童心ひとすじに
 
                    編集者・作家 小宮山(こみやま) 量 平(りょうへい)
一九一六年(大正五年)長野県上田市に生まれる。一九三九年東京商科大学(現一橋大学)卒業後、旭川での軍隊生活を送る。敗戦後一九四七年出版活動を志し理論社を創業、長年にわたって編集者として活動を続ける。今江祥智、灰谷健次郎など多くの児童文学作家を世に出した。著書に「編集者とは何か」「子どもの本をつくる」「戦後精神の行くえ」「千曲川」第一部〜第四部「昭和時代落穂拾い」「やさしさの行方」「20世紀人のこころ」「悠吾よ!」など。一九九八年「千曲川」第一部で「路傍の石文学賞特別賞」を受賞。また、戦後出版界をリードした編集者としての功績により二○○一年信毎賞(信濃毎日新聞社主催)を受賞。現在、小説「希望―エスポワール」を執筆中。
                    き き て  山 田  誠 浩
 
山田:  この辺りでお小さい頃からよく遊ばれたんですか。
 
小宮山:  小さい時からもう家から裸で出て来るんですよ。
 
山田:  裸で?
 
小宮山:  裸で、ふんどしで出て来て、ここへパチャンと飛び込む。それが一年生から六年生までの子どもが、縦に連帯して遊ぶ。子どもの遊び場だったから。今になって名付ければ「川遊びの故郷」です。川遊びというものを復活させることが大事だろうと、僕は思っているんですがね。ここへ来てお気付きのように、ぐるっと見て、全部が山の天辺までね、キノコ狩りに行けそうな里山でしょう。
 
山田:  そうですね。低い山ですね。
 
小宮山:  で、高い槍ヶ岳とか穂高とか、そういう高い山はないんです。だからここで育つと、平凡な山に囲まれて育つわけですが、絵に描いたような盆地というのが、日本の中でこうやって真ん中を貫いて千曲川があるという感じですね。
 

 
ナレーター:  戦後、編集者として「創作児童文学」という新たな分野を切り開き、数々の名作を生み出した小宮山量平さん。九十四歳の今、故郷の信州で、人生を振り返りながら執筆活動を続けています。上田市内のビルの一角にある「小宮山量平の編集室」と名付けられた小さなミュージアム。ここには小宮山さんが手掛けた本やゆかりの作家たちの写真資料など、凡そ一万五千点が展示されています。ここでは半世紀にわたり、無名な作家たちを世に送り出してきた小宮山さんの足跡を辿ることができます。
 

 
小宮山:  売れる本を作るということではなくてね、新しい作家を育てるということなんです。作家を育てるということは、日本語を正しく日本の子どもたちに伝えるお役目をすることだ、ということで、子どもたちに日本の作家が、ちゃんと自分で伝えたいことを書いた日本語の物語という。
 
ナレーター:  小宮山さんが初めて手掛けた児童図書『つづり方兄妹』『キューポラのある街』『赤毛のポチ』など、一九六○年前後から日本の多くの子どもたちに読み継がれてきた創作児童文学。ユニークなタイトルと斬新な挿絵。これらの作品は精魂込めて書き上げた作家たちとその思いに出版という形で応えた編集者との篤い共同作業によって生まれました。大正、昭和、平成と、子どもの世界に真摯に向き合い続ける小宮山さんの歩み。それはどのような思いに支えられているのでしょうか。
 

 
山田:  この故郷である上田、しかもミュージアムのある上田で、八十歳を過ぎてからは『千曲川』とか『昭和時代落穂拾い』であるとか、いろんなものをお書きになっているんですけど、それはどういう思いで今いろんなものを書いていらっしゃるんですか。
 
小宮山:  長いこと編集者という職業に没頭していましたから、この編集者という職業の一番の楽しみは、まず世の中に無名の人を作家として、あるいはライターとして送り出すことですが、そのうちにだんだん欲求不満になるんですよ。世の中に送り出した後、なんか寂しくってね、俺だったらもう少し上手にお話できたり、纏めたりするのになあ、と思う気持ちが、最初はちょっとだったのがだんだん溜まると一層自分で書いた方が早いなと思ってね(笑い)自分で書いたりなんかする。そしてそれが習い性になって、しかし自分ながら偉いなと思うのは、若い現役の編集者の間は、世の中に人を送り出すことが務めで、七十五歳の後半か八十の入口に立った時に、後は自分の時間でものを書いても許されるだろうなと思って。従って私は世の中で一番出遅れたライターとして、八十代になってからいろんなものを、何冊も本を作ったりしたわけです。
 
山田:  それは自分の中に、やっぱりいろんな人にこういうことを伝えたい、という思いがないとなかなか書けないことだと思うんですけど、それは何を伝えたいと、今一番思っているんですか。
 
小宮山:  ともすると、年寄りの話というのは、思い出話と小言と遺言になりがちなんですけどね。僕が語り伝えたいのは、大変生きてきて、どの時をとっても楽しかった、という思いでね。これが僕のことを大抵お仕えした人たちが、「よくあんなに陽気でいられるな」と笑うんですけどね。ほんとに「あれも楽しかった、これも楽しかった」、そして同じ楽しかった思い出でも、僕が話すと三倍ぐらい楽しいお話になるんですよ。これは何かというと、自分でもわかりませんがね、結局今日の主題である「童心」ということではないかと思う。子どもというのは、よくほったらかしておくと大体自然に機嫌の良いもんですよ。子どもが深刻に、額に八の字を寄せて、世の行く末を考えたり、悲憤慷慨(ひふんこうがい)したりすることはないんで、「ああ、面白かった、面白かった」と、表から帰って来ても、「今日は面白かったよ」と言って帰ってくるのが嬉しいね。だって機嫌の良いということは、ひょっとするとそれが人間の本姓じゃないか、と思うんですがね。それを忘れている人が多いから。僕は作った朗らかにするんじゃなくてね、自然に話すと陽気で朗らか、と。別にリラクセーション(relaxation:くつろぎ、気晴らし)とかなんとかというえらい堅苦しいことではなくて。
 
山田:  今楽しいことこそ伝えるべきだ、という思いが強いということですか。何故でしょうか。
 
小宮山:  これね、今世の中、それがなくなってきちゃった。それが楽しいこと、ということを語ることが、人間同士のお付き合いの一番主流だということが忘れられてしまって、人間は用事のために付き合うだけで、お互いに面と向かった瞬間から、「やあ、こんにちは」から始まって機嫌良く付き合うという。それから別れた後も「今日は楽しかったな」という思い出で別れて、それが基本的な人間同士の付き合いだと思う。
 
山田:  小宮山さんが、この上田ですくすく育ち、大きくなっていった過程だとか、あるいはさまざまいろんな方と編集者として会われたことだとか、そういう中での楽しかったこと、そういうものを今の人に伝えたいというお気持ちが一番強いということですか。
 
小宮山:  世間の月並みな言葉でいうと、私ほど悲劇的な人生はないと思うんですね。三歳で母親に死なれて、十歳で親父にあの世に逝かれて。けど考えてみると、十二人兄弟ですから、十二人兄弟の尻尾の方なんだから早く親に別れるのが当たり前でね。だけど、いくつで別れても親と別れるということは悲劇的ですよね。ところが十二人兄弟の家族が大勢いる家というものの賑やかさというのは、これはまた面白い賑やかさでね、例えば親の葬式の日でも、親の葬式よりも人が集まって来るということが楽しくってね、お客さんの間を飛び回った楽しい思い出だけが子どもの心には刻まれているものですよ。だから死ぬとかあの世へ逝くとかというのは、苦労の話じゃなくて、若い小さな者が育って、自分たちの時代をすぐ作り上げる、そういうものだと思いますね。
 

 
ナレーター:  小宮山さんは、大正五年(一九一六年)、長野県上田市に生まれました。生家は古くから養蚕業で栄えた北国街道沿いで酒屋を営んでいました。しかし子どもの頃に両親が相次いで亡くなり、昭和初期の大不況の煽りも受けて家業は破産、一家は離散してしまいました。小宮山さんが今も懐かしく振り返るのは、貧しいながらも心豊かに過ごした少年時代です。大正デモクラシーと呼ばれた自由な空気は、此処上田にも及んでいました。当時上田は自由な教育方針で知られた信州教育の拠点の一つでした。その理念の中心になったのが、児童雑誌『赤い鳥』です。『赤い鳥』は、大正七年、鈴木三重吉(すずきみえきち)(広島市出身の小説家・児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる:1882-1936)が創刊。島崎藤村(しまざきとうそん)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、森鴎外(もりおうがい)など当時の文壇を担っていた作家たちも協力し、日本で初の子どものための雑誌と言われました。『赤い鳥』は、子どもの純粋な心を育む童話や歌を普及する運動に繋がり、全国に広がりました。小宮山さんは、『赤い鳥』運動の影響を強く受けた小学校時代を過ごします。担任の柳沢義信先生はこの運動の熱心な推進者でした。小宮山さんは『赤い鳥』が何かも知らないまま、詩や童謡に親しむようになりました。
 

 
小宮山:  柳沢先生というのは大変な先生で、この人は、僕らが四年生になりますと、まず二つ、信州の先生ならではの授業を私たちに教えてくれて、一つは、四年生から郷土誌というものを教えてくれた。それからもう一つは、音楽というものを童謡で教えてくれましたね。単に国家とか、何とかというものではなくて、その童謡が『赤い鳥』に、毎号、北原白秋が二つも三つも載せるんですよ。たまたまここにあるのは関東大震災の翌年の十三年のものですがね、『赤い鳥』という雑誌を開くと、一番最初に出てくるのがね、例の「からたちの花」という詩を載せているんですよ。そして終わりの方にいくと「お坊さん」という詩を出されているんですよ。
 
もうし、もうし、お坊さま、
なにかくだされ、はなします。
ほらほら、見なされ、このとほり、
お珠数(じゅず)がひとかけ、やぶれ笠。
 
五年生の学芸会で、お坊さまの主役をやることになるわけです。その主役は何かというと、良寛法師なんですよ。「もうし、もうし、お坊さま、赤い苜蓿(つめくさ)咲きました」と歌いながら四、五人のクラスメートが手を繋いで、僕の行く手を邪魔するわけですよ。そうすると、良寛さん弱っちゃってね、「何かくだされ、話します」。子どもたちに取り囲まれると、「ほらほら、見なされ、この通り、お珠数がひとかけ、やぶれ笠」と言ってね。
 
山田:  その学芸会で歌われたんですか。
 
小宮山:  ええ。運動会と並んで学芸会というのは、お弁当持ちで、おじいちゃん、おばあちゃんからお父さんお母さん、みんなが休んでやって来る。各町村のなんとも言えないお祭り以上の楽しみでしたね。
 
山田:  みんなで楽しんでいた。そのことは『赤い鳥』の何が素晴らしかったんでしょう。
 
小宮山:  『赤い鳥』の全体が、僕らにとっては大正時代に円熟を表しているわけですよ。大正時代というものはどんなに西洋文化を取り入れて円熟したものになっていたか。例えば、今言った童謡というものがあって、それがただちに譜が付いて、歌になって、誰かが歌うという段になると、歌い手の第一人者に柳兼子(やなぎかねこ)(大正・昭和に活躍した声楽家)さんという人がいて、このソプラノ歌手がレコードに、この歌を吹き込んで普及するという時代が始まったわけです。だから大正文化はついにレコードに載っかって普及されて、僕らの身近なものになる。だから僕が、柳沢先生に連れられて四年生五年生という時代に、学芸会に登場する時もそういうレコード文化が僕らの中に入っていて、信州教育の卵みたいな男の子、と、僕はなったわけで、信州の教育を身にいっぱい浴びて、子どもながらに楽天的で、今言ったように、柳兼子さんのソプラノを真似して歌ったんで、なんかする面白い子どもだったものですからね。
 

ナレーター:  小学校五年生の時、小宮山さんは、親戚に引き取られて東京に転校し、新たな刺激を受けることになります。特に影響を与えたのが、当時第一銀行の取締役で民俗学にも造詣(ぞうけい)の深かった渋沢敬三(しぶさわけいぞう)(財界人、民俗学者、第十六代日本銀行総裁、大蔵大臣(幣原内閣)、旧子爵。1896-1963)でした。小宮山さんは、小学校卒業後渋沢敬三の下で働いていました。
 

 
小宮山:  小学校出たばかりの僕でしたけれども、渋沢さんは、「お前、この部屋にある―ちょうどこの部屋ぐらいの大きさで、三方の壁が全部本で埋まっているんですよ。その渋沢さんは、我が儘出勤ですからね。出て来て、ただ机の上に足載っけて新聞読むだけで、後は本読むだけで、出て来るわけです。その渋沢さんがね、僕が切り抜いた資料を整理したのを読むためのお仕事を手伝ったわけです。そこでなんと言ったかというと、「お前な、とにかくここにある本を全部お前読んでいい本だから、できるだけ読んで勉強しなさい」と。
 
山田:  「何を読んでもいいよ」ということは、どういう思いで渋沢さんはおっしゃったんでしょうか。
 
小宮山:  思いも何も・・人間は本を読むものだ、と。だから何によらず、本というものは手当たり次第読んで教養を身につけろ、ということでしょうね。こういう時代の中で育つことができて、しかも自分にお金がなくてもね、どんなお金持ちの子供よりもたくさんの本に囲まれて。
 
山田:  実際たくさんお読みになりましたか。
 
小宮山:  読んだですね。片っ端から読んだ。だけどわからないものほど面白かったですね。訳のわからないものほど、読んで背が伸びたような気がした。渋沢さんもある意味で忙しかったから、小説なんかは、「お前読め」と言って小説をみんな寄越したからね。プロレタリア文学は僕ほど読んだ人間はいないと思う。あの時代に出たプロレタリア文学で読まない本は一冊もないぐらいね、全部読んだんですね。
 

ナレーター:  小学校での『赤い鳥』体験。渋沢敬三から学んだ社会を見る目。働きながら夜間中学を卒業した小宮山さんは、学問への関心を深めていきます。大学に進学した小宮山さんは、経済、哲学にも関心を広げ、文学書を片っ端から読み漁り、貪欲に吸収していきました。仲間と雑誌の刊行を企画し、出版にも関心を抱くようになりました。しかし大学卒業後、間もなく召集。終戦まで六年間過ごした軍隊での体験は、小宮山さんの生き方を変える大きな転機となりました。
 

 
山田:  戦時中は、新兵を教育する立場にいらっしゃった、ということですが。
 
小宮山:  すぐなったですね。私が軍隊へ入ったのは、昭和十五年二月でしたけれども、十六年には、どういう変化が生じたかというと、十六年の正月に『戦陣訓(せんじんくん)』というものが流布(るふ)されるわけですよ。これの一番の重点は何かというと、「皇国のために命を捧げて生きて帰ると思ってはならん、と。捕虜になっても、辱めを受ける立場になってはならん」という、平たい言葉で言えば、そういうことが書いてあって、その瞬間から日本の若者たちは、軍隊へ行くのに死ぬ気でいくようになっていたから。僕のような二年前に兵隊になった者たちは、二年お務めをして、帰ってきたら普通の職業にまた生き生きと従うものだ、と思っていた。それがこの兵隊さんたちは、もう全部―全部と言っていいぐらい死ぬために入ってくる。この「戦陣訓世代」という言葉を僕は使うんですけれども。
 
山田:  日本は敗戦になったわけですけれども、その時の思いはどういう思いだったんでしょうか。
 
小宮山:  これは一番強く打ったのは、「祖国喪失」という言葉がありますけれども、「祖国」という言葉をいうと、一番胸の中に温かいものがわぁっと湧いてくる。そういうのが軍隊へ行って人間を支えていた大きな要素だったでしょうね。しかし敗戦と同時に、自分だけではなくて、日本全体からくる「祖国」というものの、「国破れて山河あり」という有名な中国の言葉がありますけどね。今までも思い出すんですが、東京の新宿からすぐ近くに大久保という停留所がありますが、ホームに立ってみると、そこから両国まで一望のもとに見渡すことができて、そして隅田川がキラキラ輝いて見えて、つまりその間全部焼け野原になってしまった。こんなにも無惨に祖国というものが、物質的にも喪失されたかということは、非常に心のダメージでしたね。どうやったら祖国というものが再興できるんだろう、と。僕は今でもそうですけど、やっぱりその瞬間に僕の心に甦ったのは、やっぱり祖国喪失感とその祖国をどうしたら回復するかという思いでしたね。だから僕は、そこで初めて今更のように、「これからは死ぬために生きるんじゃなくて、生きるために生きる」という。そのことを身近な人にも、かつて一緒に暮らした人にも、それから特に戦地へ行って生き帰ってきた仲間たちにも、とにかく「生きろ、生きろ、生きろ」と。それが僕の合言葉になったですね。
 
山田:  その思いで始められたのが出版という仕事なんですが、それが何故出版をやるという形だったんでしょうか。
 
小宮山:  先ほど申しましたように、生きるということが一番の人間の生きるということ、これを根本にした出版をしなくちゃいけない、と。そこで戦後の出版界を特色づけた言葉に、まず第一に、「評論」という言葉がある。日本で「朝日評論」「読売評論」「なんとか評論」というんで、二十種類ぐらい『評論』という雑誌がある。この「評論」というのは、ちょうど身体をモルモット事件みたいに扱って、俎の上へ載っけて、日本という国にメスを入れて、「どこが悪い、あそこが悪い、ここが悪い」ということを一々診断する。そういうことを思って、科学的に祖国の行方というふうなものを批評したりなんかする。これに対して、ちょっと違うんじゃないかという、異議を称える言葉が「評論」ではなくて、「理論」という言葉。そこで私は敢えて異議を称えて、『理論』という雑誌を作った。
 

 
ナレーター:  小宮山さんが、自ら出版社を興し、初めて出した雑誌『理論』。冒頭にはその志としたドイツロマン派の詩人ノヴァーリスの言葉が掲げられています。
 
     同胞(とも)よ、地わ貧しい
     われらわ ゆたかな種を
     まかなければならない
       (ノヴァーリス)
 

 
小宮山:  「理論というのは何か」と言ったら、そういうふうに観察して解剖して、良いとか、悪ととかということではなくて、もしそこに身体があるとすれば、その耳元へ言って、「お前さん、これからどうやって生きたいか。どう生きたらいいと思うか」ということをどんな小さな声でも聞き出して、そして今まだ瀕死の傷を負った祖国というものが、これを望んでいるんだ、あれを望んでいるんだ、という、その祖国の声を何とかして小説という形を取ったりね、それらの人たちが何を望んでいるのか、ということを聞き取るのが、理論だと思うんです。
 
山田:   ということは、日本の国がこれからどういうふうに生きていけばいいのか、ということを理論的に検討していく。そういう本を出したい、という思いということでいいんでしょうか。
 
小宮山:  ええ。ところがね、「理論」ということで一口でいうと、理論の行く手にすぐこういう旗印が立つわけですよ。「何が正しいか」と。みんな「俺が、俺が、俺が」という形でこの正しいという論理はみんな外国の知識や外国の理論に求めるという。そういう時代の中で、理論というのは、もっと理についたあれで、自分で調べて、自分の足で調べて、自分の耳で聞いて、それから自分の頭で判断して、そういうふうにして、しかも一人でなく、その判断を三人寄れば文殊の智慧で一緒に考える、と。そしてどうしたらいいか、という問題を大勢で考える、と。どうしたらいいか、と。
 
山田:  それで「理論」というのは、本の題名にもなりましたし、理論社という小宮山さんの出版社の名前にもなって、どちらかというと、堅い本と言いますか、日本の社会を考えていく本をお出しになっていたんですが、その後十年ぐらい後でしょうか、児童書に向かわれますよね。
 
小宮山:  今になると、僕、人間だからね、多分大変短気を起こしたと思うんです。それは短気を起こすと人間は何をするかというと絶望でしょうね。これはとても日本祖国の問題を本当に理論的に考えるなんていうことは、甘っちょろい夢のまた夢で、そのためにはまだ少なくとも二世代ぐらいかからないと、つまり五十、六十年はかからないと、そういうことが常識となって人々を結び付けるようにはならないだろう、と。今必要なことは、そういうために自分の頭で考えて、自分の足で立つという、新しい世代を育てることではなかろうか、と。特に僕は、日本語の危機というものを考えながら、今しっかり日本語の危機を守らないと、そういうことを考える世代がなくなってしまうから、新しい世代がなんとかして日本語で考え、日本語を守り、先輩たちが日本の子どもたちに日本の言葉で語り掛ける。そういう語り合いの世界というものを生み出すためには、どうしても創作、児童文学のような仕事を自分なら、ちょうどそれぐらいな守備の範囲を守れるんじゃなかろうか、というふうに考えました。
 
山田:  今、理論社として大人向けの何をするべきか、という。何をするのか、ということに向けて本を出し始められたのに絶望して、子どもの本に、とおっしゃったですが、その絶望されたというのは、何に絶望されたんですか。
 
小宮山:  甲論乙駁(こうろんおつばく)というか、「俺が俺が俺が」と、みんな勝手なことを言い出したわけですよ。これが自由ということの裏返しであって、自由を叫べば叫ぶほど、日本は分裂体質になっていく。みんなばらばらに。「一緒にやりましょう、一緒にやりましょう」という統一体質の言葉が生まれてこなくて、「俺とお前はどう違うか」という、激しい対立ということが戦後のある時代から日本の特色になってきた。みんなで一緒にやろう、という気風は置き去りにされてしまう。
 
山田:  それは、理論的には自分たちの生きる方向を模索されたのに、世の中の動きはそういう方向には行かずに、それぞれが自分の自己主張をするということがいろんな分野で出てきた、ということですか。
 
小宮山:  そうですね。分裂体質で考えてはならない問題が、日本が大きく取り残しているんじゃないか、と。だから一緒に考えていくことは、もっと大事じゃないか、といったふうなことが立ち後れがちである。そういうことを考えられる世代が、生まれるまでには、さてここまで分裂が進んでしまうと、世代が三十年単位で二つぐらいの世代が経(た)たないと、そういう新しい世代は生まれてこないんじゃなかろうか、と。そんな心許ない思いがしてね。やっぱり一旦僕としては、大人に世界を見捨てるというか、絶望するというか、それはそれで当分甲論乙駁(こうろんおつばく)をやっていてくださいよ、と。
 

 
ナレーター:  新しい世代には、自立した精神を持って欲しいと、児童図書の出版に力を入れ始めた小宮山さんの後押しをしたのが『つづり方兄妹』でした。山形の『山びこ学校』など、生活綴り方運動が盛んだった頃に出会ったのが、大阪の野上三兄妹(野上丹治、洋子、房雄)でした。貧しくても希望を持って生きる兄妹。その作文や詩を纏めた『つづり方兄妹』は大きな反響を呼び、映画にもなりました。末っ子のふうちゃん(房雄)は小学校三年生で亡くなりました。ふうちゃんの書いた詩は今も小宮山さんを励まし続けています。
 

 
小宮山:  このうちの一番末っ子のふうちゃん(房雄)がね、特にお姉さんやお兄さんの影響を受けて素晴らしい作品を書く。で、これは都会の悪い言葉を使えば、引き揚げ者で、畳もない、土間で藁敷いて暮らしているような生活の貧しい。ただ子たくさんで、子どもが続々生まれて、もうその段階で六、七人おりましたけど、やがてもっと増えるというふうな家庭でしたけれども、そこの小学校段階でいえば、一番末のふうちゃんというのが、僕に「お正月」という作品を残してくれたんです。この「お正月」という作品は、今でも僕の聖典ですね。
 
     「お正月」 野上房雄作
 
     お正月には
     むこうのおみせのまえへ
     キャラメルのからばこ
     ひろいに行く
     香理の町へ
     えいがのかんばん見に行く
     うらの山へうさぎの
     わなかけに行く
     たこもないけど たこはいらん
     こまもないけど こまはいらん
     ようかんもないけど ようかんはいらん。
     おおきなうさぎがかかるし
     キャラメルのくじびきがあたるし 
     くらま天ぐの絵がかけるようになるし
     てんらんかいに一とうとれるし
     ぼく
     うれしいことばっかしや
     ほんまに
     よい正月がきよる
     ぼくは、らいねんがすきや。
 
この詩を読んだ時、僕はね、背中をドーンと叩かれたような気がしましたね。大都会の貧しい子どもの世界から、そんな貧しさというようなものを吹っ飛ばして、そして、「僕は来年が好きや」と言って、希望というものを、自分の生まれた貧しい生活の中で身体いっぱいに持った元気な少年の言葉で、「僕は来年が好きや」という、ふうちゃんの言葉に煽られて、この三人兄妹の作品を一冊の本にして出したら、というんで、これは大変当たりましてね。『山びこ学校』ほどには、出版社が小さかったものですから、当たらなかったんですけど、この『つづり方兄妹』という本が生まれたために、よし、思い切って。出版仲間では、「無名の人ばっかりの作品を出していると、君、潰れるよ。有名な者なら二匹めのドジョウも三匹目のドジョウも売れるんだから、そして本にお金を出すのは親が出すんだから、親が知っている者を出さないと、子どもの本は立ち行かないんだよ」という忠告を受けていたにも拘わらず、無名の作家たちが次々と原稿を寄せてくる。その原稿を自分で、その当時は夜中の三時ぐらいまで必ず働いて、次々に寄せられてくる原稿を読みまして、手を入れて、そして出しました。
 

 
ナレーター:  創作児童文学シリーズの第一作は、アイヌの人々の生活を描いた斎藤了一(さいとうりょういち)の『荒野の魂』でした。日本の作家による新しい分野への挑戦。小宮山さんは、山中恒(やまなかひさし)、早船(はやふね)ちよ、今江祥智(いまえよしとも)など、まだ無名だった作家を世に送り出しました。その一人が小学校の教師だった灰谷健次郎(はいたにけんじろう)でした。当時灰谷さんは、クラスの子どもたちと一緒に詩を作る活動を続けていました。灰谷さんは、また戦後大阪で発行されていた子どもの詩を載せた雑誌『きりん』の編集にも関わっていました。『きりん』は経済的な事情から小宮山さんが後を引き継ぎます。少年の頃に親しんだ『赤い鳥』の流れを汲む『きりん』の発行を受け継いだことに、小宮山さんは運命的なものを感じていました。この『きりん』に連載されていた灰谷学級の子どもたちの詩を一冊に纏めたのが『せんせいけらいになれ』。子どもたちのみずみずしい言葉が迸(ほとばし)る作品に小宮山さんは心を打たれました。
 

 
小宮山:  私のところへ送ってきた最初の原稿が何かというと、『きりん』という雑誌に「せんせいけらいになれ」というふうな形で、子どもたちの教室体験を一冊の本になる分量だけ纏めて、それを送ってこられた。これが面白かったから、僕は忽ち灰谷さんと最初に知り合ったのは、その『せんせいけらいになれ』という本を作った。これが大変評判になって、その詩のあちこち開きますと、例えば、「忍術」という詩があってね、
 
     ぼくには忍術がかかっているんだぜ
     みんなには見えんのだぜ
     ここだ ここだ かかってこい
 
という、そういう子どもの詩がある。そうかと思うと、「七人のさむらい」という詩があって、
 
     さむらいはおしっこをしません
     うんこもしません
     四人死んで
     三人のこりました
 
こういう詩があると、これは僕はちょうどその頃『シナリオ文学全集』を出したために、黒沢さんと大変親しかったものですから、黒沢さんにそれを見せたら、「いやぁ、まいったなぁ」と言って、黒沢さんが自分の額を叩きながらね、「これぐらい勝れた批評というものは、七人の侍に与えられたことがなかった」と快哉を叫ぶわけですね。そういう子どもの詩がふんだんに載ったのが『きりん』だったわけですよ。
 

 
ナレーター:  しかし、『せんせいけらいになれ』を出して間もなく、灰谷さんは十七年間の教師生活を辞め、『きりん』の編集からも手を引き、小宮山さんの前から突然姿を消してしまいます。数年後、灰谷さんから届いた一通の手紙を、今も小宮山さんは大切に残しています。
 
もう忘れておられるかもわかりません。五年前、『せんせいけらいになれ』を出して頂いた灰谷です。四百五十枚の作品を、後ろへ下がれない気持で力いっぱい書きました。児童文学に挑戦したのではありません。僕自身に挑戦しました。水増しされた人生ではなく、人生そのものの中で、人の優しさを追求してみました。これが児童文学として通用するかどうかわかりません。そういうことを考える余裕はまったくありません。僕は今ぎりぎりです。そのぎりぎりだけを書きました。
 
灰谷さんから届いた四百五十枚の原稿。小宮山さんは、即座に出版を決めました。『兎の眼』。厳しい生活の中で、逞しくも優しく生きる子どもたちと、新米教師との交流を描いた物語です。『兎の眼』は、灰谷さんの長年の教師体験に裏打ちされて、子どもの内面に潜む、人間が本来持つ素晴らしい力を見事に描き出していました。それは小宮山さんが目指してきたこと、そのものでした。
 

 
小宮山:  これを読んだ時に、長いこと編集者をやっている私の魂がふぁふぁとなりましたね。なんか日本の児童文学で、かつてなかった新しい何かが生まれた、新しい何かが生まれて、そこで早速『兎の眼』を本にすることを自分でも決心して、ここまでくるのに偶然、灰谷さんという勝れた魂が、『兎の眼』という作品を作ったように見えますけれども、灰谷さんの全歴史が『兎の眼』に凝集しているわけ。で、『兎の眼』に灰谷さんの仕事が凝集しているということは、灰谷さんの中に日本の戦後の教育制度のプラスとマイナスが凝集している。そういう灰谷さんの存在だった、と思うんです。だから『兎の眼』というものは、やがて二百万部も売れる。もっと売れるという形で、理論社が始まって以来のベストセラーになって、理論社の経営を助けてくれたわけですね。
 
山田:  灰谷健次郎さんという作家は、何を大事に作品を書いていかれた方なんでしょうか。
 
小宮山:  灰谷さんは、この頃ますます灰谷さんが大事な人だったなと思うのは、古い言葉に、「棺を覆うて定まる」という。棺桶に入ってその人の値打ちが定まる、という意味の言葉がありますけれども、亡くなられて二年以上経っていなくなってくると、灰谷さんがやるべきこと、やるようなことをする人がいなくなった、ということから、だんだんはっきりしてくることは、灰谷さんが生涯を課せていたことは、「子どもから学ぶ」ということだったと思うんです。これが日本の場合に、特に教えるということでは、いろいろな工夫がなされ、教えるということでは、職業も連立し、すべての人が子どもに真向かう時に、大人が優位で子どもを導くという関係において、職業も成立し、それから哲学も成立し、すべて教えるという関係だったと思う。これに対して灰谷さんは、子どもから学ぶということを、終生自分の性格としても、あるいは自分の生き方としても貫いた人、そしてそういうふうに言った瞬間に、実は灰谷さんが居なくなって空いた穴は、子どもから学ぶという立場でもって発言する人は実に少なくなった。あるいは居ないんじゃないかというぐらいね、灰谷さんが居なくなったことで寂しくなりましたね。
 
山田:  その「子どもから学ぶ」というのは、具体的に、例えば灰谷さんはどういうことをなさったような時に現れていますか。
 
小宮山:  灰谷さんも最初からそういう理論があったわけではありませんけれども、私どもと付き合ったりして、何かしているうちにだんだん形が見えてきた。その証拠は、灰谷さん自身が、「僕が先生と言えるのはね、小宮山さん一人で、その小宮山さんが先生だというのは何かというと、小宮山さんは自分で先生ではなくて、子どもたちが先生だということをずっと貫いていらっしゃる」と。それで灰谷さんもいつの間にか僕と一緒に、「子どもたちが自分たちにとって何よりも先生だったんだ」と。教師として、あるいは先輩として、あるいは編集者として、教えるなんていうことはごく少ない。やっぱり学んで、学んで学び貫くことが、一番大きな僕らの仕事だな、と。特に日本の場合に、子どもから学ぶということでは、ほどんど誰もが忘れているから、書くものでも、それから子どもたちと付き合う上でも、学ぶということを一番中心にして、子どもと一緒にビックリし、驚き、そして笑い、泣き、そういう世界を子どもと開くことの面白さですね。とにかくもっと子どもに驚いてほしいということ、子どもに対する支配力だけ振るって、子どもが自分の言うことを聞いていると安心しているという大人ではなくて、子どもから毎日脅かされてビックリして、そしてそのビックリしたことによってお陰でお母さんが目覚めて、新しい発見をしていくというふうな関係で、親子の関係も生き生きとするというふうな、そういう家庭が営まれるようになると大変素晴らしいと思うんですけどね。
 

 
ナレーター:  『兎の眼』に続いて、小宮山さんは灰谷さんの『太陽の子』を出版します。沖縄戦の体験した両親の元でいのちの重さに目覚め、力強く生きる子どもの姿を描いたこの作品は、戦争の体験から「生きるために生きる」と考えるようになった小宮山さんの思いと重なるものでした。一冊一冊豊かな種を蒔くように作り続けてきた小宮山さん。八十歳を過ぎてから、作家としてデビュー。初めての小説『千曲川』は、少年時代から軍隊までの青春時代を描いた自伝的小説です。豊かな読書体験を積んだ少年時代。自立して生きるための理論をと始めた戦後の出版活動。創作児童文学への道を後押しした『つづり方兄妹』、そして徹底して子どもから学ぶことで共感した灰谷健次郎との交流。半世紀に及ぶ体験を振り返りながら、小宮山さんは今『千曲川』の続編の執筆にかかっています。小宮山さんは、いのちの重さが軽んじられる今だからこそ、この言葉を胸に刻んで書き残したいと言います。
 
     同胞(とも)よ、地は貧しい
     われらは ゆたかな種を
     まかなければならない
       (ノヴァーリス)
 

 
山田:  タイトルがもう決まっているんだそうですが。
 
小宮山:  タイトルだけは、「エスポワール(希望)」―希望というものを。希望がなかったら人間は、どうせ死ぬことですから、生きているということは即ち希望を持っているということだろうと思いますけれども、それ以上に川を見つめていますと、川自身が私に囁(ささや)きかけてくる。ちょうど私の家が、一年中千曲川の川音が聞こえるところに存在しているわけで、その流れを聞いていますと、「大丈夫だよ、大丈夫だよ」という、子どもの時から聞いていた川の囁きと同じ囁きを今も奏でているわけですね。僕は必ず人間はそういうふうな英知をもつ時がくると思う。そういう時代をつくることを、今の大人たちが子どもたちと一緒にやるならば、できるかも知れない。僕はあくまでも通過駅でなく、この土地で良い村作り、町作りをしてみてはどうでしょう、ということを、それは難しいようだけれども、スピードというふうなものに対して、ストップをかけて、それから考えましょう、ということを、「ストップ―考える」「ストップ―考える」、いろんな面で「ストップ―考える」ということを。考えるということの力を出し合って、人々の組み合わせを作っていくならば、あの大正時代が持った素晴らしい英知というものは必ず希望の元になると思う。
 
山田:  それは必ず人々は考えて希望を生み出していくという、そういうことを書こうとしていらっしゃるわけですか。
 
小宮山:  そうですね。自分の足で立ち、自分の頭で考えて、他人から強要されることではなくて、自分たちで、もう大体経験を積んだからね。この辺でストップをかけて、そして自分たちの極楽を作りましょうよ、と。極楽はあの世であるんじゃなくて、現在にある。それが桃源郷だと思うんです。
 
山田:  その「極楽」というのは何ですか。いのちを大事にする、というふうに捉えていいんでしょうか。
 
小宮山:  そうですね。幸いにして信州で言えば、この辺が一番梅、桃、杏(あんず)、桜、一斉に咲いてね、まずこんな気候の良い四囲の里山に囲まれた恵まれた土地というものはないと思うし、この千曲川というのは一見すると、何気ない川のようですけど、この日本一の大河というものがどこにもダムなんていうものを持っていないわけですよ。ピンからキリまで魚が上って来れる川であるし、そのピンからキリまでカヌーで行ったり来たりできるような、だから「川遊びの故郷」と、僕は呼んでいるんですが、信州は「川遊びの故郷」であって、そこへ来れば遊びというものが基礎になった生活ができるんじゃないでしょうか、ということを九十五歳の爺さんがみなさんに語り掛けることで、そいつを持って「希望」というんだなぁ。
 
     これは、平成二十二年六月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである