法然を語る H法然と明恵
 
                  広島大学大学院教授 町 田(まちだ)  宗 鳳(そうほう)
                  き き て     草 柳  隆 三
 
草柳:  「法然を語る」の九回目です。これまでは法然の宗教改革者としての側面をいろいろな角度から見てまいりました。今回はそうした法然の教えに真っ向から対立をして異議を称えた明恵(みょうえ)(明恵房高弁(みょうえぼうこうべん):1173-1232)という宗教家を通して、改めてまた法然の念仏の教えが一体どういうものであったのか、ということについて、今日もまたいつものように広島大学大学院教授の町田宗鳳にいろいろとお話を伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
前回のおさらいをちょっとしておきたいんですが、前回は法然のひたすら念仏をすれば救われるんだというその教えが、かえって人々の反社会的な行動を引き起こしてしまった、という話だったんですね。
 
町田:  そうですね。法然さんの教えがあまりにも革新的で過激であったが故に、急カーブを曲がりきれない人が出てきて、造悪無礙(ぞうあくむげ)とか悪人正機(あくにんしょうき)と、そういった要素が法然の専修念仏(せんじゅねんぶつ)信仰にありましたからね。それが結局反社会的、反道徳的な行為を引き起こしてしまって、
 
草柳:  つまり何をやっても念仏を称えれば救われるんだ、ということを、
 
町田:  そうですね。そうして旧来の仏教寺院、あるいは僧侶たちを尊敬するようなことがだんだんとなくなってきた。そこに危機感を感じた南都北嶺の有力寺院が断固として、法然さん一派を迫害し始めた、と。そういう歴史を語らせて頂いて、法然ご自身はごく自然体で念仏と戒律というものを一体化されて生きておられたと思うんですけれども、その周りにいる人がしばしば誤解をして、そのような行為に出てしまったんでしょうね。
 
草柳:  で、今回は、明恵という、これも大変優れたお坊さんだったようですが、その明恵と対比で見ていこうということなんですね。
 
町田:  そうですね。それまでの法然さんへの迫害とか、弾圧というのは、寺院とか、朝廷とか、組織からなされたわけですけれども、明恵さんは個人的に法然さんの思想をどうしても許せない、と。そういう立場から非常に激しい批判をされたわけですが、法然と明恵というのは、宗教一般普遍的にある信仰と意志と言いますか、感性と理性と言いますか、あるいは自力と対力と言いますか、二つの要素をこの二人の僧侶が非常に見事に対照的に具現しておられた。そこに必然的に起きた衝突だと思います。
 
草柳:  自力と他力といえば、勿論それまでの旧来の仏教は当然自力ということだったわけですよね。
 
町田:  そうですね。非常に意志的で、努力して厳しい修行に立ち向かい、戒律を守り、その上で悟りを開いていく、と。そういうものが大体の仏教の本来の教えですよね。法然さんはそれは要らない、と。もうすべてをかなぐり捨てて一心に阿弥陀信仰の世界に入っていけば、それで救われる、とおっしゃった方なんですね。
 
草柳:  いわばかなり相対立する二人だったわけでしょうけれども、また後で詳しくお話はお聞きしていきますが、明恵は時代は少し後なんですね。
 
町田:  ええ。法然さんより四十歳若いわけで重なっているんです。二十年位は同時代に生きておられるんです。
 
草柳:  会っているんですか。
 
町田:  ところが二人はお会いになっていないんです。顔を会わしたことはないわけですね。もともと明恵上人とおっしゃる方は、非常に法然さんを尊敬しておられたわけですよ。立派な僧侶である、と。戒を守っておられるし、多くの人が本当に深く帰依している。立派な宗教家であると思っておられたわけですね。その方の思想がどういうものであるか、ということを、書物を通じて―この場合は『選択集(せんちゃくしゅう)』ですが―を通じて学ぼうとした。そして『選択集』を繙(ひもと)いてみると、まあ彼にとってはとんでもない教えが説かれていたというわけですね。大体明恵さんというのは、この方は仏教の復興改革を願っていた人で、大体奈良や京都の仏教寺院の堕落頽廃(だらくたいはい)が凄まじい、と。それをお気付きになって、なんとか戒律復興運動を起こすことによって、本来のインドの天竺(てんじく)の仏教を日本に取り戻したい、と。そういうお考えを持っておられたもんですから、法然さんが書かれた『選択集』に、「もう戒も要らない。一心にナムアミダブツと称えただけでよい。誰もが―男も女も、罪ある者も、無い者も、全員が救われるのである。行など要らない」と。そういうことが書かれていたものですから、明恵さんの立場としては、とんでもないことであって、こういう間違った教えが日本に広まると大変なことになるという危機感をお持ちになったわけですよ。
 
草柳:  そして書いたのが、かなり激しい言葉なんですが、
 
汝は即ち畜生のごとし、また是れ業障深重(ごっしょうじんじゅう)の人なり。一代の聖説(せいせつ)、仏道の妙因(みょういん)、都(すべ)て菩提心を離れては余毎なし。
 
町田:  そうですね。激しいですね。四十歳も年上の先輩に向かって、「汝は即ち畜生のごとし」というわけですからね。あなたは動物と変わらない、と。非常に罪が深い。とんでもない人である、と。ブッダ一代の尊い教え、あるいは仏教の修行には、菩提心というものが何よりも大切である、と。菩提心というのは悟りを意志的に開きたいという気持、そこには戒律を守るという強い意志も含まれているわけですけれども、あなたは菩提心というものをまったくないがしろにしています、と。それを離れてしまったら、もう仏教ではありません、というわけですね。非常に激しい口調で攻撃をしておられますね。
 
草柳:  しかも一度ならずも何回も何回も繰り返しだったわけでしょう。
 
町田:  そうなんですね。もう一つ『摧邪輪荘厳記(ざいじゃりんしょうごんき)』という本を書いておられます。その中に、
 
近代法滅(ほうめつ)の主(ぬし)、まさにこれ汝をもって張本(ちょうほん)となす
 
と。
 
町田:  そうですね。近代とは、今の仏教を滅ぼす張本人、真犯人は、あなたにほかならない、と。明恵が法然を正面から攻撃しているわけですね。この人にとっては本当に戒律というのはいのちだったわけですね。明恵さんのお言葉に、「われ、戒を護(まも)る中(うち)より来(きた)る」と。そのようなお言葉があるわけですけれども、もうこれが仏教の真髄だと確信しておられたのに、大先輩で多くの方の尊敬を集めている法然という人物が、戒律をまったく疎(うと)んじている、と。それで非常に怒り心頭に徹するというんですかね、もうとんでもないというお気持ちになられたわけですよね。
 
草柳:  しかしこれまでのお話にあったように、法然自身は自ら「持戒(じかい)の人」と言っているぐらいに、明恵に負けず劣らず戒をきちんと守った人なんでしょう。
 
町田:  ええ。法然さんご自身はそうなんですけれども、その教えがまったく間違っている、と。しかも大変な影響力があって、鎌倉時代の社会に、一気に法然の専修念仏という教えが広がり始めたわけですから、そこに非常に深刻な危機感を抱かれたんでしょうね。
 
町田:  明恵という人が、その時代の、旧来の中に閉じ籠もっていた人ではなくて、さっきのお話のように改革をしようというふうに思っていた人のわけでしょう。
 
草柳:  ええ。この方は改革主義者で、どのように改革するかというと、「還れ釈尊へ」というような、そういうお気持ちで、インドの仏教を理想化しておられまして、なんとかしてブッダが生きていたその時代の仏教に、我々は立ち戻らなければいけない、と。で、この方は珍しい日本における上座(じょうざ)仏教徒と言っていいと思うんですけれども。
 
草柳:  上座仏教といいますと?
 
町田:  原始仏教ですね。最初のインドの仏教が理想的なものであった。そのためにには出家をして、世を捨てて、そして戒を保って、厳しい行をすることによって、やっと釈尊に近づける、と。明恵さんという方は、もう熱烈な釈迦信仰を持っておられた方で―法然さんは阿弥陀信仰ですよね―ところが明恵さんの方は、歴史的な人物としての釈迦に対する思い入れが熱烈なものがあったわけです。
 
草柳:  釈迦信仰と阿弥陀信仰と、どう違うんですか。
 
町田:  阿弥陀様というのは象徴的な仏様ですけれども、釈迦というのは現存した歴史的な人物ですからね。しかも自ら行をして菩提を開かれた。そういう人物をお手本として、何とかしてその釈尊に近づこうという気持をもっておられまして、そのためにはお念仏ではなくて、坐禅をしなければいけないということで、釈尊は菩提樹の元で悟りを開かれてわけですから、その通りやらなければいけないというお考えで、明恵さんのお言葉に、
 
すべてこの山の中に面の一尺ともある石に、わが坐せぬはよもあらじ
(『明恵上人伝記』)
 
と。これは高雄の神護寺(しんごじ)の裏山に行って、いつも登って、一尺の面がある―少しでも坐れる面積がある石があるとすべて坐禅をした、と。一つとして自分が坐っていない石はない、と言っておられるぐらい、坐禅に熱心な方で、それも自らが釈尊に近づきたい、というお気持ちでされていたわけで、神護寺のご本尊は釈迦如来像だったんですが、もう生き仏のようにお仕えしておられた。よく明恵さんは紀州の湯浅(ゆあさ)―ご実家があったところなんですが、その山中に庵を構えられて、たびたび京の都から紀州に旅をしておられるんです。神護寺を留守にされる時は、紀州から手紙を書いてですね―お釈迦様にですよ―仏像に、なんとか生活上困るようなことがあったら弟子に言いつけてほしい、と。そのようなことを本当に誠実に書かれるわけですよ。何かの振りをして、というんじゃなしに、もう本当にそこに生きているブッダが在ますが如くに、お仕えしておられた一つの証ですけれども。そしてまた面白いエピソードが伝わっておりますけれども、お寺では涅槃会(ねはんえ)という、お釈迦様が涅槃に入られたのを追悼する法要があるわけですが、その時涅槃会で経典を読んでいる時に感極まって―感情が非常に高ぶってこられたんでしょうね―気絶した、と。もう釈迦を思うが故に大変気分が高揚して、経典を読んでいる最中に失神された、というふうに伝わっていて、その法要がそれで中断されてしまった、と伝わっています。それほど熱心に、感情的に釈迦を崇め奉っていた人ですよ。
 
草柳:  何故それほどまでに「還れ釈迦」だったんですかね。
 
町田:  一つは、法然さんとご一緒なんですけど、早く、幼くして実の父と母を亡くしておられる。その代わりにブッダを吾が父と思うような、そういう心理的な作用があったと思うんですけれども、実際に自分は日本に生まれたことを悔やまれまして、何とかインドに行きたい、と。それで具体的に計画されるわけですよ。それが『印度路程記(いんどろていき)』という書物になって残っているんですが、中国の長安から天竺インドにある王舎城(おうしゃじょう)までの距離をちゃんと調べて、測って、何日かかるか、何月何日に着くか、何時に着くか、というところまで記しておられるんですよ。もう本気で日本からインドに行くおつもりだったんですよ。釈尊が生きていた国土を踏みたいと、大地を踏みたい、と。そういう強烈な願望をお持ちだったんですよ。
 
草柳:  結局はだけどそれは実現しなかったわけでしょう。
 
町田:  ええ。その時は奈良の春日明神(かすがみょうじん)の巫女(みこ)が託宣(たくせん)というか、神憑りになりまして、お告げをいうわけです。「あなたは日本を離れではいけない。ここで仏教を広めなさい」というようなお告げがあったもんですから、泣く泣く諦められたわけですけれども、それがあるまでは本気で日本を離れてインドに行くおつもりだったわけですよ。
 
草柳:  そういうエピソードというか、お話を聞いておりますと、明恵という上人がどういう人だったのかというのは、なんとなく、ああ、なるほどというふうな感じもしないではないんですが、法然と明恵この二人は、境遇が随分似ていたんだそうですね。
 
町田:  そうですね。お二人とも武家の嫡男であり、しかも父親を敵の刃で失っている。そして非常に愛情深い母親を持っていたけれども、その母親も早く亡くなってしまう。そして叔父の縁故を伝ってお寺に入り出家をした。二人の生い立ちはほんとに酷似している、と言ってもいいぐらいなんですが、そんな幼少期の歩みがそっくりであっても、思想的に非常に離れてくるわけですが、その理由はいくつか考えられるんですね。一つは、生きておられた時代が違う。四十年という時間差がありますから、それは大変見ておられた社会状況が違うわけですね。法然さんの場合は、平安末期の混乱を目の当たりにし、自らもそれに巻き込まれ、そして修行時代は比叡山延暦寺で立て続けに僧兵による争乱と大寺院同士が焼き討ちをかけるとか、そういうものを厭ほど見ておられたわけで、仏教界を理想化するというようなことは到底できない。そういうお気持ちを持っておられましたね。片や明恵さんの方は、承久の乱(じょうきゅうのらん)というものを経て、鎌倉幕府ができて、社会的にある程度安定した時代に生きておられます。そして神護寺で―この方のお師匠さまは文覚(もんがく)という大変個性的なお師匠さんがおられるんですけれども、その師匠が一目置いてですね、明恵さんに好きなように修行しなさい、と。ですから集団の中で行をされたわけではなしに、常に個人的に行をされていた。その修行の環境もまったく違うし、もう三十四歳の時に後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が栂尾(とがのお)に高山寺(こうざんじ)というお寺を建てて明恵さんに与えている。それほどもう社会的に認知されていた人ですよ。片や法然さんの方は、弾圧されたり、都を追われた身の人ですけれども、そういうことから大変思想の違いがあるし、またお二人が学ばれた仏典が違いますよ。法然さんの方は浄土経典ですから、常に念仏をして極楽浄土を憧れるような、そのような経典をずっと学んでこられた。そして明恵さんの方はこの方は密教思想の中興の祖と言われるぐらい密教に詳しくて、また密教と華厳哲学の両方をしっかりと学んでおられて、その中核にある考えは即身成仏(そくしんじょうぶつ)ですから、これは弘法大師が最初におっしゃいましたけれども、この身このままで、あの世ではなくて、今ここにおいて悟りを開くという、そういう基本的な姿勢を持っておられましたから、学ばれた経典の内容によって思想も異なってきたわけですし、そして個人的に性格も随分違ったと思うんですよ。法然さんというのは、どちらかといえば大変鷹揚で、小さなことには拘らないというような面があったと思うし、非常にリアリスト(現実主義者)です。合理主義者でもあるわけですけれども、明恵さんの方は、本当に几帳面、真面目な方、誠実そのものだったと思うんですが、あまりにも理想主義的で、やや寛容性に欠ける面はあったと思います。
 
草柳:  繰り返しますけれども、二人とも、つまりそれまでの宗教、仏教に飽き足らなくて、なんとかしなければいけないという思いは強烈に持っていたわけですね。
 
町田:  そうです。
 
草柳:  それがこれだけ方向が違ってきてしまった、ということなんですか。
 
町田:  そうです。二人ともその当時の仏教に対して大変な危機感を持っておられた。その危機を克服する方法が、法然さんの方は専修念仏で、愚鈍に淡々と称えていく。無条件の念仏で、仏教の命を取り戻そう、と。明恵さんの方は、釈尊が生きたそのままに我々の日常生活も規律に則って正しい振る舞い、行いをすることによって仏教を復興するんだ、というお考えを持っておられたわけですね。非常に意志的なアプローチだと思うんですけれども。
 
草柳:  具体的にはどんなアプローチをしていったんですか。
 
町田:  明恵さんというのは、たくさんエピソードがあって、これを学んでいくだけで大変面白いことがわかるんですけれども、非常に坐禅熱心だった、ということで、一種の超能力というか、霊感も開発されてきたわけですね。不思議なエピソードをたくさん残しておられて、例えばお坊さんは修行中になかなか横にならずに、座睡―坐って寝るんですね。私も修行中、そういう毎日だったんですが、昼寝をするということはなくって、坐って眠るんですね。その時にハッと目を覚まして、弟子に「今本堂の裏で雀が蛇に食われそうだ。行ってすぐ助けて来い」とか「今手水鉢に蜂が落ちたぞ。今すぐ行ってその蜂を救ってやれ」とか、あるいは「今屋根で小鳥が鷹に食われそうになっている。すぐに行ってその鷹を追っ払え」というふうに、弟子に言ったりするんですよ。そういうような一種の透視能力を持っておられた。それはこの居眠りしていたり、坐禅をしていた時にふとおっしゃるわけですね。
 
草柳:  ちゃんとそれはその通りなんですか。
 
町田:  その通り全部現実に起きていたことだったわけですね。予見能力もありまして、超自然的なお力をお持ちで、後鳥羽上皇と鎌倉幕府が対立して、結局権力闘争になる、その承久の乱(じょうきゅうのらん)のことを予言したり、自分の実家である湯浅一族の厄を予言したり、そういう予言能力もお持ちだったんですよ。弟子たちはビックリして、「我が師匠明恵上人は釈迦の生まれかわりだ」と言って騒いだ時に、明恵さんは非常に冷静に、「とんでもない。そんなことは不思議でもなんでもないと。喉が渇いたら水を飲むようなもんで、そんなもの意識をそこにおけばすぐわかることである。君たちがそういう能力が出てこないのは、坐禅に不熱心であるからだ」というようなことをおっしゃったようですがね。大変面白いエピソードをお持ちなんですよ。で、まだお若くて修行中のことですけれども、ともかく華厳経を読むとか、お勉強も熱心だったわけですよ、坐禅だけではなしに。そうすると高雄にある神護寺が当時普請をしていた。大工さんがいっぱい来て、トンカチトンカチやってうるさい、と。こんなところで勉強も坐禅もできない、ということで、経典を携えて二、三日裏山に消えてしまった、と。全然姿を現さない。で、三日後ぐらいにお寺に戻って来て、大工さんとか職人さんたちの昼ご飯を全部平らげる。七、八人分食べてですね、また違う経典を持って山に隠れる、と。そういうお話も残っていて、熱心といえば熱心ですが、相当変わった方ですね。
 
草柳:  今そういう人が近くにいたら、どうなんでしょうか。
 
町田:  楽しいじゃないですか。紀州の湯浅―和歌山市の南の方にある非常に美しい湾ですが、湯浅湾という。そこに苅藻島(かるもじま)という島がございます。その島に恋をされるわけですね、真剣に。
 
草柳:  え!
 
町田:  島に恋を。湯浅に白上(しらかみ)という山があるんですが、そこに庵を構えておられたんですが、眼下に見えている島に恋をされましてね、京都から恋文を書かれるわけですよ。で、その恋文を弟子に渡して、「これを届けてきなさい」と。実際に弟子は都から湯浅まで行って、舟に乗って、その苅藻島(かるもじま)の浜に恋文を投げてきたそうですよ。それは何かわざとしておられることではなくて、本当にその島に恋をしておられた。
 
草柳:  不思議な人ですね。
 
町田:  大変不思議な方で、その背景には非常に深い華厳哲学がございまして、物と心とを分けないとか、すべてのものが繋がっているとか、そういうような思想が華厳経に書かれていますから、その華厳哲学の実践者として、そこまで徹底しておられたんですよ。ですから常に明恵さんというのは、運慶が刻んだ木の子犬をいつも横に置いて愛玩しておられた。それも物じゃないんですね。彼にとっては本当に生きた子犬のように大事にして常に手をかけておられたし、あるいはお母さんの形見の櫛をいつも懐に入れるとか、湯浅の海で捕れたタツノオトシゴの干物―ミイラになったものも和紙に包んで大事に持っておられたとか、もうすべてに対して細やかな愛情を持っておられた。これも彼の華厳哲学の実践という、そういうお考えからくるわけですよ。
 
草柳:  それはすべてのものがいのちがあって繋がり合っている。例えば塵一つもそうだ、というあの教えなんですか。
 
町田:  そうなんです。ですからこの世にムダなものはない。ないがしろにしてよいものはない。そういうお考えをお持ちだったんですね。と同時に、戒律には厳しくて、松茸が大好きだったそうですが、弟子が気をきかして松茸料理を用意したら、「出家たる者が好き嫌いを持つべきではないと、食べ物に。一生懸命弟子が作ってくれた松茸料理を目の前にして、「私は二度と松茸を口にしない」というふうにおっしゃったんですよ。ある時は、やはり弟子が作ってくれた味噌汁が大変美味しかった。思わず「美味しい!」とおっしゃったんでしょう。舌鼓を打った、と。その自分の行い、美味しいものに対する反応を非常に恥じて、そういう感覚的なことに喜ぶべきではないと、出家者は。わざとその辺にあった埃を集めて、味噌汁に入れて、不味くして頂かれたそうですよ。
 
草柳:  随分いろいろありますね。
 
町田:  いろいろありますね、この方は。もう私の著書の中に『法然対明恵』というものがございますけれども、今日のテーマは何時間でも語るぐらいたくさんエピソードがあるわけですね。
 
草柳:  材料には事欠かないという感じなんですね。
 
町田:  もう一つ面白いことがあるんですが、大体人にお会いになるのがお嫌いだったようです。ともかく経典を読まなきゃいかん、坐禅をしなきゃいかん、ということで、時間を無駄にされることはなかったんですね。それで大抵の客には居留守をお使いになったそうなんですが、たまたまその時来た客が、南都奈良の都の学僧たちが華厳経について質問を持ってきたということを弟子から聞かれて、その時はお会いになるわけですよ。ところがその華厳経の話ですから、大変詳しいし、興奮されたわけですね。まる二日間朝も昼も晩も徹夜で話し続けたということなんですね。ですから客の方が困ってしまって、どうしていいかわからない、と。交代で聞いたというんですね。誰かが眠って、誰かが交代で聞いて、それでも話が止まりそうになかったんで、お弟子さんがついに、「もう二日間お話をずっと続けておられますよ」とおっしゃったら、「あ、そうだったのか」と。本人は全然時間の感覚をお持ちじゃなかった。まあ大変な集中力といえば集中力ですし、
 
草柳:  その明恵の話の中で、ガイドブックを拝見していて、これもほんとに不思議だなと思ったのは、「明恵という人が自分が見た夢を克明に記憶をしていた」というくだりがありましたよね。
 
町田:  そうなんです。十九歳から五十八歳までの四十年間克明に夢を記録しておられるんですね。これは世界の宗教史上非常に稀な記録だと思いますよ。明恵さんにとっては、夢もやはり華厳的な世界から見たら大変大切な体験でありまして、「夢中所作(むちゅうしょさ)の学業」というお言葉でおっしゃっているんですけれども、夢を見ることも仏道修行の一貫であると。よく弟子に、「お前たちもどうしてもっと夢を見ないのか。夢を見たら今よりもうんと早く修行が進むのに」というようなことをお弟子さんたちに言っておられますけれども、一つひとつ夢を大事にされた。それは眠っている間の夢もありますし、坐禅をしている時に三昧に入る白日夢(はくじつむ)みたいなような夢もあるわけですが、それを記録しておられるわけですね。
 
草柳:  夢と現(うつつ)の境目はなくなってしまうようなことも、坐禅なんかしているとあるんですか。
 
町田:  そうです。それは坐禅というのは自我意識を破って、深い深層意識の方に入っていくわけですから、当然夢を見るような体験はあるわけですね。普通禅宗ではそういうことは魔境(まきょう)と言って、なるべく顧みないようにしているんですけれども、明恵さんの場合は、その夢の体験を非常に大切にされて、それによってブッダの悟りに近づける、と。面白いのは、明恵さんというのは、先ほどから申しておりますように、非常に戒律に厳しかった方なんですが、夢の中では女性と性的な交わりもしておられるんですよ。それに対して穢れているとか、間違っているとか、そういうお考えを一切お持ちじゃないんですね。勿論現実では女性を近づけることはなかったお方なんですが、夢の中では女性を隔てることなく、肉体的な関係を持った、ということまではっきり書かれておられるんです。
 
草柳:  それはどういう意味があるんですかね。
 
町田:  そのような交わりが、「菩提(ぼだい)の因となるべき儀」というふうにおっしゃって―菩提というのは悟りですね。悟りをひらくためになる、と。性的な恍惚感と宗教的な深い宗教体験で味わう恍惚感とほぼ同じようなものだと考えられるんですね。それを、現代の二十世紀の哲学者にジョルジュ・バタイユ(1897-1962)という方がおられるんです。非常にユニークで鋭い哲学者ですが、この人が、宗教とエロティシズムというものを大変重視して、その二つは決して分けられるものじゃない、と。一体感ですね。宇宙との一体感のようなものは、宗教体験でも味わえるし、性的な恍惚感の中でも体験できるものである、ということを哲学的に書いておられるんです。明恵さんの『夢之記(ゆめのき)』の赤裸々(せきらら)な記録を見ても、そのことが裏打ちされると思うんです。で、明恵さんというのは、耳がなかったわけですね。右の耳をご自分で切っておられる。これは湯浅の山の上の庵に籠もっておられる時に、発作的にされたと思うんですが、常に明恵さんは持仏(じぶつ)として仏眼仏母(ぶつげんぶつも)という仏様を―非常に美しい仏様ですが―その掛け軸を持って歩いておられたんですが、その庵では仏眼仏母尊を掛けて、その前で坐禅をしておられたようですが、そこで耳を切ってしまわれるわけです。とってもハンサムなお坊さんだったらしくって、たくさん女性の信者がいた。女性フアンがいた。その人たちを近づけないために耳を切ったんじゃないか、と。醜くなってね。そのような説明がされる時もあるんですが、私はそのようには考えていないんですね。その時に軸に彼が思わず書かれた賛が残っていますので見てみましょう。
 
草柳:  じゃそこのところを読んで見ます。
 
もろともに 憐(あわ)れとおぼせ 御仏(みほとけ)よ 君より他に 知る人もなし
耳無法師之母御前也(みみなしほうしのははごぜんなり)、南無仏母(なむぶつも) 我を哀愍(あいみん)せよ、生々世々(しょうじょうせぜ)、暫くも離れざれ
南無母御前(なむははごぜん) 南無母御前 南無母御前 南無母御前
 
町田:  これは明恵さんの絶叫ですよ。早くから実の親を亡くされて、非常に孤独感に浸っておられた。その時に、「私のことを知ってくださっているのは、我が御仏―私の仏様、あなたさましかいない」と仏眼仏母尊に話し掛けているわけです。「どうぞ私を憐れんでください」と。「生々世々」ですから、「何代生まれ変わっても私から離れないでください。ああ、お母様、ああ、お母様」というふうに四回も叫んでいるわけですよ。それほど仏眼仏母尊に感情移入しておられまして、思わず母との一体感を求めるという衝動で耳を切られたんじゃないかなと、私なりの分析をしているんですけれども。それほど感情豊かな方だったわけですね。
 
草柳:  自ら耳を切るということでいえば、画家のゴッホがやっぱりそうでしょう。
 
町田:  そうですね。その時の心理状態が同じかどうかは疑問ですけれども、お二人とも天才的な方ですからね。明恵さんには大変重要な思想的な軸がございまして、それは、「あるべきようは」という言葉で知られていますが、その資料をちょっと見てみましょうか。
 
草柳:  人は阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と云ふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様(よう)、俗は俗のあるべき様なり。乃至(ないし)、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背(そむ)く故に、一切悪(あ)しきなり。
(『栂尾明恵上人遺訓』)
 
町田:  「物事はあるべき様にあるべきだ」という考えですね。七文字というのは「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)」のことですけれども、僧侶は僧侶として、在家の者は在家の者として、天皇は天皇のように、臣下は臣下のあるべきよう、というものがある、と。それを崩してはならない、と。それを崩してしまうが故にさまざまな道徳的な悪が出てくるんだ、というような意味ですね。これは明恵さんの思想の中心軸になっている考えで、この考えが当時の鎌倉幕府の執権(しっけん)だった北条泰時(ほうじょうやすとき)も注目しまして、貞永式目(じょうえいしきもく)を作成する時に、この「あるべきようは」という考えを取り入れられたと、そのように言われていますけれども、一方法然さんの方は、先回学んだように、大変危険な思想である、と。こんな専修念仏が広がれば国土が乱れる、と。それが故に危険視されて迫害されたわけですけれども、明恵さんの方は貞永式目に取り入れられるぐらい大事な思想だったわけですね。
 
草柳:  その明恵がどういう人で、どういう考え方をしてこられた人なのか、ということを、今いろいろ伺ってきたんですけれども、最初に言われたように、当初は明恵は法然を勿論認めていたわけでしょう。それが途中で変わってしまった。しかし完全に接点というのはなかったんですか。
 
町田:  接点はありましたよ。これは宗教体験上は見事に合流してくるわけですね。私はお二人のことを、「生の座標軸」「死の座標軸」と、二つの軸で捉えて、生と死の座標軸がある。しかしその座標軸は必ず交差しますからね。方向性は違うようでも、交差するところにおいては、まったく同じものが出てくるわけですね。「生の座標軸」というのは、簡単にいえば、「現世(げんせ)主義」―この世で努力して悟りをひらくべきだ、と。そのようなお考えですよね。来世で救われるんじゃない、と。で、法然さんの「死の座標軸」の方は、「来世(らいせ)主義」と。この世はもう惨憺(さんたん)たる人間の欲が渦巻いて救いようのない世界である、と。だからここではお念仏を一生懸命して来世極楽浄土に生まれることを願いましょう、という。そういう立場ですから大変方向性が違うんですが、交わるところにおいてはまったく一緒なんですよ。
 
草柳:  そして法然が、念仏はこのようにしたらどうか、ということを言っている文章がありますね。それを読んでみたいと思うんですが、
 
現世(げんせ)をすぐべき様(よう)は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいといすてて、これをとどむべし。いわく、ひじりで申されずば、めをもうけて申すべし。妻(め)をもうけて申されずば、ひじりにて申すべし。
自力の衣食(えじき)にて申されずば、他人にたすけられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行(ぐぎょう)して申されずば、一人籠居(ろうきょ)して申すべし。
(『禅勝房(ぜんしょうぼう)伝説の詞(ことば)』)
 
これでダメならこれはどうか、というの繰り返しですね。
 
町田:  そうですね。お念仏が何よりも大切であるという、そういうお言葉なんですよ。もう一度見てみましょうか。
なにわともあれ、お念仏ができるような状況、環境をつくっていくべきだ、ということですね。「ひじり」というのは当然僧侶ですね。もし独身を保つことが難しいなら結婚しなさい、と。結婚して念仏すればいいじゃないか、と。あるいは結婚するとお念仏できないなら独身のままでいなさい、と。「自力の衣食にて申されずば」というのは、自分で経済力があって生活できるなら、そのようにすればいいけれども、もし経済力がないなら、他人に頼りながら念仏に集中すればよいではないか、と。一人で念仏するのが辛ければ、仲間と一緒にすればいいし、人と一緒にするのが煩わしければ一人籠居して申すべし、と。自分で庵に籠もって、たった一人でやればよいじゃないか、と。非常に柔軟な考えなんですけれども、これは明恵さんの「あるべきようは」という原理原則を大変重視する思想とはまったく相反する考えで、念仏さえできるなら生活の形はどうでもよろしい、と。そういうことはとらわれてはいけない、と。そういうことをおっしゃっているわけですね。
 
草柳:  今の文章と前後して、こんなふうな言い方もしているんですが、それも続けて紹介します。こちらの方が先だったと思うんですけれども、
 
人々後世(ごせ)の事申しけるついでに、往生は魚(うお)、食(じき)せぬものこそすれという人あり。あるいは魚、食するものこそすれという人あり。とかく論じけるを、上人ききたまいて、魚くうもの往生せんには、鵜(う)ぞせんずる。魚くわぬものせんには猿ぞせんずる。くうにもよらず。くわぬにもよらず。ただ念仏申すもの往生はするとぞ、源空(げんくう)はしりたるとぞ仰(おお)せられける。
(「魚食と往生について示される御詞」)
 
ちょっと今までのエピソードとはちょっとニュアンスが違いますね。
 
町田:  ある程度お歳になって、柔らかくなってからの表現だと思いますけれども、何を食べるか、というようなことと、人間の救いとは全然関係ない、と。もし魚を食べている者が往生できるというなら、鳥の鵜がするじゃないか、と。もし魚を食べてはいけないと、魚を食べない菜食主義者が往生するなら、猿でもするじゃないか、と。まあ大変愉快な譬えですけれども、要するに食べ物なんかとは何の関係もない、と。それは自分のお好きなようにやりなさい、と。大事なことは念仏を称え続けることだけですよ、という。そういう教えなんですけどね。これも先ほどの明恵さんの「あるべきようは」という、こういう考えからしてみれば、とんでもない教えなんですよ。明恵さんは、インド仏教―上座仏教の戒律を最重要視しておられていたわけですから、出家たる者は絶対菜食でなければいけないし、絶対独身でなければいけないという、そういう形を崩されなかった。ところが法然さんはどんどん形を崩していくわけですね。その真ん中に念仏さえあればよい、と。念仏が我々と阿弥陀を、有限と無限を繋ぐという、そういう確信があるものですから、表面的な形はどのようであってもよいという、そういうことをおっしゃるんですけれども。先ほどこの座標軸が交わるという話を、
 
草柳:  接点があるという話でしたね。
 
町田:  ええ。それは私が常々遣っている言葉ですけれども、「光の体験」なんですね。お二人とも光を目の当たりに見ています。法然さんの方は、お念仏の中で光り輝く阿弥陀を常々見ておられた。尽十方如来、光に包まれる仏を晩年死の床まで見ておられたわけですね。で、明恵さんの方は白上山の庵で耳を切った時に文殊菩薩が現れるんですね。中空に文殊菩薩が現れるんですが、その文殊さんがやはり光に包まれている、と。晩年「仏光観(ぶっこうかん)」という瞑想を始められて―仏の光ですね―常に光に包まれるような仏を瞑想するという、そのような行にも入っておられるわけですが、川端康成(かわばたやすなり)氏がノーベル賞を受賞した時の記念講演で、明恵さんの歌を引用されて世界にも知られたんですが、その歌は、
 
あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
 
お月様を詠んでおられる。「月の歌人」と呼ばれているぐらい明恵さんには月を詠んだ、月を愛でた歌が多いんですが、今の「あかあかや」というのは、実際に月を見ておられたかも知れませんが、私は明恵さんの心を皓々(こうこう)と照らしていた心象(しんしょう)風景じゃないか、と。仏の光に照らされている自分の心のうちを月に譬えて詠まれたんじゃないかな、と思っているんです。ですから明恵さんと光というのは、非常に密接に繋がっている。そして法然さんもそうである、と。光の体験ということで、二人も見事に交わっていくわけですが、これは仏教だけでなしに、例えば四世紀初期キリスト教の父と言われている方ですが、アウレリウス・アウグスチヌス(354-430)という方がおられまして、若い時随分放蕩の限りを尽くされたんですが、その罪の意識を持ってキリスト教に入り、自分の罪の意識、過去の苦々しい記憶を見つめることによって、そこに神の光が射し込んでくる、と。そういう体験を重ねられまして、この人の宗教体験は、「イルミナチオ(証明説)」と呼ばれているんですよ。で、アウグスチヌスが面白い言葉を残しておられるんですが、
 
外に行くな。汝の内(うち)に還(かえ)れ。汝の内にこそ真理は宿る
(『真の宗教について』)
 
これね、仏教の原始仏典の法句経(ほっくきょう)にある「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」と瓜二つの言葉ですね。自分の中に真理がある。光がある、と。外に行くな、とおっしゃっている。キリスト教と仏教がこの辺で本当に重なり合いますね。
 
草柳:  釈尊が最期に言った、という、
 
町田:  そうです。「自灯明、法灯明」。そしてドイツの十三世紀から十四世紀にかけてマイスター・エックハルト(1260-1328?)という神秘主義者が現れていますけれども、この人も自分の絶望を見つめることによって、光に遭遇するわけですが、「光は暗きに照る」という非常に有名な言葉が残っていますが、この人も非常に仏教的な言葉を残しているんですね。
 
その苦悩そのものが当然神的な神の色を帯び、恥辱は名誉、苦しさは甘さとなり、暗黒の闇も光り輝く光明となるであろう
(『教導神話』)
 
というような文章を『教導(きょうどう)神話』という本に残しておられるんですが、自分の恥とか苦しさ、そういうものが甘さとなる、と。暗黒の闇が光り輝く光明となる、と。これは仏教でいう「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」ですよ。ですから中世ヨーロッパのキリスト教神秘学者と、仏教の明恵さんが体験していたような仏光観とか、あるいは法然さんの定善観(じょうぜんかん)とか、集中的な念仏で体験していた阿弥陀の光、そういうものが見事に重なり合ってくるわけですね。これはイスラム教のスーフィなんかもありますし、あるいはキリスト教のグノーシス(超感覚的な神との融合の体験を可能にする神秘的な直感。霊知)なんかにも霊的な光というものを多くの人が体験するようになるわけですけれども、私は教義や儀礼は大変異なっても、世界中の宗教が、その原点にあるのは「光の体験」である、と。これは過去のことだけではなくって、現代でもそのような体験を、必ずしも宗教的でなくっても、例えば臨死体験というものもございますし、いろんな深い体験において光に遭遇するという、そういうことをますます私は気付かされているわけですよ。
 
草柳:  何なんでしょうか。その光というのは?
 
町田:  まあそれはどこから来るのか、人間の深い意識から来るのか、宇宙から来るのかわかりませんが、今日は法然と明恵と大変立場の違う人で、衝突があったわけですが、結局のところ原点において光というものがある、と。そういうことを学ばせて頂いたんじゃないかな、と思っておりますが。
 
草柳:  そこでは二人の接点が当然そういう形であった、ということで、
 
町田:  そうですね。
 
草柳:  次回は「法然の絶対的魅力」ということで、またよろしくお願い致します。今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十一年十二月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである