法然を語る A闇の中から
 
                  広島大学大学院教授 町 田(まちだ)  宗 鳳(そうほう)
                  き き て     草 柳  隆 三
 
草柳:  「法然を語る」の第二回、「闇の中から」です。前回は、何故今法然を語るのか。つまり法然の現代性ということについて語ってもらいました。今回は、法然の教えが歴史上、どういう時代背景の中から説き出されてきたのか。その点を中心にお話を伺ってまいります。広島大学大学院教授の町田宗鳳さんです。どうぞよろしく。一回目のおさらいをちょっとしたいんですけれども、今、私は、「現代性」という言葉を遣ったんですが、つまり今この時代がもっとも必要としているものが法然の中にはあるんだ、ということなんですね。
 
町田:  そうです。思想の革命家として、古い常識を打ち破るお力をもっておられた方、現代も新しい制度を作っていかなければいけない、そういう歴史の節目に差し掛かっていると思うんですけれども、そういう意味で思想の革命家・法然の歩みを探ることは、浄土宗の歴史を越えて、現代の私たちが学んでいかなければいけないことだ、と、私は理解しています。
 
草柳:  その思想の革命家ということは、つまり長い仏教の歴史の中で、法然はそれまでの考え方に対して、それを否定したわけですか。
 
町田:  そうですね。否定したわけですが、彼は十分にそれを学んで研究し尽くして、そして自ら古い制度の修行も重ねて、その上でその教えが、その方法論が、今という時代にマッチしていないという意味で否定をして、しかも新しい方法論を提起したというところに、彼の実践的な宗教家としての側面があると思います。
 
草柳:  新しい方法論というのは、前回詳しくお話頂きましたけれども、それは念仏ということですか。
 
町田:  そうですね。専従念仏(せんじゅねんぶつ)ですが、それは観念の念仏ではなくて、身体性をともなった声を高らかにあげるお念仏、そこに無心に入っていくということを、法然さんは自ら実践して見せたわけですね。しかも念仏を繰り返し繰り返ししていく中に、「三昧発得(さんまいほっとく)」という言葉がありますけれども、精神的に非常に深いところに入って、そこから新しい価値観を引き出してくる、創造してくる、と。そういうことをやってのけた方だ、と、私は思っています。
 
草柳:  そうした新しい方法論、つまり思想の革命家だった法然、で今回のテーマなんですけれども、それは法然が生きた時代と無関係ではなかったどころか、非常に強い関わりがあった、繋がりがあった、ということなんですね。
 
町田:  そうです。法然という人物、宗教家が登場してくる。あるいは専従念仏という新しい思想が生まれてくる。歴史的必然性があったわけですね。その必然性はどこにあったかというと、やはり時代の暗さなんですよ。今回のお話は、少し歴史のお勉強になってしまいますが、法然が生まれ落ちた、そしてそこで生きた時代の暗さ、闇の深さ、それを正しく理解しないと、法然という人間を、あるいは専従念仏の本質を理解することは難しいと思います。
 
草柳:  法然の生きた時代というのは、西暦でいえば十二世紀から十三世紀にかけてですよね。つまり平安時代から鎌倉時代に移るあの狭間ということになるわけですよね。
 
町田:  そうですね。もう飛鳥時代から連綿として続いてきた律令(りつりょう)制度がガラガラと音を立てて崩れ落ちた瞬間です。そこに法然さんは生まれてきたわけですから、やはり時代には意志がある、と、私は常々感じますね。
 
草柳:  律令の仕組みというのは、つまりまさに政治制度でしょう。政治の仕組みでしょう。それがもうガラガラと変わった時代に生きたということですよね。
 
町田:  そうですね。権力構造が変わっただけで、二転三転しているわけですよ。最初法然さんが生まれた時は、まだ実権は天皇にあったと思うんですね。天皇の手から上皇の方に移っていって院政の時代に入るわけですね。今度は院政から武士の手に権力が移っていくわけですが、それも決してスムーズにいったわけではなしに、まず平家の手に権力が落ちて、さらに血が流れて、今度は源氏に移っていった。このように権力が二転三転する大変混沌とした時代に生まれ落ちた、そういう人物であるということを、私たちははっきりと理解しておく必要があると思います。
 
草柳:  年表を用意しましたので、その年表を見ながら、今の話をもう少し詳しくお聞きしていきたいんですけれども、       
 
          「法然年表」

















 
  年 次 年齢      事 歴
一一三三(長承二)
一一四一(永治元)
一一四五(久安元)
一一五○
一一五六
一一五九
一一六七
一一七五


一一八○


一一八一
一一八三

一一八五

  九
一三 一八 二四 二七 三五 四三


四八


四九 五一

五三
美作国(岡山県)久末に生まれる
父時国、夜襲に遭って死す
比叡山に登り後に出家受戒
西塔黒谷叡空に入門
保元の乱起こる
平治の乱起こる
平清盛太政大臣となる
西塔黒谷を出て、東山大谷に住す
専従念仏の教えを開く
「安元の大火」「治承の辻風」の災害
平清盛、福原(神戸)に都を遷す
源頼朝、伊豆に挙兵
平重衡、南都を焼く
養和の大飢饉起こる
木曽義仲、都に乱入
法然「一日聖教を見ず」
壇ノ浦の戦、平氏滅ぶ
 
一一三三年岡山県に生まれるわけですよね。子どもの頃、それから青年時代を過ぎて、そして「保元(ほうげん)の乱」とか「平治(へいじ)の乱」、この辺りからもう世の中騒然としてくるわけですね。
 
町田:  そうですね。まだ法然さんはこの時比叡山の黒谷(くろだに)におりまして、念仏三昧の生活を送っていたと思うんですが、
 
草柳:  修行中なんですね。
 
町田:  そうですね。その時に「保元の乱」と「平治の乱」という二つの大きな紛争が起きたわけです。最初の「保元の乱」の方は、天皇家の皇位継承権と摂関家(せっかんけ)の藤原氏内部の勢力争いという意味があります。それでまた立て続けにもう一つ大きな争いが起きたわけですが、それが「平治の乱」、これは先ほどの「保元の乱」に勝った勝利者内部の論功行賞をめぐる争いでした。ここで平清盛(たいらのきよもり)が一人勝ちをして実権を握るわけです。ここで確実に権力が朝廷から武士の手に渡った、と言えると思います。
 
草柳:  そしてこの後は、最後の壇ノ浦の戦いで平氏が滅ぶまで、この間にほんとにいろんなことがあるわけですね。
 
町田:  そうですね。『平家物語』にありますように、「此(この)一門にあらざらむ人は皆人非人(にんぴにん)なるべし」と。一時は平家が栄華を極めたわけですが、脆くもそれが崩れ去っていたわけです。その次に起きたのが、「安元(あんげん)の大火」(1175年)と申しまして、京都の街が火に包まれるわけですね。朱雀門(すざくもん)とか大極殿(だいごくでん)という歴史的な建物が炎上(えんじょう)してしまう。そしてさらに「治承(ちしょう)の辻風(つじかぜ)」という―まあ大型台風だと思うんですが―これがやってきて、都を本当に崩壊してしまうわけですね。この頃に―一一七五年ですが、法然さんは黒谷を出て都に下りてきます。そして東山に住み始めるわけですけれども、「安元の大火」も「治承の辻風」も目の当たりにされたと思います。時代は決して落ち着くことがなくて、清盛が早々に都を福原(ふくはら)に移してしまうわけですね。これは日宋(にっそう)貿易の拠点であった大輪田泊(おおわだのとま)り(現在の神戸港)ですが、それを近くに置きたいものだから移したと思うんですが、大変経済力に負担を強いたわけですね。それは貴族にとっても負担だし、また庶民にとっても都を移るということは、大変大きな労力を要したわけで、世の中はそれがなくても落ち着かない時にこういうことをやってしまったものですから、平家の評判がこれで地に落ちたわけですね。
 
草柳:  結局、法然は比叡山に何年いたことになるわけですか。
 
町田:  十三歳で上がりまして、四十三歳で山を下っておりますから、三十年間比叡山にいたことになりますね。
 
草柳:  勿論比叡山で修行していたとはいえ、世の中のこうした政治的、あるいは巷(ちまた)の動きを知らないわけはないわけですから、そういう情報は当然入ってきているわけですよね。
 
町田:  そうですね。当時の延暦寺は、宗教の聖地でもありましたけれども、政治的な権力中枢でもあったわけですから、特に僧兵の大変大きな武力集団を持っていた寺院ですから、都で何が起きているかということは、彼の耳に入っていたと思うんですね。黒谷時代も彼は何度か京の都や奈良に足を運んで、南都北嶺(なんとほくれい)の碩学(せきがく)学僧たちに学問を学びに行っていますから、その都度都の様子というのは目にしていると思います。
 
草柳:  片一方で、そういう都の大変な状況を目にしながら、片一方では比叡山にあってもう大変な修行というか、勉強をされたということらしいですね。並はずれた勉強の仕方ではなかったというふうに聞いておりますけれども。
 
町田:  そうですね。十八歳ではやばやと根本中堂のある延暦寺堂塔を離れて、黒谷のお寺に移っていますから、ある程度静寂が維持されたと思うんですが、ここで念仏三昧、あるいは学問三昧の生活を送られた凄い集中力をお持ちだったと思いますよ。
 
草柳:  一日たりとも仏典経典を読まない日はなかった、という話が伝わっていますよね。
 
町田:  そうですね。もう少し後になりますけれども、木曽義仲(きそよしなか)(1154-1184)が都に乱入した時に、「われ聖経(せいきょう)をみざる日なし、木曽の冠者(かんじゃ)花洛(からく)に乱入のとき、ただ一日聖経を見ざりき」というふうに『四十八巻伝(しじゅうはっかんでん)』に記されていますから、毎日毎日お勉強しておられた。一切経を法然さんは五回お読みになった、と。
 
草柳:  一切経というのは経典全部ということですか。
 
町田:  そうです。膨大な量ですが、それを五回もお読みになったと伝えられています。この知識が後ほど彼が専修念仏を打ち立てて、例えば「大原談義(おおはらだんぎ)」と言って、南都北嶺の立派な学僧たちが集まった時に、宗学論争をするわけですけれども、この時の知識が役に立つわけですよ。
 
草柳:  この当時の京都が、どんな惨状だったのか、ということを、例えば『方丈記(ほうじょうき)』を書いた鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記』の中で述べているところをちょっと用意しましたので、それをちょっと読んでみたいと思います。
 
仁和寺(にんなじ)に隆暁法印(りゅうげんほういん)といふ人、かくすつつ、数(かず)も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(こうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁(えん)を結(むす)ばしむるわざをなんせられける。人数(ひとかず)を知らんとて、四・五両月(りょうげつ)を数へたりければ、京の内(うち)、一条よりは南、九条より(は)北、京極(きょうごく)よりは西、朱雀(しゅしゃか)よりは東の、道のほとりなる頭(かしら)、すべて四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬる者多く、また、河原(かわら)・白河(しらかわ)・西の京、もろもろの辺地などを加へて言はば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国(しちどうしょこく)をや。
 
凄いですね。
 
町田:  そうですね。これは一一八一年に起きた「養和(ようわ)の大飢饉(ききん)」の様子を克明に描いているわけですが、この文章を読む限り、四月と五月の二ヶ月の間に、京都市内に見出された遺体が四万二千三百余りと、あまりにも多いので荼毘にふしている閑もなく、仁和寺の僧侶がその遺体の額に梵語の「阿(あ)」の字を書いて廻ったというお話です。
 
草柳:  これはどういう意味があるんですか。
 
町田:  これは供養する、成仏させる、という意味でお書きになったと思うんですが、ここに記されているのはあくまでも京都市内の話ですから、京都の郊外、あるいはこの四月、五月以外の状況をみると、どれだけ多くの方が亡くなっておられたかわからないわけですよね。『方丈記』には、亡くなったお母さんのお乳を吸う赤子の話とか、あるいは自分の家を壊して薪にして売りに出す人、あるいはお寺の建物や仏像まで盗んできて、それを薪として売り出す人が路上に溢れていた。あるいは大変裕福な生活をしていた人が物乞いになって巷を徘徊している、という状況がこの『方丈記』には記されていますから、この時代の暗さ、死が夥しく、現実に溢れている。この状況を法然さんは目の当たりにした、ということを、私たちはしっかりと理解しておくべきだと思います。
 
草柳:  この「養和の飢饉」の時に、法然は五十歳だったそうですね。五十歳の時にこの大変な状況を目の当たりにした。多分きっと法然さんの胸の内というのは、どんなふううだったんでしょうかね。
 
町田:  この「養和の飢饉」の後に、木曽義仲の京都乱入とか、あるいは大地震も起きていますね。ですから、天災人災が幾重にも重なった、そういう社会状況。私は法然さんを「危機の時代の危機の宗教家」というふうに理解しているんですが、もう人間の切羽詰まって追い詰められた時に生まれてきた思想が専修念仏じゃないか、と、そのように考えているわけです。ですからすべての条件を払って、ただお念仏をすれば、誰もが救われる、という教えは、ここまで究極的に社会が困窮した時に、初めて生まれ出る思想だと思います。
 
草柳:  一方こういう大変な時代に生きた人たちが、これはいつ死ぬかわからない。明日自分の命が、あるいは自分の家族が犠牲になるかわからない。そういう不安で当然いっぱいだった筈だと思うんですね。当然社会不安はどんどん広がっていきますよね。
 
町田:  一番人が怖れていたのは死でしょうね。目の前に夥しい遺体が路上に曝されているわけですから。しかも自分もいつ飢餓、あるいは疫病で命を落とすことになるかわからない。大変大きな死の恐怖を抱えて、みなさん生きておられたと思うんですよ。ただ死があんに現実の死で終わらなくて、私の考えでは、その死がどんどん脚色されていったわけですよ。それはどういう脚色かといいますと、三つあるんですが、一つは「怨霊思想」、二つ目が、「地獄の思想」、三つ目が、「末法思想」ですね。ですから自分が亡くなるのは怨霊のせいかも知れない、という恐怖があったわけですよ。
 
草柳:  怨霊というのは?
 
町田:  怨霊というのは、大体無念の思いを持って亡くなっていった亡霊ですが、特に政変に破れた公家とか、貴族の思いが特に都に戻ってきて、さまざまな災いを、先ほど申しました「養和の飢饉」にしろ、「安元の大火」にしろ、すべてこれは怨霊のせいではないか、というふうに考えたわけですね。ですから当時一種の日本の占星術(せんせいじゅつ)とも言いますか、陰陽道(おんみょうどう)というものが―安倍晴明(あべのせいめい)で大変有名ですが、これは中国の陰陽五行(いんようごぎょう)思想と日本の思想が融合して生まれたものですが―陰陽道というものが大変持て囃されるわけですね。
 
草柳:  それはつまり怨霊から何とかして逃れたい。そのための救いを求めるということがあったわけですか。
 
町田:  そうですね。ですから御所の中にわざわざ陰陽寮(おんみょうりょう)というものが設けられて、国体護持(こくたいごじ)―天皇の安全確保のために陰陽師(おんみょうじ)が、「方違(かたたが)え(不吉な方向に移動することを避けること)」とかいろんなことを指示をしていたわけですよ。
 
草柳:  陰陽師というのは政治体制の中に仕組まれていた、ということになると、彼らはいわば公務員ですか。
 
町田:  そういうことになりますね。勿論すべて陰陽師が宮中に抱えられていたわけではなしに、巷にもおられたと思うんですが、さらにそこに出てきたのは密教僧の大きな役割なんですね。密教僧も加持祈祷することによって鎮魂慰霊ということを致しましたからね。むしろ陰陽師よりも後になって密教僧の活躍の場が広がるわけです。
 
草柳:  密教僧というのは、それまでの当時の天台とか真言とかという仏教の坊さんたちのことですか。
 
町田:  そうですね。護持僧(ごじそう)―護る僧というんですが、護持僧制度というものができまして、陰陽師と同じようにやはり国体護持する―鎮魂国家ですね。そういう責務を担わされたのがこの密教僧なんです。『源氏物語』の中にも有名な六条御息所(ろくじょうみやすどころ)の話がありますけれども、彼女は生霊(いきりょう)になって光源氏の恋人や妻たちに祟(たた)るわけですね。そういう時に呼び出されるのも、やはり物語を見てみますと、密教僧だったわけですよ。
 
草柳:  いわゆる加持祈祷をする、ということですか。
 
町田:  そうですね。それは精神的な必要性に迫られて、彼らがしたことですけれども、その一方で大きな財源にもなっていたわけですよ。それは南都北嶺の寺院にとって、加持祈祷をする。朝廷に近づく、貴族に近づくというのは、勿論報酬があるわけですから、大変大きな収入源にもなっていた、という仕組みを理解しておく必要があると思います。その次は地獄ですね。地獄の演出ということがありまして、それまでの日本では非常にシンプル(素朴)な他界観ですね、人が亡くなっても誰もが常世(とこよ)にいく。水平線の彼方、あるいは山の稜線の彼方にある常世に魂が往(い)って還ってくる、と。水平移動なんですね。それほど複雑な他界観ではなくて、誰もが亡くなると常世に往(い)って戻ってくる、と。そういうほんとにシンプルなあの世観を持っていたんですが、仏教が入ってきますと、非常に複雑で理論的な地獄の思想が入ってきて、人の生きている時の倫理的な資質ですね。何をしたのか、ということが問われてくるわけです。
 
草柳:  そういう脚色までしていたわけですか。
 
町田:  勿論それは自然発生的にだんだんそういう地獄の思想が進んでいったと思うんですけれども、そういうことが伺われるのは平安初期の『日本霊異記(にほんりょういき)』ですね、
 
草柳:  敢えて地獄を恐ろしいところだ、という地獄の思想がそれだけこの時代に出てきたというのはどういうことからなんですか。
 
町田:  それは、勿論正しい行いをしないと、「あなた、地獄に堕ちますよ」という宗教的な見知から道徳的な教えを説いたというのが最初の理由だと思うんですけれども、寺院側にとっては、人々が地獄を恐れると、それだけ自分たちに依存してくるわけですから、さまざまな手段を講じて、例えば地獄絵を見せるとか、勧進聖(かんじんひじり)が地獄絵を持って人々に地獄の恐ろしさを語るとか、地獄草紙を語るというふうにして、ああ、私たちが地獄に堕ちないようにするにはお坊様に護って頂かないかん、と。寺院に供養をしなければいけない、と。そういうカラクリがあるわけですよ。
 
草柳:  しかし、地獄思想が入ってくるまでの世の中は、常世とか黄泉(よみ)に代表されるように、そんなに恐ろしいという対象ではなかった死でしょう?
 
町田:  あの世というのは罰を受けるところではなくて、魂が安まるところで、単に暗い場所という、それぐらいの意識しかなかったわけですね。例えば縄文遺跡を発掘しますと、多くの遺体が屈葬(くっそう)になっているわけです。これはどうして屈葬かというと、ちょうど胎児の姿にしているわけですね。そしてしかも縄文の人たちが住んでいた環状集落の中に墓地があるケースが多いんですね。それは速やかに常世に往って、また私たちの人間界に新しい赤ちゃんとして戻ってきて欲しいという願いがあるわけですね。ですから日本には近代以前、水葬とか風葬、鳥葬、そういう自然葬が広く行われていたわけですが、全部同じ考えですよ。沖縄にはニライカナイ(遥か遠い東(辰巳の方角)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界。豊穣や生命の源であり、神界でもある。年初にはニライカナイから神がやってきて豊穣をもたらし、年末にまた帰るとされる。また、生者の魂もニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに去ると考えられている。琉球では死後七代して死者の魂は親族の守護神になるという考えが信仰されており、後生(あの世)であるニライカナイは、祖霊が守護神へと生まれ変わる場所、つまり祖霊神が生まれる場所でもあった)という考えがあるでしょう。
 
草柳:  西方浄土という、
 
町田:  そうですね。海の向こうに神の国があって、人間も亡くなるとそこへいって暫く過ごして、またこの世に戻ってくる、という素朴な他界観があったわけです。
 
草柳:  そういうあの世観、他界観があった時に、地獄の思想が入ってくると、これはもうビックリするどころか、死そのものも恐ろしいけれども、むしろ死の恐怖に取り憑かれるという、それは大変なことだったんじゃないか、というふうに思うんですけれども。
 
町田:  それは当時の人は舌を抜かれるとか、針の山を登らされるとか、あるいは釜で焚かれるとか、そういうことは想像したことはなかったと思うんですよ。それを地獄絵で非常にビジュアルに見せてしまうわけですよ。そうすれば人々の恐怖というのはほんとに煽られたと思いますよ。清少納言が『枕草子』で、私は非常に気丈な女性だったと思うんですけども、宮中で年末の三日間に開かれる仏名会(ぶつみょうえ)という法事があるわけですが、そこでは地獄絵を屏風に仕立てて、それを広げて殿上人(でんじょうびと)に見せるという風習があったわけです。清少納言も子どもの時にそれを見てしまって、思わず自分の部屋に走り帰って布団を被って寝た、というふうに『枕草子』には書かれていますね。
 
草柳:  多分当時第一級の知識人だった人ですら、そういう感じになってしまった。西行(さいぎょう)(1118-1190)の歌の中にもそれらしいものがあるみたいですね。こんな歌なんです。
 
     見るもうし いかにかすべき 我心
       かかる報いの 罪やありける
 
もともと侍だった西行までやっぱり恐ろしかったわけですね。
 
町田:  そうですね。この人には『聞書集(もんしょしゅう)』という歌集があるわけですが、その中で二十七首、地獄絵を見た時の恐ろしさを詠んだ歌があるわけです。今読んで頂いた歌、「見るもうし」というのは、地獄絵を見るのも恐いということですよ。そして、この汚れた自分の心をどうしたら良いのか、と。そうでないと、こういう報いを受けて地獄に堕ちてしまう。私の心も大変深い罪を抱えているんじゃないか、という心配を詠んだ歌ですよね。
 
草柳:  こうした時代の中で、心の闇も見てしまった法然はどうします?
 
町田:  そうですね。まずその前にもう少し時代を描いてみたいんですが、経済的な囲い込み運動のようなものがございまして、思想的に怨霊思想、地獄の思想、末法思想とあるわけですが、南都北嶺の権門寺院にとっては大変広大な荘園を抱えているわけですから、労働力を確保しなければいけないわけですよね。それで普通の農民たち、いわゆる小作農ですが、彼らは仏奴(ぶつど)と呼ばれているんですね。そして荘園寺領は仏国土、そして年貢は仏貢(ぶつぐ)というふうに呼ばれて、すべてお寺への供養という形で労働力を確保したわけですよ。ですから「地獄が恐い。怨霊が恐い」と言って、どこかに逃げたくとも、もし我々の荘園を離れると、まさに「お前たちを呪詛する。呪い殺すぞ」という、一種の脅迫が当時権門寺院のほうからあったわけですよ。ですから一般の人たちはもう雁字搦めになっていくわけですよ。そういう状況を理解していく必要があると思います。そこへ末法という三つ目の仕掛けが、これはインドからきた考えですけれども、仏法には正法(しょうぼう)、像法(ぞうぼう)、末法と、数百年毎に釈尊の正しい教えが廃れていく衰退史観というものがあるわけですが、当時の人は最澄の説をかいまして、一○五二年(永承(えいしょう)七年)ですけれども、これが日本の末法の始まりと信じていたわけです。実際にその年に長谷寺が炎上してしまうわけですが、ああ、ついに我々も末法の時代に入った、と。
 
草柳:  つまりもうすべてのことが乱れに乱れる時代に入っていく、という。教えも廃れていく、という。つまりそれが末法の考え方ですか。
 
町田:  そうですね。怨霊に逐われても、あるいは地獄に堕ちそうになっても、救ってくれる仏法がない、ということになってしまうわけですから、これは決定的に人々を絶望の淵に追いやってしまったわけです。
 
草柳:  完全に八方ふさがりという、
 
町田:  そうですね。あるいは精神的な金縛り状態になるわけですね。
 
草柳:  それを法然はみたわけですか。
 
町田:  そうです。だから法然さんというのは易経(えききょう)に出てくる、
 
     陰極(きわ)まって陽生ず
         (易経)
 
「陰が極まって陽を生ず」という表現が易経にありますけれども、その陰の極みを人々とともに体験するわけです。そこに陽としての念仏が出てくるわけですよ。夜も夜明け前が一番闇が深いですよね。その闇の深さ、それを見てしまった。法然さんご自身も一時期絶望されたと思いますよ、お若い時に。そこから掴みだしたのが十人が十人、百人が百人救われる専従念仏だったんですよ。
 
草柳:  つまり現実のもの凄さを見て、その現実の中からどうやって人々を、あるいは自分も含めてでしょうけれども、変えていくか、ということだと思うんですけれども、しかし凄い変わりようですね。
 
町田:  そうですね。しかし彼は比叡山に三十年もいたわけですから、こういう死の演出の構造を理解していた、と思うんですよ。
 
草柳:  カラクリを、
 
町田:  ええ。現実には死が溢れているわけですよ。しかしその死が生物学的な個体死で終わらない。大変宗教的に意味を持つ死に塗り替えられていく。怨霊思想、地獄思想、末法思想によって塗り替えられていく、その仕組みを大変聡明な方ですから見抜いていたんじゃないか、と。実際に彼がいた延暦寺は大変大きな僧兵手段を持って、僧兵の活動というのは、平安中期から鎌倉にかけて記録されているだけでも百件あるわけですから、もう毎日のように僧兵が騒ぎを起こしていたわけですよ。そういう権力の嫌らしさというものを青年時代に目の当たりにして大変心を痛めていたと思うんですよ。寺院だけではなしに、大きな神社も神人(じにん)(古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあった)という武装集団を抱えて、やはり荘園と権力の確保に走っておりましたからね。そういう政治経済的な構造があり、しかも一方では現実の死をさらに暗く塗り込めるような精神的な説き方をしている。そういう仏教界に対して大変大きな怒りをお持ちになったんじゃないですか。
 
草柳:  このことが称名念仏というところへ繋がっていくんでしょうけれども、その前に町田さんは、比較宗教がご専門でいらっしゃいますね。こういう日本の中世で起こっていたということは、ヨーロッパでも殆ど時を同じくして同じようなことがあったらしいですね。
 
町田:  不思議ですね。人間世界に起きることというのは、孤立した現象というのはあまりないわけで、世界に必ず似たような現象が起きるわけですね。この法然が生きた平安末期から鎌倉期に相当するのは、十四世紀から十五世紀にかけての中世ヨーロッパだと思うんですが、そこで何が起きたかというと、やはり死の判断なんですね。原因は黒死病(ペスト)ですけれども、当時東方交易が盛んになっていた時代ですから、その交易を通じてペストが入ってしまうわけです。ボッカチオ(1313-1375年)の『デカメロン』という本を読んでみますと、イタリアのフィレンツェ―今でも美しい街ですが、当時では世界でもっとも美しい街の一つだったと思うんですけども、そこの住民が全滅近くこの黒死病で亡くなってしまう。さらにはそれが広がって、ヨーロッパの人々の二人に一人がこのペストで命を落としていくわけですね。で、日本で起きたのと同時に、死が単純な死で済まない仕組みが起きてくるわけです。『往生要集』を読みますと、人が臨終の床で二つの相を見せる。一つは、「迎接(ごうしょう)の相」といって来迎の仏たちの顔をして亡くなる人と、「罪相(ざいしょう)」を見せて亡くなる人、と。罪相(ざいしょう)を見せると地獄に堕ちる、ということが『往生要集』に書かれているわけですが、面白いことに、当時のヨーロッパのカトリック教会も同じことを言っているわけですね。「人間の死には良き死と悪しき死がある」と。「良き死」と「悪い死」がある、というふうに言っているんですが、「良い死」は何かというと、ちゃんと生前に遺言を書いて、自分の遺産の十分の一は教会に寄付をします、ということを司祭に認めてもらって遺言を書いたのが良い死なんですね。「悪しき死」のほうは、それを「テスタメント」というんですが、テスタメントを残さない。自分の遺産の十分の一を教会に贈与するという遺言を残さない。そうすると、葬儀も司祭にやって貰えないし、墓地も教会内に作ってくれない。外の荒野に遺体を埋めるという裁きがあったわけですよ。だからこの辺も非常によく似ているんですが、もっと面白いのは、当時印刷術が普及し始めた時ですから、人間は悪魔がやって来た時に、どうすればよいのか。天国に行くにはどうしたらいいのか、という死のマニュアル―『往生術(アルス・モリエンディ)』が読まれるわけです。これは平安時代に流行した往生伝に相当するもの、あるいは源信(げんしん)の『往生要集』の臨終マニュアルなんですけれども、『臨終行儀』という本があるんですけど、それとそっくりですね。ヨーロッパでも日本でも死のマニュアルが書かれて、しかも広く読まれる。さらに日本の勧進聖たちが地獄草紙とか餓鬼草紙というものを―今でいう紙芝居のようなものですが、地獄を描いたものを持ち歩いて人々に地獄に堕ちたくなければお寺に寄進をしなさい、というわけです。これと同じようなことで「死の舞踏(ダンス・マカーブル)」腐っていく屍とか髑髏を描いた木版画を修道士たち、特にフランシスコ会やドミニコ会の修道士たちが持ち歩いて、ヨーロッパ中に死の恐怖を煽っていくわけですよ。
 
草柳:  中世にはいろんなことが洋の東西を問わず起こっていたようですけれども、日本に戻って法然の場合には、そういう差別は勿論法然の教えの中にはないわけでしょうから、民衆のために法然が考え、そして実践したことは、一回目からのお話がありましたけれども、つまりそれが称名念仏を唱えるということで極楽往生という教えになっていったわけでしょう。
 
町田:  そうです。法然さんというのは、二つの眼を持っていたと考えているんです。一つの眼は何かというと、現実を徹底的に正視する非常にシビアな目線を持っておられましたね。決して現実から回避するんじゃなしに、顔を背けるんじゃなしに、比叡山から都に下りてから見たこと、あるいは比叡山の中で起きていること、そういう現実を見るリアリスト(現実主義者)としての眼を持ち、もう一つは、そういう現実とはまったくかけ離れた、前回お話しましたけれども、「アミターユス(Amit?yus)」「アミターバ(Amit?bha)」無量寿、無量光の世界をいつも見つめておられた。そういう不思議な方ですね。ちょっと分かり易いたとえ話をさせて頂くと、私は飛行機に乗る機会が非常に多くて、年間百回以上乗っていると思うんですが、乗る度に私が不思議に思うのは、飛行機というのは何百トンとあって非常に重いわけですよ。そして地上の気象によって、飛行機は揺れたり、飛べなかったりします。地上では台風があったり、雪の日があったりして大変なんですが、しかしいったん離陸して巡航航路に入りますと、一万メートルぐらいに到達しますと、飛行機はピタッと静止するわけですよ。まるで水の中を静かに浮いている船のように、非常に安定した飛行を始めるわけです。私は法然さんの念仏を思う時、その飛行機の巡航航路を思い出すんですね。これは下では雷が鳴っているかも知れない。雪が降っているかも知れない。吹雪かも知れない。大きなハリケーンが来ているかも知れない。これは現実です。それを見ておられた。と同時に、念仏の力によって、一切そういう地上の騒ぎ、変化によって影響を受けない、そういう光の世界ですね。まさに無限の光、無限のいのちの世界ですけれども、それを同時に見ておられた。そういう宗教家ではないか、と私は理解しているわけです。
 
草柳:  そこには一切の条件はなし、
 
町田:  そうなんですよ。飛行機何百トンと言いましたけれども、その何百トンというのは、私たちの煩悩の重さなんですよ。この煩悩の重さが世の中の、特に十三世紀の乱世によって余計に煽り立てられたわけですよ。大変な時代だと思います。しかしその煩悩の重さに負けないだけの念仏の力、声の力によって、浄土の光景、安楽の法門に入っていかれたわけですね。
 
草柳:  その念仏の一行が如何に大事なのか、大事であるか、ということについてご紹介したいと思うんです。
 
     貧窮困乏(びんぐうこんぼう)の類(たぐい)・・・
     愚鈍下智(ぐどんげち)の者・・・
     少聞少見(しょうもんしょうけん)の輩(ともがら)・・・
     破戒無戒(はかいむかい)の人は定んで往生の望(のぞみ)を絶(た)たむ。
     (弥陀如来)ただ称名念仏の一行(いちぎょう)をもって、その本願としたまへるなり。
              (選択集)
 
これを少し砕いてご説明して頂けませんか。
 
町田:  「貧窮困乏(びんぐうこんぼう)の類(たぐい)」というのは、経済的に困窮を極めた人たち。そして「愚鈍下智(ぐどんげち)」というのは、ほんとに愚か、宗教的にも道徳的にも愚かな人たち。そして「少聞少見(しょうもんしょうけん)の輩(ともがら)」というのは、一切の知識、教養、学問のない人たち。さらに「破戒無戒(はかいむかい)」まったく世の中の秩序を守りきれない人たちですね。こういう人たちは、普通なら救いの道はない。成仏往生の希望はもてない。しかし阿弥陀如来は、そういう人たちを救うために本願をお立てになって、ただ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とさえ唱えれば、みんなを救ってあげます、という誓約を立てられたんですよ、ということを、この『選択集(せんじゃくしゅう)』で法然さんは語っておられるわけです。条件付けをしない念仏観ですね。一切の条件付けをしない。経済的な条件、道徳的な条件、さらに当時は階級社会ですから、社会の階層による条件、あるいは女性差別ということも根強くあった時代ですから、性別による区別という、そういうことも条件付けにしない。ほんとに透明な念仏を一緒にやりましょう、ということをおっしゃっていたんだと思います。
 
草柳:  それまでの仏教というのは、救われるためにはしっかり戒を守らなければ、律を守らなければ、約束事を守らなければいけない、ということを、勿論それは否定しないんでしょうけれども、仮にそれができなくとも、阿弥陀の世界、浄土に行けるんだという教えなんですね。
 
町田:  そうです。先ほど申しましたけれども、「陰極まって陽生ず」というところで生まれてきた念仏観ですから、ほんとに人々が絶望の袋小路に追い込まれたところに、最後に射してきた一縷(いちる)の光ですね。悦びとしての光としての南無阿弥陀仏だったんですよ。この時代の暗さ、闇の深さと無量寿、無量光の光の鮮やかさ、このコントラストを見ていくのが、法然を学ぶ面白さの一つですね。
 
草柳:  少し年齢が若いんですけれども、親鸞の言葉として、我々は理解したんですけれども、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉がありますよね。それに繋がっている考え方というか、実践なんでしょうか。
 
町田:  そうですね。みんながみんな自分は悪人だ、と思わざるを得ないような社会状況だった、と思うんですよ。自分のことを善人と、そんなことを思えるゆとりはなかったと思うんですよ。ただ法然さまと親鸞さまとは四十年差がありますから、見ておられた時代背景がやや異なります。危機感が違うと思います。
 
草柳:  一番最初に話がありましたけれども、「時代の思想の革命家だ」と。今まで「称名念仏」しかないと言ったということは、きっと既成の宗教界からの反発が大変強かったでしょうね、風当たりがね。
 
町田:  そうですね。法然さんは非常に過激なことをおっしゃったわけですから、時代の要求として、一切の条件付けをしない救済論を説くためには、それまでの既存の宗教的な価値観を取り壊さざるを得なかったわけです。決して南都北嶺の伝統を否定するんじゃなしに、別な説き方をせざるを得ない状況だった、と思うんですが、結果的にその新しい教えというものは、古い教えの否定になってしまったわけですから、当然のことながら古い伝統的な仏教側からは弾劾迫害が始まるわけです。
 
草柳:  これはこの後またお話が当然あるだろうと思うんですけれども、流罪に遭ったり、大変な目に遭うわけですよね。
 
町田:  でも法然さんのお偉いところは、社会がどういうふうであっても、自分の運命がどういうふうにあっても、殆ど悲観主義に陥ることなくて、すべてを受け入れられていく。しかも下座行(げざぎょう)―自分が下にくだって人々を救いの道に導いていかれた。高いところからお話になるんじゃなくて、同じ地平に立って、非常に具体的な救いの道を人々とともに歩んで行かれたというところに、彼の宗教家としての並々ならぬスケールがあると、私は考えているんですね。
 
草柳:  一番最初にちょっと伺いましたけれども、法然が、今この時代が求めているものを法然は持っていたんだ、ということを一言でいうと、
 
町田:  イメージ力ですね。次の時代に何をみるべきか、ということを、法然さんは、もしここに来られたら、私たちに教えておいてくださるかも知れませんよ。観念では世の中は変わらない。価値観は変わらない。明らかなビジョンを自分の中に構築していく。そこから新しいものの見方、価値観というものが生まれてくるわけですから、私たちなりに、現代人としてはっきりしたビジョンを自分たちの中に作っていくことから、今日の時代の閉塞感が破れていく、と私は考えています。
 
草柳:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十一年五月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである