まほろばで福田(ふくでん)を耕す
 
                   薬師寺管主 山 田  法 胤(ほういん)
昭和一五年、岐阜県生まれ。十六歳の時薬師寺に入る。橋本凝胤師に師事。昭和三九年、龍谷大学文学部仏教学科卒業。薬師寺副住職を歴任。平成二年、奈良善光寺住職に就任。平成二一年、薬師寺管主に就任。昭和三九年には厚生省慰霊団団員として、アッツ島他戦地各地を巡礼。著書に「仏陀の風景」「心やわらかに」「こころを耕す」「あなたに伝えたい『生き方』がある」「声に出してお写経・般若心経といろは歌」「百八の智慧」など。
                   き き て 兼 清  麻 美
 
ナレーター:  奈良の薬師寺。千三百年あまり前、天武(てんむ)天皇が皇后の病気平癒を願って建立(こんりゅう)を発願(ほつがん)したのが始まりと伝えられます。現在住職である管主を務める山田法胤さん、六十九歳。薬師寺の百二十七代管主に去年八月就任しました。
 

 
山田:  「鬼さん、あんたの言葉はいい言葉だなあ。次の言葉教えてくれ」というて、だけど「お前、そんなこというけど俺腹減ってね、今喉が渇いて飢えてるんや。何言うてるかわかっているか」と。鬼になっている羅刹(らせつ)は、試している釋提桓因(しゃくだいかんいん)、その釋提桓因という方を日本語でいうと、帝釈天(たいしゃくてん)のことなんです。みなさん方は帝釈天というとよう知っていますよね、寅さんで有名な(笑い)。その帝釈天はいつもそういう修行している人を試すことをするんです。
 
 
ナレーター:  山田さんは、釈迦の教えを分かり易く説く法話を、毎月東京にも出向いて行っています。願っているのは、「国のまほろば」と呼ばれる奈良の地にあって、人々の心にもまほろばを持ってもらうこと。それは釈迦が人々の心を田圃を耕すことに喩えて説いた福田(ふくでん)の教えにもとづくと言います。
 

兼清:  管主になられて、山田さんのめざす薬師寺というのは、どのような薬師寺を描いていらっしゃいますか。
 
山田:  そうやなぁ、割合に誰でも来て貰いやすいということを、まず一つ思っているのと、薬師寺はできるだけ来た人に声を掛けて、そして明るいなとかね、そういうふうに思って貰える寺、そして法話を月に何回か定例的にさしてもらうというので、毎月八日がお薬師さんの縁日で、午前中に大般若経を転読して、昼からは必ず私が法話をさして貰う。その法話も堅苦しい法話じゃなしに、「今この社会の中で、こんなことがないじゃないか、と。こんなことが二千五百年前の仏陀(ブッダ)の時と合わせてみたら、こんなことじゃないか」というように、仏教を古いものやという形じゃなしに、今にもってきて理解して貰えるようにしたいなというのが、私の法話の中には多分にありますね。できるだけ聞いて頂く人に退屈さを感じさせない、そういう話をしたいなと思って、私は割合に新聞とかテレビとか、そういう中から話題の材料を掴んでいるんです。例えば、今どんどん不況じゃないですか。そうすると、すぐ数字で「何割落ちた」とか、「デパートは売り上げこうや」とかいう、そんなことばっかり言うでしょう。「そんなことないで」と。
 
     苦に病むな 世上(せじょう)に金は撒いてある
     欲しくばやろう 働いて取れ
 
という道歌があるんですよ。なかなか面白いね。「苦に病むな」苦しむなと、そんなに。世の中というのはどうにでも縁があるで、と。「苦に病むな 世上に金は撒いてある、欲しくばやろう 働いて取れ」と。で、あなた方が見えないというのは、見方が悪いのや、と。去年、野原で棒を振り回しているだけでも一億八千万円稼いだ青年がおる。これは石川遼(いしかわりょう)という。それを思えば、やっぱりあれでみんなが楽しんだわけなんや。そうすると端を楽にしてあげたから働いたわけね。そうすると、端の人を楽しましてあげるプレーができたら、一億八千万円の賞金王になって、何百億かの経済効果が出てくる、と。別にどうということないけども撒いたるで、と。だから「不況だ」とかいうているけども、見方を変えれば、あちらこちらにそういう豊かになれる材料はいっぱい転がっているんじゃないか、と。だから仏教で「縁」ということをよくいいますよね。「袖触れ合うも多少の縁」とかいうて。ちょっとしたきっかけがどんどん。ですから薬師寺に来た人に、「時間があったら薬師で奉仕をしませんか」と。奉仕の団体は三つできていて、今度「浄信会(じょうしんかい)」という会があるんですけども、三十五周年なんです。薬師寺に奉仕に来ると、友だちがおる、仲間がおる、一緒に仕事をやっているということで生き甲斐が出てくるという。生きる喜びというのは、誰かに親切を与えているという、そこに尽きるのかもわからへんね。だからお釈迦さんが詠んだという詩が、「与えることが喜びだ」というているんやね。
 
     花は美しさを
     誰にでも与えて
     小鳥は楽しい歌声を
     誰にでも与えて
     与える時心が豊かになり
     惜しむ時心が貧しくなる
     喜んで与える人間となろう
 
という、お釈迦様がそういう呼び掛けをしておられる。法句経(ほっくきょう)(最古の仏教経典のひとつ)の中にも、
 
     蜂が蜜を求めるに
     花の色と形と匂いを
     損なわずして
     蜜のみとれり
 
蜂が蜜を求める時に、花の形を傷めないし、匂いも傷めない。色も変えない。蜜だけ取る。仁の徳のある人は、かくのごとく村々を歩む。そこのところでちゃんと花に次の雌蕊と雄蕊の交配をして立っていくからね。ちゃんと実りを残して行く。そういうようになんか喜びを残しながら生きていくという。これが大事だからね。「働」という字は、人偏に「動」と書くけれども、あれはもともとは、「自分以外の端の人が楽しくなることをしてあげることを働く」と言うたんだ、と、僕は思っているんだけどね。
 
兼清:  薬師寺としては、人々の心にどういうものを与えたいと考えていますか。
 
山田:  人間、何か知らんけども、物があったりするように思うけども、自分の心の中からみんな変じて出てくるわけです。だから心が美しくなるということが、「まほろば運動」にも繋がっていく、と。だから「まほろば」というのは、美しい、そういう実りが周りの人を幸せにしていくというのが「まほろば」である。「まほ」の「ほ」というのが、実りなんですよ。「稲穂」の「穂」なんです。だから人間が飢え死にせんような生き方をしていける。それが今は物質的なものだけじゃなしに、心が潤(うるお)いていけるような、そういうようなものをちょっとでもお寺から発信することを「まほろば運動」と、こういうように思って薬師寺はこれからも少しでもお釈迦さんの教えを語っていきたいな、と、こんなふうに思っているんだけどね。
 

 
ナレーター:  山田さんは、一九四○年、岐阜県に生まれました。早くに父親を亡くした山田さんは、中学三年の時、近くのお寺の住職や母親の勧めで薬師寺に入りました。寺で待っていたのが、生涯の師となる当時の管主橋本凝胤(はしもとぎょういん)(法相宗の僧侶で仏教学者。奈良・薬師寺一二三代管主、法相宗管長。「二十世紀最後の怪僧」「昭和の怪僧」の異名を持つ:1897-1978)さんと兄弟子・高田好胤(たかだこういん)(法相宗の僧侶。薬師寺一二四代管主。法相宗管長。写経勧進という方法で金堂、西塔など薬師寺の伽藍を復興し名物管長と呼ばれた:1924-1998)さんでした。今でこそユネスコの世界遺産にも登録され、塗りの色も鮮やかな堂塔伽藍が並び建つ薬師寺ですが、山田さんが来た時は、東塔と金堂、それにわずかな伽藍が残るだけの貧しいお寺でした。厳格な学僧として活躍した橋本凝胤さん。薬師寺の復興を願って全国を行脚した高田好胤さんの薫陶(くんとう)の元、山田さんは僧侶の道を歩み始めたのです。
 

 
兼清:  中学三年生の時に薬師寺に入られて、それからもう五十年以上ということになるわけですが、その遊びたい盛りの中学・高校生時代、どんな生活をして、どんなことを考えて修行していらっしゃったんですか。
 
山田:  遊ぶとかそんなことはまったく思わんと、まったくわからん世界に入ったんで狼狽(うろた)えていましたね。
 
兼清:  どういう生活から始めるんですか。
 
山田:  とにかく朝は四時半に起こされて、それでお堂へ行って鐘突いて、仏さんにお明かりを灯して、お経をわからんけれど―暗いところですからね―一緒にあげながらね。それでなんで怒られているのか、子どものことだからわからんわけね。とにかくお師匠さんも先輩もみな恐いもんやと、おどおどしていましたですよ。
 
兼清:  何をそんなに怒られるんですか。
 
山田:  「あれせ、これせ」と言われても要領がわからんわけです。だから入社したての新入社員がわからないのと同じですよね。
 
兼清:  普通の就職であれば、働いている時間と家に帰ればプライベートな時間があるわけですけど、それが一切ないわけですよね。その生活をずっと続けられたのはどうしてなんですか。
 
山田:  あれだけ母親が勧めて、出家したことやから、「我慢して、辛抱して」というて、母親が心配するから、親が生きている間は心配掛けんように頑張らなあかんな、ということだったですけど、それでも逃げて帰ろうかなとか思いましたですよ。
 
兼清:  でもそうされなかったのは?
 
山田:  先輩の高田好胤管長が、時々は助け船を出してくれたり、というようなこともあったし、それから母親が手紙をくれて、「頑張っているか。いつも心配しているで」とかね、そういうようなちょっとした思いやりの気持を伝えてくれるんで、まあ辛抱できたんかなぁ。僕が九年目に大学を卒業するんですよ、薬師寺に小僧に来てからね。その頃に大学を卒業するのだから、今だったらヒョッとして坊さん辞めて、どっか就職してもいいなとか、そんなふうに思ったりしてね。お寺もその頃食えるか、給料なんて貰えるような寺と違うようなふうにも思っていたし、まあ就職しようとか、だけども親がおる間はもうちょっと辛抱するか、と。その頃大体「人生六十年」とこういうていた。親もちょうど六十過ぎておった。ぼちぼち死んだらお寺を辞めて違うところへ行こうと思っていたけど、なかなか思うように死にませんでしたから、八十二まで生きましたからね、母親が。だからそれを待っていたら私はついに薬師寺から行く場所はなくなっていた、と。だから今日残れた、というところですかね。
 
兼清:  でも、九年薬師寺にいらっしゃって、大学卒業するタイミングで、やはりそこにチャンスがあると思われたんですね。私はもっと早いうちからここの寺で暮らしていく、という決意を固められたのかと思っていたんですけど。
 
山田:  僕らが一緒に得度した仲間でも途中で辞めている人もおるし、先輩でも辞めていく人おったしね。やっぱりいろいろのケースがあってね、男ばっかりの所帯で、お師匠さんも厳しいし、続かないんですよね。私に高田好胤管長が教えてくれた薄田泣菫(すすきだきゅうきん)(明治後期の象徴派詩人:1877-1945)という人の詩があるんです。それがなかなか僕にピッタリの詩で、今でも覚えていますけどね。
 
    山が育ちのごろすけが
    国を出てから三日目に
    生まれの里が恋しいと
    峠の道に来掛かれば
    いたずら好きのふくろうが
    寺の和尚の口真似に
    ごろすけもっと辛抱と
    そうでござるとごろすけは
    今来た道を後戻り
 
    山が育ちのごろすけが
    国を出てから九年目に
    宝の数を背に負うて
    峠の道に来掛かれば
    いたずら好きのふくろうが
    寺の和尚の口真似に
    ごろすけよくぞ辛抱と
    そうでもないとごろすけは
    生まれの里に急ぎ足
 
という詩があって、ちょうど九年目にお師匠さんが、「あ、お前も大学卒業したんやから、一遍お父さんのお墓に挨拶に行って来い」というて、初めてその時に田舎へ帰させてもらった。その時、「九年目で宝の数を背に負うて」というけど、私は中味は宝物も何も持たないんだけども、今考えると、宝物というのは九年間我慢したという、そういうものが背中には形ではないけれども載っかっていたんかな、と。良い詩ですよね。
 
兼清:  ピッタリの詩だったんですね。
 
山田:  よく話に行く時は、この話を思い出してするんです。
 
兼清:  橋本凝胤さん、そして高田好胤さん、そして山田さんは、どういう関係でいらっしゃるんですか。
 
山田:  橋本凝胤さんが僕らのいわゆる師匠、高田管長は橋本凝胤さんの一番上の弟子で、以下ずっと小僧が七、八人おったですね。僕はその末弟で、私よりも先輩に橋本凝胤さんが可愛がっている猫がおりましたから、猫の方が偉かったですよ(笑い)。
 
兼清:  猫より下だったんですか(笑い)。
 
山田:  猫はお師匠さんの膝の上で寝ておるんね。僕らそのところで怒られますんね。そうすると、猫が食べているものはお頭付のジャコを食べているんですよ。僕らはお粥に梅干しに塩昆布。それで僕は学校へ行くでしょう。学校に行くのに弁当持って行かなければいかんのですよ、高校の時なんかね。その時に猫のカツオの削り昆布を盗むんです。それを御飯にね。それに醤油をかけて、その上に御飯載せて、まあいうたら猫まんまみたいなものを。だから「この頃なんか猫の鈴が鳴ると思ったら、お前だったか」と怒られた(笑い)。だから猫が人間の食べ物を盗むということはあるけども、猫の食べ物を人間が食べて盗んでいた、とこんな感じだね(笑い)。
兼清:  高田好胤さんの存在というのは、そうすると橋本凝胤さんの厳しさを救ってくれる存在だったんですか。
 
山田:  クッションみたいなものやね。そして薬師寺で橋本凝胤さんは独身の人だったけど、高田管長は初めて結婚したんですよ。それで新所帯をお寺の塔頭(たっちゅう)に持っていたわけです。だから僕ら、なんかあるとそこへ行ってね、高田管長の奥さんに御菓子食べさしてもらったりとか、いうようなことがあったんですよ。けっこう家庭的に救われたですね、今思えば。
兼清:  橋本凝胤さんはひたすらに厳しいお師匠でしたか。
 
山田:  それは子どもの時は厳しかった、と思いました。でも三十年、四十年経って、今になれば、あの人は優しい人だったんやな、と。何でかというたら、僕ら今若い子に怒ろうと思っても―その時は簡単に怒るけれども、お師匠はずっと怒るんだから。徹底して、一週間でも一ヶ月でも。これはなかなか怒るって、続けるのは難しいですよ。
 
兼清:  怒る方もエネルギーが要りますね。
 
山田:  だからそれが今になると、あんなに弟子をずっと怒り続けるって偉いな、って今思いますよ。だから今のお母さんお父さんもそんなふうにして躾るというようなことはできないじゃないですか。だから「躾る」という言葉でも、「しいつづける」わけですよ。「しいつづける→仕付ける→躾」これが家庭の教育だね。だからそれは仏教では「しいつづける」というのは、匂いが染み込んでくるようになるというので、「熏習(くんじゅう)」という。だから「熏」というのは、香りが知らん間に衣服に染まりついてくるようなことを「熏習(くんじゅう)」というんだけども、まあ人間は匂いが付くわけじゃなしに、人格が染め込んでくるわけね。だからお師匠さんのそういうようなものがやっぱり私らのどっかに染み付いて似てくるのかな。
 
兼清:  私が「熏習」の意味をちょっとわかっていないのかも知れないんですけど、その橋本師匠さんが一つのことに対してずっと時間をかけて怒る。今の私は、子どもをあんまり長い時間怒ってはいけないと思っているんですね。その場で怒って、もう食事の時には怒らない、ということを心掛けているんですけれども、その橋本さんの言わんとするところは何だったんでしょうか。
 
山田:  お師匠さんから見れば、此奴(こいつ)を立派に育てるためには絶対的に叩き込んでおかないかんのやという感じで怒るんですね。厳しかったですね。それは僕ら抵抗できなかったのは、お師匠さんが、自分が徹底的にやっているわけ、僕らできんことをずっと。朝は四時半なら、四時に起きる。掃除は自分でもやる。そして仕事はこういうふうにやる。夜は寝る時には必ず十一時まで起きているとか、こういうのは徹底しているんですよ。だから非の打ち所がない。だから僕らが、「お師匠さんかて、けっこうさぼっていまんがな」って、そういうことを言わせない怖さがあった。
 
兼清:  完璧なんですね。
 
山田:  完璧です。だから恐かったですよ。御飯の食べ方から、箸の持ち方から、とにかく怒るんですよ。箸でも、例えば机に凭れて肘付いて食べるようなことがあると、お師匠さんの箸は象牙の箸なんですよ。その象牙の箸でパンと突きますからね。(笑い)
 
兼清:  痛いですね。(笑い)
 
山田:  痛いどころか、穴があきますから(笑い)。だからこっちも先にパッと身を引くでしょう。だからお膳がひっくり返る。それほどきつかった、昔は。でも今になると、あれだけのことは僕らは若い子によう怒りませんね。兼清さんがおっしゃるように、子どもをそれだけ怒ったら帰って来んのと違うかと思うでしょう。そういうことを一切思わなかったのかね、恐かった。朝寝でもしたら、「ずっと御飯食べるな」とか、学校適当に帰って来なかったら怒るしね。庭の草引きとか、掃除しなかったら怒るし、とにかく怒られた。そういう厳しい人でした。
 
兼清:  そういう環境を作ることを「熏習」というんですか。
 
山田:  そうですね。だから雰囲気。この部屋に一つの空気がありますやんか。それが緊張する場所なのか、楽しい場所なのか、そこが勉強する場所なのかによって、こう身体がそこの形に嵌ってくるような、そういうものが「熏習」なんですよ。だから親の言葉とか、声まで子どもさんには似てくる、というんですよ。だから娘さんに会ったら、お母さんの声に似てきてね、電話かかってきたら、「奥さん」と言ったら、「いいえ、娘です」というようなことがありますでしょう、それほどまでに。これがやっぱり「熏習」なんです。
 
兼清:  そうすると「熏習」が、質の良いものであれば、良い影響を受けられるし、良いものを身に付けられますけど、私が今自分の家庭のことを思うと、そんなに良い質のものではないんではないかと急に自信がなくなるんですけど(笑い)。
 
山田:  ダメでしょうね(笑い)。だから「社会が悪い」という言い方があるが、それはもの凄く大事なことですよ。教室の全体が悪い。教室の全体の雰囲気を作るのは誰なんや、というたら、先生だけでもできない。生徒だけでもできない。良い子ばっかりでもできない。良い子も悪い子も、怒られる子も怒る子も、それから誉められる子もみんなおって教室というのは成り立つように、社会も成り立っている。今僕らが昭和三十年代頃と、今のように満ち溢れたというのか、何でも文明が進んだこういう時代とでは、子どもさんの「熏習」はもの凄く違っているんじゃないでしょうかね。
 
兼清:  でもこの物に溢れた環境を元に戻すことはなかなか難しい。
 
山田:  できませんね。
 
兼清:  今どうすればいいと思いますか。例えば教室で良い「熏習」を受けるような状態にするためには?
 
山田:  それはよほどの覚悟がないとできないと思うんですけどね。私が思うのは、日本という国が鎖国の間まで―いわゆるペリーさんが一八五二年浦賀にやって来た。その開国の前までは―日本人というのは、一つの日本の熏習があったね。それで日本人はこの自然とともに生きていくというんだから、人間の我が儘とか、そういうものを押さえることが大事だから「一切皆苦(いっさいかいく)」というのがお釈迦さんの教えなんですよ。「生きる」ということは、「一切皆苦」なんだ。苦しみなんだ、と。「生・老・病・死」という、生きることも、老いることも、それから病気になることも苦しみや、と。その一切皆苦の中の生き方をしているというのが、開国までのずっと日本の千何百年の一つの熏習みたいなものやね、国のあり方の。そしてみると、日本人は千何百年の開国以前までは、もの凄い人間が叩き上げられた日本人という魂を持っていたんやろうかな。そこからヨーロッパの文化とか、アメリカの文化を摂取したわけね。そして今になってみたら、ヨーロッパ人よりもヨーロッパの人間になっているかもわからないし、アメリカ人よりももっと便利主義の理想を求める民族になってしまっているのかもわからない。だからそれを取り戻そうと思うと、もう一遍百五十年前に戻れるぐらいまでの覚悟がないとなかなか戻れない。だから一遍僕らは体験してしまった、こういう文明の社会を戻すということはできない。どうしたらいいかというと、自分自身を自分自身で規制していく、そういう生き方を自分で作らなしゃないかな。それを親がやっていれば、子どもはそれに習っていくと。それが熏習になると。だから先生は先生らしく、坊さんは坊さんらしく、主婦は主婦らしくしようと思ったら、もの凄く難しいでしょう。
 
兼清:  きちんとしようと思ったら、凄く大変なことなんですよね。
 
山田:  そう。だからお師匠はきちんとしておったわけですよ。薬師寺の坊さんは橋本凝胤という人に徹底的に叩かれた。それで生き残りですわ。
 

 
ナレーター:  薬師寺の本尊は、人々のあらゆる病を癒すとされる薬師如来です。毎月の薬師如来の縁日には本尊に捧げる大般若経の転読が行われます。六百巻にも及ぶ大般若経が、玄奘三蔵(げんしょうさんぞう)がインドから持ち帰って翻訳し、日本にも伝わりました。山田さんは、釈迦の教えの真髄を伝えた玄奘三蔵の足跡を辿るとともに、仏教を開いた釈迦の生き方を学ぼうと、インドや中国、仏教の盛んなタイなどを何度も訪れています。仏教伝来の道を辿り、その広がりを知ることで教えの尊さを深く学んだといいます。
 

 
兼清:  山田さん自身がその旅で得られたものとか、掴んだものは何ですか?
 
山田:  インドというのは、僕が一番最初に行ったのは昭和三十九年です、お師匠さんのお供をして。で、後は高田管長とも一緒に行ったり、勿論自分一人で行ったり。もうその都度行くんですけど、三十年経っても何の街も変わらないのがインドだったね。だけどこの近年ちょっとインドも近代化されてきている感じがあって、あんまり近代化されて文明が広がっていると、やっぱり僕らは寂しい感じがする。自然のまま残っているところがやっぱりお釈迦さんに近づいたような気分になるんでよろしいですけどね。僕も祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を訪ねて行ったり、ナーランダ大学の跡地へ行って、玄奘さんがここで五年生活した場所と違うかといわれるような場所で、みんなに話をしたりね。ここで講義を受けていた場所じゃないかという遺跡が残っているんですよ。いいですよ。
 
兼清:  その場に立った時というのは、どういう気持になるものですか。
 
山田:  お釈迦様がおられた時、玄奘さんはもっとずっと後で、七世紀ぐらいの時だけども、あ、ここに千三百年前に玄奘が五年勉強してはったんやなとか、そういう思いとかね、玄奘さんは二十七歳やったんだから、三十歳から三十五歳ぐらいだったなとか、そういうことを思いながら、僕は随分歳取っているなと。何にも僕ら勉強できていないけど、玄奘さんは偉かったなとかね、そういう勝手に比較をしたりね。いいものですよ、旅は。
兼清:  中国から日本に入ってきた仏教の原点となる場所をあちこち訪ねられた。さらに玄奘三蔵の歩いたと言われている足跡も、同じ足跡を訪ねられた。そこには山田さんのどういう思いがあるんですか?
 
山田:  やっぱりお釈迦さんという。割合に日本の人というのは、祖師仏教で、親鸞さんとか、日蓮さんとか、法然さんというような日本の宗派の祖師を崇めるんですけども、我々奈良ですと、割合に直通で「釈迦さん」という感じなんですよ。玄奘三蔵がお生まれになって活躍する頃には、仏教が入っていたわけです。でも納得がいかないというんで、玄奘三蔵さんは二十七歳の時に、志を抱いて国の鎖国を犯して、シルクロードの砂漠を越えて、天山(てんざん)山脈を越えて、ヒンドゥークシュ山脈を越えて、インドへ入るわけです。そしてインドの間違いのない、自分が理想とする経典を求めて中国へ持ち帰った。そしてそれを広めれば中国の人が幸せになるというんで、玄奘三蔵さんの目的のインドへの旅は十七年かかったんですけれども、ひたすらお釈迦さんの正しい教え、自分が信じられるものを持ち帰りたいという思いがあったわけですね。
 
兼清:  お釈迦様の教えが書かれている経典を持って帰ったわけですね。
 
山田:  そうそう。それが般若心経(はんにゃしんぎょう)であったり、大般若心経であったり、瑜伽師地論(ゆがしじろん)という経典であったり、それから唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)という教えですね。唯識教学というんですけど、そういうものを持ち帰った。だから玄奘三蔵が一番求めたのは、人間は物を見ている物が大事じゃなしに、物を見る心が―耳でものを聞く、音が聞こえることではなしに、音を聞く聞き方の心が大事だという、そういうことが書いてあるわけね。例えば、
 
     持つ人の心によりて宝とも
     仇ともなるはこがねなりけり
 
という歌があります。「持つ人の心によりて宝とも仇ともなる」というのは、お金は宝になる要素もあるけれども、間違った要素になることもあるじゃないか、と。それは心の持ち方だというふうに思うと、聞き方の心が間違うと、戦争にもなるかもわからない。ものの見方が間違うと、とてもおかしな方へいってしまうじゃないか、と。だから人を助ける力もお金にあるけれども、心が間違うととんでもない武器を作ってしまうこともある、と。だから心というものを教えるのが、唯識教学であり、仏教のお釈迦さんの教えでもあるというんで、そういうものを伝えてくれた歴史がいっぱいあるじゃないですか。そういうところをやっぱり旅行するというのは、とても有り難い。もう一つは、その場所に立って、空を見ると、お釈迦さんが見たお月さんもお星さんも、お釈迦さんが受けた風も空気も大地も二千五百年前と変わっていないというんで、そのお釈迦さんの生活した場所に立ってみたいという、玄奘三蔵にはそういう夢がある。私らもそういう気持を持っているから、インドへ行くと、そこでお釈迦さんが、ああ、こんな風を受けながらお説教をしてはったなとか、お弟子さんと語り合ったんやなあと、そういうことをとても旅の中で思うことがありますね。ですからインドへ何回行っても、こうして話していると違った、二年前にはこんな気持を持ってあそこのところへ立っていたなとか、今度行ったらお釈迦さんのこういうことを、というような思いが変わっていくから、インドへ僕は十数回行っていますけれどもね、いつ行っても感動がありますね。
 
兼清:  そうやって遙々インドの仏跡を訪ねて、その場でしみじみと感じ得るというのは、どうしてなんでしょうか?
 
山田:  仏教がこういうところを原点にして、日本へ伝わって、日本人は千四百年、仏教というものを基本に血の中に入れている。だから日本人の心の中には、さっき熏習のように自ずから八百万(やおよろず)の神世の天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)という教え方と、それから仏教のお釈迦さんの教えというものが、血となり肉となり骨となっているのが、僕は日本の民族だというふうに思っているんです。だから日本の血になり骨になり肉になっている原点のインドへ行くということは、とてもみなさんにとっても素晴らしいことやというふうに思うんですよ。私は、これからできればヨーロッパの物質文明、経済的なもの、そういうものに少し魅力を離れて、できたらもう一遍精神的な仏教を通して、一切皆苦の自然と同じように生きていく。だから「共生(きょうせい)」というのは、生きているものとは一緒に生きようということではなしに、地球の自然の生き方と一緒にそこから喜びが感じられるという、これがほんとにエコロジーやなと、こんなふうに思ってね。さっきもいうたけども、そういう仏教の教えに従った生き方をすると大分戻れるかなぁ。
 

ナレーター:  仏教の教えに従って生きていく。それは般若心経にも記されている「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」を持つことだと、山田さんは言います。釈迦は人の心を田圃に喩え、田圃の土がよく耕されていることで、功徳という実りがもたらされると説きました。この教えが福田です。今の時代、心の田圃を常に耕しておくことが、心豊かに生きるうえで、もっとも重要なことだと、山田さんは考えています。
 

 
兼清:  「福田」という教えがあるということですけれど、これはどういう教えのことですか。
 
山田:  お釈迦さんの国はインドのカピラという農業国なんですね。だからお釈迦さんのところは田圃やら畑があって、そして稲作なんですよ。田圃を耕しているということは、人間の心も田圃のような存在だ、と。だから小さい時から耕していくと、そこに種を蒔けば実がなってくる。良い物が育ってくる、と。それをほったらかしにしておくと、雑草が生えてくる。だから心も小さい時から耕されてきたそういう躾られた子どもさんと、耕されないで育ってきた子どもさんとは、休耕田ときちっと守られた農耕のそういうものとの違いぐらいがあるんだというふうに、お釈迦さん(仏陀(ブッダ))は教えているんですね。それを耕したところに種を蒔けば、福が実ってくるというんで「福田」という。幸福も田からつくり出してくれる、その田圃はね―田圃というと、すぐお野菜が採れるとか、五穀が穫れるということに思うけれども、そうじゃなしに、仏教では世の中の自然の目に見えない世界の、このものは尊いものなのだ、と。犯してはいけないものやという、そういうものを信ずる。こういうのを敬う心を耕すことができる、と。もう一つは、私たちは自分で生まれて自分で育って自分で生きているようになんとなしに思うけれども、生んでくれたお母さんがおられる。もっと先祖がおられる、もっと先祖がおられるというふうになると、私たちが私たちとして生まれてこの地球上に存在できたのは、そういうご先祖様のお陰だという心というのは、耕していないと思えないんですよ。だから今の人が先生を見て、先生に恩を感じると言ったって、何でやねん、と。先生は僕らが習ってあげているから給料貰えているんじゃないかとか、今の子はそういう理屈になってくるでしょう。だけど僕らはそんなことは思いもしないで、あの先生に教えられたお陰で中学校の勉強ができて、先生に恩を感じている、というのは、耕した心があるからだ、と。まして朝太陽を拝むとか、夕方になったら、「今日一日有り難うございました」とか、なんでそんなこと言わないかんのだ、と。耕されてない若者たちは、何でやねん、と言うんだけれども、耕しておったらもう自然に朝起きると、「あ、今日も一日よろしくね」というふうに、天へ向かって拝めるとか、夕方になって、「あ、今日も事故もなんにもなかったのがお陰さんだったな」というて感謝できるのも、すべて「福田」というんですよ、そういうのを。それを三つにわけると「三福田」、八つに分けると「八福田」というて、梵網経(ぼんもうきょう)というお経があるんですけれども、そこにそういうことが書かれている。それを奈良時代はもの凄く実践しているんです。だから行基(ぎょうき)(奈良時代の僧:668-749)菩薩は、その福田をもっと具体的に広げて、橋を作るとか、道を造るとか、旅の人が水を飲みたい時に井戸を掘っておいてあげるとか、それから池を掘ってあげて農民の人が干魃(かんばつ)の時だったら水が田畑に受けられ届くようにとか、そういうことをずっとわけていくと八福田。そういうものが法華寺なんかにもできてくるわけですよ。今年奈良は「平城遷都千三百年」だから、僕は法華寺のことなんかもっと大事にしていうてあげたらいいなと思うんだけどね。光明皇后(こうみょうこうごう)さんという方は自分の生まれた邸宅―お屋敷をお寺に造り替えるわけです、法華寺というのは。そして自分は何したかというたら、八福田の中のもっとも大事な老人を看護するとか、看病するというんで、千人風呂を作って、千人の人の背中を流してあげる―これを「悲田(ひでん)」という。だから法華寺さんは悲田の寺ですよ。それで千人目の時に試しにというんで、阿?如来(あしゅくにょらい)という人がいっぱい出来物ができた皮膚病になって来て、「私の身体を光明さんが吸ってくれたら多分治るんと違うか」というて頼むんですよ。光明皇后は驚くんですけども、私は千人のそういう方を救いたいという気持だからというんで、その膿を吸うと、その老人は阿?如来(あしゅくにょらい)の化身だったという物語が出てくるんですけどね。でもまあ光明皇后さんなんか、そういう八福田のことなんかを勉強してはったから、そういう気持にもなれた。だから奈良時代というのは、行基菩薩も光明皇后さんも聖武(しょうむ)天皇さんも、もの凄く悲田ということを大事にした時代でもあったんですね。だから我々は坊さんにならしてもらって、今思うのは少しでもそういう社会の中に日本人のそういう心が伝われば、というんで、私は大体奈良時代のお話をする時には、日本の心という、そういうことを話す。それは福田だと思うんですよ。休耕田になっている今日本人の心が多いかな。だからそこにどんな種を蒔いても実りませんわね、芽生えませんわね。だから芽生えるためには田圃を耕しておいてあげるという。これが親の務めであるような気がするね。そうすると、良い種がパッと生えることがあるからね。今の子どもはコンクリートみたいな心になっているからはじいてしまっているかな。言えば言うだけ反発して仕返しに来られるような時代になっているから情けないわな。
 
兼清:  心を耕すというのは、どうすれば耕せるんでしょうか?
 
山田:  熏習ですよ。だから親が感謝するとか、例えばお彼岸だったら、お彼岸にお墓詣りに行くということは、先祖を敬うことを耕しているわけね。あるいは恵まれない人に、「あそこ地震災害があったからちょっとだけでも浄財を寄付しようか」とか、ということを親がやっていると、子どもはそれで耕されていくわけなんです。だから僕はそういうことを言えば、やっぱり家庭生活とか、そういうものが徐々に徐々に子どもさんを耕していくんだね。お箸を作っている人が、「お箸というけれども、たかがお箸のように見えるけれども、されどお箸や」と。箸の持ち方ができない子どもさんが今多い、というんです。ということは、小さい時からお母さんお父さんのそういう訓練というのか、教えを受けていないということは、心が耕されていないから箸の持ち方ができない。そうすると、靴の脱ぎ方もおかしい、挨拶ができない、辛抱ができないというように、どんどん休耕田になっているように、それが悪いという意識もなくなるわけです。僕は薬師経を毎朝あげているんですけれども、薬師経の中には「身心安楽(しんじんあんらく)」というて、身体だけ幸せになってもそれだけでは足りない。「身心」というのは、「身体」と「心」で身心なんですね。で、「安楽」安らかでなかったらあかん。ただわぁわぁだけでもいかん。「楽」というのは、身体と心が楽しくなるというんで、だから心の健康を保つのは清らかな心を持つようにする。そしてやっぱり清らかな心を持てるということは、五体が健康であるというんで身心安楽という。どっちも大事という、そういう教えがお薬師さんの教えなんです。今の社会は、物質は恵まれてきた。でも幸せにならないという、その辺のところにもの凄く矛盾があるように思うんですよ。昔の人は、物質が少なかったけれども、心にいっぱい豊かさを持っているから割合に楽しくできた。前に私は土門拳(どもんけん)(写真家。日本の庶民や寺院、仏像等を撮影したことで知られる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた:1909-1990)さんの写真展を見たことがあるんです。戦後の時の写真をたくさん撮っているんですよ。子どもがボロボロの服着たり、洟(はな)を拭いたりしている、そういう写真があったり、まだ焼け野原のバラックのところで、子どもがチャンバラごっこして遊んでいるのとか、そういう写真を見ながら、子どもたちの生き生きとした目に触れた時、「あぁ、戦後のあの時に物がないから不幸せだというふうに思っていなかったなあ」と。それは何故かということを思った時に、今、僕らは物にだけ頼って、物がなかったら死んでしまわなければならんぐらいに思うけれども、あの戦後の時の日本人の心の中には、物ではない、形ではない、そこに生きる何かというものがあったな、と思うんですよ。それは清らかさというのか、生き甲斐みたいなものを持つのと、目的がきちっとあったよね。今の人は、目的とか、そういうものがなくって、ただ自分の生活のところに物質があって、物質的豊かさを求めるだけで、心のゆとりとかなんかというのが、まったくなくなってしまっている。仏教というたら、坊さんは修行しているでしょうと、こういうふうにいうんですけれども、修行は大事なんですけれども、じゃ修行で断食ばっかりやるとか、あるいは寒い寒中に水被るとか、あるいは火渡りするとかいうて、そういう厳しい行をしたから、その人が幸せかというたら、その時に何にも考える余裕がないんですよ、苦しい修行をしていると。そうすると、それは堪えたというだけで、一つもそこに心のゆとりみたいなものが生まれてくるわけではない、というふうに言われて、お釈迦さんはまるで焚き火がこうして燃え盛っている時に、苦行というのはその燃えているところへ水を掛けて消しているようなものだ、と。だからエネルギーが湧かなくなっている。じゃ、今度は楽して、いっぱい美味しいものを食べて、ぼぉっとしていたら、その人は幸せになるかというたら、今度は心が豊かさによって汚れる、と書いてあるんですよ。だから僕らは豊かさによって心が汚れている社会だ、と。そうすると、あんまり物に拘って、合理主義に拘っていくと、どんどん世の中は心が汚れていく。そうかといって厳しさばっかり追求していって、エコロジーだからこうしない、こうしなさい、というて、極端な苦行をしたら、今度はエネルギーが消耗してしまって、身体がダメになってしまう。そうすると、苦しみばっかりでもいけない、楽ばっかりでもいけない、その中にもう一つ違った生き方がある。それがなんか戦後の日本人がこの焦土と化した日本を復興する、あるいはそこへ生きていくという時に、割合に物がなかったけど、「いやぁ、苦しかったな」と何にも思わない。それは何かと言ったら、一つの生きる目標みたいなものがあったから、今のように物がいっぱいあるのに生きられへんというて、三万人を越えて自殺するような時代になっているのは、どっかでこう変じていくというふうになっているのかな。だから薬師寺に来てもらって話を聞いて、「こんで良いのや」というふうに明るくなって貰えるような法話をさして貰いながら、お釈迦さんの真理の教えを少しでも理解して貰えるといいな、と。
 
兼清:  それは結局来た人の心を耕している、ということになりますか。
 
山田:  そうそう。そうしたら心の中を耕しておくと、今度パッとお会いしたら、「どちらから?」とかいうてご縁ができれば、そこで種が落ちるようなものですね。そうすると、「私は京都から」「私は大阪よ」「私は名古屋から来ました」というふうになって、「あ、そう」というふうにして明るくなっていくように思うんですよね。
 
兼清:  例えば家に帰ってちょっと嫌なことがあっても、耕されていれば、受け止めることができるとか、
 
山田:  そういうことありますよね。そうすると、なんか今まですぐ頭にカッとくるやつがちょっと話を聞いておくと、「あ、そうか、そうか。ここではこうふうに受け取ればいいのか」というふうに思えるようになりますよ。だから常に自分をピッとそういう方へ向けて物が見えるようになると、随分生活の思い方というか、不平が感謝に変わったり、不満が喜びに変わったりしてくるのも、ちょっとした心の切り替えでなるように思うんです。だからその心がちょっとポイントの切り替えができるような示唆を与えたら、そんな人たちはものの受け取り方が変わって、自分の中に何か温もりとか、清々しくなったというような、そういうものが意外と人間を幸せにしていくものなんやと思うんですけどね。
 
兼清:  今日はどうも有り難うございました。
 
山田:  分かり難い話だったかもわかりませんけれども、有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年四月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである