亡き娘を縁として
 
                養蓮寺住職・同朋大学教授 中 村  薫(かおる)
                             中 村 真佐子(まさこ)
一九四八年愛知県に生まれる。大谷大学文学部仏教学科(華厳学)卒業。同大学院人文科学研究科博士課程仏教学専攻修了。現在、同朋大学文学部仏教文化学科教授。文学博士。真宗大谷派養蓮寺住職。著書に「いのちを差別するもの」「華厳の浄土」「親鸞の華厳」「仏の強化」「出会いそして別離のいのち」ほか。
                き き て        山 田 誠 浩
 
ナレーター:  愛知県一宮市の郊外に室町時代から続く古い寺、養蓮寺(ようれんじ)があります。住職の妻としてこの寺を支える中村真佐子と母の千年(ちとせ)さんです。中村真佐子さん夫妻は六人の子どもに恵まれました。しかし長女の綾(あや)さんは鬱病(うつびょう)を患い、五年前この家に里帰りしていた時、自ら命を絶ちました。二十九歳。幼い一人の娘と夫を残しての自死でした。この寺の家族にとって、この五年間は綾さんを失った悲しみと苦しみに耐える年月(としつき)でした。
 

山田:  何年もお花を飾ってきたんですよね。
 
真佐子:  ええ。お花は家の母親と前のおばあちゃんとで長いことやりましたね。私はやっぱり娘が亡くなってからかな。花に触るようになったのはまだ浅いんです。私はお華習ったことないですので、我流で。今、綾のことを思いながらちょっと立てましたらね。
 

ナレーター:  綾さんの父・中村薫さん。この寺の十六代住職で大学の教授も勤めています。中村さんは娘の心の苦しみを救えなかったことを悔いながら、自らのあり方を問い直す日々を送ってきました。寺に生まれ、仏教に関心を寄せていた綾さんの自死は思いも掛けない出来事でした。
 

 
山田:  綾さんはお二人の最初のお子さんだったわけで、喜びも大きかったと思うんですけども、お母さんの真佐子さん、生まれた時の感じはどんな印象を持たれたでしょうか。
 
真佐子:  ちょっと難産というほどではなかったんですけど、頭が出てから六時間も分娩台で苦しみましたですね。一番記憶に残っていることです。
 
山田:  そうすると、お父さんの方は気が気じゃなかったんじゃないですか、お生まれになるまでに。
 
薫:  そこのとこは僕はちょっと学校にいたかと思うので、ちょっとわからなかった。任せっぱなしで(笑い)。
 
山田:  最初のお子さんだったわけですから、どんな感じをお持ちをなりましたですか、生まれた赤ちゃんについては。
 
薫:  父親になったなあと、親になったなあという実感がしました。とにかく可愛いかったです。
 
山田:  二十九歳まで成長されたわけですけども、どういうお嬢さんだったですか。
 
真佐子:  私にとっては姉妹のような感覚で、親子してしまいましてね。よく喋る子でしたし、明るい子でしたのでね。けっこうよくものを知っていましたので、私が、「何々をどうしたらいいの?」とか聞いたりしていた子なんですよ。だから大学へ行ったり、なんかいろんな仏教のことやなんかでも、竜樹(りゅうじゅ)菩薩のことでも、お話してくれて、「竜樹さんは若い頃は悪いことばっかりやっていて、消える術をみんなとして楽しんでいて、悪さをしていたんだよ」とかいう、竜樹菩薩のことも教えてくれましたしね。
 
山田:  亡くなった時、お母様が最初に見つけられたということを伺っているんですけど、そういうことだったですから、とても気持のうえの負担は大きかったでしょうね。
 
真佐子:  私は、割と気が強いですので助かると思ったんですよ。だから救急車をすぐ呼びに下ろして、すぐ救急車を呼びに行って、救急車の隊員の人が、「心臓マッサージと呼吸をやっておいてください」と指示されましたので、すぐ二人に―長男とお父さんしか居なかったですので、すぐ伝えて、救急車が来るまでに、心臓をマッサージしたんですけれども。もう私は救急車には乗れませんでした。私は万が一助かる方を願ってここで待っていましたので。
 
山田:  その後暫くの間、どういうふうに自分はしていらっしゃったか、ご記憶はありますか。
 
真佐子:  もうあそこの庭でしゃがみ込んじゃいまして。どうしてだろうかね、なんか大きな声で叫んだことだけは覚えているんですよ。六番目の子は知らされて、もう門に一歩入ったところから泣き崩れて動けなかったですね。亡くなったということは、病気をしていたということは聞いていないですからね。亡くなったということだけで、信じられない悲しみだったと思います。足が動かなかったですからね。後の子たちは黙って葬儀やまあ何かいろいろのことをそれぞれやってくれましたけどね。
 
薫:  私自身としては十数年前から自死の問題に対して非常に関心がありまして、どうしてこんなに多くの人が自ら命を絶ってしまうのか、と。特に最近十数年間、三万二千以上の人が亡くなっていく現実で、おまけに交通事故の三倍から五倍以上の数になってきている。これはもう社会問題である、と。そういうことは、私自身も関心がありましたし、だけどその中でまさか我が子が、と。我が子だけは大丈夫だろう、と。仏様の教えを聞いているから大丈夫だろう、と。これもどうも今思いますと、私の少し傲慢であったのか。念仏の教えを聞きさえすれば、自死はあり得ないんだ、と思い込んでいたんですけども、遺書も何にもなく、スーッと消えていくように亡くなってしまった。そのことは私にとってはとってもショックで。
 
山田:  そうすると、お嬢さんが亡くなって暫くの間というのは、ご自分がどういう状態で、どういうふうに過ごしていらっしゃったか、ということはご記憶にありますか。
 
薫:  ただ亡くなったその夜の六時か七時頃のことだけは覚えているんですけれども、作家の高史明(こうしめい)先生のところへ電話しておりました。
 
山田:  ご自分も十二歳のお子さんを亡くされた作家の方ですね。
 
薫:  「先生、娘が亡くなりました」と言ったら、先生もびっくりされまして、「えっ!」と言われて、後のことは覚えていないんですけれども、、「泣いて、泣いて、泣いてください。泣いて、泣いて、泣いて、お嬢さんのぶんまで生きてください」こうおっしゃって、それからはばかりなく涙を流して、泣いて泣いて泣いて、涙って枯れないなと、その時につくづく思ったんです。ですから後、通夜からお葬式からほとんど覚えておりません。ただ家族みんな一人になると泣いておるような、そんな日々が続いたわけです。
 
真佐子:  今日が月命日の十一日で、ちょうど命日の日でして、長男が亡くなって以来、毎月十一日の夜に花篭をお内仏のところへ供えて行くんですよね。長男も何も失語症的で、ものを言わなくなってしまって。
 
山田:  ご長男さんが、それは綾さんが亡くなったことで。
 
真佐子:  だと思うんですけれども。花だけは毎月お供えしてくれていましたのでね。今日午前中お花立てをしました時に、長男のことを思い出して、彼の苦しみも。男の子が花屋さんへ行って、花篭なんてね。それも盛りの篭でしょう。花束なら彼女にあげるという花束でしょうけど、そういうお供えの花を彼が一年、毎月続けてくれたことを思い出しましたね。
 
山田:  今、ご長男は元気にやっていらっしゃるわけですか。
 
真佐子:  ええ。二○○七年に結婚しまして、赤ちゃんに恵まれまして。
 
薫:  その娘がやはり私たち夫婦に初めて親という喜びを運んで・・・ちょっとすいません(涙ぐむ)
 

 
ナレーター:  昭和五十年、この世に生を受けた綾さん。三千四百六十グラムの大きな子どもでした。薫さんは大学時代に真佐子さんと出会い、この寺に入りました。二人にとって初めての子が綾さんでした。幼い頃から責任感が強く、何事も一生懸命頑張る綾さん。心に異変を覚えたのは大学時代のことでした。一旦は回復し、二十三歳で結婚。一人娘に恵まれますが、再び病に襲われます。綾さんが心の苦しみを書き綴ったノートが残されていました。突然毎日が虚(うつ)ろに感じられるようになった十九歳の時の思い。結婚して子どもを生んでから、再び心に押し寄せた躁(そう)と鬱(うつ)の波。自分ではどうすることもできなかった心の苦しみが事細かに記されています。綾さんは子育てをしながらカウンセリングに通い、薬を服用して病気と闘っていました。命を絶つ直前まで書かれたこの手記には、綾さんの生前には両親が気付くことのなかった苦しみが綴られていました。
 

 
薫:  これは私が、綾がまだ健在の時に、「お父さん、自分のこの苦しみを一つ本にしたい。私と同じような人がいたら何かの助けになるかも知れない。だから私は『実録うつ』ということで、文章を書いて小説気味に、私もメンタルクリニックの先生のところへ何回も行って一緒にカウンセリングを受けているんですけれども、もう少しこの病気のあり方というんですか、躁と鬱がこう揺れていく。本人が書いているのは、
 
躁が大きければ大きいほど鬱が辛い。だから自分が大きく躁になっている状況の中で、今度は鬱が見えてくる。苦しい。
 
ということを、波のように書いている。それが「十九歳から二十九歳まで、四回大きく波があった」と記していたんですよ。これがほんとに私たちがもうちょっとこのことを知っておれば、お医者さんと相談して、ちゃんとした対処ができるんじゃないか、と。それをなんか仏教の教えを聞いているから大丈夫だ、と思っていた私の浅はかさを知らされたわけです。どこも全部そうなんですけれども、例えば、
ある日ふと思った。私は恵まれている。でも虚ろな日々が続く。どうしてだろう。私は虚ろな体を持てあましていた。何がしたいのかわからない。世の中は物質社会。ふと思う、死んでしまおうかと。恵まれているのにどうしてだろう
あるいは、
立派に生きる必要などないのだよ。でも虚しい。綾が恵まれた環境で育ったのが、綾の中で何かが叫んでいる。誰か助けてっと。心が痛い。
等々、自分の心の苦しみというものを、もっと私たちに言ってくれればよかったのに、全部自分で抱えていて。そしてまた日常生活の中ではこういう思いというのは微塵も感じさせない。明るく、そして薬を飲んだ後、「お父さん、ちょっと体が重いね」とか、「頭を締め付けられるみたいだね」とか、筋肉がシュンとこうしてしまうような、そんな素振りは見せましたけれども。で、後多くはごろんと寝てて、
 
山田:  お母さんはこの手記をお読みになりましたですか。
 
真佐子:  いいえ。まだ読むことができない状態で。まあ何か怖さというのか、そういうものもありますね。まだ未だにね。で、まだ娘の物がありますけれども、なかなか服も捨てられずにまだ取っているんですけどね。
 
山田:  ご病気のことは、薬を飲んでいらっしゃるとか、そういうことはかなりわかっていらっしゃったんですか。
 
真佐子:  躁鬱がどういう状態になるということは全然わからなくて。躁が出てしまうと、他人に迷惑を掛けるという。電話を掛けたくて、夜も、夜中もという感じで、何時間も長く掛けたみたいですので、そこはやっぱり迷惑がかかるもんですからね。薬で抑えたいという私の願いもありましたので、すぐ掛かり付けのお医者さんへ行っては落ち着かせておったんですけどね。それで好きな人ができたから結婚したいということでしたので、あぁ落ち着いてそういうこともできるんだということで、まあ私たちは賛成して送り出したんですけどね。そこから育児も―出産も無事私よりも軽く出産して、産婦人科の先生に「上手でしたね」と褒められていましたけどね、安産で。
 
山田:  何度かは帰ってきたんですか。
 
真佐子:  結婚前に最初に出て、その時は躁鬱ということを知りませんでして。私は、躁鬱も亡くなってからしかはっきりわかっていない状態でした。鬱という状態があるということを知らなかったんです。だから最初突発性心因症ということを言われた時に、薬があって良かったなあと、私は感謝。近代でこういう病気になった時に、こういう薬があって、いい世の中になったと思ったんです、十年前十九歳の時にね。そしてまあ三十ぐらいで治るという私は思い込みをしていましたので、そこを躁鬱というのは、もう抱えて、出た時はこうで、また治まった時はこうで、という私に知識があれば、もうちょっと彼女に対して出た時の行動やら何かを見てやれたなあと思うんです。
 
山田:  ご病気だったら、なかなかいろんなことがしたくないとか、ゆっくりしていたいとか、そういうことがあったのかも知れないと思いますけれども。
 
真佐子:  ほんとに普通の人ができることができなくなってしまうから、
 
山田:  それは例えばどういうことですか。
 
真佐子:  どういうことというと、ちょっと朝起きれないとか、やっぱりこっちへ躁状態で帰って来る時はもう全然家事とか、そういうことはできない状態ですのでね。そこのところはわかっていましたけれども、鬱で自死してしまうという恐怖感がなかったんですよ。「私は何かやりたくてもできないから、今どうしたらいいか、ということがわからない」と言っていました。
 
山田:  そういう綾さんの問い掛けには、お母さんはどういうふうに応えていらっしゃったんでしょうか。
 
真佐子:  「あ、そう」いうぐらいで簡単に。「それじゃ、まあ御堂の掃除機ぐらいかけてきたら」というぐらいで、それでやってくれていましたので。単なる体が怠いぐらいしか、頭がちょっと重くて体が怠いぐらいという思いしか、私にはなかったんですね。
 
山田:  お父さんはそうやって、綾さんが帰ってきたり、一緒に会話したりしている感じの時は、どういう印象を持っていらっしゃったんでしょうか。
 
薫:  少し退行性というのか、赤ちゃん返りじゃないんですけど、もの凄く純粋無垢な感じになりまして。やはり急成長していく段階だと、十七、十八から反抗していきますよね。そしてお父さんを嫌っていくような、そういう状況もあったんですけれども、帰って来ている時には、もの凄く私に、「お父さん、教えて、お父さん」とか、「お父さん、子どもがもう一人欲しいけれども産んでいいかな」とか、そういう問い掛けをしてきたり、それから「イギリスへ行きたいね」とか、「中国へ行きたいね」と旅行の話とか。そしてこういう人形を持って来て、家を自分で作って、「自分のこれは部屋なんだよ」とか、ままごとをしているような、そんな感じでした。
 
山田:  これがその時のものですか。
 
薫:  その時の、部屋においておくものなんです。
 
山田:  家を作って、その中にこういうものを並べて。それはどういうことなんでしょうか。
 
薫:  そういう鬱、躁の時に、そういうことが出てきた。ままごとというのか、自分の家を作るなら、こういう家を作って、将来こういうふうに生活したいなという夢が、そんなところに現れてきたんじゃないかなあと思うんです。で、家で作っていました。
 
山田:  でもお嬢さんがそういうふうにお父さんに積極的に話し掛けたり、会話があるというのはとっても良いことの感じがしますが、そのこと自体はどういうふうに感じていらっしゃったんですか。
 
薫:  ですから私にとっては、三、四年の綾との出会いというのがとっても楽しい思い出として。後から日記を読んでビックリしたんですけど、こんなに苦しんでいたのか、こんなに辛かったのか、ということはほとんどわからなかったです(涙ぐむ)。
 
真佐子:  私もまだ子どもが下に五人おりまして、ちょうど六人目の子どもがちょっと学校で登校拒否だとか、いろんな状態にはまってしまいまして、私たちもそちらに目がいくことができなかったかなと思っていますけども。
 
薫:  今思うと、娘の居場所が見つからなかったのかなあ、と。心の居場所が。そのことをこれ読んで感じましたけれども。悔しいのはそのことを微塵も我々に示さない。ただ、「体が思うようにいかないね」と、シュンとしているとか、そういうことだけで。ただ仏教の教えは大事だし、心の問題で生きる意味で大事だけれども、こういう病気の時はちゃんと薬を飲んで、休む時には休むということが大事だなあ、と。
 
山田:  そういうことがもう少しお父さん自身もわかっていれば、そういう方向に支援できたのに、
 
薫:  だけどそれで、助けられたかどうかというのは、僕はもう一つわかりません。
 

 
ナレーター:  「虚しい。深い海に溺れる。誰か助けて」。夫と娘との暮らしに幸せを感じる一方で、消すことのできない心の痛み。綾さんは温かい家庭という居場所がありながら、心の居場所が見つけられない苦しみを何とか解決しようと、一人藻掻き続け、自ら命を絶ちました。一人残らず、貧しさや苦しみから救われることを約束してくれているという阿弥陀如来の誓い。綾さんは、生前その誓いを述べるお経を好み、よく唱えていました。綾さんが何故命を絶ったのか。その死を受け止めきれないまま、残された家族は朝な夕な、このお経を唱え、供養するようになりました。綾さんの死から五ヶ月。薫さんの父(伊奈教雄)が亡くなります。この時初めて生前の父の深い思いやりに気付き、薫さんは娘の死を受け止めていくようになります。
 

 
薫:  七月に亡くなって、お盆前に私の実家へ行きまして、私の父親に「娘が亡くなった」という報告に行ったんです。そうしたら、「どうしてかなあ。何で死んだのかなあ」というだけで、十月三十一日に蓮如上人の五百回会法要をこの寺で勤めるんです。その予定でいたので、むしろそのことを心配して、「私はもうこの体だから参れんけれども、しっかりやれよ」ということで帰って来たんです。その時に私は、父親って感性が無くなったのかなあ、と。悲しみの表情がまったく感じられなかった。
 
山田:  それは綾さんが亡くなったことにですか。
 
薫:  はい。それでもう認知症かなあと、そんな思いで帰ってきたんです。それから二回ほど行ったんですけれども、綾のことにはほとんど触れないんです。そして十二月二十四日に兄から、「父親が危篤で病院へ入った。来てくれ」ということで、私行ったんです。私は父親の手を握って、ずっと二時半から四時十分まで、ずっと父親を眺めていたんです。微かな息をしながら、血圧がスッと下がっていったんです。五時十分にお医者さんが来て、「ご臨終です」ということで、その時に私は父親の手を握って、ほんとに不思議なぐらいに、「ありがとう」とお礼が言えたんです、素直に「ナムアミダブツ」と言えたんです。ところがその私が、もう一人の私が娘の綾のことに関しては五臓六腑が承知できない。死をどうしても「ありがとう」とも、「二十九年間ありがとう」ともその時言えない。どうしてなんか、と。父親とは素直に死を認め確認できたのに、娘の死は納得できない。そのことをずっと考えながら、そして人の命の生き別れということで、常識的に親が私より先に死んでも納得できる、と。娘は私より後に死ぬのが普通でないか、と。その娘が先に死んだということが納得できないんじゃないか、とこう思った。そうすると同じ命でありながら、私は父親と娘とこう違っていたんです。そんな中で、兄が父親の着ていた寝間着を揃えながら、「お父さんはね、あなたたち夫婦にどういう言葉をかけていいか、言葉が見つからないと言って苦しんでいたんだよ」。その時に私、ハッとしたんです。六十キロ離れた岡崎市と一宮市ですけれども、何にも父親は私に語りませんけれども、「どう言葉をかけていいか、言葉が見つからない、と言って苦しんでいたんだよ」と、兄から聞かされた時に、初めて遠く離れたところで私の苦しみや悲しみを、父親はジッと引き受けていてくれたんだなあ、と。そのことが自分に響いてきたんですよ。私は、その父親の言葉によって―「同悲同苦」の言葉によって、これは娘の死も私は受けなければいけない、と。「同悲同苦」同じ苦しみ、同じ悲しみ。それは私の父親は、私の姉二人亡くしているんです。十ヶ月と百日で。だから父親も私と同じ悲しみを背負っていたんだなあ、と。だけどそのことは一つも私に言いません。でも娘を亡くした親の悲しみが、父親はわかっていたから軽い言葉では言えなかったんじゃないかな、と。その父親の温かさというのを、私は受け止めた。そしてここから私は立ち上がっていかなければ、娘の死を認めて、娘の二十九年間はムダでなかったんだよ、と生涯は。そのことを親が認めなければ、誰が認めるのか、と。「たしかに早かったね」とか、「寿命だね」とか、「もうちょっとすれば良かったのにね」というけれども、しかし現実的にはもう帰ってこない事実を受けなければならんということで、父親のその生き方が私に問うてきた、ということはありました。
 
山田:  今、いろんなお話を頂いたような心の状態になられたわけですけど、それが少しずつ変化を見せ始めると言いますか、
 
薫:  具体的にはあまり覚えていないんですけれども、ただ仲間の人たちからの励ましとか、高史明先生のいろんな本とか、それから柳田邦男(くにお)氏の本とか、私と同じような境遇にあった人のいろんなお話を聞いたり読んだりして、そして一年ぐらい経った時に、大阪の教務所の方からお話をしてくれという依頼がありまして、そこで具体的にこれは一つ自分のこととしての話になってしまうけれども、決してこれは私だけも問題ではないということで、「出会そして別離(わかれ)のいのち」という題で、娘と出会って別れていくその事柄の、一年間の事柄をお話させて頂いたんです。
 
山田:  真佐子さんの方は、やはり綾さんの死で家族中がほんとに悲嘆にくれられた、そういうところからご自分の気持ちをどういうふうに前向きに乗り越えてこられた、というふうに思いになりますか。
 
真佐子:  前向きにこられた、ということは考えたことはないんですけど。ただ綾の死はほんとの悲しみというのかね―さっき仏教的には「同悲同苦」と言われたけど、ほんとに悲しいということを私に教えてくれた。ほんとの悲しいというのはおかしいですけれども、悲しいというのは映画を見たり、いろんなシーンを見たりして、悲しみは湧いてきますけれども、どうすることもできない悲しみですよね。自分の我が子が亡くなる。せいしさんも亡くなる時は私たちの同士ですので、泣いて人の前をはばからず泣き合ったんですけれども、自分のことになるとやはり自分のものという意識が強いですので、やっぱりその悲しみは比べようにもなかったですね。だから一番悲しかったのはお棺の蓋をする時でしたね。もう顔が見られない時に、やっぱり姉妹みんなで縋(すが)っていたような気がするけどね。最後のお棺が出ていっちゃった時に(涙ぐむ)。
 
山田:  今までの悲しみなんか比較にはならないというふうな思いがおありになったわけですね。
 
真佐子:  そうですね。やはりものの見方が、切るような生き方をしてきた自分が、やはりあの人も苦しみがどこかであるじゃないか、という見方を、どこかで苦しんでおられるじゃないかな、という見方に変わってきたんですけどね。今までは世間の「こういう人はこういうふうだった、こういうふうに死なれたよ」と言われると、「ああ、お気の毒さまですね。そうですか」って、終わっていたんですよね。だけど同じような体験とか、病死、突然死だとか、いろんなケースはありますけれども、そのお母さんたちが苦しんでおられる気持がわかるというのか。どうこうしてあげるということじゃないですよ。その方に何かをして私がしてあげるということではないんですけれども、「ああ、そうですか」という苦しんでおられる、まだ鬱状態でおられる方が電話で長い電話をされるお母さんたちに対して、私が答えれる範囲内で、お電話でさして頂いているんですけどね。
 

ナレーター:  自分は僧侶であり、大学で仏教を教える身でありながら、娘の本当の苦しみに気付くこともなく、死から救うこともできなかった。中村さんはそんな自責の念を募らせていきました。自分はこれからどう生きていけばいいのか。中村さんは仏教の教えを改めて読み直すようになりました。一筋の光を投げかけたのが、大学時代の恩師の著書でした。
 

 
山田:  恩師山田亮賢(りょうけん)(元大谷大学教授)さんの著作(『路傍の寶藏』)をもう一度読み始めて、それが仏教の道を深めることに繋がったということなんですが。
 
薫:  そうです。先生も私と同じような、息子と娘の違いはありますけれども、亡くされているということで、先生はご子息のことを非常に愛しておられて、いろんな思いの中で現実の身の事実を引き受けていかれた。そのことが私にとってはこの先生の生き方に従って私も生きるしかないんではないか、と。そこまで感じたわけです。山田亮賢先生は華厳の専門家でして、大乗佛教の教えをずっと説いて教えてくださっているんですけれども、その中に、「「にわたずみ」を縁として」という先生の感じられた事柄を散文的に書いておられる文章があるわけです。その「にわたずみ」というのは水溜まりのことですけれども、その水溜まりというのは必ず水溜まりができたら時間が経ったら消えていくという。一つの無常というのか、常なるものが何にもない。物事は常に変化していく。それが一つの「にわたずみ」という形で出てきているんですけれども、先生にとってはご子息が遼(はるか)さんという方でございまして、「にわたずみ」は「潦」という字を書くんですけれども、「はるか」というのは「遼」なんです。その字はまったく関係ないようであるけれども、その「にわたずみ」を見て自分の息子のことを思い出した、と。そして「にわたずみ」のあったところが大谷大学のグランドで、息子さんが守っていたレフトの位置にたまたま水溜まりができていた。そのことをふっと思われて、まったく関係ないようであるけれども、息子のことが思われてきた、と。そして、その息子さんは、実は二十二歳の時に突然この世を去っていかれたわけでございます。その時の先生の悲しみ苦しみは、いかばかなものであるかと思うんですけれども、先生はその死を縁として亡き息子にいろんなご縁を頂いたけれども、生きている間はいろんなことがあったけれども、その息子は「如来の眷属(けんぞく)」と言いまして、仏様のお弟子になって、今御浄土にいるんだ、と。だから私も念仏もうす身にしか息子に会えないんだ、という事柄のことを書いておられるわけなんです。そして御浄土に参っているその息子さんと、どこで出会っていくのか、ということになったら、親鸞聖人の言葉が思われてきた、とこうおっしゃるんです。それは何かと言ったら、
 
今生(こんじょう)に、いかにいとおし、不便(ふびん)とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
(「歎異抄」第四章)
 
お慈悲というのでも聖道と浄土の変わり目があって、「聖道の慈悲」というのは、思うがごとく助けることができないんだ、と。こういうことが説かれているんです。そうすると、これはとっても私にとっても冷たい話です。できれば「お慈悲だ」ということであれば、助けてほしい、ということでしょう。勿論死んだ人が生き返るとは思わないけれども、しかし「お慈悲」というのは、私たちが思う通りにやはり助けてくださるのがお慈悲だと我々は思う。しかし親鸞はそれは「すえとおらない」と、きっぱりきっているんです。
 
しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてさうろうべきと云々。
(「歎異抄」第四章)
 
「すえとおりたる」とは、最後まで一貫していることです。浄土の慈悲はすえとおるんですよ、と。その「浄土の慈悲」というのは何かというと、現実の身に立ちなさい、ということです。辛くても、悲しくても、苦しくても、そこがあなたの居場所ですよ、と。先生はそこに立ってくださったんです。それで私も娘を亡くして、やはり動転しまして、こんな筈ではなかった、と。いろいろ悩んだり苦しんだりしましたけれども、もう一度この本を読んでみると、やはりそれは受けていかなければならない、と。「ただ念仏のみぞまことにおわしましけれ」と言われている以上、私は念仏申す身になることが私の娘と出会うことであるんだ、と。
 
山田:  そういうふうに考えるべき・・・考えるべきだというと、ちょっと違がっちゃうんですかね。説かれていることがそういうことだというふうに思いになったら、綾さんの死というのはどういうふうに思えてきたんでしょうか。
 
薫:  だから綾の死は二十九歳のいのちですけれども、二十九歳が満足したいのちであったんだ、と。普通考えると、二十九歳だと早かったとか、あるいは自死ということはなんと悲しいことなのか、と。それしか見えないんです。しかし綾にとっては二十九歳の中に春夏秋冬があり、それが人生のすべてであったんだ、と。この私が受け取らなければ、誰が受け取られるのか、と。少なくとも私は親として、悲しいし、残念だし、虚しいけれども、あなたはあなたでいいんだよ、と。御浄土で会いましょう、という世界が私に開かれてきた時に、声なき声が聞こえるという。娘と対話できるという。そういう世界です。少し分かり難いかも知れませんけれども。
 
山田:  そういう思いに今なっていらっしゃるわけですね。
 
薫:  それが親鸞聖人が『教行信証』という書物の中で、
 
     仏地に樹(た)
 
という表現をされておられるんですね。「たつ」というのは「樹木」の「樹」という字。樹木の樹ですから、樹は幹や茎や花や、いろいろありますけれども、その大地の底に根を生やしている。その根は私たちに見えない。見えないけれども、その大地に支えられて私たちのいのちがあるんだ、と。ところが我々が救われるとか、そういう表現をする場合は、上にあがることしか考えない。例えば思い通りにしたいとか、思い通りになるようにとか、まるで蜘蛛の糸のカンダタ(?陀多)が上にのぼっていくような、そんな感じにしか考えない。ところが「仏地に樹つ」というのは、落ちなさい、という。
 
山田:  落ちなさい?
 
薫:  落ちたら支えていますよ、と、仏が。「身の事実にたつ」ということは、苦しい、悲しい、いろんなことがある。思い通りにならんことがあるけれども、そこに立ちなさい、と。必ず仏は支えているから心配いらないよ。「落ちなさい」というんです。「下がりなさい」じゃなくて、「落ちなさい」というんです。だから私も亮賢先生も、勿論やぐるって(三河地方の言葉で苦しんでという意味)するけれども、落ち着くところが大地に立つしかない。それを親鸞は「仏地に樹つ」という表現をしてくださったんです。
 
山田:  いろいろいろんな学び直しをされる中で、『歎異抄』の親鸞の言葉がいろんなふうに、かつて思っていたことを越えて自分に響いてきたというふうにおっしゃるわけですね。
 
薫:  最初はわかっているつもりで仏教を学んでいました。ところが実際娘に先立たれてみると、やはり五臓六腑が承知できない我が身があるわけなんです。頭でわかっても、もう一つ我が身がどうしようもない、と。そこにぶち当たった時に、親鸞聖人の言葉は冷たいなあ、とふと感じたんです。なんて冷たい。これ私の苦しみを何とか救ってくださればいいのに、
 
親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。
(「歎異抄」第五章)
 
とか、あるいは、
 
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
存知(ぞんじ)のごとくたすけがたければ、この世の慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々
(「歎異抄」第四章)
 
とか。すえとおらないんだよと。なんと融通のきかない冷たい話なんだ、と。そうしたらその後ですね、『歎異抄』の中に、
 
まず有縁(うえん)を度(ど)すべきなり
(「歎異抄」第五章)
 
と、こう出てきたんですよ。「有縁を度すべし」というのは、すべての人が救われていくように仏は願っている、とこう思っていたんです。「有縁を度すべし」と言って、私と縁のある人がみんな救われていくんですよ、とこう思っていたんです。仏と同時に中村薫と接する人すべて含めて。だけど、それよりも大事なことは「汝一人」ということ。「私一人」ということだったんです。私一人が救われるかどうか、という。つまりみんな救ってくださるそうだよ、というのは、話に終わっちゃっているんです。仏さんの教えってありがたいね、みんな救ってくださるんだよ。ナムアミダブツ申せば、と。それは頭の話であって、それは五臓六腑が承知しなかった。じゃ、私はどうしたらいいのか。私が救われなければ、私の隣の人はどうして救われるのか。まず人を救って、それから私、というかも知れないけれども、それは大事なことかも知れないけれども、そんなこと言っておられなかった。私が救われなければ、どうして隣の人が救われるのか。嘘じゃないかと思いました。私が、どうでもあなたを救いますよ、なんていうのは、そんな救いなんて嘘じゃないかな、と思われてきたんです。「救われる」ということは、先ほど言いましたように、上にあがることじゃなくして、身の事実を引き受けて大地に足をつけて私が歩んでいく。それしか道がないんではないか、と。そんなことを思うんです。ですから私が救われるということが大事なことだ、と。「有縁を度すべし」というのは。ということは、私が道を求めていくことしか綾と出会うことができないんだ、と。だから今救われてあるかどうか、と言われても、救われているよ、と言えば救われているし、救われていない、と言えば救われていないし、ふらふらしている。しかし必ず救われるべき道を今求めているんだ、と。これが綾との出会う道なんだ、という、そういうふうに私は。そして同時に連れ合いとも語り合い、子どもたちとも語り合っていくその世界が、一人が二人、二人が三人と増えていく。それが御同朋・御同行という親鸞聖人の教えでなかろうか、と。ですから歩みですね。
 
山田:  そうすると、綾さんが亡くなって五年が経ちましたけれども、やはり悲しみを感じられたりすることがありますけれども、それはそのこととして歩み続けていかれるということなんですね。
 
薫:  ですから、その五臓六腑の中で、やはり一人で車を運転している時に、ふっと娘のことが胸にキュッと思われてきたり、朝目が覚めると娘のことがふっと思われてくる。これがずっと今でも続いています。それがいけないと言われたら、私は生きていけないわけです。そういうドロドロした私の心でありながら、その私を生かしている仏の教え、それに支えられて、私は生きている、と。それが私の先生の教えであり、仏教の教えであり、私たちの仲間の教えであり、私の連れ合いや仲間の人たちに支えられて、私は生きているんだなあ、と、そんなことを思うわけです。そうすると、綾の死がいろんな人と出会わさせて頂いているということも事実なんです。
 

 
ナレーター:  今、中村さんは自分の悲しみと苦しみの体験を活かして、少しでも多くの人々の役に立てれば、と考えるようになりました。数年前から鬱病学会にも通い、最新の研究を学び続けています。自分と同じような鬱病による悲劇を減らすために何ができるのか。鬱病で愛する人が自ら命を絶った時、残された人々をどう支えていけるのか。一人の宗教者として現代の心の問題に関わり悲しみと苦しみをともにしていきたい。綾さんの死から頂いたご縁を大切にして歩んで行きたい。中村さんはそう願っています。
 

 
山田:  鬱病学会に参加して学ぶということをやっていらっしゃるわけですけれども、宗教者として、どういう可能性があったり、どういうことをやってみたい、というふうに思いになっているんでしょうか。
 
薫:  それは「生老病死」という人間の四つの苦しみをお釈迦様は説かれましたけれども、鬱病というのは病気です、精神的な。そうすると、病気ということは健康であるということと対立していますので、今健康であっても必ず病気になるのが人間である。だから鬱病という病は、逃れられない人間の一つの生き様の中に出てくるわけですから、他人事でなくして、そういう意味でやはり仏教の「生老病死」という四つの苦しみの中からその病というのを一つ受けていくという意味で、私の宗教観というのは仏教に基づいて鬱病を考えていこうということです。
 
山田:  仏教も社会的な問題に強く関わっていくべきだ、というふうに考えていらっしゃるということでしょうか。
 
薫:  そうです。私の先生が、「新聞紙と赤表紙の狭間で教学しなさい」と。「勉強しなさい」とこうおっしゃった。新聞紙というのは現代社会の諸問題です。それと仏教を対比して勉強しなさい、と。
 
山田:  「赤表紙」というのは仏教の?
 
薫:  「赤表紙」というのは仏様の教えが説かれている昔の聖典と言うんです。それが赤表紙でできていましたので、そういう表現をしまして。私は念仏の教えを聞いて喜んでいるから、そんな社会問題はいいですよ、と。そうじゃなくして、社会問題から説かれてくる環境問題とか、平和とか、いのちの問題を自分で聖典に照らして考えていくというのが大事でなかろうかな、という意味で鬱病と私は関係がある。
山田:  そういう考えを実践していらっしゃる一つの場所ということなんですね。
 
薫:  そうなんです。はっきりわかったことは、鬱病というのは百人百色である、と。人それぞれの患者さん一人一人である、と。ですから勿論お医者さんも一人一人に接していてくださると思うけれども、百人、あるいは十把一絡げ的にすまされない。一人ひとりの症状が一人ひとりの問題を持っていますので、そういうきめ細かい接し方をしていくのが大事でなかろうか、と。そして学んだことは、薬一つとってみても、その人に合うか合わないか。あるいはどれだけ飲んだら効果がでるのか。そういう臨床的なこともまだまだこれから勉強していかなければいけないんじゃないかな、ということを感じています。
 
山田:  その中では宗教者が果たしていく役割というのは大いにあるというふうにお感じになっていますか。
 
薫:  はい。私は基本的にブッダ・釈尊はカウンセラーだと思っています。それは精神的、肉体的を問わず、ブッダ・釈尊は一人ひとりに合った法を説いています。これ難しい言葉でいうと、「対機説法(たいきせっぽう)」というんですけれど、人それぞれに合った説き方をしているんです。そういう意味で鬱病の問題もそれぞれに違うということで、我々も一つカウンセラーの中に入っていけるんじゃないか。これは連れ合いも先ほど言っていたかどうかわかりませんけれども、いろんな人たちの悩み苦しみが特別のことでなくして、その悲しみがどう共有できるか。いろんな現代社会の諸問題ってありますけれども、それは他人事として私たちは見過ごしてきたけれども、今こういう綾の死を通して問われてきていることは、「同悲同苦」という言葉でも申し上げましたけれども、少なくとも仏は私たちすべてに悩み苦しみを私が引き受けていくよ、と。下から支えておってくださるんじゃないか、と。そういうことを綾の死を通しながら今感じているんですけれども。
 
山田:  中村さんは僧侶として仏教に携わっていらっしゃるわけですけれども、そういう意味でご自身の関わっている仏教をほんとに深く問い直していくことに繋がったというふうに思っていらっしゃるんですか。
 
薫:  そうです。私は決して体験論者ではないのですので、そういう娘を亡くした親の気持は、その身でないとわからないだろう、と。そういうことでなくして、この娘を亡くした親の気持は、悲しみは、すべて人に共有できる筈だ、と。そういうことを私は一つ感じていますので。で、そういう綾の死を通して、今度その悲しみを、あるいは苦しみを、私は今度公(おおやけ)的に客観的にそれを言っていく必要があるんじゃないか、と。そういうことを感じているわけです。
 

 
ナレーター:  綾さんの死から五年。中村さんの寺には愛する人を失った人々が訪ねて来るようになりました。時には一夜を語り明かし、同じ時間を共にしています。
 

千年: 私、最初の初孫ですからね。もの凄く可愛がって育てたからね。今でも夜になるとね、思い出してね、綾の顔が浮かんでくるんですわ。で、寂しくてね。
 
     これは、平成二十一年九月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである