糸瓜(へちま)の花ー正岡子規の死生観ー
 
                            俳 人 宮 坂  静 生(しずお)
昭和十二年、松本市に生まれ中学時代から俳句に親しむ。信州大学で長く教鞭を執り、平成十五年医学部教授を定年退官。昭和五十三年俳誌「岳」を創刊・主宰し、俳句や評論に活躍中。
                            ききて 白 鳥  元 雄
 
ナレーター: 長野県松本市から望む北アルプスの山々。梅雨明け直後も台風の接近で厚い雲に 覆われていました。今日は松本市の南部にお住まいの俳人・宮坂静生さんをお訪 ねします。今年の春、信州大学を停年退官され、主宰する俳句の雑誌「岳(たけ)」に拠 りながら、ご自身の句集の他、正岡子規の研究や、現代俳句の評論などの分野で も数多くの著書を出版しておられます。
 

 
白鳥:  ヒートアイランドの東京から来ると、こんな爽やかな朝は久し ぶりですね。
 
宮坂:  そうですね。
 
白鳥:  この真っ正面が?
 
宮坂:  美ヶ原です。
白鳥:  美ヶ原、有名なね。そしてビーナスラインで、観光で有名なと ころですね。
 
宮坂:  此処ずーっとビーナスラインが通っていまして、霧ヶ峰まで通 っているんです。
 
白鳥:  後ろが北アルプスの山々。
 
宮坂:  そうです。アルプスですね。
 
白鳥:  あれが松本市の街並?
宮坂:  そうです。松本の街並みがね。あれからずーっと右の方に見え る。
 
白鳥:  なんか信州の真ん中?
 
宮坂:  ええ。まさに松本は信州の真ん中ですね。
 
白鳥:  ここは何という所ですか?
 
宮坂:  ここは松本市中山の、まあ昔の埴原の牧があった牧場の、
 
白鳥:  埴原の牧ね。
 
宮坂:  ええ。信州には十六牧場がありますからね。その中の代表的な牧場の一つでしょ う。
 
白鳥:  そうですか。牧というのは昔から由緒ある馬の飼育地という。
 
宮坂:  そうです。
 
白鳥:  歴史的な牧なんですね。
 
宮坂:  歴史的な牧ですね。この辺一帯がね。これが縄文中期の遺跡が まだ発掘が完全にされていないですけれどもね。三千五百年位 前から人が此処に住み着いていた所なんですよ。
 
白鳥:  なんかそういうのを分かるような感じがしますね。
 
宮坂:  ちょうどこの山の傾斜が―昔は「野」と言ったんですね。「原」というのは平ら な所で、「野」というのが傾斜地なものですから、野に人がみんな住んだんです。
 
白鳥:  なるほど。先生が信州大学教授というお仕事で、お家から街へ行く途中なんです ね。
 
宮坂:  そうなんです。この道を通りまして、毎朝通いました、三十年間ね。
 
白鳥:  そうですか。
 
宮坂:  私は此処をフランスのプロバンスに喩えまして、「信州のプロバンス」と言って いるんですよ。
 
白鳥:  句集の『山の牧』第六句集ですか。
 
宮坂:  第六句集です。
 
白鳥:  その中にこの地できっとうまれたんだろうと思われる句がありましたね。
 
     落蝉の仰向くは空深きゆえ
 
宮坂:  秋になりますと、空はほんとに真っ青になりましてね。秋迎えると蝉が砂にまみ れて、もう役目が終わって亡くなるんですけどね。それはほんとに蝉の一生、最 期なんですけれどもね。それはほんとに信州のこの空の青さというのが最期を飾 るような、そんな中で蝉がいのちを終わるという、ある自然の摂理のようなこと を俳句で言えたらいいなあ、というふうに思ったんですけどね。
 
白鳥:  先生は常に「地の貌(かお)」ということを言っていらっしゃるから、
 
宮坂:  そうです。
 
白鳥:  なるほど。土地の姿、
 
宮坂:  「地貌」という、地の貌を言っていますものですからね。
白鳥:  第七句集まで句の実作も多いし、それから評論もたくさん書い ていらっしゃるんですが、今日は正岡子規(1867-1902)につい てお話して頂きたいと思って参りましたが、よろしくどうぞ。
 
宮坂:  はい。分かりました。
 

 
ナレーター: 大学で国文学を専攻された宮坂さんは、次第に文学者の死生観について関心を持 つようになったとのこと。今日はその視点からお話を伺います。
 

 
白鳥:  正岡子規という人は、明治に元号(げんごう)が変わる前の年の生まれですね。
 
宮坂:  そうなんです。一年前ですね。
白鳥:  伊予松山の人と聞いておるんですが。
 
宮坂:  そうですね。今から百一年前に、数えで言いますと三十六歳で 亡くなっているわけですね、明治三十五年に。
 
白鳥:  ほとんど明治に変わってその年号を生きて、しかも三十代半ば で若くして死んでいるという。
宮坂:  そうですね。文字通り明治という日本が近代を迎える申し子の ような人物だと言っていいでしょうね。
 
白鳥:  若くして亡くなった割には、この『子規全集』を見ていました ら、これは二十五巻ありますね。
 
宮坂:  そうなんですよ、二十五巻ね。
 
白鳥:  ヒョッと持ち出したら、一巻が七百頁もあるんですね。
 
宮坂:  実際には二十二巻に、別巻が回想やそういうのが三巻付いて二十五巻ですけどね。 ほんとに一巻が七百頁位のもので、すごい量なんですよね。
 
白鳥:  私どもが日本文学史の授業の中で聞いているのは、「子規は、俳句或いは短歌を 再生させ改革していった若き天才」という形で知っておりますけれども、俳句も 歌も量が多いですよね。
 
宮坂:  そうなんですよ。俳句は生涯で二万三千六百だったかな。小林一茶(いっさ)(江戸後期の 俳人:1763-1827)も二万位作っていますけれどもね。
 
白鳥:  でもあの人は随分長生きされた方ですからね。
 
宮坂:  そうです。長生きですからね。その中でこの子規の二万三千六百というのはすご い数ですね。
 
白鳥:  芭蕉(1644-1694)なんかいくつくらい?
 
宮坂:  芭蕉は九百七、八十ですね。蕪村(ぶそん)が千七百ぐらいですかな。ですから子規の量と いうのは、三十六歳という時に二万三千六百というのは圧倒的な量ですよね。
 
白鳥:  そしてその他にも漢詩も随分書いているそうですね。
 
宮坂:  そうです。子規は十代から二十代にかけまして、漢詩をたくさん作っているんで す。今分かるだけで、六百二十二編の漢詩がありますからね。だから漢文の素養 というのが、明治の人ですから子規の場合はベースになっていましてね。特に子 規はお祖父さん、つまり母方のお父さんの大原観山(かんざん)という方が、この人は松山の 藩校の漢学の先生ですから、お祖父さんに徹底的に漢詩の教養を植え付けられた と言いますかね。
 
白鳥:  なんか明治文化人の質の高さをすごく感じますね。
 
宮坂:  そうですよ。漢詩がベースにありまして、評論も書く、小説も書く。そして日記 が面白い。さらに書簡にしましても、全集で二巻分ぐらい書簡がありますからね。 書簡が千百通あまり今分かっていますね。その書簡が面白いで すね。
 
白鳥:  なるほど。そして日本新聞社の社員という。
 
宮坂:  そうそう。
 
白鳥:  ジャーナリストでもあったわけですね。
 
宮坂:  そうなんです。日本新聞に記事を書くという、そのことが子規の生き甲斐にまた なってきますからね。
 
白鳥:  なるほどね。まあそういう子規について先生はいくつも評論をお書きになってい らっしゃるけれども、そういった子規への関心というのはいつ頃からですか。
 
宮坂:  僕は、俳句を始めましたのは中学の頃ですから、もう五十年位前になるんです。 俳句を始めてすぐ子規ではなくて、現代の俳人、例えば加藤楸邨(しゅうそん)とか、山口誓子(せいし) に興味がありましたけれども、やはり原点は子規なんですね。楸邨にしても誓子 にしても、「子規が大事だ」ということをいわれましたのでね。それで僕は高等 学校へ入りました時から子規に興味を持ちました。そうしますと、子規にまず出 てくるのは、「子規は一日として死を意識しない日はなかった」という印象なん ですよ。だから子規が、「正岡子規」というペンネームで俳句を作り出してから 亡くなるまで十三年間、ほんとに一日も死を考えない日はなかった。そういうこ とを知りましたね。あれは昭和四十年頃でしたか、東京大学の宗教学者で岸本英 夫先生の『死を見つめる心』という本を読みました。岸本先生がアメリカで黒色(こくしょく) 腫(しゅ)という癌にかかりまして、そして「後(あと)半年しか余命がない」ということを言わ れまして、それで岸本先生はそれから以後、「どういう形で生きたらいいか」と いうことを、万全の策を講ずるんです。ところが治療は大変良かったのか、それ から十年生きられた。ほんとに毎日毎日臨終を迎えるような気持ちで、「明日は ダメだ、明日はダメだ」と思いながら十年生きられた。そういう感動的に書かれ た本を、私は拝見しまして、「なるほどな、子規の思いというのもこういうこと なんだなあ」というふうに、岸本先生のその本から教わって、子規の心情がもっ と実感として理解出来た。その時からですね、子規を。ですから昭和四十年から ですね、子規をほんとに本格的にやなければいけないなあと思いましたのは。
 
白鳥:  そうですか。先生が信州大学の先生でいらっしゃる。「医学部の先生だ」と伺っ て、どういうことかなあとちょっと違和感があったんです。なるほど、一種の死 生観という形で、現在医療が抱えている大きな問題ですから、そういう形で医学 部と結び付いていらっしゃる。
 
宮坂:  私も医療短大(信州大学医療技術短期大学)というところに三十年位いまして、 そして最終的に医学部へ移ったんです。その中でずっと一貫してやってきました のは、日本人の死生観と言いますか、それをどう考えたか。死生観を考えますと、 芭蕉とか、子規とか、高見順(たかみじゅん)(1907-1965)とか、最近では江国滋(えくにしげる)さんとか、そう いう文学者は忠実に自分の死と向かい合った記録を残しているんですよ。それは 大変医療面から言いますと参考になる。
 
白鳥:  子規は、死そのものについてはどうふうに語っているんですか。
 
宮坂:  子規に「死後」という文章があるんですよ。これは亡くなる一年前の明治三十四 年の『ほととぎす』の二月号に書いた文章でして、自分が亡くなったら、どうい うように葬ってもらいたいか。それはきわめてユーモラスに書いてあるんですね。
 
白鳥:  ほぉー。ユーモラスに。
 
宮坂:  大変漫画チック、漫画というよりは民話ふうに、他人事のように書いているんで すよ。それはいつ亡くなるかということが、もう死の一年前ですから、現実問題 なんですけれどね。例えば、「棺桶はきわめてゆったりしたのがいい」というん ですよ。松山あたりでは何か棺桶の隙間へおが屑を嚢(ふくろ)へ入れて詰める。東京で は樒(しきみ)という葉っぱを入れますでしょう。そうしますと、「死人の頬に樒(しきみ)の葉っ ぱが触れたりして気の毒だ」というんです。「だからああいうおが屑とか樒(しきみ)の 葉っぱはよしてほしい」と言うんですよ。「火葬だと蒸(む)し焼きにされる。蒸し焼 きにされた後わずかな白骨になって自分が消えてしまうというのは嫌だなあ」と いうんですよ。「水葬はどうか。魚が来てチクチク突かれるのは気持ちが悪い」 というんです。「野ざらしだと夜になってオオカミが来ましてガツガツ食い付く のが痛そうだ」というんですよ。それからまあいろいろ考えていますね。「日ざ らしにしてミイラにしたらどうかというと、あれはちょっと触るとガサッと崩れ る。あの崩れる感覚が嫌だ」というんですよ。そうしますと、何がいいかと言い ますと、子規は結局、「小さい早桶(はやおけ)というか、即製の棺桶に入れて、人夫が二人、 前と後ろへ付きまして、そして友だち二人位付いて、ある寒村―貧しい村の貧し いお寺で、空き地があったらそこへ葬って、そして和尚さん一人が簡単なお経を あげてもらう。だからお墓と言っても手頃な石を一つ載せて貰えばいい。そうい うお墓へ一晩泊まって、そしてほんとに簡単でいいから供養をして、それで終わ りにして貰って結構だ」と。
 
白鳥:  はぁー。それが死の一年前の文章なんですか。もう痛みに悶(もだ)えている頃でしょう。
 
宮坂:  そうです。痛みに悶えている頃ですね。「そういうことを自分で想像することに よって、死の苦しみというものが消えていく」というんです。だから他人事のよ うに民話ふうに書いていますけれど、そこのところがやっぱり子規の「死後」な んて文章を読まされると、読者にしてみれば、なんかグッと胸詰まる思いですよ。 ところがそれをほんとにお話ふうに、民話ふうに書いて、相手を思う気持ちとい うか、これは子規は一生貫いていますね、優しさ。今、我々が子規の文章を読み ましても、感動するのはそういう点でしょうね。常に相手を思う。
 
白鳥:  なるほどね。
 
宮坂:  病で苦しくて苦しくて阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中に居れば、相手を思うなんていうことを我々 出来ませんからね。
 
白鳥:  そうですよね。
 
宮坂:  ところが絶えず常に相手の意識があるんですね。
 
白鳥:  ちょっと話が戻りますが、正岡子規のいわば病歴というんですか、子規の年譜を 見ていましたら、もう随分早い段階で、東京に出て来て、大学―旧制一校に入学 して野球に熱中していた。もう次の年ぐらいに最初の喀血をしているでしょう。
 
宮坂:  そうなんです。二十三歳でしたね。
 
白鳥:  明治二十一年夏、鎌倉へ行っている時、小さな喀血をしていますね。
 
宮坂:  江ノ島へ行きまして喀血した。その時には子規は、喀血したという意識があまり なかったんですね。翌年の二十三歳の時に、一高の法科一年の時ですが、五月九 日に喀血しました。そして五勺と言いますから、コップ半分ぐらいの喀血が一週 間ぐらい続くんですよ。その五月九日の晩に、「鳴いて血を吐く子規(ほととぎす)」と、昔 から松山なんかでも言われていますから、ほんとに血を吐くという。「子供が居 ない、子供がいない」と言って、子供を捜すわけです。カッコーやなんかのとこ ろへみんな托卵(たくらん)しますからね。それで血を吐いた晩に、四、五十句、俳句を作っ たというんですよ、喀血の記念に。
 
白鳥:  それもまたすごいですね。
 
宮坂:  面白いですね。それで「子規(ほととぎす)」という、今言いました血を吐くということで、 「子規(しき)」というペンネームを作りましたでしょう。
 
白鳥:  「子規(しき)」というペンネームそのものが「子規(ホトトギス)」なんですね。
 
宮坂:  ええ。「子規(ホトトギス)」ですよ。今いろいろ時の鳥と書いても「時鳥(ホトトギス)」ですし、「子規(しき)」 という字体も「ホトトギス」ですけどね。
白鳥:  血を吐いたところから号として。
 
宮坂:  そうなんですよ。夏目漱石が心配しましてね。夏目漱石は一高 の同級生ですね。近くの山崎というお医者さんに診て貰ったら、 「これは結核だ」と言うんですよ。それから結核というのが子 規の命取りの病になるんですね。ですから結核と連れ添いなが ら子規はやっている、十三年間生きている。
 
白鳥:  それから二年位経ったところで、彼は大学を辞めて、日本新聞社の記者として生 きていこうと、いわば人生の大転換を図りますよね。
 
宮坂:  はい。
 
白鳥:  結核という病気の持つ運命性みたいなものが、その頃明治の人たちにとって分か っていたと思うんだけれども、それでも敢えてまた人生の転機を自ら作っていく。 その怒(ど)迫力にちょっと驚いたんです。
 
宮坂:  ええ。これは統計的に見ましても、明治三十年来から昭和二十五年位まで死亡率 が一位ですよ。
 
白鳥:  そうでしたよね。
 
宮坂:  それから平均寿命も大体大正末年頃まで、日本人が四十二歳と言われていますか らね。そういうような中で日本新聞社へ入って、今度は新聞記者として活躍する わけですよね。
 
白鳥:  しかも日清(にっしん)戦争があった明治二十七、八年の時には手を挙げて、「従軍記者にし てくれ」というのでしょう。
 
宮坂:  そうなんです。まあ行きたかったんでしょうね。けれでも新聞社としましては、 子規が結核という病を持っているということを知っていますから、陸羯南(くがかつなん)という 社長は子規を見込んで採ったわけですけど、「行っちゃいけない」と、それは押 さえますよ。ところが無理をして従軍したんですよ。日清(にっしん)戦争は明治二十七年、 二十八年ですけれども、二十八年に従軍して戦地へ行きましてね。たまたま軍医 部長だった森鴎外(おうがい)と戦地で会って、俳句の話をするだけで、結局一行(いちぎょう)の報道も せず、戻って来る。子規にしてみれば残念だったでしょうね。
 
白鳥:  でもその従軍がまた病状を悪化させましたでしょう。
 
宮坂:  無理をしたんですよね。ですから帰って来る時に、博多の洋上で、甲板にいる時 にバアッと喀血しましてね。神戸病院に担ぎ込まれまして二ヶ月、さらに二ヶ月 後に須磨で一ヶ月、そしてほぼ治りましたから、今度は松山に。たまたま友だち の漱石(そうせき)が松山中学の先生をしていた。愚陀仏(ぐだぶつ)庵というその一階へ入った。二階へ 漱石が居るので、毎日五十二日間俳句会をやっていたと言うんですよ。
 
白鳥:  ますますすごい人ですね。
 
宮坂:  すごい人です。漱石は二階に居ますから、俳句会に付き合わされる。松山小学校 の先生たちが中心の俳句会ですけどね。
 
白鳥:  松山から東京へ帰って来る頃から、腰が痛み始めていたという。
 
宮坂:  治りまして、三津浜というところから大阪へ出て、大阪でリュウマチかなあと手 当をするんですけどね。左の腰が痛くなって歩行困難になる。しかし無理をして 好きな東大寺から法隆寺を、奈良を回るんですよ。
 
白鳥:  「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の法隆寺ですね。
 
宮坂:  そうです。その時ですね。それで東京へ帰ってきた。それがもう結核が脊椎カリ エスになっていたんですね。
 
白鳥:  後半期ですね。
 
宮坂:  そうなんです。子規の場合には、特に第五番目の腰の脊椎が、そこが病巣でして ね。それを診て貰うんですけれども、東京へ帰って来て間もなく歩行困難になる。 あれは明治三十年という年ですね。子規にとっては、一番それが苦しい年なんで すよね。再度東京大学の医学部の佐藤病院長に膿(うみ)の穴を―膿を取るための穴を再 度手術をして開けてもらう。けれども、うまくいかなかったんですね。失敗した んです。絶えずジブジブジブジブ膿が出まして、穴が塞がらないという状態にな ったんですね。毎日二時間位かけて包帯の取り替えで、三回ぐらい大声をあげて 泣き叫びながら包帯を取り替えをするというんですね。そういう中で子規は東京 へ来てから上根岸というところへ、いわゆる子規庵に住みますでしょう。そこへ お母さんと妹を呼びますでしょう。お父さんは四十位で早く、子規が六歳の時に 亡くなっていますからね。そこの子規庵で句会を始める。更には文章を書く。 「山会(やまかい)」という。子規は、文章には、「山が必要だ」というんで「山会」という 名前を付けまして写生文を書く。
 
白鳥:  いわゆる写生という、彼の主張した。
 
宮坂:  これは「言文(げんぶん)一致運動」を世の中に広める。子規の実践的な運動として、私は大 変大事だと思っていますね。ですから短歌、俳句の他にそういう写生文という文 章を書くわけですよ。そういう中で彼は絵も描く。「写生」ということは日本新 聞が雇った挿絵画家・中村不折(ふせつ)から写生ということを教わるわけですね。
 
白鳥:  「写生」というのは絵の方の写生から入ってきて、それを彼が文学的な一つの方 法論として。
 
宮坂:  そういうことですね。写生ということが大変子規にとっても大事なことになるん ですよ。大事な理論になっていくんですね。理論というよりも生きるバックボー ンになっていた、ということを感じますけどね。
 
白鳥:  そして三十四年になってくると、カリエスは相当進行してきますね。
 
宮坂:  そうです。もう脊椎カリエスが進行しまして、身体が蜂の巣の ようになりまして。特に左のお腹から左の足が動かない。「こ れをグッと左の足を伸ばすことが出来たらほんとにいいんだが」 という。「ああ、かったるい、かったるい」なんて言いながら、 「左の足を伸ばしたい。そんなことが出来たらほんとに幸せだ」 ということを言っていますね。
 
白鳥:  それを日本新聞に「墨汁一滴」という形で書いているんですね。
 
宮坂:  書いています。亡くなる一年前の明治三十四年連載されますね。
 
白鳥:  一つ読んでみましょうか。
 
     この頃は左の肺の内でブツブツブツブツといふ音が絶えず聞える。
     「怫々々々」と不平を鳴らして居るのであらうか。
     あるひは「仏々々々」と念仏を唱ヘて居るのであらうか。
     あるひは「物々々々」と唯物説でも主張して居るのであらうか。
 
これも気のきいた。さっきの自分の肺の音をしていることを客 観化してといいますか、ユーモラスに書いていますね。
 
宮坂:  ユーモラスですね。なかなかそういう一つの言葉の音感みたい なこと。視覚的な感じのおもしろさと同時に音感的なセンスが、 子規はあるんですね。
 
白鳥:  立心偏の「怫(ぶつ)」というのは、念のため漢和辞典を引いてみまし たら、「怒ること。ムッと腹を立てる。ブッと怒り出す」とか、そんなふうに書 いてありましたけれども。
 
宮坂:  それからもう一つそういう苦しい中ですから、安楽死を勿論願うんでしょうね。 その話も同じように出てきますね。日本新聞「墨汁一滴」の中に。「夢に見た」 と言うんですね。「動物の中に死期(しき)を迎えた動物がいる。親切なウサギが一匹出 てきまして、そのウサギが手を、亡くなろうとする病に苦しんでいる動物の口へ 当てる。その親切なウサギが手を当てるとその動物が静かに眠る」と言うんです ね。「また何か苦しんでいる動物がいると、またそういうことをウサギが出てき てやる。自分はそういうウサギを夕べ夢に見て、ウサギのことが忘れられない」 というんです。
 
白鳥:  ちょっと痛々しさがありますね。
 
宮坂:  痛々しさがね。もうほんとに易しい書き方をしていますけれど も、何か気持ちに残るというか、安楽死を願うというか。です から子規は、「自分を殺してくれる者があったらもう殺して欲 しい」と。ほんとにそういう苦しみの中では何にも出来ない、 身動きも出来ない。ですからいろいろ思うわけですよ。お母さ ん(八重)が電報を打ちに行って、妹の律さんがお風呂へ行っ た。子規はその留守に自殺をしようとしたんですよ。小刀、そ れから錐の絵が描いてありますね。これは「仰臥漫録」にあり ますね。
 
白鳥:  確か『仰臥漫録』の一の一番後ろのところに書いてありました ね。
 
宮坂:  最近発見されましたけれども。『仰臥漫録』は二分冊になって いる。一の終わりのところに書いてありますね。 「錐でこの胸を刺しても亡くならないだろう。 小刀で喉をやっても、それも必ずしも死にきれ ない。隣の部屋へ行けばカミソリがあるから、 そのカミソリを持ってきたいけれども、そこま で這って行くことが出来ない」。そういうこと を言っていますね。
 
白鳥:  あそこをちょうど、私は通勤の途中でそれを読んでいたんですけど、とても堪ら なくて頁を閉じた思いがありますが。
 
宮坂:  そうでしょうね。そういう中でほんとに彼の一番の親友と言えば夏目漱石ですね。 漱石に、「もう僕はダメになった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ」と いう手紙を出しまして、その時漱石は松山から熊本の第五高等学校の先生に移り、 そして明治の文部省第一号の留学生としてイギリスへ留学している。その漱石の 元へ、「悪いから、自分が生きているうちにもう一本だけヨーロッパの便りが欲 しい。自分がどれくらいこの明治の人間として西洋というものに憧れたか知らな い。君知っているだろう。一本欲しい」ということを漱石に書いている手紙があ りますね。
 
白鳥:  また先ほどの「墨汁一滴」に続いて、「病牀(びょうしょう)六尺」というのを日本新聞に連載 していますね。これは更に病が進行したその後の言えば続編ですよね。
 
宮坂:  そうですね。それが一番最後ですね。先ほど言った「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」というのはほん とは日記風なメモですからね。
 
白鳥:  自分のメモとして。
 
宮坂:  そうです。それはあまり公刊するつもりはなかったんですね。三十四年、三十五 年かけて一年位書いていましたね。それから晩年が「病牀(びょうしょう)六尺」ですね。それ はもう亡くなる二日前まで書いて新聞「日本」に載せていますからね。その文章 というのはほんとに痛烈ですよね、「誰かこの苦を助けてくれる者はあるまいか。 誰かこの苦を助けてくれる者はあるまいか」とかね。それから、「この日一日を どうやって暮らしたらいいか」とかね。もうそういう絶叫がありますよ。特に明 治三十五年亡くなる最後の年は、元旦早々、「馬鹿野郎、糞野郎」と実に激烈な 言葉を痛苦に耐えて吐くんですね。そのころお弟子から『碧巌録』を、
 
白鳥:  禅宗の本ですね。
 
宮坂:  そうです。『無門関(むもんかん)』『碧巌録(へきがんろく)』『臨済録(りんざいろく)』とか、大変有名な禅宗の難しい本で すよね。それを弟子の赤木格堂(かくどう)からお正月に、「読め」と渡されましてね。子規 は全部読んだかどうか分かりませんけれども、それを「読んだ」と書いたとあり ますからね。ところがその頃は一日麻痺剤―モルヒネを四回打っている。それで 人が前にいるだけで圧迫感を感じる。それから天井や襖でもすごい圧迫感を感じ まして、自分がなんか大海に、空中に浮いているような感じだというんですよ。 ですから寝返りも打てませんので、力綱というのを鴨居から麻縄を吊りまして、 それに掴まりながら左の腰を浮かすようにして、いつもいる。そういう状態です よ。勿論口述筆記ですね。あの二年間は、妹・律に口述をしながら、みんなこの 『病牀六尺』にしても口述筆記した。
 
白鳥:  『病牀六尺』の六月二日の項に、こんな言葉を残していますね。
 
     余は今迄禅宗の所謂(いわゆる)悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は
     如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、
     悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
 
宮坂:  有名な子規の残した文句ですね。すごい文句ですよね。
 
白鳥:  今、先生のお話を聞くと、口述筆記してまで文字に残そうとした。或いは新聞に 載せようとした。これはなんなんですか。
 
宮坂:  そうですね。もうほんとに書くことによって、自分の病の苦痛を乗り越えようと した。と同時に、自分で書くことによって、自分の今の状態、例えば死の意識と いうものを通して、自分を突き詰めようとした。そういうことなんでしょうね。 ですから今おっしゃったような「悟りとは平気で生きていることなんだ」という あの世のことではなく、生きることを言っている。それと同時に、同じ四国の高 知県出身の有名な中江兆民(なかえちょうみん)が喉頭癌で後余命一年半だということで、『一年有半(ゆうはん)』 という本を出すんです。それを読んで子規は、「兆民は諦めを知っているけれど も、ほんとに病気を楽しむといふことを知らない」と言っていますね。
 
白鳥:  「病気を楽しむ」。
 
宮坂:  「病気を楽しむ。これが大事だ」というんですよ。それにしても「病気を楽しむ」 とか、「悟りとは平気で生きることだ」というのはすごい文句ですね。
 
白鳥:  そうですね。
 
宮坂:  勿論病気を楽しむという中で、亡くなる年には、果物を絵に描いたり、野菜を描 いたり、草花を描いたり、玩具を描いたり、そういう絵を描く。それから絵の本 を見る。それも楽しみですね。同時に描くこと書くことによって死を受け入れる、 と言いますか、この点は『病牀六尺』の中にありますね。「毎日なにか錯乱状態 で苦しんでいる、絶叫し、号泣し、亡くなったらどんなに楽だらう。殺してくれ る者があったら殺して欲しい」と。「特に夜わづかに眠気がさしてきて寝るのは いいけれども、翌朝寝起きが自分は一番苦しいんだ」と書きまして、「誰かこの 苦を助けてくれる者があるまいか。誰かこの苦を助けてくれる者はあるまいか」 と繰り返し書いていますよね。
 
白鳥:  リフレィン(refrain:詩や及び楽曲の中で、各節の終わりの部分を二度以上繰り 返すこと)していますね。
 
宮坂:  そうなんです。二回書いていますよね。僕は、それが「くどい」と思ったわけじ ゃありませんけど、「どうして二回書いたのかな」と。もう泣き叫ぶように訴え るように書いていますでしょう。ところが二回書くということは、一回だと痛烈 なんですけど、二回だとわずかにそれを読んだ人に、救いが生まれる。
 
白鳥:  あ、そうかも知れませんね。
 
宮坂:  ちょっと遊びが出るんじゃないですか。読者にしてみれば、新聞に、朝、「誰か 助けてくれる者はあるまいか」。この言葉を聞いたら暗くなりますよ。それを二 回あるがために、なんか読者もホッとするような思いがあるんじゃないですか、 リフレィンというのは。
 
白鳥:  その前の日にも、「如何にして日を暮らすべきか。如何にして日を暮らすべき か」。これもリフレィンしていますね。
 
宮坂:  そうなんですよ。さっきの「怫々々々」も同じですね。これも二回繰り返すとい う。だからそういう二回繰り返しながら、一方では自分に言い聞かせているんで しょうね。病を自分で受け入れている。そして病を受け入れるには自分自身にも わずかな遊びがないとなかなか自分が納得出来ない。そういう点がありますね。 宮沢賢治が病気に関して教え子に語ったことが『賢治随聞(けんじずいもん)』という本で知ったん です。こういうことを言っているんですよ。「病気というものは喜ぶことではな いけれども、病気のために健康な時にも増していい精神を持ったり、いい肉体を 用いたりするということがあるんだ」と。僕は、これもすごいなあと思いました ね。つまり「人間は病むことによって初めて深くものを見詰め、本当の人間にな る」ということを賢治は言おうとしたんでしょうね。子規はそれを日常の中で発 見していくんです、病の意味を。ものの根元に触れながら。日常における意味の 発見ということにも、写生ということが関わっていると思うんです。写生論がね。
 
白鳥:  あれは単なる文学の方法論ではないんですか。
 
宮坂:  私はそうじゃないと思いますよ。写生ということには、態度と方法というか、「実 際のありのままを、ありのままに写す」と言っていますね。子規にとって、「あ りのままを」というのは病の日常ですよ。「ありのままに」というのは、つまり この病む者の心情を吐露(とろ)する、ということですよ。そういう中で、これは大変な 問題作なんですが、
 
     鶏頭(けいとう)の十四五本もありぬべし
 
という。
 
白鳥:  有名な句がありますね。
 
宮坂:  有名な句がね。
 
白鳥:  そしてまた随分論争を招いた句ですね。
 
宮坂:  そうです。論争を招いた。これは明治三十三年九月九日に子規庵で開いた句会で すね。子規も具合が悪くて、後翌月の十月十四日の子規庵の句会が、それが最後 ですからね。九月九日は二回句会をやっています。第一回の句会では、一題一句 ずつで、十題出したけれども、子規は具合悪くて出せなかった。二回目に「鶏頭」 を出して、一人十句出すんですね。そこで子規は九句出していますけど、その九 句の中に出てくるんですね。その鶏頭の句はみんな、例えば「鶏頭にバッタが留 まっている」とか、「夕日が当たっている」とか、「田舎屋の低い塀と鶏頭」だ とか、いろいろ取り合わせの句が多いんです。その中でこの句は、一物(いちぶつ)仕立―一 つ鶏頭をグッと、鶏頭だけ詠んでいますでしょう。
 
白鳥:      鶏頭の十四五本もありぬべし
 
宮坂:  そうなんですよ。
 
白鳥:  それだけですね。
 
宮坂:  そうです。僕は、「ありぬべし」が一番問題だろうなあと思う。異様な感じがす るじゃないですか。
 
白鳥:  言い切っている。
 
宮坂:  言い切っていますよね。なんか興奮している感じがする。自信に満ちているとも とれますしね。そうかと言ってなんか捨て鉢ともちょっととれるような感じもし ますね。この鶏頭は頭の大きい鶏頭ではなくて、槍鶏頭という、こういう鶏頭で すからね。
白鳥:  小さい、昔風の、
 
宮坂:  そうなんですね。だから「十四五本もありぬべし」というのは、 「今、庭に鶏頭があるだろうなあ、あるけれども、ただ庭にあ るだけではあるんじゃない」というんですよ。つまり「自分の、 俺のいのちと結び付いてこそ初めて鶏頭があるんだ。その鶏頭 は十四五本という形であるんだ」こういったんでしょうね。それは言われてみる と、「そういう病の中で初めて、子規はその草花の命を掴んだことになるだろう」 と。たまたま前の年、明治三十二年、一年前に子規の根岸の庭を何人かでもって 写生文に書いているんです。その中に碧梧桐(へきごどう)が書いた文章の中に、
 
白鳥:  河東(かわひがし)碧梧桐(へきごどう)ですね。
 
宮坂:  河東(かわひがし)碧梧桐(へきごどう)が、「我等眷族十四五本が」という、鶏頭が十四五本あるという文 章があるんですよ。「自分等の眷族十四五本が、一処に、半坪程の中に育てられ たが」という文章があるんです。だからみんな知っているんですね。だからその 十四五本というのは、我ら鶏頭一族みんな元気だ、と。自分たち子規一門のこと を象徴しているようにもとれますよね。
 
白鳥:  なるほど。
 
宮坂:  ただ鶏頭はいろいろ解釈が出てきていいんでしょうね。
 
白鳥:  なるほどね。
 
宮坂:  だから鶏頭というのは一番最後の糸瓜と同じで子規の分身なんですよ。
 
白鳥:  なるほど。
 
宮坂:  内面をそれにいろいろぶっつけて託すことができる我が分身の花だ、という意識 でしょうね。鶏頭について、子規が晩年の明治三十五年に書いた絵ですけどね。 「昨日床屋ノ持テ来テクレタ盆栽」と書いて、鶏頭の絵がありましてね。
 
白鳥:  あの人は非常に絵もうまいですね。
 
宮坂:  上手いですね。これは割と十四五本よりも一、二本多いけれども。
 
白鳥:  そうですね。とんがった昔風の鶏頭ですね。 
 
宮坂:  そうですね。やはり子規は、「日常の平淡の中に至味(しみ)を寓(ぐう)するのが写生の極致だ」 と。
 
白鳥:  しみ?
 
宮坂:  ええ。「平淡」─易しい中に。「至味」―味が至ると書く。「至 味を寓するのが写生の極致だ」と言っていますね。平淡の中に おける最高の味とは何なのか、と思いますと、私は絵を見てい まして、子規が水彩画を始めて試作品として夏目漱石に送った 「あずま菊」の絵があるんですね。
 
白鳥:  これは比較的初期の?
 
宮坂:  初期の絵ですね。「自分が絵を描き始めたから親友であるお前にやる」というん ですよね。
 
白鳥:  「漱石寄」―漱石に寄す、と書いてありますね。
 
宮坂:  そうなんです。これがよく見ますと、
     コレハ萎(しぼ)ミカケタ処ト思ヒタマヘ 画ガマズイノハ病人
     ダカラト思ヒタマヘ 嘘ダト思ハゞ肱(ひじ)ツイテカイテ見玉 ヘ
 
とこうありましてね。その時、漱石が熊本にいますから、早く 東京へ来るのを待っている、というんですね。
 
     アズマ菊イケテ置キケリ火ノ国ニ住ミ計ル君ノ帰リクルカナ
 
という。こういう絵を漱石に送りましてね。ところが漱石は、子規が亡くなって から十年経って、明治四十四年ですけど、この絵を出して見まして、「うーん、 この絵は一言で言ったら、拙(せつ)だ」というんです。
 
白鳥:  せつ?拙(つたな)い。
 
宮坂:  「拙(つたな)い。けれども、自分は拙なるものに大変興味がある。惹かれる」というんで すよ。これは四十四年ですから、修善寺の大患という、その後ですから、漱石自 身も死生観についてガラッと変わっている。この絵は如何にも漱石は「淋しい」 と言っているんです。「淋しさというものじゃなくて、拙という思いを雄大に発 揮して、淋しさを超えるような世界を描いてくれたら、うんとうれしかった」と 言っているんですよ。だから私も、漱石が考えた拙というのは、「なるほどな、 淋しいという感情、それを超えた向こうにあるもの、それが拙だ」と。そうしま すと、先ほど「平淡の中に至味を寓する」と言った「至味」というのは、「漱石 のいう拙に繋がってくる。淋しさのさらに向こうにあるもの。それを一つ掴むこ とが出来たら、それは最高じゃないか」と。これも漱石の気持ちであると同時に 子規の思いなんですよね。それを一番の友人の漱石は、そう子規を評しているわ けですね。
 
白鳥:  なるほど。
 
宮坂:  「日常生活では、子規という男は、拙とは一番遠い、実に切れ者だ」というんで す。
 
白鳥:  そうですよね。
 
宮坂:  そういうことを漱石は言っていましてね。絵にはその拙が出てくる。「これが大 事だ」と言うんですよ。
 
白鳥:  さすが親友漱石ですね。
 
宮坂:  そうですね。だから鶏頭の句にしても、僕は、「十四五本もありぬべし」という のは、やはり大いなる拙というか、それに片足をかけていますよ。
 
白鳥:  なるほど。
 
宮坂:  そういう感じがしますね。それが最高に集約されたのが、僕は糸瓜三句だろうと 思うんです、最期の。
 
白鳥:  ついに彼は亡くなりますね。明治三十五年九月十九日午前一時。
 
宮坂:  そうです。「亡くなる十二時間位前」と言いますから、十八日の十一時ですね。 その時にいわゆる最期の「絶筆三句」と言われる糸瓜の句を子 規は残すんですね。その前に子規のお母さんが、息子が亡くな るだろうと。人寄りをしなければいけないからと言って、畳は 替えることが出来ない。唐紙を綺麗にしましてね、唐紙の切り 屑があるんですよ。それを画板のところへ貼りまして、妹・律 さんが手を持って、そして碧梧桐が墨を磨りながら、書くんで すけどね。この原本は国会図書館にありまして、これは複製な んですけれども、これをご覧頂きますと、「糸瓜咲て痰のつま りし」までを書いて、
 
白鳥:  そこで墨がかすれていますね。
 
宮坂:  かすれています。下五(しもご)に何が出るのかなあと待っていたところが、「佛かな」と 来ましたので、もう碧梧桐も「グッと胸に迫る思いがした」と。引き続きまして、 痰を取りながら、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と書き、また今度はしばらく してから、四五分してから、「をとゝひの糸瓜の水も」今度は一番上ですね、「取 らざりき」と。一昨日(おととい)が陰暦の十五夜でして、その十五夜の晩に糸瓜水を取ると いうのが一番効くんだ、という、松山辺りでもそう言われていたんですね。
 
白鳥:  糸瓜水、痰切りとか、咳止めにそのころ使っていましたね。
 
宮坂:  そうです。この三句を残すわけですけどね。これについては、子規は一年位前に 病室の日除けのために棚を作りますでしょう。
 
白鳥:  六畳の病床があった前の南側のところですね。
 
宮坂:  そうなんですね。そこに糸瓜を吊しますね。その時糸瓜の句を実は詠んでいるん です。つまり『仰臥漫録』の中に、
 
     糸瓜サヘ仏ニナルゾ後ルゝナ
 
糸瓜も仏になる、というんですよ。その前書きとして、「草木 国土悉皆成仏」という、草や木がみんな成仏する、という前書 きがあって、糸瓜さえ仏になるぞ、お前後るるな、と。そうい う句がありましてね。もう一つ夕顔も子規は好きなものですか ら、
 
     成佛ヤ夕顔ノ顔ヘチマノ屁
 
というんです。剽軽(ひょうきん)な句ですね。糸瓜は臭いですからね。
 
白鳥:  そうですよね。
 
宮坂:  夕顔は昔から源氏以来歌人好みだ。なんかちょっと貴族的な感じがする。けれど も、「糸瓜は下品(げぼん)だけれども、俺は糸瓜だ」と、こうなりましてね。だからかな りこの糸瓜は鶏頭と同じように考えていたんですよ、最期に。よく見ますと、ま さに奈良へ行ってよく子規が目に留めた釈迦三尊、または病んでいますから薬師 三尊でもいいけれど、その構図ですね。真ん中に「糸瓜咲いて痰のつまりし仏か な」。これがお釈迦さん、本尊様ですよ。それに両脇侍が付くという。
 
白鳥:  なるほど。
 
宮坂:  三句で、
 
白鳥:  そういう構図なんですね。
 
宮坂:  一句だと一つひとつバラバラですし、三句集まって、絶妙な「仏かな」と書いて も、悲しみを超えるような縹渺(ひょうびょう)たるある種の温(ぬく)みと言いますか、ユーモアが出 ますよね。だから自分の俳句で自分のお墓を作った。それをなんか象徴しながら、 これにすがって亡くなっていくという。やはり子規らしいなあというふうに。子 規の最期に完成したユーモアでしょうね。
 
白鳥:  如何にもやっぱり表現者らしい最後の句ですね。
 
宮坂:  そうですね。最後まで表現に生きた。まあ鶏頭と言い、糸瓜と言い、まさに自分 の味方、分身ですね。思いを託して、そして亡くなるという。かなり演出を考え たでしょう、病んでいますからね。それにしても絶妙な構図だと思いますね。
 
白鳥:  ところで宮坂さんもこの子規への思いというものを句になさっていますね。
 
宮坂:  ええ。私も子規に関しては、三冊も本を書きましたものですから、『子規季句考』 という、子規の俳句の注釈を十年もかかってやった本もあります。ずーっと子規 への思いは長いものですから、自分でも俳句についてちょっと子規を思った俳句 を三句ぐらい残しているんですが、まず一つは、
     律といふ子規の妹木(こ)の実降る
 
というんですよ。
 
白鳥:  ほんとに律さんは、献身的に子規に従い介護し通しましたね。
 
宮坂:  はい。いろいろ律に当たりますけどね。結局は律がいなければ子規は子規たり得 ませんでしたからね。その子規も律も、すべて兄も妹も包んで里の秋がある、木 の実降る秋がある、ということを思ったんですけどね。それからもう一つ、鶏頭 がやはり印象に残りますものですから、たくさん鶏頭が生えている中で秋の終わ りに鶏頭を引きますでしょう、
 
     鶏頭を引き鶏頭の残りたる
白鳥:  鶏頭はほんとに先ほどの話のようにいろいろな論議を呼びなが ら代表句の一つですね。
 
宮坂:  鶏頭を引いた、まだ鶏頭がたくさん残っているとも取れますし ね、引いた鶏頭は横にしますから亡くなりますよね。生きてい る鶏頭が残っているという、生と死の対比みたいなこともフッ と考えたんですけどね。
 
白鳥:      鶏頭を引き鶏頭の残りたる
 
宮坂:  それからもう一つ、先ほど言った『子規季句考』を書いた後に、子規は大変柿が 好きだったですからね。
     熟柿(じゅくし)食(く)ひ子規大人(たいじん)のこころもち
 
という。子規を思って。
 
白鳥:  そうですね。柿というとすぐ子規の「柿食へば」、
 
宮坂:  そうなんです。一番庶民的な果物ですからね。子規は果物が大好きですからね。 柿が好きだという。
 
白鳥:      熟柿食ひ子規大人のこころもち
宮坂:  それが分かればほんとに嬉しいんですけども。子規は若くして 亡くなりましたけども、何年かかっても子規の気持ちというの にはなかなか至ることが出来ないですね。
 
白鳥:  今年も糸瓜忌(へちまき)が近くなりまして、先日根岸の子規庵に行ってき ましたら、今年もブラリと糸瓜が四五本ぶら下がっていました ですね。どうもありがとうございました。
 
宮坂:  どうも失礼致しました。
 
 
     これは、平成十五年九月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである