究極の悲しみ≠ノ寄り添う
 
                日本グリーフケア研究所所長 高 木(たかき) 慶 子(よしこ)
熊本県生まれ。聖心女子大学文学部心理学科卒業。上智大学神学部修士課程修了。博士(宗教文化)。現在、聖トマス大学客員教授。「生と死を考える会全国協議会」会長、「兵庫・生と死を考える会」会長。援助修道会会員。十数年来、ターミナル(終末期)にある人々のスピリチュアルケア、および悲嘆にある人々の心のケアに携わる一方、学校教育現場で使用できる「生と死の教育」カリキュラムとビデオを制作。幅広い分野で全国的にテレビや講演会などで活躍中。著書として、「死と向き合う瞬間-ターミナル・ケアの現場から」「大震災-生かされたいのち」「喪失体験と悲嘆-阪神淡路大震災で子どもと死別した三四人の母親の言葉」など多数。
                き き て         西 橋 正 泰
 
ナレーター:  多発する災害や事件・事故。貴いいのちが失われることも少なくありません。思いがけない事態で突然愛する家族や親しい友人を失った人々の心には、深い悲しみが残ります。この「深い悲しみ・悲嘆」は「グリーフ(grief)」と呼ばれますが、容易に癒されるものではありません。カトリックのシスター・高木慶子さんはこのグリーフに苦しむ人々に長年寄り添い、そのケアに当たってきました。今年そのグリーフに専門的に取り組む組織として「日本グリーフケア研究所」が発足。聖路加(せいろか)国際病院の日野原重明(ひのはらしげあき)さんを名誉所長に、高木さんが所長に就任しました。今回の「こころの時代」は、グリーフの苦しみとグリーフを癒す取り組みについて、高木慶子さんに伺います。
 

 
西橋:  高木さん、ここは六甲山の麓ですけれども、大震災の時はここ(援助修道会六甲修道院)で被災なさったんだそうですね。
 
高木:  はい。ここの二階に私はおりましてね、で、お隣のお家が全壊で、そこのご主人さまも亡くなられたんですけどね。お隣の家が潰れて、ご主人が亡くなる。で、私どもがここに八人おりましたけれども、誰も大きな怪我もなく、元気でいられて、家もちゃんと残った、というのがとても不思議でございますね。ただ生かされたんだなあ、という思いでございますね。
西橋:  ほんとに死と隣り合わせという状況にあったわけですね。
 
高木:  そうです。
 
西橋:  その後震災でご家族を亡くされた方たちの心のケアとか、魂のケアということをずっと高木さんはなさってこられたわけですけれども、そういう体験も通して、今回はその「グリーフケア」というお話しを伺いたいんですが、その「グリーフケア」というのはそもそもどういうことなのでしょうか。
 
高木:  「グリーフ(greif)」という言葉は英語ですよね。日本語では「悲嘆」とか、「強い悲しみ」とかという言葉、これが日本語になるとそうだと思うんですが、その「グリーフ」というのにはいろんな意味がございますね。例えば喪失体験―いろんな喪失がございますね―喪失体験の中でもっとも人間の心に深い悲嘆を残すと言われるグリーフの中にはやはりご家族を亡くした後ですよね。ご遺族の悲しみ、それが悲嘆の主なものだ、と言われるんですが、私は悲嘆―ご家族を亡くされた方々、ご遺族の悲しみだけではないと思っております。例えば健康で、例えば足をなくされたり、あるいは女性の場合は子宮とか、あるいはお乳ですね―乳ガンでなくされたり、こういうのもとても大きな喪失体験でございますし、今言われているリストラですね―これは自分の仕事をなくす、あるいは倒産してお金がまったくなくなるとか、その方にとって大事だと思ったものを失う喪失。それの結果、感情として残るもの、「悲嘆・グリーフ」と言いますね。ですからグリーフの中で、先ほど申し上げたように、家族を亡くすことは一番喪失体験の中で悲嘆が深いということは言いますが、それだけでもない、ということでございます。
 
西橋:  その悲嘆をケアしなければいけない、と。ほったらかしておいたらいけないんだというところから「グリーフケア」という考え方が出てきたわけですか。
 
高木:  はい。「グリーフケアを必要としている方々は、何故いらっしゃるんですか?」というご質問を受けるんですけどね。それは日本の社会の変化だと思います。例えば私自身がグリーフケアに携わっておりまして、もしかしたら五十年前、三十年前はこういう方々はちゃんとご自分の悲しみを乗り越えられたんだろうと思うんですね。それはどういうふうにして乗り越えられたか、と言いますと、日本の社会は戦前・戦後も大家族でしたよね。そこにはご自分が結婚して嫁いだとしても、そのお父様お母様がいらっしゃって、そしておじいちゃまやおばあちゃまがいらっしゃって、何家族もご一緒に生活していた。そうしますと、例えばどなたが亡くなろうと、お互いに癒す関係があったんじゃないかと思うんです。
 
西橋:  お互いに癒し会える。
 
高木:  ええ。例えば若いお母様が自分の子どもを亡くした場合には、おじいちゃまやおばあちゃまが、「ちょっとちょっとね」って肩を叩きながら、「僕もこういう経験があってね」とか、おばあちゃまが、「私もこうだったのよ」とお話しをして頂くことによって自分の悲しみ苦しみをお話する。で、その話を聞いて頂きながら、涙を流しながら癒されていくという。そしてまた地域社会があったと思うんです。「向こう三軒両隣」ということを言っておりましたけれども、その向こう三軒両隣の中にはお世話焼きの好きなおじいちゃまやおばあちゃまがいらっしゃったと思うんですよね。そういう方々が、「どうしたの? お茶でも一杯飲んでいかない」と言って、そこが癒しの場だったんだろうと思うんですね。ところが今の家庭では核家族になって、ご両親とお子さん―一人、二人、三人ぐらいですよね。家族が少ないというのは非常に関係が蜜になります。例えば五人家族の中でお一人、どなたかが亡くなられると言いますと、この密度の濃い人間関係の中で一人がいらっしゃらなくなるということは非常に辛いんですね。お淋しい。じゃ、大勢の時に家族があって、で、一人亡くなるのは、それは淋しくないの?。淋しいんですね。では、癒し人がいたということ、ここになりますと、三人四人の家族で一人が亡くなるということは人間の密度―精神的な関係であっても肉体関係であっても広い空間ができてまいります。そしてお互いに家族の中で癒しあうこともできない関係―緊張関係になって、お互いがあまりにも辛くって、そして今度地域社会をみますと、マンションですと、お隣にどなたが住んでいるのかわからない。そういう社会的な変化というんでしょうかね、関係の変化が、やはり第三者がそこに入り込んでケアをする、また入り込んでほしいという方が増えていらっしゃったんじゃないかと思いますね。
 
西橋:  私たちがよく気軽に悲しんでいる人に、「いつまでもそんなめそめそしていないで早く元気出しなさいよ」というようなことを気軽に声を掛けたりしますよね。そういうのはどうなんですかね。
 
高木:  気軽に声を掛けて頂くのは非常にいいんではないかと思うんですが、その関係性ですよね。どういう関係であるか。例えばほんとに信頼しあっているお友だちとか、あるいはご親戚とか、ほんとに信頼がなりたっている関係で、「めそめそするんじゃないよ。しっかりね」という言葉には、ほんとに温かいものが流れるんですね。ところが多くの場合に、ただただ励まそうとして、「もう一年になっているじゃないの」とか「二年になっているじゃないの」とか、あるいは、「もう元気そうな顔をしているわね」ということを、関係が薄い方が気軽に言ったら、それは傷つくんですね。「私も傷つきました」という方を大勢存じ上げていますけれども、「ほんとに勝手なことを言って、私の気持ちなんかわからないくせに」ということをおっしゃいますね。ですから私は、人様に声を掛けるというのは、その方がどのくらいの関係、あるいは距離と言うんでしょうか、近い距離の場合には何を言ってもお許し頂ける。何を言ってもそれが相手に心優しいものになる。でも距離がとってもある方がどんな優しい声を掛けても、受け止める方は「辛いわね」ということになるんじゃないか、と思うんですね。そして悲嘆の方というのは、お一人おひとり違います。ですから、「こういうふうな声を掛けたらいいんじゃないか」というマニュアルがまったくないと思うんですね。ただ私が、先ほど出てまいりました大震災で、子どもさんを亡くされたお母様方だけに、三十四人の方々に三年半後にアンケートを取らせて頂きました。そのアンケートは、「今、三年半後にどういうお気持ちですか?」ということを、ご自分のお気持ちを書いて頂く。その中に一つの項目で、今まで他の人々から「して欲しくなかったこと」と、「して欲しかったこと」を書いて頂いたんですね。そこではっきりわかるのは、同じことでも、「この方は嫌なんだ」「この方は嬉しかったんだ」ということが出てくるんです。ですからやはり「頑張って」というのは、「言って欲しくない」とおっしゃるんですが、そのお友だちが「頑張ってね≠ニ言われたのがとても嬉しかった」という方がいらっしゃるわけですね。そして「嬉しい」とおっしゃった方は、例えば子どもさんを亡くし、ご自分が今までできていた日常生活がおできにならない方が多いんですね。お食事を作ることも、お掃除もすることも、お洗濯することも、もうほんとに身体が動かなくて、しなければならないと思ってもできない。そういう方々に、例えば「御豆を炊いたから」と言って、そぉっと裏の方に置いて、「この器もいいのよ。召し上がって」と置いて頂くとかね、綺麗なカードを書いて「お返事はいらないのよ」とか、そういうものが非常に嬉しかったとか、いろんなことがありますが、やはり「して欲しくない」ということの中には、「お元気になられたわね」とか、新しくお子さんがおできになった方に、「前のお子さんの生まれかわりね」とか、もの凄く嫌がられるんですよ。
 
西橋:  励ましているようなつもりで言うんだけれども。
 
高木:  ええ。お声を掛けるというのは非常に難しいと思いますし、やはりその方との関係がわからない時に、私も安易に「こういうことをして差し上げたら」とか、「こういう言葉だったらお喜びなるんじゃない」ということは言えません。
 

 
ナレーター:  高木さんは敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。キリスト教の信仰は十三代前の先祖からと伝えられ、フランシスコ・ザビエル(スペイン生まれのカトリック教会の司祭、宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。ポルトガル王の依頼でインドのゴアに派遣され,その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である:1506-1552)の時代にまで遡ります。曾祖父(そうそふ)の高木(たかき)仙右衛門(せんえもん)(1865-1899)は幕末から明治初期に行われたキリスタン弾圧で迫害を受けました。仙右衛門は自ら体験した拷問などの様子を覚書として残し、今に伝えられています。高木さんは曾祖父・仙右衛門の覚書を読み返し、厳しい弾圧を受けてさえ神を信じ、ますます豊かになっていく仙右衛門の心の動きに感動したということです。
 

 
西橋:  高木さんが、一九九三年、五十七歳の時の著書に『高木仙右衛門覚書の研究』という著書がございますね。仙右衛門さんから何か精神の面で受け継いだものというか、そういうことがおありなんでしょうか。
 
高木:  はい。私が仙右衛門の覚書を読んだのはもう随分後のことでございました。でも仙右衛門―私にとって曾祖父となる関係ですから、父から仙右衛門については聞いておりました。父はお祖父さんである仙右衛門さまには会っていないんですが、ともかく私たちに語る時の父は、とっても真剣な顔をして、「お祖父さんのような生き方は今できないな。ほんとに神様だけがすべてだった」という言い方をしていました。で、小さい私たちにとって、「神様だけがすべてだった」と言われても、訳がわからないんですね。でも父は毎朝お祈りに行っていました。夜の祈りも全員家族を集めて、父は祈りを、「ほんとに家族の中でもっとも大事なものは祈りなんだ」として、私どもに祈りの習慣をしっかり付けるようにしてくれました。で、その父は仙右衛門についての言葉数は少なかったと思いますが、ともかく「神様がすべてだったんだ」ということと、自分自身の祈りの姿を通して仙右衛門の人生というものは、どういうものだったか、を私たちに教えてくれたんだろうと思います。
 
西橋:  『仙右衛門覚書』の中には仙右衛門さんは、「ただ天の主(しゅ)ばかりに畏(おそ)れまする」というふうにおっしゃっていますね。
 
高木:  はい。その言葉が仙右衛門の心も、あるいは言葉もすべて物語っているんじゃないかと思うんですね。「畏れる」という言葉をよく『仙右衛門覚書』には残っているんでございますけれども、「畏れ敬う」ということだと思うんですが、「その神のみが私たちのすべてである」ということを、父がよく申していたということなんですけれども、「すべての規範は神にある」。それは生活の隅々がそうなんだ、と思うんでございますね。ですから私が、仙右衛門お祖父さんからもし影響を受けているとするならば、父を介して受けていると思うんでございますけれども、「生活の隅々においてすべての規準が神―神様がこう思われるから、神様がこうしてくださるから、ということに繋がっている」と思うんでございますね。で、仙右衛門もその言葉ということよりも、彼の心を支配していたものは、すべて見えるもの、見えないものを通しながら、そこに出てくるのが神様だったんだ、と思いますね。で、私も自分がこういうふうに生活をしている中にあって、大きいこと小さいこと、常に私の基準というんでしょうか、は神なんですね。やはり仙右衛門も神様の声を聞き、神様と出会って、神様が絶対なんだ。神のみを敬う、という心で人生を歩いていらっしゃった姿が、拷問にも耐え、あの人生だったんだなあと思うんですよ。
 

 
ナレーター: 「神がすべて」と書き残した曾祖父・仙右衛門に導かれるように、高木さんは信仰の道を選びました。祈りとホスピスなどでの奉仕の日々が続く中、人が死と向き合って悩む姿に寄り添うことが日常のこととなりました。そんな高木さんに一つの転機が訪れます。それは当時上智(じょうち)大学教授だったアルフォンス・デーケンさんとの出会いでした。デーケンさんは、「生と死を考える会」を主催していました。その会では、よりよく人生を終えるための生き方を市民も交えて考えていました。高木さんはこの会に参加し、より深く生と死を考えるようになったと言います。一九八八年、高木さんは神戸の大学に助教授として招かれ、東京から移り住みました。神戸に移ると早速「兵庫・生と死を考える会」を立ち上げ、さらに活動を深めていったのです。
 

 
西橋:  高木さんは、今「生と死を考える会全国協議会」の会長をしていらっしゃいますね。この「生と死を考える会」というのはどういう趣旨の活動をしていらっしゃるんですか。
 
高木:  はい。これはアルフォンス・デーケン先生―上智大学の名誉教授でいらっしゃいますが、先生が今から二十七年前に東京で「生と死を考える会」というのを立ち上げ、それには三つの柱をおあげになっていました。一つには、「死への準備教育」という柱を挙げていらっしゃいます。二つ目は、「グリーフ」ですね。家族を亡くしていらっしゃる御遺族の方々の自助グループ、分かち合いのグループを作るということと、三つ目には「ホスピス運動」ですね。日本ではもっともっとホスピスが必要なんじゃないかということで、この会を創設なさって、で、私は神戸に参りまして、今から二十一年前にこちらで立ち上げました。その時の私の指針は、「死への準備教育」という言葉を私は遣いませんで、「生と死の教育」という言葉に変えております。「死への準備教育」という言葉は、私としては非常に理解し易いような言葉なんですが、「死への準備教育」という言葉よりも、私は、「死に仕度」という日本語の綺麗な言葉があると思うんですね。「あなたは死に仕度ができていますか?」というような呼び掛けですね。それは「生きている」ということと、「死の教育」ということで、「生と死の教育」という言葉、それは子どもであっても、大人になっても、すべての方を網羅しての教育というんでしょうか、社会教育と思っております。第二の柱としては、やはり「悲嘆」ですね。お子様方、あるいは家族を亡くした方々の悲嘆に寄り添うということで、第二の柱としておりますね。第三の柱として、私自身が思っておりますのが、できるだけターミナルケア(終末期医療)、これはホスピスだけではなくって、すべての方々が亡くなる時に、その方らしく亡くなって頂ける場と時を準備する。そういうことを柱に掲げております。
 
西橋:  一番最後の三つ目の「ターミナルケア」ですけれども、「ターミナルケア」とそれから今回設立された「グリーフケア」の違いというのは、対象になる方も勿論違うわけですが、
 
高木:  その「ターミナルケア」と「グリーフケア」というのは切り離すことができないものですね。患者様が亡くなってお逝きになる間がターミナルケアで、そのターミナル期いらっしゃる患者さまのスピリチュアルケア―いうならば心と魂のケアに協力するということでございますね。そこにいらっしゃるご家族の方は、自分の家族がもうこれではよくならないという喪失体験をもう既にしていらっしゃるわけですね。ここにまだ患者様はいらっしゃるのに関わらず、家族の方々はもう予測の死ですね。予測をした死の中で看護していらっしゃいます。ほんとに地獄のような思いだと思うんでございますね。もうその時に既にグリーフになっていらっしゃる―悲嘆。もう前もっての喪失体験ですね。その患者様とご家族の方々のケアするのがターミナルケアでございます。で、患者様の亡くなられた後にそこで御遺族になられますね。御遺族になられた方々の今度はグリーフケアが続くわけです。
 
西橋:  そういう意味では連続しているわけですね。
 
高木:  はい。ですから私の場合には、ターミナルケアと言いますと、患者様と家族のケアをして、亡くなられた時点において今度は御遺族ケアになっていく、ということなんです。「兵庫・生と死を考える会」としては、「ゆりの会」(グリーフを抱える遺族たちの自助グループ)というのを持っておりますが、その「ゆりの会」というのは、その死別がどのような死別であってもいいんです。死の形態と言いますが、死の形態が病死であっても、事故死であっても、自死であっても、突然死ですね―災害であっても、病気で脳や心臓などの突然死であっても、その死の形態はどんな形であってもあらゆる関係者―亡くなった家族が親であっても、配偶者であっても、子どもであっても、お入りになられるのが「ゆりの会」でございます。その会では遺族になられた後の方々のケアをさせて頂いております。
 
ナレーター:  「兵庫・生と死を考える会」が主催する「ゆりの会」は、大切な人を失った遺族の方々が、自らの体験と悲しみを語り合うことで、お互いが癒し、癒されることを目的としています。語り合いは十人程度のグループに分かれて行われ、ボランティアスタッフが運営を手助けしています。
 

 
高木:  一番大事なことはご自分の今の状態の思いのたけお話しをして頂くということで、ご自分の気持ちが楽になって頂くことと、また他の方々のお話を聞くということで、自分だけがこの世の中で一番苦しんでいるのではないんだ。家族を亡くすというのはこういう悲しみを担っていらっしゃるんだ、ということがわかるんですね。それが非常にこういう自助グループと言うんでしょうか、いろんな方々がお入りになってお話をして頂き、またそれを伺うということの大事さがございますね。
 
西橋:  そうすると、何回か通って、それで何とか自分で立ち直れたなあと思ったら抜けるということもあるわけですか。
 
高木:  そうです。そうして貰わないと困るんですね。ですから長くいらっしゃる方もいらっしゃいますし、毎月致しておりますけどね。五ヶ月間、あるいは半年ぐらい経って、「先生、大変元気になりました。私は暫く卒業させて頂きます」と言ってお帰りになる方もいらっしゃるんですよ。また四、五ヶ月すると、「いや、やっぱりダメでした」と言って帰っていらっしゃる。出入り自由ですから、まったくこういう悲嘆には個人差がございますよね。ですから、「こうです、ああです」とはなかなか言いにくいですね。
 
西橋:  そういう中でこういう方が「ゆりの会」でこんなふうに立ち直っていかれた、というようなケースをご紹介頂けませんか。
 
高木:  私ね、いろんな方が、二十一年やっていますと、考えられない、それこそ極限の悲しみというんでしょうか、に出会った方は何人もいらっしゃいますけれど、お子様が女のお子様でした。四歳になられたお子様が一緒に信号を待っていた。そしてふと手を離した時に―もう四歳になりますから、普通手を離していますね―でもそのお母様がおっしゃるには、大体信号で待っている時は手を握って立つことにしていたんですね。パッと気が付いたらまだ赤だったのに、そのお嬢様がパッと飛び出てお行きになって、単車にパーンと撥ねられて、ご自分の目の前で三メートルぐらい飛ばされて即死だったそうです。そのお母様の悲しみというのは、ご自分の目の前で即死だったわけですね。それを伺いましてお通夜にまいりました。その時お母様は真っ青で泣くこともおできにならなくて、もうこの世の方とは思えないようなお顔でいらっしゃいました。大丈夫かなあと思ったんですが、一週間後に初七日ということで何もなかったんでございますが、私の方から「お祈りさせてくださいね」と言ってお宅に伺った時にも、お母様はほんとに涙一滴も流さないでジッとしていらっしゃったんです。もう気になって気になって。それで二週間後ぐらいだったと思うんですが、まいりました時に、そのお母様とそのお母様のお母様―お婆さまがお出でになりました。そして畳だったんですが、畳に座ってお詣りをいたしまして、「如何ですか?」と申し上げたら、お母様はその時だけ私の顔をジッと見て、「あの子はどうしているんですか! 今どこにいるんですか!」とおっしゃったんですね。私は、そのお通夜の時、初七日の時に、で今日のお姿があまりの違いにハッと驚いて顔を見ました。その時にも真っ青な緊張しきったお顔でしたね。それで私はお母様の手を握って、「ご安心なさって、あの方はね、ゆうちゃんというんですけども―お名前も言っていいとおっしゃいましたので―ゆうちゃんはね、神様のところに行っていらっしゃるのよ。本当の神様がしっかり抱いていらっしゃる。マリヤ様にしっかり抱かれていらっしゃるから大丈夫。本当にお母様が抱いていらっしゃると同じように、マリヤ様にしっかりと抱かれていらっしゃるから大丈夫よ」と申し上げたら、私の手を持って、「本当ですね! 本当ですね!」と言われたんですね。「私は信じているの。それが本当かどうか、私には確信が持てない。見ていないから。でもね、私の心では確信があるのよ。絶対大丈夫!」と申し上げましたら、私の手をポンと一緒において、もの凄い勢いで泣かれたんですね。大きい声で、畳に頭を擦り付けて、その横にいらっしゃったお母様が、「しっかり泣いていいのよ。泣きなさい! 泣きなさい!」とおっしゃっていました。私も一緒にいながらもうほんとに泣くことしかできませんでした。もうそのお姿を見ながら、ああ、こんなにも辛いんだ。ほんとにお泣きになる大声、涙はもう耳から離れませんね。
 

 
西橋:  今年の四月に、「日本グリーフケア研究所」を立ち上げられましたね。これもやはりそういういろんな経験からやはりこういうものが必要だという思いからでしょうか。
 
高木:  はい。これはあくまでも結果でございます。二十年間のターミナルケアをさせて頂き、その御遺族のケア、及び「生と死を考える会」を二十年前に立ち上げておりますが、その「兵庫・生と死を考える会」のとても大事な柱としての悲嘆ケアでございますね。それを二十年間やってまいりまして、どうしても今の日本の社会では、グリーフケアを専門にする方の養成が急務だということを、現場から私の叫びでございます。それは何故かと申しますと、「ゆりの会」だけでも毎月いらっしゃるのが三十人なんですね。そして私の方にお電話が入ります方々の数は凄い数です。五十人ぐらいになるんですね。それを一々私は電話でカウンセリングはできません。そうしますと、私ができますことは、その「ゆりの会」、あるいは他のグループを紹介したり致しますね。それが精一杯なんです。ですから私だけでなくって、そういうグリーフにある方のケアを専門にできるような方を育てて後継者にしていくということ、これ私の要請として作ったものでございます。それともう一つ、そこに至るまでには、JR西日本がご存じのように、今から約四年半前にあの大きな事故を起こしてしまいまして―福知山線の脱線事故でございますね―その事故の後に御遺族さまのケアを協力させて頂いております。そういう御遺族様方のケアをしておりますと、前に私が大震災でご家族を亡くされた方々のケアをしておりますと、その災害で、自然災害で家族を亡くされました御遺族と、ターミナルケアをしていて―多くの場合ガンでございますね―ガンという病気で亡くなられる御遺族様と、それからこういうふうな大きな公共交通事業の事故の結果大勢の御遺族様が出てお終いになるような御遺族様の悲嘆のあり方が違うんです。たった一つ「グリーフ」という言葉の中に含まれている多様性というのは凄いものなんですね。例えば大震災で家族を亡くした方は、加害者が見えないわけですね、自然災害でございますので。それこそ大震災後に書かれました私記の中に、子どもたちが書いた私記、その一つの本に、「お母さん、神様怒りはったん」というタイトルが付いているのがあるんですね。凄く大震災を物語っているような気がするんですね。こんなことがあるのは、「神様が怒りはったん。神様が怒ったからこうなっちゃったの」というね、子どもの素直な質問だと思うんですけれども。ですからその加害者が見えないので、自分がこういう家に住まなければ良かった。早く家を変えようと言っていた矢先にこうなったんだとか、ご自分がこういう見栄を張って結婚する時に、こういう大きな戸棚を持ってきたから、タンスを持ってきたから、これの下敷きになって子どもが死んだんだとか、もう自分を加害者にしてしまう。それで悲嘆も長引く場合もあるんでございますけどね。今度一つ比較するとして、JR西日本の福知山線事故で被害者になって御遺族になられた方々は、加害者がJR西日本という、とてもはっきりした加害者がいらっしゃって、そのJR西日本の電車が凄いスピードで走っている。それを近くに見ていらっしゃるわけです。沿線沿いだからそこに電車にお乗りになったわけですから。そういうものを日頃から見ていらっしゃると、加害者があまりにも生き生きとして元気であるが故に忘れられない。被害者は加害者に対する怒りが非常に大きい。そういう一つの特徴が現れてくるわけでございますね。ですから、悲嘆ケアに当たる方々が、ただカウンセラー―一つのカウンセラーのお勉強をして技法を習って、というだけではなくて、またプラス悲嘆とはこういう原因でなった場合には、こうなのですよ、という。いろんなケースを知っていないといけない。で、相手が悲しみ沈んでいる方でございますから、そして原因がはっきりしているわけでございます。家族を亡くしたという、例えば今グリーフになっている時に、私は今愛する家族を亡くした遺族のケアに特化しているんでございますけれども、カウンセラーとは違う。グリーフワーカーとなる。よく「グリーフケアカウンセラーじゃないですか」とおっしゃる。そうなんですけどね、何故「カウンセラー」という言葉を遣わないか、と言ったら、今までのカウンセラーという概念とちょっと変えたいと思って、「グリーフケアワーカーの養成」ということで考えているんでございますね。ですからこれは私が二十年間実践をしてきて、もっともっとこういうことを手伝うことができる人材を育てたいということで始めさせて頂きました。
 

 
ナレーター:  高木さんはブリーフケアワーカーの育生を急ぐ背景には、人間関係が希薄になりがちな現在の社会環境と、多様化する悲嘆の実態があります。研究所が発足すると、高木さんは早速「グリーフワーカーの養成講座」を開きました。それに合わせて高木さんが取り組みを急いでいる問題があります。それは自殺。日本では自ら命を絶つ人がこのところ年間三万人にものぼっています。「生と死を考える会」にとっても、残された家族のケアだけでなく、それ以前に自殺そのものを防止する手立てが大きな課題です。
 
発言者:  つまり孤立化して、されているのは社会の側なんですね。例えば一例を言いますと、自死遺族の人が一番辛い思いをするのは、隣近所の冷たい目なんです。「我が家から―お宅から自死者が出たということを絶対に外へ漏れないようにしてください」と、こういうふうにちゃんと正面きって町内会で言われることがある、と。何故か理由がわかりますか。土地の値段が下がるということです。
 
ナレーター:  自殺した人とその家族は社会から阻害されている。高木さんは自殺を考える人やその家族の苦しみに寄り添うことも自分に課された使命だと捉えています。その第一歩として、自殺した人の遺族だけが語り合う「わすれな草の会」(自殺者遺族のための自助グループ)を立ち上げました。その活動で、ある自殺未遂事件に遭遇します。自ら命を絶つ人の救いようのない悲しみを知ることになるのです。
 

 
高木:  一歳二ヶ月で、この方もお嬢さまでした。朝起きたら冷たくなっていたという。それでお母様は、自分が途中で気が付いたらということをもの凄く真剣に受け止められて、後追いをなさったんです。後追いというのは、ほんとにご自分が生きていけなくて、罪の意識がいっぱいあって、何故あの子を夜の夜中でもちょっと気が付いて見たら、もしかしたらまだ大丈夫だったのに、と。ご自分をお責めになるわけですね。で、「後追いしたい」ということをおっしゃっていたそうです、ご主人様にね。でもご主人様は「後追い」と言われてもピンとこなかった。「眠れない、眠れない」とおっしゃっていて、で、心療内科にお行きになってお薬を頂いていらっしゃった。そのお薬を飲んだら眠れるのに、子どもに申し訳ないということで、お飲みになっていらっしゃらなかったらしいんですね。溜め込んだお薬を一遍にお飲みになって、それで意識不明になっておしまいになって、で救急車で運ばれて、二日間ぐらい意識がなかったんです。それを伺いまして、病院にもまいりましたけど、まだ意識がございませんでした。でもお医者様は、「大丈夫です。意識戻りますから」とおっしゃっていましたね。で、三日後にまいりました時に、意識が戻っていたんですが―お兄ちゃまがいらっしゃるんですね。小学校の二年生の男のお子さんがね。その方がベッドサイドで、「ママ死なないで!ママ死なないで!」と言って叫ばれるんです。あの光景が辛くって、こういうことなのか。小学校二年のお兄ちゃまが、「ママ死なないで!」と言って、お母様のベッドにしがみついて泣いていらっしゃるんですね。ああいう姿を見る時に、人間はここまで苦しまないといけないのか。このお母様も、自分のお子様を、もし夜中に気が付いたら死ななくてすんだのに、という、もう罪悪感いっぱいで、もう生きていくことが堪らなくって自殺未遂ということになられたと思うんでございますが、その残されたお兄ちゃま、そのお兄ちゃまだって本当に妹を亡くしたという寂しさがあるわけです。悲しみがある。それにお母様がまた亡くなられるなんていうことは、もう本当に小学校二年生であんな苦しみを背負わなければならない。そしてご主人様もいらっしゃって、ほんとに涙を流していらっしゃったんですが、お一人おひとりにはこういう担わなければならない悲しみ苦しみがあるんだなあと。そしてその奥様がおっしゃいました「あまりの苦しみで、あの男の子のことが考えられなかったんです。主人のことがわからなかった、気が付かなかったんです。こんな苦しみを与えるんだったら、決してこんなことはしなかった」とおっしゃるんですね。ですから自死をなさる方々は、その周りの方々がどんなに苦しむか、ということが、もうそこまでいったら思い出せない、考え出せないまま亡くなってお逝きになるのかなあ、ということを、あの時にほんとに強く感じさせて頂きました。
 
西橋:  そういう意味で、「わすれな草の会」という、これは自殺をした方の御遺族を中心にしたケアをする会ですね。
 
高木:  そうなんです。やはり日本の社会では自死遺族というものに対して非常に冷たいと思うんです。非常にきつい差別の中にお過ごしになっているという。これはご本人さま方から伺う言葉でございますけどね。自殺を褒めたこととは言えません、決して。でも私は自殺を「自死(じし)」というんでございますけどね。「自殺」というのは「自らを殺す」と書きます。「自死」というのは「自ら死、死を自ら選んだ」ということでしょうか。「死に至らなければいけなかった」ということで、「自死」という言葉を遣うんでございますけれども、その自死遺族の方々は、ご自身が社会がどうであろうとも、ご自身が自分の家族から自死者を出した、という凄い罪悪感をお持ちでございますよね。そしてまた社会から冷たく見られるということで非常にお辛い。ですから「ゆりの会」はどなたでもお出でになれるんです。そして実際自死遺族の方もお出でになっています。でもそこではなかなか本当のことが言えない方もいらっしゃいますので、自死遺族の方のみに「わすれな草の会」というものを始めますと、みなさん大変自由にお話頂くんですね。ですから「わすれな草の会」の自死遺族のためにのみというのは良かったなあと思っています。でもほんとにお辛いです。それこそ体験なしには、「わかりました」など、決して言える言葉ではないと思います。
 
西橋:  自死遺族に対しては、「あなたが傍にいながら、どうして気がつかなかったの」というような言葉が投げられますよね。
 
高木:  気が付きません、普通は。気が付いたらやはり予防致しますよね。気が付かないからそうなっておいきになる。その後に「気が付いたら」という言葉が出るんですが、それは残酷ですね。
 
 
ナレーター:  深い悲しみを抱いて苦しむ人々が、その心の重みを少しでも軽くできる方策は、その苦しみの深さをできるだけ多くの人々に知ってもらうこと。そのためにできることを探っていくのがこれからの務めだと、高木さんは言います。
 

 
高木:  つまりそういうグリーフ、深い悲しみを抱えた人たちをそのまま放っておく社会というのはやはりいろんな歪みが出てくると。そこのところをやっぱり専門家のケアワーカーという方々が、支えながら社会のそういう歪みができるだけできない、出ないようにという、そういう社会を作っていこうというお考えですか。
 
高木:  はい。そうなんでございます。何故私がグリーフワーカーのこの一人や二人ではなく、もっともっと日本の社会でも多くの方々が存在しなければならないと思いましたのは、私たちはいずれにしても自分が死を迎える前に、家族の死を体験するのがほどんどと思うんでございますね。勿論若い二十代ぐらいの方々は、まだ経験がおありないと思うんですが、人生を終わる頃に、五十、六十、七十代になりましたら、どうしても自分の家族を見送って自分の死が来ると思うんでございます。その時に充分に自分の家族をお送りして、悲しみを充分癒されていなければ、結果どうなるかと申しますと、病気になるんですよ。免疫性がガァーンと落ちて悲嘆の故に病気になる確立は非常に大きいんです。これは研究なされておりますね。また事故も起こるんです。ボッとして歩いていて事故が起きましたとか、そういうことがデータでわかっているんですね。それともう一つは、こういう考えは非常に失礼な考えかも知れないんですが、ご自分が悲嘆を無理して乗り越えた方々は、人に非常に冷たいんです。こういう方がいらっしゃるんですね。私が存じあげている悲嘆の方で、お隣のとても親しいお友だちだった、と。その方がエレベーターで一緒であったから、お声を掛けて、お話をしていたら、廊下でいろいろと話が弾んだ、と。その時に、「あなたは贅沢なのよ。あなたはご主人を亡くしたと言って、そんなに悲しみ沈む必要はないのよ。ご主人なんていうのは赤の他人なんだから、また選ぶことができるのよ。私は子どもを亡くしたんだから、子どもは二度と生まれてこないのよ」と言って、お説教された、と言って、もう悲しくって悲しくって、夜の夜中に私に電話があったんですね。その方の話を伺いながら、私はこう申し上げたんですね。「そうなのよね。お隣の奥様は子どもさんを亡くして、ほんとにお辛かったと思う。でもその悲しみがまだ充分癒されていらっしゃらないのかも知れないわね」「いや、もう十二、三年経っているんですよ」と言われるんですね。たとえ十二、三年経っていたとしても、その方のお話を充分伺ったり、またその方のケアがなされていないと、ついついそういう自分は押さえて押さえて頑張ってきたのに、あなたは主人を亡くして、そんなに悲しみ沈んで、私にそういうことをいうというのは甘いよ、という強いご自分が押さえていた気持がボーンと出るんですね。決して優しい社会にはならないんですね。ですから悲嘆というのはそういうことで、ほんとに一人ひとりの悲しみが、悲嘆が癒されていくならばとても優しい人になれるんです。悲嘆の素晴らしさというのは、苦しみを知っている方は、「本当にこんなに人生って悲しんだから、辛いんだから、そして限られた人生だから、みんなが悲しいし苦しんだから優しくしましょうね」という言葉が出てくるんです。それが悲嘆がだんだん癒されていったお姿なんですね。
 
西橋:  ケアを受けることによって元に戻るだけじゃなくて、さらにもう一つ深まるというか、
 
高木:  そこを私は目指しているんです。ですから私が、先ほど申しましたように、人材養成の中で自分を知らないといけない。自分史をよくわかるということは、ご自分の中にとても辛い経験もあった、嬉しい経験もあった。そういうものを通しながら、自分がほんとに辛い時に優しくされた思い出のある方は、「そうなんだ。人は自分が辛い時に優しくして貰ったらどんなに嬉しいか。そして自分がこんなに苦しいんだから周りの方もほんとに苦しんだから、みんなが親切にし、思いやりをもったら、ほんとにお互いに嬉しいんだよね」ということが合言葉になる筈だと思うんですよ。「私が苦しいから」と言って我慢していたら、ほんとに優しい温かい社会はできないと思うんですよね。ですからグリーフの意味は、先ほどおっしゃいましたように、ご家族が亡くなった場合はこういうレベルだったとしますね。ドーンと落ち込んでおしまいになりますね。それが徐々に徐々にによくなって、ここと同じようなレベルまで回復なさったとしても、もっと上までいく人間の力があるんです。そしてまた自分自身の注意力もあります。直していく力もあり、また人様からそういう温かい思いを添えられたら、人間はあなたの支えがあれば、あなたのその励ましがあれば、今私以上の私になられる、というのが、私の信念でございます。そのためのケアだと思いますし、やはり多くの方々をグリーフワーカーとして育てたいと思うのは、そういう人の悲しみ苦しみがおわかりになって、ご自身も前以上の私になられた、そういう方々がまた悲しみ沈んでいる方々にただただそこまでいくだけじゃなく、もっと人のことを思い、優しい人になりますよね、ということが、私の合言葉でございます。
 
西橋:  社会全体も優しい社会が作られていくということですね。
 
高木:  そうです。
 
西橋:  長時間ありがとうございました。
 
高木:  ありがとうございました。おそれいりました。
 
     これは、平成二十一年十一月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである