人が大地に生きる時

 

                          滋賀県立大学教授 小 貫(おぬき)  雅 男(まさお)

一九三五年中国東北(旧満州)に生まれ、大阪外国語大学モンゴル語学科を卒業。遊牧地域論・モンゴル近現代史を専攻。大阪外国語大学教授を経て、現在、滋賀県立大学教授。著書に「遊牧社会の現代」「菜園家族レボリューション」など。

                          き き て    峯 尾  武 男

 

峯尾: モンゴルの遊牧民の生活を、一九九二年の秋から一年間に亘って撮影したドキュ メンタリーが作られました。七時間四十分にも及ぶこのドキュメンタリー。各地 で上映会が開かれて、一般にも公開されています。ではそのドキュメンタリーの 最後の部分、五分間ほどを先ずご覧下さい。

 









 

日本・モンゴル共同のゴビ・プロジェクト(ゴビ遊牧地域の研究調査)調査隊は一九九二年、五人の日本越冬チームを結成した。チームは、モンゴル・ゴビ・アルタイ山中のツェルゲル村に滞在し、調査の総仕上げを行った。
一年間の調査の映像記録は一二○時間の膨大なものとなった。
映像記録から七時間四○分の作品が構成された。
 

         タイトル「四季・遊牧」

         ─ツェルゲルの人々─

            監督・撮影・ナレーション 小貫 雅男

            編集           伊藤 恵子(滋賀県立大学非常勤講師)






















ナレーター:
九月五日、 長いようで 短い一年で した。我々 越冬チーム も長い間お 世話になっ たツェンゲルさんの家族を 初め、ツェルゲルの人々と も今日で終わりです。一年 間を振り返ってみると、さ まざまなことが脳裏に浮か んできます。まさに寝食を 共にした仲間たち。海を隔 てた余所者(よそもの)という感覚など、 お互いの中からはいつの間 にか消えていました。人間 の弱さに自らむち打っての 厳しい交流であったとも云 えます。それは底辺に生き る者たち同士が、自己の孤 独で卑小な内面をトコトン 見据え続けるという、とて も暗い、しかし妥協のない純粋なものでした。時には楽しげに、時には喜劇的に、 時には地獄絵のように一年は過ぎていきました。

 

ソ連、東欧の社会主義体制の崩壊によって、人類は壮大な理想への実験に挫折し ました。いま世界の人々は、 失望のうちに自己を見失い、 海図なき時代に生きていま す。私たちが今見てきた





















こ のツェルゲルの人々の生き る姿は、この地球の果ての 砂漠の中の小さな小さな出 来事なのかも知れません。 しかしそれは 失望と混迷の 中から、それ でも立ち上が って、人々が 支え合って共 に生きる新た な社会の枠組 みを求めて、その構築の手掛かりを見出そうとする人間の飽くなき試みの一つな のです。

 


 

峯尾: 今ご覧頂いたドキュメンタリーの最後の部分に、詩が出てまいりました。これは このドキュメンタリーの監督であり、撮影者でもある滋賀県立大学教授 小貫雅男 さんの作です。もう一度読んで見ましょう。

それがどんな「国家」であろうとも
この「地域」の願いを
圧(お)し潰(つぶ)すことはできない。
歴史がどんなに人間の思考を
顛倒(てんとう)させようとも
人々の思いを
圧し潰すことはできない。
人が大地に生きる限り。

春の日差しが
人々の思いが
やがて根雪を溶かし
「地域」の一つ一つが花開き、
この地球を覆い尽くすとき
世界はかわる。
人が大地に生きる限り。

ドキュメンタリーの撮影が行われてからほぼ 十年が経ちました。作品の監督を務めた小貫 雅男さんは、大学で学生たちの指導を続ける 傍ら、三重県との県境に近い滋賀県の山間(やまあい)の 土地に、「里山研究庵Nomad(ノマド)」─研究の庵を作 りました。この研究庵では、ドキュメンタリ ーにも登場し、ドキュメンタリーの編集を担 当した伊藤恵子さんと一緒に共同研究が行わ れています。研究のテーマは一口でいうと、「日本人が再び大 地に生きるにはどうすればいいか」ということです。モンゴル の大平原から、日本の山間の土地へと、活動、研究、そして思 索の場を移された小貫さんにお話を伺います。

 


 

峯尾: 「庵(いおり)」という言葉が付いていますが、如何にも人が長年住ん できた家ですよね、此処はね。

小貫: そうですね。昔はよく炭焼 きをやっていて、そういう 方たちが住んでいる土地で すね。 

峯尾: まさに山間の生活を今して いらっしゃって、小貫さん の長年のテーマ、「モンゴル」。モンゴルとの関係ですけど、お生まれがそもそも 中国の内モンゴルのあの地域でございますか。

小貫: そうです。生まれたのは、ホルチンホショーという田舎なんですけどね。万里の 長城の南側は北京(ペキン)ですね。その万里の長城を対称軸にして、その北に承徳(しょうとく)という 田舎町があるんですね。そこの小学校に入学したんですよ。ですから、みなさん は時々テレビなんかであの万里の長城の辺りの山を見ると思うんです。日本みた いにこんな木がないんですね。 

峯尾: そうですね。 

小貫: 乾燥していてね。で、広漠とした山並みの中ね。ですから、小学校に入る前から ずーっと、小学校入ってからも山の中を駆け巡っていました。

峯尾: 勿論、戦後こちらへ戻っていらっしゃったわけですよね。 

小貫: ええ。そこで十歳までいました。 

峯尾: あ、そうですか。 

小貫: それで、終戦後一年ほど向こうにいましたので、十一歳になっ て、日本の親父の故郷は東京で、戦災に遭ってしまったので、 母方の田舎で北関東の阿武隈(あぶくま)山脈の─福島県から茨城県にかけ て阿武隈山脈が延びていますね。その裾野の辺りに常陸太田(ひたちおおた)と いう町があるんです。その在(ざい)の田園地帯に、家族─僕は兄弟七 人でしたけれども、父母、それからおばあさんがいましたので、 十人で引き揚げてきました。本当に当時は、我々の年代、みん な経験していますけれども、大変な時代で、栄養失調にみんな 罹りましてね。僕の次兄─二番目の兄ですけれども、栄養失調 で夜盲症に罹ったり、ついに肺結核やって、引き揚げて半年のうちに亡くなった し、親父も半年で亡くなりましたからね。だから半年のうちに二回葬式をあげま した。だけど、そういうと非常に悲惨なように見えるんですけど、けっこう転げ 込んだところが従兄弟の家で、かなり田畑があって、母親が朝から晩まで、その 畑を一生懸命やっていました。里芋が穫れるし、サツマイモ穫れるし、トマト、 ナス、春にはエンドウ豆とか、次々でてきますね。必死になって母親が畑で働い て、そして大家族を養ってくれたことを、ほんとに今から思うと凄いなあと思い ますね。僕なんかもやりましたけどね。働けば働くほどいろんな物が出てきます、 作物はね。それで暗いというよりも、なんか空を突き抜けるような明るさが一方 にあるんですよ。それを考えたらやっぱり大地に根差して生きているという、人 間の安心感がずーっとあるんだろうと思うんですね。僕は今でもそれは非常に大 事なものとして身に沁みていますね。 

峯尾: 大学は大阪外語のモンゴル科を専攻されて。 

小貫: はい。結局、どう云いますかね、生まれたところですので、鮭が生まれた場所に また遡上(そじょう)していくように、戻った感じで、モンゴルへ─結局やることになってし まいましたね。 

峯尾: この長尺のドキュメンタリーを作るきっかけというのは、そもそもどんなことだ ったんですか。 

小貫: 僕が最初にモンゴルに行ったのは一九七○年なんです。で、さっき云いましたよ うに、ずーっと田舎で、五十年代はずーっと育ちました。だけども、七十年の時 に初めてモンゴルに行って、それで、それ以後、もの凄くあの大地に打たれて、 そして毎回行くようになったんです。それで、僕の「遊牧地域論」というのは、 大体一年間一定の場所に居て、そして向こうの家族とともに生きていくという、 そういう方法なんです。大抵一年とか、二年位行くんです。そういうことを繰り 返しながら、結局三十年間位続けた形になっています。で、そうこうしているう ちに、結局、三十年間位フィールドをやりましたけれども、最終段階になって、 九十年になって、「ゴビ・プロジェクト」という調査を、三年間、山岳砂漠の村で やることになったんですよ。 

峯尾: ゴビ・プロジェクトですね。 

小貫: ゴビ・プロジェクトです。モンゴルから三十名、日本からも三十名の研究者が集 まって、全部で院生とか入れると、百人位の大部隊になりましたけども、そうい う組織をして、三年間続けてやりました。その時の最後の年に仕上げとして、一 年間その山岳砂漠の村に五人で入ったんですね。先程云われた伊藤さんも、その メンバーの一人なんですけれども。僕より年上の教授も中に入っていました。当 時、六十越えていましたけども。 

峯尾: ドキュメンタリーそのものは結果的に百二十時間を、それでも七時間四十分とい う凄いものに纏められたわけですけれども、最初からそういう意図があったんで すか。

小貫: とにかく、起こった家族の行動とか、それから四季の移り変わりですね。その中 で、「どんなふうに人間が暮らしていくか」ということで、これは、「リアルに撮 っていこう」ということが先ず第一にありましたね。それからもう一つは、僕は モンゴルへ行ったり来たりしましたね。ちょうど七十年ですから、日本はちょう ど五十五年から高度成長期に入ります。そして日本がガラッと変わるでしょう。 そしてさっき云った僕の田舎なんかもガラッと変わってしまったですね。そして、 都会へ全部日本人が大民族移動してしまった、と。そういう大きな変わった時期 です。その時に、結局、日本の方はどうだったかというと、家族とか、そういう のが非常に脆弱(ぜいじゃく)になって、どんどん大地から離れていきます、日本の暮らしとい うのがね。家族というのが不安定になってきて、しかも空洞化していくという現 象があって、いろいろな問題が起こってきましたね。それに対して、僕が入った 七十年のモンゴルというのは、家族とか、それから大地に生きている人間との関 係とか、そういうのがもの凄く新鮮というか、「ああ、やっぱりこれなんだなあ」 ということを感じましたね。だからますます一生懸命熱中していく、という。撮 影にも、そういうようになっていきました。 

峯尾: 「新鮮」とおっしゃいましたけど、それはかつて日本の家族が持っていたものと やはり通じるものではあるわけでしょう。 

小貫: ええ。僕は通ずると思うんですね。一つの家族に父と母が居て、子どもが居て─ 子どももたくさんいました、あの当時にね。それからお爺さん、お婆さんが居て、 三世帯が一緒に居て、それぞれがそれぞれの能力に応じていろんな仕事をこなし て、相対として、家族が機能しているという。この姿はもの凄く新鮮だったし、 懐かしいというか、自分の四十年代、五十年代の、昔の北関東の田舎の、そうい うものを感じたですね。だから何故あれを失ったかという気持ももの凄く強かっ たですね。 

峯尾: 今の「ゴビ・プロジェクト」が、九十年からで、実際に一年間五人の方が入られ たのが、九十二年の秋から厳しい冬も共に過ごして・・・凡そ一年何ヶ月でした か? 

小貫: 一年ちょっとですね。 

峯尾: その百二十時間に及ぶビデオを持って帰られて─そこで、小貫さん自身の個人的 なことを伺いますが、病気になられた、と。 

小貫: ええ。それまではもの凄く健康で病気一つしない。入院したことがないという体 だったんですよ。ところがウランバートルを出る時からおかしかったんです。そ れで当時伊丹空港に降りたんです。その時には朦朧(もうろう)として、夕方家に着いた時に は、頭痛と嘔吐で、もの凄く苦しんで、夜中も堪えられないで、朝方救急車で市 民病院へ転げ込んだ、という経験を持ちました。 

峯尾: どこが悪かったんですか。 

小貫: 脳内出血だったですね、検査すると。三センチ位の影が出ていました。それで夜 中、とにかく、ここで命を絶ってもらった方がいい、というぐらいに苦しかった ですね、もの凄く苦しくて。だけども、一週間位すると、痛みがだんだん和らい できて、意識もハッキリしてくると、病院に、「あ、自分が此処に寝ているんだな あ」ということが、先ず確認出来ますね。ひょっと窓際見ると、ちょうど十月で、 秋で、木々の葉に、秋の光が散乱している。それ見て、「ああ、生きていて良かっ た」と思いましたね。それはもう感動しましたね。その時初めて、「自分が命とい うのに対面した」というか、「命というのはこんなに大切なものか」ということを ほんとに実感しました。その時に、いろいろ考えたんですけど、百二十時間のテ ープを持っていましたし、これをどうしようかなんて最初思っていたのが、そん なことは吹っ飛んでしまって、もうとにかく、「自分はこの気持をやっぱり大事に したい」ということをつくづく感じました。だから医者に勧められて、リハビリ して歩けるようになったら、田圃の畦道なんかを歩いたんですけども、畦道なん かに黄色い花が─タンポポだと思うんですけども─咲いていますよね、小さな花 がね。今までそんなもの目に止まらなかったのに、しゃがみ込んで、それをジー ッと見る余裕が出て来ました。「ああ、命というのは、ここで頑張って生きている んだなあ」とか、初めて、「命を感じる」というか、そういうことを素直に受け入 れるんですね。 

峯尾: あ、そうですか。 

小貫: それでもし自分がツェルゲルのあの山岳砂漠の村の、ああいう家族たちの、人々 のものを描くとしたら、テーマは、「命なんだなあ」と。これをやっぱり貫いて、 「命は如何に大事か」ということを。それをあまりにも我々の五十五年以降、七 十年代の忙しかった時代に、何でも経済を拡大していこうという、みんなそれに 振り回されながらあくせくしていった。家族も脆弱になってくる。空洞化してい く、という。こんなことでほんとにいいのかということを痛感して、描くんなら、 「向こうの人がのびのびと生きている、大地に根差している、そういう姿を表現 していきたい」というふうに思うようになりました。 

峯尾: そうすると、その結果として、作品に仕上げる時に、何かこれまでと違うものが 出てきたんですか。 

小貫: そうですね。多分、「命」ということをあんまり考えていなかったんです、以前は ね。その病気になったという不幸が、逆に命ということを考えさせてくれた、と いう。命ということは、誰も宿命的なもので、背負っていますね。いつかそれは 尽きるんですよ。そういうことも考えるし。そうすると、自分もそうだし、他の 人もそういうものを背負っている人間だという。そういう理解も深まってきたん だろうと思うんですね。だから他人(ひと)に対して寛容になれるか、なれるというふう な、理解しようというような、そういう気持も、以前より強くなったというふう に、自分で思っていますね。だから、これは非常に大事なことなんだなあという ふうに思いました。現代はあまりにも死からこう隔絶されていて、そういうチャ ンスはないですね。昔の生活は、小さい時をみると、僕の親父とか、二番目の兄 の死なんかもそうだったんですけども、身近にあったんですよ。それが高度成長 期に浮かれたように、ドンドンドンドン拡大していって、そして生活がよくなる ということで、夢中になった時代というのは、 一体何だったんかなあ、という思いが非常に強 かったですね。だから、そこから考え直さない かんじゃないかということですね。作品もツェ ルゲルの人々が、何故あのヤギを丹念に、少な い草を食べさせて、そして荒れた地で、一生懸 命乳を搾って、乳製品を作って、そして家族を 養っているでしょう。この命を支えていこうと いう。だけども、あの人たちは、大地に息をし ていますよ、根差していて。そのために日本み たいに物はないんだけども、もの凄く明るいし、 愛情深いですね。子どもたちも、親たちも、み んなお互いにね。それは凄いことなんですね。 だから、七十年代以降の日本と、どうしても対 比してしまう。そういう中で作品もかなり意識 して纏めようとしたわけです。 

峯尾: で、ご覧になった方の感想で、いろいろな形で、まさに、命─あのツェルゲルの 人たちの会話の中に、「次ぎに死ぬのはどこそこの誰だ」という会話が自然に出て きたりしますね。ああいうところに打たれたというような人とか、さまざまにや っぱり受け取る側もあるでしょうね。 

小貫: あの台詞(せりふ)が入ると、みんな、「わあっ」と笑うんですよ。で、それは単なる笑いで なくて、何かの共感みたいなものを、「あ、ほんとにみんなそういうふうに、村の、 今度は誰の番かな」とか、「昔もあったじゃないの。日本にそういうことって」と いうような、そういうような共感の笑いというか、納得できるんですよ。そうい う共通項を見付けた時の喜びみたいな、そういう共感ですね。それからやはり子 どもが自由に大地を飛び回って、仕事を手伝いながら、遊びか、仕事か分からな いような形で育っていく。その姿ももの凄く感動しているようですね。この間文 部科学省の発表で、新聞で、十三万九千人の人が小中学校で不登校になっている というんですね。これはなんか三十日以上欠席した生徒らしいです。しかし、そ の裾野にはもっと苦しんでいる人々がいる。これほど小さな命を粗末にしてしま った今の状況というのは、いいんだろうか、という。それは誰も感じているんだ、 と思うんですね。観客の人もね。その中で見るんですね。向こうの大地に生きて いる子どもたちをね。そうすると、いや、何とかして自分たちも大地を取り戻し たいという、そういう思いに繋がっていっているんだろう、というふうに思いま すね。 

峯尾: そして、「大地に生きる」、或いは、「命」という、小貫さんのテーマが、今度は そのドキュメンタリーで、映像ではなくて、「菜園家族」という考え方、それでご 本もお書きになりましたけれども─に繋がっていくわけですね。菜園─家庭菜園 の菜園ですが、「菜園家族」というものをちょっと簡単に説明して頂けますか。 

小貫: 結局、さっき云いましたように、大地に根差すということね。我々が高度成長期 の中で大地から懸け離れてしまって、そして人間をダメにしていったという。結 局、人間というのは大地に戻らないといかんではないかという思いが強いんです ね。で、その為には、ということで、考えたのが、誰も菜園を持って、なにがし かの田畑を持って、そして五日間は菜園で、家族一緒に作物を作ったり、トマト やキュウリ作る。二日間は、従来型の仕事をやる、と。科学技術がこれだけ発達 したんだから、できないことはないんではないか、と。出来なければそういうふ うに出来るように科学技術を振り向けていけばいいわけで、というふうに考えた わけですね。そうすると、みなさん共感してくれるんですね。「そうだ」と。「も っとゆったりした生活が出来るんではないか」と。いま、家族がバラバラでしょ う。で、家族全部揃う時間なんていうのはほんとに少ないですよね。ところが五 日間菜園のうえでみんないろいろ作物を作ったりなんかしますから、時々週に二 日間気分転換にお勤めにゆく。そういう時代にだんだん移っていくんではないか な、という予感もするんですね。その為にはそれを保証することが必要だと思う んですね。それは例えば地域の行政であるとか、企業とか、ちゃんと協定を結ん で、そういうことが出来るようにしていくという。多分、今だったら、「私、二日 間働くから就職させて下さい」と云ったら、みんなどこの会社も、「ダメです。そ んな効率の悪いことは出来ない」ということになると思うんですね。だけど、み んながそういうふうに云ったりしていけば、どこの企業も競争しているわけです が、みんなが同じような方式を採り入れれば、条件は同じになるわけですね。し かも雇用は二・五倍になる筈ですね、数値として。 

峯尾: なるほど。五日間のところを二日間しか働かない。それだけの人数が必要だとす ると、二・五倍の雇用になる。 

小貫: そういうことです。だからそれは、結局ワークシェアリングになるんですね。オ ランダなんかが十年位かかって、苦労して作り上げた、あれよりもっと徹底して 進んでいるという。就業形態を多様化するということがもの凄く大切なことだと 思うんですね。例えば、例として若い画家がいたとする。自分の絵はそれほど高 く売れない。だけども二日間位は務めて、五日間は絵を描いていれば生活は成り 立つという人がおるかも知れませんね。そういう人はそのように就業形態が多様 になれば、そういう選択ができる。いろいろな人の才能とか能力というものを、 むらなく活用されていくという、そういう状況が生まれてきて、しかも人がゆっ たりした気分になっていくという、そういう状況になるんではないかなあと思い ますね。 

峯尾: 週に二日しか働かないと、給料は当然まあ五分の二になるかも知れない。決して お金持ちにはならないけれども、菜園を持っていれば、そこで穫れた物を、自分 で作ったものを自分で食べる。家族で食べる。ある意味でいうと、今と比べれば、 生活のレベルというのは下がるかも知れない。逆にいうと、精神的なレベルはグ ッと上がっていく。 

小貫: 上がっていくと思います。結局、「人間をどうやって回復していくか」ということ なんだろうと思うんですね。チャップリンの「モダン・タイムズ」がありますね。 あれは結局、人間が機械で部品のようにズタズタにされてしまいますね。最後は 浮浪の少女と肩を並べて一緒に丘の方へずーっと帰ってゆくラストシーンで終わ りますね。あれは凄いと思ってね。僕は高校か大学の時に見たんですけど、最近 また見て感動したのは、あのチャップリンは、結局人間は田舎へ回帰して行くん だということを、あそこで暗示しているんですよ。やっぱり人間は自然へ回帰し ていくんだという。だからあの時代にああいうことを云ったというのは、僕は慧(けい) 眼(がん)としか云いようのない、凄い洞察力の人だなあと思って、僕もあれを見て励ま されたですね。我々は遅くない、と。チャップリンみたいに早い時代に気が付い ていないけども、今からでも遅くないから、そういう状況が出来るんではないか なあという、そういうふうに思いましたね。 

峯尾: その菜園家族の構想を、小貫さん、本にも出されましたけれども、書評などを読 むと、「数年前だったら、こんな本は見向きもされなかったかも知れないけれど も、今はほんとに考えさせられる発想であり、真面目にこれについて取り組む必 要があるのではないか」と、そういうふうに受け取る人も、随分今はいるみたい ですね。 

小貫: そうですね。今、やっぱり緑とか、そういうのに憧れて、いろんな形で帰農する とか、或いはアパートのベランダにトマトを植えてみるとか、キュウリ植えてみ るとか、いろんなこと、これは凄い傾向ですよ。「田舎暮らし」みたいな雑誌が本 屋にズラッと並んでいて、これ十年前に考えられなかったことですね。やはり日 本人の意識も高度成長期を終わって、今、違うところへずっと流れていっている ということを実感しますね。ある意味では、二十一世紀というのはいい時代にな るのではないかなあという。だから悲観しないでもいい方向に流れていくような 感じもするんです。


峯尾: 研究庵が置かれているここ滋賀県犬上郡多賀 町大君(おじ)ヶ畑(がはた)では、かつて七十戸ほどが、林業 ・農業などで生計を立てていました。今は四 十軒ほどで、生活が営まれ、空き家が七軒、 廃屋になってしまった家が十四軒です。ここ は古くから三重県と繋がる交通の要所でした。 歴史も古く、昔ながらの文化・行事も大事に 残されています。地区の真ん中を流れる犬上(いぬかみ) 川の畔のキャンプ場、大君ヶ畑のほぼ中心地 です。

 


峯尾: 小貫さんが此処に庵を結ばれることにしたの はどういうわけなんですか。 

小貫: さっきも云いましたように、「菜園家族構想」というものを、 具体的にその土地の状況を知ったうえで、もう少し練り直して みたいということと、それからもう一つは、構想を構想に終わ らせるんじゃなくて、それをもし実行する場合に、どういう問 題が起こってくるのかというようなことも含めて、勉強したい と思いましてね。それにはやはり現地に入っていく必要がある だろうと思って、それでこの山の中に入ってきたわけです。 

峯尾: 今ですと、同じ日本の土地でも平たい所もあれば、山地もあれ ば、まあ山地も随分多いですが、ちょうどその構想を練り直したり、或いはそれ が実現出来るかを探るのに、山間の地が一つの相応(ふさわ)しい地だというふうにもお考 えになったわけですね。 

小貫: ええ。そうですね。今、言われたように、此処は鈴鹿山脈、琵琶湖があって、そ の山地から犬上川が流れていますね。そして、その山地は空き農家が多く過疎化 が進んでいます。この問題はモンゴルの発想からすると放置できないんですね。 これだけ緑豊かな所で、人間がこれを放棄しているということ事態ね。この問題 を探るには、やはり此処から出発しないといかん、と。しかも山から水がずーっ と流れて、平野部へ流れてきます。その起点のところから見直してみたい、とい う思いですね。 

峯尾: で、こちらに住まわれてもう一年になるわけですね。 

小貫: はい。 

峯尾: この一年間、例えば、夏から秋にかけてぐらいは非常にいい気候ですが、冬の厳 しさというのはまた格別ではないですか。 

小貫: 此処はよく雪が降る所なんですね。米原(まいばら)がすぐ近くなんです。みなさん、東海道 線を昔通ったら、米原って雪の中でしたね。非常に雪の多い所です。で、過疎化 が進行しているのも、それがあるんだろうと思いますね。なかなか大変です。今 年は雪かきもやりましたし、下の杉山のお爺さんが一生懸命やってくれますけれ ども、僕より年上ですから、年下の者はやっぱりやらんといかんと思って頑張っ てやりました。 

峯尾: しかし、今、杉山のお爺さんという話が出ましたけれども、都会から比較的お年 を召した方が一人入って来て、山の中でいきなり生活し始めている。面倒見てや らないと、どうなるか分からんという、心配があったかも知りませんね。 

小貫: 最初は、外部の者が来ると、やっぱり「何者だ」というような気持で見ておった そうですけれども、最近はよく理解して頂いて、よく交流しています。下の杉山 のおばあさんが、春になると蕗(ふき)の薹(とう)が出ますね。そうすると、天ぷらにあげて、 塩をちょっと添えて持って来てくれたりね。それから去年も台風の後ですけれど も、雨が降った後に、茗荷(みょうが)がパッと出るんですよ。どこの山に何があるかという のはもう熟知しているんですね。此処で生まれて、此処で育っていますから。そ れで雨が上がったらすぐ行って、それを採(と)ってきて、道でバッタリ行き会って、 茗荷を持って来て下さるんですね。「こんなもの食べないでしょう」と。「いや、 僕はね、もう北関東の少年時代に、これを千切りにして、ウドンに薬味にして美 味しかったですよ」と云ったら、もういっぱい持ってくるんですね。二週間ほど 続けての茗荷づくしでね。 

峯尾: 物忘れをするかも知れない。そうすると、勿論研究の場であり、此処はさまざま に観察する場でもあるけれども、小貫さんにとっては、此処は生活が楽しい場で もあるでしょうね。 

小貫: そうなんです。僕は、もともと調査ということを前面に出したくないんですね。 先ずその土地で自分が生活者として一緒に暮らして、そこから考えていくという、 そういう姿勢が一番大事だろうということを、ずーっとモンゴルでも痛感してい ましたので、此処でも調査ということを前面に出さないし、自分がもともと暢気 で楽しみたい方なので、いろいろと楽しんでいます。 

峯尾: 全然鍵を掛けない生活だそうですが、それにも慣れましたか。 

小貫: 慣れましたね。夏なんか、今年は冷房─勿論、扇風機を使わずに、もう北側も南 側も全部窓開けっ放しですね。そうすると、山の冷気がずーっと畳を這うように して忍び寄ってくるんですね。何とも言えない、その冷気に触れてね。「ああ、自 分がこの森の中にいるんだなあ」という、その一体感ですね。これはもう素晴ら しいものですね。これはほんとに経験しないと分からんと思うんですね。 

峯尾: それにしても今まで小貫さんの研究対象であり、愛するべき土地であったモンゴ ル、あの大平原と比べると、この山地・山間の地というのは、もの凄く違うよう に、私どもは感じるんですけれどもね。 

小貫: そうですね。森と砂漠ですからね。非常に対照的ですね。だけど、結局人間がそ の大地に関わる方法─具体的な方法というのは、細かいところでいろいろ違うん ですよね。だけど、最近思うのは、命ということから考えていくと、この命をあ がなってくれて、そして支えているのは、大地という関係─この基本線は全然変 わっていないという確信を持ちますね。「大地がやっぱり究極において命を支えて いるんだ」という。そこを忘れないようにしたいと思っています。 

峯尾: さっきおっしゃったように、これだけ緑豊かな、それこそどこを見回しても緑と いうような地から、此処で暮らす人が少なくなっていくというのは、もしモンゴ ルの人がこれを見たら、とんでもないことだ、ということなんですね。 

小貫: そうなんですね。去年の夏、この犬上川の流 域とか、それから芹川(せりがわ)というのが併行して流 れていますけれども、その奥はずーっと過疎 になっているんですよ。で、集落毎全部廃村 になっているところもたくさんあります。そ こへ行ったら、全部立派な大黒柱もあって、 周り緑の森でしょう。モンゴルの留学生が行 ったら、「何故、日本人は此処から逃げてい くの?」と。理解出来ないんですね。僕は、「いやあ、木材がどうのこうの」と、 経済の仕組みを説明しても、これはまた教授は法螺吹いて嘘を云っているんだろ うというふうにしか思えない。実感として理解出来ないんですね。それぐらいに 勿体ないという気持になるみたいですね。 

峯尾: はあー。その地域と云えば、先程ちょっとご紹介しましたけれども、此処は昔か ら人の暮らしのあったところで、歴史もあり、文化もあり、それからそういうと ころですと、此処に伝わる物語というか、伝説というか、そういうものもあって、 それがまたある種の意味を持っているということになるんだそうですね。 

小貫: この集落の中に中居林太郎さんという長老格のお年寄りがいるんですけども、そ の人が纏めた話があって、これはちょっとストーリー性のある話なんですね。こ れは、「幸助とお花」という民話なんです。川下の北落(きたおち)という集落にお花という器 量のいい娘さんが居て、まあ村の若い者が誘惑する。そういう 心労もあって大変な病になってしまった、と。それでお花は 御池岳(おいけだけ)の龍王─神さまに誓うわけですね。「どうか私の病気を 治して下さい」と。「もし治ったら、私は一生神に仕えます。 夫というべき男とは一緒になりません」ということを約束する。 そうしたら、見る見るその娘さんの病気は治って、元の美人に なった、という話があって、その娘はしょっちゅう今度は御池 岳にお詣りに行くわけです。ちょうど此処の大君ヶ畑が登り口 になっているんです。昔は百軒以上位の集落で、宿なんかもあったらしいんです。 栄えている頃ね。これは伊勢との交流の─交通の要所にもなっています。今は廃 れて終いましたけども。その宿にお花さんは泊まるんです。幸助が案内役になっ て、案内しているうちに、相思う仲になったということです。それで、幸助は、「一 緒になってくれ」とプロポーズするわけです。だけども、お花には自分の秘密が ありますから。ついに熱心なプロポーズに負けて一緒になるん です。途端に痩せこけてしまって。で、幸助はビックリして、 これは何か身の危険が─何か秘密が有るのではないか、という ことでお花を責めるんですね。幸助はその秘密が分かってビッ クリするんんです。幸助はこれは大変な罪を犯した、と。この 流域一帯を守っている龍王を裏切ったことになるということ で、幸助は御池岳の池に─頂上に池がさくさんあるんですけど も、身を投げるんです。たちまち渦になってのみ込まれていく。 すると龍王が現れて、幸助に、「相手を思うその気持に俺は負けた」と云って、「自 分はこの池を去って行く。お前たち二人は私の身代わりになってくれ」と、こう いって立ち去って行くんですね。やがて二人は龍王に代わって、この犬上流域を 守っていくという。そういう民話なんです。今でも此処の北落の人たちは、この 登り口の大君ヶ畑に来て、案内人をたてて、御池岳に登って踊りをするというこ とをやっているんです。 

峯尾: 今でもやっているんですね。 

小貫: そういう民話に基づいて、今でも川上の森の民と川下の野の民は交流をやってい ます。それから大君ヶ畑にも、「かんこ踊り」という雨乞いの踊りがあったり、そ ういう大事な昔からの伝統的な行事を、みなさんが守っていこうというふうにや っていますね。僕は、さっき云った民話というのは、頭にこび り付いて離れないんですよ。何故かというと、これは神とかそ ういうことを、私は信ずる方ではないんですけども、何か自然 の摂理みたいなのがあって、そしてこの流域の頂点である御池 岳に、そういう神が宿っているという、自然の摂理を象徴して いるものだろうと思うんですね。そして御池岳、それから鈴鹿 山脈に降った雨は、ずーっと滲み込んで、この流域に流れ込ん でいく。そして、川下の平野、それから湖を潤している。そし て、みんなそれを大事に利用しているわけですね。ほんとに物を大切にして、や ってきた歴史があって、そういう自分たちにはちょっと目に見えないような凄い 力が自然にあって、その支配下の中で、或いは庇護のもとに、自然の摂理という ものを守っていこうという、そういう気持というのは分かるような気がするんで すね。現代は何かそういう部分を失ってしまっていますよ。そ の違いがあるような感じがしますね。

峯尾: 小学生でしたか、大君ヶ畑(おじがはた)の子どもたちが、下の水田地帯の北 落(甲良町)へ田植えの実習に行くんですか。 

小貫: そうなんです。大君ヶ畑には田圃がないです。川下の北落は田 園地帯ですから、それで幸助とお花の民話にちなんで、交流を 復活させようということで、兄弟邨(むら)の契りを 十四年前位に結んだのです。

峯尾: そんなに前に、 

小貫: ええ。そしてそれをもとに、またこの流域の 循環を復活していきたいという気持なんでし ょうね。それで今年の五月に田植えを経験さ せたいということで、大君ヶ畑の子どもを連れて、下の北落に行って田植えやっ ていました。子どもたちもみんな喜んでいました。 

峯尾: そうすると、その菜園家族─家族というものだけでなくて、まさに地域そのもの が、全体がある意味で活性化したり、そこで人々が助け合って暮らしたり、とい うようなものにまで、小貫さんの考えていらっしゃる菜園家族の考え方は、広が りをどんどん今見せていくわけですね。 

小貫: そうですね。森と、それから湖を結ぶ流域ですね。此処を自立した地域圏として、 そこで地域内に循環するような、そういう仕組みというものが出来てくればいい んではないかというふうに思います。そうすれば資源も、森林の樹木も大切に活 用出来るし、川下の物も使える。わざわざ海のむこうの遠方から石油を持ってく るということも、それはそれで楽でいいですけれども─生活の上ではね。だけど も、そういうことを考えないといかんような時代になってくるんではないかなあ と思うんですね。よく考えて見ると、日本列島、これはある意味では、山脈が斜 めに縦断していますね。それを分水嶺にして、日本海側、太平洋側に水を分けて、 いろんな数々の水系がありますね。此処だけでなくて、日本列島というのは、森 と海を結ぶ水系に沿って無数の循環があって、ずーっと長い歳月にわたってつづ いてきたんだろうと思うんですね。それも戦後アッという間に断ち切られてしま ったという状況があって、だから琵琶湖と鈴鹿山脈の間だけの問題ではなくて、 日本全体のもっと普遍的な問題であると思っているんですね。だから、此処の問 題をもっと掘り下げて見ていきたいというふうに思っています。 

峯尾: そうすると、いつの時代か、日本人が、今、もうおよそ大地と懸け離れた生活を している人が圧倒的に多い中で、再び大地に生きるところへ戻って、多くの日本 人が戻っていくというふうに希望は持てますか。 

小貫: 十年前だったらなかなか希望は持てなかったと思うんですね。みなさんは、生活 がどんどんよくなっていくという感覚がありましたから。今、むしろ行き詰まっ てしまっていますね。どうしていいか分からないという部分もあるわけです。リ ストラと称して、職を失う人も増えてきているし、その不安などでおののいてい るという面がありますね。「これでいいのか」ということで、今、突き詰められ ているんだと思うんです。浮ついた七十年代の高度成長期というものがおわって、 いま反省期に入ってきていると思うんです。だから客観的な情勢が、人の意識を 変えているんだと思うんですね。ですから、僕は可能性はやっぱりあるんではな いかなというふうに思いますね。こういった市場競争の中で必死になって動いて います。そして人間がボロボロになっていくという、精神が荒廃していくという、 そういう時代ですからね。みなさんがそこから自分の命とか、人間そのものを回 復したいという気持が強まっているんだと思うんですね。ですから、これは大き な流れとして、絶対その方向にいくというふうに、僕は確信しているんですよ。 

峯尾: そういう小貫さんの考え方、行動を理解し、賛同する人が少しずつ増えつつある ことは、お感じになるわけですね。 

小貫: ええ。いろんな人からお手紙とか頂いて、この間もリストラされてしまったとい う方から、「ほんとにこれしかないんではないか」ということを、ほんとに熱を込 込めて書かれていました。そういう方は意外に多いんですよ。ただなかなかそう いう方向に、今の歯車は動いていないですね。結局、アメリカ型の拡大経済とい うものをもう一回取り戻して、是正して、そしてもう一回経済成長させていこう という方向でしょう。だけども、それはやっぱり時代認識が違うんではないか、 と。というのは、もっともっと苦しんでいる人が、今のシステムの中で多いわけ ですから、そのことを反省していかないといかん、と。最初、命ということを云 いましたけども、その命ということから考えていく経済とか、そういうものであ って欲しいなあというふうに思いますね。例えば、お爺さんが寝ている三世帯の 家族があるとします。子どもが、お母さんに、「お茶を持って行きなさい」と云わ れて、お爺さんのところへお茶を持っていったら、そのとき、お爺さんが、「有り 難うよ」と云ってお茶を飲む。子どもは、その「有り難う」という言葉に喜ぶ。 そうすると、子どもはこれ介護の仕事をやっているんですよね。「有り難う」と云 った時に、「あ、人間というのは、こういうふうに歳とっていくんだなあ」という ように、人間理解も、子どもは深めていますよ。教育の問題でしょう。そうする と、これは一つの行動をしながら、介護の機能と教育の機能が同時に含まれてい るわけですよ。これを今まで、分業と協業ということで、全部分けてきたわけで すね。今、「総合する」というかなあ、人間の労働にしても、総合していくという、 「総合の時代」ではないかなあというふうに。それはやっぱり農業なんだろうと 思うんですね。物を、生き物を育てていく。家畜を育てるという。これはあらゆ る要素を考えなければいかんですね。今日は雨が降りそうだから取り込もうかと か、すべてのことを考えながらやらないといかん労働で、これは総合的な労働で すよね。ここにやっぱり人間を育てる基本の問題があるだろうと思うんですね。 宮沢賢治が、「農民芸術概論綱要」というのを、これは下書き要綱なんですけども 書いているんですよ。農業、正確には、「農的労働というのは芸術なんだ」という ことを云っているんです。そのことだろうと思うんです。総合的なものが人を育 てていくんだ、と。 

峯尾: 今、小貫さんは、此処でご自身の生活も楽しんでいらっしゃる。それから自分の 研究もそれなりに充実していると思うんですけども、それを世に問いながら、人 間がもう一度命を考える。大地に生きることを考えるということを訴えていく。 そういう意味では、日々楽しい充実した生活を送っていらっしゃるということな んでしょうね。 

小貫: そうですね。自分自身ではいろんな問題を抱えたりしていますので、それほどの 実感はないですけれども、だけどもいろんなことを発見していきますよ。この森 の生活をするのは、僕は初めてなんですけども、森というのはやっぱり人間にと って本質的だな、と思いますね。そういう発見もありましたし、此処の人たちは 一年住むと心との交流が生まれてきますね。で、一年前に入る以前と、入ってか ら一年後、地域というのはやっぱりそこの人の中で一緒に暮らしていって、見え るものが見えてくるんだなあということを痛感しますね。だから、僕は、デスク の上で調査項目を立てて、現地に行ってそれを質問してやるということは一切や らないんですよ。大体あれは予期した答えが出てくるんです。意外なものを発見 しないと、やっぱりダメなんだろうと思ってね。モンゴルでもそういう調査はや りませんでした 。現地にぶつかって、そこでそこから考えていくというやり方 ですね。 

峯尾: 有り難うございました。 

     これは、平成十四年九月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである