法然を語る J法然と女性たち
 
                  広島大学大学院教授 町 田(まちだ)  宗 鳳(そうほう)
                  き き て     草 柳  隆 三
草柳:  「法然を語る」の第十一回です。今日は「法然と女性たち」と題しまして、お話を進めてまいりますが、これまでにもあの当時法然があらゆる階層の信者たちから支持を受けていたということは、しばしば触れてまいりましたけれども、今回は特にとりわけ平安末期から鎌倉時代初期にかけて、あの時代に生きた女性たちが一体法然の教えをどういうふうに受け止めていたのか。「法然と女性たち」という題で、いつものように広島大学大学院教授の町田宗鳳さんにお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
今日はいつもとは大分装束が違いますね。
町田:  そうですね。これは私が三十四歳まで臨済宗の修行僧として身に付けていた衣です。
 
草柳:  それはどういう時に着るものなんですか。
 
町田:  これは平生の衣で、これでお経をあげたり、托鉢をしたり、坐禅をしたりします。
 
草柳:  それぞれ宗派によって違うそうですけれども、臨済宗の特徴というのはどういうところにあるんですか。
 
町田:  臨済宗は、修行は非常に行動的ですから、藍染めの木綿衣ということで非常に丈夫であるということと、ここで大きな手巾(しゅきん)という帯をしておりますけれども、これは坐禅をした時に、臍下丹田(せいかたんでん)(臍の下の下腹部にあたるところ)に力が入りやすい、という役割を持っている帯です。
 
草柳:  久しぶりにお召しになって着心地は如何ですか。
 
町田:  何しろ私は二十年間衣を着て暮らしておりましたので、二十数年ぶりに衣を着てみると、やはり気持が引き締まる、そういう気がします。
 
草柳:  それで今日のお話なんですけれども、本題に入っていく前に、前回のおさらいをちょっとしたいんですが、前回は、法然はカリスマ性を持っていた、というお話だったんですが、その正体というのは一体何だったんですか。
 
町田:  あの方は非常に厳しい世を生きて、人間として辛酸を嘗め尽くした、そういうところから非常に深い人間理解力を獲得された。その人間理解の深さこそが法然のカリスマの本質だと、そのように思っているわけです。そして前回「ヒューマン・マグネット(人間磁石)」という言葉を遣いましたけれども、あらゆる階層や職種の方が法然さんを慕ってくるような、何とも言えない人間的魅力をお備えになっていたんではないかと思います。
 
草柳:  山を下りてからの法然というのは、特にそうなったわけですか。
 
町田:  そうですね。勿論ご自身のお父さんが敵の刃で殺されたり、自分が九歳でお寺に預けられたり、あるいは比叡山の修行時代に大変厳しい試練に遇われたり、それまでも大変な体験を重ねておられたと思うんですけれども、やはり都に下りて、いろんな立場の人にお会いになって話を聞かれて、そしてそこでは争いが起きている。大火がある。飢餓がある。そういうものを目の当たりにされて非常に思索を深められたんじゃないかなと思います。
 
草柳:  特に今回のお話はとりわけその中で当時の女性たちがどう法然の教えを受け止めたのか、ということですね。
 
町田:  はい。平安中期辺りからだんだん女性の社会的地位というのはよくなりつつあったと思うんですが、宗教的にはあくまで女性は罪が深い、と。罪人である、と。もし悟りを開きたければ、一度男性に生まれ代わらなければいけないとか―それを「変生男子(へんじょうなんじ)」というんですけれども―女性を宗教的には低くみる見方、それが非常に強かったわけですね。そういう時に法然さんが現れて、男性も女性も区別なく、すべての人が救われていく。むしろ今まで無視されていた弱い立場の女性の方が、阿弥陀様が真っ先にお救いになる人たちだ、と、そういう一種の逆転の発想をやってのけたわけです。
 
草柳:  そういう意味では、女性たちにとっては法然の教えというのはもの凄く新鮮に映ったんでしょうね。
 
町田:  そうでしょうね。女性たち自身が、「あなたたちそのままで、女性は女性のままで、罪があろうがなかろうが、生まれつきのままで救われていくんですよ」と、言われた時、非常に驚いたでしょうね。私は法然の思想を研究し始めた頃から、これは日本の「解放の神学」ではないか、と、そのように考えたわけです。
 
草柳:  「解放の神学」?
 
町田:  これは、一九六○年代に中南米で起きたカトリックの聖職者たちによる農民解放運動だったんです。大地主の元で小作人として働いている農民たちが、大変抑圧され、搾取されている社会状況がありながら、カトリックの聖職者たちが沈黙を守っていてはいけない。積極的に発言をして、弱い立場の人を解放していくべきだ、という神学を打ち立てて、それが具体的に社会運動になって、世界に大きなインパクトを与えた時期があるんですけども、何せ二十世紀後半の出来事ですけれども、宗教学的には、私は十三世紀の法然さんの専修念仏(せんじゅねんぶつ)という思想が、日本の中世において、一種の解放の神学としての役割を果たしたんじゃないか、と。その解放された人たちの中に女性がいた、ということですね。
 
草柳:  それが当時、女性たちにとって、どういうふうな形になって現れてきたのか。それは具体的にはどういうことだったわけですか。
 
町田:  そうですね。法然さんは非常に持戒堅固で女性と肉体的な関係を持つようなことは一切なかったわけですけれども、私は法然さんが心理的、あるいは精神的に女性と非常に深い関わりをお持ちになっていた、と思うんですね。比叡山に三十年という年月をお過ごしになって、ほとんど女性に接触する機会もお持ちにならなかった。そういう僧侶が山を下って都に出て行った時、やはり平安中期から庶民の中に、例えば紫式部(むらさきしきぶ)とか清少納言(せいしょうなごん)とか、非常に強い個性を持った女性がだんだん増えていた、と思うんですね、。あるいは強い個人意識を持ったそういう女性に出会うことによって、もともと専修念仏というのはナムアミダブツを一度でも称えれば何人でも極楽往生できるという、非常に革新的な考え方なんですけれども、その革新性に拍車をかけたのが、私は法然と女性と出会いではなかったかな、と思っているわけです。
 
草柳:  今お挙げになった主張できる女性はともかくとして、圧倒的に多かったのは主張ができなかった女性たちでしょう、社会的には。
 
町田:  そうなんです。多くの女性はおそらく文字も読めない、教育の機会を与えられていなかった。そして先ほど申しましたように、一度亡くなってから来世において男性に生まれ変わらないと―これを「変生男子」と言うんですけれども―悟りを開けない。救われることがないという、そういう考えが常識になっていたわけですね。そしてどうしてもだんだん武家社会になりますから、男性に従うような、服従するような立場に置かれていた。その人たちをまったく平等な人間観で扱った方が法然さんじゃないかなと思っています。
 
草柳:  ということは、つまり法然という人は、ジッとこう坐して待っていたわけではなくて、どんどんそういう人たちの中に入っていった、ということですか。
 
町田:  そうです。都に下りてからそういう女性たちの中に入って行って、具体的に法然さん自身が目を白黒されるような、驚くべき質問を投げかけられるわけですよ。それが『百四十五箇条問答』という資料になって残っています。
 
草柳:  いくつか見てみましょうか。例えばこういうものがあります。
 
一、にら、葱(き)、ひる、ししをくいて、香(こう)(う)せ候わずとも、つねに念仏は申し候べきやらん。
(こたう)。念仏はなににもさわらぬ事にて候。
 
町田:  これはよくお寺で「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」という石碑がございますけども、その「葷」に当たるのが、にら、葱、ひるでして、非常に刺激の強い食べ物ですね。ニラとか、ネギとか、ニンニクとか、あるいは「しし」というのはおそらくイノシシの肉じゃないかと思うんですけれども、そういうものを食べて口にまだ臭いが残っている。そういう時に念仏を称えてもいいんですか、と。汚れにはならないんですか、と。非常に具体的な質問を投げかけておられるわけですね。それに対して法然さんは、念仏には何の障りもない、と。念仏を妨げるものは何にもないのだ、と。それまで存在していたタブーを一刀両断していく潔(いさぎよ)さがあるわけですね。
 
草柳:  こういうことを聞けるような場を作っていたということも、これもなかなか面白いですね。
 
町田:  そうですね。それまでの偉いお坊様に女性が近づいて行って、直接口をきくことも許されていない状況だったと思うんですけども、このように法然さんに迫って行って、誰にも聞けないような問題をどんどん聞いてこられる。それを法然さんがいい意味で隙を見せておられた。人を安心させて、何でも聞いてご覧なさい、という、そういう何か柔らかい雰囲気を醸しておられたんじゃないでしょうか。
 
草柳:  じゃ、次です。
 
一、七歳の子死にて、忌(いみ)なしと申候はいかに。
答。仏教には忌という事なし、世俗に申したらんように。
 
町田:  これは七歳のお子さんを亡くしたお母さんが、法然さんに聞いているわけですね。子どもが亡くなったけれども、ものの忌みということはない、とおっしゃいましたね。それは本当ですか、と確かめているわけですね。それに対して法然さんは、いや、もともと仏教にもの忌みという、人が亡くなってから何日間は謹慎しなければいけないという考えはないんですよ。世俗ではそれがあたかも常識となっていますけれども、私はそれが仏教本来の考えだとは思いません、と、ここでも断言しています。
 
草柳:  いわばそれまでの仏教の常識と言われていたようなことを、こうやって次々と、「いや、そうじゃないんだよ」というふうに言ったわけですね。
 
町田:  お答えは非常に単純明晰なんですけれども、こういうことをそれまでの数百年の仏教の歴史がある中で言い切るというのは、相当の自信と勇気がいったことだと思いますよ。
 
草柳:  そうでしょうね。次は、
 
一、父母(ぶも)のさきに死ぬるは、罪と申し候はいかに。
答。穢土(えど)のならい、前後ちからなき事にて候。
 
町田:  これが、もしお子さんが法然さんにお尋ねになっていたら、かなり深刻な質問なんですが、例えば自分が病気で間もなく亡くなるかも知れない。父や母よりも先に死んでしまう。そうすると極楽にいけない。場合によっては地獄に堕ちる、と他のお坊様からご説教を聞いているけれども、それは本当ですか、と。これが本当に病気を持つお子さんからの質問だとすると、相当な悲壮感があったと思うんですが、それに対して法然さんは、この世の習いとして、人間がどちらが先に死ぬか。そんなものは年齢順ではない。ですから全然そういうことはご心配なく、気にする必要はありません、と。法然というのは大変徹底した合理主義者なんですね。現実を直視(ちょくし)して現実に添ったアドバイスをされるというところに、彼の一つの大きな特徴があるように思いますね。
 
草柳:  続けてこれを見てみましょう。
 
一、月のはばかりの時、経よみ候はいかが候。
答。くるしみあるべしとも見えず候。
 
町田:  これも面白いですね。女性が生理の時にお経をあげてもいいんですか、と。これはおそらく当時としては、法華経をあげておられた方が多いと思うんですが、生理中に法華経をあげてもよろしいんですか、と法然さんに聞いているわけです。法然さんが何の問題があるんですか、と。一切そういうものは苦しみにならない。何の気にする必要もありませんよ、と、お答えになっている。しかしその女性が持戒堅固のお坊さんに近づいて行って、月の障りのことを聞けるという、その事実に私は驚きますね。
 
草柳:  次はこれなんですが、
 
一、妻(め)おとこ一つにて、経よみ候わん事、いかけし候べきか。
答。これもおなじ事、本体はいかけしてよむべく候。念仏はせでもくるしからず。経はいかけしてよみ候べし、毎日によみ候とも。
 
町田:  これも面白いですね。ある女性が昨晩ご主人と夫婦の営みをもったんですけれども、そういうことがあった次の日お経をあげる場合、「いかけ」というのは湯浴みをすることです。行水することです。必ず行水をして身を清めるべきですか、と。これも独身の法然に大変思い切った質問をぶつけていると思うんですけれども、それに対しても、これも同様に、「本体」というのは、お経そのものを読む時はなるべく行水をしてからお経をあげた方がよいけれども、お念仏の場合はそういうことは全然気にしなくて、何事があっても「ナムアミダブツ」と称えればいいんですよ、と、お答えになっているわけですね。お経の場合は毎日あげていても、なるべく行水をしてからあげなさい、と。これも非常に具体的で、現実的なアドバイスの仕方ですよね。そこに私は法然らしさが滲み出ているように思うんですけれども。
 
草柳:  こういう問答を聞いておりますと、当時の、いわば古典的な仏教の縛りというものが、如何に強かったのか、ということを逆に表しているような気がするんですよね。
 
町田:  そうですね。女性に限らず、いろんなすり込みはあったでしょうからね。タブーというものがあって、それをしてはいけない。あれをしてはいけない、と。タブーを破ると地獄に堕ちるぞ、と。そういう一種の強迫観念を持っていた人が大多数だと思うんですよ。それはもう庶民だけではなしに貴族にもあって、そういうものを綺麗にスパッスパッと切っていかれた。それは必ずしも何かの経典に根拠を求めてお答えになっているんじゃなしに、自分の宗教観、あるいは体験を踏まえて単刀直入に答えていかれる。この辺にも武士の血を引く法然らしい潔さを感じます。このテキストは『百四十五箇条問答』というぐらい、百四十五の質問があるんですが、これをつぶさに見ていけば、大変面白い問答が展開していて、当時の人が法然さんの専修念仏をどのように受け止めておられたか。かなりリアルに理解できます。
 
草柳:  しかもそれを直接法然にぶつけることができたというのは、法然その人がそういうものを受け止める懐の深さというんでしょうか、そういうものがないとね。
 
町田:  器が大きかったんですね。いつか明恵さんのお話をした時、「愛心なきはすなわち法器にあらざる人なり」という、愛情の心がなければ仏法を学ぶ器ではない、と。そのように法然さんを敵視していた明恵上人が言っておられるけども、まさに私は法然さんというのは誰に対しても愛心を持って接しておられた方ではないかと思うんですよ。ご自身は非常に「智慧第一の法然房」と言われるぐらい比叡山きっての秀才であった。凄く仏典に関しても広範な知識をお持ちになった方で、そして三十年間にわたって相当厳しい修行もされていたと思うし、念仏も別時(べつじ)念仏のような集中的な念仏を繰り返しておられた。それを表に出さずに、来る人来る人に非常に分かり易く、誰もが納得するような教えを説かれたというところに、まさに法然の大きな魅力を感じますね。
 
草柳:  もう一ついわば極めつけというべき問答が、遊女との間にもあった、ということですね。
 
町田:  そうですね。これは非常に物語性のあるエピソードですね。
 
草柳:  ちょっとそれを見てみましょう。こういう言葉なんですが、
 
述所(のぶるところ)、誠に罪障(ざいしょう)かろからず。酬報(しゅうほう)又はかりがたし。
弥陀如来汝がごときの罪人の為に、弘誓(ぐぜい)をたて給へる其中(そのなか)に、女人(にょにん)往生の願いあり。然(しからば)(すなわち)女人はこれ本願の正機(しょうき)也。念仏は是(これ)往生の正業也(しょうごうなり)
(「室(むろ)の津(つ)の遊女に示されける御詞(おことば)」)
 
これは、最後に「室の津の遊女に示されける御詞」とあるんですが、これは法然が讃岐に流された道中のことだそうですね。
 
町田:  そうですね。今で言えば、兵庫県の瀬戸内海に面した相生(あいおい)の海辺りに、今も室津(むろつ)がございますけれども、あそこで京から讃岐に流される中途にお寄りになったと思うんですよ。これから四国に渡るという時に、法然さんを乗せた舟を追いかけてきた小さな舟がありまして、そこに何人かの遊女が乗っていたわけです。おそらく船乗りたちを相手に春をひさぐ、そういう商売をしておられた女性だと思うんですけども、彼女たち自身が非常に苦しんでいる。私たちは人に侮(あなど)りを受けるような職に就いている。そしてこういう汚らわしい身だと地獄に堕ちる、と、そのように人からも言われているし、自分たちもそのことで悩んでいる。どうすればよろしいんでしょうか、と、法然さんの舟を追いかけて来て質問をしたわけです。それに対する法然さんのお答えが今の文章ですけども、まずこの前半に、「あなたたち、確かに職業に就いていることは罪が深い。できるものならお止めなさい」と、まずおっしゃるわけですね。「しかし生活の糧がどうしても他にないのならそのままでもよろしい。罪は非常に深いですから、来世どういうことがあるかわからないんだけども、人間というものはそれぞれに運命がありますから、私はあなたたちを裁きません。もし他に食べていく道がなければ、そのままお念仏をしなさい」と。そういうくだりが前半にあって、こういう言葉が出てくるんですけども、「阿弥陀如来というのは、みなさんのような罪人ですね、罪の深い人のために本願をお立てになったんだから、心配は要らない。阿弥陀様が女人往生の願をお立てになったんだから、まさに阿弥陀様が救おうという真っ正面にいるのが、みさなんのような弱い立場に置かれた女性なんですよ。その自分たちの罪をそう嘆くなかれ。決して自分を卑下してはいけません。そしてあなたたちを救う力を持っているのが念仏、その念仏は是(これ)往生の正業也(しょうごうなり)と。あらゆる仏教の修行の中で最善の修行であるから、安心してお念仏を称えていきなさい」と。これも非常に現実に即した答えだと思うんですよ。「できるなら止めなさい。だけども止められないやむを得ない事情があるなら、それはそれでよろしい。そのままでいきなさい。ただお念仏をして阿弥陀さんの本願力を信じて生きていけばいいんですよ」と。本当に現実に即した話しぶりですよね。そこには描かれていませんけれども、おそらく聞いた遊女たちははらはらと涙を流して、法然さんに手を合わせてお念仏を称えたんじゃないか、と、そういう光景が想像されてきますよ。
 
草柳:  しかも多分きっとここで大事なことというのは、私は裁く立場ではない、と。むしろそういう人たちの境遇に共感をするというのか、それは聖書のイエスの言葉に似ていませんか?
 
町田:  そうなんですね。聖書の中に姦通の罪を犯した女性に向かって、律法者たちが石を投げつける。今も「石打の刑」というものが中東の一部に残っていたりするそうですけれども、女性が不倫関係を持つとか、あるいは結婚前に男性と関係を持つとかいうと、石をぶつけられて―リンチですよね―そういう風習があったわけですけども、そういう場にたまたまイエスがでくわして、「あなたたちの中で罪のない人から石をどうぞお投げください」と言って、ご自身は地面にしゃがみ込んで、黙って何か文字をお書きになった、という。そういう場面がございますけれども、やっぱりイエスさんもその女性と同じだけの罪を抱える人間として弱さをお感じになっていたんではないか、と。ですから最後に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい」と言って彼女を解放するわけですね。ですから法然さんが室津で遊女にお会いになった時も、「決して自分は持戒堅固な悟った僧侶として、あなたたち、穢れのある女性に対して喋っているんじゃない。自分も常々十悪の法然房と―十の種類の深い罪を持つ法然である」とおっしゃっていたわけですから、やはりそこには凄い罪を抱えた弱い人間としての共感があったと思うんですね。ですから法然さんに言葉を頂いた女性たちも納得して感動したんだと思います。もし彼が上からの目線で何か忠告めいたことを言ったとしたら、本能的に女性たちは拒絶したかも知れませんよね。
 
草柳:  そうですね。そのことというのは、あらゆる階層に関係なくというのは、女性の中にも当然階層というのはあったわけですから、例えば先ほどちょっと例に出た紫式部とか清少納言、ああいう層の人たちにとってはどうだったんですか。
 
町田:  その一例として鎌倉幕府の北条政子(ほうじょうまさこ)(源頼朝の正妻:1157-1225)ですね―尼将軍と呼ばれるぐらい坂東武者も恐れをなす強い女性だったらしいんですけれども、彼女が法然さんに再々手紙を書いて教えを求めていますからね。当時の政治権力の中枢にある女性が、法然さんの教えを乞うというのは、やはり彼は社会的な階層に拘らず、いろんな立場の人の女性に平等に話をしていたという証拠と考えていいですね。北条政子は権力者とは言え、実際に非常に辛い立場におられたと思うんです。二人の息子を亡くしておりますし、母として、妻として、そして晩年は政府機関の最高権力者として、もう板挟みになって、その心中は本当に苦しいものがあったと思うんですよ。簡単には人に弱みを見せることができない立場ですよね。そういう人が法然さんに長々とお手紙を書いて、いろいろ道を求めた。またそれに対して法然さんも丁寧に答えている。だからよほど当時法然の存在感というのは大きかったように思いますね。
 
草柳:  北条政子に宛てたと言われるのがこれなんですが、
 
深く仏のちかいをたのみて、いかなるところをも嫌わず、一定(いちじょう)迎え給(たも)うと信じて、疑う心のなきを深心(じんしん)とは申し候なり。いかなる過(とが)をも嫌わねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
(「浄土宗略抄(じょうどしゅうりゃくしょう)(鎌倉二位の禅尼へ進ぜられし書」)
 
これはどう解釈すればいいんですか。
 
町田:  これは仏様はどなたもお救いになる。一切分け隔てなくお救いになって、必ずみなさんを御浄土でお迎えなさる。そのことを疑わない。それを信心、深い信仰というんですよ、と。しかしながら如何に阿弥陀仏にそういう本願があったとしても、それにかまけて、決して権力を横暴に振る舞ってはいけませんよ、と。やはりその立場の人にもっとも適切なアドバイスをしていますね。北条政子もその気になれば、どんなことでもできた立場におられたわけですが、あなたはやはり戦でたくさんの部下、兵士を亡くしてしまうような立場にありますけれども、一心に念仏しておれば間違いなく御浄土にいけます。しかしながら重々その身をわきまえて、決して権力を横暴に振る舞うようなことがないように、と釘をさしているわけですよ。
 
草柳:  北条政子と法然というのは直接会ったことがあるんでしょうか?
 
町田:  それは記録には残っていないんですが、彼女は熊野詣(くまのもうで)などに出掛けていますから、おそらく都に立ち寄って当時既に評判の高かった法然さんに会われた可能性は相当高いと思います。じゃないと、こうして親しげに手紙を交わすということはなかったと思うんですね。記録に残っているもの、残っていないもの、ございますけれども、相当な数の人が法然さんにお会いになって、いろんな立場からアドバイスを求めていたんじゃないかな、と思います。
 
草柳:  もう一人、町田さんのテキストの中には、式子内親王(しょくしないしんのう)(1149?-1201)との関係も触れていらっしゃいますね。
 
町田:  そうなんです。この方は後白河(ごしらかわ)天皇の皇女―娘であって、賀茂(かも)神社の斎院(さいいん)という神様にお仕えする女性だったわけですね。伊勢神宮には斎宮(いつきみや)と呼ばれる、やはり天皇の娘が置かれていたわけですが、式子内親王は十歳の時から十年間にわたって上賀茂、下賀茂神社の斎院をお勤めになる。非常に清らかに身を保っていかなければいけないわけですから、結界(けっかい)である「み垣(かき)の内(うち)」で生活を過ごさなければいけない。大変制約された境遇にあられた方ですね。四十近くになって式子内親王は出家をしてしまわれますが、それまで実に波瀾万丈な女性として政争に巻き込まれて都を追放される、という裁きもお受けになっているんですが、何しろ神に仕える女性として恋愛もままにならないわけですよ。ところがこの人は新三十六歌仙の一人に選ばれているほど歌の達人で、大変恋歌が多いんですね。具体的に恋人を持てる立場にはおられなかったわけですけれども、不思議と多くの恋愛を、あるいは自分の恋慕の情を詠んだ歌がたくさんあるわけです。
 
草柳:  一つ二つを紹介したいと思うんですが、例えば、百人一首の中にこの人の歌が入っていますよね。
 
玉の緒(お)よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの弱りもぞする
(『新古今和歌集』)
 
これは有名な歌ですね。
 
町田:  そうですね。特定の男性を恋い焦がれるあまりに出てきた歌だと思うんですけども、「玉の緒」というのは命のことですからね。もうこの命が尽きてしまうなら、もうどうぞ尽きてけっこうです。これ以上長生きしても、あなたを慕い続ける力はございません。そういう精神力も体力もありません、と嘆いている歌ですよね。果たして式子内親王が誰に対してこの歌を詠んだのか。誰に対して恋慕の情を寄せていたのか。それは確実な資料はないわけですけれども、一説によりますと、式子内親王は随分歳は開いていますけれども、法然さんを憧れていたんじゃないか。蔭ながら思慕していたんじゃないか、ということが言われています。
 
草柳:  そういう説もあるんですか。
 
町田:  そうなんです。
 
草柳:  それからもう一つこういう歌もあるんですが、
 
見えつるか見ぬ夜の月のほのめきて
つれなかるべき面影ぞ添ふ
 
これも恋歌ですね。
 
町田:  そうですね。「見えつるか見ぬ夜の月の」というのは、月影が現れたり隠れたりしている様(さま)ですけれども、ちょうどおぼろ月を見るように、私が恋い焦がれる人も、見えたり隠れたりしている。なかなか近づくことができない。これなんかも法然さんが戒律を厳しく保って、女性の個人的な関係をお持ちにならなかった。あるいは大勢の人に囲まれて、なかなか式子内親王は、先ほど申しましたように、斎院で神社に仕える立場におられるわけですから、行動の自由がきかないわけですよ。そう簡単に「み垣の内」を出て男性に会いに行くということはできないわけですから、ちょうど夜空に浮かぶ月が雲の中から現れたり、あるいは隠れたりするように、会いたくてもなかなか会えない。その方の面影がこの月影と重なっている、という歌なんですね。大変ロマンチックといえばロマンチックなんですが、女性の立場からすれば、一種の悲壮感が漂う歌ですね。
 
草柳:  こういうふうにお話を伺ってきて、法然と女性、つまり法然の教えを女性たちがどういうふうに受け止めたのか。あるいは法然の人となり、といったものが、その女性との問答の中からよく浮かび上がってくるような気がするんですが、ただ一般的に考えれば、当時の社会情勢、あるいは政治状況の中で、宗教家と女性というのは大変タブーというか、つまりなかなか宗教家が女性の中に、女性側もおいそれとは簡単に仏教の教えの中には入っていけない、というような時代ではなかったんじゃないですか。
 
町田:  そうですね。今も東南アジアなどに行ってみると、上座仏教が非常に影響力を持っていますから、国によっては遠くからお坊様が歩いてきただけで、女性は道端に避けて、お坊様の衣に身体が触れないように気を付けておられる。この二十一世紀においても、僧侶と女性の関係というのは、それほど何か神経質なものがあるわけですね。ましてや法然さんが生きておられた時、そこには大きな壁があったと思うんですよ。ただ内々には妻子を持つお坊様はけっこうおられたように思うんですよ。建前として、やはり僧侶は女性に近づいてはいけない、と。女性は生まれかわりして男性に一度ならないと救われない、と。そういう常識が蔓延(はびこ)っていたんですけれども、しかし宗教家と女性というのは、これは永遠のテーマでして、何も仏教に限らず、古今東西の宗教を見ていけば、戒律というのは非常に重要なんだけども、私は女性を阻害して、社会的にも思想的にも阻害して成り立つ宗教というのはないと考えています。で、私が修行していた臨済宗に「婆子燃庵(ばすしょうあん)」という非常に面白い公案があるんですが、「婆子」というのはお婆さまですね。お婆さまが庵を焼く。これは坐禅中に工夫を重ねる公案(問題)なんですけれども、このエピソードはどういうものかというと、ある山の麓で修行僧を二十年間にわたって供養し続けた老婦人がおられて、そろそろ二十年も庵で坐禅していたんだから悟りが深まったんじゃないか、と。そこでお婆さんがテストするわけですね。若い十代の女性を彼の庵に送り込んで、後ろから抱きつかせるわけですよ。そして「その反応を見てきなさい。彼がどのようにあなたが抱きついた時に反応するか見てきなさい」と。お婆さんが若い女性をわざと送り込むわけです。で、彼女が言われたようにした時に、その修行僧は「枯木寒巖(こぼくかんがん)に倚(よ)る。枯れ木が岩に生えているようなもので、私は一切感情が動かない。厳冬の中で一切の温もりを感じないように、女性に抱きつかれたからといって、私の情欲が動くようなことはないんだ」ということを言うわけです。その若い女性は聞いた通り、お婆さんに報告したら、婆子が非常に怒りまして、「私はなんという俗物を二十年間にわたって支えてきたのか。供養のし甲斐がなかった」と言って、その坊さんを庵から追い出した、と。非常に愉快な物語が公案になっているんですけれども、私は法然さんというのは―禅の人ではないですけど―この婆子焼庵に対して見事な回答を示した、そういう生き方をされた宗教家ではないかと思うんですね。それは式子内親王も非常に病弱でしたので、亡くなる直前に法然さんに長い手紙をお書きになって、「是非会いに来て頂きたい。今生で最後のお別れになるかも知れないし、最後のお説法を聞きたいし、是非是非私の屋敷に来て頂きたい」と切々たる手紙をお書きになられたけれども、それに対して法然さんは非常に異常なほど長いご返事をお書きになるんですが、結局「自分は別時念仏中だからこの場を離れるわけにはいかない。あなたを思う気持ちは重々あるんだけれども、あなたが必ず極楽往生するように私の念仏の功徳を向けます。ですから今生ではちょっとお会いすることはできません。きっと来世で、お浄土で再会することがありましょう」というような心のこもったお答えをされるわけですけれども、その法然の式子内親王に対する返信を見て、私は禅宗の婆子焼庵の理想的な回答ではないか、と、そのように思うわけです。
 
草柳:  その心はなんですか。
 
町田:  さぁ(笑い)。それは戒律を崩してはいけないし、やはり人間的な思いやり、情感、そういうものも抑圧してはいけない。そのバランスのとれたところで、具体的に現実に即して行動していきなさい、というところがおそらく答えだと思うんです。法然さんと式子内親王がどこまで緊密な関係をお持ちになったか。これはなかなかはっきりしない面はあるんですけれども、私は先ほど申しましたように、宗教家と女性というのは大変意味深い関係に置かれていると思うんですね。例えばイエス・キリストには、マグダラのマリア―聖書には「改悛(かいしゅん)した罪の女」と表記されておりますけれども、イエスが十字架に磔(はりつけ)に遭った時と復活した時、両方に立ち会っている人ですね。大変イエスにとって重要な立場におられた女性だと思うんですね。他にも思い付くところを言えば、アッシジの聖フランシスコ(1182-1226)には修道女のクララという、これも大変歳は開いているんですけども、クララはアッシジの聖フランシスコに大変憧れて十八歳で修道女になってしまうんですけれども、大変お金持ちの家の娘さんだと言われておりますけれども、修道女として非常に質素な生活に入っていかれる。別な修道院に暮らしていたわけですが、私はこの両者の間に大変太い心の繋がりがあったんじゃないかなと思っています。
 
草柳:  日本の場合、良寛と貞心尼(ていしんに)の例だってありますよね。
 
町田:  そうですね。良寛さんが七十歳、貞心尼が三十歳、その時に出会って、お互いに相聞歌を交わし合った。それは資料になって残っていますし、親鸞さんの場合は、比叡山から京都の六角堂に百日間にわたって参籠されて、ついに如意輪観音のお告げ―夢告をお受けになりますよね。だから親鸞さんにとってもやっぱり女性の存在というのは大変大きかったと思うんですよ。
 
草柳:  これをちょっとご覧頂きたいんですが、これは勿論親鸞のケースというか、親鸞の言葉なんですが、
 
行者宿報(しゅくほう)にてたとい女犯(にょぼん)すとも、我玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯(ほん)せられん、一生の間能(よ)く荘厳(しょうごん)して、臨終に引導(いんどう)して極楽に生ぜしむ。
(『御伝鈔(ごでんしょう)』)
 
町田:  これは親鸞さんが如意輪観音からお聞きになった言葉として記されているわけですね。観音様が、「あなたはとっても業が深くて、女性と肉体的な関係を持たざるを得ないなら、強い欲望があるなら、私が女性となって、あなたに抱かれましょう。そして生涯にわたってあなたをお守りして、必ず臨終の時には極楽に往生できるように導きましょう」と、そう観音様がおっしゃったというわけですね。同じ浄土真宗の方にはずっと時代が下りますけれども、蓮如(れんにょ)上人―この方は非常に浄土真宗の発展のために大きな貢献をされた方ですけれども、この方も五人の奥様―一人ひとりご病気で亡くなっていかれて、五人の女性と結婚されるわけですけども、八十五歳までに二十七人のお子さんをおもうけになった。やはり大変深い男女の関係の中で生きておられたように思います。で、禅宗の方では、私がいた大徳寺の高僧である一休禅師は七十七歳の時に森女(しんじょ)という全盲の女性に住吉大社(すみよしたいしゃ)の境内でお会いになって、一目惚れをして、晩年まで大変深い愛欲の生活を送った。それが彼の残した『狂雲集(きょううんしゅう)』という詩集に書かれているわけですけれども、日本の場合は、仏教僧と女性というのは建前で切れるような、そういう関係じゃないですよ。やはり日本の宗教というのは、古い神道(しんとう)の歴史を見てもわかるように、「産(う)みの力」産土(うぶすな)の力というものを大変高く評価してきた宗教的土壌がありますから、そこで仏教の種が蒔かれた場合、日本の独特の仏教の開化の仕方が、今日お話した法然とか親鸞とか、あるいは一休、蓮如という宗教現象として現れてきたわけですね。
 
草柳:  最初に今日「解放の神学」という言葉があったんですけれども、法然がそれまで女性は罪が深くて決して成仏できるものではない、ということがなんとなく女性の間にも絶望感として広がっていった中で、つまりそこからの解放だった、ということだと思うんですが、つまり差別ということで、法然自身が自分の中で差別の辛さといったものを山ほど抱えていたから、女性のそういう境遇に目がいった、ということだと、僕は理解したんですが。
 
町田:  そうですね。やはり新興の武士のお家にお生まれになって、彼自身が社会的に大変辛い立場に置かれていた。比叡山でも貴族出身の僧侶と違った扱いを受けていた筈ですから、弱い立場にある方の気持を十分に汲み取ることができたと思うんです。彼が女性に対して、「あなたたちはそのまま極楽往生できるんですよ」とおっしゃった場合、やはり口先だけではなしに、彼には本当に深い確信があったと思うんですよ。それもやはり比叡山で長年積まれた修行が基盤になって、十人が十人、百人が百人、罪人は罪人のまま、悪人は悪人のまま、善人は善人のまま、そのまま生まれつきのまま救われていくんだ、という確信を自分の中にお持ちになっていたから、人に話した場合、言葉にした場合、大変説得力があったように思うんですね。
 
草柳:  しかも「諦めてはいけない」と言い続けてきた人だと思うんですが、最後にこの言葉を紹介したいんですが、
 
かなわぬ物ゆえに、とあらんかからんと思いて、決定心(けつじょうしん)おこらぬ人は、往生不定(ふじょう)の人なるべし。
(「つねに仰せられける御詞」)
 
町田:  そんなものは到底叶わない、と。あれやこれやと条件を考えて決断力のない人は、結局極楽往生できないんだ、とおっしゃっているわけだけど、これは私は非常に今日的なメッセージを持っていると思うんですね。私たちも自分たちの才能とか、いろんなことを考えて、自分たち自身にブレーキをかけているところがありますけれども、きっと私の夢を実現するんだ、と。必ず自分は夢を実現するし、必ず幸福になるんだ、という確信を持った時に、きっとそれが実現していくんですよ、という教えとして受け止めたら、これは非常に今日的なメッセージになり得るんじゃないかと思いますね。
 
草柳:  このシリーズの一番最初に、町田さんがおっしゃった言葉を今思い浮かべたんですけども、大事なのは、「今をちゃんとしっかり生きることだ」と言われましたね。
 
町田:  そうですね。勿論未来に希望を持って、その希望はきっと実現するんだ、と。そういう確信をもって、今という時間を大切に生きていくこと。過去に何があっても、それに思いを引きずらずに、今という時間を大切にして、きっと自分の夢が実現するんだ、という気持で生きていくことが、人間として何よりも大切だし、幸せなことだ、と思います。
 
草柳:  いよいよ次回は最終回なりますが、よろしくお願い致します。今日はどうも有り難うございました。
 
町田:  有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年二月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである