちょっと喩えは悪いんですが、結局我々は確実な何か手応えが欲しい。張り合いが欲しい。成果が欲しい。それが当たり前の考え方かも知りませんが、ただそれが修行においては、そういう気持がありますと本当の悟りを得る妨げになるというんでしょうか、そういうことになるんじゃないかと思います。
 
草柳:  そういうものをできるだけ身体から離して、徹底した修行を、ということなんでしょう、道元禅師の言っているのは。
 
角田:  そういうことですね。
 
草柳:  その徹底した修行の先に、一体何があるわけですか。
 
角田:  そうですね。結局私たちは何も求めないでやっていくというのは、「求める必要もない」と、先ほどお話をしましたけれども、「これだけやった」「これだけ得られた」「こう張り合いがあった」と、そういうものは確かに得られるものはあるんですね。例えば一般的に言っても、書道なんかも私も多少嗜むわけでありますけれども、それは習っていく過程の中で、何級だとか、何段だとか、そういう段階というものがあって、そしてそれを張り合いにして習っているわけですね。でも実際はそういうものがなかったとしても、練習をしたり努力をして書を書いているうちに確実に上手くなっていくわけですね。だから決して「そういうものを求めるな」と言っても、成長がないわけではないですね。ところがあまりそういう気持が強いですと、ほんとにそのことそのものに真剣になれない、ということがあって、それが結局妨げとなって、結果として良いものは得られない。良い成果を得られない、ということになるということもあるんですね。
 
草柳:  何も求めないということは、突き詰めていくと、もしかすると「悟りすら」ということになってしまうんじゃありませんか。
 
角田:  そうですね。「悟りすら求めない」と。それを求めないで一つひとつの修行そのことに打ち込んでいく、と。例えば、悟りを得たいという気持には、どうしてもそこに有名になりたいとか、尊敬されたいとか、そういうものがやっぱり出てくるわけですね。そういうものがあると、それは打算的な行になってしまって、本当の意味での悟りを得ることができない。そういうことを言われるわけですね。
 
草柳:  その辺の経緯をまた『随聞記』の中の四ノ十というところからお読み致します。
 
また云(いわ)く、今、仏祖を行(ぎょう)ぜんと思はば、所期(しょご)も無く、所求(しょぐ)も無く、所得(しょとく)も無くして、無利(むり)に先聖(せんしょう)の道を行じ、祖祖の行履(あんり)を行ずべきなり。所求を断じ、仏果(ぶっか)をのぞむべからず。さればとて、修行をとどめ、本(もと)の悪行にとどまらば、還(かえっ)てこれ所求に堕(だ)し、?(かきゅう)にとどまるなり。
(『正法眼蔵随聞記』四の十)
 
これをちょっと解説して頂けますか。
 
角田:  「また云く」また道元は言われた。「今、仏祖を行ぜんと思はば」この仏祖を、というのは、仏祖の道を、ということですが、仏祖の道を実践しようと思ったならば、
 
草柳:  仏祖というのは釈尊のことでしょうか。
 
角田:  そうですね。釈尊と、釈尊の教えを代々受け継いで実践してきたすべての人々とということですね。仏祖の道を実践しようと思うなら、「所期も無く」所期というのは何かを期待するということもなく、「所求も無く」所求というのは、何かを求めることもなく、そして、「所得も無くして」何かを得ようとすることもなくして、「無利に」無利というのは利益を求めずに、ということなんですね。利益を求めずに、「先聖の道を行じ」この先聖というのは、お釈迦様・釈尊のことですね。その釈尊の行われた道をそのまま行じ、そして、「祖祖の行履を行ずべきなり」祖祖というのは代々お釈迦様の教えを伝えてきた祖師の方々、「行履」というのは実践ということであります。そういう方々の実践、修行を行ずべきである。「所求を断じ」求めることを止め、「仏果をのぞむべからず」仏果というのは成仏という結果ということで、簡単に言えば悟りということになると思うんですが、その悟りということも望んではならない。「さればとて」そうであるからと言って、「修行をとどめ」修行を止めて、「本の悪行にとどまらば」もとの悪行にとどまるならば、「還てこれ所求に堕し」還ってこれは求めるということに堕してしまう。何故求めるということに堕してしまうかというと、「求めるな」というふうに言われて、成仏ということを求めることを止めるということは、それは求める心があるからこそ、求めることのない行を行えないのですね。そういうことでありますから、これは還って求めるということに堕してしまう、ということになるという意味なんです。そして、「?臼にとどまるなり」?臼というのは古い巣ということですね。古い巣の住処、鳥の巣の古い住処ということで、結局これはこれまでの古い考え方というような意味になりますが、そういうものにとどまることになるのである、と。
 
草柳:  この辺は相当厳しい言い方なんですね。
 
角田:  そうですね。これもほんとに「無所期」「無所求」「無所得」という言葉がありますけれども、もう徹底して求めない、ということですね。求めてはならない、ということを道元禅師は言われるわけですね。
 
草柳:  しかも後半の方で、「もうこれだけやったからもうこの辺でいいや」という、そんなことは以ての外だ、というふうに、
 
角田:  そうですね。例えば悟りを得たとしても、それでもなお生涯修行を続けていくわけですね。だから、「悟るまで修行しろ」ということになりますと。「じゃ悟った以後は修行ではないのか」ということになりますし、「悟ってからが本当の修行だ」なんていうと、「じゃ、その前は修行じゃないのか」ということになるわけですが、道元禅師の場合は、最初から最後まで生涯一貫して修行であり、その修行が悟りである、というふうなことを説かれるわけですね。
 
草柳:  「これまでいけば悟りなんだ」というふうなことは勿論あり得ないわけですから、それは勿論当然続けるということが前提になるんでしょうけれども、今のところにすぐ続いて、実は次にこういう文章がありますので、それをまたお読み致します。その前の「?臼にとどまるなり」から続いているわけですね。
 
角田:  続いている部分ですね。
 
全く一分の所期を存せずして、ただ人天(にんでん)の福分(ふくぶん)とならんとて、僧の威儀(いいぎ)を守り、済度利生(さいどりしょう)の行儀を思ひ、衆善(しゅぜん)を好み修(しゅ)して、本の悪をすて、今の善にとどこほらずして、一期(いちご)行じもてゆけば、これを古人(こじん)も漆桶(しっつう)を打破(たは)する底(てい)と云ふなり。仏祖の行履是の如くなり。
(『正法眼蔵随聞記』四ノ十)
 
ここもちょっと言い回しが難しいんでご説明をお願いいたします。
 
 
角田:  「全く一分の所期を存せずして」「一分の所期」の「一分」というのはちょっとしたということなんです。「所期」は期待ですね。全く少しの期待も持たないで、「ただ人天の福分とならんとて」「人天」の「人」というのは人間界のこと、「天」というのは天上界のことなんですが、仏教では人間界と天上界と両方迷える衆生の世界というふうに捉えているわけですね。この衆生の世界の「福分とならんとて」福徳を与えるものになろう、と。衆生に利益を与える、福を与えるものになろうと思って、「僧の威儀を守り」威儀というのは、僧のあり方ということで、僧のさまざまなあり方を守って、「済度利生の行儀を思ひ」「済度」というのは迷っているものを助け、そして「利生」は衆生に利益を与えるということなんですが、迷っているものを助け、利益を与える。そういう行いを思って、「衆善を好み修して」「衆善」というのは諸々の多くの善ということですね。多くの善行を好んで実践して、「本の悪をすて」「本の」というのは、これまでのさまざまな悪い行いというものを止めて、「今の善にとどこほらずして」今行っている善い行い、その行いでもう満足することなく、「一期行じもてゆけば」「一期」というのは一生ということですが、一生善い行いというものを実践していけば、「これを古人も」これを昔の人も、「漆桶を打破する底」「漆桶」というのは、漆で塗り固めた桶のことを言うんですね。これは普通の桶に比べて漆で塗り固めますから非常に強い頑丈な桶になるわけですが、これは何を喩えているかというと、私たちの絶ち切り難い煩悩、欲望というものを喩えるわけですね。「漆桶を打破する底」というのはその絶ち切り難い煩悩を打ち破る「底」というのは人ということです。打ち破る人というふうにいうのである、と。「仏祖の行履是の如くなり」仏祖の行いというのはこのようであるのである、と。「漆桶を打破する」というのは、いわば悟りを開くということの別な表現の言葉なんですね。あらゆる煩悩を打ち破り絶ち切ってしまうということでありますから、通常、悟りを開くということは、ある一時期に瞬間的に何か心境の変化があって、ガラッと迷いから悟りに転じて、素晴らしい境涯になるということをいうんですが、ここでは道元禅師は、「もろもろの悪を絶ち切って善いことを一生涯行っていくというのが悟りである」と、こういうことをここで明確に言っておられるんですね。その「悟り」ということについてですが、これは非常に難しいんですけれども、私自身はそういう境涯が熟してくるというんですか、心境が変化していく。あるいはある時大変こういうことに気付くとか、わかった、というふうなことがないということはないと思うんですね。そういうものは確かにあると思うんです。例えば「悟り」ということも、いくつかの説明ができるんですけれども、一つの説明をすれば、私たちは目でいろいろなものを見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いを嗅いだり、舌で味わったり、そして皮膚でいろいろなものを感じたりというように、さまざまな外の環境というものを、こういう働きによって見たり聞いたり嗅いだりという、そういう感覚をして受け入れていくわけですが、それを認識していくわけですけれども、そういうものに心を動かされないと言いますか、見たものをありのままに見てすぐに心を動かされない。聞くなら聞いたことをそこですぐに心を動かして心を乱したりしない。匂いを嗅いだり味わったりということもそうですが、まずは外の環境というものを客観的に、ありのままに自分で知って、そこで一端絶ちきって、その段階でいろいろな煩悩や欲望を起こさないような、そういう訓練と言いますか、あるいはそういうこともできるようになるということは、これは大切なことなんですね。ある意味では「悟り」というのはそういうことを意味する、ということも言えるわけです。見たもの、聞いたもの、匂いを嗅いだり、さまざまな我々の周りにある環境に心を動かされない。一端そこで絶ちきって、そこで冷静に判断していくことができる力。これは知識ではないんですね。そういう力を我々は養わなければいけないわけです。「悟り」というものの説明にはいろいろありますが、ある意味でそういう自分の境涯と言いますか、あらゆるものに心を動かされない自分というものを作らなければいけない。そういうものが確立できる時というのはやはりあると思うんですね。そういうものを一切否定するわけではないですが、じゃ、そういうことができたからと言って、「じゃ、そこでどう生きるのか」というと、またこれは別の問題なんですね。あらゆるものに心を動かされない。確かな自分というものができあがったとしても、「じゃ、その自分が具体的にどう生きていくのか」というと、やはり我々は仏の道とはどういう道であるのか、ということを、これまでもいろいろ学んできましたけれども、それを学んだり、そして学んだうえでその通り実践していくという道が出てこないと何にもならないわけですね。何ものにも動かされない境涯になりました、と。じゃ、そこで何でも自由に煩悩欲望のままに生きていっていいのか、というと、そういうことではないですね。そこでまた新たな生き方が始まっていくわけです。その生き方というのは道元禅師のいうように、善いことなら善いことを一生行じていく、と。迷っているものを助け利益を与えていくという行をずっと行っていく。こういうことがやはり必要になってくるわけですね。だからこそ道元禅師は、悟りというのは一過性のものではなくて、それはずっと続いていくものだ、と。実践の中で現していくものだ、と。そういうことをおっしゃっているんだと思うんですね。
 
草柳:  そういう修行、実践の中でいわゆる損得なんていうことは入り込む余地はたぶんきっとなくなってくるのではないか、と思うんですが、ただ我々の日常の生活の中では、どうしたって損得―良い意味でも悪い意味でも損得ということはありますよね。例えば働く、何かをするにしても、「何とかのために」「何かのために」と、しょっちゅう「ために」ということが付きまといますよね。
 
角田:  そうですね。これはもう当たり前のことだと思うんですね。通常は生きていくために収入も得なければいけない。食べるために働かなければいけない。そういうことを我々は思いますし、それはそれで当然の営みだと思うんですね。しかしながら、この道元禅師の教えでは、何事についても「何かのためにしてはいけない」と。例えば「食べるために働く」と言っても、その働くということも生きるという営みの一つなんですね。食べるということも勿論営みの一つであります。働くということもその一瞬一瞬が掛け替えのない人生の一瞬一瞬であるわけですね。ですからその働くなら働くということを食べるためということにしない。そういうことになるんじゃないですかね。
 
草柳:  「報いを求めない」ということとの関連で、やっぱり「ために」ということをどっかで捨てなければダメだ、と。そのこともまた中国の挿話を出しながら説いているところがありますね。
 
角田:  そうですね。これは道元禅師が中国で修行された修行道場が天童山(てんどうざん)というお寺なんですが、道元禅師が修行に行かれる数十年前だと思いますが、その時、天童山の住職をしていた方に海門師斎(かいもんしさい)という方がおられるんですね。その海門禅師という方のお弟子に、ちょっと名前ははっきりしないんですが、元(げん)という―おそらく下のお名前が元という方だったと思うんですが―元という人がいて、この人は非常に勝れた人でありまして、その修行道場の中でもずば抜けた人だったんだと思うんですね。その人がある時、住職のところに、「私を首座(しゅそ)にして欲しい」と。「首座」というのは一番上の座席というような意味なんですがね。
 
草柳:  役職のようなものなんですね。
 
角田:  そうですね。修行僧のリーダーと言いますか、一番修行僧の中でも上位に坐るものという意味なんですが、非常に勝れた人であった。その弟子が、「是非私を首座にして欲しい。修行僧のリーダーに任命して欲しい」ということをいうわけですね。その時に海門禅師が、「自ら自分をリーダーにさせてくれというのは何たることか。私も若い頃から修行しているけれども、そんなことは聞いたことがない。昇進のためか」と言って涙を流して悲しんだ。「あなたのように悟りを得ている者がその状態なんだから、他の者はまして知るべしで、修行僧も堕落したものだ」と嘆くんですね。でも結果としては、その人を首座にするんですね。元自身はそういう言葉を聞いて、今そういうふうに願い出たことを取り下げるんです。しかし、海門禅師は、「いや、お前は勝れた者だから」と言って、首座という役に当てて、修行僧のリーダーにするわけです。それからは心を入れ替えてリーダーとしてちゃんと務めを果たしたという話がありまして、ただ修行道場の中でもそういうふうに昇進を求めたという人がいたんですね。
 
草柳:  そのエピソードを引き合いに出しながら、こんなふうな纏め方をしているところがありますのでお読み致します。
 
今これを案ずるに、昇進を望み、物の首(かしら)となり、長老にならんと思ふことをば、古人これを恥ぢしむ。ただ道を悟らんとのみ思ふて余事(よじ)あるべからず。
(『正法眼蔵随聞記』四ノ五)
 
これは大事なのは最後の「ただ道を悟らんとのみ思ふて余事(よじ)あるべからず」ですね。
 
角田:  そうですね。今の方というのは、一般的に言えば、昇進を望んだわけですね。そして修行僧のリーダーとなりたい、というふうに思った。しかしこういうことは昔の人も恥としたということですね。修行僧にとって一番大切なのは昇進を求めることなく、ただその道を悟る。仏道修行を真面目に生きていくと言いますか、そういうことだけを考えて、出世だとか、昇進だとか、そういうことは考えてはいけない、と。こういうことを道元禅師が戒められるわけですね。ただ一般社会においても、いろいろな職場においても、昇進とか、昇給を望むということは、これは人情としては当たり前の願望ではないかと思うんですね。
 
草柳:  そうですね。
 
角田:  でも願っても叶わないこともありますし、しかし願わなくても得られるものもありますから、だから一般社会においても、職場においてただ懸命にと言いますか、業務に精励するということがやはり大切なんじゃないですかね。結果と言いますか、昇進とか昇給とかはそこに自ずとついてくるものである、と。そういうつもりで仕事に精励するということが大切なんじゃないかと思いますね。
 
草柳:  最後のところで、「ただ道を悟らんとのみ思ふて余事あるべからず」余計なことは、それ以外のことは考えてはいけない、考えるな、と。
 
角田:  考えないでやっていても、見る者は見ていて、ちゃんと認めてくれますね。
 
草柳:  そうですか。今日、番組の最初のところで、「求めない」ということについては、三つの側面があるとおっしゃいましたね。一つは、前回のお話にあった「少欲知足」ということであったんですが、二つ目は、「報酬を求めない」。何故求めないのかということを今ずっと伺ってきたんですが、三つ目の「本来備わっているものだ」というのは、これはどういうことなんですか。
 
角田:  そうですね。これは「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」(本来の悟りを、悟りを求めない修行によって現していく)という道元禅師の言葉もありますけれども、本来人間はもともと素晴らしい悟った存在であるんだ、と。外に求めなくとも本来私たちは素晴らしいものを持っている、ということなんですね。これは例えば、手を握ったり、開いたり、動かしたりするんですね。これは当たり前にできるわけですね。眼もいろいろなものを見て、これは何だ、とかということを見て認識したりする。これは耳も鼻も、そして舌で味わうということもすべてそうですね。こういう働きというものはもうほんとに素晴らしい働きである。生まれながらに我々はそれを持っている。ただそれは気付かないんですね。そういうことの素晴らしさ、というものをですね。これは本来素晴らしいものを持っているんだけれども、他に求めてしまったり、外に求めてしまう、という話として、有名なドイツの詩人・カール・ブッセの「山のあなた」という詩にもございますように、
 
     山のあなたの空遠く
     「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
     噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
     涙さしぐみ、かへりきぬ。
     山のあなたになほ遠く
     「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
     (カール・ブッセ/上田敏 訳)
 
これもやっぱりユートピアというものを遠くに求めることですね。「今ここのところではなくて、どこか遠くに素晴らしい世界があるだろう。幸せというのはどっか遠くにあるものだ、と言って、それを追い求めてしまう」ということを言っているんだと思いますが、でも私はあの詩というのは、「今ここにあるんだ」ということを気付かせるような詩だ、というふうに私自身は受け取っております。それから同じような話ではメーテルリンクの『青い鳥』の話ですね。チルチルとミチルが幸せの青い鳥を求めて旅をするわけですよね。それは隣に住んでいる女の子のためにそれを捕まえてくる旅に出るわけですが、結局見つからないで戻って帰って来る。帰って来たら自分の家にいる鳩が幸せの鳥だったんだ、という。これはこういう話にもあるように、私たちは「今ここで自分がこうして当たり前にあるということの素晴らしさ」というものをなかなかわかっているようでわかっていないんですね。例えば病気になる。病気になりますと痛い思いもする。そして時間もかけて手術をして、休養をして、お金もかかるし、そういう苦しい思いをして、そして病気が治りまして健康な状態に戻りますと、非常に幸せを感じるわけですよ。ところが元に戻っただけでありまして、それ以前よりも以上に自分の状態がよくなったとか、幸せになった、ということではないですね。そういうことがあってやっと私たちは本来素晴らしいものを持っている、ということに気付くわけでありますが、先ほど言った「本証妙修」というのは本来我々はそういう素晴らしい存在なんだ。その素晴らしい存在を―「妙修」の「妙」というのは、これは非常に勝れているということなんですね。不思議とか奇妙という意味ではなくて、妙(たえ)なる。「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」なんという時も、これは不思議なほど勝れている、ということなんですね。理解できないけれども、素晴らしい、という時にはこの「妙」という字を使うんですが、何故ここで「妙修」というふうに、勝れた修行というふうに言っているのかと言いますと、本来素晴らしい体と心のこういう働きというものを正しく用いていくという修行である、と。そういうことから「妙修」というような言い方をするわけですけれども、私たちは生まれながらに持っている素晴らしいこの体、素晴らしい心というものを、素晴らしいんだけれども、ある時は悪いことに用いてしまうこともあるんですね。同じこの手が拳を作って人を殴り付けたり、刃物を持って人を殺めたり、害したり、ということをする。ところが同じこの私たちの手が転んでいる人を手を差し伸べて助け起こしてあげたりとか、そういうこともするわけですね。本来素晴らしいものを持っているんだから、これを善いことに使っていかなくてはいけない。先ほどの道元禅師の『随聞記』の話にもありましたが、諸々の善いことを生涯行っていくというんですね。この素晴らしい我々の体と心、これを善いことに用いていくということでもあるんですね。そういう意味で、本来我々は素晴らしいものを持っているからこそ、それを善いことに、つまり仏の道では修行ということに用いていく、というのが「本証妙修」ということであるんですね。
 
草柳:  つまり「もともと良いものが備わっているものがあるんだ」ということでは、例えば江戸時代の白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685-1768)禅師が『坐禅和讃』の中でこんなふうな言い方をしておりますので、それを紹介したいと思うんですが、
 
     衆生(しゅじょう)本来仏なり。
     水と氷の如くにて、
     水を離れて氷なく、
     衆生のほかに仏なし。
     衆生近きを知らずして、
     遠く求(もとむ)るはかなさよ。
     縦令(たとえ)ば水の中に居て、
     渇(かつ)を叫ぶが如くなり。
     長者の家の子となりて、
     貧里(ひんり)に迷ふに異ならず。
     (白隠禅師『坐禅和讃』の冒頭の部分より)
 
これは詩ですからかなり調子がいいですね。
 
角田:  そうですね。とても調子がいい。読んでいてもとても耳に気持がいいと言いますか、リズミカルですーっと入ってくるんですね。名文章ですね。これは臨済宗の中興の祖と言われる白隠禅師のものなんですが、ここにも今お話してきたような、私たちは本来素晴らしいものを持っているんだけれども、それに気付かないんだ、という。そういうことを上手く詠っているわけですね。「衆生(しゅじょう)本来仏なり」というのは、我々迷っている衆生であるけれども、本来は仏と同じなんだ、と。それは喩えれば水と氷のようであって、水を離れて氷はないように、衆生の他に仏はない、と。衆生と仏は水と氷の関係であるということですね。本質は同じものなんだ、と。「衆生近きを知らずして、遠く求(もとむ)るはかなさよ」衆生は、「近きを」というのは仏がすぐ近くにあるということを知らないで、ということですね。というのは、仏がすぐ近くにある、というのは、もう自分自身が本来仏であるんだ、と。そういうことを知らないで「遠く求るはかなさよ」遠くに求めているということははかないことである。これも喩えですが、「縦令(たとえ)ば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり」水の中にいるんだけれども、喉が渇いたと叫んでいるようなものだ、と。「長者の家の子となりて、貧里に迷ふに異ならず」これは『法華経』の「信解品(しんげぼん)」という中に喩え話が出てくることなんですが、ある長者が、お金持ちが、かつて離ればなれになった貧しくて困窮している息子を捜し求めて、そして捜し出すんですね。そして我が家に住まわせて次第に慣れさせていって、ついには後継者とした、という話があるんですが、長者の子であるのに、非常に貧しい生活をしてしまったような、そういうようなものなんだ、と。こういうことを『坐禅和讃』という中の冒頭の部分なんですけれども。これも我々は本来素晴らしいものを持っているのに、そのことに気付かないでいるんだ、と。それもほんとに愚かなことなんだ、ということを詠ったものですね。
 
草柳:  今日のテーマは「報いを求めない」ということではあるんですけれども、しかし今のようにもともと本来人間には備わっているものがあって、つまりもう欠けているところはないんだ、ということであって、それは求めなければわからないわけでしょう。
 
角田:  そうです。求めるということは大切なことですね。求めていった中で、「いや、これは本来備わっていたものなんだ」ということがわかるわけですね。だからそういうふうにわかった人は、今度は指導者になりますと、「求めるな」ということをいうわけですけれども、また修行者はそれを求めてしまう。それはそれでやむを得ないことだと思うんです。道元禅師なり、釈尊も同じようなことをおっしゃっているんですね、「苦行してはいけない」と。でも釈尊自身は六年間も苦行されてお悟りを開かれているのに、後の弟子たちには、「苦行なんていうことは無意味だから、これは止めなさい」ということを言っているんですが、「でも苦行がなかったらお釈迦様は悟られなかったんだから必要じゃないか」とも思うんですが、ただ我々はやはり釈尊なり、道元のこういう言葉を信じて、まず最初から「求めてはいけない」というんだったら、求めないで生きていく。私はそういうふうに思いますね。それに従っていくのが我々の信仰かな、というふうに思いますね。
 
草柳:  最後に『正法眼蔵』から有名な言葉をご紹介したいと思うんですが、
 
雪裏(せつり)の梅華(ばいか)は一現(いちげん)の曇華(どんげ)なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来(わがぶつにょらい)の正法眼晴(しょうぼうがんぜい)を拝見しながら、いたづらに瞬目(しゅんもく)を蹉過(しゃか)して、破顔(はがん)せざる。而今(にこん)すでに雪裏の梅華まさしく如来の眼晴なりと正伝し、承当(じょうとう)す。
(『正法眼蔵』梅華)
 
『随聞記』とは随分調子が違いますね。
 
角田:  そうですね。ちょっと難しいですが、「雪裏の梅華」というのは雪が降って、雪を被った中で咲いている梅の花ということなんですが、実際に道元禅師がそれをご覧になったと思うんですね。雪の中で一輪の梅の花が咲いている。「一現の曇華」というのは、「曇華」というのは「優曇華(うどんげ)」と言いまして、三千年に一度しか咲かないという伝説の花があるんですね。これはお釈迦様が二祖の摩訶迦葉(まかかしょう)尊者に仏法を伝えられた時に、この優曇華(うどんげ)を手に取って、弟子たちの前で何も語らずに―後の方に「瞬目」というのが出てきますけれども―目をパチパチとするわけですね。そして摩訶迦葉尊者だけがニッコリと笑う。摩訶迦葉は釈尊のお弟子さんですね。釈尊が後継者をいざ決めるという時に、そういうことをされるんですが、お釈迦様の本当の心がわかってニッコリと微笑む、ということが行われたんですね。その時の花が曇華なんです。道元禅師は日頃雪の中に咲く梅の花はいつも見ていたんですが、ただ普通に、「あ、梅の花だな」というふうに見ていた。ところが如浄(にょじょう)禅師の元でお悟りを開かれたその後のお話ですので、道元禅師のお悟りに関わるものだと思うんですが、「日頃見ていた梅の花が実はあの優曇華であったんだ。三千年に一度しか咲かないその優曇華であったんだ」ということに気が付いたという、その感激を示された部分がこの部分なんですね。ちょっと簡単な説明になってしまいましたけれども。
 
草柳:  つまりこの境涯が道元の悟りなんですか。
 
角田:  そうですね。それまでは道元禅師は、「悟り」というのはなんか「特別なものであって、三千年に一度しか咲かない優曇華というのは、本当に日頃我々の周りにあるものではない。そういうふうに特別なものだ」と思っていたんですね。ところが如浄禅師の元でお悟りを開いて、「なんだ、あの日頃見ていた、あの梅の花―たまたま梅の花の時期だったと思うんですが―あ、この梅の花こそ優曇華だったんだなあ。お釈迦様の仏法をいきいきと説いている花だったんだな」ということに気が付いたわけですね。今まではそれに気が付かなかったわけですね。それが優曇華である、と。あらゆる大自然が自分に仏の教えを語りかけていたわけですね。語りかけていたんだけれども、自分はそのことに気が付かなかった。ところが如浄禅師の元で坐禅修行されて、そしてそのことに気付かれた。今の文章からその歓びというものがほんとにひしひしと伝わってまいりますね。
 
草柳:  最後に今日のテーマである「報いを求めず」ということをちょっと纏めて頂くと、どういうことになりますか。
 
角田:  一つには、「報酬を求めない」ということですね。それからもう一つは、「我々は本来素晴らしいものを持っているんだからそれに気付くことが大切だ。他に特別のものを求めてはいけない」ということになりますね。そして実はその実践というものが坐禅なんですね。次回坐禅のお話をしたいと思いますけれども、道元禅師といえば坐禅―「只管打坐(しかんたざ)」ただひたすら坐る、と。何も求めずに無条件に坐る、ということですが、これも今日の「求めない」ということと大いに関わってくるわけですね。
 
草柳:  ではまた次回よろしくお願い致します。どうもありがとうございました。
 
角田:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十年八月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである