人間の知恵 仏の智慧
 
                  滋賀県慶照寺住職 宮 戸(みやと) 道 雄(みちお)
一九二八年滋賀県に生まれる。京都大谷専修学院研究科卒業。大谷派同朋会館・補導主任。大谷派四国教区・駐在教導。奥羽、高山、長浜各教務所長。高山、長浜、各別院輪番。大谷派宗務所・企画室長、研修部長を経て、現在、大谷派京都教区近江第一一組・慶照寺住職。著書に「家族の絆」「仏に遇うということ」「念仏者の心得」ほか。
                  き き て    金 光 寿 郎
 
ナレーター:  滋賀県犬上郡(いぬかみぐん)多賀町(たがちょう)。琵琶湖の東岸にある彦根市の東隣にあります。古くから「お多賀さん」として親しまれた多賀大社の門前町ですが、同時にこの一帯は仏教寺院も多いところです。紅葉の季節にはまだ早い十一月中旬。この町の中心部に建つ慶照寺(けいしょうじ)をお訪ねしました。現在住職を務める宮戸道雄さんは、昭和三年(一九二八年)生まれの八十一歳。伝統ある寺院の仏教を自分の生活の中の事実として味わうことによって、現代人の幸せに役立つように心を砕いて、説法にも日々新しい工夫を加えておられます。
 

 
金光:  この多賀町は琵琶湖の東だということは、私も地図で見て知っていたんですが、割に三重県にも近いんでございますね。
 
宮戸:  はい。三重県にも近いし、岐阜県にも近いし、そしてこの辺は湖東三山というて、天台宗の古い名刹がずらっとこの辺に並んでおるんでございます。
 
金光:  それで、こちらの慶照寺さんの本堂というのは、これはいつ頃できたんですか。
 
宮戸:  これはよくわからないのですけれども、過去帳としては元禄ぐらいのものがございます。けど、私は何代の住職かわからないんです。私はここで生まれて三男坊だったんですけど、兄貴が二人死んでしまったもんですから、私がここの住職になったんでございます。
 
金光:  じゃ、いつの時代かわからないぐらいから続いているお寺で、生まれ育ちもこちらで、
 
宮戸:  そうでございます。
 
金光:  じゃ、これからその日頃のご活躍の一端を聞かせて頂きたいと思います。
 
宮戸:  よろしくお願い致します。
 

 
金光:  宮戸さんがお書きになったご本を拝見していまして、ずっと引っ掛かっている問題と言いますか、話題があるんですが、と申しますのは、子どもさんが、「子どもは大人になるんだけれども、大人は何になるんですか?」という質問があるということがありまして、我が身のこととしてそれを考えますと、大人になって、年取って爺さんになったり婆さんになったりして、いずれは死ぬという。そんな答えでは、子どもさんもそのぐらいのことは知ったうえでの質問だとすると、これはどう答えたらいいのかな、みたいなのが時々ふっと私の頭に浮かんでくるんですが、その質問を貰われた時、宮戸さんはどういうふうなことをお考えになりましたでしょうか。
宮戸:  「大人は何になるんですか?」ですか(笑い)。弱りましたね。「見事なお爺になりました」と(笑い)。
 
金光:  それはそうですけど(笑い)。
 
宮戸:  まあ出刃包丁を喉元へ突き付けられた感じでございますね。これは子どもさんの質問ではないわ。これは如来様が私に体当たりしたんだ、と。だから学問があろうと、理論があろうと、そんなものは吹っ飛びます。人間の根底を突いてくる問題ですよ。私はこのことについて、一遍こういう掲示板を出してみたことがあるんですよ。「クイズ」と書いてね。「私は○○○○のためにこの世に生まれてきました。この○○○○の中に適当な言葉を入れてください」というクイズを出したんです。そうしたら、二、三日したらすぐ電話です。
「あの○○○○、何字が正解ですか?」
「正解はないんじゃ。何字でもいいんじゃ」
「正解のないのにクイズというのはあるんですか?」
「あるんだ。一字でもいいじゃないの」
「一字って何です?」
「金よ。私は金のために生まれてきた。いいじゃないの」
「ああ、そういうふうに解釈するんですか。ああ、わかりました」
と言って電話を切ろうとするから、
「ちょっと待て。お前、金貯まったのか?どうだね。税務署じゃないんだからはっきり言え」
「貯まらないんです」
「そうしたら何にもならんじゃないか。何のために生まれてきたか。二字でもいいぞ」
「二字って何ですか?」
「子供よ。子供のために生まれてきました。どうだい。良い子供出来たかよ」
「反抗するばっかりで」
「そうしたらダメじゃないの」
 
あの○○○○の中に何を入れても落ち着かないでしょう。いろんな問題でね。そういう掲示板はなかなか反響が大きいです。
 
金光:  今出ていますのは、今朝拝見しますと、
 
     食べなければ死ぬ、
     が、しかし
     食べても死ぬ
 
というのがありましたが、やっぱり大人になって何になるかという問題に通じるところがありますね。
 
宮戸:  そうですね。そこまで考えません。「寺へ参れ」というと、「忙しくて参れん」というんですよ。「何がそんなに忙しいんじゃね」「食わんならんし。食わんならんから働かないけん」というでしょう。「食っとっても死ぬぜ。大抵食い過ぎで死んでいるじゃないか」(笑い)って、いう話で喋っておりますけどもね。そういう会話ができるということが、住職と門徒の一つの喜びなんですわ。
 
金光:  そうすると、正解を求めるというよりも、自分が生きているということについて改めてもう一度考えてごらんなさい、と。
 
宮戸:  そうなんですよ。
 
金光:  仏さんの方から、お前さん考えろ、ということで、子どもの口を借りてした質問である、というふうに取ればいいわけでしょうね。
 
宮戸:  そういうことです。子どもじゃないんです。如来さまが問われているんですよ。私に問うてくださっているんです。だから私は体当たりだと思います。
 
金光:  そうすると、仏教というのは「仏様の教え」と書きますけれども、如来さんが説いていらっしゃることは、「お前は死ぬぞ。それまでどう生きるか」ということを説いていらっしゃるわけですか。
 
宮戸:  と思いますよ。大体我々はね、「三つの制約を仏様にして生まれてきた」と言われるんですよ。私はそのそんな制約した覚えないですけどもね(笑い)。
一つは、誰しも代わって貰えない。大事なことほど代わって貰えません。御飯食べること、便所へ行くこと、況や死ぬことを。
二つ目は、必ず死んでいかねばならない。この間もある子どもが、「どうして人間は死ぬんですか?」というからね。「お前が生まれてきたからだよ。もうお前は手遅れだ(笑い)。
三番目は、「死ぬということがいつくるかわからない」。
この三つの制約を交わして生まれてきたんだ、と言われるんですよ。だから仏教というものは、何を教えてくれるか、というたらね、これは安田理深(やすだりじん)という先生の言葉ですけども、
 
     仏教は人間奪還の運動である
 
金光:  「人間奪還」ですか?
 
宮戸:  そうです。「取り戻す」ということです。
 
金光:  ということは、人間でないわけですか。
 
宮戸:  どうもご無礼なことを申します。人間の顔をしておるけど、人間じゃないらしいですね。
 
金光:  ということは、どういうふうになると、人間になるか、ということになるわけですか。
 
宮戸:  倉田百三(くらたひゃくぞう)(大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家。超国家主義者:1891-1943)という人がいますね。あの倉田百三さんが『出家とその弟子』という本を書いておりますが、あの中に、「人間は、自己否定が始まってから初めて人間が始まるんだ」ということを書いておられます。だから人間を取り戻すということは、やっぱり自己というものを仏様によって照らし出されて、そこから自己の本当のお姿に遇うたものが人間の奪還という、
 
金光:  そうしますと、自分のことはよくわかっておると。みんなは―私なんかもそういうふうに思っていますけれども、本当の自分のことはわかっておらん、ということが、そこにあるわけですね。
 
宮戸:  それが前提でございますね。わかっていませんね。例えば、これは東本願寺が出しておるある本の中に、こういうことを書いているんですよ。私は、これは非常に感銘を受けておるんですけれども、親鸞聖人が、「信ずれば助かる」と。法然上人の教えをそのように受け取っています。その「信ずれば助かる」という言葉を、現代の私たちのこの感覚に合うように言い換えてくださっている人がいる。誰の言葉かちょっと忘れましたけども、
 
     ささいなことに驚く力を取り戻すと
     一見退屈な日常がかがやいてくる
 
と。こういう言い方をしています。「信ずる」ということは、ささいなことに驚く力を取り戻す、ということでしょう。「助かる」ということは、退屈な日常が輝いてくるということでしょう。私は、そのことをもう一遍考えてみますと、「ささいなことに驚く力」―驚くのに力なんか要るはずないじゃないですか。で、「驚く力」というのは、「自分を切り裂いてくる」と言いますか、「自分を照らし出す」と言いますかね、私は、「切り込んでくる」と言いたいと思います。自分を切り込んでくるような言葉は、こういうことは人間の力ではできないんですよね。先生が座っている座布団、「あんた手前にあげてみろ」と言われたって上げられないでしょう。
 
金光:  それは無理ですな。
 
宮戸:  それと一緒です。「自分を切り裂く」なんていうことは、「否定する」なんていうことは、自分ではできないわな。そういうことで、「驚く力」というものは、これは「仏様の働きに出会う」ということなんですよ。
 
金光:  ということは、今「否定する」とおっしゃいましたけれども、自分を否定しないでいると驚かないわけですか。
 
宮戸:  そう、驚かないですね。
 
金光:  人間というのは、自分でこれでいいと思っているとあんまり驚くことがなくて、なんか自分で自分を邪魔しているようなところがあるわけですか。
 
宮戸:  他人(ひと)が悪いことは、面白いんです。
 
金光:  面白いですね。他人(ひと)の悪口言うのはなんぼでも。
 
宮戸:  自分の悪口言われるのは、本当でも腹が立つんです。という自分ですから。その「自分を探検する」と言いますか、「自分を一遍凝視する」、それが驚く力でしょう。
 
金光:  私はなかなかできませんね。
 
宮戸:  それはできません。「ささいなことに驚く力」というので、私はこの間病院へ行きましてほんとに驚いたことがあるんです。何かというと、私、内科へ行ったんです。内科の主治医が、「私、内科です。専門は内科です」と言いますから、「ほおぅ、内科って何やね」と。そんなご無礼なことを問う奴があるかですけど、「内科って何ですか?」「内科というのは、口で食べて、それを三時間以内に、原形が残らないように溶かしてしまって、どろどろにして、そして腸の方へ送って、腸で吸収する。だから消化、吸収ということを省略して消化器と言うんですよ」「なるほど。そういうことですか」。私が今度は、「消化というのはどういうことですか?」「消化というのは、食べたものが原形が残らんようにとろとろに三時間以内ぐらいなくなっていく。流れ去っていくのを消化と言うんです」。それ聞いて、私は驚きましたな。先生、驚かないですか?
 
金光:  いや、そんなもんだ、と。消化というのは。
 
宮戸:  そうでしょうね。
 
金光:  大体お腹が空くには四時間ぐらいだから、そんなことを考えると驚きませんな。
 
宮戸:  それを「些細なこと」と言うんですが、私はそれを聞いて、「三時間で溶ける。無くなる」ということを聞いて、私は二十年も三十年も前に食べたものが、まだどっかに残っているんですよ。
 
金光:  心の中にあるわけですね。
 
宮戸:  どこにあるのか知りませんよ。どこにあるのか知らんけど、ある証拠があるんです。残ってる証拠があるんです。何故かといいますと、縁がくるとどこに残ってあるのか知らんが、パッとそれがね、二十年も前に経験したことが、三年経験しておいたら、三年分腹が立つようにちゃんとやってくるんです。例えば、例を申し上げますと、私が勤めておりました時に、私の手元で仕事をしてくれておった若い青年がおるんですよ。三十そこそこなんですけど。その方はなかなかご縁がなくって、お嫁さんがなかなかなかった。そうしたら偶然できまして、そして娘さんを嫁にしようと思って家に連れて帰った。ところが面倒なことがあってなかなか上手く進まない。それでその人は、気が早いものだから駆け落ちしてしまって。私の仕事もなかなか一つもできない。そして私も、自分の部下がやっていることですから、一生懸命に私は中に入って、説得したり、脅したりしてね、三年経ったら、やっとまあ一人前になって、普通の夫婦になりました。その駆け落ちした人が、今も勤めておるところがあるんですけど、そこへ私は大学の先生と二人で行って、そこの会社の偉い人と一緒にいろんな話をしておった。そうしたら、その駆け落ちした本人がおるんです。そこに三人で喋っておるのに、お抹茶茶碗を二つ持ってきて、そしてお茶を出すんです。お客さんは僕と大学の先生です。そこの部長さんはお客さんじゃないですから。お茶二つ持ってきたもんですから、大学の先生は飲みました。私は良い格好してね、そこの部長さんに、「先生、あんた、どうぞ」と言ったら、部長さんは飲んだんですよ。お茶足らないです。「お先に」というているんです。後で持ってくると思っているんですわ。ところが三十分ほど話をしたら話が済んだんです。もう帰ろうと思いかけたら、腹が立ってきましてね。「お前、儂を誰だと思っているんだ。わしがあの時に一生懸命に旅費を遣こうて、行く度に土産持って、こんな高い頭何遍も下げて、なかなか拗(こじ)れた話をなんとか元通りに解いたんだ。それがなかったらお前、今頃は路頭に迷うておるところなんだぞ。そんな大事な人が来ておるのに、まあそれなのにお茶が出てこんとは何事だ」と。三年この子のために尽くしたというその経験が、お茶が一杯貰えないということで、全部腹が立つのに変えてしまう。ああ、ほんとに情けないというか、さもしいというか、努力したことはしたんですよ。それに私はお礼を待っておる。どっかでいつまでも礼を言わしたいという、そういう心が三十年も前にしたことが、心の中に消化出来てない。それがまた気が付いても取れない(笑い)。あそこにも出ておりますけどね、
     苦が外からついてくると
     思うているうちは
     苦はなくならない
 
これは蓬茨祖運(ほうしそうん)という先生の名言だと思いますよ。どんなものがきても、全部苦に仕立て直しておるんですよ。何か苦だけを惹き付ける磁石があるんですわね(笑い)。そして、それがわからずにね、「あいつが悪いから苦しんでいるんだ。あいつが苦しめておるんだ」というような形で、我々はそれに気が付かない。
 
金光:  「苦は外から付いてくると思っているうちは苦はなくならない」ということは、やっぱり苦は外から、「彼奴(あいつ)さえいなきゃ、自分は苦しむことがないのに。あの出来事さえなきゃ」というふうについ思いがちで、それで 一方では何とか幸せになりたい、幸せになりたい、というふうに暮らしているわけですが、そこのところの苦と幸せの途中は、どういうふうになるでしょうか。
 
宮戸:  それは、仏教には「苦集滅道(くじゅうめつどう)(四諦(したい))」(苦は生老病死などの苦、集は苦の原因たる煩悩の集積、滅は苦集の滅した悟境、道はその悟境に到達する修行。これを四諦をいう)と言って、「苦」というものを、次は「集める」と書いてあるでしょう。「苦集」ですよ。あれは大事なことですね。
 
金光:  普通原因だと言われますけれども、集めているわけですね。
 
宮戸:  集めるというふうに解釈した方がいいと思いますよ。苦の原因は渇愛(かつあい)だろうけども、それも集めておるんですね。先ほど申しましたように、私が礼を言わしたいと思う心がいつまで経っても消えないもんだから、いつまででも自分でしたことが、徳を積んだことが、
 
金光:  徳を積んだと自分では思っている。
 
宮戸:  そうですよ。彼奴のためにしてこれだけ徳を積んだ。もっと言えば、この家は儂が建てた家や。儂が建てた家に儂が住むのに、何でこれだけ苦労せんならんか、と。辛抱せんならんか。誰に辛抱するのか。若い者に辛抱している。
 
金光:  年寄りが、
 
宮戸:  そうです。
 
金光:  それを言うたら言うほど家の中が暗くなる。結局儂が建てた家に儂が住むのに何故苦労せんならんのか。逆に言うたら、家の人は、この家を建てるために功徳を積んだんですよ。その積んだ功徳が、「儂が建てた」ということを言うもんだから、全部苦の種になる。昔の人は、「儂が建てた」とは言わなかったんですね。「普請(ふしん)した」と言うたでしょう。「家を普請さして貰いました」。普(あまね)く請(こ)うて、みなさんのお力を頂いて、普く頂いて、こうして家を建てさせて頂いた。こういう意味だったんでしょう。この頃はそういうことを言う人はありませんものね。
 
金光:  普く頂いたとすると、別に「儂が」ということが出てこないわけですね。
 
宮戸:  建ったんですよ。そういうとこで、儂が五十年かかって苦労して建てた。それが「儂が建てた」という一言で、全部毒になるの。
 
金光:  「儂が世話をした」というのがあるから、
 
宮戸:  全部毒になるの。蝮(まむし)というのは水を飲むとみな毒に変えるらしいですね。じゃ、毒は私じゃないですか。私の生き方を仏さんが見ると、蝮と同じで、親鸞聖人も「私は蝮以下だ」とおっしゃっています。そこまで自分に会えるということでしょうね。蓬茨先生が、「苦しみが外からついてくると思うているうちは苦はなくならない」これは名言ですね。
 
金光:  ということは、どうにかならんでも、自分の正体と言いますか、「自分が苦の原因をつくっているんだ」ということに気が付くと、今の置かれている状況の中で苦でなくなるわけですか。
 
宮戸:  苦から解放されるんですよ。苦にとらわれないんですよ。例えば数珠の話でもしてみますと、数珠というのはこれはいろんな各宗派によって使い方、言い方が違いますけれども、これは本当は百八珠(たま)があるのがほんまなんですよ。
 
金光:  煩悩の数と一緒で、
 
宮戸:  煩悩の数として百八あるんですよ。だから数珠というのはたとい水晶であろうと、何であろうと、これは煩悩を象徴するものなんですよ。この間こんな話がありましたよ。六十代の人で、子どもさんがないの、跡取りが。それで両方から貰って、跡を継いで貰うことになった。三月ほどは良かったんだけども、だんだんだんだん口数も少なくなって、終いには突き当たってもものを言わんようなことになって、声がするのは婆ちゃんの愚痴だけ。もうそれで、これはどうにかしないと幸せになれんと思うて、爺さんが、自分の家の裏にちょっとこじんまりとした老夫婦の別宅を作ったんですよ。別居したんです。何とかこれでいけるだろうと思ってやってみたら、そのお婆さんが覗き見趣味で(笑い)―穴から覗くんじゃないですよ。今まで儂が住んでおった家はどうなっているだろうか。あれはどうしているだろうか。今日は何を食べているか。もうお婆さん、別居した時の方がかえって悪うなった。だからどうにかせんならんと、別居という形でどうにかしたんですよ。どうにかしても、また同じように困った。善導大師じゃないけど
 
     安心の地あること無し(善導大師)
 
安心するところはどこにもない。こういうことを言うておられる。お爺さんはそれで気が付いたんです。方向転換した。どういう方向転換したかと言ったら、お寺に参るようになったんです。お寺に参って話を聞いているうちに、五年間聞いたら一つわかったことがあった。何がわかったんかと言ったら、儂がこの若い者とどういう姿勢で対しておったか。よう考えてみたら、儂たちが一生懸命に築いてきたこの財産を、この若い者がみな取るんだ、と。そういう姿勢でやってきたから、これは大きな間違いだったな、ということが、お寺へ通うたらわかった、と言うんですよ。そうしたら、私がこれは間違いだったとわかったその時から、若い者が喋ってきてくれるようになった。楽になったんです。この頃私は、嫁さんとも冗談話ができるようになってきた、と。これがお寺でいうている「念仏は一つの法界を開いていくものだ」と。「法界」というのは仏の世界です。浄土ですね。
 
     念仏は一法界を開く
 
あぁ、これだったんだ、ということがわかったんです。そうしたら非常に楽になった。そうしたら、もう一つ問題が見えてきた、と。何かと言ったら、私の長らく連れ合ってきたこのお婆さんが可哀想になってきた。儂のところへ嫁に来て、私の母親という姑に仕えて、仕事ばっかりして、仕事するしか知らない。そして愚痴しか言わない。このお婆さんをなんとか仏様の世界に入ってほしい、と。よし、儂はこれからこのことを一つ目標にして、発願して、そしてお婆さんを何とか。ところがやって見ると、家のお婆さん一人を仏様の前に坐らすということは大変なことなんだ、ということがわかった、というんです。ある日朝のお勤めをしておって、それで台所にいるから「お前も詣って来い」と言ったら、行かんです。「蝋燭点けっぱなしにしておったんだぞ」と言ったら、「あ、そう。勿体ない!」と、走って行って蝋燭を消しに行った。あのお婆さんは蝋燭消すのも、蝋燭が勿体ないから行くんだ、と。それで良い。毎日、「おい、蝋燭消して来いよ」、毎日それを二年間、蝋燭が大分要ったけど大したことない、と。二年間、欲という根性をそのまま仏様に詣るというエネルギーに変えて、この頃では一人で毎日詣る、という話をそのお爺さんがしていました。私はね、一人の人に凡夫だということがわかったら、凡夫だとわからせてくださったその働きは、その凡夫を凡夫のままでおかずに、菩薩という、そういう生き方を私の上に与えてくださったから、これが「お助け」ということなんだろう。だからそのお爺さんは、婆さんが可哀想になったというんです。そうすると、婆さんを何とかしたいと思ったら、今までの娑婆の知恵が全部活きてきて、そしてお婆さんは仏様に詣るようにできた、という喜びを言うておられましたけども、煩悩というものは、別な言い方があって、「使」というのは使うという。「煩悩は人間を使う」んですよ。「人間が煩悩に使われる」んですよ。
 
金光:  いつも使われている(笑い)。そうでしょう。
 
宮戸:  例えば煩悩の代表なもので一ついうならば「慢(まん)」でしょう。「高慢」とか、「卑下慢」とか、「自慢」とか、「我慢」。あの「慢」というのは、比量(ひりょう)と言うて、比べる心というんです。そうすると、人間は比べてみてしか喜ばないですよ。「勝った、負けた」と。比べる心で喜んでいる奴は比べる心で泣く根性です。一緒です。家らの孫でも、小さい時は比べるものがなかったからもう天才ぐらいに思っておりますわ(笑い)。学校へ行って比べるようになったら、なんだ、と。今の人でも、「私がこの家を建てたんだ」と言うているある人は―その人の家は酷い家だったんですよ。ほんとに酷い家だったもんだから、恥ずかしかったんでしょうね。だから慢ですわ。人に負けん根性で家を建てた。なんとその人の六十年間は煩悩に使われたんです。
 
金光:  それはしかし、世界中どうもそういうことが国と国とも、
 
宮戸:  そういうことです。それが一切の根元になっている。だから「彼奴と比べて」というしか喜べないでしょう。家のお婆さんでも、「あの人のことを思うて、寝た切りだけど、私は腰を曲げながら田圃へ行ける。その人のことを思うたら喜ばんならん」こういうてくるでしょう。「人と比べて喜んでおるの」と、私はいうんですよ。「人と比べて喜ぶ心は、人と比べて泣く心。そうだよ」。だから数珠というものは百八あるのが本物なんです。ところが我々が持つ数珠は、百八もすると持ちにくいから、それを四分の一にするとか、六分の一にするという、こういう数にして、手に持つようにしてある。で、この数珠を手にかけて、仏様を拝むのに、手にかけてこう出すというけど、ということは煩悩を仏様の前に差し出すという意味なのよ、これは。差し出したらどうなりますか。見えるでしょう、煩悩が。そうすると、あ、私のやっておること、すべて悩んでいること、すべて私の煩悩からきておるの。これは「須く煩悩の所為なり」という形で、自分に煩悩をつくっておったな。煩悩に私が使われておったんだな、とわかったら、煩悩から解放されるんです。
 
金光:  となると、苦は外からついてくるんじゃなくて、「自分の煩悩が自分を使っている」ところに、その原因がある。
 
宮戸:  そうです。自分の我(が)の心が一切の世界をつくり、一切の苦をつくっておったな、と―わかればですよ。それでこういうふうに出すんです。
 
金光:  数珠を仏様に差し出すということは、仏様の言うことを聞きますから、煩悩さまの方はお取り上げください、ということになるわけですか。
 
宮戸:  煩悩を持て余す心ですよ。煩悩の取れん自分であります。
 
金光:  どこまでいっても煩悩というのは、私から湧いてくるのは煩悩以外にない。
 
宮戸:  煩悩を取ろうとする心も煩悩です、という。
 
金光:  それも大煩悩ですね(笑い)。
 
宮戸:  それはもう仏様の前に差し出す。つまり万歳なんですよ。どうしようもないものであります。万歳が万歳なんですよ。
 
金光:  そうすると、それは考えるよりも差し出せ、ですな。
 
宮戸:  差し出す。そのことは念仏を称えたからというて、助かるんじゃないですよ。念仏できたということの他に助かることはないじゃないですか。
 
金光:  幸福というのは、その辺の仏様の教えに従って、仏様に煩悩を差し出すと、幸福との関係は、どういうことになるんでしょうか。
 
宮戸:  これは幸福というものは、そんなものは大体あると思っていることが、大体おかしいでしょう。
 
金光:  どっかにあるような気がして一生懸命なんかやったりしていますわね。
 
宮戸:  そうです。私は一つの山を見ますのにも―伯耆(ほうき)の大山、あそこに旅行するのにも、バスに乗って歩いていますと、あの山が右に見えたり、左に見えたりします。絶壁があるかと思っていたら、こっちにはなだらかなところがあったり、一つの大山が何故ああいうふうに形がコロコロ変わるんだろうか。「それが変わるのが楽しみですね」という者がおったから、「それを楽しんでおるお前、考えてみい。何故山が変わるんか」「私が進んでいるからだ」「それで考えてみい。お前さんはいつも同じ場所にいるじゃないか。そして自分の婆さんは、「鬼婆だ鬼婆だ」と。
 
金光:  日常生活ではね。旅行ではしょっちゅう変わっていても。
 
宮戸:  そうです。日常生活で、家のお婆さんを十年間も二十年も、「あの婆さんは根性の悪い婆や≠ニいうておる。ということは、お前が一歩も進んでおらん、ということではないか。大山の姿が変わるということは、お前が進んでおる。進んでみたら鬼婆じゃなかったんだなあ(笑い)。仏様だったんだな、とわかったらですよ、こんな幸せはどこにある」。
 
金光:  コロッと変わりますものね。
 
宮戸:  コロッと変わります。それが自由自在に変わっていけるんだ、と。あれの幸せの他に何もありません。「悪を転じて徳となす」なんて、この世界は人間では出てこないんですよ。
金光:  煩悩というのは、煩い、悩みの塊である人間には、自分で「悪を転じて徳になす」なんていうことはできない。
 
宮戸:  できません。そんなことはありません。逆です。徳を転じて毒にしているんです。
 
金光:  濁点がある無しの違いですね。
 
宮戸:  毒にしているんです。
 
金光:  善いことをしても、それがみな残っていて、何かの拍子で、
 
宮戸:  「儂がした」というて出てくる。苦しみの種にしているんです。そうじゃないんですよ。
 
金光:  それは日々の出来事、これは一緒に暮らしている人たちの関係の中で、いろんな出来事が出てきますわね。
 
宮戸:  その出来事というものが全部宝蔵菩薩のお働きなんじゃないですか。私は宝蔵菩薩と一緒に修行しているんですよ。ご縁のある人々とのご苦労が宝蔵菩薩の今の修行じゃないですか。宝蔵菩薩は昔だけ修行しているんじゃないんですよ。今現に目の前で修行しているんでしょう。だからそれだったら、これはかたじけないことじゃありませんか。そういうふうに鬼婆ばっかりをつくっておった自分だと、同じところにおったんだなということがわかればですよ、これは鬼婆は私を育ててくださるためのご修行じゃありませんか。そういうことを日常の在家の生活を仏道化していく。在家の生活をやっていることが全部仏道になっている。仏様になっていく道になっているんです。
 
金光:  仏教というのは、「原因があって、縁があって結果がある」と、よく言いますね。「縁起の教えだ」ということを言いますけれども、そうしますと、今の出来事が、次の結果を生む縁になるわけですね。ということは一カ所にジッとしているんじゃなくて、その縁によってまた違う結果が出てくる。変化があるということが、仏教では説かれているということですね。
 
宮戸:  そうです。逆にいうたら、何がきてもそれをお浄土の縁にしていく。こういうものをもっておったら楽ですよ。
 
金光:  その場合に、自分が「俺が儂が」とか、「私が私が」ということが出てくると、こうしてやろうとか、こうなろうとか、思ってしまうと、なかなか上手く思うようにならんですな。
 
宮戸:  それはやめられんでしょうが。
 
金光:  けれども、「俺が俺が」だけでは、「私が私が」だけじゃ、その通りになりませんよ。さて、どうすれば?
 
宮戸:  止められんからいいんですよ。失敗ばっかりするんですから。止められないから、「儂がした」というでしょう。
 
金光:  言います。
 
宮戸:  これがちゃんと文句言いまして、また次のがくるんです。またきたら、また私は「自分の思うた通りにしよう」と思っておった、と。また自分の元へ還れるわけですよ。また、「ああそうだった。私、これ忘れておった」と、わかったらまた元へ戻ってくる。戻った瞬間にまたそっちへ還るんですよ。だから死ぬまで繰り返しているんですね。いいじゃないですか。
 
金光:  一度「よしわかった」と思っても、それでほんとにずっとわかっているわけじゃいかんわけですね。そうはいかんわけですか。
 
宮戸:  一遍わかったら、お浄土という世界を自分の心の中に開かして貰えるんですよ。「一法界を開いた」というでしょう。若い者に付き合いしている付き合いの姿勢が、儂の財産をみな取るんだ、と。いや、こいつらにやるんだ。そういう姿勢では間違いだったな、とわかったんです。南無した。そうしたら相手が喋ってきてくれるようになったということ、これ法界が開けたんでしょう。すぐ忘れるんですよ。忘れたっていいんですよ。
 
金光:  そうすると、そこのところは、「苦集滅道」の滅ではあるわけですね。苦の原因がそこで一度は滅するわけですね。
 
宮戸:  滅するんですよ。そしてそれがまた人間は元へ戻る。けど、わかったら浄土に私の国籍ができるんですよ。曽我先生の言葉じゃないけど、二重国籍ですよ。娑婆におってお念仏を頂いたら、お浄土に私の国籍ができるんです。二重の国籍なんです。娑婆にも国籍がある。それで浄土にも国籍がある。浄土に国籍がなかったら、娑婆にしかないんだったら、いつまででも年を取れば取るほど、愚痴を言うて歩かねばなりませんですよ。浄土に国籍を開いておったら、そこへすぐ還られるんですよ。
 
金光:  あぁ、そうか。この煩悩に引きずられていたな、ということに気が付くことによって、そこから違うところにちょっと席が移せるわけですね。
 
宮戸:  そうなんですよ。だからそういうことを、「この世の中で念仏一つ申すと、あの世に蓮が一本咲く」と書いてある。ということは、私に頷くというと、お浄土という世界が開けるということなんです。開けるんだけど、すぐ忘れるんですよ。
 
金光:  とすると、人間は如来さんとか、仏さんとかいう言葉を遣いますけれども、仏さんがわかったとか、如来さんのことがわかったとか、それで掴まえてしまうと、これは掴まえているんじゃなくて、仏さんというお働きということでございますか。
 
宮戸:  そうですよ。働きなんですよね。煩悩に引きずり回されて喜んでいる人も、これは一つのご修行でしょう。
 
金光:  しかしそういう修行を、今現に修行中だと思えると、どういう出来事がきても、それはそれで受け止めていけますね。
 
宮戸:  そうです。
 
金光:  どうにかならんと困る。どうにかなったら何とかなる、というところでないところに、足が止まっていますね。
 
宮戸:  そうです。それを「諸仏の世界に生まれる」というんですよ。だから「諸仏の世界に生まれる」ということは、さっきのお婆さんが気の毒になる。あの人になんとかこの喜びを、あの人に喜んで貰いたい、という。人にまで分かちたいぐらいの喜びがあるんですよ。この頃は人と分かちたいような喜びないじゃないですか。
 
金光:  この辺は冬になると、よく雪が降るところですけれども、日本海の気候がそのまま関ヶ原からこちらの方にきますけれども、同じ雪が積もるその下での出来事というのも、やっぱりこれは春に目覚めていくのと、それから秋の枯れ葉がその下で朽ちていくのと、やっぱりさまざまな、すべてがよくなるということではないわけですね。
 
宮戸:   雪の下朽ちてゆくもの萌ゆるもの
          (藤原正遠(しょうおん)
 
これは三月の初めぐらいの北陸の状景でしょうけどねも。雪の下というところで腐っていきますわね。大地に根を持たないものはみな腐っていくんです。ところが大地に根をもっていると、もう雪の融ける前から萌えているんですよ。萌えてきて、萌えてきたものだけが何を思うか。あの雪というのは、寒い、私を押さえ付けておったものだけど、芽が出てくる人には押さえ付けておった、邪魔にしておったものではないんだ。あれは寒いから身を守っている布団だったんだ。こういう展開になる。私を押さえ付けておった雪は、私を守ってくれる布団なんです。みんな布団に守られておるんですよ。苦しみ苦しみというているけど布団なんですよ。
 
金光:  なかなかそう思えなくて、吹雪くと苦しい布団だからもっと身軽にしてほしいとか、
 
宮戸:  雪も取ろうとしています。けどね、卵だってそうじゃないですか。卵というのは、どれだけ殻を磨いたって、人と競争して。あれは卵は卵のままで腐ってまうじゃないですか。卵で生まれてきた目的はヒヨコになるんじゃないですか。ヒヨコになるために生まれてきたものを、卵のままで腐っていくという人がどれだけいますか。私は草や木と比べてみたら、草や木の方がよっぽど増しですよ。草は時期がきたら花を咲かせ、時期がきたらそれを実らせて、そして終わっていく。木は時期がきたら花が咲いて、実をなして、たくさんのものを養っていく。人間は花が咲いただろうか。何か実らせただろうか。何一つ実らずに終わっていくという。これは現代の悲しい状況です。
 
金光:  そうすると、人間が人間になるのには、その人間に生まれて、大きくなって、いろんなものを食べて、年取って、「はい、さようなら」というんじゃ、まだ本当の人間ではない、と(笑い)。でも働いている煩悩は、消えず、みな持っているわけですけれども、そういう煩悩を持っている自分の姿に気が付くかどうか。そこに卵からヒヨコになるかどうかの分かれ目があるということになるわけですか。
 
宮戸:  だから、もう一遍卵を申しますと、卵というのは大体二十一日間親鳥が温めるわけですよ。そうすると、十八日か二十日ぐらい温めますと、そうすると殻があるままで中に目がもう見えるんです。殻というのは何や、と言ったら、殻というのはこれは「我」ですわな。この「我」がなければ、卵が生きていけないのですよ。すぐ砕けて死んでしまうんですよ。この「我」も育てられてくると、中にまず目ができてくる。目ができてくるということは見えるということですね。それから足が出来てくる。そうすると、そこに親と中のヒヨコとが同時に殻を割ってくるという、あの話がございますね。人間は生まれてきましたけども、卵の殻を磨くようなことばかりをしているじゃないですか。自我を磨いてというか、自我を高めてその延長に幸せをみようとしている。ちょうど昔のお経のことなんですけれども、ちょっと愚かな子どもがおってですね、兄弟がおって、弟が月夜の良い晩に、長い物干し竿で天空を向いて振っておる。「何しておるんだ」と兄貴が訊いた。「いや、あのお月さんが綺麗だから落とそうと思っているんだ」と言ったら、兄貴が「バカ!落とそうと思ったら屋根の上に上がってやれ」と言ったら、「はい」と言って。そうしたら、それを親父が聞いて、「やっぱり兄貴は良いことを言う」というのがありますわね。あれそうでしょう。自我を磨いて、なんとかして幸せを手に入れようとするのは弟でしょう。「ほんとに欲しいなら屋根の上に上がってやれ」というのは、あれは科学者で。「親は良いことを言う」というのは、あれは評論家でございます(笑い)。そうすると、そちらの方向には、我々はする必要はない。何故かというと、足下の水を澄ませ、と。足下の水を澄ませば、天井の月は足下に映っておるんだから、ということ。曽我量深(そがりょうじん)先生は、「仏法というものは、自我も伸ばして、自我の延長にできたものを、自我の延長の上に自分を満足しようとしている。自分というものの思いに叶うたもの、それを以てまあ幸せとする。また特別な人は仏様に頼んでそれをいこうとする」と。曽我先生は、
 
     仏法というものが生まれたるがゆえに
     自我の根底に如来を見る
 
「自我の根底に如来を見る」ということは、痛みですよ。懺悔なんですよ。そこからその自我が取れないという。その根底に如来を見るという言葉ですよ。自己が否定されてくるということ、そうすると、その根底に如来を見ることによって、お釈迦様、親鸞聖人、この聖人と同朋となることの声を得るのである、という。こういうふうにおさめてくださっているのですよ。私は今現代世界中が、自我を延長して、そしてその先に仏さんを見、その先に幸せを望んでいます。それは逆なんじゃないのかな。思いというものが、人間は思いだけで生きているのじゃない。思いと事実というものが別でしょう。だからいっくら思いで夢や絵を描いたって、身の事実がどうにもならんじゃないですか。その身の事実というものが、思いと一緒にならないのです。どこまでいっても思いと事実は離れるんですよ。それなのに思いの方が確かで、身の事実の方が間違いだ、と。こういうところに、人間が逆立ちして生きているんですよ。
 
金光:  大体事実の方に目が向きませんね。
 
宮戸:  向きません。「何かの間違いだ。思いもよらぬことになった」という人がおりますけどね、なんか思うようになるんか。
 
金光:  事実が事実で動いていきます。
 
宮戸:  そうでしょう。夢とは無関係なんですよ。思うた通りに身体がついてくるのなら、死ぬ人なんかおりませんよ。
 
金光:  そうですね。いつまでも死にたくない、という。
 
宮戸:  そうでしょう。だから死にたくないんだから、思いはいっくら固めてみたって、私たちは事実を受け取っていく以外にないんですよ。
 
金光:  ということは、事実を事実として受け取ることができるということは、仏様の思いを取り上げられるということなのですか。
 
宮戸:  はからいを取り上げられて、
 
金光:  ということは、人間の知恵は取り上げられて、それで仏様の世界に入れて頂くと。入れて頂くというのか、気付かせて頂いて、また忘れて、また気付かせて頂いて、ということの連続でいくという。
 
宮戸:  そういう運動です。私の運動です。そうすると日常の生活が仏道化していく。それがそのまま人間を奪還してくる。人間を取り戻してくる運動だ、と。私は、これが仏法ということで、これを外したら仏法じゃない、と思います。
 
金光:  というようなことを、肝に命じていかないといかんな、というふうに思いながらお話しを聞かせて頂きました。どうもありがとうざいました。
 
宮戸:  行き届きませんでした。失礼致しました。
 
 
     これは、平成二十一年十二月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである