法然を語る K日々新た
 
                  広島大学大学院教授 町 田(まちだ)  宗 鳳(そうほう)
                  き き て     草 柳  隆 三
 
草柳:  「法然を語る」いよいよ今回が最終回になりました。十二回目です。「日々新た」という題で、今日はお伝えしてまいります。法然が亡くなってからちょうど八百年が経つわけです。その八百年という大変な時代を越えて、法然が一体今我々に何を語り掛けているのか、ということをテーマにして一年間放送してきたわけですが、法然が生きた大変な動乱、あの時代の中で法然が人々に語り掛けたそのことが、階層を越えていろいろな人から、多くの人から支持をされてきた。その秘密は一体どこにあったのか、という話をお聞きしてきたわけですが、最終回の今日は、今までたびたび触れてまいりましたけれども、法然の現代的な意味、法然が持っている現代性というのは一体何であるのか。それを纏めとしてこの一年間お話をしてきてくださいました広島大学大学院教授の町田宗鳳さんに伺ってまいります。どうぞよろしく。
 
町田:  こちらこそ。
 
草柳:  一年間、いろいろな角度から法然についてお話を伺ってきたんですが、今回も前回の纏めからまた入っていきたいんですが、前回は「法然と女性」というタイトルだったですね。
 
町田:  そうですね。比叡山で三十年という歳月をお過ごしになってから、都に下りて、そこでさまざまなタイプの女性にお出会いになった。その出会いの中で、法然さんご自身念仏信仰、宗教的な思想の深まりというものがあったと思うんですよ。宗教家として女性を精神的に解放された、という一面もありますが、反対に女性から法然さんが、今までの古い宗教思想から解放されたという、そういう面もあるというお話をさして頂いて、そして仏教に限らず宗教家にとって女性の存在というのはほんとに大きいものがある、ということもお話さして頂きました。
 
草柳:  そして一年間のお話の中で、折りに触れて、「今、何故法然なのか」ということに触れて頂いてきたわけですけれども、法然の一番の特徴としては、つまり念仏―専修念仏―ひたすら念仏をすれば救われるのだ、ということが勿論中心にあったわけですね。それは考えようによっては、現在の我々には、果たして念仏だけでほんとに救われるの?という疑問もなくはない。その辺はどんなふうに考えていけばいいんでしょうか。
 
町田:  念仏という形にとらわれる必要はまったくないと思うんです。法然さんの専修念仏は、別名「愚鈍念仏(ぐどんねんぶつ)」と。愚かに鈍に称える念仏と呼ばれたりするように、その念仏の精神のもっとも核心のところには、「愚に還る」という、そういう考え方があると思うんですよ。「愚に還る」というのは、どういうことかと言いますと、「あらゆるとらわれ、自分たちそれぞれが抱え込んでいるとらわれとか、思い込みをかなぐり捨てていく」ということです。自分をどんどんそういうとらわれや思い込みから解放していく。私たちが法然さんから学ばなければいけないというのは、その一点に尽きるように思います。
 
草柳:  今日は改めてもう一度、「何故今法然なのか」ということなんですね。
 
町田:  そうですね。
 
草柳:  先ず最初に、これをお読みして、それからお話を進めて頂きたいと思うんです。これは法然の『選択集(せんちゃくしゅう)』というのは唯一の著作といったものなんでしょうか。
 
町田:  そうですね。
 
たとい一形悪(いちぎょうあく)を造(つく)るともただよく意(こころ)を繋(か)けて、専精(せんしょう)に常に能(よ)く念仏すれば、一切の諸障(しょしょう)、自然(じねん)に消除(しょうじょ)して、定(さだ)んで往生を得(う)。何ぞ思量(しりょう)せずして、すべて去る心無きや。
(『選択集(せんちゃくしゅう)』)
 
これはどういうことを言っているんですか。
 
町田:  これがまさに今日のテーマである「日々新た」というお気持ちを表現しておられると思うんです。この現代訳をガイドブックで私が書いておりますので、ちょっとその部分を読ませて頂きます。
 
ここに語られている言葉をあえて意訳すれば、「きのうの絶望は、きのうの絶望です。今日という、真っ白に真新しい日を、仏さまがあなたのために用意されています。それを感謝して生きていきなさい。それだけでいいのです」ということではないでしょうか。
人間ですから、誰でも悲しみに遭遇します。ときには、悲しみを通り越えて、錯乱したくなるような絶望の淵に落とされることもあります。それが人の世というものです。でも法然は、そのように拭い去り難きつらい思い出があっても、それはそれとして、日々新たに、今日という日に立ち向かっていけと言っているのです。
念仏とは、仏を想うことです。念仏の念という字は、今の心と書きます。現時点でしていることに心を置き、そこに仏を感ずるなら、それこそが最良の念仏となります。
もっと簡潔に言うのなら、「今を大切にする」ことが、忙しい現代人に課せられた念仏ではないでしょうか。そしてこのことこそが、信仰のあるなしにかかわらず、この世に生を授けられた者なら誰も避けて通ることができない最後の条件となります。
 
このように書かせて頂いています。ですから「過去に何があってもそれを引きずるな」ということですよ。「今ここに生かされて、ここにいる」という、そういう実感を味わう、そのための念仏であるわけですね。ですから現代人の私たちが「ナムアミダブツ」という念仏を称えるかどうかは個々の問題ですけれども、私は「生かされて今ここにいる」という実感を、私たち一人ひとりが味わっていく。そういう責任があるし、またそこに生き甲斐があるように思うんですよ。
 
草柳:  ただ「今生かされて今ここにいる」という、その実感というのはなかなか持ちにくいと言いますか、今のこの現代の慌ただしい世の中の中で本当にそういうふうに思うということは至難のことではないか、という気すらするんですよね。
 
町田:  いや、それほど難しいように捉えないほうがいいと思います。それをちょっと分かり易い図を用意してお話をさせて頂こうと思っているんですが、ここに「生きがいの創造」と書いておりますけれども、現代人はどうも心と体がバラバラになった状態で生活してしまっているんですね。特に日本なんか恵まれた快適な国ですけれども、あまりにも恵まれて心と体を一つにしていくような生活態度、ライフスタイルを忘れてしまっている。「愚かなまでに、ていねいに生きる」と書いていますけれども、日常の家事でも―お洗濯にしろ、お料理にしろ、お掃除にしろ、あるいは会社で仕事をする、その一こま一こまに自分の心を丁寧に向けていく。それで心と体がピタッと一つに重なり合ってくるわけですよ。この図で言えば緑の部分ですけれども、あそこで「嬉しい」とか、「楽しい」とか、「有り難い」という感情が自然に湧いてくるんですね。ですから何か特別な行(ぎょう)をする必要はなくて、私たち平々凡々と生活をしているその中で、なるべく心と体を重ね合わせるという練習が必要なわけですよ。だからお食事をする時は、ほんとに食べ物を美味しいなと、作ってくれた人に有り難いなと、心を込めて頂く。一杯のお茶にしろ、一杯のビールにしろ、それを本当に味わうと、それが大事だと思うんです。それが現代人にとっての念仏の意味でもあるように思っているんです。
 
草柳:  法然にあっては、それが念仏の教えの真髄というか、一番中心にあったことなんですか。
 
町田:  そうですよ。口称念仏(くしょうねんぶつ)、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)ですから、大きな声を出して「ナムアミダブツ ナムアミダブツ」と言っている間にこの心と体が重ねってきたわけですからね。だから現代人の私たちは、必ずしもお念仏じゃなくても、例えばスポーツをする時、音楽を演奏している時、そういう時にもこういう一体感というのは味わうことができますからね。それはやはりちょっと意識をして、心と体の重なり合った部分を増やしていくという心掛けが大事で、本当にそれが一体になってきますと、深い喜びが内から湧いてきますから、そこまでいけば下手な宗教とか道徳を語る必要はないわけですよ。自分が喜びを知っているわけですからね。
 
草柳:  法然という人は一日五万回も六万回も念仏を称えた、というお話がありましたですね。
 
町田:  もう楽しくて止められなかったんじゃないですか。
 
草柳:  楽しいんですか?
 
町田:  努力して称える念仏じゃなしに、どんどんナムアミダブツと出てきて、そこにまさに心と体の重なりを感じて、押さえがたい喜びが滾々と湧いてきた。そういう念仏を称えておられたんじゃないかな、と思うんですよ。
 
草柳:  しかしそのことは、生きることにどういうふうな良い影響になってくるわけですか。
 
町田:  自分が非常に満ち足りた気持でおれば、いろんな拘りが自然と消えていくわけですよ。前回『百四十五箇条問答』というものを引用して、女性とどういう会話を交わされたか、お話をしましたけれども、あの中でも本当に気持ちが良いくらい、それまでのタブーをスパッスパッ切っていかれるわけですね。それはいろんな拘り思い込みを自らの中に消していかれた。法然さんだからこそ言えたことだと思うんですよ。法然さんの有名なお言葉に、
 
     愚痴に還りて極楽に生ず
 
という表現がありますけれども、これがまさに法然さんの人生観を如実に表しているように思うんですよ。
 
草柳:  どういう意味ですか。「愚痴に還りて」というのは?
 
町田:  自分が賢いとか、いろんな知識があって、それにとらわれているうちは思い込みが捨てられない。拘りが捨てられないわけですから、そういうものを捨てて本当に明るく開放的な状態になった時のお念仏、それによって人間は救われていく、ということだと思うんです。
 
草柳:  さっきおっしゃった「愚鈍」ということですか。
 
町田:  そうですね。私はよく「ただの人」という言葉を遣うんですが、お念仏の中で、ただの人になっていく。あるいは我々は我々なりに、今の生活を生きながら拘りを持たないただの人になっていく。そうでないと幸福というものは実現してこないように思うんですね。浄土教の方に「二河白道(にがびゃくどう)」という非常に分かり易いたとえ話があって、一方には水の河があり、一方には炎の河があり、その中に一本の白い細い道が通って仏の世界に行くというお話なんです。私たちは劣等感という水の河、優越感という炎の河(火の河)、その両方に落ち得ることなく、本当に自分の進むべき道を真っ直ぐ進んでいく。それによってやっと彼岸に達する。彼岸に達するというのは、「ただの人になる」ということです。「愚痴に還る」ということですね。それでやっと人間として、生き甲斐というか、本当にここにいるだけで嬉しいなという気持になっていけると思うんですよ。
 
草柳:  ただの人になるための道筋というのか、つまりこういうことが大事なんだ、ということを、実は今日は図を用意して頂いて、それでもって分かり易く説明して頂きたいと思うんですが、その図というのは「十牛図」と言うんですね。
町田:  そうですね。中国の禅僧が、禅の修行者がどのように悟りを開いていくか。その心理的なプロセスを十こまの絵にして分かり易く表現したものです。
 
草柳:  これが一枚に纏めたものなんですけれども、この一から十までの道筋があるということなんですね。
町田:  そうです。まず一番目が「尋牛(じんぎゅう)」。牧童が行方不明になってしまった牛を探しているところ。もう右往左往してどこへ行ったかわからない。その牛を捜し求めている光景です。
 
草柳:  この牛というのは?
 
町田:  禅宗の中では悟りの体験、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)のことです。法然さんに照らし合わせてみたら、お念仏だと思うんですよ。黒谷(くろだに)の青龍寺(せいりゅうじ)で一生懸命いろんな経典を探して、仏の道はどこか、というふうに探しておられたその状態だと思いますよ。そして二番目が「見跡(けんせき)」ですね。牛の足跡をここで見つけています。今までは五里霧中で東に行けばいいのか、西に行けばいいのかわからなかったけれども、ここでやっと牛の足跡を見つけて、方向性が見えてきたところですね。修行者にとって、悟りとか、仏とか言っても、一体何だかわからなかったけれども、やっとここで修行の方向性が見えてきたところですね。
 
草柳:  ということは、自分の求めようとしているのは一体何なのか、ということが見えてきた、ということなんですか。
 
町田:  朧気ながらに。まだ実体が見えておりませんから。三番が「見牛(けんぎゅう)」と言って、牛の尻尾が見えるわけですね。牛の体の一部が見えて、やっとその実体が確認できたところですね。少し修行にも励みが出てきた、そういうふうに言えると思います。四番目が「得牛(とくぎゅう)」。牛の全体像が発見されて、それを必死になって捕まえているところです。まあ正念場ですね。修行者にとって、ここで悟りを開くかどうか。念仏というものをわがものにするかどうか。本当に油断大敵の緊張の極みの部分だと思うんです。
 
草柳:  今、牛とその捜し求める人はなんか凄い綱引きをやっている感じですね。
 
町田:  そうですね。綱がピンと張っていますから、緊張感が伝わってきますね。第五図が「牧牛(ぼくぎゅう)」。これはもう既に牛が逃げようとせずに、牧童に素直に従って家に向かって歩き始めたところですね。ちょうど修行とか信仰というものが、自分の生活にピタッと重なり合って、しっくりとした宗教生活が営めるようになってきた、そういう段階だと思うんですよ。そして六番目が「騎牛帰家(きぎゅうきか)」。非常に長閑な光景ですね。もう牛の手綱を操らなくても、牛がちゃんと家への帰り道を知っていて、牧童は背に載ってもう楽しげに笛を吹いている。これは修行者にとって、本当に求めていたものが達成できて、何とも言えない満足感に満たされているところですね。
 
草柳:  例えばこの辺は法然の一生に例えると、どの辺りになるんでしょうか。
 
町田:  これはもう黒谷を下りる直前、お念仏というものが何であるか、ということをしっかり理解できて、定善観(じょうぜんかん)などで念仏すれば阿弥陀の世界が開けてくるという。もうお念仏が決して裏切られないものであるという確信を得たところだと思うんですよ。だからこの「十牛の図」というのは、何もそういうふうに常に宗教的に解釈する必要はなくて、例えば牛を私たちにとって、人生の目標とか、あるいは夢というふうに理解した場合ですね、ここで本当にその夢が実現しているわけですよ。自分が追い求めてきた夢がやっと手に入って、人間として本当に満足した、そういう境涯ですね。
 
草柳:  ここでは牛の綱はただ緩く持っているだけ、という感じですね。
 
町田:  もう手放して、牛が勝手に家に連れて帰ってくれるわけですから。そして第七図が「忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」。これは牛がいないわけです。牛は牛小屋に帰って休んでいる。そこにいるのは牧童一人。ここで自分というものが本当にしっかりと見出された、確立した安心立命(あんじんりつみょう)の境地だと思うんですよ。牛というのは結局方便だったわけですよ。人間にとっては常に人生の目標が必要で、それに向かって努力邁進するわけだけども、一端それが手に入ってしまったら、それが宗教体験であろうが、名誉であろうが、財産であろうが、地位であろうが、それは人間にとってもっとも大切なものじゃなかった、というのが、やっと第七図にきて納得できるわけです。ある意味では、ここから本当の意味の人生が始まるというか、宗教が始まると理解してもいいんです。そして第八図が「人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)」と呼ばれています。何にもないですね。まったく空の世界ですね。それまでは大変努力して人生の目標を追い求めてきた。それが手に入って、本当に達成感に満たされた後にやってくる無欲・無我の世界です。ですから人間というのはやっぱり若い時からいろんな努力をして、この世俗の中で痛い目にも遭ったり、悲しい目にも遭ったりすることは非常に大事で、そういうプロセスを経て、やっとこういう透明な境地に至れるということを、これは示していると思うんですよ。いきなりここには来れませんから。
 
草柳:  ここが先ほど言われた「ただの人」ですか。
 
町田:  「ただの人」。法然さんに照らし合わせてみると、法然さんはお念仏しておられた時は、おそらくこういうふうに空の境地で、それは自力でもない、他力でもない、本当に仏と一体となった、そういう境地でお念仏しておられたんじゃないかな、と私は考えておるんです。第九図が「返本還源(へんぽんげんげん)」ですね。これは自然な風景が見えています。決して何か目新しい風景じゃなしに、元いた場所なんですね。そこに還ってきたということですから、日常の同じ風景が見えているわけだけれども、その意味合いがまったく異なるわけですよ。あれだけ悪戦苦闘してやっと求めていたものを手に入れた、と。そこで空の境地を味わうわけですからね。また元の家に還って来て、元の家族に出会ってですね、でもその意味合いがまったく変わっていて、当たり前の世界が当たり前でない。人間としての深い味わいを体験しているところが、この第九図だと思うんです。そして最後の第十図が「入?垂手(にってんすいしゅ)」と呼ばれています。「?(てん)」というのは「街」という意味がありまして、その街の中に手を垂れて入って行く。ここには布袋(ほてい)さんのような豊満な体の男性が描かれていますが、ここは実は牛を求めていた痩せ得た牧童なんですよ。その人が人生の辛酸を嘗め尽くして、本当に円熟した境地に至ったところで、これは禅宗の方では「痴聖人(ちせいじん)」と、彼のことを呼ぶんですが、まあこの人はほんとに悟っているのか悟っていないのか。賢いのか愚かなのかわからない。だけれども本当に円熟した境地で出会う人一人ひとりを幸せにするような、そういう存在感がある人。まあある意味では、法然さんの晩年のイメージじゃないですか。いろんな人が彼のところに来て、一言二言言葉を交わすうちに救われていったわけですから、まさに七十歳越えてからの法然さんの境地は、この「入?垂手」になったんじゃないか、と、私は思うんです。
 
草柳:  世の中を何となく楽しんでいる、という雰囲気もなくもないですね。
 
町田:  そうです。痴聖人の境地は遊戯三昧(ゆげざんまい)ですから、もう何をしていてもそこにあるのは遊び心なんですよ。なんか修行だとか、義務だとか、そういう感覚はまったく消えて、何をしていても遊び。良い意味での遊び半分。楽しくてしょうがないという境地なんですね。それはほんとに大事なことで、私たちもこの忙しい現代に生きていて、しばしば遊び心というものを忘れてしまいますけれども、それは実は大変重要なもので、遊び心というのは、私たちが何かクリエート(創造)している時しか出てこないですよ。既にあるものをそのまま守っているようなことをしていては、喜びがないですからね。何かやはり自分なりに工夫をして、少しでも新しいものをクリエート(創造)する。そこに喜びが湧いてきますよね。それができるのは遊び心ですから。ですから何度も申しますけれども、大抵のものにとっては、特別な宗教的な行というのは要らないんですよ。それよりも如何に毎日の生活の中で楽しいと思える時間。時間も忘れて嬉しいとか、そういう感情が湧いてくる時間を持つこと、それが遊戯三昧ですから、そこで魂が解放されていく。昔ならそれは「極楽浄土に往生す」と表現されたんだと思うけれども、現代人にとってはその言葉にあまりとらわれない方がいいと思います。
 
草柳:  ただ「そうあれば」とか、「そうなればいいな」というふうな思いは、勿論あるんですけれども、ただ立ち止まって今我々の日常を考えると、あまりにもギスギスしたことが多くて、いろんなことの柵(しがらみ)や縛りの中で雁字搦めになって生きているという感じだと思うんですよね。
 
町田:  それはいつの時代も一緒ですよ。今、二○一○年という年を迎えて、日本経済も大変な状況にある。グローバルな経済も大変な状況にある。そこでいろいろ苦労しているわけですけれども、法然さんの生きておられた八百年前というのは、比較にならないほど厳しい時代だったわけですから。食べ物もなかったわけでしょう。飢饉があって、そして律令制度が壊れて行政が機能していない。そこでどんどん権力争いが起きる。道徳というものが壊れる。そして末法と言われているように、仏教の指導力もまったく薄れてしまった。そういう時代に生きられて、ましてや自分の親は目の前で殺されるとか、家が没落して無くなってしまう。そして法然さんというのはよくお風邪を召されたらしいけれども、それほど頑丈な方ではなかった。瘧(おこり)という持病もお持ちだったんですね。それは急に放熱が出て、体が震えるような、そういうご病気だったようです。法然さん自身がまあ大変な制約の中で生きておられた。僧侶としても黒衣の僧ですからね。大変身分の低い念仏聖(ひじり)として活動されていたわけですね。新しい宗教思想をお説きになったが故に、大変な南都北嶺の圧力も受けておられた。そういうことを思えば、私たちの今の人生の厳しさというのはまだまだ楽なものじゃないですか。
 
草柳:  まあ確かにそれはいつの時代だって、そういう制約の中で人も生きるしかないんでしょうけれども、法然はそういう制約をどういうふうにして乗り越えてきたのか。それをこの一年間お話してきて頂いたわけですけれども、その辺のところをもう一度言って頂くと、
 
町田:  やはりお念仏によって救われた方ですから、念仏の中で仏に出会い、念仏の中で自分の魂に出会った人ですから、念仏以外にはないと思いますね。禅宗の方に、「百事如意(ひゃくじにょい)」という言葉があるんですが、百の事が思いのままに実現していく、という言葉があるんです。我々の現実はその反対で「百事不如意」で、何事も悉く思い通りにならないという。そういう厳しい現実に直面して生きているのが大抵の私たちじゃないですかね。その中で私たちは幸せというものを実現していく責任があるように思うんですよ。いろんな制約があります。家庭の制約もあれば、経済的な制約、あるいは身体的な制約、いろんな百事の制約を抱えているんですが、私はそれは言い訳にしてはいけないと思っているんですよ。私たち一人ひとりがやはり天分を生かすというか、自分の命を輝かせていく。そういう使命があるように思うんですけれども、それにちょっと関連して法然さんのお言葉がありますのでお読み頂きましょう。
 
草柳:  念仏申す機(き)は、うまれつきのままにて申すなり。さきの世のしわざによりて、今生(こんじょう)の身をばうけたる事なれば、この世にてえなおしあらためぬ事なり。(中略)
智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、邪見者は邪見ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ、阿弥陀ほとけは十方衆生とて、ひろく願(がん)をおこしましませ。
(『禅勝房にしめす御詞』)
 
町田:  これは味わい深い言葉ですね。念仏を称える人は、生まれつきのまま、そのまま申すのがいいんだ、ということですね。私たちには、前世というか、過去の行いがあるわけですから、その行い(カルマ)によって、今生の運命というものを受けている。ですからなかなか自分の性格とか体質とか、運命全般を「えなおしあらためぬ事」ということは直せるものではない、と。もう大変な運命を背負ってめいめいが生きているわけですからね。今更どうのこうのしようと思っても、なかなか自分を変えることができない。それでよいのだ、と。「愚者は愚者にて申し」と、学問のある人は学問のあるままに、「愚者は愚者にて」と、別に教養がない人は教養がないままに、全然気にする必要はない。「慈悲者は慈悲ありて申し」思いやり、愛情深い人は、愛情深いままにお念仏をして、「邪見者は邪見ながら申す」ちょっと間違った考えを持っている人、その人も決して改める必要はなくて、邪見を持ったままお念仏を称えていく。悉く私たちはこのようなものである、と。みんなそれぞれ癖を持って生きているわけですよ。だからこそ阿弥陀様というのは、「十方衆生」いろんなタイプのいろんな境遇の人間をそのまま根こそぎ救っていく願を立てられたんですよ、と。そういうお言葉ですね。これはほんとに私は有り難いお言葉だと思うんですね。「私たちはそのままでよい」とおっしゃっているんですから、全然変わる必要がない。「そのままでよい」とおっしゃっているわけですからね。こんな素晴らしい自己肯定の言葉はなかなか言って貰えないですよ。大抵「あなたはどこそこが悪いから性格を改めなさい」とか、「あなたの生活態度はおかしいから、それを改めないと救われない」とかね、すぐ私たちは説教してしまいますね。だけども法然さんは、「変えなくてもいいんですよ。あなたはあなたのままでそのままでナムアミダブツと言えば、それで往生できるんですよ」と。今の言葉で言えば、「そのままで幸せになれるんですよ」とおっしゃっているわけですからね。これはほんとに悲嘆にくれていた人たちにとっては、大きな励みになったと思うんですよ。それまでは戒律を守らないければいけないとか、いろんな供養をお坊さんやお寺にしなければいかんとか、いろんな条件付の仏教だったのに、そういう条件を全部取り払って、「あなたはあなたのままでいいんですと。何もしなくていいんですと。ただナムアミダブツと言って、阿弥陀様の本願力を信じていたら、それで幸せになれるんですよ」とおっしゃっているわけですからね。これは目から鱗というか、涙にくれていた人もハッと顔を上げて笑みをたたえたかも知れない。
 
草柳:  とりわけ前回のテーマになった女性たちとの間のことについても、今まで何を頼りにしていたら、それすらもわからないという人たちにまで手を差し伸べたということですね。
 
町田:  そうですね。法然さんは弱い立場の人にずっとこの気持を添わせて、その人と同じ地平に立って、そこから起き上がってくるという、そういう導きをされた人ですね。どっか高いところから、「あなたはどうのこうの」と言って判断してお説教するんじゃなしに、自分も同じだけの愚かさと罪を抱えた人間として、ほんとに等しい立場でお話されていた。だから人が耳を傾けたと思うんです。もう一つ禅宗の方で面白い言葉があるんですが、これは『虚堂録(きどうろく)』という語録に出てくるんですが、
 
     壺中日月長(こちゅうじつげつなが)
 
これは壺の中で過ごす時間が長いということなんですが、「壺中」というのは何のことかというと、私たちの人生のことなんですよ。先ほど言ったあらゆる制約で閉じ込められている私たちですね。壺中にいる。そこで過ごす時間がほんとに長いということなんです。この世にこの肉体を持って生まれてきたというのは、もうどうしようもないことで、壺から逃げることができない。息絶えてあの世にいけば別かも知れないけれども、この世で肉体を持って生きている限り、ちょうど壺の中で閉じ込められたようなものだということなんです。そこで「日月長し」と。とてつもない長い時間を過ごしている。まあ最近はみんな長生きですからね。八十年九十年生きる人もたくさんおられる。その制約の中で自由を獲得しなさい、という意味合いです。「壺中日月長し」というのは、自由は他にない、と。壺の外にあるんじゃなしに、実は壺の中に自由がある。生きる喜び楽しみがある、ということを表現しているんですよ。
 
草柳:  壺の中にいる自分の中で自由を見つけ出せ、ということですか。
 
町田:  お念仏をするということも、そういうことですよ。いきなり自分が変わることができないわけですから。経済的に苦労しているかも知れないし、健康上に悩みがあるかも知れないし、そのままで壺に閉じ込められたその状態で自由を味わっていなさい、という言葉だと思うんですよ。
 
草柳:  そういう制約の中でこそ自由を見つけなさい、ということなんですね。
 
町田:  特別な悟りを開く必要はないということなんですよ。私は素晴らしいと思うのは、法然さんのお念仏の系譜というか、「愚に生きる。愚に還る」そういう価値観がちゃんと継承されてきているわけですよ。法然さんのお弟子さんとしての親鸞さんの働きも大きかったし、その後蓮如(れんにょ)のような人も出てきたし、念仏の流れというのは途切れなく平成の日本にも伝わっているわけですけれども、私が非常に注目するのは、浄土宗じゃなしに、浄土真宗の方で「妙好人(みょうこうにん)」というふうに呼ばれていた人たちがいるんですが、まあ大抵は学歴もなくて、地方の漁村や農村で目立たないでコツコツ働いていた、そういう市井(しせい)の人なんです。常にお坊さんの説法を聞いて、中には文字も読めない人もいましたからね。念仏の力を本当に信じて「ナムアミダブツナムアミダブツ」と日々に称えていた中で、非常に深い心境に入っていかれた方を妙好人と言うんですが、
 
草柳:  在家の人でしょう。
 
町田:  在家の人です。その中でも浅原才市(あさはらさいいち)(1850-1932)という、島根県におられた下駄職人だったようです。この人のことをかつての禅学者である鈴木大拙(すずきだいせつ)が大変注目しまして、『日本的霊性』という英語の本に、才市さんのことを紹介されて一躍世界に有名になったわけです。その人のお言葉ですね。彼は下駄職人として常に鉋(かんな)で下駄を削って、その鉋屑に矢立で墨で自分の境地を書かれていたんですが、後になってそれは大学ノートに鉛筆で書き留めるようになって、それが膨大なノートとして残っているんです。そこから一つの詩を引用してみたいと思います。じゃ、読ませて頂きましょう。
 
なむ仏はさいち(才市)が仏でさいちなり
さいちがさとりを開くなむぶつ
これをもろ(貰う)たがなむあみだぶつ
 
わしのこころは、あなたのこころ
あなたごころが、わたしのこころ
わしになるのが、あなたのこころ
 
わしが阿弥陀になるじゃない
阿弥陀の方からわしになる
なむあみだぶつ
 
才市どこが、浄土かい
ここが浄土の、なむあみだぶつ
(鈴木大拙『日本的霊性』所収「妙好人・浅原才市」から一部抜粋)
 
素晴らしいですね。これは一介(いっかい)の市井の人が、ここまで深い境地に入ったというのは驚きですよ。「なむ仏はさいち(才市)が仏でさいちなり」と。ナムアミダブツを称えているうちに才市が仏になり、仏が才市になってしまう、ということですね。自分は本当に煩悩だらけの凡夫だけども、それが「ナムアミダブツ」と称えていくうちに、悟りを開いていく、と言っているんですね。「これをもろ(貰う)たがなむあみだぶつ」お念仏を自分は頂いている。阿弥陀様から直接頂いている。それを称えているうちに「わしのこころは、あなたのこころ」阿弥陀の心になっちゃって、「あなたごころが、わたしのこころ」あなたの心が私の心になっていく。これはなかなか言えないことですね。神仏と自分が一体になったところでしょう。特に神教的な世界では、神と人というのは断絶していて、そこで信仰という契約によって、やっと神と人間が繋がっていく。この断絶がキリスト教的な世界、イスラム教的な世界では非常に大事で、だからこそ信仰が必要なんですけれども、ここで才市が言っているのは、神仏と自分が入り交じって、まったく一つになっている、というところですね。
 
わしになるのが、あなたのこころ
わしが阿弥陀になるじゃない
阿弥陀の方からわしになる
なむあみだぶつ
 
お念仏称えているうちに阿弥陀様がズカズカと私の心に入ってくる、と言っているわけですからね。これは凄いですよ。特殊な厳しい行をした人が、仏と一体感を味わうというんじゃなしに、一日当たり前の職業を持って汗水垂らして働いていた人が―もともと下駄職人になる前は、才市は船大工で漁船を作っていたわけですけれども、若い時は随分荒(すさ)んだ生活をしておられた極道者と言われていた人なんですけれども、ある時から本当にお念仏の世界に入って、こういう境地になられたというのは驚きで、最後に「才市どこが、浄土かい」と。極楽浄土というのはどこだ、と。死んでから行くとこか、ということを自ら問い掛けているんだけども、「ここが浄土の、なむあみだぶつ」と。まさに体にもいろいろ不自由があったり、経済的にも不自由があったり、壺中日月長いところに生きている自分のこの世界が浄土であると、高らかに宣言しているわけですからね。これは深いですよ。
 
草柳:  と同時に、こういう詩を聞いていると、やっぱり足下のところが凄く大事なんだ、という気が致しますね。
 
町田:  そうなんですよ。遠くに求める必要はなくて、私はよく思うんだけども、「幸せ」というのは高いところにないと思うんですよ。何か梯子を上って行って、学歴を積んだり、資産を積んだりして、やっと掴まえるのが私は幸せと思わないんです。幸せというのは、きっと低いところにある。誰でも拾い上げることができる。そこにあると思うんです。それを今の才市の詩も歌い上げていると思うんです。これは才市さんの場合は、お念仏を通じてあの境地にいかれましたけれども、現代という時代に生きる我々は、なかなかそういう宗教的な世界に入り込んでいくわけにはいかない。だけどもあれと同じくらいの境地になる、そういう責任というか、自分に対する責任、使命があるように思っているんです。
 
草柳:  一年間ずっと法然の教えを易しく繙いてきてくださったわけですけれども、今日は最終回ですからもう一度纏めをしていきたいと思うんですが、よく宗教の場合、図式的言えば、「自力だ」とか、「他力だ」というふうな言い方がありますね。でも法然の教えは、今の才市の詩なんかを聞いていると、自力とか他力とかなんていうものを越えたところに本当のものがあるんだ、というふうな感じすらするんですよ。
 
町田:  そうです。自力他力も区別なく、まあそれだけじゃなしに、仏教とか、キリスト教とか、エスラム教、ユダヤ教、あるいはさまざまな民族宗教というのが世界中にありますけれども、実はそういう区別は便宜上設けたものであって、本質は一つなんですよ。だから勝手に私たちがいろんな思い込みによって、拘りを持っているわけです。その「拘りを捨てなさい」という、その一点に法然の教えというのは帰結してくる、と思いますよ。「もっと自由に生きなさい」と。「大胆に自分を肯定して、自分を卑下せず、そのままでいい」とおっしゃっているわけですからね。「拘りを捨てなさい」という、その一点にすべてが還ってくるように思うんですよ。今、大変な時代に生きているわけだけども、それはいろんな意味で大変な時代で、もっとも大きな枠組みでお話しますと、私は比較宗教学とか、比較運命学というものを専門にしている学者ですからね。常に大きな文明の流れの中で個々の宗教現象を見るようにしているんですが、法然さんの存在もそうですよ。今、この二十一世紀になって、文明は大きな節目を迎えていると思うんですよ。今まで通りにいかないです。地球資源もどんどん枯渇してきましたし、地球環境も大変な状況になってきたわけですから、今までのように大量消費の物質文明を続けていくわけにはいかなくなってきましたね。だんだんその方向転換を余儀なくされて、より精神的なもの、人間の心というものに重きを置いた文明の形に大きな方向転換をしていくと思います。しなければ人類の存続が危うくなりますからね。そういう大きな枠組みの中で、その法然という人の思想、ものの考え方を捉えていく必要がある。そこで先ほど申したように、とらわれを捨てる。思い込みをなるべく離れていく。それでこそ新しいものをクリエート(創造)するということができるわけですからね。そういう大きな大局の眼を持って法然さんを見つめ直していく、ということが必要だと思っています。
 
草柳:  「とらわれを捨てよ」ということと、もう一つ法然の教えの中で現代に生かさなければいけないということの一つとして、さっきお触れになりましたけれども、「愚に還れ」とおっしゃっていましたね。
 
町田:  そうですね。「愚に還る」というのは、「とらわれをなくす」ということですけれども、それと具体的には前半でお見せした二つの円がございましたけれども、心と体を重ね合わせていくような、「今していることに自分の気持ちを置いていく。一つひとつの瞬間を丁寧に生きていく」という生き方ですよ。世の中がどれだけ大変な状況で、嵐が吹きまくっていても、いや吹きまくれば吹きまくるほど、やっぱり自分の足下を見て、今やっていることを、「愚かに、丁寧に生きていく」。こうして人と人との出会いも丁寧に生きていく、と。そこにしか救いはないわけですよ。私は宗教というのは、そういうものだと思っています。勿論社会批判をしてもいいんですけれども、本質的には自分の幸せというのは、この世で生きている間に、自分が実現する責任があるわけですからね。如何にこの大変な時代に生きて、自分の心を満たしていくか。今日という新たな日を楽しく嬉しく有り難く生きていくか。それは自分にしかできないことです。
 
草柳:  これは第一回目にもありましたけれども、「今を大切にするんだ」ということでしたよね。
 
町田:  冒頭の引用でもありましたように、「一形(いちぎょう)悪を造っても、たとい過去にどれだけ悪を働いていても、大きな失敗をしても、それを引きずるな」とおっしゃっていおるわけですから、「もう済んだことは済んだんだから、取り返しのつかないことをやってきたんだけども、それを悔やんでもどうしようもない、と。もう過ぎ去ってしまったものだから、この瞬間、今日という日はまったく新しい一ページなんですからね。それをムダにするな」と、そういうお言葉だったと思うんですよ。これは有り難いですよ。どれだけ恥をかいても、痛い目に遭っても、もうそれは済んだことですから、今日という日は真っ白な新しい一日ですからね、それをどこまで最大限に楽しく嬉しく生きるか。そこで自分の魂の花というか、魂の花がパッと咲いてくるか。それは自分次第ですよ。どれだけ政治が荒んでいても、社会が荒んでいても、それは言い訳に使わないわけですよ。
 
草柳:  言ってみれば、前を向いた生き方というのか、気持を持つことによって、これも前回のシリーズの最初の方で出てきた言葉なんですけれども、もう否応なく人というのは否定的な記憶が溜まるわけですから、その否定的記憶を消し去っていくためにも、そういう心構えというか、そういう気持を持つことが大事だというところに繋がっていくわけでしょうね。
 
町田:  だから過去からの大変な否定的記憶を消すには、難行苦行じゃないんですよ。「楽しい・嬉しい・有り難い」という、こういうポジティブな肯定的な感情を持続する、そういう時間が真っ黒な否定的記憶を消してくれるわけですから、如何に心と体を重ね合わせて、楽しい時間を持つか。それは自分が一番よく知っているわけで、人がそのためのマニュアルをくれるわけじゃないですからね。自分でマニュアル作りをして、自分にもっとも最適なマニュアルを作って、そういう自分を今日という一日の中でどれだけ増やしていくか。それが問われているわけですよ。法然さんに向き合うというのは、念仏をしなさいということではないんですよ。法然さんに向き合うということは、今日という新たな日をどこまでエンジョイするか、楽しむか、それが問われていると私は思います。
 
草柳:  そして最終的にはガイドブックに書いていらっしゃいますけれども、「如何にすれば法然を越えられるか」ということをおっしゃっていましたですね。
 
町田:  これは永遠の課題です。過去の賢人、先人、そういう人たちに向き合って、その人たちを崇め奉るんじゃなしに、自分がどのような生き方をして、その立派な生き方、知恵を乗り越えていくか。これはすべての人が等しく与えられている大きな課題だと思います。
 
草柳:  一年間有り難うございました。
 
町田:  有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年三月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである