心のつながる空間≠求めて
 
                        建築家 安 藤(あんどう)  忠 雄(ただお)
 
一九四一年(昭和一六年)大阪市生まれ。母親の実家、大阪市旭区の祖父母に養育されることになり安藤姓となる。大阪の下町の長屋で育つ。中学の時は木工所の職人志望だったが、高校在学中プロボクサーの資格を取得し、バンコクへの遠征を果たす。室内装飾のアルバイトをしながら、一九六五年二十四歳の時八ヶ月間ヨーロッパを旅行、建築を見て廻る。昭和四○―四四年数度、欧州、アメリカを旅行。独学で建築を学び、二十六歳の時に大阪市公園競技設計一等入選。一九六九年、大阪に安藤忠雄建築研究所を設立。コンクリート・打放しという素材と工法を追求。五四年「住吉の長屋」で日本建築学会賞を受賞して、すい星のようにデビュー。五八年には「六甲の集合住宅」で住宅として初めて日本文化デザイン賞を受けた。平成三年ニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開催。イェール大、コロンビア大、ハーバード大の客員教授を務め、一九九七年東京大学教授、二○○三年、東京大学を定年退官して、東京大学名誉教授となる。二○○五年、東京大学特別栄誉教授。主な作品に、直島コンテンポラリーアートミュージアム(香川県)、FABRICA(イタリア)、淡路夢舞台(兵庫県)、ピューリッツァー美術館(アメリカ)、表参道ヒルズ(東京都)、21-21 DESIGN SIGHT(東京都港区)など。また「海の森」に先駆けて、瀬戸内海一帯にオリーブを植樹する「瀬戸内オリーブ基金」を中坊公平らとともに展開。二○○八年、大阪府政策アドバイザー(水都・都市景観分野)。著書に「日本の建築学―安藤忠雄」「建築を語る」「旅―インド・トルコ・沖縄」ほか。
                        ききて 西 橋  正 泰
 
西橋:  大阪の郊外・茨木市の静かな住宅地の中にあります「茨木春日丘教会」、又の名を「光の教会」とも呼ばれています。この教会は建築家の安藤忠雄さんが設計して、今からちょうど二十年前、一九八九年に完成しました。安藤さんは、教会建築を作ることが長く夢だった、と語っています。また安藤忠雄さんは、地球環境問題にも長く熱心に取り組んでこられました。それらはどういう思いからなのか。この教会でお話を伺います。建築家の安藤忠雄さんは、鮮新性(せんしんせい)の表現を期待される教会建築の設計は、建築家自身の思想が問われることになると言います。人の精神に訴える空間をコンクリートの箱で造れないか。そんな思いから光の教会は生まれました。
 

 
西橋:  安藤さん、中に入りますと、コンクリート打ちっ放しのこの正面の壁に、十字が切ってあるわけですね。
 
安藤:  そうですね。
 
西橋:  普通は十字架というと、物で表す教会はありますけれども、この場合は光で十字架を表す、と。
 
安藤:  いわゆる十字架を物で表すよりは心で表したい、と。心は何かというと、やっぱり光なんだ、と。その光の向こうに何かあると。光の向こうに希望がある、ということを考えて、光でいこうと。だからここには直接的な形のあるものではなくて、光がそれぞれの人たちに与える光の与え方は違うでしょう。あの向こうに何か自分は楽しいものがあるとか、自分は辛いことがあるとか、自分はもっと苦しいことがあるのかな、いやあの向こうに大きな夢があるのかな、というようなことを、それぞれの人たちが感じるような教会にしたい、と。
西橋:  でもこれを思いつかれた時というのはどうでしたか。
 
安藤:  でもローマに有名なパンテオンというのがありますね。直径四十三・二メートルの円堂と半球形のドームが載った構造で、この上から光が入ってくるんですね。実は二十代の初めにこれを見た時に、〈あ、形が綺麗だな〉と―一回目はね。二回目は上に穴が開いていますので、〈上から入ってくる光は綺麗だな〉と思ったんです。三回目に見た時に、上から光が入ってくると同時に、その中で信者たちが賛美歌を歌っているのを聞いて、〈ほんとに心に伝えるものは、光でも形でもなく、やっぱり人間の声なんだ。そういうものが総合されていて、人に感じるものが芸術なんだ〉ということを感じましたので、この光の教会も、今の状態は歌っておりませんけども、賛美歌がここに流れた時にじっくりと心の中に伝わってくるような教会になって、あそこに行くとなんか安らげると。そしてあそこへ行くとほんとにホッとすると。そして自分の人生を少し考えるという場になればいいなと思っているんですよ。
 
西橋:  安藤さんは、今はこの十字架はガラスが入っているんですけど、ガラスなしにやろうかと思われたんだそうですね。
 
安藤:  私は、光の教会のこのガラスはないほうが今でもいいと思っています。風が入ってきます。信者さんたちが何を考えているんだと。寒い時どうするんだと。私は寒い時にこそたくさんいる信者さんたちが心を一つにするには風が入ったほうがいいんじゃないかと。物理的には寒い。みんな心を寄せ合うことによって、豊かさがその寒さをどんどん弾き飛ばしていくのではないかと思ったんですが、ダメだというので入っていますが、諦めてはいけませんので、そのうちにこのガラスは取ってほしいな、と。「そろそろ取りませんか」というと、「何を考えているんだ」と。やっぱり諦めずにそれをずっと心に中に持っていないといかんと思っていますので、いつ取れるのかなと思っていますけど。
 
西橋:  ちょっと技術的なことを伺うんですけども、コンクリートの壁というのはベニヤの枠を作って、そこに流し込むわけですね。あそこで切れていますよね。どうするんですか。
 
安藤:  これはやっぱり人間の世界と一緒でね、必ずしもみんな協調して、必ずしもうまく対応して仲良く生きているというふうに表面的には見えても、実は中で葛藤があるでしょうね。家族でも、地域社会でも、会社でも。同じようなものでありまして、これも葛藤があるんですね。上から下りてくる壁は、こちらからも打っていますが、こっちからも打っていると。不安定でしょう。不安定であるけれども、実は安定している形にしなければならない。安定したものは安定していて面白くないですからね。不安定の中にぎりぎりの状態でお互いに助け合って生きている社会を表現したいと。人間の世界もそうですよね。会社って同じ目標で仲良くというわけにいかない。それをぎりぎりの状態で保ちながら前へいかなければいかん。この構造もそうなんですね。不安定な、どうしてあの壁が落ちてこないかな、と思うじゃないですか。それをぎりぎりの構造計算でもっているわけですけれども。
 
西橋:  こういう宗教建築の設計と、それから一般住宅の設計とか、あるいは商業施設の設計という時には、何か安藤さんのお気持ちの中で違うものがおありなんですか。
 
安藤:  商業建築はちょっと別にしますとね、例えば住宅とか公共建築とか、こういう宗教建築、私は同じにしているんです。と言いますのは、この教会は大きな一つの屋敷―大きな家族のための家なんですね。住宅というのは家族が三人、五人、六人ぐらい、その人たちを包み込むものが住宅のように、これは信者のみんなを包み込む屋敷ですから、これは一緒ですね。みんなが迎え入れてくれる場所、そういうものを作りたい。だから今ここのところ十年ぐらいで、ちょうど一九九五年ぐらいからだと思いますが、携帯電話がもの凄い勢いで普及し、コンピューターが普及し、みんな個人の世界を楽しむようになりましたけども、ほんとに個人の世界でいいのか、と。もっとみんなで仲良く対応しながら、楽しい家族関係を作らなければいけないのに、ほんとみんなコンピューターばっかりしている。電話ばっかりしている。五人ぐらいの人たちが―中学生、高校生が電車に乗って来たら、ほとんど喋りませんね。すぐ携帯電話でバアッとやっている。せっかくみんな仲良く同じ歳の人たちがいるならば対話をしたほうがいいんじゃないかと思うんですが、対話はしません。こんなに人間の対話がなくなった時代というのはないですね。これが日本人だけじゃなしに、世界中の人たちの大きな不安に繋がっていくんだと思いますので、できるだけ建物は包み込んで、みんなが対話をする気持になるような場所を作りたいなと思っています。
 
西橋:  ここは百二、三十人ぐらいの方たちが一つの大家族みたいに、少なくともここにいる時は、気持、心を通い合わせながら、少し隣にいる人や前にる人といろんなことを話ながらという、そういう場として、
 
安藤:  そうです。例えば、お寺とか―もともと日本はお寺だったんですが―お寺とか、神社とか、それから西洋は教会とか、そういうところは自分は一人で生きていないんだという、みんなで生きているんだということを体感する場所ですね。心で体感する場所だと思いますので、宗教建築をいくつか作りましたけども、宗教建築と住宅はよく似たもんだろう、と。商業建築はちょっと違うものだと思っています。
 
西橋:  ここは冷暖房はないんですよね。
 
安藤:  そうですね。心寄せ合うのに冷暖房は要らんじゃないかと。暑い時にはみんなで暑い、と。そして寒い時はみんなで寒いから寄り添って生きるようにと思っていますけどね。
 
西橋:  この教会については、後ほどもう少し詳しく伺いたいんですけども、少し育たれた環境と言いますか、歴史と言いますか、おばあさんと二人暮らしがけっこう少年時代から長かったんですね。
 
安藤:  ずっとそうです。生まれた時から。
 
西橋:  すぐおばあさんのほうに預けられた。
 
安藤:  双子だったもんですから、私がおばあさんのほうに預けられて生活を致します。だから私は生まれた時からおばあさんと一緒でした。で、大阪の商人だったんですが、もともと築港の、いわゆる港の方で軍の食料の食材を卸す卸問屋をやっていたんです。戦前、戦中と。だから戦争が終わった後は全部没収されまして。だから行くとこがないという状態の中で、大阪の下町に住むようになったんですね。厳しい生活状況でやっていますね。
 
西橋:  あばあさんの気性としてはどんな方だったんですか。
 
安藤:  もの凄く大きな商売をしていましたからね。なかなか軍の食料を一手に引き受けてやっていた男勝りの人だったもんですから、戦争で全部没収されてしまった。で仕方なしにそこへ行ったわけですけども、非常に気質のある面では激しい、ある面では自立心のしっかりした人でしたね。私はいつも小学校、中学校と、学校へ行って成績はあんまりよくなかった。いつも言うていました、「小学校、中学校行くのに帰ってくる時に本を持って帰って来んと、学校に置いておいて、そこで宿題をして帰って来たほうがいいんじゃないかと。そうしたら毎日運ばんでもいいんじゃないか」と。
 
西橋:  合理的ですね。
 
安藤:  合理的なんです。私は、宿題をして帰ってくる。それから放課後の時間は、自分で自由に野球をする。近所の子と野球をする。近所の人たちと相撲大会をする。魚釣りに行く。その時に私は、子どもなりに子どもたちと一緒に遊びまして、子どもの頃に人間関係を体感します。そして自分が遊ぶということを自分で捜すという自立心も養います。そしてそれで私はずっと祖母と生活しながら物を大切に―これは貧しいからね―物を大切にしなければならない。始末をして、しっかり生きなければならないというのを、ちらちらと横で見ながら、やはり生きるということは難しいということをずっと学んでいくわけですね。祖母から教えてもらったのは、「約束を守れ」と。そして、「責任を持て」と。それぐらいなんですね。成績のことはほとんど言われなかった。「成績悪いね」と。大体五十人中、大体四十番目ぐらいですから、「成績は諦めた。良いのは運動会だけやね」と。特に運動能力がわりと優れていたのかもわかりませんが、リレーをすると最後に来ても一番になる。「安藤さんは運動能力はある」と。運動能力は多分あったと思うんですね。
 
西橋:  それはそうですね。後にボクサーになられますものね。
 
安藤:  「運動能力がある」と言われて、「だから楽しいのは運動だけや。成績は見たくない。けれども、責任感を持って自分の自由に責任を持って生きろ」と言われたのが、ずっと続いていまして、「時間は絶対に守れ」と。これは徹底しているんです。私、今事務所の人に「どの方と出会う時でも十分前に行ってくださいよ」と、「礼儀だ」と。というのは、我々現場の人たちと仕事をしていると、左官屋さん、大工さん、現場監督、いろいろの人たちと、まあ十時と約束しますよね。十分前に行っておかないと、一人遅れたら仕事にならないわけですから。それが我々の事務所の人の一流である人たちの二、三割は、「そんなに約束を守らないけませんか」ぐらいに、遅れる人がおりますね。これでは社会やっていけないです。そのことを教えてもらって徹底的にそこは守ると。そして諦めずにやると。こつこつと諦めずにやるというのは、彼女はこつこつとやらねば生きていけなかったわけですね。だから私はそこで「こつこつと諦めずにやる」ということも学びました。そして同時に学校へ行っても、家に帰っても、一番大事なのは、「読み・書き・そろばん」だと。本を読んで考える。書いて考える。ソロバンというのは計算するということなんですけれども、自分の経済をこのぐらいならこのぐらいと計算すると同時に、自分の人生をソロバンがなければならない。自分はこういう人生を送りたい。そのためにはこういうことをする。今できないけども、社会へ自分が出ていく時に、大きな流れも考えておくという。やはり計画力。計画力がなければならない。それをどういうふうに実行するかという実行力がなかったらいかんと。計画力にも実行力にも創造力がいると。それぞれの人間が同じ能力でありませんので、私は私なりの能力の中で計画しろと。私の能力の中で実行力を発揮しろ、ということを教えてもらって育つわけですけども。下町でしたので周りがみんな貧しいでしょう。すぐ喧嘩が起こるわけです。その時私は自分の意見を言わなければならない、ということを覚えましたね。自分の意見を言う。相手も言う。必ずぶっつかる。喧嘩する。「安藤さんの子ども喧嘩しているで―」いうたら、三日に一回ぐらい。おばあさんがバケツに水を入れて追いかけてくるわけですよ。バサッと水を掛けるわけですが、「喧嘩しているで―」いうたら、安藤さんの子ども。「あの子はよく喧嘩するなぁ」「成績悪いなぁ」「今後どうなるのかなぁ」とみんな心配していましたね。そして高等学校二年生の時に大学へ行きたいと思いましたけども、これは経済的に難しいなというので諦めるんですが、その時私、中学校二年生の時に、私の家を―平屋建ての長屋を二階建てに改造したんですね。その時に初めて私は大工さんの働く姿を見て感心します。この人は昼飯も食わずに一心不乱に働くんですよ。これはこれだけ一心不乱に働くんですから何かあると思ったんです。で、建築家になりたい、と思ったんですね。何かあると。それで大学に行けずに、ならばこちらも一心不乱にやってやる、と思って高等学校卒業した後に、自分なりに大阪大学、京都大学の建築の本を買ってきまして読むわけですね。はっきりいうとわからない。けれども、自分なりに読むので、理解したような気持になりますよね。その時私はやっぱり本を読むということの大切さ。本にはそれぞれ奥行きがありますから、それで哲学するということを、生きるとこを哲学するということをぼおっと学んでいくわけですが、それがそのまま、例えば一九六五年にヨーロッパに旅行に行くんですが、その時初めて本を携えて行くんですが、必要な建築物の下で、その本の資料を読むんですね。わかったような気になりますよね。だから日本でも東大寺や法隆寺に行く時には、東大寺の下で東大寺の本を読む。法隆寺の下で本を読む。私のところに学生のアルバイトがたくさん来ていますので、その人たちに月火水木金と働いて頂いて、土日は自分の研究対象―東大寺なら東大寺と、ひたすら東大寺を勉強する。朝から晩まで東大寺のことを勉強していたら日本建築わかってきますよ。日本建築わかったら日本の歴史も興味持ってきます。そして人間がどうしてこんな巨大なものを作ったのかということにも興味を持ってきますから、広がっていくんですね。小さいところから広げていかなければいかん。そういう面では、その当時の勉強の仕方は今私たちの次の世代に「こういう方法があるよ」と言っていますけどね。面白いのは、大体一日中東大寺の南大門でこう絵を描いたり、本を読んだりしていると、お坊さんが、「何しているんだ」と言うてくるそうです。四回目も五回目も行くと、不思議な奴だなと。泥棒に来たのかな、と思うそうですが、そのうちに意図わかって、まったく見せないところまで連れて行ってくれるそうですね。その時初めて人間関係というのを自分の体で覚えるんですね。今の人たちはコンピューターで情報は全部あると思っていますが、そうはいかないと。そのためにやはり人間を知るためには、私は同じものをジッと見ているうちに、だんだんと向こうも寄ってくる。こっちも寄っていく。そして人間の心を読める、という時に、ひょっとしたらこの不安の社会の中で生き抜けていけるんじゃないかな、と思いますね。
 
西橋:  例えば、「奈良の古いお寺の中には、非常に大胆さと緻密さがある」とおっしゃいますね。
 
安藤:  そうですね。日本の建築物はなかなか大胆ですよ。東大寺も大きいですよね。その大きな大仏さんを覆っているわけですから。そのことを考えたら日本人って意外に大胆さもあるんです。意外と繊細でもあるんですけども、繊細さは桂離宮を代表とする数寄屋作りというような、ああいうきめ細やかなものもあるんですけどね。片っ方で、日本人は墳墓作っているじゃないですか。仁徳天皇御陵みたいな。あれは四百八十メートルあるんです。そのことを考えると、日本人は大胆さも持ち合わせている。繊細さも持ち合わせている。この民族ね、「世界でも類い希な優秀な民族だ」と、あちこちの人が言っているんです。そして明治から大正、昭和、そして戦後に至るこの間は、世界中の人たちが、「日本人凄いぞ」と。何よりも一八六八年、明治元年になっていますよ。明治元年から、あの短い時間に西洋近代化できたというのは、よほど日本の人たちの能力が高かったんだろうな、と思うんですね。だから大胆さと緻密さと両方兼ね備えた民族であるが故に、スケジュール管理もいいし、品質管理もいいし、物作りとしては世界最高だ、と思うんです。しかしこの民族にリーダーがいないです、今。向こうへ連れていってくれるリーダーとよく働く一般の大衆という図式になっていないんです。よく働く大衆と素晴らしい経済感覚を持っているビジネスマンの企業がある。この国どっちへいくの、というのがないと。だから非常に不安定な難しい社会になっていると思いますね。
 
西橋:  お若い頃に、空き地があるとご自分で頼まれもしないのに設計図を書いて、「ここにだったらこういう建物を建てませんか」というふうに地主さんに持っていったりなさった時期がおありだったそうですね。
 
安藤:  二十代の初めからアルバイトで、あちこちの設計事務所に行くわけですが、勿論誰も相手にしてくれない。アルバイトに行くことも相手にしてくれない。何故ならば学歴がない。社会基盤もないと。誰も相手にしてくれない。そして設計をしたい。そして設計についてのお互いに対話をする相手がいない。学校へ行けなかった一番辛いところは、自分の考えている学問、仕事のことを対話をする相手が自分しかいない。大変ですね。片っ方で、仕事は勿論ないと。だけど仕事というのは、今日本人はこういう状況で「仕事がない、仕事がない」と言っていますが、なるほどないんです。しかし、ないのなら、仕事は向こうからくると思っているからないのであって、自分から作ったほうがいいんじゃないか、と当時思っていました。だから空き地があると、「こういう家を作りませんか」「こういうビル作りませんか」と行くわけですが、勿論他人が来るわけですから、「何を考えているんだ」とよく言われました。しかしそういうことがずっと度重なって、多くの仕事をそういう流れの中でやっています。例えば六甲で斜面六十度のところに集合住宅を作った―アパートですね―作ったんですが、これはもともと「フラットのところに分譲住宅を作りたい」という話だったんです。斜面の方が面白いと。難しいことに挑戦したいと。で、絵を描きます。地主の方は、「土地が死に地みたいなものだから、やりたければやってくれ」というのでスタートしていく。隣にまだ敷地がある。「こういうふうにやりませんか」と絵を書く。相手は、「何を考えているんだ」と言われる中で、いろいろの幸運にも恵まれてそれが進んでいって、六甲の集合住宅周辺でいきますと、一九七八年に依頼されて、今年二○○九年ですけども、四期目の病院ができたんです。だから一期、二期、三期、四期と、これができる間に三十年かかっていますね。だけど仕事というのはこつこつ諦めずにやり続ける、と。
 
西橋:  おばあさんの教えですね。
 
安藤:  それはそのまま役に立っていまして、例えば瀬戸内海の島―直島(なおしま)という現在三千人の島。そこでその島を芸術と文化と、それから昔の文化保存されているという意味では、昔の風景が残っている島にしたい、という。これをやり始めて、一期目に美術館を作り、二期目にホテル作って、三期目は小さいギャラリー作って、四期目は地中に美術館を作って、五期目は木造のホテルを作って、今六期目はまた地下に美術館を作るということをしながらですね、実はその横に大阪にあります「桜の通り抜け」がありますね。ああいう通り抜けを瀬戸内海の島々に通り抜けを作ろう、ということを考えたんです。それはちょうど十年前に中坊公平(なかぼうこうへい)さんとで始めたんですが、「瀬戸内海に禿げ山がいっぱいある。それを千円募金でやって、禿げ山を緑にしていこう」という運動をしているんです。その中で島にもっと魅力を持とう、と。手島、直島、小豆島、淡路島、あちこちの島々に桜の通り抜けを作ろうと。
 
西橋:  桜の通り抜けを、造幣局みたいな。
 
安藤:  それで既に手島、直島、淡路島、小豆島に作っているんですよ。で、これも十数年こつこつやりながら、よくやってきているなと。これはボランティアです。だけど仕事というのは、ボランティアであろうが仕事。お金を貰ってやる仕事も仕事。一つずつ丁寧にやらないと。これもやはりおばあさんの教えのうちなんでしょうね。
                         
西橋:  安藤さんのお仕事のいろんなご本などを拝見しますと、難しいことが当然いろんなことでぶつかりますね。そのぶつかった時に、すぐにそれに対応しようというのではなくて、時間をおいて、時間をかけてというところが凄く見られますね。
 
安藤:  新しくやり始めたら必ずぶつかるんですけども、時間をかけてやっていけば、命との勝負だと。今、私、外国でよく仕事をしていますので―アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、韓国、中国、台湾、いろいろしていますが、行く度に大体講演会が待っていますので、講演会をします。講演会の後に大体パーティのようなものがあるんですよ。その時にいつも、「日本はどういう評価が高いか」よく聞くんですね。日本の評価は、前は経済大国だったんですが、今はあんまりそれを言われない。日本の一番評価の高いのは「長寿」なんです。「日本人は何故あんなに長生きして元気なのか」とよく聞かれます。大体女性が九十歳、男性が八十歳で、八十五歳ぐらいの平均。いろいろいますけども、大体。何故そんなに長生きで、元気で、女性は綺麗なのか、と。これはやっぱり男性はダメなんですよ。男性の方が女性よりも社会人間ですから、会社に入ったら課長になったら部長になりたい。部長になったらもうちょっと上にいきたい。売上げと利益ばっかりで生きてくるわけですよ。そして四十、五十ぐらいになったら意識朦朧として、それも疲れてくる。女性は四十歳ぐらいになると、子どもが少し大きくなると、映画へ行こうか、と。そして歌舞伎行こうか、絵を描こうか、書道をしようか、といろいろ考える。そうすると、そこにコミュニティがあるんです。人間関係ができてくるからけっこう楽しいわけです。この好奇心が女性のエネルギーの源なんです。だから日本の女性の評価は圧倒的に高いですよ。「若くて、綺麗で、元気」、そして「厚かましい」これもあるんですけどね。こうであるけれども、元気なんですよ。それはやっぱり好奇心なんですね。私たちは、日本人の良さは好奇心。何からきているかということを考えますと、江戸時代から文化度が高かった、民族の。歌舞伎、浮世絵、文楽、俳句、こういうものをずっと学んできたわけですね。この隔世遺伝で日本の経済力があると思うんです。物を作る時のセンシビリティの高さというのはやっぱりここにあるんですね。で、女性がもの凄く好奇心旺盛ですから。日本の女性、大体七十歳で―大体八掛けぐらいですね、五十五歳ぐらいに見える。六十歳の女性が大体四十五ぐらいに見える、と。これはやっぱり凄いことだと思うんです。そして長生きをするためにどうするかということを考えると、好奇心を持ち続けないかん、と。「あそこの桜が綺麗だ。桜見に行こう」とか、「梅がいいぜ、行こう」「今度新しい映画面白いよ、行こう」と。そういうようなことを友だち同士で行くわけですよ。男性はそんなのないですよ。会社人間ですものね。それで六十歳の定年の時に、男性が帰ってきた時に、女性の方は不安になってきます。このお父さん、ずっと毎日おるのかな、と。長生きで幸せ人間のためには、四十歳ぐらいからしっかりと好奇心を持って生きない。男も積極的に。そうすればこの美しい自然の中で生きてきたら長生きしますよ。だけどこの美しい自然を破壊してきていますからね。私は、そういう面では、例えば「瀬戸内オリーブ基金」とか、東京湾に「海の森」作ろうとか、というものも含めて意識を変えていかなければいけない。自然と一緒にいるんですよ、という意識を少しね、そこに関わりたいと思うんですね。
 
西橋:  安藤さんは長くそういう環境問題にも取り組んでこられているんですけれども、「建築を消耗品と考えるのは間違いだ」とおっしゃいますね。
 
安藤:  建築というのは、やっぱり資源、エネルギー、食料がなくなります。減ってきています。だから一回作った建築は、せめて百年、二百年保ってもらわないと。それを再利用、再利用しながら使っていかないと。そのためにはガッチリした建築を作らないかん。ガッチリというのは考え方がガッチリした建築。どういう建築にしたいか、という建築を作っておかねければなりませんし、それをみんなが丁寧に手を入れて―昔なら一年に一回大掃除していたでしょう。戸を開けて風を通して、畳を上げて、そうしないと建築は長持ちしないです。この光の教会ももう二十年経っていますが、全然問題ないですね。これは信者の方々が手入れをされている。手入れをしているうちにその建築に愛情を持ってくるじゃないですか。そしてまず手入れをする。だんだん時間が経ってくると、あ、あの建築の中で自分は坐ったと。よしまた久しぶりに大阪へ帰って来たから教会へ行きたいな、と。そういう故郷にしないかんです、建築は。建築を故郷にしないかんし、家も故郷にしなければいかんのならば、百年二百年保たないと故郷にならないですよね。私はそういうふうに思い続けて作っていますから、例えば京都と大阪の界に「大山崎山荘美術館」というのを作ったり、上野に「国立子ども図書館」というのを作ったんです。それからこの間横浜で「気象台」を、大体百年ぐらい前の建物の再利用です。再利用することによって、自分たちが心の中にある風景と、もう一つ新しい風景を入れることによって、建築って生き物だなあ、と。そして自分も生きているんだなあと、生きているのは楽しいな、ということを実感して頂くためにできるのは、我々それぐらいかと思っていますけどね。
 
 
ナレーター:  光の教会は、心の拠り所としての新しい教会の完成を願う信者たちの熱意と誇りを持って仕事に臨んだ建設会社の情熱とで設計図取りに出来上がりました。
 

 
西橋:  光の教会ですけれども、さっきも冷暖房使うとか使わないとかということでは、ここの信者方たちとか牧師さんたちとのいろんなぶつかり合いもその過程ではあったわけですね。
 
安藤:  勿論我々が提案することは全部通るわけではないんで、だけどしっかりとお互いに話をして解り合わないといけないと思うんですね。それは解り合って作りましたからね。
 
西橋:  予算の問題もありますよね。
 
安藤:  ここはほんとに予算ぎりぎりですので、建設会社の社長さんが、どうしても作りたい。ほんとは屋根なかったんですよ。
 
西橋:  えっ!
 
安藤:  コスト的にいうと。私は屋根がなかったっていいと思ったんです。屋根がないなら屋根を作る費用を集めてくるまで傘差してここでやったらどうかと思ったんですが、建設会社の社長さんが、「屋根は私の寄付で作るんだ」と、作って貰いました。同時に「こういう材料を入れたらどうか」と。これね、工事用足場板なんです。工事用の足場板です。非常に安い。勿論強い。床板もそうなんですね。だから信者の方々がいつも塗っているわけですよ。いつもじゃない、半年に一回ぐらいね。そのことによって、自分たちのものを自分たちで手入れする。手入れは今はすぐにメンテナンス屋とか、清掃屋とか業者にやらす。自分たちのものは自分たちでやったほうがいい。やっていい理由は、少し疲れるけれども、自分たちのものだということを身近に感じる。これは非常にロウコストのもんですが、ザラザラしているでしょう。今つるつるピカピカなんです。本来的に心に残ってくるのは、ざらざらしたもんです。心に残る人間って、ピカッとツルッとした人残りますか。ちょっとザラザラしているなと、あの人間は。このザラザラしているということが大事ですね。ゴツゴツしている。こういう中でこの建築もゴツゴツしている。ザラザラしている。人の心に伝わってくるというものが、宗教建築のあり方なんだと思っていましたね。
 
西橋:  「質素」ということが一つのキーワードだそうですね。
 
安藤:  そうですね。やはりこの建築だけでなしに、いくつかの建築、いわゆる宗教建築は質素でなければならないと思っていますね。
 
西橋:  それはヨーロッパの中世のロマネスク建築の修道院とか、
 
安藤:  みんな質素ですよ。例えばいわゆるロマネスクの教会なんか特に質素で、信者が自分たちの力で作っていくわけですね。石を積み、モルタルを盛り、石膏塗りやっていくわけですけども、本来自分たちの住まいは―教会も住まいですから、自分たちで作る、というものなんですね。ここでもそういうような考え方で作りましたね。
 
西橋:  愛着も湧く。それから安藤さんがおっしゃるのは、「建築というのは成長するんだ」と。
 
安藤:  そうです。
 
西橋:  「老いてもいくけれども、成長もしていくんだ」というふうにおっしゃいますね。
 
安藤:  やっぱり自分たちの教会なら膨らましていかなければならない。力強く。それは自分たちが手を入れると。
 
ナレーター:  一九九一年に完成した水御堂(みずみどう)。淡路島にある本福寺(ほんぷくじ)の本堂で、蓮池の真下がお堂になっています。安藤さんは設計に当たって「お寺とは何か」から考え始め、人が集まり、心の豊かさを感じられる空間という思いに達したと言います。
 
安藤:  信者の人たちがともかくお寺に人が来ない。人が来て心の拠り所にしたい。当たり前ですね。たしかに来ないんですよ。「どうしたら来るか」と。「魅力的にしたい」と言われたんで、考えまして、普通のお寺は大きな屋根がありますね、大屋根が。シンボルの、ほんまに権力の象徴みたいなものです。これは止めたいなと。それで巨大な楕円形の十メートルの水盤を作りまして、その中に入っていくと。だからシンボルは蓮だと。それを池にして、蓮の花をいっぱい咲かしたほうがいい。それで仏教の原点が蓮ですから、仏教の原点の蓮の中に入るお寺を造りたい、と思ったんですね。それを信者の人たちに集まって頂いて説明します。この時、私、やっぱり日本の国だなあと思いました。大体新しいことですから、それをお寺の上は屋根が全部水盤ですから、その下に本堂があるんですから。大体新しいことをすると、普通は三十パーセントぐらい賛成、三十パーセント反対、四十パーセントはどっちでもいい、というのが多いと思うんですが、その時はビックリしましたね。全員反対と。ダメなんだろうと思っていましたところ、ちょうど京都に真言宗本福寺の本山がある。そこに九十歳を越える有名なお坊さんがいまして、そこに聞きにいこうと。立花大亀(たちばなだいき)和尚という人に聞きに行こうと。聞きに行きましたところ、「これはいい」と。「何故ならば仏教の原点の蓮の中に入るというのは一番良い姿だ。自分も冥土へ行く前に見たい」というて、二、三人の檀家代表に話をしたんです。そうして次の会にもう一回また同じ三、四十人の人たちにお寺に集まって貰いました。今度は雰囲気違うんですね、入ってきて。「いや、お寺に蓮は面白いぞ」とか、「水があったらいい」とかね。おかしな雰囲気だなと思って、「如何ですか。今度はどうでしょうか」と。全員「賛成だ」というんですよ。私は、「あなた方、この間全員反対だったんじゃないか」と。「いや、それは安藤さんの空耳じゃないか」と言われまして、ムッときたので、「漏るかもわからんぞ」とこう言ったら、「新しいことに挑戦しているんだから、少々は仕方がないんじゃないか」と言われて。まあそれで出来上がったわけですね。このお寺の中に入りますと、西側から西日がズーッと西方浄土で光が入ってくるんです。部屋の中が真っ赤に仕上げられていますので、それと乱反射して、部屋の中が真っ赤になっていますが、これについてはもともと重源(ちょうげん)というお坊さんが鎌倉時代にいまして、これは東大寺南大門を作ったり、兵庫県の小野というところに浄土寺浄土堂(じょうどじじょうどどう)というのを作った。その浄土寺浄土堂は西から光が入ってきた時に、部屋の中が真っ赤になるんです。我々のアイディアは必ずしも全部自分たちの創造ではないんですね。原点があるやつもあるんです。原点を自分たちで咀嚼しながら自分たちの世界に作りあげていかなければいかん。浄土寺浄土堂というのを何回か見に行きながら、やはり昔の人は凄いことを考えておったんだなと思いまして、今度は西方浄土にします。物を作る時に、ある面では豊かに生きるユーモアも要りますよ。豊かさの中に、日本人はユーモアというのがないんですね。私はそういう面ではユーモアもここで作りたい。そして人が集まってきて対話もしたい。そして「蓮の花が咲いた」と言って、みんなが集まる。そして蓮がちょっと萎んでいる頃にはちゃんとメンテナンスをする。そしてみんなで自分のお寺を守る。そういう中で豊かな心の社会があるとするならば、今、日本の人たちは不安いっぱいです。ならば、自分で不安をサポートする心を養え、と。自分で不安を豊かにするような行動をしろ、と。日本人は行動しなければならないです。まず動くと。
 
西橋:  阪神淡路大震災の震源のもうすぐ近くだったわけですけれども、完成して四年後に震災ですよね。で、何ともなかったんですか。
 
安藤:  一九九五年一月十七日の震災の後、二日後に見に行きました。びくともしなかったですね。そして水が漫々とありますから、近所の人たちには、震災後に役に立ちましたね。生活用水に汲みに行きますから、お寺はよかったなと。お寺に全然関係ない人がいっぱい来るわけですね。その面ではお寺というものは、教会というものは、その地域のやっぱり心の支えにならなければならん。あれがあるから、自分たちは豊かに暮らしていけるんだ、と思えるような場所をね。これはヨーロッパでいうと、広場であり、教会なんですが、日本でいうと、神社とか、鎮守の杜とか、それからお寺なんでしょう。それをもうちょっと我々忘れてはいけないなと思っていますね。
 
西橋:  安藤さん、宗教建築なんかの場としてはお互いに支え合っていくということは勿論あるけれども、その前提として、「個々人がきちっと自立していないといけない」ということもおっしゃっていますね。
 
安藤:  そうです。やっぱり責任感のある子どもを育てなければいかん。責任感と言ったら、もともと日本に来たラフカディオ・ハーン(小泉八雲(こいずみやくも))という人が日本に来て感動するのは、「家族の愛情が深い。地域社会をしっかり守っている。自然をしっかり守っている。こんな素晴らしい民族ない」と言っていますが、この原点はやっぱり個人の自立なんです。自立した個人同士が家族を支える。その時に今非常に不思議な感じで、仲良く見えるような形の家族に見えるけども、実際には自立しておりませんから、俺たちはやっぱり親に養って頂いた時間は、親を自分たちがサポートしていかなければならない。親に世話になった時間は自分たちがしっかりとおじいさん、おばあさんを面倒見ていくんだ、というところに、一つの自立心と一つの自分が生きていく力になると思うんです。何から何まであるから、そういうことがないもんですから、なかなか生きる力になっていないんですね。生きる力がない人間が新しい世代を築けるとは思えないですね。そのためには子どもの頃からしっかりと自立して、自分で何でもやれるようにと。私は、おばあさんと一緒だったですけれども、小学校六年生の時、扁桃腺の手術をする時に、「歩いて三十分の病院に行って来い。一泊して泊まって来い」と。保険証貰って、お金貰って、一人で行きましたね。おばあさんに、「私が行って、痛いか。どうやと聞いても仕方がない。そこに医者がいる。だからしっかり医者の意見を聞いてやれ」と言われてね。バサッと血が出るわけですよ。子どもやからね。その時にやはり自分で生きていかなければならない、ということを覚えましたね。やはり深い愛情というのは、自立した個人を親が子どもに、自立した個人を作るための時間です。
 
西橋:  安藤さん、今世界のいろんな人たちと一緒にいろんなお仕事をなさっていますけれども、その中の一つで「プンタ・デラ・ドガーナ」というイタリアのベネチアの古い海の税関の建物を再生するというお仕事をされましたね。
安藤:  これね、十五世紀の税関なんですが、海の税関ではもともとイタリアの最初の税関なんですけれども、サンマルコ広場の真ん前にありまして、税関を六、七十年間使っていませんでしたので、再利用して美術館にするというコンクールがあって通りまして、美術館にしたんですけども、これもイタリアのことを我々はあまり知らない。ベニスのこともまったく知らない。どうしてやるか、と。実は十数年前からイタリアで仕事をした時に、このイタリアで仕事をするならばイタリアのことをよく知っている歴史家、材料のことをよく知っている、構造のことをよく知っているチームを作ります。イタリアのチーム。我々の日本のチームと本当に本音をしっかり言って付き合う、と。自分の意見をしっかり言う、向こうの意見もしっかり聞く、というチームを作りました。それがいくつかのイタリアの仕事をしてくれていたわけですが、今回もそのチームが、例えば「あの梁(はり)ちょっとどうしようか」と。「あの十五世紀の梁ならば、古材バンクで売ってるぞ」と。古い材木のバンクがあるわけですね。「あの屋根の瓦ならあそこにある」と、よく知っているわけですね。そういう人たちがいてやれるということは、仕事というのは一人でできない。家族も一人でできない。チームというのがいると。このチームを作っておいたお陰でイタリアの仕事ができているんだ、と思うんですね。私たち事務所も大体三十人弱ですけれども、ひたすらチームを作る時どうするか、と。私の役割は、若い人たち―まあ言ったら二軍ですね。二軍をどう鍛えるか、と。上の人は慣れていますから、二軍をどう鍛えるかと。こういう人たちと徹底的に話をする時間を大切にしていますね。その人たちの中から良い奴を引き上げて、自分たちのチームの一員にすると。チーム作りがうまくいかなかったら次の仕事ができないですから。これが今日本の社会で出来ていない。チームがない。全部コンピューターとメールで付き合っていると。これはチームになりにくいと、私は思うんですけどね。「いや、メールで付き合っておりますから」という人も私の事務所にいます。そろそろあれは辞めて貰わなければいかんな、と思っています。
 
西橋:  「プンタ・デラ・ドガーナ」ですけれども、十五世紀の建物を一応外枠としてはそのまま残したわけですね。
 
安藤:  補強してね。
 
西橋:  何か古いレンガなんかも一枚一枚古いのを別のところから持ってきて入れ替えて、それで補強して、かつ現代美術館ですよね。安藤さんの現代美術館としてのこの塊をはめ込むようなこともなさった。
 
安藤:  中にね。だから、普通建築作るというのは、例えば敷地があって木があると、それを気にする。隣に建物があるとそれを気にしながら作るわけですが、その時は十五世紀の森がある。その中に現代建築を作る。だから十五世紀の古い建物は森だと。その中に作ると。だから森を傷めないように作りまして、出来上がったんですけども、出来上がるまでの過程は大変でしたね。チームがあったから、その人たちがチームで。だから今我々韓国、中国、台湾等でもやっていますが、仕事を引き受ける前にチームができるか、と。台湾のチーム、韓国チーム、我々のチーム。チームが出来ないとできませんからね。そのためには人間力を磨いておかなけけばならない。相手と人間と人間の対話ができる人間を磨いておかなければならない。人生九十も九十五年もいくんじゃないですか。これをちょっと見て頂きたいんですが、サミエル・ウルマンというアメリカの詩人の「青春」という詩なんですが、












 

  「青春」
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは怯懦(きょうだ)を退ける勇気、
安易を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二○歳の青年よりも六○歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。

 












 
この人は、「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう」と。例えば六十歳の人に青春があることもあると。「歳を重ねただけでは老いないけれども、理想を失った時に初めて老いるのだ」と。だから「お前は生涯大阪から青春の見本でいけ」と、たくさんの経済人の人たちから言われました。佐治敬三さん、朝比奈隆さん、いろいろな人たちから言われましてね。「青春というのはこういうもんだと。理想を持ち続けろと。そうしたら九十歳でも九十五歳でも自分が何が社会にできるか。自分に何ができるかということを考え続けろ」と言われて、これを頂いたんですけどね。
 
西橋:  理想を失う時、初めて老いる、と。
 
安藤:  だから年齢ではないんだと。七十歳の青春も、八十歳の青春もあると。老いないために、二十、三十、四十代に勉強しろと。歩けと。ということは、歩いて物を見る。歩いてものを聞く。歩いて人に会う。そして自分一人で生きていないことをしっかりやれ、と。こう言われたんで、彼らに私は叱咤激励されながら生きてきたんで、大阪で生きてよかったなと思うのは、この学歴のない人間にチャンスを与えてくれた大阪、この社会基盤のない人間に仕事というか、心を広くチャンスを与えてくれたお陰で、自分が自分なりの理想を失うことなく、ここまで生きてこられたな、と思っているんですけどね。
 
西橋:  それはやっぱり大阪人、関西人の人たちのもっているある歴史的な気風みたいなものがあるんですかね。
 
安藤:  あったでしょうね。例えば江戸末期の緒方洪庵(おがたこうあん)的塾から始まってですね、ずっと大阪の人たちの気概がそこにあるので、例えば中之島に公会堂を寄付した人たち、図書館を寄付した人たち、橋を寄付した人たちの大阪に対する愛情というよりは、人間が生きている場所というので、私はいわゆる「平成の通り抜け」みんなで作ろうというのを考えて、「一万円募金ですよ」と言って―一本の木が大体五万円。三十年のメンテナンスで十万円。一本十五万円でいけると。三千本で四億五千万でいけると。とにかく四万五千人集める、と。ひたすらみんなに頼み込みまして、やる時にいろんな人たちが教えてくれます。「難しいぞ」と言いながら、塩川正十郎(しおかわまさじゅうろう)という人が―政治家を辞めているからいいと思うんですが、彼は九百人集めました。どうして九百人集めたかというと、五人ぐらいで会議するでしょう、食事なんかする時に、「平成の通り抜け≠ヘ面白いと思うか」と訊く。面白いと思うと、彼は申し込み用紙が出てくる。彼には言うことと、現実的にそれをどうして実行するかということと似たものがありますね。忍耐強く九百人集めてくれまして、この間塩川正十郎さんに、「直島に塩川さんの銅像でも建てましょうか」と言うたら、「安藤さん、どうもおれは死なんような気がするで」いうて。そういう人たちがただ元気に生きている間に、この国の豊かさはどういうことなんだということをしっかりと考えければいかんのではないかと思っています。
 
西橋:  「平成の通り抜け」もそうですけれども、その他にも安藤さんは地球環境の問題に長く取り組んでこられて、阪神淡路大震災の後では、「兵庫グリーンネットワーク」という白い花の咲く木を植えようと。鎮魂の思いも込めて。それからまた東京で「海の森」とか、「緑の回廊」とかいうことも提唱しておられますね。
安藤:  東京「海の森」は千円募金で五十万人集めようと。ちょうど百ヘクタール、三十万坪でゴルフ場十八ホール分なんです。この大きさは。ゴミの山なんです。ゴミと産業廃棄物です、もともと。それをゴミを出さない運動の原点に、ゴミを出したところを森にすると。この森の大きさはちょうど明治神宮と同じ大きさなんです。神戸と同じ大きさなんです。だから日本人が出したゴミの山をみんなで森にすることによって世界中からゴミをなかなか出さないような運動の拠点にしたい、というので、ずっとやり始めて四万人近くいっていますね。よく集まるんだなあと思っていますが、そういう中でこれは意識を変えていこうと。大切な自然を守る。そして大切な自分たちの地球を守るという意識を子どもたちに植え付けていかなければ、この地球―もともと我々の学生時代は三十億でした。今六十七億です。九十億なろうと。資源、エネルギー、そして食料がなくなっていきます時に、共に生きていくために何をするかということを考えながらやっていますけどね。知識と情熱と両方なかったら、この地球で生きていけない。その人たちが九十歳、百歳まで元気よく生きていける地球ができればいいなと思っていますけどね。
 
西橋:  「単に木を植える植樹だけが大事じゃないんだ。その育てていくということが大事なんだ」というふうにおっしゃっていますね。
 
安藤:  そうです。何でも育てなければならんですね。子どもを生んだら育てる。木を植えたら育てる。育てることに責任を持つ。でないと、今生んだ子どもを育てられないから殺すんじゃないですか。そういう社会になってきた日本の国をもう一回復活させたいですね。ちょうど一九五○年代に日本の国が廃墟と化したところ―東京、大阪、名古屋にきた外国人の商社マンとか、外国人の外交官が「日本は必ず復活する」と言っていました。何故ならば子どもの眼が輝いていると。大人がよく働くと。これはもう一回思い出さねばいかん。今は子どもの眼は死んでいると。学校だけが目標だと。そういうのもそろそろ考えておかないかんと思っています。
 
西橋:  六十八歳、安藤さん、これからの青春、どんなことを考えていらっしゃいますか。
 
安藤:  大阪でチャンスを与えてくれた人たちがいて、私が仕事ができていますので、彼らに叱咤激励されたように、これからサミエル・ウルマンのいうように、ともかく自分ができる範囲のことはしっかりやりたい。青春を生き続けるということは、自分が目標を持つことなんだ、と思っていますけども、幸い大阪人は温かい気持を持っていますから、その人たちと大阪から全アジアに向けて、なるほどいいな、というようなこと。なるほど青春はあるぞ、というふうになればいいなと思っていますけどね。
 
西橋:  まだまだ青春が続きますね。
 
安藤:  もうちょっと頑張りたいですね。ともかく生きるということは面白いということをいろいろな人たちに少し伝えられたら有り難いなと思っています。
 
西橋:  今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十一年十月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである