般若心経を語る D色は空なり
 
                      龍源寺住職 松 原  哲 明(てつみょう)
                      き き て 草 柳  隆 三
 
草柳:  「般若心経を語る」の第五回目です。今日取り上げる言葉は、般若心経の中でももっともよく知られた「色は即ち空なり」というところなんですね。「色」というのは、物質、つまり形のあるもののことをいうことですので、じゃ、「何故形あるものが空なのか」と。これは常識ではお手上げなんですね。その辺の消息を今日も語って頂きますのは、東京三田の龍源寺住職の松原哲明さんです。どうぞよろしくお願い致します。
 
松原:  よろしくお願い致します。
草柳:  今日はいよいよ差し掛かってきたな、という感じなんですが、「空」という言葉そのものが、いわゆる我々の常識の中の言葉の解釈とはちょっと違うんですね。
 
松原:  そうですね。「空っぽ」というような意識がありますけれども、全然そうじゃない、ということですね。
 
草柳:  じゃ、「色は何故空なのか」、これから紐解いて頂くわけですけれども、しかしほんとに頭ではなかなか理解出来ませんですね。
 
松原:  はい。特に重大なポイントですね。釈尊仏教の一番の頂上みたいなところですから、それを解き明かすというのは、いろいろと言い方があると思うんですけれども、「色」―形のあるものには、「空」―形のない無心の心があるんだ、というふうに、理屈からいうと難しいですが、よく赤ちゃんをあやす時に、「いない、いない、ばぁ〜」なんてやりますね。そういうような感じで、「ばぁ〜」と言った時には完全な無心でしょう。私が無心になるよ、というようなふうにできるんじゃないのかな、と。「素直に自分のありのままでいけ」と。赤ちゃんと一つになる、というようなところですかね。
 
草柳:  その「色即是空」色は即ち是れ空なり、というのは、心経の中でどの部分で使われて書かれているのか。それをまたこれを見て、ここの「摩訶般若波羅蜜多心経」というタイトルがあって、四行目にある、
     色不異空(しきふーいーくう) 空不異色(くーふーいーしき)
     色即是空(しきそくぜーくう) 空即是色(くうそくぜーしき) 
     受想行識(じゅーそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶーにょーぜー)
というところですね。
 
松原:  そうですね。「色は空に異ならず、空は色に異ならず」、それを同じことをもう一回繰り返して、「色は即ち是空、空は即ち是色」、その後色だけを空になるんじゃなくて、受というもの、想というもの、行というもの、識というものも、またまた是の如く空としなさい、というふうに、文章では読めると思うんです。何で同じことを二つ言ったかというと、「色不異空」と言ったけども、ほんとにわかっているのかな。じゃ、「色即是空」ってどうするの、って、確認しているわけですね。例えば馬祖道一禅師がよく最初の頃は「即心即仏」心がそのまま仏なんだ。そう言っておきながら、ほんとにそれがわかるということで、ガラッと突然途中で変えて、「非心非仏」心に非ざれば仏に非らず、というんですね。「即心即仏」と一緒なんですけれども、ちょっと字を変えると、うわぁっと引っかかっちゃう。引っかからないよね、というふうなところが、同じことを繰り返しているんでしょう、と思うんです。それで「色即是空」空は無常と取っても面白いと思うんです。昔歌った「開いた開いた」というわらべ歌がありますね。
 
     開いた 開いた 
     何の花が開いた
     蓮華の花が開いた
     開いたと思ったら
     いつの間にか莟(つぼ)んだ
 
という。色が空になっちゃう、という、そういう雰囲気を歌っている童謡だ、と言ってもいいんじゃないかな、と思うんですね。
 
草柳:  これも無心に通ずる、ということなんですか。
 
松原:  そうですね。無心に通ずる。ですから、雨の日の坐禅というのは凄くいいですね。雨の音が庵の屋根にポツンポツンと、葉っぱから雫のような雨音が聞こえます。そうすると、誤解かなと思うんだけれども、一瞬、「あ、雨粒になっちゃったよ」というような気分になることがあるんですね。私が雨粒という無心のものになっちゃった。色が即無心である雨粒と一つになっちゃった。逆にいくと、無心である雨粒がそのまま私の耳にすっと入ってきた。色になっちゃった。そういう世界―これは難しいです。
 
草柳:  松原さんが、例えば坐禅をしている時に、雨の音が聞こえる。雨だれの音が聞こえる。そうすると、いつの間にか雨だれしかなくなってしまうわけですか。
 
松原:  そうですね。ただ雨だれだけになっちゃう。ですからさっきの歌でいうと、「何の花が開いた 蓮華の花が開いた」自分が蓮華の花になっちゃう、というんですね。そういうような雰囲気を、私というほんとに形のある私が、形のない雨粒になっちゃった、というところを歌った歌だと思うんですがね。それで前回、「般若波羅蜜多時」と言いましたけれども、つまりハッと気が付いた時に、それは今と同じように、言葉にもならない。だから悟りというのは、「目覚める」「気が付く」「新しい自己の中の発見」とか、いろんな言い方があると思うんですよ。それでその目覚めたところは清浄そのものであって、色がそのまま清浄なものである空になる。塵一つ汚れていない、そういう気分になる、と。それを「色即是空」というんですけど、それはまた説明し難いですね。で、雨だれの音がポツンポツンって、その目覚めたところが清浄であって、塵一つもないという世界を臨済禅師のお師匠さんであります黄檗(おおばく)禅師が書かれた『伝心法要(でんしんほうよう)』というのがあるんです。
 
草柳:  そこを読んでみます。
 
本仏の上には実に一物なく、虚通(こつう)寂情(じゃくじょう)、明妙(みょうみょう)安楽なるのみ。
深く自から悟入せば、直下(じきげ)便ち是(ぜ)、円満具足して、更に欠くる所なし。
縦使(たと)い三祇(さんぎ)精進修行して、諸の地位を歴(ふ)とも、一念証する時に及んでは、
(た)だ元来自から仏にして、向上(そのうえ)に更に一物をも添得(てんとく)せざることを証するのみ。
(『伝心法要』)
 
これはどういうことを言っているんでしょうか。
 
松原:  「本仏」仏というものは、一般的にいうと仏ということになりますけれども、釈尊の心には、「実に一物なく」塵一つもない。「虚通(こつう)寂情(じゃくじょう)」通り抜け自由自在、融通無碍、「寂情(じゃくじょう)」これは馬祖道一禅師の『頓悟要門』に、空寂にして物静かで、という世界ですね。「明妙(みょうみょう)」というのはこんな素晴らしい安楽自由自在、解脱の世界があるんだ。解脱の心をお前さん持っているんだよ、と。ですから坐禅して深く自分から実に一物もない仏心仏性に沁み渡っていけば、芭蕉の「閑かさや岩にしみいる蝉の声」みたいな感じですね。そうやって沁み渡っていけば、「直下(じきげ)便ち是」噸に悟る。それでいいんですよ。「円満具足して」心は円相と言いますから、そういうまるまるとした「荷葉(かよう)団団(だんだん)として鏡より円(まどか)に」というような心も本来持っているんだと。「更に欠くる所もない。「縦使(たと)い三祇(さんぎ)精進修行して」数えきれないほど長い時間をかけて修行して、「諸の地位を歴(ふ)とも」ある地位、菩薩とかいろんな地位を得たとしても、でもそれよりも、「一念証する時に及んでは」噸にハッと理解すれば、本来自性清浄心というのを見つけて、「祇(た)だ元来自から仏にして」清浄ですから、「向上(そのうえ)に更に一物をも」その上に一物の塵をも、「添得(てんとく)せざることを証するのみ」おくことがない。それを証する、と。それを黄檗希運禅師が『伝心法要』という著書の中に書かれているわけですね。
 
草柳:  この中で特に大事な言葉というのはどの辺ですか。
 
松原:  「実に一物なく」これが、いわゆる空ですね。塵一つもなくなる、空。雨だれのポツンポツンという世界と自分が一つになる。文字上はそうなるけども、これも本来はお師匠さんの前にいって、「ほんとになったのか」って試されないといけないんですよね。
 
草柳:  それが空ということなんですか。
 
松原:  清水かつら(1898-1951年)という方の大正八年の作品に、「靴がなる」という、小さい頃歌った歌がありますね。ポツンポツンと雨だれが一つになるように、靴の音と自分が一つになる。
 
     お手(てて)つないで 野道を行けば
     みんな可愛い 小鳥になって
     歌をうたえば 靴が鳴る
     晴れたみ空に 靴が鳴る
 
さっき雨の日にポツンポツンとですが、こっちは晴れた日に靴がコツンコツンと鳴る。
 
     花をつんでは お頭(つむ)にさせば
     みんな可愛い うさぎになって
     はねて踊れば 靴が鳴る
     晴れたみ空に 靴が鳴る
 
「犬になりなさい」と言ったら「ワンワン」。「兎さんになりなさい」と言ったら、もうここでみんな可愛い兎になって。前はこういうちょっと禅の心が入った歌が歌われていたと思うんですがね。最近こういう歌は全然歌わないでしょう。中国へ行って、バスの中で、「日本の歌を紹介してください」と言われて、我々はこういう歌しか知りませんから、これを歌うと、中国の人が、「日本にもそんないい歌がたくさんあるのに、何でもっと歌わないんですか」って、逆に聞かれるくらいですよ。
 
草柳:  何故歌わなくなったんですかね。
 
松原:  何でなんですかね。ですから、こういうふうにやっていると、「一物も添得せざることを証するなり」。本仏というのはお釈迦様のように仏心仏性を持っていらっしゃる。それになるには、空にならなければいけない、というから、「空を理論で考えるよりも、空ッと、空という字が身体に沁み渡って、自分の身体全体が空になるまで修行せよ」というふうに、指導されるんですけども。
 
草柳:  やはり修行しないとダメということですか。
 
松原:  ダメです。理屈でわかったつもりでいる。頭でわかっている。体験としてはわかっていないですね。だけど私は、素直でない疑念の多い男で、中川宗淵老師という私の師匠に、「さあ、哲明さん、空になりなさい」と言われた。それが頭で空にならなければいけないとわかっているんだけども、実際に坐禅して、「空ッ」とか「無ッ」とやっても詰まらないでしょう。そっちの方が先にたっちゃって、全然ダメだったですね。もっとそれを素直に理解して実践することですね。
 
草柳:  だって「素直になれ」と言われても、素直になれない障害物が周りにはいっぱいあるわけでしょう。ありすぎるわけですから。
 
松原:  特に私なんかもサラリーマンやっていましたし、まともに家へ帰らないわけですから、普通の人間が山の中に入って、「綺麗になれ」たって、最初からダメだと思っていますから。
 
草柳:  どうすればいいんですか。
 
松原:  師匠のいう通りしなければいけないんです。師匠のいう通りにすれば解決して貰えるのに信じないんですね。
 
草柳:  でも言う通りしようと思ったって、ほんとに「そうなの、そうなの」という疑いというのはいくらでも次から次へと普通出てきませんか。
 
松原:  草柳さんもきっと出家したってダメだと思いますね、私と一緒で。それで、「色即是空、不異色」身体は空に異ならざると。身体はご覧のように形がある。それを物であると錯覚しているけれども、ほんとは雨だれのようにポツンポツンというように、ほんとにならないものが本来の私なんだと。ちょっと説明すると難しいと思うんだけど、「お前は何だ」と言ったら、「松原です」というと、「親からもらった名字じゃないか。その松原をはずしてみたらどうなるか」と言ったら、答えようがないですよね。雨だれがポツンポツン、これは「鏡清(きょうせい)雨滴声」という公案にあるんですけれども、和尚さんが「おい、外で音がしている。あれは何だ」と言ったら、弟子が「雨だれの音です」「じゃ、その雨だれという仮の名前をはずしちゃったら、あの雨は何なんだ」と言ったら、答えられないですね。だから雨にはもともと本来名というものはないんだというのを、同じく黄檗希運禅師が書かれた『伝心法要』にあるんですよ。
 
草柳:  じゃ、その部分を読んでみます。
 
     学道の人疑うこと莫れ。四大(しだい)を身と為す、
     四大には我(が)無く、亦た主無し。故に知る。
     此の身我(が)無く、亦た主無きことを。
     五蘊を心と為す。五蘊には我無く、亦た主無し。
     故に知る。此の心我無く、亦た主も無きことを。
        (『伝心法要』)                
 
もう無い無いづくしですね。
 
松原:  無い無いづくしですね。これをちょっと説明させて頂きますと、
「学道の人」というのは、修行者よ、という呼びかけですね。さっき私は疑ってばかりいたけれども、黄檗希運禅師は修行者に向かって、「疑ってはいかんぞ」と。「四大」というのは「地・水・火・風」ですが、身体はすべて「地・水・火・風」でできている。この文章でいうと、「四大」地―骨も、水分も、太陽も、呼吸も、我なんかないですよと。それが集まって身体ができるわけですから、四つの要素に我がないのに、それが組立った人間に何で我があるんだと。我執がないはずじゃないかと。その辺りを説明しているんですね。「五蘊」というのは仏教学でいうと、五つの集まりというんですけれども、これは五つが集まって身体になっている、というふうに解釈した方がいいかも知れませんね。五つというのは、般若心経にさっき出てきた、「色受想行識」。色は存在、受―耳で受ける。目で見る―感覚。思う―哲学でいうと、ある対象を意味する直感的な心の働きである。概念とか、表象とかですね。行は行動。識―認識です。そういったものも本来構成要素には我執がないんだから、我執でできるはずじゃないか、と言っているんです。学問的な、理屈的にですね。ですから五蘊や身体には我執がほんとはないんだと。また主も無我だと。「故に知る」心には我執もなければ、またこの心にも我というものがないんだと。そういうふうに黄檗禅師は説明されていると、私は思うんですよ。
 
草柳:  でも手の動きや足の動きや、それから思いというのは、自分がコントロールしているんじゃないですか。
 
松原:  例えば歩く時に、右が上がりましたよ、今度は左だよってロボットじゃありませんからね。そうじゃなくてそんなこと気にしないで、日常生活そうやっているでしょう。ですからほんとに自由自在で、傅大士の『心王銘』に「空手にして鋤頭を把る―鍬を手にして畑を耕している時に、鍬を持っているということも忘れている。一回目の話にありましたが、それと同じことをここで繰り返しているんですね。例えば草刈る人は野の果てを見ない。一生懸命草を刈る時に三昧になっている。例えばこういう放送している時に、草柳さんと僕は三昧に入っているわけですよ。その時に余所のことを絶対に考えない。そうしないと三昧に入れない。般若心経で難しいこと言っているけど、そういうことを我々日常やっているんじゃないか、と思うんです。西條八十(さいじょうやそ)先生の「肩たたき」という歌をご紹介したいと思います。
 
     母さん お肩をたたきましょう
     タントン タントン タントントン
 
     母さん 白髪がありますね
     タントン タントン タントントン
 
     お縁側には日がいっぱい
     タントン タントン タントントン
 
     真赤(まっか)な罌粟(けし)が笑ってる
     タントン タントン タントントン
 
     母さん そんなにいい気もち
     タントン タントン タントントン
 
こういうことを毎日やっているじゃないかって、そういうことを言っているんじゃないかと思いますけどね。外に向かって心を求めるんじゃなくって、自分の中の心というものを無心にするのが「色即是空」なんだよ、という。やはり同じように臨済禅師が『臨済録』の中に言っている言葉がございます。
 
草柳:  ではお読み致します。
 
師、衆(しゅう)に示して云く、道流(どうる)、仏法は用功(ゆうこう)の処無し。祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)
痾屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来たれば即ち臥(が)す。
愚人は我れを笑う、智は乃(すなわ)ち焉(こ)れを知る。
古人曰く、「外に向かって工夫を作(な)す、総(そう)に是れ痴頑(ちがん)の漢」と。
?(なんじ)、且(しば)らく随処に主と作れば、立処(りっしょ)に真なり。
(『臨済録』)
 
松原:  「師、衆(しゅう)に示して云く」臨済禅師が大衆に示して言った。「道流(どうる)」呼びかけですね。「仏法は用功(ゆうこう)の処無し」仏法というものは働きかけとか工夫なんかする必要はないんだ。「祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)」ありのままでいいんだ。ただここ平常無事。ありのままでいいんだ。「痾屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、困じ来たれば即ち臥(が)す」おしっこがしたければ、大便がしたければすればいいんだ。朝起きたら着物を着て、ご飯を頂いて、働いて疲れて、夜になれば横になったらいいんですよ。「愚人は我れを笑う、智は乃(すなわ)ち焉(こ)れを知る」愚か者は、修行してその程度のものか、と言って、ただ笑うけれども、道理に通ずる人はこれは正しいと思っていると。「古人曰く」古人というのは、懶?(らいさん)という人らしいですね。禅のお坊さんで六祖慧能禅師がいましたね。その慧能禅師の同じ頃、五祖弘忍の門下に入ってその筆頭弟子となった神秀(じんしゅう)という弟子がいた。その人の弟子に普寂(ふじゃく)という人がいて、その人の弟子が懶?(らいさん)。南嶽(なんがく)という寺の中で修行していた。そして皇帝が何度かお迎えに来たけれども、出たくないと。それで使いの者が来て、来てみたらこの懶?(らいさん)和尚というのが、牛の糞を炊いて、芋を焼いて食べた。洟(はな)を垂らしている。「洟ぐらい拭いたらどうですか」と役人が言ったら、「お前のために洟を拭く閑はないわい」と言ったぐらい、怠け者だと。
 
草柳:  しかし、高い境涯人ですね。
 
松原:  それでその最後の方の、「総(そう)に是れ痴頑(ちがん)の漢」というのは、外に求めるのは愚か鈍いものだ。前に馬祖のところへ大珠慧懐が行って、修行したら教えて貰えるかのかと思って、馬祖のところへ行って求めようとしたら、馬祖禅師が「お前さんの心は俺のところにはないぞ。お前が持っているのに、お前の心はお前のところにあるのに、何でそれを求めないのか。外に求めるのはダメだよ。内側に求めなければダメだよ」そういう意味だと思うんです。「?(なんじ)、且(しば)らく」その次の「随処に主と作れば、立処(りっしょ)に真なり」というのは、よく一般的になっていますね。どこにいてもありのままでおれば、どこにいてもそれが真実なんだと。ご飯を食べる時にもありのまま、寝る時にもありのまま、ぐっすり寝ればいいんだと。なかなかそれができないから理解しにくくなるのかも知れませんけれども。
 
草柳:  「色即是空」ということをいろいろお話をしてきて頂いたわけですけれども、「空」というのは、つまり勿論空っぽの空ではなくて、空そのものが色なんだ。色が空、空が色だといいうことで。今までのところのお話をちょっと纏めて頂くと、どういうことになりますか。
 
松原:  色がそのまま色になっちゃうというのは、それは自我のまま、我執のまま生きているのは、色が消えないわけですね。自我というものが消えない。だから、「松原、お前、自我を無くせよ」と。それを仏教的な言葉でいうと、「色即是空だぞ」。だからそれを今度倒置法にして、「執着を無くして無心でいるのが松原だぞ」というのが「空即是松原色」そうやって日常生活を生きていきなさい。そう般若心経はここで説いているわけですね。しかしその空がわからないから苦労しちゃうわけですね。わからなければもう自分で求めるしかないですね。外にお求めないで、自分の中を探せ、というんですから、自分の中を「空ッ」とか、「無ッ」とするしかない。
 
草柳:  しかもそれはハッと気付くものだ、という。
 
松原:  その空となった時に、ポツンポツン、雨だれの音に、あ、雨だれに私がしみ入るポツリかな、みたいな、そういうふうになればいいんでしょうね。
 
草柳:  よく「空を行ずる」と言葉があるでしょう。「空を行ずる」というのはどういうふうに、
 
松原:  「空を行ずる」というのは無心であれ、
 
草柳:  一生懸命無心でありたい。それを念ずることですか。
 
松原:  「蝶々蝶々菜の葉に止まれ」みたいな、蝶々になったら蝶々のようにふわふわ飛んでいけばいいじゃないって。大慧宗旱禅師の言葉に、「荷葉(かよう)団団(だんだん)として鏡より円(まどか)に」というのが前にありましたね。「雨梨花を打てば」梨の花を打てば、梨の花というのは真っ白でしょう。だから梨の花に雨が打つと梨の花が散る。それが蝶々のように、「雨梨花(りか)を打てば?蝶(きょうちょう)飛ぶ」というのがあったと思うんですけど、そういうふうに無心に、蝶を見たら蝶になれって、花を見たら花になれって、その辺までどんどん実践として思量が進んでいくんです。これまた実際にやらないといけないんですけどね。
 
草柳:  その空を知る手掛かりとして、文人墨客たちが、どういうふうな作品を書いていて、その書かれた作品を見ながら、あ、そうか。こういう世界なのかな、ということを気付く手掛かりみたいなものを、少し作品を見ながらみていきたいと思うんです。二宮尊徳に、例えばこういう短歌があるんです。
 
     音もなく香もなく常に天地(あめつち)
       書かざる経を繰り返しつつ
 
これなんか二宮尊徳という人が、ここで言いたかったことというのは、つまり自然がいろんなことを教えてくれているじゃないか、というふうなことなんでしょうか。
 
松原:  そういうことだと思いますね。まったくその通りだと思います。私が、反歌をすれば、甲斐(かい)わり子さんという歌人がいらっしゃいまして、その方が、
 
     岩もあり木の根もあれどさらさらと
       たださらさらと水の流るる
 
自然な川が、川の水のようにさらさら、岩もあっても木の根もあっても、そういう苦しみがあってもさらさらさらと流れるように私は生きていきたい、という、そうやって別伝しているわけですね。二宮尊徳さんが、「書かざる経を繰り返しつつ」同じように川の流れはさらさらと繰り返していく。そういうふうに別伝しないと空の世界は説明できない。
 
草柳:  別伝というのはいろんなもの―詩とか歌ですね―を借りて、こういうものなんじゃないのか、というふうなこと。つまり直裁的な言葉では説明しきれる世界では当然ないわけですからね。松原さんのご推薦なんですが、北原白秋の歌をまたお読み致しましょう。
 
松原:  北原白秋が「こさめひたき」という般若心経にピッタリな歌を作られていますね。
 
草柳:  それを読んでみましょう。
 
     色はあり、声にのみ、
     こさめひたき、
     雫(しずく)のみこまかなる
     この朝あけ。
 
     花はあり、影にのみ、
     ひとりしづか、
     香のみ寂(さ)びたもつ
     杉よ檜(ひのき)
 
     巣は懸(かか)る、高くのみ、
     ウメノキゴケ、
     気色(けしき)のみ、母鳥(おやどり)
     姿、羽(は)ぶり。
 
     現(うつつ)あり、しろくのみ
     濡るる光、
     卵のみ、おそらくは
     四つか五つ。
 
     色はあり、声にのみ、
     こさめひたき、
     雫よ雫よと、
     ただ幽(かす)かに。
 
「ひたき」という小鳥がいるんだそうですね。つぐみの種類とどっか書いてありましたですね。
 
松原:  私の調べたところではメジロよりも小さくて、お腹が白く灰褐色だと。巣は高いところにかけるんだそうですね。「色はあり、声のみ」般若心経の「色即是空」の「空色」と「色声香味触法」の「声」と、そんなことが頭に残っちゃうんですけど。色、こさめひたきの存在はあるんですけれども、目に見えない、声だけしか聞こえてきません。この雫だけこまかなる、朝あけに。一人しずかな、花があるんでしょうけれども、ただ影さえ見えません。そして目に見えない香りだけがしずかに流れています。杉、檜も。巣は高いところにかかっていますからよく見えません。だけど木についているウメノキゴケだけは目に見えます。こさめひたきのお母さん鳥がいるらしいんですけれども、姿は見えません。色即是空ですね。存在は空ですよ。そして姿、羽振りも見えません。現実にはうつつなり、現実は白く濡れて光っているものがあります。でもそれが何であるかはよくわかりません。存在はわかりませんが、おそらくはこさめひたきの白い卵でしょうか。数は四つか五つでしょうね。最後に色はあり、存在はあるんでしょうけども、目に見えない、声だけしか聞こえてきません。そのこさめひたきの鳴き声だけしか聞こえてこなんんだけど、その声をよく聞いていると、雫よ雫よと、ただかすかに鳴いているようです。「色即是空」そのまんまね。私の師匠の中川宗淵老師は、死海(The Dead Sea:アラビア半島北西部に位置する塩湖。西側にイスラエル、東側をヨルダンに接する。湖面の海抜はマイナス418メートルと、地表で最も低い場所にあたる)へ行かれて、死海の塩で作った羊羹を、「お茶をいっぱい飲みましょう」と言われるとても普通の方でした。その方にちょっとしたエッセイがあるんです。死海というのは世界で一番低いところにあるんだそうで、ヨルダン川というのが流れ込むんだけども、そこから一つも流れ出ないもんだから、幾千年幾億年という間に濃度が高まって、水泳すると浮いちゃうんだそうですね。その死海にお盆を浮かべて本を読んだり、あの上でお茶を点てたことがある、というからまた乙な人ですね。
 
死海よりはい出て春の海の雫
 
という句を詠っていらっしゃる。死海からごそごそはい出て体全体に雫がきらきらひかり輝いている、というエッセイがあるんですよ。このこさめひたきの雫とよく似ていますよね。空寂の世界ですね。しかも禅と関係があると、先ほど草柳さんが北原白秋のことを言われましたけれども、宗淵老師の『詩談』という詩文集に北原白秋先生の抜文の言葉が書いてあるんですよ。ですからやはり相当繋がっているでしょうね。
 
草柳:  実は私も一つ紹介させて頂きたい句はあるんですが、蕪村の句に、
 
     蕭条(しょうじょう)として石に日の入(いる)枯野かな
 
有名な句がありますね。
 
松原:  そのものズバリですよね。蕭条として、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」。こっちは「石に日の入る」、岩と石、蝉の声と日、これがすっと一つになっちゃう。色即是空というところですね。 これをまた変化させて頂きますと、宗淵老師の句に、
 
     (きび)の葉に黍の風だけかようらし
 
というのがあるんですよ。黍の葉には黍の風だけがすーと吹き抜けていくという。「岩にしみ入る」と同じように、「黍にしみ入る」という「色即是空」というんですかね。風から見れば「空即是色」かも知れない。すっと流れていくと黍があって、そこへしみ込んでいる。
 
草柳:  何か北原白秋にしても、今の歌にしても、聞いているとほんとに何の虚飾もない。飾り立てのない、もうほんと自然そのものを詠っているという感じが致しますね。
 
松原:  そうですね。言葉を飾っちゃいけないよ。誇張を加えちゃいけないよ。そう言われたのが正岡子規ですね。子規に「叙事文」という文章があるんです。
 
草柳:  それを読みます。
 
言葉を飾るべからず。誇張を加ふべからず。只ありのままに其事物を模写するを可とす。実際の有のままを写すを仮に写実といふ、又写生といふ。写生は画家の語を借りたるなり。虚叙(抽象的)は人の理性に訴ふる事多く、実叙(具象的)は殆ど全く人の感情に訴ふる者なり。
(『叙事文』子規)
 
松原:  これは禅というよりも、「飾っちゃいけないんだ。ありのままでいいんだよ」というところを引用するためにちょっとご紹介させて頂こうと思ったんです。これは俳句の場合、言葉というものは飾っちゃいけないんだと。誇張を加えちゃいけないからありのままに詠っていけばいいんだ。ただありのままに事物を模写すればいいんだ、と。宗淵老師と私との連句の中に、前に私の下手な句、「ぬぐる手のひびのあかさについみとれ」というのを、紹介しましたが、ああいうのと一緒でただありのままに詠えばいいんですね。「ぬぐる手のひびのあかさについみとれ」みたいなのは、ずーと序の口だと思うんです。実際の有のままを、ありのままを写すのを仮に絵の社会でいうと写実というと。写生とは画家の言葉を借りたんだと。虚叙というのは―作り事ですね―人の理性に訴えることは多いんだけども、実叙―具体的に、ありのままにやるということは、まったく感情、心に訴えるものなり。心に訴えるものなんだよ、と。だから琴線に触れるものができてくるんでしょうね。
 
草柳:  勿論理性に訴える抽象的な言葉を当然否定しているわけではありませんでしょうけれども、ここではとにかく「写生ということが大事なんだ。できるだけ具体的にそのものを写し取るということが大事なんだ」というふうに、子規は言っているわけでしょうね。
 
松原:  そういう流れ、思想を持った方ですから。でも、もっと誇張を加えたり言葉を飾ったりする『古今集』がいいとか、『新古今集』がいいと、そういう方もいらっしゃるわけですからね。この場合は、子規は認めていないということですね。だからいけないというんじゃなくて、禅の流れの中で、これをちょっと取り上げてみたということですね。
 
草柳:  芭蕉の文章もご紹介したいと思いますね。「笈(おい)の小文」という中に、芭蕉はこんなふうに言っています。
 
西行(さいぎょう)の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟(せっしゅう)の絵における、利休が茶における、其(その)貫道(かんどう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうか)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄(いてき)を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
 
松原:  これは風流の世界というものは禅に通じているんだ、ということを、人において詠まれたんだと思います。西行の和歌における、それから宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休のお茶における、そして芭蕉の俳句における、そこに連なっているものはたった一つなんだと。しかも風雅におけるもの、風流の世界におけるものは、造化―これは自然ですね―従いて四時を友とする。春夏秋冬ですね。それから見るところ花にあらずという事なし。これ禅的にいいますと、すべて無だとか、すべて花だとか、そういうふうにやるんですけども、ここはもっと平らかにして、見るところが花―美しいものであると見ないと、それから思うところは月―清らかなものだと見ないと、そういうものは、そうでない時は夷狄(いてき)、獣に等しいんだと。心が雪月花といったものに離れてしまったならば、鳥獣に類するんだと。ですから野獣を出て鳥獣を離れて、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」自然に従って自然に帰れとなりと、こういうんですね。この辺りこの感動するものは一つなり、一つであるよ。その辺りを道元禅師が言われたのは、
 
     春は花夏ほととぎす秋は月
       冬雪さえて涼しかりけり
 
と。涼しいというところは、雪も涼しいというところはまた禅者らしいですけれども、その涼しい、こっちは花、月ときたけれども、道元は涼しいということで言ったわけですね。塵一点もないというところを言ったんでしょう。その一つであるということを、今日は歌ばっかりですけれども、大正十二年に中村雨紅(なかむらうこう)さんが「夕焼け小焼け」という歌を作られているんです。
 
     夕焼け小焼けで 日が暮れて
     山のお寺の 鐘が鳴る
     お手々つないで みな帰ろう
     からすといっしょに かえりましょ
 
からすと自分とが感動するのが一つなりと。一緒になって帰りましょ、という、こう禅的な歌です。こういうのは都会から消えちゃった。
 
     子供が帰った 後からは
     まるい大きな お月さま
     小鳥が夢を 見るころは
     空にはきらきら 金の星
 
凄く心が空な、無心な歌ですね。「小鳥が夢を見る頃は」なんて、今では想像できないですね。
 
草柳:  今日は随分たくさんの童歌(わらべうた)や童謡が出てまいりましたけれども、ここずーっと通して聞いていますと、自然とこちら側―自分との境目があんまりない。なんか一緒になっているというふうな、そんな感じがけっこうありますね。
 
松原:  そのあたり禅というものが、自分と向こうとが、自然とが一つになる。自然は清浄ですよね。自然でしょう。だから自我、我のある連中が自然を歌うことによって自然になるというわけです。それが色、自分が即空になりなさいよ。空からみると、人間は我執があるね。空即是色というふうにみる、というふうに理解してもいいと思うんですけども、まだそれはちょっと浅いと思うんですけどね、もっと深いところから。
 
草柳:  今日前半の方では『伝心法要』や『臨済録』の中で、「空というものをどういうふうにみているのか」というふうな話を伺ってきて、後半は文学作品の中からいろいろお話を伺ってきたんですが、結論は結局何になりますか。
 
松原:  今日のお話の結論ですか、結局「空というのはありのまま、そのままでいいんだ」ということだと思うんですよ。それから清浄心、清浄心でいけば、そのまんま、白隠さんが言っているんですけども、「衆生本来仏なり」という、そういう世界に達するんだよ、と。
 
草柳:  清浄心というのは本来具わっているものなんですか。
 
松原:  そうなんですね。本来具わっているんだけども、どうしてそれを外に求めるんだと。また馬祖道一禅師が、「お前さんのポケットの中にあるのに、何故儂のところへ来るんだと。儂のところにはお前の清浄心はないぞ。自分の蔵を投げ出して、散走して、どうして儂のところへ来るんだ」と、前にありましたけども。
 
草柳:  そうですね。「ありのまま」が、それが結論だと、今日のお話ということなんですけど、ありのままの中には悪い心がだってありやしませんか。
 
松原:  清浄心を持っているんだけども、どうして清浄心を持っている人が悪いことするんだと。それは結局ほんとに清浄心があるんだというのは、濾過しないで、そのまま通過しちゃって、通過する網がちょっと粗かったかったんですかね。でも、それも一緒に通過してしまっちゃったんです。ですからよく飛行機に乗る時、レントゲン検査みたいなものを撮りますよね。あれみたいなのがあって、そこに清浄心が足りなかったらビッと鳴るというのがあると面白いと思うんだけど、だから悪いことしても、人を殺めたり盗んだり、それから大嘘をついたり、という大罪は、それは絶対ダメだけど、他のちょっと勉強中に居眠りをするとかね、それも日常生活の一つだからありのままがいいと。
 
草柳:  我々の生き方として、どういうふうに濾過していけばいいのか。どうすれば濾過することができるのか、というのは、これはどうなんでしょうか。
 
松原:  それこそ坐禅しなければいけない、って。ですから濾過するためには、何にもないということを自分に言い聞かせなければいけないから、坐禅している時に、「無っ」と「何にもないで濾過していくぞ」と。濾過器はお師家さんですよね。「まだ濾過しきれない」と言われて「無っ」と。「まだ濾過しきれていない」と。そこでほんとに濾過しきれているのか、しきれていないのかを、またいろんな問題を当てていくんです。「無相の相を相として」と、白隠禅師は言っているんですけども、無相というのは空、姿がないでしょう。相がない。「無相の相を相として」というから、空を、それが人間の相なんだと。自分でそうやって思量をおくっていけと。それが無相の相を相としてとか、ほんとに濾過しきったか。無相の相というのはわかるかとこう質問される。と、わからないと、まだ濾過しきれていない。修行しかないんですよ。
 
草柳:  そうですか。しかもそれは「外に求めるな」と言っていますね。自分の中に求めろ、と。その消息を白隠禅師が語っているところを最後に読みましょう。
 
     衆生本来仏なり
     水と氷のごとくにて
     水を離れて氷なく
     衆生の外に仏なし
     衆生近きを知らずして
     遠く求むるはかなさよ
     譬へば水の中に居て 
     渇を叫ぶがごときなり
      (白隠禅師『坐禅和讃』)
 
松原:  白隠禅師の書かれた「坐禅和讃」でして、臨済宗では非常にポピュラーな教典になっているんです。
 
草柳:  分かり易い言葉の並びですね。
 
松原:  分かり易いですね。
「衆生」というのは我々のことですね。「本来仏なり」同じ仏心仏性を持っているんだよと。それは水と氷のような関係で、衆生を仏とすれば、衆生と仏はもとは同じだ。水と氷の関係のようなもので、衆生を離れて仏なし。水は仏はないんだと。それで我々のほかに仏になるものはないんだよと。お前さんはそういう種を持っているんだ。だけど何度も言ったように、我々は自分のポケットの中に、本来仏心仏性を持っているんだけども、それを知らなくて、遠くへ行って、「私の純粋な心を教えてください」と言っているようなものだと。それはまるで水の中にいて、「喉が渇いた」と言っているのと同じじゃないか、という。分かり易いけども、実際体験すると難しい。難しい、それが修行なんですね、きっと。
 
草柳:  氷というのはやがて解ければ水になると。
 
松原:  そうですね。私も氷なんだけれども、そういう固いものが解けていくと、もっと自由自在な、融通無碍の水になることができるんだよと。それをここでは仏と言っているのかも知れませんね。
 
草柳:  今日は一番さわりのところといいましょうか、多分これはまた次もその次も当然触れて頂く部分だと思いますので、今日はこのくらいに致しまして、また次回に、有り難うございました。
 
松原:  有り難うございました。
 
     これは、平成十七年八月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである