仏を描く 祈りを描く
 
                     仏 絵 師 藤 野(ふじの) 正 観(しょうかん)
一九五○年、滋賀県生まれ。高校卒業後、染織図案家本澤一雄に師事。九年の内弟子修行の後、独立。日本の伝統美意識の追求と伝統的美術の制作活動に専念。一九八四年、観音図を依頼され仏画に開眼。二年後、染織図案家としての活動を実質完全停止する。以後三年にわたり、主に藤原朝以前の仏画・大和絵など古画の描法の研究に没頭する。一九八八年、仏画制作工房「楽詩舎」として、弟子五名と共にプロ集団として本格的に制作開始する。一九九五年、東京駒沢学園講堂に、十八畳大の「平成大涅槃図」を制作、テレビ・新聞・雑誌に大きく取り上げられる。一九九八年、滋賀県「秦荘町歴史文化財資料館」で「藤野正観の仕事展」開催される。二○○一年、善峯寺と正法寺にて仏画教室開講。制作作品は多数。
                     き き て 兼 清 麻 美
 
ナレーター:  仏絵師藤野正観さん。仏や仏の教えを伝える仏画を四半世紀にわたって描き続けてきた藤野さんは、今年還暦を迎えました。仏の絵を描き始めたのは三十代半ば、染め物や織物の図案を描く仕事からの転身でした。
 

兼清:  細い線を描く時は息を止めていらっしゃるんですか?
 
藤野:  息していますよ(笑い)。多少止めているのかな。
 
兼清:  この絵はどういう場面が描かれているんですか。
藤野:  お釈迦様が正面で、この世の無常をお母さんに向かって説いておられるシーンなんですよ。「釈迦金棺出現図(しゃかきんかんしゅつげんず)」という非常に 珍しい絵です。これもそもそも平安時代の末期に描かれた原本があるんですけども、今は京都国立博物館の所蔵になっている。そういう絵なんですけれども、色がほとんどわからんです。当時こうであったであろうというのを多少加味して、今色を付けています。
 

 
ナレーター:  千年以上の時を越えて受け継がれている人々の祈りの心を、そのまま仏の姿に現すことが自分の使命だと、藤野さんは考えています。これまでに描いた仏画はおよそ四千点。全国の寺院などに納められたり、仏画が欲しいという人々の手元に置かれたりしています。
 

 
藤野:  技術にきちんと裏打ちされ表現―絵画としての表現というものも大事にしつつ、祈りの塊として、次の時代へ継承をしていかなければいかんことだ、と。自分の工房では、そういう作品を生み出すところなんだという、自分でその辺のことを大事にしなければいかんと思っているんです。
 
ナレーター:  京都市西京区(にしきょうく)にある善峯寺(よしみねでら)。藤野さんが仏画師になるきっかけとなったお寺です。十五年ほど前からは、毎年藤野さんの仏画の展覧会も開かれています。今回の「こころの時代」は、仏絵師・藤野正観さんが、仏画を描き続けてきたことで見えてきたものは何か、をこの寺で聞きます。
 

 
兼清:  藤野さん、そもそも仏絵師というのは、どういう仕事をしていらっしゃるんですか。
 
藤野:  私の場合は、全国の寺院から「こういう仏画を描いて欲しい」と言われて、引き受けてお描きする。仏画って、いろいろ広範囲にあるんですけど、取り敢えずは仏様の図ですよね。それが仕事です。
 
兼清:  その絵は、もともとの絵があって、何かを見本に描くわけですか。
 
藤野:  そうです。それで日本には、国宝とか重要文化財というのがありますね。その中で仏教美術の占める割合が八十パーセントぐらいらしんですよ。
 
兼清:  そんなにあるんですか。
 
藤野:  だから古い良いものが、お寺が大事にしているが故にずっと残っているわけです。だから例えば、それが博物館預かりであったりすると、お寺にないわけでしょう。だからお寺で仏画というものが欲しい時には、写真に撮って複製するか、我々のような絵師が描くしかないじゃないですか。それでそういう気持のあるお坊さんが注文して頂けるということです。
 
兼清:  じゃ、もともとの古いもので剥げてしまっているものとか、もう何百年も前のものだと見えない部分も多いわけですよね。そういうところはどうするんですか。
 
藤野:  粉本(ふんぽん)というんですけど、そういう昔の下図が受け継がれているわけです。それが京都の街の古本店なんかに行くと、ちょっとあったりして、それを見付けると買い求めてくるわけです。
 
兼清:  「なるほど」って、いろいろ検討するわけですか。
 
藤野:  そうそう。これはこうなのか、という。だから仏画というのは、誰かが一つ描いたらそれで終わりというものではなくて、一つ仏画があれば―このよい例がね、「黄不動(きふどう)」(三井寺に秘仏として伝わる、全身が黄色の不動明王立像の仏画である。平安時代前期の作で、国宝に指定されている。円珍が感得した像を描いたものとされる。三不動の一であり、別名、金色不動明王)というのが滋賀県の三井寺にあるんですけど、それは曼殊院(まんじゅいん)にもあったり、写し写ししていくわけですよ。この時代にこの人が写して、次の時代にこの人が写して、で、色を施していくという。だからそれも同じ国宝なんですよ。二つとも同じ「黄不動」で、よく似たのがあるんですけども、そういう作例もある。同じものがいくつかあると思ってください。
 
兼清:  そうすると、先ほどお仕事場で見せて頂いた、今描いていらっしゃるものも、今、後ろにあるこの絵も、もともとある絵があって、そしてそれを模写ですか、それとも模写プラスアルファ創作というか、
 
藤野:  私は、「模写」の定義というのははっきり知らないんですが、「模写」というのは、いわゆる現状をそのまま写すことが模写でしょう。それもあれば、もともと多分こうであったんだろうと、学術的に研究を重ねて、描かれた当時の仏画に再現する。大きく分けてこの二種類の模写の方法があると思うんです。どっちも私としては、それだけでは勿体ないやないの、という思いがするんです。何故なら七百年とか千年という時代をその古い絵は経ているわけでしょう。つまりその間みんなが祈って、祈り塊の部分ってあるわけじゃないですか。で、それも写し取らないと間違いなんじゃないか、と。元に戻してどうするんだ、と。つまり再現している模写って意味がないじゃないか、というのが、私の中にあって、時間の経過、祈りの量も写し取って、次の時代に伝えていく。だから模写というとちょっと抵抗があるんですが―私なりの仏を写さして頂く。で、次の時代に伝えていく、というような思いでやっています。
 
兼清:  でもその何百年もの大勢の方たちの祈りの気持を、どうやって今描くことができるんですか。
 
藤野:  例えば七百年前の本当のお宝の絵―仏画とか、仏画が多いんですが―博物館なり、特別展なりに行って目の前にした時、やっぱり感じるものが違うじゃないですか。感じますよ。ずっと長い間拝まれてきたものである、ということは確かなことですから、大事にされてきているわけでしょう。その部分を、今自分が写すところに表現するには、こうした方がいいんじゃないかと、いろいろ試行錯誤してきているわけですよ。だから今まったく新しい色に戻すという模写はうちではしていなんです。
 
兼清:  藤野さんは、描いていらっしゃる時に、どういう気持を込めていつも作品を作っていらっしゃるんですか。
 
藤野:  「気持を込める」と言われると―全然気持を込めていないというとなんか失礼なんですけど、自分はもう六十になるんですが、たかだか六十年ぐらいの私が、私の気持を込めたところで、所詮その七百年千年の祈りを表現しきれないと思うんですよ。私の気持ちを込めるということにおいてね。だから私はむしろ自分を殺してしまう。我を捨てて、ただただ今まで祈られてきた仏さんをどうにかして、自分の今の技量で表現さしてくれないかしらという、こっちもまた祈りですよ。その部分でしか挑んでいけないという仕事だと思いますよ。だから自分の気持を込めて仏画を描くなんて、実はちょっとおかしいのかなと思ったりもしますよ。つまり私が描きたい絵は当然あるんですが、お寺の住職なりお坊さんが、「自分が夢に見たこんなのを描いて欲しい」というのを喜んで描かして頂く。自分は介在しない。介在したらおかしいでしょう。人の代わりに描くわけですから。その方の代わりに描かして頂くという。
 
兼清:  でも、それが千年以上も前、その頃もその仏画に安らぎを求めた、祈りを捧げた人たちがいて、今も藤野さんの描かれる仏画に祈りの気持を持つ人がいて、同じ構図に、同じように千年以上も前の人も今の人も祈りの心を持っているというのは凄く神秘的ですね。
 
藤野:  神秘的よ。でも昔の絵など真っ黒でほとんどわからない。けど、お香が焚いてあって、蝋燭があって、ぼおっと何かわからないけど、有り難いということで祈るというのも、それも一つの仏画は仏画でしょう。でもそれは自分の中の仏さんと出会っているわけですよ。真っ黒に汚れた綺麗な絵ではないでしょう。でも、こうやって拝める事実というのはやっぱり自分の中の仏、菩薩と対面されているわけですよ。その中に見えていないけども、自分で見えている状況、例えば野に石で積んだだけのお地蔵さんがあったら手を合わす。それは、決して上手に作った綺麗な仏さんじゃないでしょう。でも、祈れば全部仏さんでしょう。だから私はそれプラスその仏画をご覧になった方が思わず手を合わせたくなるとか、慈悲とか慈愛とかというものを感じて欲しいという、そういう絵を描かなければいかんな、と。
 

ナレーター:  藤野さんは、一九五○年(昭和二十五年)、現在の滋賀県東近江市で生まれました。小学一年生の時、地元の写生大会で入賞し、絵を描くことの楽しさに目覚めました。誉められたことが子ども心に嬉しくて、それ以来閑があったら絵を描いている少年だったと言います。
 

 
兼清:  藤野さんが、絵を仕事にしたい、絵を描きたい、絵が大好きだ、と思うようなきっかけは、何かあったんですか。
 
藤野:  小学校の二年生の時、盲腸炎で入院したけども、今でいう院内感染だと思うんですが、ちょっとわけのわからん病気に罹りまして、一ヶ月ちょいかな、お袋もその病名を忘れてしまっているんですが、先生が徹夜して調べたら、何とか何とかという病気だったらしいですが、ちょっと死にかけたらしいんです。その入院が一ヶ月強あって、そこで叔父から貰った児童文学小説が、『フランダースの犬』(イギリスの作家ウィーダ著)なんです。有名なお話ですよね。それを読んだら、あの少年ネロも絵が好きな少年でしょう。で、自分と重ねて、全部本を読み上げるわけですよ。悲しい悲しい物語やけども、最後の最後にルーベンス(バロック期のフランドルの画家及び外交官:1577-1640)の宗教画を見ることができた。寒い冬の中でルーベンスの絵を見ることができて、パトラッシュと一緒に安らかに天国に行くという話でしたよね。私は絵が好きな少年だったわけでしょう。それをズーッと引きずって、やっぱり宗教画というのか、特にイタリアのルネサンス期の聖母子―いろんな人が書いていますが、特にラファエロ(ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家:1483-1520)が大好きで、いろいろ真似たりする。油絵を中学校の後半だったかな、油絵を手に入れて真似するんですが、なかなかできませんよね。
 
兼清:  中学生で宗教画を描いていたんですか。
 
藤野:  宗教画か何かわかりませんよ。綺麗な絵のことはわかります。宗教画という意識はしていないので、綺麗な優しい顔のお母さんが赤ちゃんを抱いていたり、眺めたりという、あの視線ね。つまり慈悲とか慈愛という表現に心を打たれていたんでしょうね、幼いながらもね。ああいう絵が綺麗だなと思っているわけですよ、自分の中では。だから絵を描けるようになりたいなというのが、中学、高校まで続きます。
 
兼清:  よほどルーベンスの絵を見たことで安らかに天国に召されたネロとパトラッシュのそのシーンが焼き付いたんでしょうね。
 
藤野:  こびり付いているんですよ。だから盲腸炎の時、私は手術を受けたでしょう。その時、スーッと意識が遠のいていくんです。その感覚を覚えていますものね。それとネロがスーッといくのとダブらせたりなんかして。絵画というものは、人を安らかにさすことができるものなのだという、絵画に対する価値基準みたいなものを自分の中で思っていたんでしょうね。だから今分析するとそうなんでしょうけどね。
 
兼清:  中学・高校は何かクラブ活動をやったりしていらっしゃったんですか。
 
藤野:  勿論お絵描き少年ですから、美術部というところに席を置くわけですよ。中学校の時は、比較的私はアカデミックなというか、技術というものを大切にするような絵が好きでけっこう自分なりに描いているわけです。下手か上手いかというのがよくわかる絵なんですよ、私の好きな絵はね。けど、印象派というのは、上手なのか下手なのかわからないけども、「何こんなのがいいの」という絵が張り出されるわけです。私の絵は張り出してくれないんです、廊下にね。何だ、評価されないのか、みたいなのがあったんですが、ところが高校に行きますと、ちょうど一年生の担任が美術の先生で、鹿取武(かとりたけし)という日展の彫刻の会友になっておられたかな、毎年日展に出品されているような先生で、馬が合うんですよ。その先生は、さすがに彫刻する人ですから、技術というか、物を見る目というか、具象と いうものに対して厳しい目を持った先生であったんで、私が追い求めているものと、その先生が拘るものとが合ったんでしょうね。だから私はその先生の薦めもあったりして、美大、芸大へ行きたいと思ったんです。昔のルネサンス式のああいう絵は、見よう見真似ではとても描けないものだ、という考えがあるわけですよ、自分の中ではね。だからやっぱり美大、芸大に行って、自分は勉強するんだ、と心の中では一年生ぐらいから思うんです。で、喜んで美術部に席をおいて、いろいろ市展、県展に出品した。けっこう野球部と同じくらいに新聞に載ったりするんです。喜んで描いて、一番楽しい時期でもあったんです。結局学校へ行くか、就職するかになるんですけど、どうしても家の親父が反対するんですよ。で、「絵を描いて生活できるわけない」ということを親父がいうわけです。そういう親父が頑なに一人息子の私にいうのには、「自分たちの仲人で、私の生まれた郷土に洋画家がいた。その洋画家が昔の帝展(今の日展)にも特選を取ったような、誰が見ても偉い絵描きさんがおられた―その方に親父は仲人をして貰っているんです―その方が、実は結核で貧乏のどん底で、結核で亡くなっていった」と。その現実を目の当たりに見ているもんですから、多分息子はそんな絵描きなんて絶対になってはいけないのだ、というのが本音だったんでしょうね。だけど、自分としてはどうしても絵の道に 進みたい。筆を持って生活できたらいいのに、と思っていたんです。だから反対されて、高校三年生の時はちょっと拗ねましてね、エレキーギターとオートバイと油絵に一生懸命になっていましたよ。夏休みが過ぎても行き先が決まらないものですから、親はちょっと心配しますよね。そうするとたまたま京都に、友禅染めの工場をやっている叔父がいまして、「ちょっと来い。そんなに絵が好きだったら、私の所で働けよ」ということで、見に行ったんです。ところが染織工場というのはちょっと違うな、と。そうしたら、「染織図案家という先生に絵(図案)を描いて貰っているので、その先生を紹介するからきちっと身なりを正して出直して来い」と言われて、そうして一週間ほど経って、きちっと白いシャッツ着て、その先生のとこへ連れて行って貰うわけです。それが本澤一雄(ほんざわかずお)という、その当時は凄く活躍されている染織図案家で、そのアトリエの中にあげてもらうとたくさんお弟子さんがいて、如何にも絵の好きそうな人ばっかりが、机にずらっと並んで、ふと見ると、今まで見たこともないような日本の色、形、そういう今まで見たことのない綺麗なものがその人たちの目の前にある。だからこれはこれでちょっと勉強すれば、自分が今まで油絵を一生懸命描いてきたんですけれども、ちょっと面白い絵が描けるかもわからんぞ、みたいな横着なことを考えて、そうか、十年で独立するというならば、よし、ここに十年お世話になろうというので、その場ですぐに「お願いします」と言って。夏に行ったんですから、次の年の三月には京都に来て、その先生のお家の内で内弟子として厄介になるわけです。それで日本の形とか色とか、そういうものを嫌というほど勉強して、伝統的な美術の世界を自分のものにしていくんですよ。
 

 
ナレーター:  染織図案家の本澤一雄さんに弟子入りを決めたのは、どうしても絵に関わる仕事がしたいという一途な気持からでした。当時一流の図案家として活躍していた本澤さんから、大和絵など日本画の基礎になる技術を学び、藤野さんは古くから日本に伝わる美の世界にのめり込んで行きました。九年間の修行を積んで、藤野さんは図案家として独立しました。数々の賞を受賞するなど、仕事は順調そのものでした。しかし藤野さんは、いつも満足できない自分を感じ続けていました。
 

 
藤野:  何か自分の中ですっきりきていないんですよ。ちょっと違うなというのがどっかにあるんですよ。これは何やわからんのですよ、自分の中で。それがいつ頃まで続くんかな・・・。独立させて頂いて、五、六年ぐらい図案の仕事もして、順調にいくんですよ。家も買い―家を買うんですから大したものでしょう、順調でしょう。でも自分の内ではどうも順調ではないんですよ。これは何やよくわからないんですけど、ある日、やたら絵の道に進むことを反対していた親父から電話が入りましてね、この善峯寺も西国の札所で巡礼をするというのが昔からあるんですけど、「西国三十三所の札所をお詣りに巡りたいから、集印軸を描いてくれ」という。集印軸にご宝印を貰って廻る。集印軸は絵絹(えぎぬ)というものを使って描いていたんですよ。昔からの描法なんですけれども、画材としての一つがあるんです。それをたまたま親父は見ていたんでしょうね。同じものじゃないかと。器用に絵を勉強しているわけだから自分の息子も描けるに違いない、と。親父が電話をしてきたわけですよ。「集印軸の真ん中に観音様の絵をお前だったら描けるやろう」ということで、「ああ、描けるわ」と。所詮、絵の道を反対していた親父がいうことやから、うんうん、いい加減に返事をしておいたんですが、
 
兼清:  突然ですか。
 
藤野:  突然ですよ。それまで勿論喧嘩別れしているわけではないですから。
 
兼清:  でも反対していた姿勢は変わらないままでしょう。
 
藤野:  親父がその頃気付いていたのか、気付いていないかわかりません、未だにね。もう亡くなりましたから。でもこの仏画を始める直接のきっかけというのが、元へ戻してくれたような気がするんです、親父がね。電話で、「描いてくれ」と。初めて仏画とは何ぞや、ということで、いろんな本を読むわけです。自分のところにも染織関係の本もあり、絵の本も当然あるんで、いろいろ見てみると、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音」という絵が出てきまして、あ、これが観音さんか、綺麗なもんやな、と。これを写したらいいんやな、というんで、まあ、親父のために描くわけですよ。何日かかかって、田舎まで送ると、一緒に巡礼詣りするお仲間も、「いいな。私にも描いてくださいな」ということで、二人から注文らしき依頼がありまして、「同じものでいいんやね」ということで描いたら、お礼を貰いますやないですか。あ、仏画を描いて生活できたらこんなに楽しいことはない、と。昔のラファエロの「聖母子」の絵を憧れていたようなものが、「悲母観音」の目線に同じものを感じて、テーマが同じ絵やないの。そうしたら今まで培ってきた描法、要するに日本の絵絹に描くという描き方が、百パーセントどころか百二十パーセントぐらい活かせるんじゃなかろうか。これを仕事にしたいな、と思った時に、ちょうどその頃二軒目の家を買っているんですけど、その家のすぐ横に善峯川という川があって、その上の方を見ると、このお山の中腹にこのお寺が見えているんですよ。で、そうや、お寺に相談しに行って来よう、と。横着でしょう、何のアポも取らずにさっきの大きな山門のところに来るわけですよ。ええっ!となりますでしょう、自分が何を頼みに来たのかよくわからないという状況で。どこにお坊さんがお出でになるかわからない。それであの階段を上ってくるわけですよ。たまたまピンポンを押すところに、ここにお住まいなんだなということで、ピンポンを押して、この寺の本坊に上がらせて頂いて、ちょうどもうお亡くなりになりましたが、その時の住職の掃部光暢(かもんこうちょう)さんと、その時の副住職―今の住職の掃部光昭(かもんこうしょう)さんのお二人がちょうどおられて、「何ですねん」ということで、座敷に上げてもらったわけですよ。で、「自分はお経も読めないし、仏教というものがもう一つわかっていないんですが、絵のことに関してはけっこう自信があります、と。勿論九年染織図案というもので勉強してきました。だからもしこういう仕事があるのならば、自分は一生懸命やりたいのですが、そんなのいいんでしょうか。京都の街にはそういう人がいっぱいいると思っていましたから、そのお仲間に入れて貰いたい」というようなことを言うたんです。そうしたら、「僧侶には僧侶の修練があるけれども、絵描きさんには絵描きさんの修練があるわけだからいいんじゃないですか。自由にお描きなさい」という、私にとっては後ろから肩を押して貰ったような、そういう実に有り難いお言葉をお二人から頂くわけです。
 
兼清:  随分唐突ですよね。
 
藤野:  唐突ですよ。よくそんなことできたものやな、と。で、そこで「完成したら見せてください」と言われた。何ヶ月かかってか、一生懸命描くんです。描いてまた見せに来ると、「よろしいじゃないの。うちの高級集印軸として置かしてください」というお言葉を頂きました。
 
兼清:  じゃ、その時に集印軸を描かせて貰ったその絵が藤野さんの仏絵師としてのデビュー作なわけですか。
 
藤野:  そうですよね。
 
兼清:  その時はどんなお気持ちでしたか。
 
藤野:  それは嬉しいですよ。今までの図案の仕事も少しはせないかんのでしょうけども、仏画の仕事ができるんやという、そういう浮き浮きした気分になります。だからのめり込んでいきますよ、もっとその後は。ぐんぐんと古画を写したりして、自分で勉強したんです。
 
兼清:  染織の図案家をしていらっしゃった時に、何か物足らないと思っていたことが、その仏画を描いて認められたことによって解消されましたか。
 
藤野:  勿論。だからそれはこのお寺に来る前に、親父の集印軸に観音様を描いている時に、「これや」と。これは私が生活していける仕事にしないと、自分が生まれてきた意味がないぐらいのことを思いましたよ。
 
兼清:  ギュッと掴まれたんですね。
 
藤野:  そうなんでしょうね。
 
 
ナレーター:  仏を描くことを一生の仕事にしたいという思いが一気に高まった藤野さんは、染織図案の仕事を減らし、仏画の勉強に集中するようになります。数々の賞を受けた染織図案家として、描く絵に自信は持っていました。しかし仏画を仕事にすることは容易ではありませんでした。
 

 
兼清:  そして仏絵師の仕事が始まって、ここの仕事をきっかけにどんどん仕事の依頼がくるわけですね。
 
藤野:  来ないですよ。
 
兼清:  来ないんですか?
 
藤野:  来ないですよ。だから二年、三年間はやっぱり図案の仕事をしながら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、善峯さんだけではあかんのかな、ということで、あるお寺に―同じ西国三十三札所なんですけれども―行くと、「藤野さん、それはな、お金持ちばっかりやないんねん。巡礼する人はね、お金がないようなおじいちゃんおばあちゃんまでもやる。印刷物はないのか」と言われた。うん、そうか、ということで、絵描きにも拘わらず、印刷というものをちょっと意識して、京都に仏画を印刷できるようなところはないのかということで―何にも知らんわけでしょう―電話帳で捜して、電話掛けたら、一軒そういうことをしているというとこを見付けまして、「私の描いた絵を印刷して貰えないやろうか」ということで、行くわけです。そうすると、「こんな上手にトレースをできる人がいないので、自分でやってください」ということで、トレースをするわけですよ。そのシルクスクリーンという印刷の仕方なんです。トレースのやり方を教えて貰って、細い墨の線で描いて、それを持っていくと、「素晴らしい線やな。こんな線で描ける人は京都にいないので、うちの仕事して貰えんやろうか」ということになって、それで仕事を貰うわけです。逆に仕事を貰って、帰って来て、また描いて持って行く。そうしたら、「こんなお坊さんがいるんで、描いて欲しい言うてはりますで」と紹介される。そういうところからちょろちょろ仕事が入ってくるようになって、決定的なのは、そこからの繋がりで、ある出版社の社長さんと出会ったことです。お経とか、お寺の立派な本などを出版されている専門の出版社なんですけども、その社長と巡り会いまして、「あんたの絵を売りたい。そんな思いでやっているのなら、どんどん描いてください」ということで、大きな(後ろの山越阿弥陀図を指して)これぐらいの絵を「五つ描いてください」ということで、えっ!もう仕事を頂けるの、ということで喜んで描き始める。また五つ、一ヶ月に五つ、十個描いてください、とか、そこから私ががむしゃらに描き始めるわけです。で、一人では描けないぐらいにお仕事が舞い込んでくるわけですよ。勿論その出版社を通じてですよ。こんな凄いのかと。自分でも、これでいいのかなと思いながら。
 
兼清:  その時はもう一人で夜遅くまでひたすら描いている、
 
藤野:  仕事が、自分一人ではできないぐらい入ってくるわけですから、京都の街なら仏画を描く人がいっぱいいるであろうから助けて欲しい。スタッフを募集しましょう、と思って、人指し指ぐらいの新聞広告を出すんです。広告出したら二十人ほど来られたんですけども、結局描ける人がいないから無理だということで、どうしようと思っていたところへ、その中の一人の人が、「どうしても仏画というものを覚えたいんだ」という。私が描いている前にちょこんと座り込むんですよ。「こんにちは」と言って、上がり込んで来てね。そういう人がいて、「わかった、わかった。そうしたら教える。教えるから仕事を手伝ってくれよ」と。で、そういう人があと四人いて、全部で五人の人たちが、「教えてください」ということで来た。その人たちはいろんな事情を抱えていたんだと思うんですが、もの凄く前向きなんですよ。私が大きな仕事を、例えばこんなの描けないな。そんな知識もないし、と断ろうかなと思っているものも、「やりましょう、やりましょう」というので、お尻を叩いてくれて、引き受けてしまうんですよ。
 
兼清:  お弟子さんたちにお尻を叩かれながら(笑い)。
 
藤野:  叩かれているんですよ。「やりましょう、やりましょう」と。
 
兼清:  無理だと思った仕事もやらされる(笑い)。
 
藤野:  やらされているんですよ。もう言われるがままにどんどん描いていましたよ。だから夜中の二時三時四時は当たり前でしたから。それで次の朝の八時にはまた仕事しているわけですから。よくやれたなあ・・・というぐらいにやっていますよ。まだその時は仏画を描いているとか、なんとかよりも、やっぱり仕事という認識の方が多かったように思いますね。でもその十年間という出版社にお世話になっていた時というのは、否応なしにという表現が正しいかどうかわかりませんが、その間学者―仏教学を勉強している方とか、仏教美術を研究されている方とかのいろんな考え方とか、意見、アドバイスを頂いて、どんどん自分が成長していく、知識も身に付くし、仏画家・仏絵師としてどんどん自分が成長していっているのは、自分で少しずつ気が付いていっていますよ。いいぞ、いいぞ、よしや、よしや、というみたいなものが。仏画というのはわからないことの方が多いんですよ。それが出版社のお付き合いをしている学者さんによって、会っても頂けるわけですからすぐ解決していく。もし一人でやっているならば、何日もかからないとわからないことが、その出版社の電話一本で回答頂けるわけですから。
 
兼清:  今ある藤野さんの土台を作ってくれたわけですね。
 
藤野:  仏画家・仏絵師としての、今大きく胸を張れる部分はこの辺にあるのかな、と。自分一人ではできなかったことを、その出版社のお陰でいろんな経験をさして頂いたということですよね。
 
兼清:  その仕事のペースは続くわけじゃないんですよね。
 
藤野:  そうですよ。十年ぐらい続くでしょう。大きな大き な涅槃図の仕事が入って、私の転機になるんです。その間に何人ぐらい弟子が居たでしょうね。その頃ピークで十人ぐらいいたんでしょうか。で、出版社を通じて、大きな大きな涅槃図の仕事が入ってきました。それはもう十八畳の大きさでしたから。
 
兼清:  畳十八畳?
 
藤野:  そうそう。五メートルx五メートル、そういう大きなサイズの大きな仕事をするには、自分の工房ではとてもじゃないが描けない。どっかないいところはないかな、と。そうや善峯寺なら空いているお堂があるやろうということで、久々に電話をするわけですよ。それまでは集印軸のお仕事は電話でちょろちょろ頂いていたんですが、もの凄く懇意にということではなくて、昔お願いしたにも拘わらず、けっこう疎遠になっていて、集印軸だけの繋がりだけだったんですけども、その時に電話をすると、ちょうど薬湯というお風呂があるんですよ。そこに板の間の広いところがありまして、「そこが空いていますよ」ということで、「あ、有り難うございます。助かりました」ということで、ここで大きな涅槃図を描かせて頂くんです。
 

 
ナレーター:  今まで見たこともない、とてつもなく大きな涅槃図を描く。それは仏画を始めて十年ほどの経験しかない藤野さんにとっては夢のような話でした。完成した涅槃図は、藤野さんの名を全国に広めました。それまでにはなかったさまざまな仏画の依頼が舞い込んできたのです。藤野さんは、もっといい仏画を描きたいと思い、一九九七年(平成九年)釈迦の生誕地であるネパールのルンビニを訪れることにしました。釈迦の生涯の一端に触れることが、仏法の真髄を学ぶことになると考えたからでした。ところが、帰って来た藤野さんを、思いがけない出来事が待っていました。仕事の中心となっていた出版社の倒産。いきなり仕事がなくなってしまったのです。
 

 
兼清:  藤野さん、その出版社が倒産した時に、百パーセントそこに仕事を依存していたわけですから、奥さんもお子さんもいらっしゃって(笑い)。
 
藤野:  そうそう。仕事がないんですよ。
 
兼清:  それは大変なことでしたね。
 
藤野:  大変ですよ。「その月の貰うべきお金はどうするの」「今描いている曼荼羅はどこへ納めるの」とか、あたふたとしましたよ。で、いわゆる貰うべきものを貰っていないという動きは一応しましたよ。でもすぐに諦めましたけどね。いろんなとこへ廻ったんですがどうしようもなくて。その後、当然明日から仕事がこないわけですから、七、八人いた弟子が二人になってしまうんです。一番自分が傷ついたのはそのことなんですよ。次にわたる不安よりも傷つくわけですよ。
 
兼清:  お弟子さんが居なくなったことがですか。
 
藤野:  だって、弟子と自分は思っているわけでしょう。この人たちの将来を私が何とかしてあげないといかん、という関係だと思っていたんですよ。ところが見切りを付けられたという、こういうことなのかという。でも傷ついた自分は、それでも仏画を描くことによって時間と共に癒されていくというのか、忘れていくというか。で、もっと時間が経つと、彼女たちのお陰で今の自分がいるんじゃなかろうか、と思えるようになってくるわけですよ。
兼清:  それだけ、もうこれしか自分のやることがない、というふうに、無意識かも知れないけど。
 
藤野:  そうそう。一種の使命感のようなものを感じているわけですからね。だから自信を通り越して、使命感みたいなもの。「教えてください」という人が、今も何人かいるんですけども、今まで六十人ぐらい出入りしているんです、若い子もちょっとお年を召した方も。そういう人たちの思いも頂くわけでしょう。止めるわけにいかんでしょう。で、伝えていかなければいかん、という。私しか伝えられないのだ、という。この人たちに伝えないといけないということもありましたし、(仕事を)辞めるに辞めれないとか、いろんな錯誤していましたよ、自分の中では。
 
兼清:  お弟子さんたちから触発される使命感の他に、藤野さんのおっし ゃる使命感にはもっといろんな意味があるような気がするんですけど。
 
藤野:  少なくとも、仏画というのを伝えていくということは、仏法そのものじゃないですか。仏法を図式化しているのが、仏画という捉え方をするとね。勿論、直接的感覚的に視覚を通して、仏法でなくてもいい、ただの私がルネサンス式の絵に感じたような慈悲の目線だけでもいいと思うんですよ。でも仏画というのは、本来はお釈迦さんの説いた法というものを伝えていく使命をきちっと持ったものですから、それを伝え教えていくということは、やはりそれは仏法そのものであったり、祈りそのものであるわけですよ。だから自分が生かされてきたわけでしょう。たまたま生かされてきたものが何ぞや、ということなんですが、ちょっと烏滸(おこ)がましくてよう言えませんけども、その何か、というものを含めて、若い人たちに自分のやってきたことと、その根底にある祈りとか慈愛とか、そういうものを伝えていかないといけないみたいな、そういう使命感というのが自分の中にあったんでしょうか、もう既にあったような気がするんです。だからやっぱり自分が年取って仏画に出会ったんですけども、私の場合はそのもっと前がありますからね。だからその若い純粋に仏さんの中に何を見出して教えてくれと門を叩いたのかわかりませんけども、この子のために私が役に立てるんやな、と思うところで、すべて今までの自分の培った技術プラス一番大切なもの(仏法)を受け渡していって、次はその人たちが次の世代に渡していく。そのことが仏画の継承、と。これは仏法の継承とまったく同じことやないかなというふうに、纏めますとそういうことですね。
 

ナレーター:  仏画には、仏や仏の教えを描いてきた絵師たちの思いだけでなく、数多くの人々の仏への祈りが込められている。藤野さんは、仏画を描き続けてきたことで、結ばれた縁があり、またその縁によって生かされてきた、と考えています。そういう思いから、仏画教室を開くなど、多くの人たちに仏画を広める活動にも取り組んでいます。
 

 
兼清:  藤野さんはお坊さんでもなければ仏法の専門家でないわけですから、いわば宗派を問わず、あるいは宗派を乗り越えて仏画を描き続けていらっしゃるわけですよね。
 
藤野:  ということになるのでしょうけども。宗派というものを、祖師の 肖像画も描きますので、はっきり意識する時もあるんです。自分のまた生まれた実家もある宗派に属しているんですけども、そうじゃなくて、やっぱり根底にあるものは、私の場合は、慈悲の目線であって、それは仏である、と。仏様とは何ぞや、ということで、原点のお釈迦さんの・・・失礼な言い方なんですけど、私は「ファン」です。だからお釈迦さんの思いを後世に伝えていきたいんだみたいな、そういう大それた思いがあるのかもわかりませんね。お釈迦さんはお金持ちの家に生まれたぼんぼん(良家の若い息子、若旦那)が飛び出すんですもの、凄い人ですよ(笑い)。だからその人がそこまで苦労して得た悟りの境地というもの―悟りとは何ぞや、煩悩とは何ぞやとか、いろんなことを仏画を描いているとどんどん教えてくれるわけですよ。そうしたらさっきも、「何で描くの?」みたいに、まだそんなに裕福でも何でもない。今後もどうなるかわからんのですけども、怖がっていないですよ。将来において不安もないし、それって楽でしょう。だから今そんな心境にさせてくれているんですよ。将来において自分が心配しなくていいんですもの―していないだけかもわかりませんけど―六十歳になった人がみんなそういう心境になるわけじゃないと思うんです。多分やっぱり仏法を伝えているという一つの大きな使命感をもつ自分というものをこっちの方にちょっと置いておけるような心境になっているんかなぁ、と、今改めて思うんですけどね。
 
兼清:  描き続けたことによって、お釈迦様からそういうことを学べた、得ることができたというのは、描き始めた頃は、とてもそんなことも思いも及ばないし、振り返ってみれば、何か行き着いたところが、フランダースの犬のルーベンスの絵に憧れたその絵に惹き付けられた気持に通じているのかな、と。
 
藤野:  それはそうです。そういうことです、安らぎという意味ではね。安らぎの目線というものを追い求めて、自分の中からどんなものが描けるのか楽しみで、今も描くんですけど、ネロ少年というあの少年もそういうものに憧れていたんでしょう。その話は、あんな極貧の恵まれない、無茶苦茶じゃないですか。あんな酷い話ないじゃないの、というのだけれども、最後の最後にルーベンスの絵を見たことによって安らかに天国へ行けるわけですから。もし自分たちの描いた仏画も、そういうことがあれば冥利に尽きますよね。だから仏具というだけじゃなくて、見る人の気持を安らかにしたり、感化したりする。性根(しょうね)というんですけども、お寺に納めると、必ずここにお性根と言って、魂・仏さんを入れる儀式をされる。開眼法要というのをされるんです。「それをわざわざしなくても既に仏さんが入っているよ」と、誰かが言ってくれたことがあるんで、そんな嬉しいことはないです。そういう絵が描けるようになれたらいいなと思うのと、若い子もそういうのを目指して精進して欲しいなと思うんです。何年か前に、私の田舎の当時の秦荘町(はたしょうちょう)(現、愛荘町)というところで、自治体主催で展覧会をして貰ったんです。何の絵の前だったやろう、女の子が何日も来るんですよ。何日かやっていたんですけども、六年生ぐらいの少女だったかな、私の描いた絵の前に佇んで、ずっと同じ絵を見ているんですよ。その姿を見て、何か声を掛けられなかったです、そんな失礼なことをしてはいけないみたいな。そういうシーンにも遇っています。だから自分の描いたものが、どこかで誰かに安らぎを感じさせていればいいですな・・・と、この仕事はね。
 
兼清:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十二年十二月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである