観音様にみちびかれ
 
                  フォークミュージシャン 高 石(たかいし)  ともや
一九四一年、北海道雨竜町生まれ。滝川高校卒業。立教大学文学部日本文学科入学。一九六六年、「想い出の赤いヤッケ」でデビュー。十二月ビクターレコードからファーストアルバム発表。一九六九年十二月、学生運動・反戦運動と共に生きてきたフォークソングの終わりを決意、大阪フェスティバルホール「高石ともや冬眠コンサート」を最後にソロ活動停止。一九七○年に大阪干里ニュータウンから福井県遠敷郡名田庄村(現おおい町)へ一家で移住。十三年にわたる若狭ぐらしが始まる。一九七一年、ザ・ナターシャセブン≠結成し、京都で活動を再開。独自の野外コンサート活動を開始。一九八七年、高石ともや・フォークソング・コンサート≠フテーマで全国コンサート活動開始。二○○四年、NHK大阪・上方倶楽部西国巡礼の旅巡礼ソングを創り唄う。二○○九年 西国巡礼RUN991キロ℃l月二十五日一番札所・青岸渡寺から各札所にて巡礼歌奉納し、札所間をRUNでつなぐ。十一月七日、三十三番札所・谷汲山華厳寺で満願達成した。
                  き き て       西 橋  正 泰
 
西橋:  第十番札所・三室戸寺(みむろとじ)にお邪魔しています。「こころの時代」、今日はここでフォークミュージシャンの高石ともやさんにお話を聞きます。高石さんは去年西国三十三所観音霊場を自らの足で走って巡りまして、各お寺でそのお寺のための自作の巡礼歌を奉納しました。去年の十一月に完走しました。高石さんはこの巡礼を「観音様に導かれた」と言います。
フォークミュージシャン高石ともやさん、六十八歳。二十五歳で最初のアルバムを発表、以来独自音楽活動を続けてきました。若い頃走ることの楽しさに目覚め、今も日々走り続けています。
 

 
西橋:  おはようございます。よろしくお願いします。
 
高石:  坂を見ると走る癖がありまして、
 
西橋:  でも身が軽いですね。
 
高石:  という思い込みあるもんで、いけるつもりで。ああ、良かった、好い日で。
西橋:  そうですね。暖かくって。ここは巡礼の時は何月頃だったですか。
 
高石:  暑い時でしたね。奈良からずっと走ってくるんですよ、三十何キロ。ここは別世界で、蓮の花と緑がいっぱいでしたからね。
 
西橋:  そうですか。どうぞ今日はよろしくお願い致します。
 

 
ナレーター:  今も多くの人々を惹き付けている西国三十三所の観音巡礼。その歴史は古く千年以上前に遡ると言われます。西国三十三所は和歌山県の第一番札所・青岸渡寺(せいがんとじ)を皮切りに、近畿各地の観音霊場を廻り、岐阜県の第三十三番札所・華厳寺(けごんじ)に至るおよそ一千キロの巡礼の道です。人々は昔から観音に救いや安らぎを求めてきました。
 

 
西橋:  去年の四月から十一月まで、十五回に分けて四十四日間の西国巡礼ラン(run)をおやりになりましたね。
 
高石:  観音様に作った歌を奉納する、ということが一つと、それとお寺お寺を全部走って繋いでみよう、という。普通巡礼というと歩くんですよね。徒歩で行くというのを、「走るというのは邪道でしょうか」と言って、「蟻の会」という巡礼の人たちのところへ行って聞いたら、「それもいいでしょう」と言われて、それで走ってみよう、という。
 
西橋:  良かったですね。十一月の末ぐらいまでかかって。でもその巡礼は、高石さんは、「妻と自らの生と死を見つめる旅」というふうにおっしゃっていますね。
 
高石:  きっかけは死ぬことを突き付けられるというか、奥さんが、「大腸ガンであと五ヶ月です」とお医者さんに面と向かって言われて、二人で何にも言えなくなって、「えっ!」という。奥さんが、「どうしたらいいんでしょう?」と言ったら、「消えていく命を一月(ひとつき)ずつ延ばすだけです」という。死ぬことを覚悟するわけですよ。で、一年保ち、二年保ち、やっている時に、「やり残したことがあるかな」という時に、僕は思わず、「巡礼の歌を作ったけど廻ってみたいんだけど、いつかできるかなあ」と言ったら、奥さんが、「命あるうちにやっておかないと」って言われて。衝動的で、落ち着いていなかったですね。
 
西橋:  奥さんの癌の告知は二○○六年ですか。
 
高石:  三年延びて喜んでいるんですけどね。三年前に覚悟しましたね。
 
西橋:  高石さんご自身もちょっと心配なことがおありだったそうですね。
 
高石:  その前に僕の方が、「前立腺の数値が上がっています」って言われて、検査を受けて。その時は奥さんが僕を守っていてくれたのが、一年経ったら今度逆転したわけです。ああ、そうか。それまで未来って永劫にあると思っていたのが、ドンと終わりを突き付けられると、〈今やっておくこと何だろう〉という。それがこの巡礼で走るのと奉納すること。歌を作ったのを「そのまま歌です」というんじゃなくて、やっぱり観音様の歌ですから、観音様から「良し」と言って貰えないといけないんで、それで廻ってみたかったんですね。
 
西橋:  その巡礼歌をお作りになったのは、それのきっかけはNHKの番組ですか。
 
高石:  きっかけはNHKの関西めぐりの番組で、前の年一年間、田主さんという方が版画で西国の絵を描いていらっしゃった。〈ひょっとしたら全部廻って歌も創れるんじゃないか〉という。初めは絶対できるわけないな、と思っていたのが、それこそ観音様の力ですよ、やっぱり観音さまの力で、拘りを捨てるとポッポッとできる。最初は全然できるとは思っていなかった。あるレパートリーを歌っておこう、と思ったのが、お寺さん一つ行ってみると、あれテーマがあるんだという。テレビですから「二分ぐらいです」という、それがまた良かった。条件が短かったから、テーマ一つひとつ入れていけばできるんだ、という。やってみたら自分の実力以上に良い歌ができてくるもんで(笑い)、独り笑いながら「できる、できる」という。
 

     巡礼歌「山青く海青く」第一番札所・青岸渡
           作詞・作曲 高石ともや
     神の住む社(やしろ)があり
     仏の住む寺がある
     いのち信じて歩き出せ
     巡礼ここに始まる
     山青く海青く
     心清く一番札所
     見上げれば那智の滝
     手を合わす青岸渡寺
 
西橋:  走るのは何人か仲間がいらっしゃった?
 
高石:  いや、僕は「アメリカ横断マラソン」とか、「オーストリア千キロ」とか、けっこう人のやれないようなことをやってきたんですけど、三十三カ所西国巡礼は九百九十一キロあるんです。最初一人でやるつもりでやり出したんですけど、奥さんの一言で、「あんたね、頑張って、俺はこんなに凄いだ、って言っても誰も誉めてくれないよ」という。「あんた、歳取ったんだから、みそぼらしくなるばっかりだから、すまん、頼みわ≠ニ言ってね、友だちみんなんに呼び掛けなさい」って。ほんとに奥さんの見通した通りで、たくさんみなさんが、「俺手伝うよ」とか、「リレーでいいですか」と。その奥さんの言い方で、「力を貰いなさい」という。ほんとにゴールの時は大勢待っているくれて、一緒に走る人もいてくれて、最後は五百人ぐらいになるんですよね。あれは奥さんの予言通りでした。僕なんていうのはすぐ自分でこう潜り込んじゃうんですけど。一緒に力を合わせて、っていいですね。マラソンでお寺さんからお寺さんに走って来て、でもここへ入ったら「ここでお祈りです」と言うんで、入るとパッと白い服に黒が入っている―伝統の音楽をやっているあかしが演奏で着る服のどっかへ黒を入れなさいという―それを着替えるんですよ。終わるとパッとランパンになって、汗だくで走るんですけどね。そういう人生のけじめをきちっといけば、かなり素(す)のままでも生きられるんではないか、と。広く深くという。そんなのが今回三十三廻って自信に。音楽も人生も細くあれこれ足し算しなくとも、ますます観音様のお陰で祈りさえあればいい、というとこがありますね。
 

 
ナレーター:  高石さんは、一九四一年北海道に生まれ、子どもの頃四国から移り住んだ祖母から巡礼の話をよく聞きました。
 

 
高石:  おばあちゃんなんですよ。伊予の人で、伊予から北海道へ来ていて、まだ雪が残っている三月、四月に、「今頃は菜の花が咲いて、四国ではお遍路さんが」と。僕ら、「お遍路さんって何?」って。「あ、そうか。知らんのか」と言って教えてくれるんです。「弘法大師はのぉ」って。「弘法大師って何?」って。「大人になったらわかる」と言うんですよね。それで巡礼というのが気になっていて。もう一つは、農繁期に、雪の中でおばあちゃん方が集まって御詠歌を唄っているんですね。
 
西橋:  北海道で?
 
高石:  ええ。お部屋でやって、終わると今度吹雪の中へ行って、家から家へ角付けやるんですよね。「こんな吹雪の中へ行かんでもいいのに」というと、「こういう時にこそ御利益がある」「御利益って何?」と言ったら、「大人になったらわかる」。答えてくれるのが嬉しかったです。「黙っておけ」と言うんじゃなくて、いろんなことを、子どもって質問するじゃないですか。それがずっと残っているんですよね。それで僕らフォークソングの中で、吹雪の中のおばあちゃん方が、吹雪の中で歌っている姿があるんで、どんな場所でもやるというのが好きになったのは、多分おばあちゃんたちの後ろ姿だろうな、と。それで四国を訪ねなければいかんというんで、四国の八十八カ所を三十ぐらいサッサと廻っていますね。
 
西橋:  それは先ほどのおばあちゃんの話してくださった「今頃は菜の花が」という、ちょうどその時期ですか。
 
高石:  ええ。確かめたかったんですね。ずっと心にあったのが。おばあちゃんらがあんなに真剣に御詠歌を唄うとか、巡礼というのが大事だというのは、絵空事ではなく、かなり祈りというのが、おばあちゃんから孫にすっと入ったのがそのまんま大人になっても続いていたのが有り難かったですね。
 
西橋:  叔父様がお坊さんをしていらっしゃっって、仏像をお造りになったそうですね。
 
高石:  岩手県の福泉寺(ふくせんじ)(遠野市)というところで、日本一大きな観音様を彫っちゃったという。
 
西橋:  ご自分で?
 
高石:  ええ。叔父は私の名付け親で、その叔父が岩手県へ行って、高村光太郎さんに、「戦後戦争終わって乱れた日本で平和を祈るための観音を彫ってください」と頼んだら、「彫刻はプロが彫るけど、仏像は心があれば、祈りがあれば誰でもできる」と言われて、それで遠野(とおの)市議会にかけて大木をみんなで下ろしてきて、それで工事現場を自分のお寺に作って、二十年かかって、毎朝水垢離(みずごり)しながら自分で彫っちゃった。「長谷寺の観音様と同じ顔をしている」と言ったら、その叔父さんが修行したのが長谷寺だったんで、自然にその姿になったらしいんです。その叔父さんにがんがん言われてきたんで、影響があるでしょうね。それでなおさら仏像が好きになっていくんですけどね。いろんな影響がおばあちゃんやら叔父さんやら、良い環境がありまして。
 
西橋:  じゃ、観音様にそういう出会いがあるわけですね。
 
高石:  自然に。好きなんです。「お寺が暗い」とか、「恐い」とかと、みなさんよく言うけど、僕は安心するような気がするんです。
 

ナレーター:  高石ともやさんの西国巡礼は、去年の四月、和歌山県の第一番札所・青岸渡寺から始まりました。
 

 
高石:  一番寺ができたら、できるだろう、と。一番寺で「ノー(No)」と言われたら終わりなんで、緊張感がありましたね。電話すると、「はい。いいですよ」と言われて、行って、雨の中「歌わしてください」って。「どこで?」って。本堂の雨の降っている中、ちょっと台の上でやらせてもらって、雨の中、三人ぐらいポッと聞いていて、副住職が「いいですな」と、こう昔のフォークを歌い出したら、なんかしっとりしてきて。「山青く海青く」って、向こうに那智の滝がドッと流れているわけですよ。しとしと降って、こう二、三人集まりながら、
 
     遠い南の海の果て
     観音浄土めざして
     老いた僧侶が舟を出す
     補陀落(ふだらく)めざし死出(しで)の旅
     僕らは今旅に出る
     真っ白な服に着替えて
     熊野は黄泉(よみ)の出入り口
     儂(わし)は生まれ変わる
     山青く海青く
     心清く一番札所
     見上げれば那智の滝
     手を合わす青岸渡寺
 
雨の中がかえって良いのか、副住職が「良いですな」って。ホロッときて、こっちまで「良いですな」って。気が付くとまた五、六人と集まって来て、
 
西橋:  和歌山県那智勝浦の青岸渡寺が一番ですよね。
 
高石:  一番でしたね。幸先のいいというか、これなら三十三番までギターと一緒に行けるなと思って。その次の朝、勤行をやっていた住職さんが朝五時ぐらいに、ちゃんと見送りしてくださいまして、それで青岸渡寺からうわぁっと熊野古道を登って行くわけです。あの厳しい熊野古道を二番寺まで歩くと七日間かかるのを、走ったら三日間で行きましたね。百九十キロあるんです。
 

ナレーター:  第六番札所・南法華寺。壺坂寺(つぼさかでら)として親しまれるこの寺には、浄瑠璃(じょうるり)で知られるお里(さと)・沢市(さわいち)の話が伝わっています。夫・沢市の眼が治るようにと、妻のお里は壺坂寺に千日詣りをします。妻に苦労を掛けたくないと、沢市は谷に身を投げ、お里もその後を追います。お里・沢市を見守っていた観音様は、二人を助け、沢市の眼も治るというお話です。
 

 
高石:  「眼が治りたい、って本気で祈ったんだよ。仲良くなりたいってほんとに思ったんだよ。だから助けたんだよ。僕ら願いが弱いから、助かる前にもうよせ≠チて言っちゃうから、話がもうほんとにならないんだ」と言うんですね。
 
西橋:  「ひたすら」とおっしゃる。
 
高石:  それが観音様のお願いの仕方なんですね。言葉にしてみると、
     巡礼歌「仲よく仲よく」南法華寺(壺阪寺)
 
     信じ合うお里沢市の千日詣り
     眼を閉じて心の眼を開く壺坂詣り
     生きてゆけるあなたとわたし
     仲良く仲良く生きてゆけるあなたとわたし
 
仲良く仲良く、願いなんですよ。ひたすらのお願いだという。その辺りから、これは西国めぐり、かなり本気になった方が面白ぞ、という。
 
西橋:  一番からずっと走って、しかも演奏していく過程の中で、高石さんの中にまた新たな念ずる思いというか、
 
高石:  お寺一つだったら一つで終わるんですけどね。次へ次へ行くと別な宇宙になっていくんです。繋がってきて、一、二、三、四がだんだん一つになってくるというか、宇宙になっていく、という。こっちの世界も広く深くなっていくんですね。面白いです。自分で走って、そのうえでまた歌を創作するという、
     巡礼歌「訪ねよう」長谷寺
 
     訪ねよう五月の
     初瀬山(はつせやま)花の寺
     訪ねよう山深く
     咲きほこる白牡丹
     登りゆく登廊(とうろう)階段
     一歩ずつ一歩ずつ
     生きるとは訪ねること
     長谷寺の観音さま
 
長谷寺は、「どこでやらせて貰えますか」と言ったら、「観音様の前でどうぞやってください」と言われて、「私も聞きます」と言って、ご住職はきちっと制服で坐られて、それで歌い出したら、あそこは八番で、〈わぁ、遠くまで来たな〉という実感と、〈ようきたな〉って、観音様が迎えているみたいで、初めてポロッと泣きましたね。なんか悲しいんじゃなくて、遠くまで来たなという。面と向かって歌ったら、観音様の実感って、そういう感じかな。繋がったというか。
 
西橋:  なんか大きなお母さんみたいな感じで?
 
高石:  そうですね。抱いてくれるんですよね。それまでただの仏像がそうでなくなっている瞬間ってありまして。もう一つは、舞鶴にある松尾寺(まつのおでら)で馬頭観音様がちょうど七十年ぶりのご開帳をやっていて、七十年前にお稚児(ちご)さんだった方が三人お迎えしたわけです。で、この何時間後に、「今日でお終いです。また閉じます」という。その時に僕も参加していて、「もう一方(ひとかた)ご焼香してください。高石さんです」と言われた。で、「高石さんは、この後この観音さん見送った後、三十三年後百歳になります」と。その時にまたご開帳になる。それまで隠れるわけですよね。それでみなさんゲラゲラ笑われたんですけども(笑い)、馬頭観音様をこう見上げましたら、ニコッと笑ったみたいでね。「待っているよ」と言われるみたいで、そういう通ずる瞬間てありましてね。表情が動くというか。三十三年も長生きしないかんみたいな。こういう醍醐味って必ずくるんだぞ、と。それまで恐いんですよ。憤怒像(ふんぬぞう)というのが馬頭観世音なんですけど、恐くないんですよね。なんかニコッとしているような感じで、こうやりながら、フッと〈後三十三年生きないかんな〉という決意ね。百歳と簡単に言うんですけど。でもそんな気になる何かがある。
 

 
西橋:  こちらは、第十番札所の京都宇治市の三室戸寺ですが、
 
高石:  これは蓮の花ですよ。普通蓮の花って池なんですけど、池ではなく、鉢にたくさんあって。ご住職は偉いわ。ここはたくさんお花の手入れして、花寺ですよね。それでご住職に聞いたら、「この蓮の花を一年中手入れして、咲いた時は四日しか保たんのですよ」と。「咲いた時嬉しいですね」と言ったら、ご住職は、「高石さん、まだ若いね」って。同じ歳なのに。「手入れしているのが楽しいんですよ」と。
     巡礼歌「宇治・花ものがたり」三室戸寺
 
     花咲けば四日のいのち
     蓮の花気高く咲く
     こんなに荒れた平成の世に
     極楽を見せておくれ
 
「咲いた時だけ喜んでいたら手入れが嫌になるんです」って。「手入れできることが嬉しいんです」と。「あらあら、まだ修行が足りないわ」なんという。
 
西橋:  そういう各お寺でご住職といろんな対話もあるんですね。
 
高石:  好きなんですよ。大発見がいっぱいありましてね。
 
 
ナレーター:  第十七番札所、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)。平安時代にこの寺を建てた空也上人(くうやしょうにん)の生き方に高石さんは感動しました。
 

 
高石:  僕が思わず、「小さいお寺ですね」と言ったら、「小さいです」と堂々と言われて。「えっ!」って。「空也さんが人々が支えた寺ですから、小さいです」って。「空也さんってそんなに偉いんですか」と言ったら、「あの人は捨てました」と。「いや、宗教の人、みんな捨てるじゃないですか」と言ったら、「あの人は自分で作った教団も捨てました。そんな人居ません」。思わず、「なんで食ったんですか」と言ったら、「捨てたらちゃんと人々が支えるんです。だから小さいお寺なんです」と。「あの人は足が細いからマラソンランナーだったんじゃないかな」と言ったら、「ええ、東北へ何度も行っていますから、多分足は強かったでしょうね」って。で、「空也さんのお話を歌にしなさい」と言われて、
 
     巡礼歌「捨ててこそ・空也さん」六波羅蜜寺
 
     第二皇子(おうじ)の地位を捨てたという
     尾張の国で出家したという
     道路を作り橋を架け
     諸国をめぐり修行したという
     三十八歳で京に上ったという
     しかも杖つき裾の短い衣だったという
     胸に下げた鉦つき念仏すれば
     その口から仏が躍り出たという
     苦しみばかりの人の世に
     念仏の幸せを教えた人
     人によかれと自分も捨てた人
     空(そら)と書いて空也上人
     捨ててこそ美しいで 捨ててこそ美しい
 
歌うとなんか自分もそうなりたくなってきて、空也さんが遠かったのがだんだん近くなってくる。「みなさんが支えたんですよ」っていう。
 
西橋:  高石さんがフォークシンガーになる直前、数年間のお話をちょっと聞かせて頂けませんか。
 
高石:  わぁ〜。仕事探さなかったんですよね。大学まで行ったんですけどね。何していいかわからない。みんな嘘に見えて、自分に正直に生きる方法がわからない時に、留年ばっかりしていて、大阪の中でたまたまフォークソングに出会って、〈あ、歌でなんかできる〉という。僕は二十六歳まで人前で歌ったことないんです。初めてYMCAの集まりなんかで歌ったらみんな泣き出したりして、〈わぁ、歌に力がある〉と思って、で、深夜放送のどっかのラジオに飛び入りして、それが初めてラジオに出たんですけど、それを聞いていた方が何人かいる。「歌の話せずに良かった、良かった≠ニ言っていましたよ」って。自分の生きる道が見つかった、と。「あ、良かった、良かった」と。歌の話ではないんですよ。人生でやっとなんかが見えた、という。フォークソングで救われたんで、未だに「僕、フォークシンガーです。シンガーソングライターというようなものでなく」と。「フォークシンガーと、他のと何が違うんですか?」と言ったら、「フォークソングは、あれもこれもない音楽なんです」と。リズムがある。「リズムとメロディと和音がないと音楽じゃない」と言いますけど、一人でやる音楽だからあれもこれも足りないんですよ。何かが足りないからフォークソングなんです。完璧になったら、クラシックであったり、演歌であったり、きちっと。フォークソングは何かが足りないから、そこを必死にその人らしさを出すから、とても人間臭いものなんだ、という。これは鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)さんに教わったんです。「高石さん、このままでいてね。あれもこれも入れたら、音楽になっちゃったら、あなたらしくならないから、あれが足りない、これが足りないで、フォークソングでいいからね」と言われて、それをずっと未だにやっているんで、それであれも削ってこれも削って、そのまんまお寺の前でも裏でもどこでも絵にならないと困る、という。
 
西橋:  「捨ててこそ」と、空也上人のことをさっきおっしゃいましたけど。
 
高石:  あれもこれもない。普通は足し算でだんだん大きくなって、立派だ、という世界になるんですけど、あれもなくてもできる。これがなくても、あれもなくても私だ、みたいなもんで、お金がなくても二人は仲がいいとかね。あれこれ入れていく反対側で引き算(ざん)していって残るものというような、そんな生き方をやってきたんじゃないかな、と思うんですよね。
 

 
     「受験生ブルース」
 
     おいで皆さん 聞いとくれ
     僕は悲しい 受験生
     砂をかむような あじけない
     僕の話を 聞いとくれ
 
     朝はねむいのに 起こされて
     朝めし食べずに 学校へ
     一時間目が 終わったら
     無心に弁当 食べるのよ
 
     昼は悲しや 公園へ
     行けばアベック ばっかりで
     恋しちゃならない 受験生
     やけのやんぱち 石投げた
 
     夜は悲しや 受験生
     テレビもたまには 見たいもの
     深夜映画も がまんして
     ラジオ講座を 聞いてるよ
 
一九六八年、二十七歳の時、「受験生ブルース」が日本中で大ヒットします。高石さんは代表的なフォーク歌手として人々の注目を浴びます。しかし二十八歳の誕生日を前にフォークシンガーとしての活動を止めてしまいます。
 

 
西橋:  「受験生ブルース」がヒットして、その殆ど直後に「六十九年の選択」というのをされますね。
 
高石:  そうですね。一回歌を捨てましたね。別な仕事になってもいいからと、半年アメリカへ行っていたら、なんか見えてきましたね。でも大事な時になると捨てますね。
 
西橋:  捨ててアメリカへ行かれて、五ヶ月間アメリカ暮らしですね。そこで得たものって何ですか?
 
高石:  あれが今でも出発点なんですよね。タバコを捨ててマラソンにしたとか、東京に行かないと歌手はダメだという時に、都会を捨てて―僕は未だに関西なんですよ―地方でいいんですとかね。あの時三十歳で捨てたものってけっこう多いんですよ。普通だったらたくさん売れるからいいという。これだけ売れた、これだけ大きくなった、というのがあるんですけど、僕は、「自分の好きな生き方していいよ」と、父親が言っているみたいで、「お前はそのままでいいよ」という。一人認める人がいれば生きられる。父親が、「お前、そのままでいいよ」と言ってくれなかったら、多分「俺はこんなに偉いんだ。もっと拍手くれ」とか、もっと「褒め称えろ」といくんでしょうけど、「お前はいいねぇ。お前はそのままでいいよ」って、父親がいつもニコッと笑っていてくれたんで、それで歌を止めて、こっちへ行ってみたり、トライアスロンやってみたりとか、普通だったら音楽もっと真面目にやれ、というふうに言われるんですが。いろんな他のことをやるんですよね。
 

 
     「陽気にゆこう」(作詞高石ともや・曲アメリカ民謡)
 
     喜びの朝もある
     涙の夜もある
     長い人生なら
     さあ陽気にいこう
     陽気にいこう
     どんな時でも陽気にゆこう
     苦しいことはわかってるのさ
     さあ陽気にゆこう
 
     嵐吹き荒れても
     望み奪われても
     悲しみは通り過ぎゆく
     日も輝くだろう
     陽気にいこう
     どんな時でも陽気にゆこう
     苦しいことはわかってるのさ
     さあ陽気にゆこう
 
     恋はうれしいもの
     別れはつらいもの
     人生は長いもの
     君は幸せもの
     陽気にゆこう
     どんな時でも陽気にゆこう
     苦しいことはわかってるのさ
     さあ陽気にゆこう
 

 
西橋:  今の「陽気にゆこう」という歌に込めた思いというのは、どういうことですか?
 
高石:  六十九年、三十歳ぐらいの時一回芸能界辞めるんですよ。芸能界というとフォークソングやって、売れすぎるというと変ですけど、僕は別に芸能界のために生き残るためにやっていたんじゃなくて、「受験生ブルース」が売れたけど、もういいわ、と思って、アメリカへ半年行っている時の最後に、道で出会ったアメリカ人男の子が歌っていた歌だったんです。「人生の明かるい方ばっかり見ていればよくなるよ」と言って励ましてくれていた。あ、こんな考え方があるんだ。「人生には暗い面、しんどい面もあるけど、でも明るい方を見ながら生きたら、太陽が君を見えだしてくれるよ。明るくいけるよ」という。その歌を繰り返してやっているうちに、その英語を日本語にして、〈あ、この歌から始まれるな〉と思ってね。「苦しいことはわかっているのさ」という言葉が好きでね。「苦しい苦しいというのは当然だよね。それを明るく生きたら面白くなるんじゃないか」という。それがそのまんま家庭の生き方も、これでいこう、と思うし、マラソンするのも、苦しい時、苦しい顔をしてもしょうがない、と。苦しい時こそ笑っちゃえ、という。だからフルマラソンの最後の三十五キロから四十キロの一番しんどい時に飛ばすの好きなんですよ、にっこりと。そうすと、「高石さん、元気だね」って。「いや、身体苦しくとも、心苦しくないからね」と言いながら。前半は誰でも飛ばせるけど、そこを押さえながら、一番苦しい時にニコッと笑って加速するようなマラソンが大好きなんで。そんな「苦しいことはわかっているのさ」という、そこをどうニコッとやれるかが秘訣みたいなつもりでね。気が付いたらもう三十年以上歌い続けている。「陽気にゆこう」って。ただこれね、奥さんが癌になって、「君は幸せもの」と大声で歌っていたのが、「あと五ヶ月です」と言われた時に、「幸せものなんて歌えないね」って。「恋は嬉しいもの、人生は長いもの、君は幸せ」ここで、それまで大きい声で歌っていたのが、歌えなくなってね。これがこの三年間の新しいテーマです。「でも幸せだよね、生きているから」という、それをただ大声で歌うんじゃなくて、「恋は嬉しいもの、別れは辛いもの、人生は長いもの、君は幸せもの」と言いながら、〈自分も幸せだな、生きているんだものね〉という、そんなふうに変わるとは思わなかったんですよ。それまではただ「幸せもの、陽気にゆこう」だったのが、死ぬことを突き付けられると、〈あ、今が嬉しいね。生きているということがどれだけ幸せか〉という。
 
西橋:  そういうトーンの歌になったわけですね。
 
高石:  それは〈元気ではなくても大丈夫だよ〉という。おばあちゃん方のお詣りの仕方が静かだったんですよ。それで音楽やっていても、僕はあんまり大騒ぎの歌はできないんですよ。よく「お説教みたいな、お坊さんみたいな歌を歌うね」とよく言われるのはその辺かも知れないんですね。だから観音様に関した歌をやりたいというのも、そんなことが心の奥にずっとあったのかも知れないですね。
 

ナレーター:  万国博の開催を目前にした一九六九年の暮れ、高石さんはそれまで住んでいた大阪から家族と共に福井県の名田庄村(なたしょうむら)(現おおい町)に引っ越します。
 

 
高石:  今は田舎へ行く人は大勢いるんですよね。七十年の大阪万博が始まる時に、みんなが街へ街へとこれから発展するという時に、「けっこうです」って、帰るのには勇気がいるんです。ほんとに捨てて行かんといけないから。それまで何十万というギャラがほんと数万円しかなくなる生き方をするわけですから。「さあ殺せ」と開き直って始まるわけですからね。それに付き合った家族が偉いというか、有り難かったですね。
 
西橋:  そこから湧いてくる音楽というのも当然あったわけですね。
 
高石:  世の中の流れで、台風の目みたいにグルグル回っているのを、眺めている人も大事なんですよね。ちょっとまた別なところにいるというのも、芸術とは言わなくとも、なんか表現する人にとって、その位置もとても大事だと思うんです。みんなが東京にいても世の中見えないし、そんな時にはぐれながら見ていたというのは、痩せ我慢みたいなんですけど、とてもフォークソングとして、生き方として大事だったんで、今でも僕にとっては、あれでいいんだぞ、という体験ですよ。
 

 
ナレーター:  高石さんが、走ることの楽しさに目覚めたのは、アメリカに行った時、ジョギングで汗をかく爽やかさに惹かれます。
 

 
西橋:  アメリカでジョギングした時に、「お前、何でそんなに頑張って走るんだ」と言われたそうですね。
 
高石:  僕らって、日本では学校の先生も親も「人に負けるな、勝て!」ってやらされるじゃないですか。そう思い込んでいたから、「走ろう」と言われて、ウッと走ったら―ちょうどアメリカがジョギングが始まった時で、「サーフィンのように走るんだよ」と言われて、「何ですか?」と聞いたら、「サーフィンは太陽と波と遊んでいるだけだよ。俺とお前とこうやってニコニコしながら、あの花綺麗だね≠ニ喋りながら走りたいんだよ」って。こんな走り方があるのか、という。日本では、気持いいことは悪いことだと思うんです。ゆっくり仕事やると誉められるんですよ。「あ、楽しいね」というと、「何している!」と叱られる時に、「あ、楽しくていいんだ」という。三十歳のカリフォルニアのバークレー校の若い教授が一緒に走ってくれて、その辺りから人生観が変わってきて、フォークソングもこれだけ売れなければいかんとか、人に負けちゃいかんじゃなくて、自分の信頼できる人と信頼できるステージを作っていけばいいんだよ、という。いろんな出会いやら、いい人に出会って、いい教えに出会って、訪ね訪ね歩いていると、街角に頭を下げるいい教えの人がいっぱいいるんですよね。その後をついているうちにだんだんここまで来ちゃった、というところがありますね。
 

 
ナレーター:  一九七七年、高石さん、三十六歳の時、初めてホノルルマラソンに参加します。その感動が忘れられず、トレーニングに励み、国内外のマラソンやトライアスロンに次々に挑戦します。
 

 
西橋:  大記録がいろいろありますでしょう。ハワイのホノルルマラソンが去年の十二月で連続三十三回、凄いですね。三十三になんか因縁があるみたいで。
 
高石:  三十三回った年に、三十三回連続出場で。
 
西橋:  フルマラソンでしょう?
 
高石:  はい。四十二キロ、毎年やってきたんですね。一昨年言われたんですよ。「第四回から走っているアメリカ人が、七十過ぎて来れなくなったから、あなたが連続出場で一番長いですよ」と言われて、「あ、そうだ。僕は第五回からずっと来ているね」という。「じゃ、その回数をそのままゼッケン番号にしてあげる」という。で、コンピューターにもう入れてあるから、次回「三十四」でくださるんで、病気するわけにいかないんですよ。
 
西橋:  今年の十二月ですね。
 
高石:  今年ですね。来年もずっと続けたいですね。
 
西橋:  奥さんのてるえ≠ウんは今もう歩いていらっしゃるそうですね。
 
高石:  できることはウオーキングなんですね。少しでも筋肉を作らないかんのでね。一万歩はなかなかいかないんですけどね。閑見ては一緒に歩こう、と。どっちかと言ったら、僕はマラソンなんですけど、一時間歩くって大変なことなんですね。でも動くことで体力を付けないと、という。でも目標があると喜びで歩けますね。
 
西橋:  さらに先の目標としてホノルルマラソンですね。
 
高石:  ホノルルマラソンは心臓病の人のクリニックで始まっている、という。ゆっくりゆっくり走りながら、ジョギングしながら治す手もあるから、と。それで始まったマラソンだと聞いていて、これはみなさんで応援している。病人も、足の悪い人も、眼も悪い人も、子どもさんも、女の人も―あの頃四十年前って、女の人は殆ど走らなかったわけですよ―そんな弱いという人が走っているという。走った人が強いんだ、と。それで僕も〈あ、そうだ。長くゆっくり走れるんだ〉という。あんな明るいホノルルの雰囲気、あんな人生になりたい。人を蹴落として「俺は強い」と言うんじゃなくて、「良かったね。一緒にこんな長い距離やれたね」と、喜び合える人になりたくて、毎年毎年。それでナターシャセブンのバンドを連れて行って、お友だち連れて行って、そのうち家族連れて奥さんも一緒に行って、それで奥さんも走るようになった。十回以上ホノルルやっていますから、あの楽しさを知っていて、「また行きたいね」という。それで一つの喜び合いになれそうで、ここまで来れたという。病気で「もう命がダメ」と言われたのを、これだけまた来れたじゃないか、という証がホノルルマラソンなんですよね。
 

ナレーター:  高石さんの走ることへの挑戦は続きます。一九九三年には五十一歳で四千七百キロのアメリカ大陸横断マラソンに参加します。参加者十三人のうち、完走したのは六人。高石さんは六十四日間で走り、人々を驚かせました。
 

 
西橋:  フォークシンガーの高石ともやさんにとって、走るということの楽しさというのは?
 
高石:  そうですね。楽しさは、御飯頂くとか、生きていると同じようなもので、朝起きて歯を磨くようなものでというか、朝ちょっと揺すぶって、あ、心臓もいいな、筋肉もいいな、と確かめるようなもので、〈気持いい。もうちょっと長く〉という、そういうつもりなんで。走って「俺は凄いだろう」って、言うつもりでやっていないから、それで未だに「楽しい」という言い方ができるのは、「息しているようなものです」という。生活の中の必需品なんですよね。
 
西橋:  それは歌とも関わるんですか。
 
高石:  歌手は身体そのものの素(す)≠ナ生きなければいけないんで、他の助けを借りる、電気の助け借りたら別に筋肉なくても大きな音が出るけど、僕ら身体そのもので、この息がダメになったら歌も歌えなくなるから、筋肉の俊敏さとか、それはちょうどランニングぐらいやっていたらちょうどいいんじゃないか、という。自分自身そのものを鋭くするには、ランニングがちょうどいいトレーニングという。人に勝つというのは良くないですね。他人と価値観を比べると、たとい勝っても、もっと強い人出たらふっ飛んじゃいますからね。人と比べる価値観を止めたというところが、アメリカのバークレー大学の若い先生に教わった良いことだったと思うんですね。自分の価値観で音楽やれば大丈夫なんだ。自分の価値観で走ったら楽しいんだよ。これが一つのコツかも知れないですね。他人と比べると、勝っても後は惨めになるだけですから。結局比べるというのを、どうやって止めるか、なんですよね。繰り返していったらできるでしょう。良いぞ良いぞ≠ニ自分自身を誉める、って。で、僕の歌の中に、「自分をほめてやろう」というのがあるんです。あれを有森裕子(ありもりゆうこ)さんが聞いてくれていてね、「私は女子駅伝で、補欠三年間やった時に、高石さんがあの歌をみんなの前で歌って、それでみんなは次の日走れるが、私は走れない。誉める自分もない、という。自分の惨めさを気付くきっかけになりましたよ」って。「歌の文句が人生に関係あるんですか?」と言ったら、「心は言葉でしかわかりませんから」と言われて。凄いですね。「大事な言葉が身体に入ってくると、それが成長するんだ」と言って。「自分をほめてやろう」と自分自身に言っていた言葉なんですけど。「人と比べるよりも」という。創っている歌も、歌っている歌も、自分の生活と繋がっているんですね。それで共感できたらお客さんとも、聞く人とも繋がるという。二人称の歌なんですね。「私とあなた」で。普通音楽はなんとなく第三者に向かって歌を創ったり、歌う。フォークソングって、「これどう?良い悪い?これこうか?」って、ラジオで始まっていますから、二人称の音楽だったから。それでこのフォークソングを突き進めたいということなんでしょうかね。
 
     恋はうれしいもの
     別れはつらいもの
     人生は長いもの
     君は幸せもの
     陽気にゆこう
     どんな時でも陽気にゆこう
     苦しいことはわかってるのさ
     さあ陽気にゆこう
 
西橋:  そういう意味で、高石さんは、「フォークシンガーというのは生き方なんだ」とおっしゃる。
 
高石:  どうしようもなく、背負っていますから。シンガーソングライターとか、演歌と言ったら音楽の種目ですよね。フォークソングというのは、私とそのまま生き方が繋がっているから、「音楽です」って、別に作るわけにいかないんですよね。ベタッとひっついているから。その人がその場所で、今しかない世界なんですよね。それできちっと生きていないと、いい歌にならないんですよ。それは別にして、って、音楽にならないんですよ。いつもそのまんま私を引きずっていますので。歌だけいいよ、じゃないんですよね。「そのままで、あんたでいいよ」という。観音さんがニコッと、長谷寺の観音様が「ご苦労さん」というような包み込みが有り難いんですよ。
 
西橋:  これから先、松尾寺の観音様との誓いを果たさなければいけないですね。
 
高石:  何もしなくても三十三年生き延びただけで、「よう生き残った」と言ってくださいますよ。ニヤッと笑ってね。他の人には憤怒像だけど、僕にはニコッと笑ってくれるような。私にとっての西国めぐりですね。
 

 
ナレーター:  去年四月に始まった高石さんの西国三十三所、おおよそ一千キロを走る巡礼は、十一月七日、第三十三番札所の華厳寺に着くことで終わりました。すべての札所を廻り終える満願を終えたのです。
 

 
高石:  「満願」って、いい響きですね。これで旅が終わりです。長い旅路の白い衣装をおいずる堂に置いて、「そこであなたは死ぬんです」と言われてね。で、「表へ出ると生まれ変わっているんです」って。その生まれ変わりの、これも醍醐味というか、いい気分ですね。ちゃんとお友だちが見守ってくれて、「ああ、よかったな」と。
 
     巡礼歌「旅の終わり」第三十三番華厳寺
 
     歩き続けて今日満願
     生まれ変わって旅の終わり
     関ヶ原越え美濃の国
     行き着く先は谷汲山(たにくみさん)
     信念がかりで成し遂げる
     今朝の空の爽やかさ
 
     歩き続けて今日満願
     生まれ変わって旅の終わり
     長い旅路の白い衣装
     無事に納めておいずるの
     精進明(しょうじんあ)けの酒美味し
     友の笑顔有り難し
 
     歩き続けて今日満願
     生まれ変わって旅の終わり
 
一緒に喜び合えるからいいんですね。一人だと喜びにならない。「良かったね」という人がいて、初めて満願になるという。僕も今度たくさんの人に、「良かったね」と喜びをつくる人にならないといかんのですね。一人では喜びにならない、というのはようわかりましたね。「満願」という響きが、ゴールで終わりではなくて、満願―満ちていく、という。更に生まれ変われる、という。この辺が嬉しかったですね。「あそこへ行っても終わりでなくて、一回終わったら、今度三十三番から一番を迎えなさい」と言われましてね。「何で?」と言ったら、「観音さんと仲良くしなさい。一回やって、二回やって、三回目から馴染みさんになって、同じ観音さんと馴染みになっていいじゃない」という。それから次に立った目標があるんですけどね。「馴染みになろう」という。
 
西橋:  奥さんは何とおっしゃいました?
 
高石:  「長生きせないかんね」という。「長生き」というのは、何十年も生きることではなくて、そうやって望みを持って、それを実現していく、という。それを見守る人がいるというかね、そういうことに気が付くことが嬉しいんですよね。観音様に近づくんじゃなくて、結局気が付いたら「向こうが導いておった」という。ああ、それに気が付いて良かったな、と。「俺が俺が」というと気が付かないで、「巡礼だ、巡礼だ」では気が付かないですけど、何回か手放すんですね。「もうダメだ」とか、「どうしよう」とかやっていたら、ちゃんとここに到達するだろう、という道順があるみたいな。奥さんに言われたことも、なんか道順なんですよ。自分で発見していくんじゃなくて、手放すとけっこう道順がついてくる。手放すとついてくるという、不思議ですね。
 
西橋:  今度は三十三番を逆から―華厳寺から始めるんですか。
 
高石:  まだ去年やった疲れが残っていて、ガクッと、一月、二月何にもできないくらいにあおりがきているんですけどね。でも一回やったら座布団返すというか、お返しをやって、三回目でお馴染みさんですから、全部走り通すというのをやりたいから、あのコースはいいんですよ。各札所だけじゃなくて、途中が面白いのが巡礼なんで、是非一番から三十三番、今度は三十三番から一番やって、その次が初めてなんか、「いやぁ!」っていう感じで、観音さんに近づけるんだろう、と。今かなり遠いですよ、観音さんはまだ。ほんとに拝みきれるとか、祈りきれるとか、信じ切れるとか、それにいくには三回目ぐらい必要なんだろうな、という。「観音経というのは、法華経の中の一つです」と教わったんですよね。それだけに「普通の人は、お坊さんでないから入れないけど、高石さんもなんかかんかやるうちに親しく観音経に近づけますよ」という優しい言葉をかけて貰っていますので、マラソンやら、歌と通じながら少しずつ入っていこうと思っているんです。
 
西橋:  奥様は三十三所の中で、次にいらっしゃりたいお寺というのは、どこかおっしゃっていますか。
 
高石:  竹生島(ちくぶしま)へ二人で船で渡った時に、何人かお客さんが一緒に乗っていて、三代の孫連れたお年寄りと若夫婦がいて、六人で、「これから行くんですよ。全部廻っているんですよ」って。そして船から降りて、本堂に一家六人が階段上りながら向かっているのを家の奥さんが後ろから眺めて、「あっ!」っと言って足止めたんです。「あ、どうしたの?」と言ったら、奥さんが、「幸せってこういうことなんだ。三代の家族が何ということなく、ただ手を引いてお詣りに行く。こういうことだ」と。あそこへもう一回行きたいですなぁ。あれがどうなる、なんて先のことをいう前に、今こうやって一緒にいられて良かったね。一緒にお詣りできて良かったね。後ろから見ていても幸せになられる、っていいじゃないですか。なんか幸せの道がやっと七十に近くなって見えてきたかな(笑い)。
 
西橋:  お身体をお大事に、どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年三月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである