絵に見つめられて
 
                     佐喜眞美術館館長 佐喜眞(さきま) 道 夫(みちお)
                     ききて      仲 松  昌 次
 
           
ナレーター: 沖縄県宜野湾(ぎのわん)市。街の真ん中にある普天間(ふてんま)基地の滑走路と隣り合わせに建つ美術館があります。画家丸木位里(まるきいり)(1901-1995)・丸木俊(まるきとし)(1912-2000)が描いた沖縄戦の絵が常設展示されている佐喜眞美術館です。美術館は三方を基地と隔てる金網に取り囲まれています。打ちっ放しのコンクリート、開放的な正面に入り口、沖縄の風が吹き抜けていく回廊。この美術館は館長の佐喜眞道夫さんが佐喜眞家代々の土地に建てた個人美術館です。丸木位里・丸木俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」(1984)は連作十四枚。その中でもっとも大きな絵は、縦四メートル、横八・五メートルの「沖縄戦の図」が壁一面に飾られています。一九四五年三月末、凡そ五十四万人のアメリカ軍が沖縄の島々に押し寄せました。「沖縄戦の図」には、三ヶ月にわたる日本軍との戦闘に巻き込まれた住民の姿が描かれています。戦火の中を逃げまどう人々。戦争という極限状態に追い込まれ、行き場のなくなった人々。親が子を、子が親を、兄が弟を、肉親同士が殺し合う凄惨(せいさん)な場面。住民の三人に一人が死んだ地獄のような戦場といわれた沖縄戦の実相が余すところ無く描かれています。「原爆の図」で知られる丸木位里・丸木俊夫妻は、一九八二年から沖縄に渡り、沖縄戦の生き残りの人々の証言を聞き、スケッチを重ねてきました。沖縄の民家を借り、生存者たちにも絵のモデルになってもらい、六年の歳月をかけて、「沖縄戦の図」の連作を書き上げました。丸木夫妻はいつも、「この絵は私たちだけの絵ではない。沖縄の人たちとの共同制作です」と語ったといいます。佐喜眞美術館の館長佐喜眞道夫さん。東京で針灸師として働いていた佐喜眞さんが、丸木夫妻から「沖縄戦の図」を譲り受けたあと、美術館を開館するために沖縄に移り住んだのは一九九四年のことです。美術館ができて十二年、今までは修学旅行生を中心に年間五万人を越える人々が訪れています。
 

 
仲松:  佐喜眞美術館というと、丸木さんの「沖縄戦の図」ということで知られているわけですけれども、そもそも佐喜眞さんがこの絵を手にされるまでといいますか、丸木さんとの出会いというのはどういうところから始まったんですか。
 
佐喜眞:  これはですね、新聞に「丸木位里・俊が「沖縄戦の図」を書いている」という小さな記事が載りました。これを見た時、私はほんとに爆発的に嬉しかったです。身体からわぁっと歓びが湧いてきて、思わず万歳したんじゃないかと思うぐらいですね。なんであんなに嬉しかったのかな、と思うぐらい嬉しかったですね。それでその絵を新聞記事で見た時に、丸木先生になんかお礼をしたいな、と。沖縄の人間としてお礼がしたい、というふうに思ったんです。私はそんなことを普段考える人間ではないんですけどね。このことも不思議な感じがしますね。それで丸木さんの講演会があるということで出掛けて行きました。ひょんなことから針治療をすることになったんです。というのは、針治療といいますのは丸木俊先生は眼が悪かったんですね。私はその時針灸師でしたから、私の針灸で丸木先生の眼を治せるんじゃないかなあと思いましてね、針治療でお伺いするようになったんです。それでそういう中でいろんな話をしているうちに、丸木さんが「「沖縄戦の図」は、描く時から沖縄に寄贈したいと思っている。そして落ち着き先を捜してほしいと何人かの人に頼んでいるけど、どこも手を挙げてこない」とおっしゃるものですから、私はあの「沖縄戦の図」がこの世の中にあるというだけでも嬉しかった。私が、沖縄戦の話を学生時代に―東京でしたけれども―いっぱい友だちに話をするわけですね。そうしますとどんどん白(しら)けていくんです。どんどん白けていって、最後には、「佐喜眞なあ、この戦争で沖縄だけ酷い目に遭ったんじゃないよ。お前のとこだけ酷い話するな。全国で酷い目に遭ったんじゃないか」と、こんなことをいうんですね。みんなそう思っていますから、ドーンと距離が開いてしまって、「ちょっと待ってくれ」と。「沖縄が体験した地上戦と日本本土が体験した空襲とはまったく違うんだよ」ということを、私は言わなければなりませんけれども、当時の学生時代の私はその知恵がなかったんですね。「違うんだ。ちょっと待ってくれ」という口惜しい思いがずっと重なっていたんだろうと思います。そういう思いがいっぱい溜まっていたと思うんですね。それが丸木さんが「沖縄戦の図」を描いたということで、友人たちを連れて行って、「この絵を見てくれ。私の言いたいことはこういうことなんだ」ということを見せるものができた、と。或いは沖縄戦を体験した沖縄の人々が平和を求める心を―「沖縄の心」といいますけれども―沖縄の心が絵になったと思ったですね。それがこの世に存在しているだけでも嬉しかった。それを丸木先生が沖縄に寄贈したいと言っているのに、どこも手を挙げないというのは、これはまたほんとに驚きといいますか、一体沖縄は何をしているんだ、という思いですよね。いろいろ考えた末、自分でやろう、と。この絵を沖縄に持ってくることを私の一生の仕事にしてもいい、というふうに思ったんですね。それで丸木先生に、「私がやりましょうか」と話をしました。そうしましたら、丸木さんは大変喜ばれて、収蔵庫に私を連れて行きましたよ。そして、棚から自分の描いた絵を五つ重ねて、「これを貰ってくれ」とおっしゃるんですね。私はその時に、これを貰ったらお終いだなあ、という気持もしましたけれども、「先生、これ貰っていいんですか?」と言いましたら、「貰ってくれ」とおっしゃるもんですから覚悟を決めて、「頂きます」と言って貰ってきました。それから十年かかったですね。十年かかってこの美術館をオープンすることができました。丸木先生はこの「沖縄戦の図」を沖縄に置きたいということを願っておられた。私はまた沖縄に静かにものを思う場所を作りたいといいますか、そういうふうに私は思っておりました。私と丸木さんの思いが重なったようなところがあって、この美術館ができていますね。
 
仲松:  さっきのお話で、「言葉に言い表せない」という言い方をされましたけれども、わぁっと爆発的に歓びが湧いてきた、というのは何だったんですかね。
 
佐喜眞:  今から考えますと、いろんな思いが私の心の中に溜まっていたんだろうと思いますね。ほんとに学生時代からいろんな思いが―本土と沖縄の関係とか、沖縄戦の地上戦と空襲の問題とか―いろんな問題が重なって、それを表現できない自分に苛立っていたんだと思いますね。それを丸木さんが描いてくれた、という思いに対する大変な歓びと大変大事な仕事をして頂いたといういうことでしょうね。
 

ナレーター:  佐喜眞さんは、一九四五年に熊本県で生まれました。沖縄戦の戦火を逃れて疎開していた両親は、戦後も沖縄に戻らず、熊本で暮らしていました。高校を出て、一九六六年に上京、仏教系の大学に進学します。沖縄返還運動が盛んだった頃、多感な学生時代を送っています。
 

 
佐喜眞:  熊本というところは大変田舎ですから、ある面では文化もちゃんとしていまして、因襲的な場所ですね。そこで子どもですから大変残酷でもあります。私は沖縄ということで随分いじめられては阻害されたほうですね。毛が多いもんですから、「琉球ザル」と。「琉球ザル!琉球!」と囃(はや)すんですね。そしてカッとなって、もう喧嘩ばっかりして、生傷が絶えないような小学生でしたね。私は、小学校四年で番長になりましたよ。クラスで、学年で一番強いという。しかし子どもの世界というのは、六年生も中学生もいますから、いつも先輩―年上の子供たちと喧嘩して生傷が絶えない子どもでしたね。そういうこともあったのか、私の父と母は、沖縄の人間としてコンプレックスを持ってほしくないと思ったんでしょうかね、沖縄のいいところばっかり話をしたんですよ。沖縄がどんなに素晴らしいか。父からいうと、お父さんお母さん、私からいうと、おじいちゃん、おばあちゃんがどんなに豊かなしっかりした生活人だったかということをいろんな話をしました。そういう話を食事のたんびに二時間三時間話をするわけです。それを十何年と聞き続けるわけですね。そうしますと、私は見たことも歩いたこともない、登ったこともない山も川も見えるんですね、何となく。そういうぐらい話を聞いたんです。ですから沖縄というのはこの世の中で一番いいところなのかなあと思っておったんです(笑い)。
 
仲松:  最初に沖縄に行かれたのは?
 
佐喜眞:  私が小学校の二年の時―一九五四年ですけども―その時、沖縄に来たときに、これはもうほんとに驚きましたね。沖縄戦からまだ間が経っておりませんから、沖縄が真っ白でしたね。要するに爆撃の跡で、全部吹き飛んで、木も土も全部吹き飛んで、下に岩石が出ている、その雰囲気がまだ残っているんですね。これは私が父と母から聞いた沖縄が全部吹き飛んでしまっている、と。大変驚いたですね。そこで父の兄弟たちが私たち家族を大変温かく迎えてくれました。この情の深さと言いますか、これまた大変素晴らしいものを感じまして、大変強い印象を持って帰りましたね。
 
仲松:  それからご自分の小さい頃の沖縄との出会いと、それから上京されて丸木さんとの出会い、それから「沖縄戦の図」をこちらの美術館に飾るまでというのは、もうどっかで結び付いているわけですね。
 
佐喜眞:  ええ。結び付いていますね。私の父が絵が好きだったんですね。私は熊本の田舎で生まれ育ったんですけれども、そこで父は医院を開業していました。熊本県立美術館はその当時まだなかったんです。ですから父は私を時々福岡の県立美術館だとか、久留米のブリヂストン美術館なんかに連れていくんですね。青木繁の「海の幸」だとか「天平の時代」だとか、そういうのを見るわけです。小学校三年生か四年生なものですから、見てもさっぱりわからないですよ。しかし、「これはとんでもない絵だ」ということを父が言いますので、一生懸命みるわけですね。一生懸命見て帰ってきました。そしてその後、高校時代、大学時代に、例えば奈良に関係する本なんかを読みますと、その「天平の時代」の風景がフッと、あの絵が浮かんでくるんですね。これは驚きました。もう十何年前見たものがフッと浮かび上がってくる。絵というものは非常に心の精神の奥底に入ってきていることに対して非常に驚きましたね。そういうこともあって、自分が何をしたらいいのかなあという時に、絵のコレクションをしようということを思い付いたんですね。そして一九七五年からずっと絵のコレクションをしてきました。だから最初は何を集めていいかわかりませんので、単純に我々の生活を豊かにするのは何かなあと思ったら、私の頭の中に浮かんだのは浮世絵だったですよ。そういうのをずっと集めてきました。そして丸木さんと出会うわけですね。私は、講演会に行った時に、丸木俊先生が、「朝、起きたら目脂(めやに)がとりついている。目脂を洗わないと眼が開かない。ずっと眼医者をずっと行っているんだけど、全然悪くなるばっかりです。私はそのうち眼が見えなくなるでしょう。眼が見えなくなったら、私は絵が描けなくなります。言いたいことが山ほどある。絵が描けなくなったら、全国講演会をして廻ろうと思っています」とおっしゃるんですね。それを聞いていますと、東洋医学と言いますか、針灸の立場からそれを見ていますと、とても頑張る方ですね。そして身体つきでいいますと、ずんぐりむっくりして体力もあるんですね。とても体力もあって頑張れる。意志も強い。そういうタイプの方はもう頑張ってしまうんです。そしてその結果背中がパンパンに張ってしまうんです。「あの眼はひょっとすると私の針で治るかもしれんよ」というふうに丸木先生の知り合いに話しておいたんです。そうしましたら、半年ぐらい経って、「針のお前に、針治療やってもらいたい、とおっしゃっている」と連絡がきましてね。その時は、私はほんとに嬉しかったですね。念ずれば通ずると言いますかね。ああ、お役に立てると思って、自分の針灸に対する知識も技量も全部吟味し直しまして出掛けて行ったんです。そうしましたら、果たせるかな、寝れば治るという範疇のものです。ですから、「先生、これは治りますよ」と言い切れるわけです。「とにかくしっかり休んでください。すっかり休む治療を加えますから」ということで、やりましたら、それこそほんとに二、三回の治療で治ってしまったですね。要するにこれは単純な病気だったということです。ところが本人は違いますね。丸木俊先生は、眼が見えなくなってしまうという非常に不安感を持っておるんです。そこに「沖縄戦の図」を描いたら沖縄の青年がきて眼をあけてくれたというふうに思うぐらい感動されるわけですね。それからほんとに丸木先生お二人とも私を信頼して頂いて、針治療にずっと通っていたんですね。そういう中でとても出会いが幸運だった、ドラマチックだったですね。これは大変なんか加勢してくれているなという思いがしていますね。
 
仲松:  ただ治療されたお礼というだけではなくて、自分の絵をそれなりに理解してくれるという思いが丸木先生の中にもあったんでしょうね。
 
佐喜眞:  そうですね。私はほんとに丸木先生が「沖縄戦の図」を描いたということを、もの凄い大変な絵をよくぞ描いて頂いた、と。見れば見るほどそういう印象を持つわけですね。それに対して私は、尊敬といいますか、敬愛といいますか、そういう思いで丸木先生に接したと思います。丸木さんがこの絵を沖縄に持っていきたいと思っておられて、沖縄がそれを受け止めないという時に、私が個人で美術館を作るというのは大変な仕事ですから、身を滅ぼすことかも知りませんよね。いろいろのことを考えたですよ。いろいろなことを考えて、自分に条件があるのか、と。吟味すれば吟味するほどないんですよ。これはじゃどうするか、と。しかし、この絵を沖縄に持っていくことの意味の大きさを考えれば、これを何とかやらんといかん、と。その時たまたま―私たちは結婚がとても遅くて、さらに子どもが生まれるまで時間がかかって、結婚して六年目ぐらいにやっと子どもが生まれたんですけども、その生まれた子が死産だったです。その死んでしまった赤ちゃんが三千七百二十六グラムでとっても大きな子でしたよ。死んだ後、ほんとに寂しくて寂しくて、私は朝起きますと、なんか擂り鉢の海の底に、一人ポツンと私がいて、周りが全部ブルーですね。ヒューッと寒い思いがして、目が覚めるんですね。ほんとに寂しい思いでずっと生活していました。私の家内はおっぱいが張ってくるんですね。そうしますと、赤ちゃんを思い出して泣き出す。ほんとに辛い様子をしていました。その時あんまり辛いものですからね―東京に住んでいましたけれども―ちょっと気晴らしに車を買おう、と。車を買って中央高速を飛ばして山梨辺りの喫茶店でコーヒーを飲んで帰ってくる。何とも言えないただ気晴らしのドライブをしていました。そういう時だったものですから、丸木美術館に行くことができたんですね。ある時死んだ男の子を育てるのも苦労もあるだろう、と。この美術館を作れば苦労するのは目に見えている。「男の子を育てるつもりで二人で美術館を作ろうか」と家内と話をしたんですね。そうしたら家内も「そうねぇ」というもんですから、そういうのを踏まえて、「先生、私がやりましょうか」と返事をしたんです。そうしましたら、大変喜ばれました。ですから私たちの思いの中にも、子どもに代わる美術館を作るということではないですけれども、深いところでそういう思いがありますね。
 
仲松:  そうすると、その頃はもう一番どん底にいらっしゃった奥さまも、また佐喜眞さん自身も、丸木さんのところへ行くことでなんか励まされては、元気をもらうという形で。
 
佐喜眞:  そうですね。普通に行って、食事をして、いろんな世間話をして、四方山話をして帰ってくるわけですけれども、なんかエネルギーをもらえる。とても丸木位里・俊さんの話を聞いていますと非常に感動するんです。心がわくわくするんです。なんか真理に触れたような感じがするんです。帰ってきて、「いい話だったなあ」と話し合う。或いは私一人の場合は帰って私の家内に話をしますと、「すごい話ね」なんて感動するんです、二人で。一晩寝まして、そして翌朝、「昨日いい話だったなあ」と反芻(はんすう)しますと、なんのことはない、私が二十年も三十年前に知っていることなんですね、知識としては。ところが丸木さんの口から言葉が出ますと、なんか真実に触れたような印象をもってしまう。非常に不思議な方でした。私は、その時、何だろうと考えた時に、私たち現代人というのは非常に表面をこう上滑りしながらものを捉えている、と。知っている、と。ところが、丸木さんのように表現される方というのは、非常に奥に突っ込んで、グッと握っているといいますかね、その違いかなあと思って、大変いろんなことで耳のうろこが落ちるような―「耳のうろこが落ちる」というのはあるかどうかわかりませんが―そういう感じがして、とても感動して帰って来るという感じがありました。お二人とも大変優しい方でしたから。
 
 
ナレーター:  美術館の建設資金が用意できたのは、佐喜眞さんが所有する軍用地があったからでした。戦前、この辺りにあった佐喜眞家の土地は、戦後軍用地として接収されていました。祖母からその土地を相続した佐喜眞さんに軍用地料が入るようになったのです。美術館の敷地は、接収されていた土地の一部を返してもらうことにしました。美術館を建てるために軍用地を返還させるという、国とアメリカ軍相手の前代未聞の交渉は難航を窮めます。返してもらわなければその他の土地の再契約には応じないという佐喜眞さんの主張が効いて、三年後に返還が実現しました。「沖縄戦の図」は沖縄に、という丸木夫妻の願いを、佐喜眞さんはようやく叶えることができたのです。奪われた土地を取り返して実現した美術館。先祖代々の佐喜眞家の墓と隣り合わせに建てられています。
 

 
仲松:  「沖縄戦の図」が手に入って展示してもう十二年経つわけですけれども、佐喜眞さんなりに、「沖縄戦の図」と向きあうと、どういうことをお感じになるのか。その絵から受け止めるものとは、いったい何なのか、ということなんですが。
 
佐喜眞:  そうですね。私は最初にこの絵と対面したのは、東京都美術館で、「人人展(ひとひとてん)」にこれは、一九八四年に展示されたんですね。それをほんとに初めて見た時、驚いたと言いますかね、要するに沖縄がやられまくっているわけですね。そこで死んだりこちらで死んでいたり―とにかく悲惨な絵です。びっくりしましてね、だんだん後ろにずり下がり、後ろの壁にドーンとぶつかってしまいましたよ。ポカンと口を開けて、しばらく茫然と見ていました。しばらくして気を取り直して、もう一遍この絵に近付いて見たんですね。そうしましたらいろんなものが見えてくるわけですね。船が描いてあったり、島が描いてあったり、もの凄い炎ですね。或いはまた肉親同士で殺し合っているとか、或いは子どもがこっちをジッと見ているとか、いろんな墨の向こうから線が立ち上がってくるのを見ますと、最初に受けたショックを超えて、なんか違った印象を持っていったですね。何だろう、と。私がフッと違った印象を持つのは何だろうということをずっと考えながら見ていました。また丸木さんと今度は付き合いがでましたので、先ほど申しましたように、丸木さんは大変人間を励ますと言いますか、勇気付ける力を持った方です。絵もそうだったですね。だから沖縄戦の地獄を描きながら、なんか温かいもの、温かい風が向こうからくるという、不思議な絵だなあと思いました。今でもそのことはあんまり変わらないですね。
 
仲松:  単なる沖縄戦の悲劇だけを描いたものではない?
 
佐喜眞:  そうですね。丸木さんがずっと「原爆の図」を描き続けて、どうしても沖縄戦を描かんといかんということで描かれた絵ですけれども、集大成みたいなところがあるかも知れません。丸木さんはこんなことをおっしゃっていましたね。「日本という国は、明治からずっと戦争ばっかりしてきた。朝鮮でも、台湾でも、日清戦争にしろ、日露戦争、太平洋戦争ですね。そしてこの戦場はすべて国の外でした。日本国民が体験した戦争体験は空襲ですよ。世界で行っているのは地上戦なんだ、と。地上戦と空襲というのはまったく違う。ですから唯一日本国内で地上戦を体験した沖縄の人たちに、沖縄戦のことを教えてもらって、「沖縄戦の図」というものを人間の側から描く。丸木さんはずっと一貫して原爆の図から人間を描かんといかん、と。人間がどうなっているのか、ということを描かんといかん」ということをおっしゃっていましたけれども、その人間の側、すなわちあの絵に描かれているのは、女性と子どもとお年寄りたちですね。その人たちがどうなったのか、というのを、しっかり描いて、そしてその地上戦である沖縄戦をしっかり見つめて、地上戦というものはどんなものなのか。日本人がよく考えて、戦争をしない歴史を歩んでいってほしい、と。そのためにこれを描かんといかんという思いで描かれています。その思いで、その思いに応えて沖縄戦を体験した方が証言しモデルになっていますね。その思いというのは非常に深いところへ入ってくる。戦争というものを、死者を描けば描くほど、そこから反転して、いのちを大切に戦争なんかで死ぬな、というメッセージが強烈に入ってきますので、逆に励まされるでしょうね。戦争をしてしまう人間というのを、ずっと丸木さんは見てきたわけですね。じゃ、戦争をする人間をそのまま認めてしまったら、人間は滅びるしかないわけです。しかしそのことをしっかり受け入れて、どう越えていくかということをメッセージとしていつも考えておられたわけですね。そのことが、真ん中の子供たち、未来を担っていく子供たちに目を入れた。しっかり見て、しっかり考えて、記憶していって欲しいという。これはまさに未来に託しているわけですよ。そういうこととか、或いは丸木さんたちは、死んでいった人たちの中に自分たちの肖像画を入れました。自分たちの絵というのは、死んでいった人たちに代わって、広島で原爆を見てしまった画家である自分が、原爆の図から沖縄戦まで描くという。死んでいった人たちが何を考えていたか。そこから何のメッセージを私たちに送っているのかということを、死んでいった人たちに代わって私たちが聞くんだという思い、或いは祈りかも知れません。そういう思いで描かれた絵ですね。そういうのがひしひしと伝わってきた時に、やっぱり反転して、こういう戦争という状況を越えていくイメージといいますか、思いといいますか、心といいますか、立ち上がってくるのではないでしょうか。
 
仲松:  その辺はある意味では佐喜眞さんご自身といいますか、或いは佐喜眞さんご夫妻が、それまで歩んできた道程を照らし出すところもあるわけですね。
 
佐喜眞:  それは勿論ありますね。これに随分私は救われたと思います。この絵を見ながら、例えば九・一一の後、世界が、あれだけの人が戦争に反対したにも関わらずイラク戦争が起こってしまいましたね。その時、私はガックリしてしまったですね。こんなことをやってもムダじゃないかなあ、と。意味がないんではないかなあ、と。そして腰が抜けたような感じだったですよ。無気力になったですよ。ところがこの美術館には修学旅行生がどんどん来るんですね。修学旅行生が来ますと、私はあの絵の説明に立つわけですね。こちらは無気力です。ところが彼らの目がいつになく真剣なんですね、高校生の目が。その時に私はハッとしましたよ。彼らは今の世界の状況を見て、俺たちも後何年かこの絵の中におるようになってしまうのかなという不安感といいますか、身体で持って不安を感じているわけですね。真剣に見ている。真剣な目に接した時、おぉっと、ガーンとなりましたね。やっぱりこの絵の丸木さんの思い、志といいますか、それを伝えなければいけないという時に、思わずシャンとなって、やっぱり子供たちの目から、或いはこの絵から貰って、やっぱり腰砕けになっている場合じゃないと。もう一つ、今の子供たちにも沖縄戦を通して、我々が獲得した意識といいますか、それを描いた絵を通して思いを伝えていかなければいかんという思いにシャンとなりました。随分この絵で私はエネルギーを貰って、立ち直ったという感じがしました。それはいろんな場面でそういうことがありますね。
 

 
ナレーター:  丸木夫妻の絵から貰った力、それはどこから生まれたのでしょうか。佐喜眞さんは、二人の中にあった深い宗教心ではないかと考えています。丸木位里は、一九○一年広島県の農家に生まれました。幼い頃から三度の食事に祈りをかかさないという敬虔な浄土真宗安芸門徒(あきもんと)の家庭に育ちました。丸木俊は、一九一二年に北海道の浄土真宗の寺の長女として生まれました。佐喜眞さんが、丸木夫妻と深い付き合いができたのは、俊さんの針治療だけでなく、高校時代から『歎異抄』や『教行信証』を読んでいたという仏教が取り持つ縁でもあったのです。
 

 
佐喜眞:  私は、丸木位里・丸木俊という画家は、「原爆の図」をずっと描き始めて以来、四十年越えるぐらい一つのテーマを描き続けるわけですね。こういう人間と戦争について描き続けた作家といいますか、画家というのは非常に珍しいですよね。これはお二人とも宗教的な、浄土真宗の深い教えを持っておられたから、そうなんじゃないかなあと思うんですよね。これは中国の善導(ぜんどう)大師という方が作られた「二河白道(にがびゃくどう)」という喩え話がありますけど、「火の海」と「大洪水」という二つの海を渡っていくという絵なんです。真実を知らない凡夫というものを、どうしようもない存在だ、と。この人間というのが、いっぱい持っている煩悩というもので、人間はほんとにいろんな地獄を生きざるを得ない。しかし地獄である地獄に生きていることすら知らない。それは闇の中にあっては光がなければ闇が見えてこないんだ、と。その時に如来の光を感じた人が、これは闇なんだ、と。これを越えて二つの煩悩の逆巻く河を越えてでも向こうに歩いていこう、と。何とかしてこの地獄の存在を越えていこうということが大事なんだ、というのを絵に喩えられていますけれども、あの絵と私は重なるんですよ。丸木さんほど原爆を体験した後人間と戦争に対する一つのテーマを四十年間も描き続けたというのは非常に日本人ばなれしていますよ。これは何だったのか。その時ほんとにお二人の中にある仏教といいますか、宗教的な精神が永続されたのではないかな、と思うんですね。真ん中に火の海といいますかそういうのが描いてありますけれども、真ん中に立っている三人の子供たちですね―この戦争は自分たちが正しいと思ってやった結果の戦争ですね、その戦争というのは両方とも正しいと思ってやるわけですから、その結果どうなってしまったのかという―その結末を見てしまった子どもですよね。ですから戦争をするという論理の中ではまたこれが起こってしまう。次はもっと酷いことが起こってしまうかも知れない。その結末を見た人間ですね。だからこれを越えていく論理を考えなくちゃいけない。本当の真実をもたらすものを見付けなければいけない。ジッと見ている子どもですね。そしてそれを求めている子どもですね。そういう描き方というのは非常に二河白道的なものと重なって、丸木さんお二人にとって描き続けなければならないものじゃなかったのかなあと、私は思っています。感想ノートにとっても嬉しいことを書いてくれた女の子がいまして、「私は今日まで死ぬことしか考えてこなかった。今日この絵を見て、明日から生きていけそうな気がする」と、そういうことを書いてくれた女の子がいますよ。私はその感想文章を読んだ時、思わず涙が出ましたよ。だからほんとに追い詰められて、もう死のうかと思って来ている人ほど、この絵から大きなエネルギーをもらうんですね。そういうのはよくあります。また中年の男性が、「私は人間を信用しない。信用できないと思って生きてきた。今日ここに来て、丸木さんの絵を見て、もう一回だけ人間を信じてみようかという気になった」ということをおっしゃって帰られる人もいるんですね。だから非常に厳しいところに立っておられれば立っておられるほど、この絵から深いメッセージを受け止めて帰られる、という印象がありますね。私なんかはまだまだそこまでいっていないですね。
 
仲松:  丸木さんの中にあった人間的な大きさみたいなものが、この絵の中から感じ取られるということですかね。
 
佐喜眞:  そうだと思いますね。戦争の絵ですから、みんな悲惨な絵を予想して来るんですね。ところが一人ひとり描かれている人の目の表情だとか、顔だとか、身体全体から醸し出すものは、それを超えた存在に描いているんですね。だから人によっては、「あ、これは仏さんだ」という人もいらっしゃいますね。あそこに死者たちがいますね。死者たちの中に目が入れてある。その目から我々たちは見られているわけですね。死んでいった人たちから見られているという。あの沖縄戦を体験した人たちが、今の私たちを見ているわけですね。私たちは彼らの目に叶うような生き方をしているだろうか、ということを突き付けられているわけですね。そういう点では非常に襟を正される感じがして、私は絵の前に立つんです。子どもたちがこっちを見ている、光を求めて見ている。そして光の向こうに私たちが立っているわけですよ。絵の前に立っている私たちを見ていると言ってもいいですね。あの絵というのは、私たちが見るんじゃなくて向こうから見られているという意識が随分する絵です。時々ゾッとすることがあります、いろんな目を感じましてね。子どもの目もそうですし、死んでいった人たちの目もそうですし、いろんな絵から私たちは見られている。試されている。そしてまた自分を気付かされるといいますか、そういう絵だろうと思うんです。人間という存在を、生きてから死ぬまで七十年八十年ですけれども、そうではなくて、自分の存在というのは、親と子が、おじいちゃん、おばあちゃん、先祖のいろんな思いがこもって、今あるわけですね。そういう人間の存在というものを一つの時間の長い流れの中で見るといいますか、感ずるといいますか、考えるといいますか、そういう目でもありますよね。だから私は高校生に、「この絵は、君たちみたいな次の時代を担っていく若い人に、戦争という状況が起こったら、女性たちや子供たちやお年寄りはどうなってしまうのかしっかり見て、しっかり記憶し続けて、いろんな智慧を出してほしいという思いで、画家は目を入れました。死んでいった人たちの目が入っている。死んでいった人たちの目にいろんな目がある。全部違うわけですけれども、この絵に画家の丸木さんは何を託したんだろうか。これはあなたが考えてください」と、宿題を出すんですね。そうしますと、修学旅行から帰った子供たちは、「私は修学旅行で館長から宿題を頂きました。私はこういうふうに考えます」と、とてもいい手紙が全国からくるんですね。それは嬉しいですね。自分の存在というものを歴史的な流れの中で自分を考えるということを、丸木さんは思っておられるし、それが伝わるわけですね。
 

仲松:  佐喜眞美術館では、「沖縄戦の図」の連作の他にも、いのちを見つめた画家たちの作品を収集展示しています。ドイツの版画家ケーテ・コルヴィッツ(1867-1945)もその一人です。ケーテは不況と貧困の中で必死に生きる労働者や戦争に翻弄される民衆の姿を一貫して描き続けました。ケーテの代表作の一つ「母たち」。迫りくる戦争の影に怯える母と子。必死に子どもを守ろうとする母親たちがスクラムを組んだ節くれ立った手が印象的な作品です。ケーテは第一次大戦で息子を、第二次大戦で孫を亡くしています。原爆シリーズで知られる版画家上野誠(1909-1980)の広島三部作の「鳩」。上野誠は平和の象徴である鳩をモチーフに描き続け、この作品はライプチッヒ国際美術版画展で金賞を受賞しました。佐喜眞美術館では丸木位里・俊夫妻の作品と並べて、ケーテ・コルヴィッツと上野誠の展覧会を繰り返し行っています。
 

 
佐喜眞:  ケーテ・コルヴィッツの作品が東京で見つかりましたてね、最初に買った作品が「死んだ子を抱く母」なんです。「死んだ子を抱く母」というのは、一九○三年に自分の次男ピーターをモデルに作った作品です。これはまた素晴らしい、凄まじい作品ですよ。要するにピーターはまだ生きているんです。で、なんと予言的な作品になってしまったんです。その十年後、彼は第一次大戦に志願兵として軍隊に行って戦死するんです。どんどん戦争に近付いてくる時に、自分の息子が戦争に行って奪われてしまうんじゃないだろうかという不安感を、十年前に作ってしまったような作品ですけども、この作品がまた凄まじい迫力で、ほんとに最初は、この子をこのお母さんは食っているんじゃないかな、という感じの凄まじい絵です。ジッと見ていますと、もの凄い深い悲しみといいますか、抱いた子どもの胸に顎がめり込んでいる。激しいピエタ像だと思いました。非常に深い動物的、逆に言えば人間的な深い愛情ですね。そのピエタ像を最初にコレクションしたものですから、後はもうずっとケーテ・コルヴィッツの作品を集め続けたんですね。これはほんとに凄い作家でいろんな人に影響を与えています。
 
仲松:  最近彫刻のピエタ像も手に入れられたということですね。
 
佐喜眞:  そうです。このケーテのピエタ像も、彫刻の方も、これはほんとに農民のお母さんですよね。農民のお母さんが子どもを抱いているという。死んだ子を抱いているお母さん。要するにドイツの民衆の形になっているわけですね。マリアの姿が農民のお母さんになっている。そういう点では、表現が私たちのところまで下りてきているという作品ですから、これは是非手に入れたかったですね。
 
仲松:  手に入れて、実際にご自分の美術館で展示して、見に来たお客さんの反響というのは、その辺はどうなんですか。
 
佐喜眞:  これは第一展示室にケーテを列べていますけれども、その真ん中に彫刻がくることによって、ピシャリと空間が決まるといいますか、メッセージが強くなるような感じがしますね。来た人はいろんなことを言っていかれます。特に子どもを持った若いお母さんたちは非常に胸に沁みるといいますか、「思わず子どもの手を握り締めてあの絵を見ました」とか、そんなことを言って行かれますね。非常に展示空間の真ん中にあの彫刻が入ったことによって、メッセージ性が深くなったと思います。上野誠さんは、私が最初に浮世絵を集めていたから、どうしても違うんじゃないだろうか、ということで、初めに出会った作家が上野誠なんですね。この上野さんは長崎の原爆の問題をずっとテーマにした版画家です。この方は、たまたま上野駅を通っていると、全身ケロイドになった方が核実験反対の演説をしている。そこに置いてある箱にお金を入れてもらう。核実験を反対しながら生活しているちょっと不思議な方だったんですね。その方の話を聞いているうちに、上野さんは思わずその後ろに行って、その人の背中をさすりながら一緒に核実験の反対を訴えたという、非常にあきれかえるほどの真っ直ぐな方なんですね。そして非常に面白いのは、長崎原爆の図を作って長崎原爆記念病院に持って行くんです。そして自分の作品について話をします。そうしますと、集まった被爆者の方たちが帰りがけに、「何回もいろんな話を聞いたけども、やっぱりいつも同じだ。同じ話しかしない」と、帰っていくですね。上野さんはドキッとして、ほんとに被爆した人たちの思いに応えうるような作品を作らんといかんと言って、自分の作品を作っては、必ず原爆記念病院に持って行って、それを見せて、あの戦争体験した人に自分の作品が耐えうるのかどうかということを試すんですね。そして作品を作っていった方ですね。そうしていくうちに、長崎の原爆のことを教えてくれた人たちが、原爆症ですからどんどん死んでいくんですね。自分と大変親しく付き合いをしていろんなことを教えてくれた人が死んでいくと、死んでいった人たちに対する痛恨の思いが、今これに展示している「鳩」になりました。この「鳩」はそういうシリーズなんですね。ですからほんとに上野さんの作品を見ながら、私は初めてそういうテーマを持った絵と対面しまして、いろんなことを学んだ作家ですね。この上野誠という方は、ほんとにビックリしたんですけども、ケーテ・コルヴィッツをとても勉強した方なんですよ。ケーテ・コルヴィッツの作品を上野先生は机の前に張っておいてあったそうです。上野さんはケーテ・コルヴィッツの生誕百年の時に、ケーテ・コルヴィッツ賞を取りました。これはとても上野さんにとっては嬉しかったでしょうね。それからケーテ・コルヴィッツと言えば、丸木俊さんもとてもケーテ・コルヴィッツを勉強した方なんですね。だから丸木位里・俊、ケーテ、上野誠と列んでいますけれども、このケーテ・コルヴィッツというのは、その扇の要(かなめ)みたいな位置になります。三人の作品がいま列んでいますけれども、とても関連の深い作家たちの展覧会なんですね。
 
仲松:  その三人の作品を貫くものというのは、佐喜眞さんはどういうふうに感じていますか。
 
佐喜眞:  「破壊された生命」といいますか、ケーテにしたって、ほんとに自分たちの生活を押し潰していく貧困だとか、戦争とか。丸木位里・俊の場合はもろに戦争ですね。ですからそういうものを描くことによって、逆に生命を潰す思いに対する抗議といいますか、生命を潰すものに対する告発といいますか、そういうものを非常にしっかりした哲学とともにある作品と言えるんじゃないでしょうかね。だから戦争の絵を描いて、或いはまた非常に貧しい農民たち、貧しい人たちの絵を描いて、そこまで人間を押し込めていく。そして見事に尊厳性を持った絵にすることによっていのちを押し潰すものに対する一つのアンチ(anti:反、反対)といいますか、そういうものが精神としてまったく逆に伝わってくる絵ですよね。だから大変ヒューマン(human:人間らしい)な絵じゃないかなあと思いますね。
 
仲松:  沖縄の言葉に「命(ぬち)どう宝(たから)」というのがありますよね。「命こそ大事な宝だ」という言い方なんですけれども、そうするとその三人に通ずる通底するといいますか、共通するものというのは、命のある種の尊厳というんですか、そういうものを見つめる目というような感じでしょうか。
 
佐喜眞:  そうだろうと思いますね。「命(ぬち)どう宝(たから)」ということは、沖縄戦を経て、そして沖縄の人たちがしみじみと深いところで獲得した一つの哲学的な認識といいますか、そういうものだろうと私は思うんですね。ですからほんとに「命(ぬち)どう宝(たから)」ということを通底するものを、上野誠さんも、ケーテ・コルヴィッツも、丸木位里・俊も描いているんだ、というふうに私は思っていますね。
 
仲松:  こういう時代の中で若い人たちにどう受け止められているのか、というのが知りたいんですけれども。
 
佐喜眞:  私は戦争というものを非常にえげつなく語ろうと思って、一坪に一トンの爆弾が撃ちこまれる。二百五十キロ爆弾だと四発撃ち込まれると地上の人間はどうなってしまうのか。沖縄戦で全部吹き飛んでしまったわけですね。吹き飛んでいった死体は一週間も経たないうちに腐って骨になっていく。また飛び散った死体が発する匂いというのは非常に凄まじいものですよ。だから沖縄戦を体験した方の証言なんかを読みますと、ヨモギの草をとって鼻に突っ込んで誤魔化しながら歩いたとか、或いは棒を持って歩くんですね。腐った死体を踏み付けますとボーンと爆発する。その時腐った体液もウジ虫も全部あびてしまう。そういうのが恐くて死体のないところを捜しながら逃げていったという体験がたくさん出てきますけれども、そういう話をしながら、人間は性懲りもなく戦争をしてきましたし、まだ今もしていますけども、戦争という時の現場がどうなってしまうのか、と非常にリアルに捉えた時に非常に真剣に考えだすんですよ。そして戦争の中で死んでいった―要するに戦争というのは若い人たちが死んでいくわけですね―年取った老人が病院で死んでいく死と、死にたくもないのに若くて戦場で死んでいくというのは、意味がまったく違います。このことを目の前にした時に、自分は生きている。あの戦争に遭遇した人たちが若くて死んでいった。このことを考えまして、ほんとに自分が今生きていることの意味といいますか、平和の有り難さを、見たら実感するんですね。あの絵が恐ろしければ恐ろしいほど、逆に自分の生きていることのいのちを実感する。だから本当の意味で考える材料を、非常にリアルに、真実でもって教えてあげる。目の前に提示した時、若者はとても考えるような気がします。彼らは頭でなくて身体的な認識じゃないかと思うぐらいですね。私はこういうことがあるんですよ。修学旅行生があの絵の前に来て、最初に見た時、真っ黒に見えるでしょうね。ほんとに救いのない絵に見えるでしょうね。しかもこういう中年のおっさんが、あの絵を説明し出す。「もう止めてくれ」というような顔をする子がいるんですね。そういう時、私はこういうふうに言うんです。「君たちは、この絵というのは、六十年前の、君たちより遠い沖縄で起こった戦争だと思っていやしないか。そうじゃないかも知れんよ。十年後に君たちはこの絵の中にいるかも知れない。未来のことかも知れないよ。私はそういうつもりで喋っているよ。しっかり聞きなさい」と話をしますと、ピッとしますね。ですからほんとに事実を提示すると、これは二百五十キロ爆弾が落ちてくる六十年前の戦争ではありますけれども、今はもっともっと酷いことが戦場で起こっているわけですね。考える材料を提供した時に、非常に真剣にものを考え出す。それは目に表れますから、目がどんどん変わってきます。ですから私は大変仕事としてはやり甲斐がありますね。励まされる感じがします。私は―原点に戻りますけれども―沖縄に小学校の時、初めて一九五四年に帰って来た時ですね、沖縄は真っ白くなっていました。中学校、高校、大学時代に、ほんとに緑豊かな熊本から帰って来ますと、もう沖縄は砂埃ですよ。その時木一本もない。人々は電柱の陰でバスを待っていましたね。私は、それ見た時、ほんとに沖縄に緑がほしい。緑陰がほしい、と思いました。それの延長線上に、私は、「心の緑陰」といいますか、「魂の緑陰」といいますか、人々の心を調える場所という思いでこの美術館を作っているつもりです。だからそういうものとしてほんとにこちらの精神、魂を深いところで調えるような作品をなるべく列べまして、どんどん読み込みを深くしていって、あの「沖縄戦の図」というのは、まだまだ見るたびに発見があるような絵なんですね。丸木さんが考えられたこと、丸木さんが表現されたこと、或いは証言した方たちが、死者の言葉にならない言葉を汲み取りながら、しっかり考えていくという場所―「ものを思う空間」を作っていきたいと思いますね。
 

 
ナレーター:  静かにものを思う空間、魂の緑陰にしたいと語る佐喜眞道夫さん。美術館の屋上に西の空へと伸びる階段があります。六段と二十三段。六月二十三日、沖縄戦が終わったその日、階段の正面にある窓の中から東シナ海に沈む夕陽を見ることができます。一年に一度佐喜眞美術館のもう一枚の祈りの絵がここに現れます。
 
 
     これは、平成十八年六月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである