ただひたぶるに生きし君―姉・鶴見和子との日々―
 
                       ゲ ス ト 内 山 章 子(あやこ)
 
内山:  ここの家へ来たことあって、ここへ坐っていたんですよね。それで、「楽なことはすぐできちゃうからつまんないのよ。難しいことほど面白いのよ」と言ったのを、今朝凄く思い出したんですけどね。亡くなる時に、「死ぬって面白いわねぇ。私、長く生きたけど、こんなの初めて」と言いましたでしょう。あの時、それで兄と二人で笑っていたんだけど、その「面白い」ということは、「難しい」ということだ、と。やっぱり「死ぬのは難しい」って言わないで、「死ぬのは面白いのねぇ」と言ったんじゃないかと、今になって思うんですね。その時は記録を作ることでいっぱいでしたから。
 

 
ナレーター:  内山章子さんは、三年前、八十八歳で亡くなった姉・鶴見和子(つるみかずこ)(1918-2006)さんの最期の日々を記録しました。診療所に入院し、亡くなるまでの四十五日間、刻々の病状や折々の言葉を病床に付き添った家族と交代で記しています。三冊のスケッチブックに綴られたその看護日誌を、内山さんは昨年自費出版の本(『鶴見和子病床日誌』)に纏めました。姉・和子さんは、社会学者として人間を見つめる学問を続けた人でした。死を覚悟した時、自らの死に逝く姿をありのままに記録するよう妹の章子さんに頼んだのです。最期の闘病を支えたのは、章子さんの家族や兄で哲学者の鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)さん夫妻。それぞれにとって、この看取りは、家族として歩んできた歳月を振り返らされるものでもありました。
 

 
内山:  姉は社会学者、フィールドワークをしてきた人だから、死のフィールドワークは、自分でして、自分で本当は書いていきたかったんだ、と思うんですね。だから、それでそれを書きたいと思ったけど、背骨が折れて自分が動けなくなってしまったから、いわゆる女が感情的にだらだらだらだら書くような文章ではなくて、感情を込めないで、事実だけを記録していってほしい、という。「死ぬ逝く人が、どんな歌を詠み、何を考え、何を思って死んでいくかを、あなたは客観的に記録しなさい」って。やっぱり看取ることでいっぱいになっちゃうと、この記録ができないから、そういうことでこんな大きなスケッチブックに書いていく。無くしてしまうと続かなくなりますからね。そんなふうな気持で、それでなんかいつも父が愛した最愛の娘だから、父がきっと助けてくれていたと思うし、助けにきてくれるという。だから「疲れた」とか、「大変でしょう」と、みなさんおっしゃるけど、そういう感じじゃなくて、何にしてもこの女王様みたいな姉を大切に父のところへ送り返さないと、私が死んだ時に困ると思ったんです(笑い)。そういう気持だったと思いますね。だから「よく書けたわね」というけど、女王様の命令ですから(笑い)。
 

 
ナレーター:  章子さん、和子さん姉妹の父は、雄弁家でならした政治家で、作家でもあった鶴見祐輔(ゆうすけ)(1885-1973)さん。母・愛子さんはアメリカの大学で学んだ人でした。よく悪戯の片棒を担がされたという兄・俊輔さんとは六歳違い。十歳年上の姉・和子さんは、章子さんにとって遙か遠くを歩いているような存在でした。国際派で知られた父・祐輔さんは、長女・和子さんに欧米の教育を受けさせる一方、和歌など日本の伝統文化を学ばせました。アメリカに留学したのは和子さん二十一歳の時。戦争による中断を経て、四十四歳でプリンストン大学大学院に入学、首席で卒業し、社会学者となりました。国際学会でも活躍した和子さんは、五十代になって、経済成長一辺倒の考え方とは異なる独自の社会発展の理論を打ち立てようとしていました。水俣の地域調査に加わった体験から、自然との調和と人間成長を目指す社会の発展を提唱したのです。そんな和子さんが、脳出血に倒れたのは七十七歳の時、死の十年ほど前のことでした。半身不随となった和子さんは、懸命なリハビリの後、京都府宇治の高齢者施設に移り住みました。そして痺れる手足の痛みに耐えながら、新たな仕事を続けていました。
 
鶴見和子:  あ! 藪椿や。蕾が赤くなってきた。
 

 
ナレーター:  病む身体が敏感に感じる自然の変化。生死の境を越えた体験からいのちの実像に迫ろうとしていました。
 

 
鶴見和子:  (にれ)若葉そよぐを見れば大いなる
        生命(いのち)のリズム我もさゆらぐ
 
つまり、生きている生き方はね、私とは違う宇宙に住んでいるのよ。私はもう死んだ人に近いのよ。死んだ人にとっても親しみを感じるの。だから、死者の目とね―ところが半分生きているの。こっちは完全に生きているの。こっち側ね―右半分は生きているの。それだから、
 
     身のうちに死者と生者が共に棲(す)
       ささやき交(かわ)す魂ひそめきく
 
という歌も創ったんだけどね。死者と生者が、私の中で対話をしている、という感じなの。
(二○○一年四月八日にNHK教育テレビ「こころの時代」で放映)
 
 
ナレーター:  倒れて以後の十年、和子さんは自分の研究を見直そうとしていました。不自由な身の実感をもとに、湧き上がる思いを歌に詠み、理論中心であった自分の学問を問い直したのです。章子さんは、時折京都を訪ねては身の回りの手助けをしていました。最初に姉の異変を感じたのは、三年前、二○○六年六月のことでした。
 

 
内山:  それは八十八のお祝いの時ですね。六月十七日にお祝いをするんで、私、行きまして、それで手を洗ってあげながら、「お姉さまはとっても大変でいらっしゃったと思う」って。それまで十年半、愚痴一つ言いませんでしたからね。「大変なのよ」と言わなかったから。そうしたら、「我慢、我慢の日で、本当に大変だった」と初めて言った時に、おかしいなと思ったんですね。百パーセント自分でやらなきゃ気がすまなかった姉が、百パーセント人の手を借りなければ生活ができないという。「食べ物にしても、買ってくる物にしても、気に入らなくても、それしかできなかった」ということを初めて言ったんですね。それが急にそうなったから、これは変だな、って。それと下痢が、一日に十七回というのは普通の事じゃありませんから。それで着替える着物もちゃんと用意してあって、「着替える、着替える」と言ったんですけど、私の判断で診療所へ連れて行ってしまったんです。そうしたら先生が、「そんな外へ行く状態じゃないから、今日は出席してはいけません」って。「その下痢は毎日点滴をしに来てください」とおっしゃったんです。だけどその時先生は、死の予感はなかった。私だけが死の予感があったんですね。
 

 
ナレーター:  診療所に入院した和子さんが、章子さんに病床の記録を頼んだのは、死の一ヶ月半ほど前。六月二十一日、日誌は自らの死を予感する言葉で始まっています。
 
     和歌
     新しき今日のひと日を生かされぬ
       窓より朝日射し入るを見る
 
     この世をばさかりゆく時何が見え
       何が聞こゆか その刻(とき)を待つ
 
     おどろおどろしきもの 人間の心の底に
       我が心にもありし日を思う
 
この日、医師から家族には、検査の結果、腫瘍マーカーが正常値の二十倍以上、腸にガンが広がり、いつ急変が起こってもおかしくない状態であることが告げられました。油断を許さぬ状況に、どう対処するのか。章子さんたちは決断を迫られることになります。
 

 
きき手:  その頃までに死の予兆のような歌を、お姉さんは詠んでいらっしゃるんですか。
 
内山:  たくさん詠んでいるんですよ。凄くそれは変わってきていて、二○○一年、二○○三年、二○○五年と、「一切の延命処置はおことわり、書きのこしておくいまわの言葉」それが、
 
     (つえ)の日々延命処置はおことわりと
       医師(くすし)に文を書きて安らぐ
 
と、これが二○○三年で、それで二○○五年が、
 
     延命処置ことわり状をしたたむる
       窓辺近く花散る気配
 
というのが、これがちょっと三つの歌の中で、一年、三年、五年で、五年で変わってきているんですね。
先生は、「鶴見さんから三回お手紙を頂いています」って。「ダメだという時は余分な医療はして頂きたくない、っておっしゃっていますけれども、ご家族はどうお考えですか?」ということをまず訊かれたんですね。そうしたら、兄が、「姉が思うようにして頂きたい。私どもも姉の自己決定権に従います」と申し上げて。結局小腸から大腸へ出る時に盲腸の辺りってとっても広いんですって。そこへは五パーセントぐらいしかできないそうですね。そんなところへ大腸ガンができるということはなくって、普通は下行結腸(かこうけっちょう)とかS字結腸にできる。そういうところだったからわかり難くかったのかも知れないし、だからガンが大きくなっちゃったんですね。普通のところだったらもっと早く腸閉塞がくるはずなんです。腸閉塞が起こると大変なんで、だから高カロリー液にした方がいいんじゃないか、と診療所の先生は考えられたわけです、若いから。それで、「もう一つの総合クリニックへ、先生にお願いしてあるから、セカンドオピニオンを取りに行って頂きたい」とおっしゃって、CTスキャンから先生の紹介状とか、全部今までの病歴を持って二十七日に伺うんですね。やっぱり「もう手術はできません」と。心臓の具合とか、腹水が溜まっているとか、いろんな状態から考えて、年齢からも。「高カロリー液にした方がいいんじゃないか、って、担当の先生はおっしゃったけど、食べたいと言っている人に高カロリー液にするのは、僕、反対です」って。「もし低残渣(ざんさ)食―食物繊維を細かくしちゃって、残渣の少ない食事にすれば、場所が広いから腸閉塞を起こしにくい、と。もし低残渣(ざんさ)食にしても腸閉塞が起こるようだったら、僕はこの病院で引き受けますから、QOL(Quality of Life )を一番大事にしてあげてください」と言われたんで、それで私は凄くそこで決心ができたんですよね。じゃ、もう一時間半かかろうと、何時間かかろうと、食べさせてあげたいと、心が決まったんですね、あの段階で。もう心臓にも水が溜まっていたし、肺は片っ方全然水だったんですね。片っ方の肺の四分の一しか空気が入っていないでしょう。相当苦しいわけですよ、本当は。だからお腹よりも何よりも、息することが苦しかったと思うのね。だから何遍も心房細動(しんぼうさいどう)を起こしているんですよ、今までも。だから「自分は心臓で死ぬんだ」って。「高血圧で心臓で死ぬんだ」と思っていましたからね。だから兄は、「それでいいんじゃないか」って。告知はしないと言いましたんで、それに従った。だから心臓が悪くて自然に死ぬのと、そこへプラス(+)癌でもっと酷くなって死ぬのとの恐怖感というのは、やっぱり姉の歌をずっと辿っていくと、それに耐えられるだろうか、という歌があるでしょう。死ぬまで私はちゃんと自分をキープしていけるだろうか、というところがあるから、やっぱり自然の方がいいんじゃないかと、兄は考えたんだと思うんですね。
 

 
ナレーター:  姉・和子さんは、倒れて以来、一人で死に向き合う気持を歌に詠んでいました。
 
     気を確かに保(も)てとはげます我と我
       ま向かいてあれ死に至るまで
 
     翼のべ空とぶ鳥を見つつ思う
       自由とは孤独を生きぬく決意
 
     克明に描きおかれんこれよりは
       ひとり旅なる死への道行き
 
和子さんは、幼少時代、東京市長を務めた母方の祖父・後藤新平(ごとうしんぺい)の家で育ちました。物怖(ものお)じしない孫の和子さんを、祖父は殊の外可愛がったと言います。「自分のことは自分で決める」という父の教育方針のもと、自立した女性にと育てられた和子さん。それに対し、戦争に向かう時代に生まれた章子さんは、明治、大正を生きた両親や姉とは異なる時代、異なる人生を歩んできた、と感じてきました。太平洋戦争前のアメリカに留学し、学問を修めた姉・和子さんと、兄・俊輔(しゅんすけ)さん。一方章子さんは、身体が弱かった母の看病のために学業を中断。病床の母から家事を仕込まれる戦争時代を過ごしました。二十一歳で結婚。主婦としての人生を歩んできた章子さんは、子どもを育てる傍ら、母を看取り、晩年の十四年間を寝た切りで過ごした父の最期を見届けました。社会で華々しく活躍する姉の和子さん。合わせて六人の家族を見送ってきた章子さん。最期の病床に付き添うまで、姉とは遠く隔たった人生を歩んできた、と感じていました。
 

 
内山:  これは後藤新平の家から伝わって、母が教えてくれた料理で、ちょっとなんか足りない時にやるのには大変便利で、姉もアメリカで作っても喜ばれたんですよ、これ。それで姉より私の方が何遍か作っている回数が多いでしょう。だから「あなたの方が上手い」って姉が言っていました。だからお客様が見えて、ちょっと足りないなと思った時さっとできるでしょう。だからとっても便利なんですよね。結局新平が大臣であった時の兄と姉は、凄くちやほやされた経験というのがあるんですね。だけど私が生まれた翌年後藤新平は亡くなっていますから、だからそういう経験は、私はない。で、私が生まれてからすぐ満州事変がありましたでしょう。こう軍歌の音というか、子守歌も軍歌でしたしね。「ここは御国を何百里 離れてとほき満州の」そんな歌で寝かしつけられたから。父は明治の人だし、兄も姉も大正の人なんですね。大正の文化は一時非常に自由だった時ありますよね。その時の豊かさというものを十分に姉は身に付けたからおしゃれだったし、だから凄く育ち方の文化の根というのが違ってしまって。だから私がお手伝いさんと別の部屋で暮らしていて、それで一緒に御飯食べたことないんですね、小さい時。着物なんか衣類は全部お下がり貰うんですけど、あんまり関係がなかったみたいな気がするんですよね。兄と姉はちょっと違う関係。一緒に留学して、一緒に交換船で帰ったり、いろんなことがあったから。
 

 
ナレーター:  和子さんが、アメリカに留学したのは一九三九年。一年先にアメリカに渡っていた俊輔さんと同じ哲学を専攻していました。しかし二年後に日米開戦。アメリカで学問を続けるのか、日本に帰るのか、和子さんは人生の岐路に立たされました。入院した当初、和子さんは今の時点から過去に遡る自伝を残したいと願っていました。病床でその人生の岐路で感じた苦しみを、初めて章子さんに語っています。
 

 
内山:  もうちゃんとブリティッシュ・コロンビア大学にはスカラーシップ(scholarship:奨学金を受ける資格)も取れて、ちゃんとテーマも決まって届けてあるわけでしょう。だからそれに出られるのを放擲して帰ってくるということはどういうことか、って。まだ私は幼いから―十五、六だと、そういうことがよくわからないですよね。初め「帰る」と打電して、いや、やっぱりこれで学問を止めるのは勿体ないと思って「帰らない」って。「帰らない」ってなったら、保守党の父親の立場はどうなるんだろう、と思って。大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に入っていましたから、娘と息子がアメリカで勉強しているとなれば、大変な立場になるだろう、って。だからそこで凄く苦しむんですね。だから、一大決心をして帰って来たんですよね。だからその挫折感というものを、私は今まで聞いたことがなかったから。挫折のない人だと思っていたから。アメリカから日本へ帰って来るんだったら、太平洋を渡ってくればいいんですよ。ところが日本とアメリカは戦争していますから、ここは通れないわけですよね。それでアフリカのロレンソマルケス(現マブト)というところへ停まったわけね。これがいろんな方に説明しているうちに脚が取れてしまったんですけど、アフリカの現地人の彫った木の鳥を買ってきてくれたわけですよ、お土産に。だから私が幼くて何もわからないから、こういうおもちゃみたいなのを買ってきてくれた。これが挫折の一番深い時に、私に愛情を持ってこういうふうにしてくれたということは、だから看取りをしなかったら知らなかったわけですよね。この胸を張っている感じというのが、「私は和子よ」と言っている感じがして。それでいろんなデザイン―原本は孫が書いてくれたんですけど、だけどそのデザインしてくださる方が凄く大きいのにして頂いて。この色は姉が紫が好きだったんで、この中も外も紫にして作ったんですけどね。敗戦後六十年以上経っていますからね。その前ですから六十三年ぐらい前の話ですよね。兄は一年姉より先にハーヴァード大学へ入るための予備校のミドルセックス・スクールというところへ入っているんですけど、姉はその後一年してから行って。だからアメリカでも交流があったし、帰って来てからは『思想科学』で一緒に仕事をしていましたからね。だから凄く兄と姉の関係というのは、私なんかの入り込めない人間関係だったわけ。その話を順々としてくれて。だからこの看取りをしない限り、姉と私の関係は作れなかったと思うんですよ。
 

 
ナレーター:  七月一日 姉は窓のあるナースステーションの隣の病室に移っていて、心電図が付けられていた。顔色も悪くなり、眠るとなく覚めるともなく、うとうとしている。声も大分小さくなってきた。食欲も落ちている。お粥二分の一は、おすまし百CC、野菜少々、豆腐四分の一、ゼリー二口、食べるのも大事業の様子。血圧三時三十分 百九十。四時三十分 百四十。眼をぱっちり開けて外を見ていることがある。新しい和歌ができた、という。
 
     山茱萸(さんしゅゆ)の枝はそよげり
       朝は強く昼は静かに
 

 
内山:  それで今までは窓がなかったから、外が見れなかったんですけど、二つ窓が―あれは南側じゃないんですね、何側だったのか―二つ方向が違う窓があって、そこから風がくるし、外の空気も流れてくるし、葉っぱの揺れ動くのも見えるし、空も見えるというんで、歌が出てくるわけです。
 

 
ナレーター:  七月三日 「温かいお茶を飲みたい」という。「顔を拭いてくれ」という。「あなたが傍にいてくれるだけで安心する」と言って眠る。
 

 
内山:  「あなたがそこに居てくれるだけでいいの」というのは七月三日に。相当その辺でも心細かったんですね。だけどなんか顔が蝋人形のようになって、咳をするし、なんか脈も凄く滅茶苦茶になって、不整脈になって。で、息が、結局水が溜まってくるから軽いところしかできなくなってくるんですよね。そこでなんか「着物も布団も動く」とか書いてありましてね。「熱は大腸ガンから出ているし、血圧も高くなって安定していなくて、すべてよくありません」と言われちゃうんですよね。「食事もいずれは食べられなくなるだろうから、明日かも知れないし、保つかも知れない」と、ここで言われるんですよね。
これは金子兜太さんの奥さんが亡くなったんですよ。その奥様への歌を直すということをやっているんです。
 
     花恋の人花を待ち昇天す
       妻の一声耳に残して
 
というふうに申し上げたけど、「耳に納めて」にしてくれ、って。金子兜太さんのいろんな慰めの言葉をその奥さんの耳に残っただろう、と。それをそういうふうに言っちゃったけど、「耳に納めて」旅立たれたんだろう、と。弔歌ですね。金子兜太さんに私はお電話で申し上げたんです。そうしたら「はい。わかりました」と言ってくださって。だから病気になってもいろんな仕事のことはけっこうあったんですよ。
 

 
ナレーター:  七月五日 午前七時二十分 「昨夜は何も食べなかったわよ」という。昨日より意識がはっきりしている。「朝の光が見えて嬉しい。生きていることの確認」と呟(つぶや)く。
 
七月七日 今日の朝食は七夕料理である。鮎の塩焼き、おそうめん、星形に抜いた人参、海老(えび)、薄焼き卵、千切りキュウリ、スイカ、どんどん食べて二十分で終わった。目を開けずに、「鮎、温泉卵、お粥、野菜」と口で言って食べる。鮎の塩焼き崩して一匹全部食べてしまう。「よく召し上がりました」と言ったら、「あなたもよくできました」だって。
 

 
内山:  少しね、起こして食べられるようになって、それで「よく召し上がりました」と私が言ったら、「あなたもよくできました」って、言われて、みんなが笑ったんです。先生という職業病。「あなたもよくできました」って。笑っちゃって。だからこう病気になっても衰えないそのユーモラスな―やっぱり父が喋らなくてもユーモラスだったんですよね。父の時は兄も私も子育てざかりで、ずっと看ることは出来ない状態でしたからね。それだから結局兄と私とは負い目があるんですよね。政治家ですから借金がありますからね、必ず。その介護も病気にかかるお医者さん代だけじゃなくて、借財を返していかなければいけないということがあったんですからね。経済的に全部みなければならないから、だからしたくない仕事でもお金になれば引き受けるというか、で、家も売って、軽井沢も売って、それだって初めてやることだったから大変だと思いますし、十四年ですもの。それで口が利けないわけですから、動けないし、右半身不随だったんですよね、姉と違って。頭はちゃんと働いているんだけど、雄弁家だったわけですから、どんなに苦しかったろうかと思うんですね、喋れないということが。「今までは君たちを世話看てきたけどね。これからは君たちが苦労するのを見ていてやっているからね」というふうに、私は、父が目をクルクルしながら私を見ているのを見て、そういうふうに感じて。だからいつも見守られている。十年間あんなにユーモラスでね。例えば私が行けば、私があげた浴衣を着ていた。歌舞伎の浴衣あるでしょう。歌舞伎座が側に浴衣売っているんですよ。それを仕立てちゃあげるわけ。そうすると、私が行くとそれを着ているんですよね。誰か子どもが来ると、「お小遣いあげなさい」と言って、そのお小遣い言い当てるまで言わされたみたいよ、いくらあげるかというのは。喋れませんからね。おかしいでしょう、そういうの。
 

 
ナレーター:  七月十日 曇り。「今日は死に日かと思った」という。
 
     もう死にたい まだ死なない 山茱萸(さんしゅゆ)
       緑の青葉朝の日に揺れているなり
 
     「山茱萸は私自身なの」と呟く。
 
     七月十三日 ここで死ぬか、部屋に帰って死ぬか、主治医にさえも、
     私にさえもわからない。
 
     目覚(めざ)むれば人の声する まだ生きており
 

 
内山:  よく朝行くと、「もう昨日の夜は死ぬかと思ったわよ」というんですよね。昼間は私が居るのに、夜居なくなる不安というのが凄くあったんだと思いますね。母の時は、父が来てくれると「痛い」と言わないんですよね。ガンの末期の痛みがあってね。それで父が居ない時は父の著書を全部胸の上に置くんですよ。だから最愛の夫に看取られて死ぬということを、私はその目で見たわけ。父が居てくれれば大人しいの。そうじゃないと「痛い!痛い!」といって騒ぐんですけどね。だからああいうふうに看取らなければいけないんじゃない。突き放してしまったら、凄く寂しくなるわけですよね。だから常に誰かがそこで寄り添っていなければ。だから「あなたが居て安心だわ」と、何遍も言っているということは、やっぱり一人では死ねないというか、そういう面もあると思いますし、誰かがそこで寄り添っていてくれることによって、死が完結していくんじゃないかと思うんですけどね。山崎さんという方から、ご自分の庭に咲いた螢袋(ほたるぶくろ)を送ってくださったんですよ。咲いたものをね、ちゃんと水に浸けて、瓶に入れて送ってくださったの。死ぬまでこの花が下からずーっと一つずつ咲くの。酷い絵ですけどね。死ぬまで咲いていたんですよ、これが。だから螢袋に守られて、見えるところに置いてあげると楽しんで。螢袋が凄く好きだったんですよね。
 
     ナースコール押せども鳴らずこの世とも
       つながり切れし思いこそすれ
 
というような状態だったですね。だけどその花がいつも姉を見てくれていた、というか。私が帰っても花は居ますから。
 

 
ナレーター:  七月二十三日 昼食。とろみ食に変えてくださったが全然食べられず。うがいばかりする。そのうち発作が起こった。痰を吐く力がなくなり、血圧が下がり、酸素も四リットルに上げた。顔面蒼白。右手が震えた。「食事が入らなくなる時がくる」と言われたが、その日がとうとうきてしまった。薬も水で飲み込むことができず、飲まなかった。「水をください! 水!」。
 

 
内山:  「水をください! 水を!」って、怒鳴るように言うから。「匙じゃ嫌です。吸い飲みでも嫌です。私は茶碗でがぶがぶ飲みたいです」と言うでしょう。だけど飲ましたって吐くだけだから。またその倍水が出てしまう。だからそういう時に被爆者とか、そういうのが出てくるんですね。姉の頭の中に、「水が欲しい! 水が欲しい!って。ああ、こういう状態で死んだんだな」と思うのね。
 

 
ナレーター:  七月二十四日 細頸部から高カロリー輸液を入れるための処置を先生がされたが、入らないとのこと。午後五時十五分、頸静脈も入らない。心不全をいつ起こしてもおかしくない状態。生命の保証はできない。
 
     そよそよと宇治高原の梅雨晴れの風に吹かれて
       最後の日々を妹と過ごす
 
     「私にしては静かすぎるかな?」と辞世の歌を詠う。
 

 
内山:  で、その「辞世の歌ができたわ」と言って、
 
     そよそよと宇治高原の梅雨晴れの風に吹かれて
       最後の日々を妹と過ごす
 
「私にしては静かすぎるかな?」って、呟いたんですよね。兄にね、「こういう歌を詠っていたのが、こうなったの」と言ったら、「やっぱりそういうふうに静かになっていくのが自然なんだよ」と言ってくれたんですけどね。「ここで死ぬか、部屋に帰って死ぬか、主治医にさえも、私にさえもわからない」というのは、なんとかして部屋へ帰ってみたいもんだと思っているんですよね。だけど最期になって、食べるものも、飲むものも上手くいかなくて、「水をください!」と叫んでも、水も貰えない状態になった時に、観念してそよそよになっちゃうのね。そこで、「凄く体力が衰えてきた証拠だから、そういう静かになっていいんだ」って、兄に言われたのを、私は覚えているんですよね。「京都に居てくれてほんとに有り難う」。これがおかしいですよ。「今まで怖いお姉さんだ」って。「お姉さんでごめんなさいね」だって(笑い)。「お世話になりました。ありがとうございました」って、そう言ったんですよ。だから自覚していたんじゃないですか、怖いお姉さんだ、と。私は、「ご立派なご人生でした。お世話させて頂いて有り難うございました」って、そういうふうに言ったんですけど。「死出の旅路の空色の着物は箪笥にあります。お別れの写真もちゃんと準備して、介護に来てくださる方にもうちゃんとお願いしてある」って。「いくら入っているか通帳で確認しろ」って。結局我々がね、あと困らないように、ということですよね。「通帳で確かめてありますから、お金はちゃんと入っています」って。「今夜はゆっくりお休みくださいませ。明日の朝来ます」と言って、そして翌朝行ったらね、「昨日の遺言はお笑いね」と言った。「私の計画通り死ねなかったわ」と言われて、私はビックリしちゃった。
 

 
ナレーター:  七月二十五日 午後二時五十分、点滴が入らなくなった。「お腹に手を当てて」というので、お腹に手を置く。「酸素」という。「頭を下げて」というので、ベッドを平らにした。午後三時三十分、道子が来て挨拶する。一休みして戻って来た三十分の間に、大量下血があった。「大腸ガンが破れたのだとしたら、止血は難しく、今夜辺り」と、先生の所見。午後六時二十五分、点滴を鎖骨の下から入れる治療中、兄到着。貞子(俊輔の妻)さんもいらっしてくださる。
 

 
内山:  「私、長く生きてきたけど、こんなの初めて」って、「死ぬ体験が初めてだ」と言うんですよね。「死ぬって面白いわねぇ」って言うわけ。そうしたら、「そうだよ。人生は驚くべきもんだ」って、兄が言うんですよ。それで、「面白い、驚いた」って、姉が大きな声で言って、二人でゲラゲラ笑っているんですよね。私はそういう兄と姉の関係の中に入れないもんね。だからビックリして見ていた。何で死ぬ際にこんなゲラゲラ笑うのかと思って(笑い)。前から、「楽にできることって、あんた、詰まらないのよ」って。「難しいこと、ああかな、こうかな、と考えてやってこそ面白いんだ」という話をね。面白いということは難しいことなのよ、ということでしょう。そうすると、「死ぬのが面白い」ということは、裏を返すと、私、今になって考えると「死ぬのは難しい」ということですよね。
 

 
鶴見和子:  死ぬのでもね、“健康な死に方”というのがあると思うんです。だからね、ほんとうに“良く生ききった”と思うように死にたい。そう思ってるのよ。そう思って毎日ほんとにその日の力を出し切って、歩いて、疲れきって寝るのよ。ほんとに疲れ切って寝ちゃうのよ。それが健康な病人で、その先に健康な死がある。人間にとって死ぬことほど、はれがましいことはないと思うの。最高のハレだと思うのよ、死というのは。それは民俗学でも、死はハレというけどね。最高のハレね。そういう最高のハレに向かって生きたいと思うの。それは本当に自分はよく生きたと思って死ねたら、それが最高のハレだと思っている」(二○○一年四月八日にNHK教育テレビ「こころの時代」で放映)
 

 
内山:  姉は、兄に「あなたは私のことを一生バカにしていたんでしょう」と言うわけですよ。兄が、「バカにしていました」とも言えないし、「尊敬していました」とも言えないで、返事ができなかった、って。それは私は、それは兄と姉の特別な関係だから、この記録には書かなかったんです。兄が、「八十までの姉の仕事は、世間一般の常識に従った仕事だった。だけど倒れてからの姉の学問は本物だった」っていうふうに評価しているんですよ。姉は病んで十年半ですもんね。半身不随になった経験というのは初めてですからね。それで、「初めて水俣の患者さんの苦しみとか、被爆者の苦しみがわかったとは言えないけども、少しでも苦しみを分かち合いたんじゃないか」って。「今までは、私は頭でものがわかって、それでいいと思った」。走り通してきた。それが凄く恥ずかしいというか、そこです。病は一つの新しい文化だっていうことを発見して、苦しいけど、面白いと思ってきたんだ。とってもわかったつもりだった。思い上がった自分というのを、自分で認めるというのは凄く嫌なことだと思いますよね。だけど、それを越えて初めて、姉は人間になった、というふうに、兄は思って評価しているわけですけどね。
二十八日ですね、「月に電話したら信号送ってもらって、そうすれば私は生きられる。どんなに騒いでも不思議と悲壮感はない。むしろ重篤でありながら、かくもパワーフルでいられることに驚嘆する」というのは、長女が書いているんですけどね。
二十六日から娘が付いてくれて、一番姉が苦しいところを娘が支えて、手を取り合ってしたということをずっと書いていますけど。やっぱりそれは娘にとっても一生忘れられない介護だったと思いますね。
これは次女が書いているんですね。苦しくなると、風が欲しいわけね。「窓を開けてくれ」って。窓は夏ですから網戸で開いているわけだけど、もう一度そこで音をさせて「開けましたよ」というと安堵するわけね。何遍も「開けてくれ」というから、そのたんびに開けたり閉めたりしていた、という。だから、ただじっと一緒に呼吸を合わせていく、ということが、死の看取りでは必要ないじゃないか。それは何回かやっていくと、それがわかって、ずっと私は父と二人でしていた、という気がしているんですよね。一人でしているんじゃなくて、大切な娘の最期だから、苦しみの日々だから、ずっと私ね、父が見守ってくれて、だから私の健康もちゃんと保たれていた、という意識が常にあったんですね。死ぬ前に母が一人ずつに感謝して死んでいった時と同じように、一人ずつ「俊輔さん、ありがとう」「貞子さん、ありがとう」「友子、ありがとう」「道子、ありがとう」。それで最後に、「章子さん、thank you very much」と言ったんです(笑い)。それでビックリした。「ほんと幸せでした、幸せでした」とも言っていましたしね。
 

 
ナレーター:  七月三十一日 午前七時三十分、看護師さんが、「鶴見さん」と呼び掛けると、反応あり、貞子さんが、「綺麗な朝ですね」とおっしゃると、小さな声で、「そうね」との返事に、みな驚く。午前九時三十分 呼吸が一度止まりかけるが回復。十二時、舌根沈下(ぜっこんちんか)。看護師さんが「舌根沈下!」と言いながら、病室を飛び出し、先生を呼びに行く。十二時二十三分、先生ご診察。瞳孔が開いていることを確認。永眠。俊輔夫妻、章子、友子、道子、全員で臨終を見守る。
 

 
内山:  「もうね、朝ね」、最後に貞子さんが、「綺麗な朝ですね」って言ったら、窓の方へ目を向けて、「そうね」と言ったんですね。それが最期で、いろんな方に助けて頂いて、やりたいことは十分にやって死んで逝けたということは、それを我々も家族ぐるみで見送れたということは、家族への贈り物でもあるし、だからほんとに私は感謝しています。亡くなった瞬間に、なんか姉のあの「驚いた、面白い!」という、ああいう溢れるようなものを引き受けちゃったような気がするんですね。父の時は静謐(せいひつ)だった。凄く年取った人が生命を終わるというのは、その看取った者に慰めがあり、静謐だけど、姉の時は何だか知らん溢れんばかりの、そういう力というものを貰ったような気がしたんですね。で、泣くということもしなかったし、終わりを看取ってあげられたことへの感謝の方が大きかったね。
 

 
鶴見和子:  ここに来て初めてね、空に近くなったのよ。それで、
 
     (たお)れてのち元(はじ)まる宇宙輝(かがよ)いて
       そこに浮遊(ふゆう)す塵泥(ちりひじ)我は
 
もう小さい小さい塵泥の自分なんだけどね。こういう大宇宙の中に浮遊しているという、そういう感じを受けたのね。「塵泥我は」というのは、ほんとに塵泥になって宇宙に散って、私は水の中に流して貰いたいんだけどね。どうして水に還りたいというかというと、水は水蒸気になってね、また循環していくのよ、大気圏に。そして、また還ってくるのよ、水になって。雨や雪に。そして循環しているからね。そういう循環構造の中に自分もいつかは入っていくということ。それまでに自分がなすべきことをしておけば、それはまたいつかは新しい生命(いのち)の中に種を撒いていくと思うの。
(二○○一年四月八日にNHK教育テレビ「こころの時代」で放映)
 

 
ナレーター:  思いのたけ歌いつくして我死なん
          うぐいすの終り しずかなること
 
十月、章子さんたち家族は、遺言通り紀伊水道に続く海に散骨をしました。
 
     身を離れ永久(とわ)に生(い)くという
       魂とは何ぞと 思い思いめぐらす
 
     山姥(やまんば)われ よし足曳きの山巡り
       いづくの雲に消えんとすらん
 
姉・和子さんを見送って三年。章子さんは、まだ元気だった姉のもとに通う傍ら入学した京都の大学の通信教育の学生を続けています。そして、兄・俊輔さんから与えられた新たな課題に取り組んでいます。倒れて以後の姉の学問がどこで変わったのか。傍らにいた体験から整理するという仕事です。今、姉との日々を改めて振り返る八十一歳の秋を迎えています。
 

 
内山:  慰めなんですよ、ほんとに。慰められるの。人間の死を看取ることによって、満足するというんでもないんですけどね。慰めに充ちたものなんですよ。他のものでは得られない慰めなのね。殊に姉が倒れてから、もの凄く努力したわけでしょう。そういうものを見させてもらった。それはやっぱり肉親じゃないと、ちょっとできないかも知れないけど、やっぱり死の看取りというのは、人生の中で一番の慰めなんじゃないか、と思います。やっぱり七十九歳ぐらいから人生観が凄く変わるんですね。こうずっと自分の人生を見て、私、十六の歳に学校を辞めて、「お母さんの看病をしなさい」と言われて、それから人の看取りというものをずっとしてきて、だから私は、自己実現というか、女性の自立とかというのをしないで、自分で稼ぐことを一切しないで黒子(くろこ)の人生だったわけでしょう。だけど、それがいいものだとわかるには、やっぱり相当年月がかかって、兄や姉が華々しくやっているのに、私はいつも台所で働いているというか、黒子でずっとやってきたんだけど、それでよかったんだ、ということは、認められるには、やっぱり長い年月がかかり、それに一生を捧げたことで満足感を得るというのは、若い時じゃできなかったと思うんですよね。今はだから、そういうことを全部終えて、人の子育てをしたり、孫の育てるのを手伝ったり、それから父母を看取ったり、姑を看取ったり、夫はちょっと急死でしたから「看取った」とは言われませんけど、その間に随分何遍も死に目にあうような手術の看病がありましたし、それで姉を看取らせてもらったというから、兄ができないから、「お前、頼む」ということで、やらせてもらって、それが私の黒子の人生だったら、それでよかったんじゃないか、と今思っています。で、「やってくれ」って、頼まれたことはみんなやってきて、それは全部終わって、今度は自分の飢えを満たす勉強というのができて、私はなんて幸せなんだろうと思っております。結局大学に入ることも姉がとても喜んでくれましたしね。で、大学へ入って、レポートを書いて、「こうだ、ああだ」というと、姉が、「じゃ、この本を読みなさい」って。姉との会話も大学へ入ってからは違ったんですよね。だから姉が見守ってくれるでしょうし、なんとか頑張って卒論までいきたいと思っております。
 

 
内山:  私が絵を描いて凄く喜んでくれたのは父で、それで写生を教えてくれたのは母なんです。今やっぱり描いていると、気持がね、それくらい幸せなことはない、と。生きていることも忘れてしまう。
 
     これは、平成二十一年十一月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである