花鳥諷詠 南無阿弥陀―師 高浜虚子の思い出―
 
                        俳 人 深 見(ふかみ) けん二(けんじ)
一九二三(大正11)福島県生まれ。本名は謙二。東京帝国大学冶金学科卒。昭和一六年高浜虚子、昭和一七年山口青邨に師事。二八年「夏草」、三○年「冬扇」、三四年「ホトトギス」同人、平成元年今井千鶴子、藤松遊子と共に個人季刊誌「珊」を創刊。「屋根」同人、「花鳥来」主宰。俳人協会顧問。句集に「花鳥来」「父母唱和」「雪の花」「星辰」「日月」「蝶に会ふ」など。著書に「虚子の天地」。
                        ききて 白 鳥  元 雄
 
ナレーター: 春の訪れにはまだ少し間がある一月下旬の埼玉県所沢市(ところざわし)。武蔵野の面影を伝える雑木林が残り、街の東を流れる柳瀬川(やなせがわ)を境に、東京都清瀬市(きよせし)に接しています。今日はこの柳瀬川沿いにお住まいの俳人深見けん二さんをお訪ねします。深見さんは大正十一年のお生まれ。若くして高浜虚子(たかはまきょし)に俳句を学び、さらに山口青邨(やまぐちせいそん)に師事し、平成三年には「花鳥来(かちょうらい)」という俳句の雑誌を創刊、主宰しておられます。今日は没後五十年になる師・高浜虚子の思い出を伺います。
 

 
白鳥:  少し暖かくなってきましたね。
 
深見:  そうですね。
 
白鳥:  もう一息です。
 
深見:  もうそういうほんとに感じですね。
 
白鳥:  所沢にお住まいになって、何年になりますか?
 
深見:  ちょうどね、昭和四十二年だと思いますから、四十年を越しますですね。
 
白鳥:  そうですか。ここは先生の散歩道ですか?
 
深見:  そうですね。毎日のように歩いていますね。
 
白鳥:  そうですか。そうやって句帳を持っていらっしゃるところを見ると、ここも創作の場でもあるんですか。
 
深見:  そうですね。この土地には今だいぶ家が建ちましたけどね、やっぱり武蔵野の面影が残っていますので、そういう意味では私の創作といいますか、俳句を作るうえには身体に染み込んでいるんじゃないですかね。ですからそこを歩くと、私の場合は写生といいまして、こういうふうに書き付けていくというやり方ですから、そういう意味ではここは大変私にとっては良い場所だなという感じが致します。
 
白鳥:  なんか三月には米寿と聞いていますが、先生の足の運びはまだまだ(笑い)。
 
深見:  いやいや、まあ太極拳をやっているもんですからなんとか歩けますけども。いつの間にかこの三月で米寿になります。
 
白鳥:  今日は深見さんがお若い時代に深く師事された高浜虚子についてお話を伺いにまいりましたが、よろしくお願い致します。
 
深見:  こちらこそよろしくお願い致します。
 

 
白鳥:  高浜虚子と深見さんとの最初の出会いはいつになるんですか?
 
深見:  私が十九歳で、昭和十六年の秋でございます。
 
白鳥:  そうですか。じゃ、太平洋戦争が始まる寸前の状況、
 
深見:  ほんとに寸前でございますね。
 
白鳥:  どこで?
 
深見:  これは東京駅の前の丸ビル。あそこに虚子先生の『ホトトギス』の発行所があったものですから、その関係であそこの丸ビルの中の句会でお会いしているんです。
 
白鳥:  句会に参加されたわけですか。
 
深見:  そうなんです。初めの時というのは正直言って、そう細かい印象は―もうただただ夢中で出たというふうな感じですね。
 
白鳥:  それまで深見さんご自身は句をお作りになっていらっしゃったんですか。
 
深見:  もともと家にはあんまり文学本はなかったんで、それであまり身体も丈夫でなかったものですから、少し俳句を作っていたという時に、たまたま母の親しい友だちが虚子先生の門下だったものですから、どうせそれなら句会にでも出たらどうか、ということだったと思います。
 
白鳥:  やっぱり最初は緊張しました?
 
深見:  まあ緊張は当然していたと思いますね。言われるままに句を出して、たまたまその時に虚子先生の句会の中で虚子選と言って、虚子先生の選ばれる句の中にたまたま入ったということがあったんですね。
 
白鳥:  最初から上々の出だしだったわけじゃないですか(笑い)。
 
深見:  まあね、初めての人の句ですから―勿論先生わかっていてお採りになったわけじゃありませんけども、たまたま入ったということです。
 
白鳥:  その句は今でも覚えていらっしゃいますか。
 
深見:  ええ、覚えていますね。
 
     一筋の煙動かず紅葉山
 
という。紅葉の綺麗な山のところに一筋の煙が上がっていたという、普通のただそのままの句でございますね。
 
白鳥:  素直な?
 
深見:  素直と言えば素直ですね。私にとっての印象は、その後の戦後に虚子先生の側でじかにお目にかかっていろいろお話を伺ったという時の方が強いんですね。先生は三十四年四月八日に八十五歳で亡くなっておりますので、その前の五年間というのは三ヶ月に一度鎌倉の先生のお宅へ行って―質素なお宅です。平屋建ての数間しかない、その一番奥に先生の仕事部屋がありましてね。で、テーブルで椅子に腰掛けて、それで先生に向かって、先生はじっと私の言うことを聞いて、時には目を瞑って聞かれておりましたけどね。そこにほんとに多くとも五、六人。少ない時は三人―先生と私と清崎敏郎(きよさきとしお)さんという三人で、そして朝の十時頃から夕方の四時頃まで。昼の食事をご一緒にしながら、先生のお仕事部屋を―「俳小屋」とおっしゃっていた十畳ちょっとのお部屋でございますよ。そこに先生はずっと仕事の場合は籠もってされて、我々はそこで先生から親しく、我々がいろんな話すことについて虚子先生のお考えを聞いた。それが一番私にとって強い印象でございますね。
 
白鳥:  亡くなるほんの一週間前までずっと句作を続けていらっしゃるから、あの句の数というのは膨大なものでしょうけれども、その中で今の先生の句の深い師弟だったお立場で、もし二つ三つ選ぶとすればどんな句なんですか。
 
深見:  そうですね。どれを挙げていいか、いつも困るわけです。それで何十句挙げても困るんですが、まして二句三句と言えば困りますからね。ちょっと一つ、
 
     天地(あめつち)の間にほろと時雨(しぐれ)かな
 
時雨というのは、ちょうど冬の初めの頃に、はらはらと落ちる雨でございまして、落ちたかと思うとまた止む。止んだかと思うとまた降るという。芭蕉以来時雨というものに対して日本人は非常に美の一つのものとしていたわけですが、この句は昭和十七年の句でありまして、じつは虚子先生の門下で鈴木花蓑(すずきはなみの)(1881-1942)という大正時代に一つの時代をつくった門下の方がおられたわけでして、その方の追悼句会に寄せた句なんです。花蓑さんという方は、胸の中には大変華やかなものをお持ちであったけれども、境涯というものは必ずしも恵まれたものではないようなところがおありになる。その中で俳句を貫かれた方でして、その方の亡くなられたことを思って作られたんでしょうけども、しかし個人の鈴木花蓑さんという人への追悼だけではなくて、何か大きな自然界というものに対しての挨拶。時雨というものの古くからの人が―芭蕉も詠んでおりますし、そういうものを含んだままの中での虚子自身の天地への挨拶があるような気が致します。ほんとに「ほろ」という言葉が、それと大きく「天地の」と言い出されたところはほんとに素晴らしい句だと思いますね。もう一つは、明治時代の若い頃に詠まれた句で、これもよく先生の代表句として、
 
     遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
 
「遠山」というのは、遠くの山でございます。そこに日が当たっている。で、前は枯野だ、と。「遠山に日の当りたる枯野かな」。俳句の場合は、「遠山に日の当りたる」というとこで切れまして、それでその前の方は全部枯れ野だという景色なんですね。虚子先生はその句について、「遠くに日が当たっている。近くはすっかり枯れている。ただ遠くの山に日が当たっていることだけが、一つの自分にとっての光である、と。おおむねは華やかな人生でなくてもいいけども、遠く山に日が当たっていることだけがあれば自分はいい」と、そういうこともおっしゃっているんですね。虚子先生ご自身の気持ち、静かな、そういう気持がその句の中に自然に入る。つまり景色を詠んでいるんですが、その中には虚子先生自身のその時の気持が非常によく入っている。そういう句ではないかと思います。
 
白鳥:  私は、これが虚子の句だ、と意識して読んでいたのが、
 
     去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの
 
戦後にお作りになったこの句に出会った時―私の青年期というか、大学生だったんですが、あの頃のことですから、新しい思想や何やらがゴチャゴチャに入ってくるじゃないですか。ふらふらしながら、右往左往しながら生きている時に、その「貫く棒の如きもの」を、そんなものを自分で確信できる人がいるんだな、という、そういう感じで凄い衝撃を受けたことがございましたね。
 
深見:  そうですね。あれは新年のために作ったもので、ちょうどNHKの放送番組で句会をして、それをラジオで流したわけですね。その時にお出しになった句でして、ほんとに「去年今年(こぞことし)」というところが大事なところで、「去年今年」というのは、一年が過ぎていって、そして新しい年を迎える。その時の気持でありまして、そういう時に改めて「貫く棒の如きもの」という気持をお持ちになったと。先生の言われるのは、一番大事にしている季題というものもすべて四季の運行、春夏秋冬が次々に巡っていくわけですね。毎年毎年そういうことを繰り返すわけですね。ただ同じ気候で過ぎているんではなくて、冬になると葉が落ちて、それから芽が出て春が来て、それから若葉が出る。そして紅葉して落ちていく。そういう一年の循環を繰り返していくという、そこの中に出てくる言葉が季題ですから、そういうものにいつも思いを寄せて俳句を作っておられる。そして日常はほんとに朝起きて、そして仕事をして、そして暮らしていくうちに年月が巡るという、そういう中の生活ですからね。ですから宇宙の中に入ったそういうものが出ている、という感じもしますね。
 
白鳥:  そうですね。宇宙ね、そうだったんですか。先生が主宰していらっしゃる「花鳥来(かちょうらい)」というのは?
 
深見:  虚子先生のこういう句から頂いております。それは、
 
     藤椅子(とういす)にあれば草木(そうもく)花鳥来
 
藤椅子にいると、草や木や花や鳥が向こうからこちらへ来るという、そういう意味でございますね。それは虚子先生が昭和十一年にフランスへ船旅をして行かれて、それで戻られたわけです。戻られて、ある句会でこの句を作られたわけです。それでこの句は藤椅子にいると、すべての自然の景色は向こうから自分の方へ入ってくるような気がすると。そういうことは、殊に外国から帰られたんで、日本の風土というものの美しさというものを賛美されたんじゃないかと思いますね。「花鳥来」という言葉が響きもいいですね。そういう意味で、この句から頂いたわけです。
 
白鳥:  高浜虚子という方は、「花鳥諷詠(かちょうふうえい)」という言葉を非常に声高(こわだか)に言っていらっしゃいますね。
 
深見:  声高と申しますか、「自分の終生(しゅうせい)で、この言葉を残したのを誇りとする」ということも言っておられます。初めは虚子先生は、外の文学と違って、五七五という短い詩で、そして古くから―古くと言えば連歌、それから連句という俳句の元になる、それの発句がございますね。それに季の言葉をつかっていたという両方から、「俳句は花鳥諷詠だ」と。「季題をもっとも重用する。季題を大事にするし、俳句と言えば、五七五であると同時に季題を必ず詠み込む」ということを言っておられたわけです。ただ昭和の初めにそれを「花鳥諷詠」という言葉で言われたわけです。それは昭和三年のことですが、そしてその後に多くの人から「花鳥諷詠というのは、単に花や鳥に遊ぶんじゃないか」ということを言われるたびに、虚子先生は強く「俳句は季題の詩だ。季題を詠まなければいけない」と。「季題諷詠」と言ってもいいんだけれども、やっぱり古くから日本人は「花鳥」といい、「花鳥風月」という形で日本の四季を詠んでいた、大事にしていたんだ、そういう意味からはやっぱり「花鳥諷詠だ」と。
 
白鳥:  「花鳥」というと、ほんとに「花鳥風月、雅(みやび)の世界」そういうところに短絡しそうだけれども、そうじゃなくて、虚子先生のおっしゃったのは、季節性というか、季節の言葉、「季語」とか「季題」と言われているものの中に込められている、おそらく日本語を喋る人たちが共通に持っているであろうイメージみたいなものを大事にしようという、
 
深見:  信念ですね。
 
白鳥:  その後に「客観写生」という言葉が大抵付いてきていますね。
 
深見:  そうですね。それで、虚子先生も言っておられたんですけども、普通は俳句も詩つまりポエム(poem)ですね。心を詠む。普通は心を述べるものなんです。ですけども短いでしょう。
 
白鳥:  十七音ですからね。
 
深見:  季題を入れたら十二字とかわずかですよね。
 
白鳥:  そうですね。五七五の七五ぐらいしか余裕はないですね。
 
深見:  ですから自分の感じの心持ちを直接入れてしまうと、多くは押しつけがましいというふうに感じる場合があるわけです。ですからなるべく、例えば梅なら梅、桜なら桜というものを、何でもそういう季節のものに心を託して詠んだ方がいい。託して詠むにはどういうことをすればいいかというと、花とか、桜とか、梅とかというものがどんな状態であるかということを詠めば、だんだんやっていくうちにそのものと心が親しくなって、自分が梅であるか、梅が自分であるかわからないような境地によくよく似ているというふうになる。それですから、その状況を花が散った、ということでもその表現によって十分作者の心が出るわけです。
 
白鳥:  確かに客観的な存在を切り取る主体というのか、主観というのか。
 
深見:  そうですね。まさに良いことをおっしゃいましたね。切り取った時にもう既に主観が働くわけです。ですから主観がやっていくうちに十分出る。
 
白鳥:  その句を詠む人に投影するであろうということなんですかね。
 
深見:  そうですね。俳句の場合は、すべてを詠もうとしてもできないわけです。ですから今おっしゃったように、切り取った切り口なり、そこに込めた心というものを、読む人が受け取って、そこから想像を広げて頂かねばならない。想像を広げるのには、季題というのは、共通の日本人の美意識の中にあって、それぞれの意識だけじゃなくて、体験があるわけです。それぞれの人が桜を見て感じ取る。そういうものを上手く描写すれば、詠んでいる作者の主観というものが読む人に伝わるし、読む人は自分の想像でそれを広げて、余韻が広がるわけですね。ですからさっきの、
 
     遠山に日の当りたる枯野かな
 
みたいなものも、あくまでそれは虚子の句であると同時に、読む人はそれによってその状景を思い浮かべて、そこから自分の気持ち―こういうふうに感じるということを言って、それぞれがあるきちっとした同じイメージなりに、それぞれの体験から広げられるわけですね。これが余韻なんですね。そのために特に「客観写生」と言ったり、それから客観の中には、今言った自然を大事にする。四季の現れの季題を大事にするということは、自然を大事にする。四季の運行―春夏秋冬の四季が巡っていくという、この自然を大事にする。そういうのが自ずと籠もっているんで、それは「客観写生」と言えば、また「花鳥諷詠」と裏腹になってくる。
 
白鳥:  対になっている言葉ですね。
 
深見:  そういうふうに考えてよろしいかと思いますね。
 
白鳥:  「花鳥諷詠」という言葉について、先ほど深見さんがお話になった最後の五年の中で、「凄く鮮明な記憶がある」ということを記されていますね。
 
深見:  はい。昭和二十九年の夏ですけども、千葉県の神野寺(じんやじ)というところで俳句会がありまして、そこで虚子先生が俳句会をされた時に、私も出席しているんですが、その時に虚子先生が句会に出された句がですね、
     明易(あけやす)や花鳥諷詠南無阿弥陀(なむあみだ)
 
これは虚子先生の句です。この句をその句会に出されたわけです。その時虚子先生が―句短冊というのは名前を書きませんから―虚子先生の書いた今のは無記名の短冊なんです。それでその後、先ほどお話しました鎌倉の虚子庵での研究座談会で、この句について先生とお話を伺ったことがあるんです。「明易や」というのがあるわけですね。で、「明易」が季題ですね。「明易」というのは、夏の夜は非常に短いわけです。「短夜(みじかよ)」とも言います。それと同時に短いから明けやすいということにもなるわけでございまして、で「明易」は季題で、その明けやすい時に、自分は「花鳥諷詠」とかねがね言っていた言葉と「南無阿弥陀仏」というものが、自分としては同じだ、という意味でおっしゃったんだと思います。虚子先生自身が、我々は短い命である。その短い命の中で、自分は花鳥諷詠ということを信仰しているだけだ、という意味もこの句に込められたわけですね。それで、私が、「先生は、花鳥諷詠と南無阿弥陀と同じにお考えになっているんですか?」と言ったわけですよ。そうしたら先生が、「あなた方も同じように南無阿弥陀仏と花鳥諷詠を同じだと思いますか」というものですから、「はい。思います」と言ったら、「それは怪しいな」とこう言われましてね(笑い)。いやぁ、その時の先生のお気持ちとお顔までが思い浮かびますね。「怪しいな」と言われたのがね。
 
白鳥:  なるほど。ある種の信仰、あるいは確信、
 
深見:  普通の人は、「花鳥諷詠」「南無阿弥陀仏」と比べますと、ただ同じだ、ということでしょうけども、俳句としての意味というのは、やっぱり「明易や」というところが大事なのですね。たまたまその時には、句会の題が「明易」「短夜」というのが出ていたことではありますけども、虚子先生としては、命というものは短いものだ、と。そういう中で、自分が花鳥諷詠というものをただ信念としているというようなこと、俳句観だとかいうものよりも、もっと花鳥諷詠を称えているような、そういう信仰に近いというより、自分にとっては南無阿弥陀仏を称えると同じような信仰だ、というふうにおっしゃったんだと思いますね。
 
白鳥:  高浜虚子という方は、何か特に宗教とか、仏教の言葉というものとはかなり接近していらっしゃったんですか。
 
深見:  虚子先生は、松山に生まれて、若い時から京都におられましたから、
 
白鳥:  四国の松山に生まれて、そこで中学校を卒業して、それから京都の旧制三高にお入りになるわけですね。
 
深見:  そうなんですね。で、京都にいた頃、比叡山に早くから行っておられましてね。特に明治四十年に比叡山の横川(よかわ)の政所一念寺(まんどころいちねんじ)に五日ほど泊まっておられる。その時に政所にいて、時々横川中堂(よかわちゅうどう)の方でお経をあげておられたのが、後に天台座主になられた渋谷慈鎧(しぶやじがい)(1941-47:第497世天台座主)先生だったわけですね。そういうご縁があって、その時のことを虚子は『風流懴法(ふうりゅうせんぽう)』という小説に書かれている。それ以来比叡山には大変長いご縁がありまして、昭和二十八年にはあそこに「虚子の塔」というのをお建てになられた。
 
白鳥:  ご自分の塔を生前にお建てになった。
 
深見:  そうなんです。それで二十八年に逆修法要(ぎゃくしゅほうよう)(自身の死後における成仏得道を生前に予修するという儀礼)というのをなさっているんですね。それで後で自分の遺骨は分骨して、そこに納めるというように遺言があって、それで昭和三十四年四月八日に亡くなり、その年の十月十四日にそこへ分骨をされた。今でも四月八日は鎌倉で、それから十月十四日は「西の虚子忌」と言って毎年法要する。それで慈鎧和尚と大変長くご縁があったわけです。
 
白鳥:  虚子という方は、随分子どもさんには恵まれていたけれども、四女の六(ろく)さんという方をほんとに幼くして失っていらっしゃいますよね。
 
深見:  そうなんです。
 
白鳥:  あれは凄い大きな心の傷になったようで、『落葉降る下(もと)にて』の文章を読んでいて、私はあまりの哀切さにもの凄く感動したんですけども、あの中にも仏教の言葉が出てくる。ご自分の子どもさんを失ったということは、虚子にとっては大変なショックだったようですね。
 
深見:  そうだと思いますね。大正三年四月でございますね。それまでは「自分の子どもも弱い子もいたけども、自分がやれば必ず助かると思っていた」とおっしゃるんですね。ですけども、この四女の方の時にはいろいろやってもどうにもならなくて、そして息を引き取ってしまった、と。そういう非常に辛い思いをされて、『落葉降る下にて』というのは、それからちょうど一年半ぐらい経った大正四年十二月に書かれた文章でございまして、ある意味では、勿論先生は冷静でおられたけども、この一年半という年月をおいたことによって、改めて自分の悲しみというものを、そういう文章に表したんじゃないか、という気もしますね。
 
白鳥:  そこに「諸法実相」という仏教語が出てくるんで、ちょっとそのひとくだりを読んでみますと、六さんの死の後、
 
私は其後度々墓参をした。凡てのものゝ亡び行く姿、中にも自分の亡び行く姿が鏡に映るやうに此墓表に映って見えた。「これから自分を中心として自分の世界が徐々として亡びて行く其有様を見て行かう。」私はぢっと墓表の前に立っていつもそんな事を考へた。
・・・諸法実相といふのはここの事だ、唯ありの儘をありの儘として考へるより外は無いと思った。
 
深見:  虚子先生が「諸法実相」という言葉を遣われたのは、これがきっと初めてだろうと思うんですけども、今白鳥さんがおっしゃったところの「諸法実相」の前に、このように言っておられますね。
 
ぢっと考へてみると、私の頭の中にはいろいろの葛藤があった。これを明るみに出してみたら自分ながら鼻持ちのならぬようなものがたくさんありそうに思へた。さながら成仏の姿なりといった仏家の言葉をここで思い出して、即ち此善悪混淆(ぜんあくこんこう)、薫蕕同居(くんゆうどうきょ)の現状其のままが成佛の姿だと解釈した。
 
こういうことをおっしゃっておられますね。
 
白鳥:  「薫蕕同居(くんゆうどうきょ)」香りの高いものも臭いものも一緒なんだと。
 
深見:  善悪とか正とか邪とか、すべてを「その儘ありの儘」というふうに見るというお気持ちがそこで出来たんじゃないかと思いますね。
 
白鳥:  これが書かれたのは大正四年ですが、大正二年にまた俳句の世界に戻る。その決意表明みたいなものがあって、尚かつそれがまだ立ち上がれないで、そこで私生活のうえではご自分のお子さんの死というものを迎えて―四十前後ですよね。
 
深見:  そうですね。誰もがある意味で言うことですけども、虚子先生の一つの人生観、死生観というのは、この時期にほぼ定まったと。もともと虚子先生は、そういうお気持ちはあったと思うんですよ。ですけども、それが「諸法実相」という言葉になったのは、多分この『落葉降る下にて』が一番最初のものではないかと思いますし、そういうお気持を晩年まで諸法実相、と。それは逆に、「ありの儘」ということであって、それを「ありの儘のすべての中にいろんなものがある。それを写生するのが客観写生だ」ということも言っておられますね。
 
白鳥:  俳句論として、随分この言葉を遣っていらっしゃいますからね。もう一人と言いますか、仏家の方とは随分親しい交わりがあったようですね。
深見:  そうですね。浄土真宗では有名な暁烏敏(あけがらすはや)先生ですね。
 
白鳥:  暁烏敏は、大正・昭和にかけて有名な布教者でいらっしゃいましたですね。
 
深見:  そうでございますね。明治三十三年に子規のもとに集まった会の中にもご一緒にいますね。
 
白鳥:  暁烏非無(あけがらすひむ)という名で、
 
深見:  俳句の方では「非無」とおっしゃっていたんですね。
 
白鳥:  そうすると子規の同門ですか?
 
深見:  そうですね。その後またいろいろな交際がありますけども、戦後にはすぐ暁烏敏先生のおられた石川県の明達寺(みょうたつじ)(白山市)に行かれています。何遍も行かれているんですが、昭和二十四年にその頃は暁烏敏先生はとても全国の布教でお忙しい。それでも会いたいという話があって、虚子先生に手紙が来て、虚子先生が明達寺に行って泊まっておられるんですね。そのくらいの親しさ。そして行かれた時には、暁烏敏が持ち慣れた数珠(じゅず)を虚子は頂いているわけです。その時の句が、
 
     山吹の花の蕾や数珠貰ふ
 
これは暁烏先生から頂いた数珠のことを詠んだ句ですね。鎌倉にも来られたり、かなり何遍もそういうご交際がおありになりました。虚子先生は、仏門に入らなかったんですね。で、特にお家に仏壇を置いて毎日拝むということはされませんでしたけども、一つの死生観というものにおいて、一つの考え方を自分の俳句の道の上にも、それによって自分の信念というものをもったわけでございます。
 
白鳥:  虚子さんが、「俳句は極楽の文学である」とおっしゃっているでしょう。またそれに対比する形で「地獄の文学」という言葉も出していらっしゃるけども、「地獄極楽」なんていうのも仏教的な考えですよね。
 
深見:  虚子先生はいろんな形でおっしゃっていますけども、その地獄というものには、考えてみれば人間というのは生まれれば必ず死ぬ。そういう宿命を持っていると。それからいろいろ信仰を味わうと、悲しみとか、苦しみとか、これはどうにもならないことであると。それはある面からいうたら地獄とも言えるかも知れないけども、しかしまた一面俳句に作るということは、それを一時(ひととき)でも離れて、花鳥というものに心を託して、自分のことを詠めばその時だけでも救われるし、それからまたそういうことをやっていれば、当然俳句というものをすることによって人は救われる、というお気持ちがあったと思います。虚子先生が、「地獄の裏付け」ということをおっしゃっていますね。「花鳥諷詠」ということもあくまで地獄の裏付けがあっての極楽だと思います。それがないでただ極楽というのでは、虚子自身の真意でなかった、というふうに私は思いますね。ですから辛酸を嘗めた者にとっても、この花鳥諷詠に心を遊ばせる。そしてそこを詠むということはやはり一つの救いでもあるし、それによって辛いことにも堪えて生きていくという、新しい勇気が湧いてくるというところに極楽の文学の真意があったというふうに私は思います。
 
白鳥:  もう一度いくつかの句を読んで頂きたいと思うんですが。
 
深見:  はい。一つはさっき申しました客観写生という、実際にものを丁寧に見てその様子をどのように感じるか、という中の代表の句として、
 
     流れゆく大根の葉の早さかな
 
これは実際に虚子先生が薦められた写生、つまり現場に立って様子を見る、スケッチする、ということを俳句にするということですが、今世田谷区に浄真寺(九品仏)というのがありますが、あの近くの川沿いを歩いて俳句を作っていたところ、橋に通りかかった。そうしたら大根の葉が早い水に流されいった。その時の自分の心には、もうすべてのそれまでに溜まった心持ちが、ただ大根の流れて行くその早さだけに集中した、と。それを「流れゆく大根の葉の早さかな」というふうに詠んだんだ、と言っております。結局心持ちというものを豊かにして、そして実際のものを見ていくうちに、ある一つの焦点―この場合は季題に気持がいった時に、そこでさっとできるというのが一つの俳句なんでしょうね。
 
白鳥:  これが作られたのは何年ですか?
 
深見:  これは昭和三年の句でございますね。大根の葉は川の水と共に流れて行って海に注ぐ。海はまた蒸発して雲となって、そしてまた雨を降らせる。土地にまた大根が蒔かれ、また大根は採られる、と。今の時代は、大根がそれほど身近でありませんけども、この時代というのはどこでも大根を川で洗っていたわけです。そういうことを見ますと、ただ大根ではなくて、大根を育てていた生活のものが入っているわけです。それと同時に自然の運行・循環がその時には思っていないけども、結果的にそういうことによってそれが現れた、というふうにおっしゃっている。一つの流れていくものの中に自然の四季の順行の相(phase)が現れているというふうにもおっしゃっていますね。
 
白鳥:  虚子一人銀河と共に西へ行く
 
これは戦後の句ですか。
 
深見:  これは昭和二十四年、鎌倉の虚子庵で夜寝られないというんですよ。それで時には窓を開けて、そして大空を仰ぐと、大空には天の川―銀河でございますね―がかかっている。それを見ると、地球と星は西の方へ移っていって、見ているうちにその中に自分も一緒に西の方へ動いていくような感じがした、という句なんですね。
 
白鳥:  また雄大な感覚ですね。
 
深見:  そうですね。とても雄大なことですね。その時にたくさん銀河(天の川)の句を作っておりますね。
 
     西方(さいほう)の浄土は銀河落るところ
 
という句もその時に作っておられますね。自分が空を見ていた時に宇宙と一つになったという感じがした。と同時に浄土ということも結果的にはその中に入っているかも知れませんね。
 
白鳥:  先ほど私の記憶に残る句として、
 
     去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの
 
私はあの時に思ったのは、もの凄く一種の観念的な句として僕は受け取ったわけですよ。
 
深見:  俳句とか詩というものは、観念を詠むものではない。それはどういう形でなったかというと、「去年今年」という言葉は、忽ちに一年が去って、新しい年を迎えた時のことを去年今年というわけです。忽ちのうちに年が去っていって、で、新しい年がきた。その時に当たって改めて去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの、そういうことを殊更に感じた、というのが俳句でございましてね。誰もがあれを読みますと、「貫く棒の如きもの」だけなんですよ。
 
白鳥:  虚子さんだからそんなでかいものがご自分の中にあるんだろうという感覚で、私は受け止めていたんですけども、あれはある種の客観写生の部分もあるんですか。
 
深見:  客観写生と言っていいかどうかわかりませんけども、虚子先生のお宅での生活は、早くからもそうでしょうし、晩年の亡くなるまで、朝起きられますと朝風呂へ入るんですよ。それからリンゴジュースを飲む。食事をされて、十時より早く、虚子庵の一番奥の俳小屋というご自分の仕事部屋に入ってお仕事をされて、そして昼は茶の間で奥様と食事をされる。また午後はすぐ一時間も休まずに俳小屋へ入って仕事をされる。そして夕方の食事まで仕事をされて、で、夕方の食事の後は時にテレビをご覧になったり―最後は栃錦がひいきだったとかというような話もありましてね。そしてお休みになる。勿論人が来れば会うし、また句会があると出掛ける。旅にもけっこう最晩年まで出ている。そういうことを繰り返しているという生活。これは先生の日常の生活事態というものが、この宇宙というものの大きな運行、この中に人間がいるんだ、という一つの自分なりの考えがあるから、こういうふうにできるんだと思いますね。そうすると、さっきおっしゃった観念というよりも、もっともっと「命そのもの」、ある意味では「棒の如き」と言わないと、それは伝わらないんで、これが客観具象的と言えるかも知れませんね。
 
白鳥:  今、日々の虚子先生の暮らしを伺っていて、あ、もしかするとその生活そのものも含めて作られる。
 
深見:  自然とげすという言葉も客観的に写生はしなければいかんけども、日常の主観の涵養と言いますか、養うということが大事だ、ということを常々言っているんですね。
 
白鳥:  晩年の数年をご一緒された深見さん、凄く羨ましいような感じもします(笑い)。
 
深見:  いや、なんか私などがそれだけの有り難い機会を得ながら、まことに申し訳ないと思いますけども、実に私は幸せだったと思います。なかなか悠々という状態までまいりませんけども、虚子先生が言われた「花鳥諷詠南無阿弥陀仏」というお言葉を今なりに私が考えますと、虚子先生が大事にした「季題」というものがどんな小さいものでも、大きなものでも、蝶でも、梅でも、もっと大きな太陽でも、そういうもののすべてにいのちがある。ですから大きないのち―宇宙のいのちを一つの季題というのは背負っているわけです。ですから季題に自分の心を託して、季題に任せれば、もう自分の小さな心というものを超えた大きな世界が、時に私でも頂ける、と。そういう気持というのは大変自分なりに深く感じるようになりました。人間というものは、ある意味から言えば小さなものかも知れませんけども、その中には宇宙が宿っているわけですし、先生の言っている花鳥というのは、人間というものを必ず含めているわけです。「自然の運行の中に人間も入っている」ということを繰り返しておっしゃっているわけですから。
 
白鳥:  私の友人たちの中にも俳句の道に入っていく仲間も多いんですけども、私はどうも俳句というのは恐れ多くてね、なかなか踏み入ることができないんですよ(笑い)。
 
深見:  どうでしょうかね。まあね、虚子に俳諧九品仏(はいかいくほんぶつ)という「上品上生(じょうぼんじょうしょう)、中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)、下品下生(げぼんげしょう)」という仏の九品(くほん)(極楽浄土の九等の階位)と同じように俳諧にも九品がある、と。「下手な人は下手なりに、すべて俳句に縁がある者は救われる」ということを虚子先生は言われているんですね。
 
白鳥:  それぞれの仏さんに見合ったような救われ方が俳句にもあるということなんですか。
 
深見:  虚子先生は、これを説くのと同時に、勝れた作家も救うし、ほんとに俳句を楽しんでいる人もみんなそれぞれに救われると。そういう気持がこの中にあると思いますね。ですから実際の虚子先生の 中には勝れ作家は勝れた作家で安心するように、それからほんとにそれほどあれではない人もそれなりにそれぞれが救われる、という意味ですよ。俳句というのは面白いことに、ただ勝れた作家だけのいる文学じゃないんですね。いろんな人が楽しむ。
 
白鳥:  今もの凄く俳句人口が広がっていますものね。
 
深見:  そういうのが基本だと思うんです。だから勝れた作家だけが育てなければダメだと言うんじゃないんであって、みんなが楽しむ。しかしみんなが楽しんで、ただ下手は下手なりにも、やっぱり勝れた作家があるからこそ、みんなそれによって楽しめる、と。いろんな楽しみがあるということだと思います。
 
白鳥:  今日はどうも有り難うございました。
 
     初夢の虚子先生に近づけず
 
     俳諧の他力を信じ親鸞忌
 
     銀漢や胸に生涯師の一語
 
 
 
 
     これは、平成二十二年二月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである