我を照らされて
 
                     宋吉寺前住職 西 川(にしかわ)  玄 苔(げんたい)
大正一二年(1923年)名古屋市に生まれる。東海中学から駒沢大学仏教学科卒業。久留米予備士官学校に入隊。大学時代より沢木興道老師に随身、約二○年鉗鎚を受ける。宮崎安右衛門先生よりキリスト教、詩や石の話を教わる。稲垣錦箒庵先生(橋本関雪の高弟)より、南画の手ほどきを受ける。甲斐和里子女史、白井成允先生より、親鸞聖人の教えを聞く。富長蝶如先生より漢詩添削を受け、易経や荘子の講義を聴く。名古屋、宋吉寺参禅道場を開いて五○年、参洲足助山中に参禅道場竹林禅苑を開いて三三年。現在は、宋吉寺住職を長男慈海師に譲り、東堂として、執筆、講演に活躍。
                     き き て  亀 井  鑛
 
ナレーター:  達磨(だるま)を描く禅僧の西川玄苔さん、八十六歳。達磨は中国へ仏法を伝え、日本へ道元禅師が伝えられた中国の禅宗の開祖と言われる人です。ひたすら坐禅を組んだ修行の後に、あらゆるとらわれから離れたとされる達磨は、西川さんが理想として仰ぐ存在です。
 

 
質問者:  何をお描きになったんですか?
 
西川:  これ「不識(ふしき)」識(し)らず。達磨さんの言った言葉。識(し)らず。これ「不識」という、これがまあ無の極致だわね。道元禅師の「非思量(ひしりょう)」ということだね。あらゆる思量を乗り越えた非思量を不識というんです、達磨は。
 

ナレーター:  名古屋市にある宋吉寺(そうきちじ)。徳川の初代から続くという古い禅寺です。この寺に生まれた西川さんの求道(ぐどう)の人生は、自分へのとらわれ、エゴに苦しみ、そのとらわれとの格闘に明け暮れるものでした。西川さんは坐禅に没頭するだけでなく、念仏にも帰依して自らの奥底を見つめようとしてきました。今日は西川玄苔さんにその求道の足取りを伺います。
 

 
亀井:  西川さんの八十六年の今日までのご生涯の中で、自我という問題が折りに触れて切実に重なったり向き合ったり、あるいはいろんな形で問われたりということがございましたようでございますけども。
 
西川:  私は今八十六ですよ。坐禅もやっているし、念仏申してお光も受けている。けれども、一番奥にちゃんとエゴが座を占めている。決して無くならない。こうやって話して偉そうなことを言っても、一番奥の方にエゴがちゃんと鎮座在(ましま)す。だからこそご本願があるし、只管打坐(しかんたざ)が伝わってくるんです。エゴが無くなったら仏さん用事ない。宗教用事ない。神に祈るのは、どうしても取れんエゴがあるから、それが目当てで神の福音もあるし、本願もあるし。
 
亀井:  ほんとにそうですね。
 
西川:  坐禅しても無にならない。どんだけいってもエゴがむしろはっきり見えてくる、坐禅していると。そのエゴも簡単なエゴじゃないわね。細かいことだ。それがちょうど風呂の中に入るでしょう。温泉とかに。初め入った時は綺麗なんだ、水が。ジッーとしているとすぅーと汚いやつが浮いてくるのと一緒で。
 
亀井:  垢が、
 
西川:  それと一緒で、ジッとしているとエゴがよく見えてくるんですよ。
 
亀井:  私たちは仏法をやることによって、仏道を歩むことによって、それが無くなる筈だ。なくならなくちゃいかん、と。そのことに思いとらわれてしまっている。
 
西川:  ほとんど間違えると、エゴを取るもんだ、と。エゴは悪いもんだ。良いもんじゃないですよ。世界中の今の戦争はみんなエゴから出ているから。決して良いものではないが、エゴを自覚するか自覚せんかの問題ですな。
 
亀井:  そこは大事なところですね、その一点が。
 
西川:  これが一番大事だ。
 
ナレーター:  西川さんが、仏道を歩むようになったきっかけは、幼い頃に感じた死への恐怖でした。寺に祀られていた閻魔大王(えんまだいおう)の姿や身近な人の死。死へのとらわれから解き放されたいという思いが始まりでした。
 

 
亀井:  死ということは、特に仏教では非常にこれを私たちの生き方の中で深くとらえて問い掛けてくるんじゃないかと思うんですけども、先生の死との向き合いの初めの頃、どんなようなことから始まっているんですか。
 
西川:  私はこの今の宋吉寺の息子に生まれましたけども、宋吉寺には本尊の他に十王像(じゅうおうぞう)という閻魔様を中心とした十の王様。死んでから初七日から、七七日、それで三十五日が閻魔さんですがね、十王様がずっと祀ってあって、奪衣婆(だついばばあ)や、計りや、それが絵でなしに立体的に、火で燃えているところや計りに測っているとこ、それがずっと造ってあったんですよ。割に広い―十畳二間ぐらいのところに。
 
亀井:  地獄のパノラマといったところですね。
 
西川:  そうそう。それが子どもの頃は恐ろしくてよう入らなかった。
 
亀井:  そうでしょうね。
 
西川:  何とも恐ろしい。結局こういうところに生まれて十王様に一番最初に会ったということが、非常に私に対して課題として死を賜った、という感じだね。ということと、もう一つは、私の従姉にミヨという女の子がいた。私より歳が一つ上で、従姉兄同士で、小さい時から、私の母と姉さんとは非常に仲が良かった。始終行き来して、私もいつもミヨちゃんと話をしていた。しかしそのミヨちゃんが非常に優秀な人なんです。私ね、従姉妹の中で尊敬していたの。頭はいいし、器量は良いし、字を書かしては上手だし、何やっても誉める事ばかり。それで親戚中ではミヨちゃんのことを「樋口一葉」だという渾名(あだな)があった。それと仲が良かって、そのミヨちゃんのお父さんが結核で亡くなったんです。そうしたら間もなくミヨちゃんも、私が中学校の二年か三年頃ですが、胸を患って亡くなったんです。その時に私は恋愛でも何でもないが、ずっと一緒に遊んでおったでしょう、幼なじみの。それでどこへ行っても一緒だった。それが抜けたからね、非常に空虚に感じたんですね。何か知らん、ポカッと穴が空いたような気がした。そこから〈ミヨちゃん、どうしちゃったんだろう? 死んでどこへ行っちゃうんだろうな?〉という、そういう死後のことを思うようになった。それでミヨちゃんが亡くなってから、それまでは私はみんなと一緒に相撲を取ったり、校庭で遊んでおったの。それからミヨちゃんが亡くなってから空虚になったでしょう。校庭の片隅へいって、ノート持ってきてね、「人生とは何ぞや。死とは何ぞや」そんな思惟の人間になっちゃった。それが縁でね、人生というものをなんか深く内面的に考えるようになったんです。ちょっとミヨちゃんの導きがあったと思う。
 
亀井:  ご成長の歩みを追ってまいりますと、大学へ入られる。ちょうど戦中ですね。
 
西川:  みんなうちの中学はその頃八校へ―今の名大(名古屋大学)ですが。
 
亀井:  名古屋では一番エリートコースですね。
 
西川:  みんな入学しようと受験勉強を一生懸命やっていた。私もやっておったんです。四年生の頃から一生懸命やっておったんだけども、その時に澤木興道(さわきこうどう)(1880-1965)老師の『禅談(ぜんだん)』という本が出たんですよ。中学のそれこそ四年頃に。それに私は惹き付けられた。これは直に澤木老師の門下に直接に行こうと思って、それで私の父親が、「澤木老師は駒沢大学にも来て見えるから、とにかく大学は出て行け。いつでも澤木老師に随える。とにかく大学は行きなさい」と言われた。それで駒澤大学に入った。
 
亀井:  澤木老師という方は非常に名高いお方ですが、どんなお方だったんですか。
 
西川:  澤木老師は、一生涯黒衣(くろごろも)で女房を持たず、寺を持たず、自分の家がない。それで「宿無し興道」という渾名で、それで坐禅、坐禅、坐禅。老師の行ったとこで坐禅をするからみんな集まって来る。全国を行脚(あんぎゃ)して、坐禅、坐禅。そうして教えて歩いた人なんです。とにかく私は澤木老師に惚れ込んだと言ったらいいか、好きで好きで堪らん。
 
亀井:  戦中の学徒出陣もなさった、ということをちょっと伺いましたけども。
 
西川:  その学徒出陣の時に、
 
亀井:  戦争末期ですね。
 
西川:  末期で、一番最後の学徒出陣です。いつもテレビで雨の降る中に神宮外苑の場面がすぐでるでしょう。
 
亀井:  私たち、馴染みの場面ですね、あれは。
 
西川:  あれに出たんですよ。
 
亀井:  あの中にいらっしゃった?
 
西川:  雨に降られて。もう死のが滅私奉公で、日本のために死んでやるんだから、そう恐ろしくなかった。それで送られた時に、「私はこれから国のために働いてきますから、家に両親が残っております。妹も残っている。皆さんよろしくお願いします」と言って、意気揚々として行きました。久留米の予備士官学校へ。久留米は輜重隊(しちょうたい)です。馬を扱う。
 
亀井:  しかし戦争末期ですからね。
 
西川:  戦争の昭和二十年一月八日に入隊したんです。しかし終戦が二十年ですから非常に食料不足で、食べ物が悪いんですわ。少ないんですわ。もうこんなものにちょっとあるだけ。そして演習演習で軍隊から外へ出るんですわ。その野外演習の時に一つの飯盒に四人分の御飯を夜焚くんですよ。それで煮えると四人分で分けるんです。その時に腹が減って減って、もうみんなガツガツでしょう。私は痩せちゃって、十貫目ぐらい痩せた。骨皮筋だけ。もうみんな待ち切れんの。それで当番の者が、「おい、今分けるでね」と。こうやって、「さあ取れよ」と言った時に、パッと手を出すんです。私も思わず知らず、パッと出した。そうしたら他の向こうの出した奴とパッと会ってね、その米がパッと散っちゃった。その時に、〈あッ、俺は無我(むが)だ無我だと思っておったが、いざとなると我(が)しかないな〉と思った。
 
亀井:  我優先という、
 
西川:  我優先。〈あぁ、無我だ〉と思っておったら違っておった。普段の時は、得意然としておるんですよ。如何にもいい顔しているんだ。私は特に禅宗坊主だというので、〈エゴなんかあらへん〉と、そう思い込んでおった。一生懸命坐禅もやったし、それで『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』も読んだし、いろいろなことをやってきた。普通の時は、「人の為に」と言って、余裕の時は人の手伝いもできる。しかしいざとなると、我(が)が出ちゃう。我が先に出ちゃう。それが一つの大きな私の我の発見でした。軍隊で教えて貰った。一遍我を発見すると、嫌な隊長、好きな隊長、嫌な戦友、良い戦友、みな我で判断するということがようわかってきた。
 
亀井:  初めて自分の中のそういう執着の心に気付かされたということですね。
西川:  エゴがもろに前にパッと出たんですよ。私は宗教を聞いた時に、仏法は無我だ、ということを聞いておったでしょう。それだのに無我は、ある程度は無我でいけるが、いざとなるとエゴだ。奥の方にエゴがパッと出てくるということを軍隊で教えて貰った。そうしたら間もなく終戦になっちゃった。
 
亀井:  幸か不幸かね。
 
 
ナレーター:  戦後軍隊から帰った西川さんは、寺の後継ぎとして修行を続けながら中学校の教師になりました。そして二十三歳の時に結婚。しかし教師として、また家族の一員として生きることと、禅の修行とが一致しない。そして自分へのとらわれから離れられないことに苦しんでいた、と言います。
 

 
西川:  これは私が母校の名古屋の東海学園へ勤めました時の写真で。
亀井:  担任の生徒さんたちと一緒に写されたお写真ですね。
 
西川:  ええ。でもこの時は軍隊でエゴというものを気付いたから、自分の家では一生懸命坐禅をしておりますし、澤木老師が見えたらいつも坐禅に行っておりますが、それは坐禅も一生懸命しているけれども、一遍そのエゴというものに気付くと、坐禅している時はなんかカラッとした無我になったような気になるんですよ。天地同根万物一体みたいにね。スッと何にもなくなる。そういう気持になっちゃうんですよ。大体二時間ぐらいぶっ続けてやりますからね。それでずっと、無になったな、無我になったと思って学校へ行くと、可愛い子と嫌な子があるでしょう。先生でも気の合う先生と嫌な先生があるでしょう。
 
亀井:  自分の物差しで相手を仕分けするわけですね。
 
西川:  どうしても全部エゴでやるな、と。一遍エゴを気付くとすべてにそれは見えてくる。
 
亀井:  目に付くわけですね。
 
西川:  坐禅を一生懸命やると余計わかってくる。その時は宋吉が焼け野原になっちゃってね、小さな掘っ立て小屋を建てた寺ですがね。そこで両親と私ら夫婦と子どもが一人二人出来る。一緒にごたごたと生活している。私の両親は明治の生まれでしょう、私らが大正時代、子どもたちが昭和―明治大正昭和の者が一緒になって食事をするんだけども、食事のことが合う食事と合わん食事がある。老人と若い者の両方で、家内が非常に困ったんだ。両親には可愛がって貰ったけども、いざとなると家内の方に肩を持つ。
 
亀井:  共感できますね。
 
西川:  心で悪いなと思う。私は親不孝だな思うけども。これも生活と宗教が一致しない大きな問題でした。どうしてもこれではいかんと。一部屋坐禅するとこないかな、と。自分の部屋もあるんだけれども、もっと一部屋で坐禅してみたくなったんです。家内も始終傍にいるし、子どももおるもんで、喧しいんで、そしてまだそこら焼け野原で、あっちから木材拾ってきて、それでボール紙買ってきて、木材立てて、ボール紙べったべたに張って、それで下は縁を張って、そこへボール紙を置いて、そして小さな自分の手製の部屋を作った。朝私が東海学園へ勤める前三時間、帰って来てから夜三時間、朝と夜三時間ずつ坐禅する。
 
亀井:  だけどトータルにしてみると、生活と教えというものが一つにならない。
 
西川:  そういうことがわかっても、エゴというものはあらゆる面に出てくる。勤めて二、三年経った時に、私は暁烏敏(あけがらすはや)(1877-1954:真宗大谷派の宗教家)という先生の名前を、澤木老師の講演の中に時々出てくるんですわ。
 
亀井:  暁烏敏先生というのは、真宗の説教の大家であり、宗務総長もしていらっしゃったという。
 
西川:  そうしたら中学へ勤めている時に、暁烏敏先生が中学の近所のお寺に講演に見えるという札が掛かっていた。私自身も何となしに惹かれるんですわ。これは一遍是非聞きたいと、他の先生に授業を代わって貰って抜け出して聞きに行ったんですよ。それが雪の降る日だった。その寺は半部建てだった。屋根が半部で雪がさっとまわっている堂には大勢坐っていた。暁烏先生は、目がご不自由で、誰かにずっと引っ張って貰って、頭に白い頭巾を掛けてこうずっと出て見えた。その姿がなんとも言えん神々(こうごう)しいんですよ。私は遅れて行ったからもういっぱいで坐れんので、欄干の上に掴まって立って見ておった。あれ尊いお方だな、とその姿を見て思った。ずっと台の所に見えて、それで台の所に座られて、マイクがあって、それで聴衆を見てね、パンパンパンと台を叩いて、「みなさん、ここで今死ねるか!」「ここで今死ねるかね!」と開口一番こう言われた。ドキッとした。
 
亀井:  それはそうかも知れませんね。
 
西川:  それで儂は欄干に掴まっておって、〈これは儂は死ねんな、まだ。今とっても死ねん。これはあかん、死ねん〉と思った。澤木老師に就いて坐禅しておったけども、とっても今死ねん、と。後何をしゃべられたか、全然覚えがない。それが私に対して死をグッと投げ入れてくれた。これはいつでも死ねる坊主にならなければいかんな、と思った。いやぁ、これは禅と違った真宗の親鸞聖人の教えには不思議なものがあるな、と思った。それから『歎異抄(たんにしょう)』の本を金子大榮(かねこだいえい)(日本の明治〜昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家:1881-1976)先生とか、曽我量深(そがりょうじん)(日本の明治〜昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長、同大学名誉教授:1875-1971)先生とか、いろんな『歎異抄』を読んだ。それだけども、どうもまだわからないんだ。だんだん『歎異抄』を読むに従って、私は、『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」ということに非常に打たれた。死んでから地獄へいくんじゃない。今現在が地獄なんだ。どうも地獄へ堕ちるのは重いな、堕ちたくないな、と思った。死にたくない、と一緒なんだ。これはあかんな。坐禅はいいですよ。坐禅をやって、それはカラッとなるけれども、さあ日常いろんな生活になるとゴチャゴチャしてくる。これはなんとか道を教えて貰えんかと思って、自房の本尊様が如意輪(にょいりん)観音様だから、如意輪観音様の前へ行って―親鸞聖人も六角堂で如意輪観音様をお詣りになったということでしょう―自房の如意輪観音様に「どうぞ観音様、私の進むべき道を教えて頂戴」と言ってね。その頃は「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、どうぞ私はどうも宗教と生活、無我と我の、これがバラバラでどうしてもいかんが、どうぞ教えて貰えませんでしょうか。南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」とこうやった。それから暫くしたら鈴木大拙(すずきだいせつ)(1870-1966)先生の『驢鞍橋(ろあんきょう)』という本が岩波文庫から出たんですよ。鈴木大拙先生が非常に讃歎しているから、買ってね。それで『驢鞍橋(ろあんきょう)』は、鈴木正三(すずきしょうさん)(江戸時代初期の曹洞宗の僧侶。三河国足助(あすけ)の生まれで、元は徳川家に仕えた旗本である:1579-1655)の晩年に就いた慧中(えちゅう)というお弟子さんが、その正三さんが僧になって後、教えを乞う人たちに説いたことを書き留めたもので、その『驢鞍橋(ろあんきょう)』の中にいつも出てくるのが「死に習え」ということなんです。これが始終よう出てくるんですよ。
 
亀井:  誰に向かってもおっしゃる?
 
西川:  誰に向かっても「死に習えなさい」と。「死に習って念仏申しなさい。いつも死ねるように坐禅しなさい」。「死に習え」ということをよう言われている。これが暁烏先生の「死ねるかね」という次に、「死に習え」ということが、私にとってはグッときた。
 
亀井:  第二の矢ですね。
 
西川:  二の矢だね。
 
ナレーター:  西川さんに大きな示唆を与えたという鈴木正三は、戦国時代末期、三河の国、今の愛知県の山間に武士の子として生まれました。鈴木正三は四十二歳の時、武士を捨て仏門に入りました。正三さんが見つめたのは、人間は死ぬ存在である、ということでした。すべてをさしおいて、ただ死に習え。人は例外なく死ぬ。その一点に立って迷いを離れよ。それが正三の思想でした。
 

 
西川:  鈴木正三は、「仁王禅(におうぜん)」と言って、お仁王さんのように気合いを入れて坐れ、と。それから「不動禅」と言って、お不動さんのようにカッとあらゆる気合いを込めて入れる。お念仏も勧めている。その中にずっと一貫してよう出てくるのが、「死に習え」という言葉なんです。正三自身は武士ですから、いつも死に直面して戦争に出て行っているんです。それだから死というものが一番身近なんですよ。しかしだんだん宗教に入ってくると、死の一関(いっかん)を―一関(いっかん)とは関所だ―死の一関(いっかん)をぶち破らんと生死一如(しょうじいちにょ)の世界に入れない。それでとにかく「坐禅でも死に習え」「念仏でも死に習え」と。「習い」ということは、これは道元禅師のお言葉にもあるが、「仏道をならふといふは自己をならふなり(正法眼蔵)」と。道元禅師の「自己を習うなり」というのは「本来の自己」のことを言われた。普通の我の自己じゃない。それと一緒で、正三は「死に習え」と。「習う」ということは、「羽」という字に「白」ですね。卵から雛が卵を割って出る。出ると羽根をパッパッパとこうやる。パッパッパとやっていると歩けるようになって、パッと飛べるようになる。だから何遍も何遍も繰り返して繰り返してやらんと飛べない。そのように死というものも、毎日毎日刻々として死に習えと。「もう死ぬぞ死ぬぞ。お前は死んでおるんだ。死ぬぞ」ということを常に言って聞かせて、そして坐禅でも俺はこれで死んでいくんだ、と。これで最後だ。私は「只今臨終」という言葉をつくって「只今臨終」と。とにかく「死に習え、死に習え」と。死と真っ正面にぶっつかっていくんです。
 
亀井:  刻々の死。
 
西川:  刻々の死ですわ。それが「習え」なんです。繰り返し繰り返し何遍も。放っておいたらダメなんです。
 
亀井:  反復を始終せよ、と。
 
西川:  そうそう。書道をやる人は書いて書いて書きまくっていますわね。展覧会に出すような人は何十枚、何百枚も書いてますわね。それが「習う」です。死をいつも、年がら年中死に習う。
 
亀井:  今の話で、「死」という言葉によって、そこに死の正しい受け止めを阻むものは我への執着というもの、そういう執着がなかなか取れないということがございますね。
 
西川:  生きているから、あらゆるものに執着なんです。生きたるものは「私のものだ。これは儂の大事なものだ」と。「みな私のものだ」という執着が出てくるんです。だからあらゆる迷いの元は我執ですわ。自己のものを我がものというように執着するんです。そこからあらゆる世の中の迷いが全部出てくる。しかし死を先取りする。死ということは、全てのものがみんな自分から離れていっちゃう。離れていっちゃうところに本物が出てくるんですよ。鈴木正三は、「この身体は九つ穴のある臭い革袋」とこういうんです。それを「糞袋(くそぶくろ)」と言った。九つの穴―口、目、耳、鼻、下の二つ、この九つ穴のある臭い革袋、と。いろいろな人間の苦は、みんな我執で、この糞袋を「俺が俺が」と、「私が私が」と思うところからくる、ということを言った。これ糞袋に執着しているわけね。糞袋にとらわれてはいかん、と。これを我が身だと思うところから解き離れるということは、よっぽど死について―坐禅なら坐禅、念仏なら念仏で―どんどんどんどんとしていかんと、あ、この五尺の身の他に本来の身があるんだ、というところに気付かないんですね。まず最初は、「糞袋、皮袋」だ、と。こんなものに執着しておってはいかん、というところから入門するんですわ。正三自身もそうだったろうと思うんです。私自身も、どうしても自分の我というものが見つかってから、カラッとなったようだけれど、すぐがたびしのとこへなるんだろうという、これが一生懸命坐禅をやりながらも取れないんですね。苦の元をどうしても取れない。どれだけいってもこの我だと思うものが付いて廻る。
 
 
ナレーター:  人間は死ぬ存在である。自分へのとらわれから解き放たれようとした西川さん。しかし離れよう、離れようとしても、いっこうに道は定まりませんでした。そんな時出会ったのが、倫理学者の白井成允(しらいしげのぶ)(1888-1973)さんでした。白井さんは西洋哲学を修めながら仏教を学び、親鸞の教えに生きる拠り所を求めた人でした。
 

 
西川:  名古屋のある本屋で『歎異抄領解(たんにしょうりょうげ)』この本が出ておったんです。あ、白井先生の本があるわ、と買ってきた。それで読んだら、それはもうビンビン響く。今までのどなた様の歎異抄よりも、白井先生のものがね。ということは、因縁が深いんですね。これはどうしても白井先生にお会いしなければいかん、と思った。白井先生の話が京都にあると聞きに行ったり、奈良にあると聞きに行ったり、白井先生のところへちょいちょいお伺いしたんです。そうしたらどんどん深みに行きまして、ある時に手紙出した。そうしたら三ヶ月ぐらい経ってから手紙がきたんですよ。それで開いて見たら、こうあった。
 
「私どもはあらゆる縁に応じて迷うほか道はありません。善には善に迷い、悪には悪に迷い、天地いっぱいにならんとしても迷う」
 
と。私は澤木老師に二十年就いて、天地万物一体になろうと思ってずっと坐禅してきた。「それも迷いだ」とこうあった。わぁっ!今まで二十年坐禅してきたが、何だったんだ。エゴを取ろうと思って「なんまんだぶ(南無阿弥陀仏)」と念仏を申していたが、これも迷いか。念仏も申されん、坐禅もできん。何が何だかわけわからん。真っ暗になってしまった。
 
亀井:  行きもできず、戻りもできず、
 
西川:  そうそう。真っ暗になりました。ふらふらになっちゃってね。坐禅もしっかりやれない。なんまんだぶもできない。すべてエゴをとって無我になろうと思ったわけでしょう。そして暫くぼぉっとしておったら、知らず知らずに、「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」癖が付いておったんですね。「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」宇宙いっぱい「なんまんだぶ」と聞こえてきた。尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)。なるほど「正覚の大音、響(ひびき)十方に流る」って、このことか。なんまんだぶの真っ直中におったのか。自我のあるまんまね。なる必要はなかったんです。取る必要もなかった。そのまんま抱かれる。
 
亀井:  別天地へ移る必要なし、ということ。
 
西川:  そのままで。
 
亀井:  その場で「なんまんだぶ」。そうしたら道元禅師の坐禅、澤木老師の言った坐禅もそれだったんだ、と。澤木老師はそれを「有所得の坐禅ではダメだ。無所得でなければいかん」ということを始終言ってくださったのに、私は有所得で、是非自我を取ろう、エゴを取ろう、という坐禅だった。
 
亀井:  一つの目的意識を持って、腹に一物、計算尽くですね。
 
西川:  そうそう。腹に一物、計算尽くでやっておった。それで一生懸命やって無我になったような気になっておったけども、だけどその二十年の迷いがその白井先生の言葉で、「尽十方なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」なんだ「なんまんだぶ様の真っ直中に」私だけじゃない、一切のものが全部「なんまんだぶ」で光り輝いている。ああ、有り難い、と。エゴは苦にならないようになった。それから暫く経って、昭和五十四年三月二十八日、お経の帰り道の時に、東新町から少し行った瓦町というところの四つ角の交差点で、赤信号だったので、青信号になるのを待っておった。そうしたらガッン!という音がした。パッと見た。見た途端に一台の車が私目がけてさっと走ってくる。アッ!と言った途端に、あとさっぱりわからん。それで後で聞くと、私の隣に立っていた木が折れて倒れた。で、私は血みどろになっておったらしい、衣がね。誰かが救急車を呼んで。そうしたら両足が折れて、血みどろになっておった。全部包帯を巻いて、担架で運ばれた。そうしたらそこへ交通の警察官がやって来てね、「これは即死の事故だ。ようあんた、命があったな」と言われた。手術の日になってね―手術が四月四日ですわ。それで五十四年でしょう。五十四年の四月四日で「四四四」と続く。〈これは儂も手術失敗で死ぬかもわからんな〉と、こう思ったですよ。やっぱりその時死を思ったね。死ぬかもわからんな、と思った。ガリガリギリギリ・・・〈ああ、地獄の三丁目五丁目、ほんとに地獄へ堕ちたな〉という感じだね。その時我慢して我慢して・・終わったら、ふぁっとまた開けちゃって、花園の世界にふぁっといる感じでしょう。その時に、ああ、賜りたる身心だな、と。この身も心も賜ったものだなあ、ということを痛感しましたね。その時にまた初めて思ったことは、あの時運ばれて、そのまま死んでおったら、おそらく死んだということも知らずに死んでいっていると思う。ただ生き返ってから、あ、死にかけたけども、また生き返ってきたな。だから、「死は死を知らず、況や生は生を知らず」と、それがようわかった。孔子さまの論語にも「生知らず、況や死を知らんや」というのがある。それで生がわかる筈もないし、死もわかる筈もない。あるのは刻々として、こう息しているのがわかるだけ。呼吸しているのがわかる。いわゆる瞬間的な無常観がね。
 
亀井:  そんなことが交通事故の中からいろいろ導き出された。
 
西川:  教えられた。結局本当の死を教えて貰った。死を教えて貰ったのは、同時に生を教えて貰った。それで死と生は別物でなかった。いわゆる「不識(しらず)」というのが本当だ。「不識(しらず)」ということは掴めない。頭でわからない。不可思議だ。
 
亀井:  下手にわかろうと思うな。
 
西川:  わかった筈がないんだ。不可思議で生きている。不可思議で死んでいく。不可思議でこうやって話ができるしね。
 

 
ナレーター:  自分へのとらわれと向き合い続ける求道の日々。二年前、西川さんは、いつも傍らで支えてくれた妻の友子さんを亡くしました。西川さんは重い病を患った友子さんを四年あまり介護し、その最期を看取りました。

 
西川:  未だに家内は生きておると思っております。あそこにありますのは、家内が晩年に始終「南無阿弥陀仏」と「感謝御一同様」を書いていたね。
 

ナレーター:  友子さんが書き残した最期の言葉。西川さんは、今その思いをともにしていると言います。
 

 
西川:  家内が亡くなる一年か二年ぐらい前になります。私は始終この写真を見ていると、煩悩妄想が余計出てくる。なんか時々、友子がここで寝ているような気がするの。よう大鼾をかく女性だったんで、ハッと起きて―夢で見るんだよ。あれ!今友子の鼾かな、と思ったらおらない。あ、死んでおったな。そういうことようあるよ。友子は脳腫瘍で―脳腫瘍は五年前に発見された。発見されたが、「手術する場所が悪くて、とても手術ができない」と言うんです。それで「薬で抑えてくれ」と大学病院から言われて、薬で抑えておった。それから退院して、ここにベッドを置いて、それでヘルパーさんに来てやってもらったけれども、私自身も―友子が私にようやってくれた。もう粉骨砕身尽くしてくれたからね―面倒みたいなというので、結局二人入れる老人ホームを探し歩いて、そして亡くなる四年ぐらい前にある老人ホームに入って、その時に大小便の世話をした。しかしそれはちっとも汚いとは思わなかった。さっと便が出ると、「おばあちゃん、良かったな。良い便が出て良かったな」と言って、喜び合ったんですよ。そうしたら、友子も喜んでくれて、それでいつも看病してね。その時に〈大小便も尊いものだな〉と思った。その時に〈病気も仏様だな〉と思った。そしてだんだん弱っていきますわ。だんだん弱っていく、その時にようわかったことは、ほとんど口の対話はないんですわ。向こうが弱っているから。しかし心と心がよう通じ合うね。心と心、家内の心と私の心が通じ合う。家内も喜ぶし、私も嬉しい。ああ、いいもんだな、心の対話は。だから口の対話よりも心の奥深いところの対話はいいな、とこう思った。それで亡くなる二ヶ月ぐらい前の時に、ずっと弱りましたから酸素吸入で、注射打って、点滴でやっておったけども、その時に家内に、「お前さんが亡くなると、儂は一人なるが、悲しいな」と。私は涙がぼろぼろこぼれたね。家内は知らん顔しておった。やっぱりいざとなると悲しいんだわ。
 
亀井:  そうでしょうね。
 
西川:  それから十二月八日の日に急に呼吸が荒くなってね。その前からおばあさんに、「おばあさん、結局なんまんだぶよ。とにかくなんまんだぶ称えなさいよ」と言って、おばあさんの耳元で「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・」おばあさんも「なんまんだぶ・・」とやっておった。そして最期に、おばあさんにお袈裟掛けて、それからお経を読んでやらんといかんと思って、「大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)」という観音様のお経を「なむからたんの―とらや―や―なむおりや―ぼりよきち―しふらや―ふじさとぼや―もこさとぼや―」と称えた。その時は友子は息があった。最期に、私をぐうっと見たね。その目は寺の如意輪観音さんの目と一緒だなと思った、その時〈あ、尊い目だな〉と思った。〈これは観音さんになったな〉と思った。そして息を引き取って、その晩本堂の脇へ寝かした。その寝顔がまったく美しい。生きている時の友子の顔の最高の綺麗な寝顔だった。仏さんになった顔だね。私はその隣で寝ましたよ。それからもう友子の夢を見ない日はない。昨日も見たですよ。面白いものだね、一つになってしまった。殆ど見ない日はないね。私と一緒におった友子がいつも出てくる。これは完全に一つになっておるね。こういうことを言ったら、ある人は「おのろけですか」と。「おのろけじゃない。ほんとのことを言っているんだよ」。いやどなたでも、夫婦、親子、兄弟、一切万物は一つですわ。万法一如ですわ。いざとなれば一つになっている。それを夫婦でも親子でも。あらゆる教えは、キリスト教であれ、真宗であろうが、禅宗であろうが、世界の何経でも、いざ奥へいけば一つだ。そこからきている。名前は「神」とか「天」とか「ああだ、こうだ」いろいろ名前があるが、結局は一つなんだ。そこから全部出て、結局そこまでいっちゃう。「万法一に帰すなり」。「一に帰す」というところに調子に乗ると、ガクンとやられて、あ、また我が出た。すぐやられるんですよ、お陰様で。ほんとにお陰様でね、ガンッとやられる。それが誰からやられるかわからんが、何でもない石がやる場合がある。トンボがやってくる場合がある。子どもの声でやれる。そこら辺の交通事故で教えてくる。すべてが教えになってくる。ピンピンと。
 
亀井:  その時の教えの受け止めは「すまん」という一言から。
 
西川:  申し訳ない。「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・」こうなる。「なんまんだぶ」になっちゃう。南無の一念になる。これは「なんまんだぶ」でも、「南無観世音菩薩」でも、「南無地蔵菩薩」でも、南無の一念に帰る。頭が下がる。そうすると、蚊一匹、蠅一匹に頭が下がるんです。
 
亀井:  紙切れ一枚にも、
 
西川:  紙切れ一枚にも頭が下がる。有り難い、と。みんな御仏の化身だという。本当の信心というのは、自分を信じるのじゃなしに、仏性―仏様の大信心に抱かれると、エゴが有り難くなってくるんですわ。エゴさまのお陰。それからエゴは死ぬまでなくならない。しかしそれがあるからこそ、どれだけでも深く深くもう無限の深さが出てくる。エゴのお陰なんですよ。エゴの、いわゆる地獄というのも仏様だね。無限の地獄。無限地獄があれは本当なんだ。どこまでも追ってくるんですよ。それをどこまでもどこまでも、お前が無限地獄へ堕ちていくということを照らしだされるんです。まっさかに堕ちていくそのまま抱かれた。むしろエゴがあるから、南無阿弥陀仏の働きがいつも起こってくるんです。有り難いなという。
 
亀井:  エゴの自覚がきっかけになって、
 
西川:  そうそう。エゴがなかったら出てこない。
 
亀井:  チャンスがない。
西川:  チャンスがない。エゴ様のお陰なんです。今私はお経堂におるから、お光の中におるから、何にもいうことない。いつ死んでもいいし、もし死んだら早速生まれ変わらんといかんの。今度またお坊さんに生まれ変わる。私は前世も坊さんじゃなかったかなと思う。坊主が好きでしょうがなかったから。子どもの時から早いこと衣着たくてね、頭でも早う禿げんかな、早う禿げんかなと思っていた。
 
亀井:  お話を承り有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年一月三十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである