光明を探して
 
                       書 家 金 澤 泰 子(やすこ) 
昭和一八年(1943)生まれ。昭和三七年(1962)明治大学入学。昭和三九年(1964)短歌「まひる野」同人となる。馬場あき子に師事。昭和四○年(1965)能「喜多流」に入門、喜多節世に師事。昭和四一年(1966)明治大学卒業。昭和五二年(1977)書道「学書院」に入会、柳田泰雲に師事。金澤裕と結婚。昭和六○年(1985)翔子誕生。平成二年、久が原書道教室開設。平成一○年、書道「泰書會」に入会、柳田泰山に師事。著書に「愛にはじまる」、歌集「少院抄」ほか。
                       ききて 山 田  誠 浩
 
ナレーター:  東京大田区。閑静な住宅街の一角に、夕方子どもたちが続々と集まって来る家があります。幼児から大人まで凡そ百七十人の生徒を抱える書道教室です。教室を主宰する書家の金澤泰子さん。書家としての活動の傍ら二十年前自宅に教室を開きました。助手を務めるのは一人娘の翔子(しょうこ)さん二十四歳。ダウン症による知的障害があります。五歳の時、泰子さんの手ほどきで書を始めた翔子さんは、今個展を開くなど書家として活動しています。二十四年前、障害のある娘を授かった時、泰子さんは希望を持てず、死ぬことも考えたと言います。しかし翔子さんと共に書に取り組むうち、いつしか人生に光りがもたらされてきました。生きるために本当に大切なことは何か。娘が教えてくれた、と言います。躍動感に溢れ、見る者の心にまっすぐ届く翔子さんの書。絶望の淵を彷徨(さまよ)う中で見えてきたものは何か、伺います。
 

 
山田:  翔子さん自身は字を書く時に、どういう思いで、何を考えて書いているようですか。
 
金澤:  そうですね。翔子は私に喜んで貰いたくて書いているんですね。ですから、どこにどのように発表しようかとか、これはみんなにこのように見せようかということに、まったく邪念がないというんでしょうかね、それだけの思いで。私たちのように観念的に上下のバランスを考えてみたり、品がいい時は縦長がいいなとか、左右はこちらがちょっとバランスが悪いなとか、そういうふうな余分な思いがなくて、ただ一生懸命身体で覚えたものを喜んで貰いたくて書くということなんですね。翔子は大きく知的障害を持っていますので、今のこの近代社会の構造とか、それから貨幣経済のことがわかりませんし、近代科学の知識もまったくありませんし、いろいろな欲望―偉くなりたいとか、お金が欲しいとか、そういう諸々のものを取り外して見ると、人間というのは愛が残るのかなと思うように、凄い愛情が溢れているんですよ。凄い愛情の深い子なんですね。例えば何か頂こうとしますね。それで御菓子がいっぱい出るとします。そうすると、自分が美味しいなと思うものは、お母様とか、お客様とかにも、「あなたはどうするの」というんですけど、まずあげちゃう。書もそうですね。だから喜んで貰いたくて書いているんですね。これを個展に出そうとか、良い賞を貰おうとかじゃなくて、私ももう五十年以上書道やっていますけども、何故五十年も続けられたかと申しますと、書いていて不思議な書の神様が下りて来てくれるような瞬間に達したくてやっているんですね。
 
山田:  何か自分の力を超えるようなものがきてほしいと。
 
金澤:  超えるようなものが来て欲しいと思って、ほんとにそれを願いながら書いているんですが、翔子には若干二十二歳か二十三歳なのにたまに下りるんですよ。私が昔から俵屋宗達(たわらやそうたつ)(生没年不詳。慶長から寛永年間に活動。江戸時代初期の画家)の絵が好きなので、翔子に「風神雷神」と書かせてみたんです。何枚か練習したんですけれども、最後に出来たのが―私の目の前に出来たんですけど―俵屋宗達の構図とぴったり同じだったんですよ。
 
山田:  構図が?
 
金澤:  構図が。字と絵ですから、まったく違うものなんですが、しかし「風神」が上にあって、「雷神」のちょっと「神」が欠けているんですね。「雷神」の俵屋宗達の「雷」のこの絵が欠けているんですよ。同じように「神」が欠けている。意図したわけじゃないんですよ。翔子はそういうことができませんから。そういう不思議が翔子に起こるんですね。そういうものが私たちには到底起こらない、もっと観念が強いですから。「神」の上が出ちゃうとか、振るいちゃっているんですね。これは私たちにとってみれば失敗だと思うんですけども、「風神雷神」と書いた時に、ほんとに宗達が下りてきたように、筆に。本当に偶然とは言えないと思うんです。あの構図ができたんですね。そういう不思議な世界が見れることが、とにかく一番の喜びですね。書家として欲しいものはそれですから。長い間書をやっていて、自分が神と言いますか、書の神様が下りて来てくれたな、というような字を書きたいですね。ずっとそのためにやっているようなものなんですよ。私たち何十年やってきても、そういうことができた人は私の周りにはいませんのでね。それは非常に嬉しいというか、不思議を見せてくれることがあります。
 
山田:  それは二十四年前ですか、翔子さんを生まれて、非常にお母さんとしては衝撃をお受けになった時には、まったく予想されなかった状態、心の持ちようでしょうか。
 
金澤:  ええ。勿論です。今思えばおかしくなるほど「ダウン症だ」と告知された時に、あらゆる希望も全部なくなったんですよ。悔やみが残っています。それは初めて抱いた時にダウン症と言われていましたので、やっぱり涙で。翔子が誕生して、初めて見る世界が母親の世界だと思うんですね。それを泣きながら抱いて、〈どうしよう、どうしよう〉と思って、喜びじゃなかったんですよ。翔子が最初見た世界がそれで。暫くずっと抱っこしては、〈どうしよう、どういうふうに死のう〉とかね、泣いてばかりいたんですね。これはもう取り返しがつかない。翔子に対して申し訳ないことだなあ、と思いますので、それは未だに悔いていることですね。
 
ナレーター:  幼い頃から書道の手ほどきを受けていた泰子さんは、日本の伝統文化に魅せられ、短歌や能の世界にも親しむようになりました。三十四歳の時、能を通じて知り合った裕(ひろし)さんと結婚します。念願の子どもを授かったのは八年後、泰子さん四十二歳の時でした。二千三百二十グラムで生まれた待望の女の子は、ダウン症と診断されました。しかし、産後の泰子さんへの気遣いから、暫くの間そのことは知らされませんでした。
 

 
金澤:  実は私が帝王切開でしたので、帝王切開した時に、主人が呼ばれまして、「実は敗血症で、交換輸血をしなければいけないけれども、もう一つ障害があってダウン症という障害がある。多分知能がまったくなくて、寝たきりの子だろうから、交換輸血までして助けることはどうだろう。助けなくてもいいんじゃないか」ということを言われたらしいんですね。主人はクリスチャンですので、そういうことは受け入れられなくて、窓のところに行って、「僕は神の挑戦を受け入れます」と言ったんです、って。それで翔子の命を助けたんですね。主人は生まれた日に知っていたのに、私は四十五日間―ちょっと疑惑はあったんですけども、〈おかしいな。なんでみんな隠すんだろう。どうして会わせないんだろう〉ということがあったんですけど、四十五日目に私が知らされて、それはもう生きていけない。「ダウン症だった」と聞いた時に、それはもう大変な苦しみで、その時私は背筋がさっと寒くなりましたね。ベッドのところにずるずると倒れてしまったんですね。これは凄い思いが大きかっただけに、生まれてくる子に。その前に流産を三度もしていまして、もの凄い期待した子でしたので、衝撃は大きかったですね。私も四十二ですからね、それまでやりたいことをやってきまして、いろんなことがとっても順調にいっていまして、そして文学系に関心を持つちょっと文学少女だったわけですよ。それで「知的でない者は美しくもない」みたいな酷いことを言っていたわけですよ。知性が一番だと思っていたんですよね。男の子だったら、三歳から六歳ですか、きちっと花伝書(かでんしょ)に従って能をやらせて、日本一の能楽師にしよう。女の子だったら、やっぱり日本人なんだから、日本的なもので書道をやらせよう、と。私がもう全身で教えてあげよう。日本一の書家にしよう、なんて思っていたんですね。そういう非常に期待を持って生んだ子なのに、「ダウン症だ。知的障害が大きくある」と言われて、日本一にしたいという思いが強かっただけに、非常な衝撃を受けまして、〈そうなんだ、私が思ってきたような希望は持てないんだ。日本一だなんて望むべくもないんだ〉ということで、凄い衝撃を受けたことを覚えています。
 
 
ナレーター:  障害がある我が子をどう受け止めれば良いのか。当時の心情が日記に綴られています。
 
翔子の生命を救うべきか、いまだに迷う。
ミルクの量を少々減らしてしまったりして、
その後すぐこうかいになやむ。
翔子が大きくなるのがこわい。
 
「ゆりかごの中で殺してあげなければ」と・・・
私は悪い母親であろうか。
 
泰子さんは娘と一緒に自分も死のうと考えるまで思い詰めていきました。
 

 
金澤:  いろんなを計画を立てるんですけれども、里帰り出産でしたから、夫とは別々に暮らしていまして―彼は目黒にいたんですけども―それでけっこう死のうかな、なんて思うと、「洗濯物が溜まったんだけども来てくれないか」とか、「お部屋の掃除にちょっと来てくれ」とか、うまく引き寄せて、私にそういうものを決行させなかったんですね。急な坂道があれば、〈ここで乳母車を躓いて離しちゃおうか〉とかね。それから勿論ミルクも薄くしてみたりしながら、決行できないんですよね。何日も。二日目ぐらいにはもう可愛い。また翔子が可愛いんですよね。だから可愛さってほんとにわかりましたよ。どんなに言われても可愛さって親に育てさせてしまうんだなと思いましたけども、非常に可愛く、ダウン症って特に不思議で、ずっと空間を見て笑うんですよ。またこっち見て笑ってね。笑うというか微笑むんですね。何とも可愛くて、それがあってミルクをやっぱり薄めるのが続かない。選択肢としては、〈大きい地震の時は落としちゃおう〉というのもあったんですけども、もうそんなこともなくて、翔子に駆け寄って守ってしまったんですよ、抱えて。「翔子、大丈夫!」って。それが一つのきっかけで、〈あ、殺せない。死ねない。私はそんなことはできないんだ〉と。
 
 
ナレーター:  娘と共に生きると心を決めた泰子さんは、毎日地蔵めぐりをするようになりました。娘の障害がなくなる奇跡を願ってのことでした。ダウン症という事実をどうしても受け入れられなかった泰子さん。止むに止まれず神仏にすがる行脚を続けていたと言います。
 

 
金澤:  奇跡的にダウン症が治ってほしかったんです。少しずつ治っていくなんてことは堪えられなかったわけですよ。目の前で、「ダウン症が治ったよ」というふうに奇跡的に治って貰えたかったんで、そのためには私は持てるものすべて―命も、目の前で治ったという証拠を見せてくれれば〈私は命をあげます〉ぐらいにも考えて、神に縋ったんですね。それで地蔵菩薩が、衆生の苦しいものを救うことを誓った菩薩だ、と聞きまして、じゃきっと救ってくれるだろうと思ってお地蔵さんに縋ったわけですよ。お地蔵さんめぐり始まったんです。
 
山田:  それは一人ですか、翔子ちゃんも一緒に?
 
金澤:  翔子を連れて。それで地蔵さんにお願いするというのも手立てがなかったものですから、般若心経というのは書家だと今まで接することがありましたので、内容の如何に拘わらず、お地蔵さんにお願いする手立てとして般若心経を選んだんですね。一日に何十回となく称えます。未だに何かあると、「羯諦(ぎゃてい)羯諦」と心の中で言っていますよ。「羯諦(ぎゃてい)羯諦(ぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)菩提婆訶(ぼじそわか)般若心経(はんにゃしんぎょう)」知らず知らずに称えています。
 
山田:  そういう習慣みたいになって。
 
金澤:  そうそう。心経が呪文のようになっていっていましたね。お地蔵さんに祈ったりしながら、ほんとに奇跡が起こるんだろうか。起こるんだろうか、起こらないだろうか、ということが問題になってきて、ほんとに奇跡って起こるのか起こらないのか答えを出してほしい、って。神はいるのか居ないのか、って。これは多分人間にとって根元的な質問だと思うんですけども、そこにいったんですね。ですからほんとに苦しい時に―それは私が苦しいとこで経験したことなんですけども―神を捏造(ねつぞう)していくんですよ。自分を助けてくれる神をね。だからほんとに苦しい時のみ神が見えるというんですか、神に会える。神を捏造するというか、神を造らなければそこをしのげないぐらい苦しい思いがあって。そういう時って、まず自分の生きてきた道を悔やむんですね。悪いことを考えたら、いっくらも悪いことって出てきちゃいましてね―良いこと考えれば、良い自分が出てくるんですけれども―悪いことが、〈あれも悪かった。これも悪かった〉と、私がまるで悪人の人生を歩いてきたために、翔子が生まれてきたんじゃないか、と。例えば恋愛にしても、闘うことがあれば勝ち抜いてきた。振られ側じゃなくて振る側とか、例えば三角関係があったとしたら、勝ち抜く方にきた。いつも勝たなければ私は負けることができなかったんですね。書道なんかでも。賞争いなんかで、私の方が取った時、いい気になっていたけども、負けた彼女の方が歳も取っていたし、私よりも数倍やっていたのに、あの時彼女はかなり苦しかったろうなとか、そういう負けた人の強く思ってみて、まったく勝ちがない人の気持がわかって、それでそういうふうな自分の人生も後悔しましたし、やはりそういうことに鉄槌(てっつい)がきているんだと思いましたね。身体もダメになりましてね。間接が痛くなって、まっすぐ歩けないぐらいに身体までやられてしまいましてね。それで何見ても涙―でも涙というのは単なる眼から出るものではなくて、身体から絞り出るものだって。流しても流しても涙というのは切りもなく出てきて、もう一生分も二生分も人生泣きましたよね。泣きながら神にしがみついて、〈今までのこと赦してください。今まで悪かった〉と。苦しい人の気持わからなかった。ここで今ここで全部わからせているのかな、と思いましたね。
 
山田:  それでそういう形で神を求められて、神は居たんですか。
 
金澤:  居たんです。
 
山田:  どういう形?
 
金澤:  神はやっぱり鉄槌を下した。偶然に私に翔子ができた、ダウン症ができたんじゃなくて、神が居て、今までの悪行―いい気になっていた私に鉄槌を下すために、やっぱり神がいたんだなあ、って。だからそれは克服しなければいけない問題なのかな、と。偶然にきたんだったら赦せないと思いましたよ。偶然でこんな苦しい思いをさせられたら堪らない、って。でも私の今までやってきた人生に対して、神が鉄槌を下したんだったら、私はそれを受けなくちゃいけないな、というふうに、神は居ましたよ、その時はね。神を見た、と言いますかね。
 
山田:  何故そういうふうに思うようになっていったのでしょうか。
 
金澤:  それは神に祈ろうが、縋ろうが、奇跡は起こりませんでしたし、それと般若心経を知らず知らずに読んでいくうちに、「色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)」みたいなこととか、そういった「無」である、「空」であるというようなことがだんだんわかってきたんですね。ある時般若心経って、そういう御利益のお経でないというのに気が付いてきたわけですよ。これを称えれば奇跡が起こると思っていたんですけども、そういうことではないんだ。自分の意識を変えていく。変わっていくことなんだな、という、そういう意味でお地蔵さんは救ってくれたかも知れませんね。だんだん違うんだと、自分の意識が変わってきて、そんなダウン症でも大丈夫じゃないかと思って、それで翔子の良いところが見えてきた。それで、こんなに良い世界を持っている、と。翔子は一度も私を困らせたことがないんです、小さい頃。人の心を読むということが大変上手でしてね。ほんとに小さい二歳ぐらいの時に、私がおろおろしていると、こうお手々を伸ばして、小さなお手々で、「大丈夫」とやって来るんですよ、翔子が。そういったものを見て、〈あ、この子はダウン症でもいい〉というふうに奇跡を願わなくなってきたんですね。奇跡は起こらない、起こらなくてもいいだろう、というふうになっていったわけですね。
 

 
ナレーター:  医師からは、一生寝たきりになると言われた翔子さんでしたが、二歳になると歩けるようになりました。ゆっくりと歩みを進める娘の姿に、泰子さんは翔子さんの小幅に合わせて育てていこうと考えるようになりました。将来、親が先立った後も、残された娘が暮らしていけるよう、料理や掃除など生活の術を教え始めます。翔子さんが五歳になると、近所の子どもたちに声を掛け、自宅の一階に書道教室を開きました。翔子さんんが同じ年代の友だちと一緒に書道を学ぶ場をつくろうと考えたのです。そこには翔子さんが将来一人で生きていく時、書道が役に立つに違いないという、泰子さんの思いがありました。
 

 
金澤:  五歳の終わり頃に、お友だちをつくらなければいけない、と。学校での。そこで書道教室を翔子が五歳の時に、三人集めて四人でこんな小さなテーブルで書道教室というものを始めたんです。その時初めて翔子にきちっと教えました。書道というのは夜中でも、苦しい時に広げて細かく写経したり、それで心の苦しいものを吸い取るようなんですよ、時間が。
 
山田:  そうすると、さまざまな思いがこう胸に去来した時に、きちっと硯に向かわれて、時間を掛けてなさることが整理をしていくことになっているわけですか。
 
金澤:  そうですね。障害者同士というのは、なかなか友だちができないです。ですから非常に孤独な時間が多いだろうから、その孤独な時間を自分で過ごせるように、人に迷惑を掛けないで、ということで書道をやってきたんですけども。
 
山田:  一方で学校にも行き始めるわけですけれども、その時に普通小学校を選ぶわけですね。
 
金澤:  そうです。
 
山田:  これはどういうお考えだったんでしょうか。
 
金澤:  一つ大きなきっかけは、翔子に滑り台を滑らせようとして、「翔ちゃん、お出で」とか、一生懸命やっても滑らないで、主人が上にいて、「翔ちゃん、離すよ」と言っても、しがみついて、下にいてもできなかったんですが、ある時大きな公園に行った時に、翔子と同じくらいのお嬢ちゃんが滑り台をさっと滑ったんですよ。それを見ていて翔子が滑ったんです。だから障害者の中に入れてしまったら、できないだけで通ってしまいますけれども、見てできるという感覚が同じ年齢の中で育っていくんですね。それでもう決めましたよ。障害者の中で括ることは止めよう、と思いましたね。実際行って見たら、当時障害者を普通学級ではあまり喜ばなかったものですから、いろんな難題を持ちかけられましてね。どんなことを言われても、普通学級に入れて貰っているということで、先生に「有り難うございます」「申し訳ございません」と、この二言しかないぐらいに、苦しいことでした。翔子があがる小学校の道を通っていく保育園に行ったんです。私は雨がどんなんに降ろうが、風が吹こうが歩いて、学校に入れるために商店街を通って行きますので、みんなが見ていてくれているので、私は毎日自転車にも車にも乗らないで連れて行ったんですね。実際、小学校までは一人で行けるようになっていたんですが、小学校一年生の担任の先生が、「お母さん、手を繋いで来てくれ」と言われたんですよ。「何故ですか?」って。それでしょうがないので、一ヶ月ぐらいは行きましたけれども、一人で行けるのに何故手を繋がなければいけないか、ということを先生に、「どうしてですか? いつまで繋いで行けばいいんですか?」と聞きましたら、「卒業するまでやってください」と言われたんですね。それで私は、そんなことあり得ないんじゃないですか。要するに障害者扱いであって、それで「何故一人で来れる者がやらなければいけないんですか? 手を繋がなくちゃいけないんですか?」と、聞きましたら、「万が一事故を起こしたら、どうしますか?お母さん。障害者が事故を起こすということは許されないんですよ」と言われました。そういう時に私の考えって決まっていくんですけれども―「万が一」を恐れて手を繋いで行っていたら、一生自立できないだろう、と思って。だから先生に「万が一を恐れてやっていられないので、その時私は死んでもいいです」と言ってしまいましたよ。
山田:  お母さんがとても苦労してこられた。その過程をお父さんはどういうふうにそれを見ていて、なんか話をされた記憶がありますか。
 
金澤:  主人はダウン症であることをちっとも恥じることもなく、しかし自信を持って誇りを持って育ててくれていたんですよ。お祭りがあった時―お祭りは子どもが喜ぶんで連れていくんですけども―主人はパッと抱っこして、肩車してあげて、誇りを持って育てていましたね。それで「生まれなかったより良かったんじゃないか」と言ってくれてね。彼はダウン症をものともせずでしたね。ダウン症が何故悪いのみたいに。私は、「何故そんな平気でいられるの?こういう子なのよ」と思うんですけども、ダウン症であることに関して怯んだことはなかったですね。プールへ行っていたんですけども、当然ダウン症ですから筋肉が弱いから遅いわけですよ。それでたまに見に来て、その様子見ていて、「おぉ、ちょっと翔子、遅いじゃないか。コーチに言え」とかいうんですよ。ダウン症だから当たり前だと思うんですけども、ちっともダウン症と捉えないで、普通の中で。
 
山田:  ご主人のそういう態度が、お母さんの苦しみをどっかで支えていたという感じはあるわけですね。
 
金澤:  非常に支えてくれましたね。ちょっと崩れそうになって愚痴が出そうになっても、「生まれないよりも良かったじゃないか」とか、「ダウン症であることが、僕は誇りだよ」とかね、いろいろ言葉で、勿論動作行為もそうでしたね。もうほんとに高々と育ってくれましたね。ある時に学校の先生に、「面倒を掛ける子どもすいません」と言いましたら、先生が、「いやぁ、金澤さん、翔ちゃんがいるクラスって、とってもみんなが優しくなるの」って。翔子が弱いからみんな優しくなってくれて、それで私は、勉強させようとか、頑張らせよう、ということではなくていいんだ、というふうに心が安らかになりましたね。
 

 
ナレーター:  翔子さんが持っている独特の優しさや不思議な力に目が向くようになっていったという泰子さん。娘が周囲の友だちと一緒に育っていくことに希望を感じるようになりました。しかし小学校四年生になった春、その願いは絶たれます。普通学級での受け入れは今度難しいと言われ転校を余儀なくされたのです。夢を失った泰子さんは、転校までの二ヶ月間学校を休むことになった娘と共に書に没頭します。娘に取り組ませたのは、仏の教えを凝縮したと言われる「般若心経」。一筆一筆時間を掛けて何度も書き直した翔子さん十歳の作品です。
 

 
金澤:  四年生になる時に、新学期に新しい先生になって、翔子のことを「教えられない」と言われたんですよ。翔子を預かれない。それで私たちは夢を膨らませていましたから、新学期頑張ろうと思って。凄い苦しかったんですね、拒否されたことが。それで十歳のダウン症の子に、二百七十二文字は絶対無理だと思ったんですが、やらないともう収まらない気持ちだった。何か大きなものに挑戦しないと。期待していた学校に行けなくなってね。まだ五年しかやっていませんから、形のことまだきちっと身に付いていないものですから無茶苦茶なんですよ。ただもう意志だけですね。やるという意志の強さみたいなものでやり終えたんですけどね。私は、菜箸を持ってきまして、左側に坐って、それで「もっと上でしょう」とか、「上がりなさい」とか、私が叱るんですよ。そうしますと、ほんとに可哀想なんですけど、涙を流しながら。でも一行終わると、「お母様有り難う」というんですよ。そういうところは健気な子なんですね。トータル十回ぐらい書きましたから、四年生の時に。書き順がきちっとできるようになりましたね。それによって翔子の何ができないのか、私はよくわかりましたので、右に上がると大きく見えてとってもいい字なんですけど。「右上がり」ということが解らない。翔子はそういう図形のことがわかりませんので、「上がる」と言ってもわからないし、「右に」と言ってもわからないので、それでどんなにしてもできないので、坂道へ連れて行きましてね、「上がるということはこういうことだ」「下がるということはこういうことだ」ということをこう見通せる坂だったんで歩いて教えました。
 
山田:  実際に歩いて?
 
金澤:  歩きました。それで「上がっていくというのはこういうふうに上がるのよ。これが上がる。下がるというのはこういうことだ。だからこっちに上がるように、字は書くのよ」ということをやったりね。今度平行を教えるためには線路を見せる。理論的にはわからない子なんです。ですから身体で覚えるように見て、ビジュアルに見なければわからない子ですから。ですけど翔子の場合はまったくそういう理論的なこととか、抽象的なことがわかりませんので、そういうことで苦労というか、普通の子より大変でしたけども、翔子の身体で覚えていますので、どんなに崩れようが、崩れていないんです、骨格が。これはやはり二人で苦労した甲斐があって。だからはみ出そうが短かろうが、長かろうが、バランスは合っているんですね。ですから休まなくちゃいけなかったという状況は、その時は辛かったんですが、あれがなければ翔子の今の書はなかったかも知れない。そういうチャンスがなければ、普通に学校に入れて貰っては、それだけ時間がありませんからね。だから本当にそういうことでも思いますよ。
 

 
ナレーター:  その後も泰子さんと翔子さんは、書の練習に励んでいきました。翔子さんの上達を何より楽しみにしていた夫・裕さん。しかし翔子さん十四歳の時、家族は突然の悲しみに襲われます。裕さんが心臓発作に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。母と子二人きりの生活。呆然自失だった泰子さんを救ったのは、娘の翔子さんでした。今も父・裕さんがそこにいるかのように語り掛ける翔子さん。そうした姿が泰子さんの心を次第に穏やかなものに変えていったのです。
 

 
金澤:  翔子は、お父様は今見えないけども、いつでもいるんですよ。横にだの、天に。ですから私が翔子のことを叱りますでしょう。そうすると、ここの横を見て、「お父様、お母さんのこと怒ってよ」と言っているんですよ。「クリスマスで何か欲しいものあったら大きな声で言いなさい」というと、「お父様、お人形メメちゃん買ってください」とか、それは天に向かって言うし、具体的に居ないことはわかるんでしょうけども、決して寂しくはないんです。お父様はどこにもいる。だから魂みたいなものはちゃんと通じているみたいなんです。だから寂しいとか、そういうことはなさそうですね。いつでもお父様はいる。朝、「お父様、今日頑張る、助けてね」とか言っていますよ。だからその現実と空想の世界の切れ目がないものですから、まだ翔子の中に生きていますね。お父様は死んじゃいないんですよ。
 
山田:  それはなんか翔子ちゃんの命に対する捉え方と何か関わりがあるでしょうかね。
 
金澤:  大いにあると思うんですね。私も翔子のそういう世界を見ていて、いろんなことを考えさせられるんですけども、勿論翔子はお父様が肉体はなくてもすぐそこにいるという。私が翔子のそういうものから、仮説みたいなものが立てられるんです。命というものは、生命体って一個じゃないかと思うんですよ、大きな宇宙のね。翔子が接する、花でも愛しく思うし、犬も猫も大好きですし、鳥でもなんでも、翔子は平等なんですね。多分翔子から見て同じ命なんだな、と。だから翔子から教えられるのは、魂というか、命、生命体というものは全部同じであって、ただ形が違うだけであって、すべて同じ命が宿っていて、人間であれ、動物であれ、樹木であれ、全部一つの命なんじゃないかな、って。翔子の父親と接するものを見ていたりするとね。なんかそういうものを翔子からいろいろと思わされて、それが「色即是空」じゃないでしょうかね。形があるけれども、そんなものはないんだし、全部同じ命であって、上下なんかなくて、どんなことでも同じ命を持っている。木は何千年ということで、何百年も生きているかもわからないけども、生きている人間、蝉の命もなんか同じだなあ、と翔子のそういうことから教えられますね。
 
山田:  お父さんとそういうふうにすぐ繋がるのも、そういう捉え方があるからでしょうかね。
 
金澤:  もうわかっているんじゃないかな、翔子の中で、と思いますね。
 
 
ナレーター:  あらゆる命は繋がっていて、一つの命である。泰子さんは、書道教室に障害のある人を積極的に受け入れ、翔子さんに教えて貰うようになるようになりました。教室の空気を変え、人の心を動かす翔子さんの不思議な力。その力に気付いたことで、泰子さんは、翔子さんが生きる世界の深さに目を開かれていきました。
 

 
金澤:  私が翔子を育てる時に、いろんなとこを断られたんですよ。ピアノに行ったり、学校、幼稚園もそうでした。それからいろんなとこで断られて、とっても苦しい思いをしたんですね。ですから私はどんな子が来ようとも、障害が重くても、お金がなくても、若くても年寄りでも、どんな人でも採るということを、教室の唯一の貫いてきている信条なんですね。ですから障害者が多く来るんです、噂を聞いたりしてかなり多いんです。自閉症のお子さんで二年ぐらい席につくこともしない子がいた。ただもう悪戯していて、どうしようかなんて思っている時に、偶然なんですけども、翔子が―下の教室でやっていますので―上から来て、よっちゃんと言うんですが、「よっちゃん、かけなさい」って言ったら、そのよっちゃんが初めて素直に座ったんです。テーブルの書道の道具の前に。それで側に座って、「書きなさい」というと書くんですよ。どうにもならなかったお子さんが。
 
山田:  それは何なんでしょうね。翔子さんが教えられたら、そういうふうにその子が書いたりというのは?
 
金澤:  やっぱり優しいんでしょうね。優しくその子の中に入り込めるんじゃないでしょうかね。そこ何ともよくわからないんですけども。とにかく心を解す魔法みたいに、自閉症のお子さんが座った時はビックリしましたよ。ですからその自閉症のお子さんを教えたのをきっかけにいっぱい障害者が来ると翔子を呼んで、最初は、「翔子ちゃん来て」ということでやっていたんですけど、今は「翔子ちゃんに教えて貰いたい」というお子さんが多いもんですから、常時いるんですけども。身体でもって教えてくれるんです。翔子は、言語障害が大きいですから、身体をもって教えてくれるんですよ。筆を持って添えて「こう上に上がるのよ」「これ線路」「これ坂」とか言ってやっていますね。それぐらいの言葉しかでませんので。でも後になっても、翔子が最初に教えたお子さんはわかるんですよ、線で。翔子は良い線出すんです。だから翔子に教えさせているんです。
 
山田:  翔子ちゃんは、書道教室の子とか、同じような子どもたちと接触したり、そういう場面もあるんですか。
 
金澤:  みんな終わると、お友だちが待ったりするため、その前のちょっとした広場でみんな遊ぶんですね。みんなで鬼ごっこするんですよ。翔子も最初入れて貰うんですけども、やっぱりいろんな動きが鈍くて、翔子も察する力はあるんで、途中ですっと引くんですよ。みんな夢中になってくると、自分のことで夢中で、翔子のことなんかかまっていられないので、近所のお子さんたちがね。翔子はあそこの玄関のところで、こんなふうにして見ているんですけども。そういう姿を見て大人の生徒さんが、「先生、翔子ちゃん、可哀想ね」って言ってくるんですよ。しかし可哀想じゃないんです。翔子をよく見ていると、もう鬼になっている子が自分の友だちだと、ほんとに自分が鬼のようになってね、どきどきしながらわくわくしながら追いかけるんですよ。それで逃げる側になって、どきどきしながら逃げたり、はらはらどきどきする。凄いんですよ、見ていてわかるんですね。ちっとも不幸でも可哀想でもないんです。それでも十分に楽しめる。翔子の時間というのは、ちょっと健常者の方と違って、健常者はみんな過去から今がきて、今から未来に向かって、目標に向かって時間が流れているんですよ。見ていると、翔子のは、目標とか、欲望がないので、この時間が水平に広がっているように―「絶対時間」と私は言うんですけど―翔子の時間は絶対その時に完結しているんですよ。だから何かになるための今じゃなく。だから鬼ごっこでも鬼になろうが、逃げる側であろうが、それはもう両方になられるわけですから。そして当の本人たちよりずっとわくわくしていますよ。後ろ姿からわかりますよ。だから非常にその時間が豊かです。だから時間が一生流れていって、「久遠(くおん)」ってこういうことなのかな、と翔子を見ていて思いますね。途中で目標に向かっていた時間が折れることもなし、だから極論すれば翔子がいつこの世を去る時期がきても、ちっとも後悔しないと思いますよ。何かになりたくてやっているわけじゃないから、途中で折れることがないんで、十分だったね、と思うんじゃないですか。
 
山田:  その時その時精一杯に生きる。
 
金澤:  そうです。ほんとに十分に生きているんで、どの時点で、どうなろうとも、「よかったね、翔子ちゃん、いい人生だったね」と言えるような、そういう羨ましい人生ですよね。
 
山田:  今、習いに来る子どもたちというのは、今受験競争の中で、きちっと塾にも行く。なかなか忙しい生活を送っているんじゃないかと思いますけれども、書道教室に来る子どもたちに、どういうことを学んで欲しい、教えたいと思っていらっしゃるでしょうか。
 
金澤:  子どもは子どもの世界があるんだから、お母さんお父さんの望むように一生懸命やらなくとも、「家(うち)は自由よ」って。だから「お母さんには言わないよ」というのが、私のもう一つの鉄則なんです。というのは、子どもたちが暴れるでしょう。「お母さんに言わないで!」という子が多いんですよ。それで、「お母さんには言わない」ということをみんなに言っています。それで、家(うち)は大丈夫だ、と思っているんで、ほんとに自分を出して遊んだり、書く時間よりも遊ぶことの方が多い子もいるんです。それでもその子にとっては、この時間が大事だなあと思うようなお子さんが沢山いるんですね。書道ですから成績のように順番もつけれませんので、その子の良さを出してあげて、そして少しここで休めるように。もう受験地獄で、ほんとにみなさん忙しいです。「この次ソロバンに行って」「次は塾で」そういうことばっかり言っていますので、家は障害者も健常者も一緒ですから、みんなで感性の豊かな方に流れていくんですね、普通のお子さんも。みんなで遊ぶんですけども、それは素晴らしいとこなんですね、家の教室はね。ですからお母さんたちが望む教室かどうかわからないんですが、家にきたらみんな自由。「お母さんには言わないよ。家の姿は」と言って。ですから知的障害者もみんな同じようにやっていますね。とっても幸せそうなんですね。
 

ナレーター:  今から四年前、翔子さんが二十歳になった年、初めての個展を開きました。生前夫の裕さんは、娘が成人したらお披露目の会を開こうと話していました。その約束を実現し、お世話になった人たちに感謝の気持ちを込めて大筆を使った書を披露したのです。それまで十五年にわたって書き溜めた作品も展示しました。個展は反響を呼び、その後繰り返し展覧会を開くようになりました。
 

 
金澤:  一回限りだと思ったものですから、私たちの仲間で銀座書廊でやったんですね。そうしましたら、新聞に取り上げて頂いたんで、ダウン症のお子さんたちを連れたお母さんたちが見えたり、いろんな方がたくさん来てくださいましたね。そうしましたら、翔子と同じ小学校一年生の時の同じクラスだったそれこそエリートコースまっしぐらのほんとに優秀なハンサムな凄い堂々とした大学生が、商店街で、「おばちゃん、いつもビリだった翔子がトップになっちゃったね。俺たち負けちゃったね」と言ってくれたんですよ。それで私は、ほんとに二十年間忘れ果てていた「トップ」という言葉を聞いてビックリしたんですけども、生まれる前はそんなことを思っていたな、って。あの時忘れ果てていたのに、いつのまにかビリをずっときたのに、いつの間にかトップと言われちゃったんだ。これも凄いな、って。二十年前の思い、と。でもあの時願っていたことを封印したけども、ここで叶ったんだという、とても良い個展でしたね。二十歳の展覧会というのは、主人の遺志を表したこともあるし、もう一つ大きな役目があったのは、翔子はやはり寂しかったかどうかわかりませんが、爪噛みが激しかったんです。もの凄い爪噛みで、お医者さんに行ったりして、自分でも止められなくて、セロテープ、ガムテープを巻いたりして寝ていたりしていたんですけど、止め切れなかったんですね。これは壮絶な、ちっちゃな指との闘いでして、私と翔子の。私の愛情が足らないのかなとか、教育相談に行ったりしていたんですけども、個展が終わって暫く経って気が付いたら、爪噛みがなくなっていたんです。爪が伸びてきたんですよ。それで私はわかったんですが、翔子はかなり力があるんですね。しかしダウン症だからみんな優しくしてくれるし、できることもやったりしてくれたりする。多分自分の存在を求めて貰いたかったんだと思うんですよ。個展でみんなが拍手してくれて、初めてみんなの前で書いたんですね。「翔子ちゃん、凄いね」って、みんなが歓声をあげてくれて、拍手をしてくれた。なんか自分の存在を認めて貰えたんだと思うんです。その喜びがきっとあると思います。自信というか、喜びがあるようになりましたね。とっても喜びに満ちてきたな、と思います。
 
山田:  お小さい時からお母さんの書道の指導があって、そして二十歳の時の個展がそんなふうにみなさんに受け入れられて、というふうにきたんですけども、そういうふうに辿ってこられた翔子ちゃんのなんか奇跡というんでしょうか、そういうのを振り返られると、何を一番お感じになりますか。
 
金澤:  結局、奇跡が起こらなかったんです。ダウン症は治らなかったんですけども、しかしあの時あんなに苦しんでいて、地蔵めぐりしていたのに、今同じダウン症なのに非常に幸せなんですね。非常に幸せになりました。翔子と私で暮らしていても至福だと思いますね。だからこの二十年、二十五年間で思うことは、「禍福はあざなえる縄の如し」と言うんでしょうか、闇の中にこそ光明があるし、光明の時こそ気を付けなければいけないよ、と思うように、「禍福はあざなえる縄の如し」なんだなあ、って。あの時あんなに苦しかったダウン症が、奇跡なんかとうとう起こらなかったにも拘わらず、やっぱりお地蔵がある意味で、ここまで導いてくれた。お地蔵に祈ることはきっと自分の心に何か変化を起こしてきたんでしょうね。それで翔子もとっても幸せな境遇にいると思うんですね、今ね。私も自分の書道をやってきたものを翔子に教えて、それでみんなが喜んでくれて、私が死んだ後も翔子をできるだけ多くの人に知っておいて貰いたい、という思いがあるんです。例えば翔子はどうなるかわかりませんけども、施設かどっかに行かなくちゃいけないと思うんですね。その時に、「あ、書道をやっていた翔子ちゃんだ」って言ってくれる人が少しでも多いと救われるかな、という思いがあるんで、そういう意味ではとってもいろんなものが達成されて良かったなと思うんですね。
 
山田:  翔子ちゃんの展覧会がとてもいろんなところで評判になっているんですけども、翔子ちゃんはそれで書家として一人前になったという感じなんでしょうか。
 
金澤:  いいえ。翔子はまあ結果として皆さんに喜んで頂いていますけども、私から申しますと、翔子は知的に遅れがありますので、辞書を引いて字を知るということができないんですね。それから一人で軸を探してきて、自分で紙を選んで、筆を選んで、しつらえて書くということができないんですね。誰かの、少なくとも私がいなければそこまでいけない。ですからほんとに一人立ちした書家とは私は言えないと思うんですね。私は、翔子は月のようなものだと思うんです。太陽のように自分から輝くことはできないんですよ。照らされて―私とか教室のみんなに、あるいは見てくれる方に誉めてもらったりしてやっと照らされて光っているんだ、って。輝いていますけども、みんなの輝きであって、翔子が一人で凄いのを書いてというのじゃなくて、みんなに後押しされて手伝って貰って、そして書くから素晴らしいんであって、いずれそれはまた地平に沈む時がくるかも知れないけども、いっこうに翔子が月であることは変わりなく、月の明かりが見えなくとも、月はあるわけですから変わりがない、と。翔子って月だなあと思う時があるんですね。
 
山田:  翔子さんと金澤さんとは、これからどういうふうに何を大事に生きていかれますか。
 
金澤:  翔子は今のままで十分ですので、いろんなことをやってくれますしね。私の多分介護もしてくれるでしょうし、楽しくできる限り個展もやっていきたい。ただ翔子の書道というのは、初心を忘れちゃいけないと思うんですけども、孤独に堪えられる時間をつくってあげようと思って始めたことですので、それはまったくぶれちゃいけないと思うんですね。今ちょっとみんなが誉めたりしてくれていますけども、これはいずれ終息することでしょうから、こういうものが終わってからでもまた良い道が待っていますので、書道だけは二人で続けてやっていこう、と。どんな時でも書道はやっていこうと思いますね。多分書道は私たちを今までも救ってくれたし、これからも救ってくれると、そう思いますね。書道は翔子と死ぬまで続けていきたいと思っています。
 
     これは、平成二十二年一月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである