菩薩道をいきる
 
                       元興寺住職 辻 村(つじむら)  泰 善(たいぜん)
昭和二七年奈良生まれ 昭和四二年元興寺辻村泰圓僧正の従弟として得度。昭和五一年関西学院大学文学部美学科卒業。昭和五二年奈良国立博物館学芸課研修生修了。昭和五六年真言律宗大乗滝寺住職。昭和六一年真言律宗元興寺住職。平成三年(財)元興寺文化財研究所理事長就任。現在、真言律宗元興寺住職、(財)元興寺文化財研究所理事長、社会福祉法人宝山寺福祉事業団評議員、(財)ならまち振興財団理事、関西学院大学非常勤講師、独立行政法人文化財機構運営委員、真言律宗教学部長。
                       き き て 兼 清  麻 美
 
ナレーター:  古都奈良。街の一角には昔ながらの家並(やな)みが残り、「奈良町(ならまち)」と呼ばれています。奈良町のほぼ中央に位置するのが、世界遺産の元興寺(がんごうじ)。この寺では毎年八月、お地蔵様を祀る地蔵会(じぞうえ)が執り行われます。元興寺の住職辻村泰善さん、五十八歳。辻村さんは、今に伝わる祈りの形に込められた人々の仏への思いを読み解き伝えることに力を注いでいます。元興寺は、およそ千三百年前の建立から今まで、幾度か存亡の危機に遭いながらも多くの人々の信仰に支えられて続いてきました。中でも盛んだったのがお地蔵様。地蔵様への信仰です。人々を救うためなら地獄の底にまで赴くという地蔵菩薩に寄せる思いを伺います。
 

 
兼清:  こちらには随分たくさんのお地蔵様がいらっしゃいますけど、何体ぐらい?
 
辻村:  大体千五百体ぐらいなんですが、御覧になってわかるように、立体的な塔の形、五輪塔の形しているものなんかは、パーツが五つとか、四つに分かれております。だからそれを合わせるのはなかなか難しくなっていたりするので、数を数えるのも非常に難しいとこがありますね。そして石に刻まれて、お地蔵さんであったり、阿弥陀さんであったり、阿弥陀さんとお地蔵さんが一体になっていたり、あるいは五輪塔の形を刻んでいたり、というふうなことで、人々の思いを永久に何か残そうというふうな意識で造られたものなんでしょうね。
 
兼清:  そもそもお地蔵様というのは、仏教の中で、どういう存在の?
 
辻村:  難しいところなんですが、字で書くと、「地面」の「地」と「藏」なんですよ。これはどうもインドでもともと呼ばれたインドの言葉を漢字で表しているんですが、クシティとか、キシティ・ガルバと言って、「子宮」というのと、それから「藏」という。だから何か生み出すとか、何かを抱えている、持っている、というふうな、そういう意味があるわけですね。それを神格化しているというか、仏教的にしているのは一体何だろう、ということなんですが、これはお姿を見たら少しわかるんですが、何種類かあるでしょうけども、大体は決まっていまして、頭がつるんと卵形、これは坊さんの格好ですね。そして大体は錫杖を持っている―杖ですね。それで一つは玉を持っているんですよ。あの玉は宝珠なんでしょう。ここから生み出している、ということがあって、クシティ・ガルバというのはここやというのは大体わかる。だから子授けの地蔵さんとかというのは、この辺なんでしょうね。もう一つは、錫杖を持っているというのは何か、というと、動いているんでしょう。それは修行して歩き回っては人々を助けるという菩薩―仏教の中の一つの仏格としての菩薩としてのあり方を非常に象徴しているんだ、と。悟りを求める人のことを菩薩というんです。ということは、お釈迦様がお悟りを開かれる前は、悟りを目指していたんですから、これは菩薩だというわけです。悟りを開いてしまうと、菩薩ではなくなるわけです。お釈迦様は、その後は如来(にょらい)と言われるんです。ところが、その後お釈迦様のお弟子が何人かおられて、その中には文殊(もんじゅ)菩薩とか、弥勒(みろく)菩薩がおられたり、観音菩薩もそうなんですが、地蔵菩薩なんかもおられるわけです。だけど、それは菩提を求める人ですから、そのままいくと如来になるんです。ところが大乗仏教は、悟りを開くことが非常に大事な仏教の教えという。悟りを開くことは非常に大事なんですけども、実は大乗仏教の大事なところは、悟りを目指しているんだけれども、菩薩のままで留まる、と自分で誓願する。
 
兼清:  如来にはならない?
 
辻村:  如来にはならないぞ、と。何でや、と言ったら、他にまだなれない人がいているじゃないか、と。その人たちと一緒になりたい、というわけですね。ですから地蔵さんというのは、その最たる人なんでしょうね。だからいろんなところにいたというんです。悟りを開かないでいろんなところに行くことができて、一つは、例えば地獄、餓鬼、修羅、人間という、あの六道輪廻という、人が、あるいは生き物が亡くなって輪廻する世界がありますね。そこをどこでも行けるというんですよ。普通はそれはおかしい―おかしいというか、ようできている人はちゃんとそこへいく。人間でうまいことをした人は、人間に生まれ変わる、と。あかんことをした人は、餓鬼とか畜生とか、修羅とかに堕ちて、そこからまた修行してだんだん上にあがっていくと、こう言われているわけですけれども、地蔵さんはもう既に菩薩のところにいているのに、どこでも行けるという。それは私たちにとっては非常に有り難い。堕ちてしまった時に、じゃ、菩薩は来てくれるのか、と言ったら、観音さんは来てくれないけれども、お地蔵さんは来てくれる、というふうなことが中国から日本に渡ってきている地蔵さんにはあるわけです。
 
兼清:  そうすると、私たちの住んでいる場所の身近にお地蔵さんがたくさんありますよね。それはそういうことですか。
 
辻村:  そうでしょうね。だからどこにでもいているわけです。しかもそれはこの土地にいていなくてはいけない、という意味でしょうか。この土地から生まれてきたものであり、この土地から何かを生み出す人でもあり、ここで亡くなって、土地の中に還っていく時に、そこにも行ってくれるような菩薩というのが地蔵菩薩ということになるんでしょうね。
 
兼清:  そうすると、元興寺に今これだけ、千五百にも及ぶお地蔵様初めいろいろなこうしたものがここに残っているということは、ここがお地蔵さんの信仰が厚かったということの証拠と言いましょうか。
 
辻村:  まあそうでしょうね。ごく庶民の人もあるんでしょうけども、中には僧位を持ったお坊さんで、ちょっと偉いお坊さんとか、あちらのちょっと立派なところは、興福寺の偉い門跡さんの一族の人とかね、
 
兼清:  そんなにいろんな身分の人というか、その時代の誰でもが出入りをしていたわけですか。
 
辻村:  出入りをしていたわけです。そういうのが実は庶民の信仰なんですね。上は天皇から、下はごく庶民まで一緒に行くことができるようなところ、というのが、庶民信仰の寺なんでしょうね。
 

 
ナレーター:  元興寺の起源は、日本で最初の正式な仏教寺院として建てられた飛鳥寺です。法興寺(ほうこうじ)とも呼ばれた飛鳥寺は、平城遷都に伴って奈良に移され、元興寺と呼ばれるようになります。国の学問の中心として栄えましたが、京都に都に移ると、国の保護を失い衰退。その後は庶民の信仰を集めることで歴史を繋いできました。境内のお堂には飛鳥時代の瓦や木材が使われ、今に伝わっています。
 

 
辻村:  元興寺というのは、もともと飛鳥寺と呼ばれて、飛鳥にあったお寺が、都が奈良に移ってきた時に移されてきたと、こう言われているんです。
 
兼清:  奈良に都ができた時よりもさらに古い飛鳥のお寺だった、と。
 
辻村:  そうですね。しかもその伝えだけではなくて、戦後の昭和三十一年ですかね、飛鳥寺の周りが発掘をされまして、そこで出てきた瓦と今載っている瓦の一部が同じ瓦である、ということがわかってきたんです。
 
兼清:  今、まさにここで載っている瓦が、それなんですか。
 
辻村:  そうなんです。ですからそうなってきますと、歴史で言われているところの日本で最初に焼かれた瓦。「百済から瓦博士が来て、初めて瓦葺きの屋根が出来た」と書かれているその瓦が、今も実は載っているということなんです。
 
兼清:  屋根を見ますと、色がちょっと茶色っぽいものとか、灰色のものとか、ちょっと薄い灰色のものとか、いろいろありますよね。その中に飛鳥時代の瓦が含まれているということですか。
辻村:  そうですね。それは何故わかるかというと、一つは丸い瓦の―丸瓦の形が違う。奈良時代になると少し複雑になるんですよ。飛鳥時代はちょっと単純なんです。その単純な―いうたら原始的な瓦と、瓦の焼き方が低いので、植木鉢ぐらいの温度、ということは、植木鉢のような色、赤いかくろいかの瓦ですね、そういうものが残っている。
 
兼清:  近頃この屋根を支えている屋根裏の材木に、世界で一番古い可能性が高いものが見つかった、というニュースがありましたけれど、どういうものですか。
 
辻村:  部材でおりているのがあるんですね、材木が。それは年輪年代という新しい学問で調べると、いつ切られたものか、というのがわかるんです。それでいきますと、まさしく五百八十年代、飛鳥に最初にできた飛鳥寺に使われた材木であるというのがわかっていたんですが、今度はその技術が進歩しまして、今使われている材木からも年輪を割り出すことができるということになりまして、建物に現役で使われているものの部分をみると、年輪がはっきり読み取れて、それもやっぱり同じように六世紀の後半から七世紀にかけての非常に古いのと、それから移ってきてからの材とか、何本かが混じっているんですけども、一番古いのが六世紀の後半―五百八十年代という材木が現役で使われている、と。
 
兼清:  よくそんな世界で一番古いものがここに残っていましたね。
 
辻村:  不思議と言えば不思議ですけども、人に言うと、それぐらい材木が大事だったということが一つあるんでしょうか。それから桧という材木が非常に強いというか腐らないで残ってきたということですかね。それと意識して伝えてこようとした、飛鳥寺であるということで意識した人たちが守ってきた、ということじゃないですかね。
 
ナレーター:  辻村さんは、元興寺の住職になって、今年で二十四年になります。今では世界遺産に指定された歴史を誇る寺の住職としてさまざまな活動に取り組んでいますが、元興寺に生まれたものの、若い頃は僧侶になる気はなかった、と言います。
 

 
兼清:  辻村さんご自身は、かなり早い時期から仏教に興味は持たれたんですか。
 
辻村:  たまたま母親は寺の娘でしたから、私はお寺で生まれているんです。だからお寺で生まれているということからいうと、従兄弟なんかも、「このお寺の、この部屋で生まれて、儂らはここや。お前等はここや」という、お寺の中で生まれるというそれ自体けったいでしょう。他の人はあんまりいない。生まれながらにお寺で生まれるというのはけったいなものやなというのと、それで兄がおりますから、兄は小学校の四年生の時に得度(とくど)しまして、お坊さんになる儀式をしましたから、兄は跡を継ぐ。私は継がなくてもいい。何をしてもいい、ということを言われていましたんで、自由にしておったんですけども、十五歳の時に父方の方のお婆さんが―直接のお婆さんではなくて、親代わりのお婆さんなんですが―お婆さんが亡くなりましてね、亡くなるちょっと前に、僧侶になってもいいのかな、と思った時があります。それは父親が、「僧侶になるというのは、何も葬式ができるとか、職業としてのお寺のお坊さんというふうなことをイメージし易いけれども、そういうことではない、と。それは仏教者というか、職業としての仏教ではなくて、生き抜くためとか、思想としての仏教というものが基本にある、ということだ」という話を聞いていたんで、じゃ得度してもいいか、ということで得度したのが十五歳の夏でしたですね。
 
ナレーター:  辻村さんは、昭和二十七年(一九五二年)に元興寺の住職を務めていた父、泰圓さんの次男として生まれます。泰圓さんはすべての人々を悟りに導くという大乗佛教の教えを実践するかのように、仏教以外の活動にも熱心でした。
 

 
兼清:  辻村さんから見て、どんなお父様でいらっしゃいましたか。
 
辻村:  そうですね。見た目よりは―ほんとは若いですが、年寄りのように。ということは、ちょっと年上の人とは付き合っているというところがベースにありまして、その中でいくと非常に若い。その中でいくと動き―フットワークがいいということでしょうね。そうしまして、いろんなことをやっていましたから、同じ世代のお坊さんたちとも違うし、歳をとっている人たちから比べてもちょっと違う、というようなことがあって、先をみるというか、新しいこととかに、捉えることが好きやというか、まあ新しい物好きの人でしたね。例えば文化財を直すにしても、いつでも一番新しいやり方を採用しましょうという方法を採るわけです。ですから普通ですと、文化財というと綺麗なものを文化財と思うわけですが、そうでないものも文化財ではないかという。そういう新しいジャンルを考え出すグループに入りましたり、何と言うんでしょうか、一つのことをするということのできない人というか、しない人でしたから、何かいろんなことをしている。
 

ナレーター:  父・泰圓さんが元興寺にやってきたのは、昭和十八年(一九四三年)、それまで寺は、明治初めの廃仏棄却の影響で住職が不在となり、崩れかけていました。泰圓さんは、お堂を解体修理すると共に、寺に残されたものを調査し価値を見出すことで、かつての信仰の姿を取り戻そうとします。
 

辻村:  まずこのお寺の門から始めましたから、お寺の建物を直していきますね。そうしました時に、できるだけ復元をする。しかし、明治に途絶えていますから、まるっきり新しくしなくちゃいけないわけですよ。ある意味で明治の時に無住になっていますね。学校に使われたり、真宗のお寺で使われたりという、本来の使い方ではなくなっているので、本来の形がどうなのかということを調べなくちゃいけない。そうしますと、データがそれこそないわけですよ。細かいところまで、材木をばらして、もともとはどう使われていたか、みたいなところまで調査する。そして復元をし、それは一体歴史上どうだったのかというのは、歴史の資料を集めながら押さえていくということをしましょう、という声掛けまして、自分はできませんから、博物館とか、奈良の文化財研究所の共同の研究グループを作ってやるわけです。
 

 
ナレーター:  泰圓さんは文化財を専門に研究する組織を立ち上げ、元興寺だけでなく、全国各地の寺や遺跡から出てきたものの保存や修復を手掛けるようになります。また庶民が残した祈りの品々を調査研究することで、読み書きのできなかった人々の仏によせる思いにも光を当てたのです。
 

 
辻村:  発見がありましてね、天井裏からたくさん物が出てきたり、それから本堂の前のところから文化財が出てきたんですけど、これも本来ですと、ゴミとか、まあ出てきたな、と言って処分されるところなんですが、その頃から、これも一つの文化財である、と。当時は「重要有形民族文化財」と言ったんですけど、民族の文化財であって、日本の民族が信仰して残したものではないか、というふうな、そういうものの位置づけをし、確認していく。そのグループで、民族学者とか、歴史学者とか、そういう人たちと一緒になって、そういうものを立ち上げるように致しました。それが実は元興寺文化財研究所の元になるんですけども。それは全部で十万点にもなるんです。十万点のものをどないするか、ということになりまして、そうするとそれをきちっと十万点を一個ずつ、どういうものや、ということを本にするわけです。詰まらんようなものですけど、それを全部本にして出すという。それは基礎資料集成という方法なんですけど、そして研究所の成果としてのものを普遍化さして、他にもそういうところがあったら、ということで、例えば京都の壬生寺(みぶでら)―あそこも壬生狂言で庶民が集まっているというふうな、この元興寺と同じように庶民が集まってできあがった寺ではないか。あるいは六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)というお寺ですが、これも庶民によって栄えた寺ではないか。そこが同じように建物を修理したりするんです。やっぱり出てきよるんです。それの調査とか、奈良では室生寺(むろうじ)であるとか、建物に付随したもの、建物から出てきたゴミみたいなものをきちっと位置づけをするという、そんなことを始めたんですね。
 

 
ナレーター:  文化財の研究・保護活動の一方で、泰圓さんが力を注いだのが社会福祉事業でした。
 

 
兼清:  福祉事業の方ではどういうことをしておられたんですか。
 
辻村:  福祉事業は一番最初はいわゆる戦災孤児ですね。それから後になっていきますと、養護施設になりますが、養護施設と保育園、それから特別養護老人ホーム、それから身心の障害児施設ですね。そこまではやっていましたですね。
 
兼清:  それだけすべてご自分でやっていらっしゃったんですか。
 
辻村:  そうですね。
 
兼清:  結局、お父さんは文化財の仕事もする。福祉事業もする。非常にフットワークのいい方だった。それは仏の道として、どういうものを目指していらっしゃったんでしょうか。
 
辻村:  最初はお寺に入れてくれた伯父(おじ)さんという人が、仏教学の密教の学者だったんですね。学問する父親代わりの伯父さんがいていますので、その伯父さんからいろいろ聞いているんでしょう。それは坊さんが単に拝むだけとか、するだけではないぞ、ということを習っていたことと、師匠は生駒の山主さんですが、四六時中拝んでいる姿を見ているわけですね。そこで自分でしなくちゃいけないことというのは何だろう、というようなことを考えた時に、戦前、元興寺の住職になったというのはあるんですが、戦後戦争から帰って来まして、キリスト教の人たちは社会的な慈善事業とか、そういうことを昔からやっていますね。それが日本ではできておらん、ということをGHQから言われたんですね。それに対して、いや、そんなことはない、と。歴史上、日本にだって、行基さんもいれば、興正(こうしょう)菩薩もいれば、菩薩と呼ばれた人たちは、そういうことをしていたんだ、ということが根本になって、「儂もそれをする」ということを言ったので、それをやり通すということが一つあったように思います。
 

 
ナレーター:  社会に役立つさまざまな活動に力を入れ、幅広い人々と交流する父親の姿。辻村さんにとって、寺は多くの人たちが出入りする刺激の多い空間でした。
 

 
辻村:  父親の居たお寺は、食堂があって、板間でたくさんの人が来て食べて、というふうなとこで、本堂とかお堂はあって、離れていますから、朝にお勤めに行ったり、法事とかありますけれども、そんな生活で、しかも工事が長いことありましたから、遊び場みたいなお寺だったんですね。
 
兼清:  食堂というのは、食堂があっていろんな人が出入りする。
 
辻村:  自分が居ているところというのは、寝ておりました寝室はありましたけれども、普段居ているのは、我々が食べる食堂がありまして、私や家族の者と、それから養護施設の中学生とか、それから夜間高校へ通っている人たちとか、保育園の保母さんなんかが寝泊まりしていましたから、一緒に食べているんですけど、その人たちが居なくなって夕餉になるといろんな人たちが来るわけですわ。だからお寺を意識するというよりは、お寺に来る人をかなり意識するようになって、お寺に来るお坊さんであるとか、研究者の人とかの話を聞いたりして、発掘に来た先生方とか、調べに来た先生とか、その中には仏教の先生とかもおられて直接聞くこともあったんですけども、大体は小さいですから、父親と話をしたりするのを聞いたりして、お寺というのはそういう特殊なところやなということを思っていました。
 
 
ナレーター:  多くの人々がもたらす幅広い分野の知識に触れ成長した辻村さん。高校時代には各地の霊場を旅するなど、自分なりの方法で仏教と付き合い始めます。やがて仏像の研究に興味が湧き、大学は美学科に進むことになります。
 

 
辻村:  高校から大学になる時に、興味が何やと言ったら、仏教のこともまあまあそこそこ本を読んだりはしておりましたけども、今の仏像ブームじゃないですけど、仏像とかの方がお坊さんが説法しはるよりも十分説法しているんじゃないか、という思いでしたね。奈良にたくさん仏像があって、そこのお寺に行って話を聞くより、絶対仏さんを見ている方がよほどいいじゃないか、というのがあったり―それも勝手なこっちの思いなんですけども―そういうことがあって、それは一体何やろう、と。それは美学なのかなというので、美学のある大学はその当時そんなになかったものですから、父親に「キリスト教の大学やけども、ここでもかまわんか」と言ったんです。父親は大学の時に西洋哲学をしていましたから、そういうことからいうと、美学であるとかキリスト教学というのはベースにあるもんですから、「それはいい勉強になるやろう」ということで認めてくれました。行きましたけども、授業はあまり出ませんでしたね。ただ美学の研究室だけはよく行っていましたね。それと同時にそういう感情を移入したり、鑑賞したりということからいくと、芸能とか、そういうのもそうやな、ということで、そういうクラブに入ったりしましたけどね。
 
兼清:  古典芸能ということですね。
 
辻村:  大学四年間は、クラブの方が長い。時間的にはよく行っていましたけど。それと研究室だけですね。他の一般教養はちょっとやれませんでしたね。それで大学出てからは博物館に一年間行かせて貰った。それは非常に私にとってはよい経験であり勉強になりましたね。
 

ナレーター:  大学を卒業した後は、父が創設した文化財研究所で働くことにした辻村さん。研修のため奈良国立博物館に入り、文化財の調査や保存の実務を一年にわたって学びました。しかし研究者の道を歩み始めた矢先、大きな転機が訪れます。昭和五十三年(一九七八年)の五月、アメリカで海外に流失した日本の文化財を調査し帰国しようとしていた父・泰圓さんが、アラスカを飛んでいた飛行機の中で突然亡くなったのです。
 

 
兼清:  結局お父様と一緒にお寺での仕事はしていらっしゃらないわけですよね。
 
辻村:  そうですね。そういう意味ではね。
 
兼清:  突然になくなられると、なかなか気持の整理も難しかったでしょうし、どんな思いを感じていましたか。
 
辻村:  実は非常に困ったのは、何をどうしようとしていたかわからないということと、今後どうなるのかという先行きの危うさということがありましたね。これはみんなが経験することでしょうけども、そういう思いました。それと逆に目で見ていて亡くなっているのと違いますから信じられないんですよ。というのは、ちょうど亡くなる日に電話がありまして、「これから帰る」ということでした。私、その時に電話取っていたんです。「わかった」と。「迎えには来ないでもいいから、自分で帰って来る」というようなことを言って、暫くして私は研究所の仕事をしていたんですよ。そうしたら兄嫁が来て、「飛行機の中で亡くなった」というわけです。そこからどうなったかわからないような。元気な人が元気な声をしていて、突然亡くなるということだから、そういう意味ではぽっくり逝きはったといえばいいのか、あるいはそれは西の方向を向いて空の上で亡くなったんやから、これを空中散華(くうちゅうさんげ)というのかなとか、空想的に考えると、そんなことを思うんですよ。ところが遺体で帰って来て、暫くしたらだんだん居ないということになってくると、今後どないになっていくのかな、ということがよぎってきますね。ただその時に有り難いことに坊さんであるために毎日拝むわけですよ。そうすると、一生懸命拝むことによって気が楽になる。私は、「よう気が晴れない人は般若心経を唱えなさい」と言いますけどね、それと一緒ですわ。一生懸命拝んだりしていました。それをしたから何かになるということではない、心がそういう意味では晴れるわけではないけれども、落ち着くというか、何かが伝わっていくのではないかみたいなことがあって、これが一つの僕は行をして拝んでいるのかなと思いましたけど、それぐらい拝みましたね。私なりの拝み方を考えたらいいではないかとか、仏教の本来のありようのところに戻ったらできへんかったって、まあいけるのではないとかね、そういう気にはなりましたけどね。
 
兼清:  拝んでいることによって、自分の気持ちも整理がついて、ご住職を継ぐという気持も固まってきた。
 
辻村:  そうですね。それは拝むというのも、単に音で出すだけではなくて、お経に何が書いてあるということをもう一度読むということをしましたけどね。そうすると、仏教というのは実はこういうことだ、ということも、その時に大分学んでいるんだろうと思いますけどね。
 

ナレーター:  父の跡を継ぐことになった辻村さん。お経のあげ方や法要での作法など、僧侶として身に付けることを学び、九年間の修行を経て、昭和六十一年(一九八六年)、三十四歳で元興寺の住職に就任します。それから二年後、自分なりの住職のあり方を見出す出来事に出会います。
 

 
兼清:  辻村さんがお父さんからご住職を引き継いで、自分のご住職のあり方に気付いた時というのは、どういう何かきっかけがありました?
 
辻村:  晋山式(しんざんしき)を華々しくして頂きましてね、そこでたくさんの人が来られていて、支えてくだるんだなあという気持と、支えられてきたお寺だなあということも感じたんですね。ところがある時このお寺をもう一度どうするか、ということで見た時に、ピラミッド型に積まれた千塔塚(せんとうづか)という塚があったんですけど、それがいやに重苦しく感じたんです。ある人に「これどうや」と言ったら、「この中では重苦しい」というんですね。で、開けてみますと、中にもたくさん石塔や石仏があって、それは発掘する度に出てきているのが中に入っているんですよ。それで研究所の者に「これちゃんとわかる人居てるか」というて聞くと、「調査してるけどもわからない」というわけですよ。「このままだとわからなくなってしまうな」ということになって、「これこんなふうにして置くよりも、一度出した方がいいのではないか」ということを言ったんですね。そうしますと、ある人が、「それはいかんよ。触ったらいかん。お墓―一種のお墓みたいなものですね―お墓を触って良かったことがない」と私に言うので、私もまあまあ坊さんの端くれだから、「そんなことはないでしょう。喜びはすれど、そういうことであかんことになる筈がない」と言ったんです。だけどそれを実際にするのに、動かさなければいかんでしょう。「そんなこと手伝ってくれる人がいない」と言われたんですが、あるグループが手伝ってくれるというので、「そんならやってみようじゃないか」ということで、私も一緒になって全部出して、こう引っ付くものと引っ付かないものと合わせて、で、並べるということにした。そうした時に数の多さと、この石何だろう、というのを調べていくと、この辺の人のものだろうというのが大体わかるわけですよ。この辺の人ということは、ここを支えた人やなあ、と。そういう人たちによって支えられて、ここが出来上がっておった、ということがようわかった。父親の代というのは、この元興寺が本来「極楽院」と呼ばれていたものを「元興寺極楽坊」にし、「元興寺」という名前に変えはったわけです。元の名前に戻していって、天平時代とか、飛鳥時代ということを非常に意識して、それが見えるようにしましょう、ということでやってきたんですけど、そうなっていったために、それこそ息のないというか、血の通っていないような感じのお寺になりつつあったのです。それに対して中世の時代に庶民によって支えられたような形というのが、収蔵庫の中の資料館の中にある資料だけではなくて、実際に復元できるようなことというのは何だろうか、ということを思って、並べ替えよう、と。そのためには供養の仕方を考えようということで、たまたま知っている高野山の若いお坊さんが、「高野山で万燈供養という蝋燭でやっているが、十年間してやっと認められた」と言うんです。「それまでなんぼやっても、まあなんか勝手にやっているわ、ということが、十年続けると、みんながなるほど≠ニ言って、十年は続けなければなりませんよ」と言うもんですから、十年間するということを考えて、じゃ、やっていこうじゃないか、と。
 

ナレーター:  辻村さんは、境内の一角を占めていた千塔塚を解体し、出てきた千五百あまりに上る地蔵菩薩などの石仏や石塔を、田圃の稲のように整然と並べ直し、浮図田(ふとでん)と名付けました。その上で毎年八月に行われていた地蔵会の時、浮図田(ふとでん)の石仏に人々が灯明を供えて、有縁無縁、一切の霊を供養する万燈供養を始めます。万燈供養は辻村さんにとって寺を支えた過去の人々に思いを馳せ、現在未来に仏の教えを広く伝えていくことを再確認する重要な機会だと言います。
 

 
兼清:  八月に行われる地蔵盆の万燈供養というのは、どういう意味のある供養なんでしょうか。
 
辻村:  地蔵菩薩という菩薩を考える。そして供養して、そのお余くと言うんでしょうか、御徳を身に付けるということが一つあるでしょうね。それからその時に万燈供養するという、そのお地蔵さんの形が外で現されている時に、どのようにして供養するか、と言った時に、火を点しましょう。この火はおそらくいのちの火を点しましょう。油を注いだ燈心に点いた火が、過去のいのちから未来のいのちに繋がっていくような、永遠のいのちの繋がりみたいなことに気付いてもらう、ということでしょうか。それからその灯明皿を自分で火を点けて置くという時に、そのお皿に願い事というんでしょうかね、「誰それ家の家内安全」であるとか、「誰それさんの亡くなった方の供養のため、回向のために」ということを書いて供養する。そうすることでこの思いがお地蔵さんに伝わるように。「お地蔵さんはどこに居てんの」と言ったら、それは土の中というか地球にいてるということになるんでしょうね。そういうところに地球に繋がっている。「お〜い!」と言ったら、遠くの方に聞こえるような、地球の裏側まで聞こえるような、そういう思いで供養する、という。そんな繋がりに気付く、というふうなことであってもいいんじゃないですかね。それが一つじゃなくて、また数が増えますと、何となも言えん―当然火ですから―温かみがあって、そしてほのぼのとした気持のいい気分になると思いますね。
 

 
辻村:  私としては、飛鳥時代にされてきたものを継いできているみたいな意識をしているので、いのちの繋がりみたいに思っているんですよ、年に一回だけども。それから石塔や石仏自体は誰かが造っていますから、誰かのものなんでしょう、本来。しかしもうその人の手を離れると、その人のものではなくて、その土地のものになっていますわね。その土地のものになって、そこに根付いていて、そこへ来た人は、それぞれ勝手にそのお地蔵さんに願いを込めたりするわけですよ。それに叶ったようにする動きが、その石の地蔵さんであったり―違う地蔵さんであってもいいんですけど―実は地蔵さんそのものではなくて、その地蔵さんの精神は別にそこに出てくるのではなくて、誰かの中に出てきたらいいと思うんです。そこが仏教だと思うんですよ。観音信仰の人は、観音さんを拝んでいるというけど、この観音さんを拝んでいるのではなくて、観音さんのような気持を持った人がどっかに現れてくれたらいいわけですわ。そんなことに気付いてくれるようなお祀りになったらいいのにな、ということを再確認さして貰っています。
 
兼清:  気付くということが大事なんですか。
 
辻村:  そうですね。仏教の非常に大事なところだと思うんですね。あるいは宗教の一番大事なとこというんでしょうか。わからないでいると何にも気付かないで生きているけれども、気付くといろんなことに目覚めるということですよ。よく植物は動きが少ないですから、こちらから見ていないと何をうったえているかわからない。こっちから気付いてやらないといかん。動物は鳴きますから、それで気付くんです。人間はどっちにもなりますから、積極的に気付きつつ行わないといろんなことが進んでいかないというか、完成されていかない、ということなんでしょうね。
 
兼清:  逆に気付かないまま完成されてしまうこともありますよね。
 
辻村:  はい。そういうことですね。そうするとどうなるかというと、動物の場合だと弱肉強食みたいなものになるとか、植物でいうと、その地、そのところにはその植物だけになって、最後は枯れてしまうとかね。まあ反省のないことになるわけでしょうね。人間の場合は、そこに反省であるとか、懺悔であるとか、ということが自発的にありますから、気付きというのはまたある意味では自発的な行いであったり、自発的なものの考え方とかね、そういうものを生み出していくことになるということですし、それはいろんな問題が、外にあることの問題を、少し自分の問題になる、というんですか、そういうことが気付くことになるということでしょうね。
 
兼清:  外にある問題を自分の中に気付くとは?
 
辻村:  何か問題があったら、「私にこういう問題が起きているのは、他人(ひと)に問題がある」というていたのが、「実は自分のところにある」ということに気付くということでしょうね。そればっかりでもいかんのですよ。それを時々離す。なんか一点になってしまうと具合悪くて、振るんですな。
 
兼清:  外に行ったり内にいったり?
 
辻村:  ええ。外に内にいったりと、振ることがいいのではないですかね。例えば地蔵さんの地蔵盆の万燈供養が毎日あってはいかんわけで、夏の八月の時にしかないとか、減り張りみたいなものでしょうけど、それが必要なんでしょうね。
 
兼清:  普段はやっぱり何か嫌なことがあったら他人(ひと)のせいにしてみたり、自分以外のところに求めることが多いけれども、年一回、八月地蔵盆の時には自分の中に火を点してみようかな、というきっかけにもなる。
 
辻村:  そういう時期なんでしょう、夏と冬というのがね。神社でいうと、お祓いとかあるような、夏の暑い時とか、冬の寒い時にそういう振りなんでしょうね。単なる宗教的な行為・行事でもなく、物見遊散(ものみうさん)的なものでもなく、ある意味で風物詩的な、夏のこの暑い時に、火のちょっと熱いような感じだけども、何故そんなことがあるのか。それは大文字なんかもそうですけど、そういうものが一体何なのか、ということを思い出したり、気付いたりする時になるんじゃないですかね。「これで何かを感じなさい」というのも、押しつけがましいけど、サジェスチョンとしては何かがある、と。これは何で残ってきたんだろうとか、何でこれが美しいのだろうとか、今まで気が付かなかったね、と。だけどこれが世界で一番古い木だと言われると、何か愛おしく思ってくるかなとかね、そんなことですよね。だからそれはある意味で気付きであったり、視野を広げていく一つの材料になるんじゃないですかね。
 
兼清:  元興寺には飛鳥の時代のものから、今に至るいろんなものが残されていますけど、これからこのお寺としてどういうことをメッセージとして訴えていきたいと考えていらっしゃいますか。
 
辻村:  基本的に今まで伝わってきたものを、これは仏像や、あるいは仏具とかという信仰に直接関わるものから、日常の雑器と言われている茶碗とか、竈とか、お釜ですね。お釜なんかも骨壺として使われているものがあったりしますから、これは当時の人たちの生活の用具ですわね。そういうものを含めて、これからの人々に伝えていかなくちゃいけないという役割があると思うんですね。長い歴史がこのお寺にあって、その歴史を証明するようなものが、この奈良町と呼ばれている中でずっと守られてきた、というんでしょうか、守ってきたというか、そういうことの意義みたいなことも伝えていかなくてはいけない。そして庶民信仰というんでしょうかね、日本の文化にもたらしてきた日本の仏教の役割みたいなことが伝わるようなお寺として、今後も生きていかなくちゃいけないだろうというふうに考えます。
 
兼清:  奈良で長く文化財の保護に携わってこられて、この奈良にある古い文化を気付かさせていくことの意味というのは、どういうふうに考えていらっしゃいますか。
 
辻村:  特に仏教文化に限って言いますと、だんだんとわからんようになっていくんです、何でも。だんだんわからなくなるというのは、風化していったり、退化していったり、手を抜いていったりするわけです。何の行事もみんなそうですわ。その時に誰か気付くとちょっと元に戻しはるんですが、気付かないとそのままずーっと崩れていって、まったく違うふうになってしまう、という文化がありますけれども、幸いに奈良は風化しない形ですよ。生きたままいるわけではなくて、これは非常に基本的な形で残っているわけでしょう。正倉院とか、あるいは仏像や建物なんかが形をして残っているわけです。形として残っているということは、そこには心が籠もっていた筈なんですよ。それがあるために崩れていったところからいけば、そこへいくと心が見えるかも知れない。あるいは形がわからんところは、そこへいけば形がわかるかも知れない、ということがありますね。そうすると、形さえ残しておけば、ある意味なんぼかは伝わっていくわけです。ところが心の部分というのはなかなか難しいですね。しかもだんだんとわからんようになってくると、説明が多くなってくるわけですよ。博物館に行くと説明がもの凄く多いので、それを読んでいるだけで、こっち見えなくなるんですね。そうすると、見ないと、こちらだけを見ているというわけですけど、説明をなんぼか書かないとわからないということがあるので、そういう説明がたくさんしなくてもいいようなことになるような方法を考えていかなくちゃいけない。今の仏像ブームがどうか、ということについていうと、それはちょっと不安なところがあるわけです。何考えて貰ってもいいんですけども、ちょっとそれは坊さんの役割が入っておらんのですよ。美術品みたいになっているから、仏像が作品になって鑑賞者との一対一の関係になっているから、お坊さんが介在しませんから、題せん(説明文)も要りませんからね。題せんもなしで、坊さんもいませんから、それはいうたら仏像ではなくて、それは美術品になっているわけですよ。仏像ブームと言いながら。仏像ブームと言うのなら、ここに坊さんが間に入らないといかんと思うんです。それは博物館の学芸委員とかではなくて、坊さんがしなくちゃいけないし、それは奈良のお坊さんはそれをする役割はちょっとあるのではないかな、と思いますけどね。だけど僕も学生の時に、美学をしようと思ったのは、そのお坊さんの話は要らんと思ったから入ったんですけど―入口はね―実際はせっかくだから、そうすることが他のお寺にはないんですから。基本的なことがわかっていないといかんということがありますね。というのは、仏教のものの考え方というのは、だんだんとわからんようになっていくというんですよ。初めお釈迦様がおられた時はお経も要らなくて、話したらわかった、というんですね。
 
兼清:  実際に聞くことができたから。
 
辻村:  聞くことによって。対機説法(たいきせっぽう)でわからなかったら聞いたらいいわけで、そうしたら、「こういうことでしょう」と言って、お話ができたというのが、生きていた。法が生きていたので「正法(しょうぼう)」―正しき法ですね、正法の時代。ところがそれがお釈迦様が亡くなってしまうと、これはちょっとわからないというので書いたものを、何と言っていたかと書いたりとか、お釈迦様どんな格好していたかという姿を、まあいうたらビジュアル(視覚的)にとか、聴覚的な―当時はレコーダーがありませんから―視覚か、あるいは字ですわね、そんなもので残したんですね。だけどそれをする時には説明的になっておるわけですよ。本来、本質からいうと、周辺であったり、さらに説明的になっているというのが「像法(ぞうほう)」なんですね。だけどそれは一生懸命その本質を目指そうとしていたから、ちゃんと形には文字や像として形に残ってくれているわけです。「末法(まっぽう)」になると、今に法はわからないようになってしまう。末法がさらに進んでしまうと、もうわからない。支離滅裂になっているという。明らかにインドでは仏教がなくなって、回教に変わったり、ヒンズー教とかになったりしましたね。日本ではこれは大変やというて、山の中に今後六十億年ぐらい経ったら本当の仏教がくるだろうというて経塚があったりとか、平安末期からその末法が始まったというわけですね。末法が今に続いているわけです。その中で常に気付いた時に、まだ像法の時の元のところには、何かが残ってくれているわけですね。それは奈良の文化というのはまさに像法時代のものが残っていると、こう考えたらいいかも知れませんね。そうすると、もともとの基本的なというか、原点的なものが奈良には残っているんだ、ということを、奈良のお寺や坊さんは気付かないといかんわけです。そうすると、坊さんが気付いた時に現在に基本をどうやって伝えていったり、自分はどうやって受け継いでいくか、というようなことを考えていかんならん、ということになるんでしょうね。そしてそれをうまく伝えられた時に坊さん冥利に尽きるというか、菩薩として生きているんだなと思うじゃないですか。
 
     これは、平成二十二年九月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである