和歌(やまとうた)の魂を守る
 
                    第二十五代当主
                  冷泉家時雨亭文庫理事長  冷 泉(れいぜい)  為 人(ためひと)
一九四四年、兵庫県出身。上冷泉家第二十四代当主冷泉為任および布美子夫妻の長女貴実子と結婚し、旧華族で伯爵家の上冷泉家を継ぐ。一九六八年、関西学院大学文学部美学科卒業。一九七三年、関西学院大学大学院文学研究科美学美術史専攻博士課程修了。京都国立近代美術館勤務を経て、一九七八年、大手前女子大学専任講師を経て助教授、一九九三年、大手前女子大学教授。一九九六年、池坊学園理事評議員。一九九九年、池坊短期大学学長。二○○二年、池坊短期大学学長を退職。同年四月から財団法人冷泉家時雨亭文庫理事長。二○○四年から、同志社女子大学客員教授。
                  き き て     中 川  緑
 
ナレーター:  京都御所のすぐ北にある古い屋敷。現存するただ一軒の公家(くげ)屋敷、冷泉家住宅です。冷泉家がここに屋敷を構えたのは四百年前のこと。冷泉家は、和歌の聖(ひじり)・歌聖と仰がれた藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)(1114-1204年:歌学を藤原基俊に学び、俊頼を尊敬、両者の粋を採り、清新温雅な、所謂幽玄体の歌を樹立した。歌は「新古今集」以下勅撰集に四百余首載る。歌集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄」など、他に歌合の判詞が多い)、俊成の子供で小倉百人一首の選者として知られる藤原定家(ふじわらのていか)(1162-1241年:歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。歌集「拾遺愚草」の他に歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。「源氏物語」「古今集」「土佐日記」などの古典校勘の業に従い、日記に「明月記」が在る。「小倉百人一首」の撰者。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された)の子孫です。冷泉家は、俊成―定家―為家―為相(冷泉家初代)以来八百年に亘り、代々和歌、即ち大和歌を守ってきた和歌の家です。
 

 
中川:  今日はどうぞよろしくお願い致します。
 
冷泉:  どうもこちらこそよろしくお願い致します。
 
中川:  こちらのお宅に初めて上がらせて頂いて、なんかこう美しいのと、あとちょっと身が引き締まるような思いが致しました。
 
冷泉:  そうですか。まあどうぞよろしくお願い致します。
中川:  お願い致します。冷泉家の二十五代当主として、八百年続く歌の家を受け継ぐというのは、やはり私どもにはちょっと想像もできないんですが、大きな何か重圧のようなものというのはやはりお感じになるんでしょうか。
 
冷泉:  そのことは今でこそ重圧を感じていますけれども、冷泉の家に入ったのは二十五年前で、それほどそうしたことの冷泉の家の奥深さというんでしょうか、あるいは大きさと言うんでしょうか、そういうものはわからずに入ったものですから、何とか過ごせたということではないかと思いますけれど。
 
中川:  むしろ後からじわじわと、
冷泉:  後からですね。冷泉の家はみなさん方ご承知のように、歌を詠まなければいけないということで、その歌を、私、冷泉の家に入るまで詠んだことがないと言っていいほど、やってなかったわけですから。
 
中川:  四十歳で婿養子でいらっしゃったんですね。
 
冷泉:  そうです。歌の家の家元としての歌を詠まなければいけないということは、大変なことであるわけですから。ですから初めの時はまず家内のチェックを受けまして、そして尚かつその後で母親のチェックを受けて、ダブルチェックを受けて(笑い)、やっと世の中に公表できるということであったわけですけれども。
 

 
ナレーター:  敷地の一角を占める漆喰作りの藏―御文庫(おぶんこ)と呼ばれ、八百年に亘る和歌の歴史を守ってきました。二百年前、洛中を焼き尽くした天明(てんめい)の大火(天明八年:1788年)の時でも御文庫は残りました。中には国宝に指定された俊成、定家の自筆の典籍五件を初めとする貴重な文化財が今も収められています。冷泉家では祖先の残した転籍(てんせき)を「神様」、転籍を収めた御文庫を「神殿」として崇めてきました。冷泉家の新年は、当主が神の宿る御文庫に参拝する初詣から始まります。参拝が終わると、若水を汲んで書初(かきぞめ)。書初は、その年初めて詠んだ歌を書き、御文庫の神様に供えるのが慣わしです。
 

 
中川:  単に大事な書物をしまってあるという藏ということではなく、もっと深い、もっと大きな意味があるんですね。
 
冷泉:  ですからそこのところは、私が冷泉の家に養子に入って、ご先祖さんにお詣りすることは、私の場合は、母だとか祖母がお詣りしていたのでみなよく知っているわけですけれども、藏にお詣りするということはちょっとそういう経験がなかった。
 
中川:  普通の家ではないことですものね。
 
冷泉:  ないことですから、だからそれは非常に奇異に思っておりましたですね。
 
中川:  そうですよね。藏にお詣りというのは、感覚として。
 
冷泉:  ですから今でもそうなんですけれども、藏にお詣りすることは多々あるわけですけれども、その一つに、私ども誰でもそうなんですけれども、家を空ける時には、先ず仏間でご先祖さんに、「これこれで今から東京に行ってきます」と、そしてそれが終わったらまた藏に同じようにお詣りするんです。
 
中川:  「ただ今帰りました」って。
 
冷泉:  そうそう。お詣りして、「今から行って来ます」。で、帰って来たら、「ただ今無事に帰って来ました」ということのご報告を両方にもするんです。それが慣わしになっているんですね。
 
中川:  不断の生活でもいつもなさっているんですか。
 
冷泉:  いつもそうです。ですからそういうことが、今は何でもなくできますけれども、初め頃は藏にお詣りするということはできずに、遠くから「遙拝!」とこうやって済ましておったんですけども(笑い)、今はそれが何でもなくできるようになりましたですけど。考えてみますとね、御文庫の中にあるものというのは、ご先祖さんが書かれたものが残っているものですから、ご先祖さんそのものだというふうに考えたら何でもないことで、なるほどな、というふうに理解できるわけですけれども、そこのところがちょっと時間がかかりましたですね、結局理解する迄には。
 

 
ナレーター:  冷泉家の一年は、四季の移り変わりとともに行われるさまざまな行事で巡っていきます。毎年一月中旬に行われる歌会始め。この行事は宮中から冷泉家に伝わりました。冷泉家で詠まれる和歌は、俊成、定家以来伝わってきたさまざまな決まり事が守られています。例えば春夏秋冬の四季を詠むということ。身の回りに現れる四季の姿を美しく洗練された言葉で表現するのです。できた和歌を読み上げる披講(ひこう)。この披講も決められた作法に従い、独特の節回しで読み上げられます。
 

 
中川:  四十歳で冷泉為人さんはこちらの婿養子として入られまて、で、最初はいろいろ戸惑いもあって、ということをさっきおっしゃいましたが、ある時を境にガラッと気持が変わられた時があると伺ったんですが。
 
冷泉:  それは私にとっては大事な転機ということになろうかと思うんですけれど、俊成の今の国宝になっている『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』を見ておった時に、最後のところが調子というんでしょうか、違う紙が継ぎ足してあるんですけども、そこの字を見ている時に非常に感激したんですね。そして身震い致しまして、背筋が寒くなるというんでしょうか、そういう経験したんです。それは一体何なのかな、ということを後で考えてみまして、その時に、「う〜ん、やっぱり俊成の字は凄いな」と。そして、「凛とした品格を持っていらっしゃる字だな」というふうに、ただ単にそのように思っていただけなんですけども、そういう経験をしたものですから、その経験は何だったんだろう、ということを、後で考えてみた時に、俊成さんが私に、「冷泉の家のことをよろしく頼むぞ≠ニ言うてはるんと違うかな」と。そういうふうに啓示を受けると言うんでしょうかね、そんな大袈裟なことでなかったかもわかりませんけれども。その時期はちょうどこの家の解体修理をしなければいけないということで、
 
中川:  それは四十歳に婿養子に入られて、何年ぐらい後なんですか。
 
冷泉:  五、六年か、七、八年ぐらい経った時ではないかと思うんですけどね。ですから非常に解体修理をするという時には、いささか生々しい話なんですけれども、大変なお金が必要になってくるわけですね。私に俊成さんが、「冷泉の家は八百年続けてきたんやからよろしく頼むぞ」と言うておられるというふうに思ったら、なんか覚悟できたというんでしょうか、覚悟の臍(ほぞ)が定まったというか。だからその時に結局私自身が思ったのは、「冷泉の家の藏番にまずなろう」と。
 
中川:  藏番ですか?
 
冷泉:  はい。ですから藏の中のものを上手に次の代に、八百年続いてきたものをもう八百年とは言わないまでも、百年二百年は続けるシステムを作るのが僕の仕事ではないかな、というふうに思うようになった。そしてそれは誰でもできる仕事ではなくて、僕自身にしかできない仕事ではないか、というふうに思うようになったわけですね。そして、それはまた冷泉の家の藏の中にあるものを、百年二百年続けるシステムを作ったならば、それはひいては日本の文化を守ることになる、と。そういうふうに考えるようになった時には、今度はこの解体修理の時の皆様方にお願いが、笑いながら「よろしくお願いします」ということが言えるようになりました。それまではなんか口の中に言葉がもぞもぞしているようで(笑い)はっきりとお願いできなかった。それが言えるようになったということは、やっと言わば冷泉の家の一員になれたんではないかと、私自身は思っておるんですけども。
 
中川:  そういうことで言えば、為人さんのここまでの半生を振り返ってみると、お小さい時とか、あるいは学生の頃、二十代三十代の頃というのは、まさか今日のこのような生活、あるいはこのようなお仕事が待っているとは想像もできない、想像もしていなかったわけですね。
 
冷泉:  そういうことですね。想像もしていなかったですね。ですから私は田舎育ちで、田舎の青物というんでしょうか、今で言えばコンビニみたいなもの、八百屋を両親がしていまして、その父親が家の前の田圃を潰してしまってテニスコートにしてしまうほど凄い熱中ぶりで、
 
中川:  でも当時で、為人さんのお父様の年代でテニスがお好きというのは珍しいですね。
 
冷泉:  珍しいと言えば珍しいですね。ですからそこのところの影響で、子どもの時とか、学生という時代は、その影響で家から通えるところのテニスの強い大学ということで関学に行ったんです。
 
中川:  あ、そういう理由で、
 
冷泉:  そうです(笑い)。
 
中川:  関西学院大学ですね。
 
冷泉:  そうです。
 
中川:  美術史を勉強なさったんですか。
 
冷泉:  美術史を。美学というところで見学があるんですね。で、見学で尾形光琳(おがたこうりん)(1658-1716)の展覧会で、そこで根津(ねづ)美術館にあります「杜若(かきつばた)図屏風」を見てもの凄く感激したんです。で、そして「あ、こんな面白い学問があるのか」と。勉強するという。それも先ほどの俊成さんの話を致しましたんですけど、それと同じように何も知らない無知な人間をどうしてこういうふうに惹き付けて放さないのか。これは一体何なのか。昔からそういう考えるのが好きだったんでしょうかね。そういう癖(へき)があったんでしょうかね。それは、「あ、これはちょっとやってみる価値があるのと違うかな」と。それまではテニスばっかりしていましたですけど、ちょっと時間見つけて、そういう本を読んだりしておりまして、で、そのうちに円山応挙(まるやまおうきょ)(江戸時代中期の絵師:1733-1795年)の弟子長沢芦雪(ながさわろせつ)(1754-1799年)という画家が非常に面白いということがわかりまして、それで本格的に勉強するようになったんですけど。
 
中川:  ここで美術史の方に勉強されると。
 
冷泉:  そういうことで言いますと、私にとったらそういう転機が二度あったんじゃないかな、と。だから光琳の「杜若(かきつばた)図屏風」がそういう転機を与えてくれた。また縁があって、京都の冷泉の家に養子に入ったわけで、そこでまた変わったということだと思いますね。
 
中川:  歌の家冷泉家を語るのにやはり俊成、定家、この二人は欠かせない存在だと思うんですが。
 
冷泉:  そうでしょうね。おっしゃる通りに、冷泉の家にあっては、これもそんな言葉になるかもわかりませんけども、「スター中のスター」と言ってもいいのではないかと思いますね。
 
中川:  代々続くいろんな立派なご先祖様の中でも。
 
冷泉:  別だと思いますね。
 

 
ナレーター:  冷泉家の御文庫に収められている国宝の『古今和歌集(こきんわかしゅう)』。定家が自ら書き写したものです。定家は晩年和歌などの典籍を書き写すことを精力的に行いました。『古今和歌集』だけでも十数回書き写しています。定家自筆の国宝『明月記』。定家がおよそ六十年に亘って記した日記で、日々の出来事や自らの思いが克明に綴られています。国宝の『古来風躰抄』は俊成自筆の歌論書です。一九八一年に冷泉家の御文庫から見つかり国宝に指定されました。
 

 
中川:  藤原俊成卿のお書きになった『古来風躰抄』を見て「大きな転機になった」とおっしゃいましたが、これが御文庫の中から発見された時には相当大きなニュースだったわけですね。
 
冷泉:  そういうことは聞いております。専門家の中では、「冷泉さんのところ、どうも持っておられるようや」ということはわかっていたようですけれども、それがほんとかどうかはわからなかったのが出てきたということで、あのような大騒ぎになったということのようですけど。それを今度はいろんな方々があの本を見て勉強しておられるということが、いわゆる本の下のところの手ずれの跡に出てきているわけですね。捲(めく)る時のあの手ずれですね。黒くなって円くなっている。ちょうど我々が使い古した辞書のように端がなっている。あれを僕が見た時に、「ウ〜ン」とうなってしまうんですね。一体何人の人がこれを見たのであろう、と。勿論代々のご先祖さんは見ておられると。歴史が語っているところによれば、この時代の天皇さんも見ておられる筈やということがわかるわけですから。そうしたらほんとに多くの人たちがあの本を見ておられるという。そうしたら多くの人たちが『古来風躰抄』を見て感激されるだけではなくて、いろんなことを学ばれて、そしてそこから新しいものを生み出している、と考えたら凄いものやなあと思えてくるんですね。
 
中川:  為人さんご自身は、『古来風躰抄』の中のお好きな一節とか、何かございますか。
冷泉:  私は、あの本で最初のところに出てくるわけですけども、「『古今集』とかが大事だ」というふうに書かれている。それから定家さんも、「『古今集』が大事だ」と。それはおそらくそういうところを習って『新古今集』というものが生まれた。『古今集』『新古今集』というものが冷泉の家の型になるのと違うかなと思っているんですけれども。そういうことで言いますと、まさに歌というのは人の心を和らげるものだ、と。『古今集』の「仮名序(かなじょ)」にあります通り、そうしたことがやっぱり歌として大事なところではないか、と。私自身でも、そうかなと思えてくる、というんでしょうかね。
 
中川:  そう言ったことが『古来風躰抄』に書かれているわけですね。
 
冷泉:  書かれているんです。ですから私ども美学の勉強というんでしょうか、日本の芸術論の最初に考えるべきものは、『古今集』のあの「仮名序」ということをよく言われているわけですね。中川さんも国文をなさったということですので、
 
中川:  いいえ。そんな恥ずかしい(笑い)。言うほどの勉強ではございませんが。
 
冷泉:  「仮名序」ですね。そこのところで、「いわゆる男女の中を和らげるとか、疑心の心を和ませるとか、それが歌なんだ」というふうに最後の方に出てきますけれども、ほんとにそういうものであるのではないか、と。だから私も歌会始の時に時々そういう挨拶をさせて頂くんですけども、「この現代の世の中は非常に数値ばっかりで、人の心というものをあまり考えない時代で、そういう意味ではあまりよくない時代ではないかと思うけれども、そこで自分自身で自分の心を慰めるのは歌ではないですか。しっかり歌に精進してください」と。なんかわかったようなことを話をすることがあるんですけれども(笑い)。でも僕はそうしたことで言えば、そういうものを持っている人は幸せになれるんじゃないかなと思っているんです。それは自分で自分の楽しめるものを持っているということですね。「自娯(じご)」と言うんでしょうか。それでそこのところのことをしておれば、煩わしいことからそれらは和らげることができる、ということですね。いわゆる自分で自分の精神を慰撫(いぶ)することができる何かを持っておる、ということが大事で、それによって豊かな人生を送れるんじゃないかな、と。「自娯」ということは「趣味」と言ってもいいかと思うんですけども、「それがわかったらどうした」と、おそらく言っていたと思うんですけども、芭蕉が「この一筋」と言った。そういうものを持っておくということが大事ではないか。それをしておりさえすれば厭なことも忘れられると(笑い)。そういうことではないか。だから歌を詠むということで言えば、まさにそういうことが言えるのではないか。そのことを俊成さんも言うておられたし、あるいは『古今集』の「仮名序」もいうておるんじゃないか、と。そのように自分勝手に解釈しているんですけど。
 
中川:  俊成さんの息子さんであります定家さんは定家さんでまた個性的な方だったようですね。
 
冷泉:  おっしゃる通りで、定家さんは、どういったらいいんでしょう。いろんな顔を持っておられた方ではないか、と。非常に出世を考えられた方で、そのことを、出世をしないということで嘆いておられるわけですけれども。でもそれだけではなくして、後鳥羽上皇の言うことも聞かなかったという強いところもあるわけで、
 
中川:  そういったことを書き残していらっしゃるわけですね、ご自分で。
 
冷泉:  そうです。『明月記』のところにちゃんと書いてあるわけです。本来は公家が書く日記というのは業務日誌のようなもので、いわゆる年中行事の事柄について書き残すというのが通例であるわけですけれども、そういうものを越えて自分の思いをいっぱい書き残しておられるということで、「定家さんがもしも書写しておられなかったら、日本の古典はどうなったかわからない」というふうに学界の先生方もおっしゃっておられるわけです。私がある時に、冷泉の家に養子に入ってそれほど年月が経たない時だったと思うんですけれども、片桐洋一(かたぎりよういち)という歌の先生が、「あなたは冷泉家の当主になられたので、知っておいて頂きたいことが一つあります。それを今からお話をします」というて、何を話されたかと言いますと、「定家さんがもしも書写をしていらっしゃらなかったら、日本の古典はない、と私は思います」と話された。いわゆるいろんなものを書写しておられるわけですね。『源氏物語』を十回あまり、『古今集』にしてもそれぐらいですね、いろいろと書写しておられるわけですから。
 
中川:  一つの『源氏物語』なら『源氏物語』を一回書き写すだけではなく、十回以上も。
 
冷泉:  何回も。だからそれはやっぱり頼まれたということでしょうね。
 

 
ナレーター:  定家の書いた文字は、早く正確に書くことを目指した個性的な書体です。この書体は「定家様(ていかよう)」と呼ばれ、冷泉家歴代の当主はこの書体を丹念に練習し受け継いできました。当主為人さんが定家の歌の中で特に感銘を受けたという歌、
 
     春の夜の夢の浮橋とだえして
      峰にわかるる横雲の空
         (藤原定家)
 
『源氏物語』の「夢浮橋(ゆめのうきはし)」など、有名な物語のイメージを絡めることで奥行きや広がりを感じさせるまさに定家の歌だと言います。
 

 
中川:  『万葉集』から『古今集』に伝わってきたもの、そしてそれがまた代々伝えられてきて、そこから和歌だけではなく、いろんなところに派生していますね。
 
冷泉:  そこのところは日本の芸術というんでしょうかね、それがどのように展開していったかということで、今言われたように、『万葉集』から―万葉集というのはご承知の通り非常におおらかに自分の思いを述べる歌ですけれども―それが『古今集』に展開していって、『古今集』というのが『新古今集』になったりするわけですけれども、そこのところで、私は『古今集』というのは、前の時代の、奈良時代のものが平安時代のところで一回溜められていくというか―池のように、プールというか―溜められて、そこで浄化されて、日本風に展開されて、そして後のところに、中世の美意識というんでしょうか、能楽とかお茶とかお華の世界の美意識へと展開していったんではないか、と考えているわけですね。それを具体的なことで言いますと、お茶の「わび茶、さび茶」というんでしょうか、そういう精神は利休の先生の武野紹鴎(たけのじょうおう)(堺の豪商(武具商あるいは皮革商)。茶人:1502-1555年)という人は、定家さんの、
 
     見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮
         (藤原定家)
 
というあの茶席の歌がわび茶さび茶の精神だ、というふうに言っておられるわけですね。ですからそれはほんの一例ですけれども、そのようにまさに時代精神の「わび、さび」と言ったことの一つの例として、歌が用いられている、ということですね。それを利休もそのことを踏まえているわけですけれど。そしてそのことの他に、その次の江戸時代になりますと、芭蕉が「かるみ」(俳人松尾芭蕉が晩年に到達した最高の境地のこと)というか、それに展開してくるわけですけれども、そこのところでは、まさに俳諧ということで、発句ですね。その始まりの「五七五」だけで、展開していくということになっているわけですから、伝統的にいえば、そういう形になっているとういうことが一つ考えられるのではないかということですね。
 
中川:  つまり『万葉集』の頃のおおらかさとは違ったものが『古今集』のところで生まれて、そこが実は今に繋がるいろいろな文化の元になっているということですか。
 
冷泉:  そういうことですね。
 
ナレーター:  星に和歌を手向(たむ)ける七夕の歌会『乞巧奠(きっこうてん)』。自らを彦星と織り姫に見立てた男性と女性が和歌を送り合います。平安時代に始まるこのような行事が、冷泉家では今も守り伝えられています。作法の細かなところまで型が決められていたからこそだ、と為人さんは捉えています。
 

 
中川:  「時代に合わせて変わっていっている。変わっていくからこそ続いたのではないか」という話がありましたが、でも続くということのためには、ある程度形というんでしょうか、型というんでしょうか、それがあることによって続くという面もありますよね。
 
冷泉:  おっしゃる通りだと思います。ですからそこのところでいえば、形あるものは伝えやすいわけですね。だから型通りにやればそれは伝わっていくわけですけれども、そこの型そのもののところに、いわゆる精神とか、意味というものがあっただろうと思うんです。そこから違う形がまた出てくるということで少しずつ変わってきているということではないか、と思いますね。そうしたことで言いますと、型というもので、私が勉強しております絵画の世界で、狩野派(かのうは)というのは、室町時代から明治まで続いて、四百年ぐらい続いた画派なわけですけれども、その画派の絵画理念というんでしょうか、狩野家で言われていることは―そういうものが残っておりまして―それはどのように言っているかと言いますと、「質画(しつが)」「学画(がくが)」という言葉を遣って言っているんですね。「質画」というのは、天から与えられて上手に書いた絵のことを「質画」と言っているんですね。「学画」というのは、奈良で学んで得て、上手な描ける絵を「学画」と言っているんですね。狩野家にあっては、その方法を認められているんだけれども、狩野家にあっては「学画」を認めておられますね。それはどうしてかと言いますと、「書き伝え、言い伝えることができる」ということを明言しています。それはいわゆる「画法が大事だ」と言っているわけですね。「狩野派の描き方が大事だ」ということで言っているわけです。これはみんなが筆を上手にそういうことをすれば画作もできるわけですね。大画面というんでしょうか、お城のようなところで、「ここのところは岩を描け」と言えば、誰でもが描けるし、
 
中川:  統一された感じに、いろんな人がやってもなる、と。
 
冷泉:  なるという。だからそうしたことにも便利だったということ。それでもってものが伝えられていっているわけですね。若い時には型の文化というのは否定的に考えていました。というのは、芸術家ということで、新しいものを生むためにはそれは禍(わざわい)と言うんでしょうか、良くないことだということで否定的に見ていたわけですけれども、冷泉の家に入って、「型が悪い」と、当主になってそんなこと言っておられませんわね。言うていたら、俺は何をしているんや、ということになるわけですけど。でもそこのところで冷泉の家の歴史を見ておりましたら、歌が変わらなければいけないというんでしょうか、そういう時にはやっぱりそのようにちゃんとなっているのではないか、と。
 
中川:  時代の中で、
 
冷泉:  はい。時代が大きく変わる時に。同時に今度はそうしたら家を続けていくということが大事だというふうに認めた時には、それを受け継ぐ人、役目の人もおってもいいのではないか。みんながそういう新しいことをやっていたら大変なことになるんじゃないか、と。逆に言えば、「型を伝える」ということは、「家を伝えていくんだ」ということにもなるという。そういうふうに考えてくると、芸事と言われているもの、芸道と言われているものは、ほとんど型を持っているということですね。型というのはそういう意味では非常にまた大事なものではないか。それは一番わかりやすいのは、歌舞伎の世界の家々に特異な型を持っている、ということで。
 
中川:  よく聞くのは歌舞伎に限らず、伝統芸能のお家では、例えば小さい時からお稽古を家の子どもさんがされるわけですけれども、その時に言葉の難しい意味とか、考える前に先ずとにかく口まねで、口伝で覚えなさい、と。身体で覚えなさい、と。型を先ず覚えてそこから、というのはよく聞きますね。
 
冷泉:  そうだと思いますね。だからそれが結局「三つ子の魂百まで」というんでしょうか、その時習ったことが全部覚えて血となり肉となっていく、ということではないかと思いますね。そういうことで言いますと、お茶の世界でよく言われていることですけども、「守(しゅ)・破(は)・離(り)」ということですね。いわゆる基本形を守って、そしてそれを破って、そして離れていって、そういうものが離れた時にできるのが文字通り個性ではないか、と。その人のものではないか、ということですね。まさに最初の話に戻れば、冷泉の家は、「型そのものの家だ」ということになろうかと思いますね。
 
中川:  伺ったところでは、御文庫にはご当主と後継ぎさんしか入れないというようなことをお聞きしたんですが。
 
冷泉:  それも一つ型であって、現実は家内が入ったり、家の者が入ったりはしていますけれども、他の者はまだ入っていないというのが実状ですね。
 
中川:  ご家族以外の方は、
 
冷泉:  ええ。そこのところは結局「一子相伝(いっしそうでん)」ということですね。これはものを伝えていく時の一つの知恵ではないか、と思いますね。ですから今の法律のように、みんな家の者は平等だ、ということではなくして、家をどのように伝えていったらいいか、ということから「一子相伝」というものが、僕は生まれてきたんじゃないか、と。
 
中川:  後継ぎという人がはっきり決まっていて、その人にだけそのことを伝えていくという。
 
冷泉:  伝えていくという。まさに一つの型を伝えていくということにおいて、家がその役を担っていているということですね。これも家元制度というのが、それに当たろうかと思いますけれども。それはやっぱり良く出来たシステムだと思いますね。
 

ナレーター: 七夕(たなばた)(二星(たなばた))の歌会行事「乞巧奠(きっこうてん)」。庭に星の座という祭壇を設け、海の幸、山の幸、秋の七草、五色の糸と布を供えます。空に星が輝き始めると、灯明のほのかな灯りの中で彦星と織り姫の二つの星に和歌を手向け、さまざまな芸事の上達を願います。代々冷泉家ではこのようにして星に願いを託してきました。

 
中川:  冷泉家は、有形文化財―形ある文化財だけでもたくさんお有りなんですが、無形文化財も守り伝えていらっしゃるわけですね。これがまたより大変なのではないかと思いますが、守り、そして耐えるということが。
 
冷泉:  まさにそうですね。私がこの冷泉の家に養子に入る時に、先代が「君は冷泉の家には有形の文化財だけではなくて、無形文化財があることを知っていますか」というふうに質(ただ)されましてね。「はい。わかっております」と。ということは、先代は歌の家で歌を詠むということもあるんだぞ、と(笑い)。そして冷泉家があるんだぞ、ということを、そういうふうに僕に言ったのではないかと思うんですね。おっしゃる通り冷泉の家で、一年間で大きな年中行事は十ほどあるでしょうか。そのところではみなさん方のお宅でなさっておられると思いますけれども、「五節供(ごせっく)」(七草・雛祭・端午・七夕・重陽(菊))というものですね。
 
中川:  雛祭りとか、端午の節句とかですか。
冷泉:  はい。正月から今言われた「五節供」ですね。端午、それから七夕、それがあるわけですけど、その他に先ほど「スター中のスター」と言いました俊成さんのお祀りの「秋山会(あきやまかい)」がありまして、そして定家さんと為家さんの「小倉山会(おぐらやまかい)」がありまして、そして定家さんのお祀りの「黄門影供(こうもんえいく)」というのがあります。
 
中川:  歌会なども、あれは神事としてなさっているんですか。
 
冷泉:  まさにその通りであります。法楽(ほうらく)とか、いわゆる俊成さんの御霊(みたま)のお前に侍(はべ)ってというんでしょうか、御霊の御前に侍って、「これこれの歌を献詠(けんえい)致します」と、こういうふうに読み上げるわけですから。
 
中川:  捧げるわけですね。
 
冷泉:  捧げるわけです。ですから法楽ということでしょうか。それをまた歌会のメンバーが一緒にそれに和して歌を読み上げるということになりますと、みんなもそれに連なって「歌が上手になりますように」という自分の願い事もそこに同時に叶えている、ということになろうかと思いますけれども。基本的には冷泉の歌は神様とか、仏様に捧げるということが基本であるわけですね。ですから、冷泉の家の年中行事ということで言いますと、先ほど「五節供」というふうに言いましたけれども、そのうちいわゆるご先祖さんのお祀りのところでは、今言ったようなことになろうということですね。五節供のうちでも七夕のお祭りで「乞巧奠」というのは、技が上達しますようにと、歌のそのお祭りがかなり今みなさん方に注目されているんですけれども。
 
中川:  お衣装もちゃんと、
 
冷泉:  歌を読み上げる時に正装というんでしょうか、昔の形でしているということで、
 
中川:  王朝絵巻さながらに、こちらのお庭でなさるというような、
 
冷泉:  男の場合には、狩衣(かりぎぬ)を着けるのが慣わしですね。女性は袿袴(けいこ)というものを着けるわけです。私が「乞巧奠」で初めて詠んだ時の歌ですけれども、
     天の川と渡る舟の彦星の
      しげき想いを誰かしるらむ
          (冷泉為人)
 
という歌を詠んだんですけど、これは私が冷泉の家に養子に入ったということを踏まえて、そのように詠んだんですけどね。
 
中川:  解説して頂けますか。
 
冷泉:  「天の川」というのは一年に一遍のデートで、そして「と渡る舟の彦星の」彦星がそういう川を渡って行く時の気持は誰が知っているでありましょうか、という歌を詠んだんです。
 
中川:  じゃ、冷泉家に婿入りを、養子として入られたご自分の、
 
冷泉:  気持をそのように彦星に重ねて詠んだという。年中行事であってもそういういろいろ決まり事がいっぱいあるということですね。今でも家内を中心にして、歌会のメンバーの方々に歌を教えると同時に、その所作もちゃんと伝えていっていると思います。その方々の助けがなかったら年中行事もできない、ということになってくるわけです。
 
中川:  まさに口から口へ、人から人へ伝わってきたものなんですね。
 
冷泉:  そういうことになりますね。
 
中川:  冷泉の家が八百年という伝統を続いてきて、そして二十五代という当主でいらっしゃいます。この後もきっとこうやって続いていくんだろうなあと私は感じているんですが、そもそもここまで八百年続くというのは、どうして続くことができたんでしょうか。
 
冷泉:  そこのところは、一つには、「そういう典籍類をずっと代々の当主が守ってきたからだ」ということですね。それと「型というものをちゃんと持っている」ということですね。そしてその型ということで言いますと、家の意識が「個」というよりも「家」の意識が随分確実に伝えられているということでしょうか。そうしたことで言いますと、長い歴史を見ておりますと、代々が順風満帆で上手に受け継いできたか、と言ったら必ずしもそうではなくして、応仁の乱とか、戦国時代とか、あるいは藏が勅封(ちょくふう)になった時だとか、冷泉の家の藏からものが出るということで、京都所司代と武家との親交ですね、武家方と公家方が冷泉の家の藏を管理するということで―正倉院みたいな―いわゆる役人が、国の役人が直轄になってしまう。藏の鍵はそちらが持つということで、
 
中川:  そういう時代もあったんですか。
 
冷泉:  百年ほど続いているんです。そういうこともあったんですけれども、でもそこのところにあっても言えることは、国がそれだけのことをするということは―江戸時代のことなんですけれども―江戸時代にあってもそういう意識がちゃんと働いているということですね。
 
中川:  大事なものを守り伝えていかなければいけないという意識があった。
 
冷泉:  大事なものは大事にせないかんと。それが散らばってしまえば、散らばってしまうという。それを一つの塊としてやっぱり伝えるべきではないか、ということを、その時代の有識者はちゃんと考えておったということですね。ですからそういうものが冷泉の家の藏の中に残っておる。そしてそれを代々伝えてきている、ということが、一つやっぱり大きいのではないか。そしてそれは逆の言い方をすれば、それらの典籍類を守ることが冷泉の家を長らえることになった、ということですね。古い言葉ですけれども、まさに「錦の御旗になった」ということではないか、と思いますね。ですからいわゆる戦国時代というんでしょうか、武家の時代になった時には、地方の豪族に、いわゆる歌の指導というんでしょうか、いわゆる著名な歌集などを写させたりして過ごしておりますので、そうしたことで言えば、能登の畠山(はたけやま)氏にそういうものをやっていますし、駿河(するが)の今川氏にもそういうことをしていますし、あるいは徳川家康にもそういうことをしているわけです。ですから結局典籍類を守るということを徹底してやってきたからこそ、そういうことができた、ということでしょうね。繰り返すようですけれども、典籍類を守ったから家が守れた、ということではないかと思いますね。そうして今言ったように、長い歴史の間にはかなり出ていったものもあろうかと思いますけれども、でもそうはいうものの国宝が五件で、重要文化財が四十七件ですね。点数にしますと千点を遙かに越える大変な数になるかと思うんですけれども、でもそれらをともかくも伝えたということで、そして先代がそのものを継承保存するために財団法人を設立したということですね。これも非常に英断ではなかったかな、と私は思っているんですけど、そういう財団法人になったので、この家の解体修理だとか、『明月記』の修理もできたわけですから。そういうことで、継承保存することで社会に貢献するということが非常に大事ではないか、と思いますね。
 
中川:  今日お話を伺っていて、とても感じますのは、冷泉家というのは歌の家だということは存じていましたし、文学ということに関しては、古典の歴史あるお家だ、と。でもその年中行事だとか有形無形文化財をずっと伝えてきていらっしゃる。すべてのそういったことを考えますと、単に文学とか歌とかというんではない、日本の文化とか日本人の心とか、そういったものを実は伝えていらっしゃるんじゃないかな、と。
 
冷泉:  まさにそうだと思いますね。だからそこのところで言いますと、私は学生にそういう話をする時に、『枕草子』ですね、
 
     春はあけぼの
     夏は夜
     秋は夕暮れ
     冬はつとめて
 
というふうに、最初に出てくる。それは『古今集』の勅撰集などのまさに「春・夏・秋・冬」の歌となってくる。そして歌では、「恋歌」が次に出てきて、「雑歌(ぞうか)」がある。それがまさに絵画では四季絵の花鳥画になっていくわけですね。ですからそのように考えてくると、文字通り歌もそうですけれども、『枕草子』も日本人の心を象徴的に表したものだ、と言えると思いますし、そうしたらみなそれらのものがちゃんとそういうふうになっているということに繋がっている、ということだと思いますね。今、現代人は手紙をあまり書かなくなりましたですけれども、時候の挨拶がまさにそれに当たるんじゃないかなと。
 
中川:  先ずは寒くなったけど、どうとかね。年は明けてどうとかと書きますよね。メールだって割とみなさん書きますね。
 
冷泉:  あ、そうですか(笑い)。メールでも書かれますか。そこのところは形は『古今集』ではないかも知れないけれども、その精神はやっぱり残っているということですね。もっと言えば、いわゆる短歌と言われているものにあっても、詩形は「五七五七七」ですから全然変わっていないわけですね。そのように、そして芭蕉の俳諧と言われている発句などは、連句の最初のところだけということで、そのようになっているわけですから、全然詩形は変わっていないということですね。だからおっしゃるように、我々日本人の心、文化、あるいは自然観とか美的感性とか、そういう言葉で言えるのではないかと思いますね。さらに今おっしゃったところで言えば、歌だけではなくして、年中行事というところからも、そういうことが伺えるということでしょうね。
 
中川:  八百年続いた家を二十五代当主として受け継いで、で、次の時代にまた渡していくという。今の為人さんの長い冷泉家の歴史の中における為人さんの役割、ご自分ではどのようにお考えですか。
 
冷泉:  今言われたそのもので、八百年続いてきたものを八百年とは言わないまでも、せめて百年ぐらい続くシステムが作れたらな、というふうに思っています。社会に少しでも貢献できるということを考えたら―こんな言葉は今はいけないのかもわかりませんけれども―「男冥利に尽きる」というんでしょうか。人間としてやっぱり大事なことではないかな、というふうに思っておるわけです。
 
中川:  今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年一月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである