モリが見つめた天地
 
                      画   家 熊 谷(くまがい)  榧(かや)
画家、彫刻家。一九二九年、熊谷守一の次女として東京に生まれる。一九五一年、 日本女子大学卒業後、絵画と登山を始め、「山・雪・人」のテーマで油絵の個展を一五○回以上開催する。画文集を出し、石彫や作陶もする。一九八五年、父の旧居に「熊谷守一美術館」を創る。二○○七年、豊島区に守一の全作品を寄贈し、豊島区立熊谷守一美術館の初代管長になる。
                      き き て 山 田 誠 浩
 
ナレーター:  朝日に照らされる松。九十歳を越えた画家・熊谷守一(くまがいもりかず)が幹に射し込む光に見ていたのは、生きるもののいのちです。岩の間から湧き出る清水。その一滴はやがて生き物を育むいのちの水になります。小さな生き物の一挙一動を観察し、この地上で繰り返される生と死の営みに眼差しを注いだ熊谷守一。いのちをどうしたら形に表せるのか。守一スタイルと呼ばれる独特の画法を生み出しながら、その答えを追い求めました。「へたも絵のうち」守一が目指したものは、上手に描くことではなく、本質を表現することでした。東京池袋にあった守一の自宅。九十七歳で亡くなるまでのおよそ二十年、ほとんど外に出ることはなく、この庭で過ごし、ここで目にしたものを絵にしました。
 

守一:  上手なんてものは、ほら先が見えちまいますわ。行き先もちゃんと分かってますわね。下手なのはどうなるか分からない。
 
質問者: それだけこうなんというか変わる可能性がある。
 
守一:  スケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい。それは絵なんていうのはねぇ、何も描かない白いほどきれいなものはないですからねぇ。けども人間っていうものは情けないもんで、絵でも描いて遊ぼうっていうんでしょうねぇ。白いのはね何がきれいだって言われたってねぇ、カンバスだってそれ以上よくは出来ないですわねぇ。(笑い)。
 
質問者: 何も描いていないものが一番いい。
 
守一:  ええ。それでいいならよしてしまえばいいんだけれども、人っていうのは情けない存在がね・・・あんたさん、情けないって気の毒だけど(笑い)・・・じゃないんですか。
 

熊谷:  この前なんかまだ雑木林が残っていた。
 

 
ナレーター:  守一の次女で、画家・彫刻家として活動する榧さんです。守一の死後、その自宅を美術館にしました。
 

 
熊谷:  大きなケヤキがあったけど、戦争中に高射砲陣地の邪魔になるというんで切らされた。
 
山田:  こっちに「いねむるモリ」という、この方が守一さんですか。
 
熊谷:  これね、最近、私、二○○二年ぐらいかな、石の彫刻を始めましてね。「七十過ぎてやるこっちゃない」と言われながら(笑い)、六十年ぐらい前のスケッチがあったんで、日頃よくうちの父は居眠りしていたもんで、そのスケッチをもとにまずテラコッタ(terra cotta:イタリア語の「焼いた (cotta) 土 (terra)」に由来する言葉。陶器や建築用素材などに使われる素焼きの焼き物)―陶器で作って、それでそれから石の彫刻に二年ほど前に作りました。始終居眠っているんですよ。
 

 
ナレーター:  榧さんは、今八十歳を迎え、守一のいのちの世界を、これまでとは違った目で見るようになったと言います。
 

 
山田:  私たちの周りには、榧さんご自身の陶芸の作品とか絵、それからエッセイをお書きになっている本とか、いろんなものが置かれているんですけど、榧さんご自身は八十歳の今も山スキーに出掛けたり、今いろいろのとこ飛び歩いていらっしゃいますよね。
 
熊谷:  ええ。
 
山田:  そういう行動の仕方は、お父さんの守一さんとまったく対象的なような気がするんですけど。
 
熊谷:  そうね。モリはあれこれやらない人だったんですよね。彫刻も三点ありますけどね。あれもこれもやらないんだけど、私はあれもこれもやりすぎましてね。陶器と彫刻を始めたのは一九七八年だから、モリが死んだ次の年ぐらいですね。それからまた二○○二年には、あそこの入口にあった「いねむるモリ」みたいに石の彫刻を始めてね。いろいろやりすぎています(笑い)。
 
山田:  榧さんは、そのお家にいつ頃まで一緒に住んでいらっしゃったんですか。
 
熊谷:  結婚するまでですから、二十七歳近くまで一緒にいたんです。ここの家は、私が四つぐらいの時に引っ越して来ましたからね。だから二十数年いましたね。
 
山田:  そうですか。そうすると、守一さんの様子はずっと一緒にいて見ていらっしゃったわけですけど、守一さんは、よく「仙人」とか、「画仙」とか、そう言われますよね。やっぱりそういう感じのあった人ですか。
 
熊谷:  いや、「仙人」だとか、よく言うんだけど、仙人だったら私が生まれないから仙人じゃないと思います(笑い)。ただね、この人はちょっと違うのは、無欲というか、偉くなろうとか、お金を儲けようとか、それから上手い絵を描こうとも思わない、と言っていたから、そういう無欲のところが、普通の人とちょっと違っていたかも知れませんね。
 
山田:  「上手い絵を描こうとは思わない」というのは、どういうことですか。
 
熊谷:  そういうことは全然思わなかったみたいですね。それは事実みたいです。坂本繁二郎(さかもとはんじろう)(洋画家:1882-1969)が、晩年田舎に引っ込んで、あの人も欲のない人だったんだけど、モリが言うには―モリって私の父のことを言うんだけど―モリはね、「坂本さんは欲のない、ああいう生活をしているけど、まだ上手い絵を描こうとしている。俺は上手い絵を描こうとは思わない」って、晩年ですけど、そう言っていました。
 
山田:  じゃ、どういう絵を描きたいと思っていらっしゃったようなんですか。
 
熊谷:  上手い絵を描くんじゃなくて、描きたい絵を描こうとしたんじゃないですか。モリの絵を見ていると、「生と死」というのかしら、学生時代か、その後ですね、実際に踏み切りで飛び込み自殺をしたのを目撃して、それを描いた「轢死(れきし)(のちに「水死人」に改題)」という絵があるんです。今、真っ黒になってほとんど見えないんですけど、夜の絵なんですけどね。だから夜も好きだったし、それから関心は死ですね。最後は「死と生」じゃないか、と思いますね。それも夜が好きなのは、最初文部省で唯一賞を貰った「蝋燭」の絵があるんですよ。蝋燭を持った自画像ですけどね。暗い中に蝋燭の火と自分の顔があって、自分が言っているんですよ。「夜蝋燭で鏡で自分を見ていると、キリストのように美しい」と自分で言っているんです(笑い)。だから割と夜の絵とか、それから「轢死」というような死の絵とか、そういうことに関心があった。だから「生と死」を描いた人だと思いますね。
 
山田:  さっき「守一(もりかず)」さんのことを、「モリ」とおっしゃっていますけど、そういう呼び方をずっと子どもの頃からしていたんですか。
 
熊谷:  ええ。ずっとです。というのは、モリは生まれた田舎から岐阜の街に引き取られて行った時の頃は「森様」だったんです。それで学生時代には友だちから「守さん」と呼ばれていたんです。そのうちに母も「モリ」と言ったし、子どもたちみんな「モリ」と言っていたから、私も全然「モリ」に違和感なくてね。小学校の時、先生に「お父さん」と言えなくて、「モリは」なんて言ったら、先生に叱られてね。「父親を呼び捨てにするとは何事だ」と叱られたことがあるんですけどね。ちっちゃい時から、「モリ」と言っていたから、「モリ」と言わないと、「モリ」のような気がしないんですよ(笑い)。
 
山田:  榧さんにとっては、モリはどういうお父さんだったですか。
 
熊谷:  凄い気むずかしかったですね。やっぱり明治時代の人ですから男尊女卑の方でね、かなり気難しかったですね。人好きで、誰とも付き合うんだけど、一線を越えると凄く自分というものがあって、凄い気難しいところがありましたね。だけど私は、モリのことが好きだった。私は、二十六歳で結婚したんですけど、その時も檀那も好きだったし、モリとも一緒にいたいもんで、ここの池袋の家で一緒に生活したんだけど、一ヶ月しか持たなかったですね。ダメでしたね。
 
山田:  「ダメだった」というのは、何故ですか。
 
熊谷:  モリは、そういうとこは全然仙人と違うんですよ。昔アメリカ映画に「花嫁の父」という映画がありましたが、あれと同じで、要するに娘の檀那は嫌いだったんですよ(笑い)。頭の上から足の先まで嫌いでね。だから、私の考え方がちょっと甘かったんですね。で、家によく猫を―雌猫を飼っているんですけど、雄猫が寄って来ても追っ払うんですよ。そういう面がありました。
 

 
ナレーター:  岐阜県中津川市。熊谷守一は、この山間の村の裕福な旧家に七人兄弟の末っ子として生まれました。三歳の時、母親と別れ、岐阜市で生糸工場を経営していた父親に引き取られました。異母兄弟が何人もいる複雑な家庭環境に、幼い守一の心は閉ざされていきます。
 
本当は人が好きなんだけど、田舎に母親がいるのに、二号さんが采配を振るっているところに連れて行かれて、父親とは一ヶ月に一度ぐらいしか顔を合わせない。そんな生活をしていたので、自分は自分だと思ってしまったんです。大所帯で、大人のいろいろなところを見聞きして、私は何もかもわかってしまった気分になっていました。大人は、祖母以外みんな嘘の塊だと心に決めていた節があります。学校では授業中も窓の外ばかり眺め、雲の流れや木の葉が落ちるさまに見入っています。
守一はその頃の自分を普通ではない家庭に育ったために、自分の殻に閉じ籠もったと振り返っています。やがて守一は、画家を志、十七歳で上京。東京美術学校に入学します。しかし当時主流だった西洋の写実描法になじめず、絵とは物の見方である、という独自の思いを抱くようになりました。大正七年、三十八歳の時に描いた作品です。守一は、この絵のモデルとなった秀子さんと結婚しました。五人の子宝に恵まれたものの、そのうちの三人を早くに亡くします。そして守一は、残された次女の榧さんに深い愛情を注ぐようになりました。
 

 
熊谷:  私は、生まれた時と言ったら大袈裟だけど、ほんとに三つ四つの時からずっと絵を描いていたんですね。モリが二科研究所に教えに行っていたので、来る人は絵描きさんばっかりで―貧乏絵描きばっかり来ていたんですよ―だから私は、人間はみんな絵を描くもんかと思ったぐらいでね。その中に来ていた学生の中に長谷川利行(はせがわりこう)(洋画家:1891-1940)という、放浪の画家がいましたですね。あの人がよく家に来ていたんですね。それでお世辞半分だと思うんだけど、「榧ちゃんの絵が面白い」と言って、自分の絵と交換してくれた。私は、長谷川利行のこんなちっちゃな裸婦の絵を貰ったんです。今でも持っているんですけどね。モリも、「私が小学校へ行くまでの絵が面白かった」と言われているんですよ。「小学校に入ってだんだん悪くなった」と言われました(笑い)。
 
山田:  それはどういうことなんですかね。
 
熊谷:  絵というのは、知識と全然別次元のもんだから、知恵が付くと最初の素直な感激とか感覚がなくなっていくんじゃないかなと思うんですけどね。だからよく山下清(画家:日本中を放浪していたことで知られる:1922-1971)なんかの―世間的に言えば、いわゆる知的障害がけっこうあると言われていたけど―その絵なんか見ると、ほんとにどこの水彩よりも、それこそ桜の花に止まった蜂とか、素晴らしい絵なんだけど、そういうふうに、普通の知識というものは、絵とは全然違うような気がしますね。
 
山田:  お父さんはあまりお金を儲けるために絵を描くということをなさらなかったようで、生活はかなり大変だったように感じるんですが、そういう感じがありましたか。
 
熊谷:  いや、私が物心が付いた頃は、それほどじゃなかったですね。一番酷かったのは、次男の陽(よう)が死んだ頃じゃないですかね。私は陽が死んでから生まれたから、私はわからないんだけども、モリはほんとに「この子が死んで何もこの世に残すものがないと思って描いた」というから、その通りだと思いますね。凄くその子を可愛がっていてね、長男は、赤ん坊の時は可愛がっていたけど、ちょっと物心が付くと自分の気の入らないところがあってね、「子どもというのは強制された友だちだ」と、母に言ったんです、って。子どもから言えば、大人こそ強制された友だちなんですけどね。だけど陽という子が生まれた時、早産だったために顔中皺だらけで、モリにそっくりだったんです。それで赤ん坊を見た時、モリは、「俺に似ていたら、この子大きくなったら生きていくのに随分辛いだろうな」と思ったんです、って。その次に萬(まん)という上の姉が生まれているんだけど、母に言わすと、「せっかく女の子が生まれても顔をよく見なかった」って、悪口いうんです。それくらい陽を可愛がった。一つしかこう心が向かないんですね。それで陽が死んでから後に私が生まれた時に、「陽に似た子が生まれたらいいな」と言っていたら、似ていたんだそうです。男の子じゃなくて女の子だったんです。私が小学校一年の時、この近くの要(かなめ)小学校に入って、入学式の時、何故かモリが付いて行ったんですよ。そうしたら私が初めてだから緊張してね、「熊谷榧」と、先生が「榧(かや)」と読めなかったんですね。それで私がムスッとしていたのを見て、入学式から帰って、そこの庭に鉄棒みたいな木の棒があったんですけど、そこに凭(もた)れてモリが泣いていたんです、って。私は「死んだ陽にそっくりだった」と言われたぐらいです。私は、大原美術館で「陽の死んだ日」の実物も見ましたけど、見たこともある程度で、そんなによく見ていないんですね、実際はね。だから何とも言えないですね(笑い)。
 
山田:  守一さん自身は、陽さんの死んだ日の絵のことについては何か言っているんですか。
 
熊谷:  何とも言っていないんだけど、私は不思議なのは、何故あれが大原美術館にあるか、不思議なんですよ。そんなに大事な絵だったら、自分で持っていればいいでしょう。それともむしろ目の前に置きたくなくて、余所に出したのか、と思うんですよ。普通だったら、子どもの死んだ絵ぐらい手許に置いておくもんじゃないですか。それが大原美術館にあるということは、側にあるのが耐え難かったのかなと思うんです。
 
山田:  榧さんは、ほんとにお父さんが好きでしたか。
 
熊谷:  そうね、やっぱり大好きだったんですよ。
 
山田:  それはどういうところが好きだったですか。
 
熊谷:  どういうとこってね・・・好きだったんですよ。そういうのは、理由というのはない(笑い)。まあモリの考え方に同調して、というのはおかしいけどね。
 
山田:  「モリの考え方」というのは、どういう考え方ということですか。
 
熊谷:  あの当時、軍国主義の真っ直中ですから、世間的にいえば、非国民の方だったと思いますよ。私の家で日の丸なんて立てませんでしたからね。それで学校で出征兵士に送る慰問文があるじゃないですか。あれを書かされた時に、慰問文に「そんなに支那(シナ)の町を壊さないでください」と書いたのね。先生に、「こんな慰問文は戦地の兵隊さんに出すのには困ります」と怒られたことがあるんですよ。でも、そういう考え方は、子どもというのは、親の考えを継いでいるんじゃないですか。だから例えばあの当時藤田嗣治(ふじたつぐじ)(画家:1886-1968)が、「戦争画を描いた」と言われて非難されたけど、モリは藤田嗣治と二科の審査の時でもわりと意見が合ったそうですけどね。藤田さんが好きだったからいうんでしょうけど、モリは、「藤田は有名だから描かざるを得なくて、ああなった。自分は有名じゃなかったから戦争画を描かなくてすんだ」と言っていましたね。モリの考えは正しいと私は思っていたんですよね。だから慰問文に「そんなに支那(シナ)の町を壊さないでください」と書くわけだから。
 

ナレーター:  守一は次男を亡くした四年後、生まれたばかりの三女も病気で失います。そうした中、守一の絵は変化を見せます。太い線で輪郭を描く独特の画風。守一は、この頃気分が大きくなり、太い線で区切ることができるようになった、と語っています。戦時下、疎開が始まるなか、守一は東京に留まりました。長女萬さんが病弱だったためです。萬さんは、勤労動員の無理が祟り、昭和二十二年結核のため、二十一歳の若さで亡くなりました。守一六十七歳の時のことでした。「ヤキバノカエリ」、萬さんのお骨を抱いて焼き場から帰って来る守一と長男、そして榧さん。次男陽さんの死から二十年、独特の描きが生まれていました。顔には目鼻がなく、影も描かれていません。明瞭な線で輪郭を区切り、その線の中に絵の具を塗り込む。家族に訪れた深い悲しみの光景を静かに見つめた作品です。
 

 
山田:  萬さんはどういうお嬢さんだったんですか。
 
熊谷:  私と正反対で、大人しい子だったんですよ、優しい子で。私はしょっちゅうモリに叩かれていたけど、姉は一回も叩かれたことがないんですよ。一回私を叩こうとしてなんかとばっちりで叩かれたぐらいね(笑い)ほとんど叩かれたことがないぐらい大人しい子でした。よくモリが東中野の二科の研究所に行って、帰りによく子どもに人形を二つ買って来てくれるんですよ。そうすると、私がパッと好きな方を取っちゃうんですよ。そういうふうに私は出しゃばっていたんです。
 
山田:  萬さんは軍事工場に行っていらっしゃったんですか。
 
熊谷:  そうです。女学校を出て、それから実践女子大から、軍事工場でなくて、下町の方の町工場に動員されていた。姉は生真面目ですからずる休みしないで、真面目に行っていたからね。空襲の時の夜なんか電車が止まって、防空頭巾に雪を積もらせて、夜遅く帰って来たこともあったんですけどね。やっぱり過労でしょうね。過労と栄養失調で―あの頃食料難でしたから。だから黒いお盆に白い卵を仏前に供えた絵なんですけど、それは戦争中に鶏を飼っていたんです。それで産まれた卵を供えた絵なんです。姉が病気だから卵を採って姉に食べさせていた。私は頂けなくて、ずっとお腹を空かしてね、羨ましかったんですよ。あまり良い妹ではないんですよ(笑い)。食べたいなと思って見ていたんです(笑い)。でも最後の数ヶ月は医者からも見放されて、「もう助からない」と言われたんですよ。それで母はそういうことを隠しておけない人で、姉にも言ってしまうんですよ。だから姉はほんとに可哀想だったと思うんだけど、私が街に出て派手な格好をしたアメリカ兵相手の女がいるでしょう。それで「凄い赤いマニキュアしていたわよ」なんて、私が話すと、姉は、「それでもその女の人は生きているじゃない。生きているから幸せだ」というんですよ。だから姉はその点可哀想だったと思いますね。
 
山田:  「ヤキバノカエリ」という絵からは、榧さん自身が何を一番感じ取りますか。
 
熊谷:  私は、これを初めて見た時、あんまり気に入らなかったんですよ(笑い)。
 
山田:  どうしてですか。
 
熊谷:  私は、そんなに良い絵だと思われなかったんですね。今こう見ると、「いや、そうでもないな」と思って、今見ているんです(笑い)。私自身が歳をとってきて、死を考えるようになったからかな、とも思うんですけどね。これを描いたモリの気持がよくわかるような気がするんですよ。「ヤキバノカエリ」を見たら、激情じゃなくて、じわじわと子どもを失った悲しみが静かな感じで出ていると思いますね。よく「顔がないからおかしい」なんていう人もいるけど、顔がないことがかえって、全体の姿勢というかしら、静かな感じがよく出ていると思います。これで顔があったらやっぱりおかしいと思います。
 
山田:  そこに何か表現したいというものがあったということなんですね。
 
熊谷:  そうですね。だから描きたくて描いた絵でしょうね。姉は、「モリは榧ばっかり可愛がって、私のことを可愛がっていない」と思っていたのね。だから可哀想だと思うんですよ。後で知らせてあげたいわ。モリが、こんなに悲しんでいるんだよ、って。
 

 
ナレーター:  長女・萬さんの死後、守一は家でほとんどの時間を過ごし、庭の小さな生き物のいのちを見つめるようになります。夏は庭で眠り、冬は縁側から春の訪れを待ちわびました。今は見えなくても、その時折々芽を出して花を咲かせ実を付けるいろいろな草木があって、この植え込みのぐるりの道はただ歩くものなら、ものの二分もかからないで元に戻れる範囲ですが、草や虫や水瓶の中のメダカや、いろいろなものを見ながら廻ると、毎日廻ったって飽きません。その度に面白くて随分時間がかかるんです。時には土の上に腹這いになって枯れることのない好奇心で生き物に目をこらしていた守一。生きているものを慈しみ、自然の本質だけを表現しようとしていきました。守一はこう語っています。
絵というものはものの見方です。言葉で言えないから絵にするのです。地面に頬杖を付きながら、アリの歩き方を幾年も見ていてわかったんですが、アリは左の二番目の足から歩き出すんですわ。私は生きていることが好きだから、他の生き物もみんな好きです。
 
守一の心に映ったいのちの色と形。五十坪の庭で繰り広げられるいのちの小宇宙は、守一の心を捉え、その感動は省略と凝縮を極めた独特の作品となって現れました。
 

 
熊谷:  まだ足腰が丈夫な頃は、家に来ていた絵描きさんと写生旅行なんかに誘われて一緒に写生に行ったんですよ。晩年はちょっと膝を痛めてあんまり遠出できなくなったもんで、庭の中で、この庭が一つの宇宙でね。そこで茣蓙(ござ)を敷いて寝ころんで、アリを見たり、よく有名な話で、「左の二番目から足を出す」って・・・ほんとか嘘か知らないですけど(笑い)。
 
山田:  アリがですか?
 
熊谷:  アリが歩き出すと、左の二番目の足から出すんです、って。でもいつかここで講演してくれた方がアメリカの昆虫学者にわざわざ電話して聞いたんだけど、「いや、それはそうとも言えない」と言われたそうですけど(笑い)。
 
山田:  でも守一さんは、そうやってアリを実際に見て、
 
熊谷:  見て、それでいうことが面白いのは、そういうふうに目線を下にすると、犬の気持がよくわかるんです、って。
 
山田:  犬の気持?
 
熊谷:  犬って下に目線があるでしょう。だから自分が寝ころぶと、犬の気持がよくわかると言っていましたね。
山田:  写真に写っていた庭を見ると、ほんとなんか鬱蒼としたような、
 
熊谷:  鬱蒼と言っても、たった八十坪ですからね。その中に家が建っているからせいぜい五十坪ぐらい。それほど鬱蒼になる筈はありませんけどね。写生旅行で取ってきた草花を植えたりとか、いわゆる植木屋さんの植える草花などじゃないんですよ。そういう草花を植えた―雑草もそのまま、という感じでした。
 
山田:  その中で、そういうふうに姿勢も低くして、何を追っていたんですかね。
 
熊谷:  何をって、じっと見ていたんですよ(笑い)。
 
山田:  じっと見ていた?
 
熊谷:  だから草花と昆虫とか、絵にあるようなものをジッと見ていたんですよ。そういうのが好きだった。だから石ころでも、「俺は、刑務所に入っても退屈しない。ずっと石ころ一つでも何ヶ月もいられる」と言っていましたよ(笑い)。小鳥も好きでよく飼っていたんだけど、不思議なことに餌付けするというんじゃなくて、縁側で篭の中で飼っていたんですよ。あれがもう一つ理解できないんだけどね。ただ樺太に行った時も鷹を飼ったりしたらしいんですけどね。なんか鳥は好きだったみたい。それでモリの田舎の知り合いの人が小鳥を送ってくれた。それを篭に入れて飼っていたんです。貧乏で子どもの食費も出ないというのに、小鳥を飼って、「何だ」って、みんなに言われましたけどね、小鳥飼っていたんですよ。
山田:  写真を見ますと、守一さんが真ん中に、レンガを組んだなんか窯みたいなものがある前に座った写真がありましたけど。
 
熊谷:  ああ、窯じゃないです。池のこっちにあったレンガというのは、あれはゴミ焼きです。竈じゃないけど。
 
山田:  そこでゴミをいろいろ焼いていたんですか。
 
熊谷:  朝焼くのが楽しみで。何しろ燃やすのが好きだったんです(笑い)。
 
山田:  「好き」っていうのは、何なんでしょう。
 
熊谷:  燃やすのって、燃える炎って綺麗じゃないですか。それで貧乏したわりに、冬はストーブで暖かかったですね。私が小学生の頃、冬モリがアトリエで石炭ストーブに石炭をくべている時に、「生きているってどういうこと?」って聞いたんですね。そうしたら、「そうだな。この燃えてる石炭も生きていると言えば生きていることかな」なんて言っていましたね。私は、子どもでしたので理解できませんでしたけどね。だからモリは生きていることと、死ぬということに一番関心があったんじゃないでしょうかね。それを絵に表現したと思います。
山田:  そうすると、描くものの素材はいろいろあって、植物を描いたりとか、いろいろ変わってきますけど、
 
熊谷:  だから今までみたいに、ヨーロッパ風の考え方では、人間があって、その他に他の動物なんだけど、そうではなくて、モリは人間も動物や植物などもすべて同じように見たんじゃないでしょうか。小さな虫も、猫とか犬とか、植物も、すべてこの世に生を受けたいのちだと思ったんじゃないでしょうかね。人間が一人占めしてはよくない、と。だから今風の考え方を持っていたのかも知れませんね。
 
山田:  そういうふうにその小さないのちに自分を開いていった、というのは、どういう思いからなんですかね。
 
熊谷:  それはわからないんですけどね。人間社会に対しては、継母に育てられて、わりと自分の殻に籠もった育ち方をしたんだけども、そうだけども人間は好きだったですけどね。今風の、要するに人間一人占めみたいなのは良くないと思っていたんじゃないですかね。私は、モリが頭が良いと思ったのは、小学生の時に―あの頃明治十三年生まれだから、まだ明治維新直後ですよね―それで小学校で、正成の忠義の話を聞いた時に、「あ、これは明治維新になって急に持ち上げられた話だな、と思った」というんですよ。だから随分大人っぽい小学生だなあと思ったんです、それを聞いて。私なんか小学校で教えられたことは、そういうもんかと思ってね、バカみたいに。だけどわりと批判的に見る見方をちっちゃい時から持っていたみたいですね。
 
山田:  そういうのは何の中で培われたものだと思われますか。
 
熊谷:  穏やかに育てられなかったから―生母から三歳ぐらいで引き離されて、それで継母の元で育った。それはまた三百人ぐらい工員のいる製糸工場ですから、大きなところで、お父さんは滅多に帰って来ないし、それで女工さんは三百人居れば、番頭さんもいるし、色恋沙汰があったり、心中騒ぎとか、いろいろあって、そういう大人の姿をいやというほど見させられて、そういうものが嫌だったから、かえって自然のものに目を向けたんじゃないですか。木とか草とか虫とかにね・・・と思うんですけどね。どうでしょうか。
 

 
ナレーター:  父の姿を身近で見続けてきた榧さんは、いつしか画家として活動するようになりました。絵描きとその嫁にはなるまいと心に決め、終戦直後大学に入学し、数学と物理学を学んだ榧さん。しかし卒業後、父親と同じ画家の道に入りました。父・守一から画法を学び取ると共に、持ち前の行動力を生かして、日本や世界の山々を歩き、雄大な自然の営みを題材にしてきました。
 

 
山田:  絵で言えば、榧さんは特段に絵の学校を出ていらっしゃるわけじゃないですよね。
 
熊谷:  ええ。そうなんです。私は、子どもの時から絵が好きだったのに関わらず、敗戦後大学に行く時に、あの頃食糧難―食べる物がなかったでしょう。だから世界で一人でも飢えている人があれば、絵だの歌だのという芸術はやるべきではない、という考えだったんですよ。モリにそれを言ったら、モリは、「いや、そうじゃなくて、飢えているからこそ絵が必要だ」というんですよ。今考えてみると、モリの言ったことが正しかったんですよ。私は、「一人でも飢えていたらね、絵や音楽はやるべきじゃない」と言って、自然科学を目指して女子大の化成理科みたいな変なところへ入ったんですけどね。自然科学もものにならなくて、それでまた子どもの時から好きだった絵を描こうとした時に、モリの絵が、貼り絵みたいだからって、貼り絵から始まったんです。モリの線と面で描く絵が好きだったから、それで自分で真似して、最初はコピーで作ったんだけど、コピーじゃ詰まらないから、それを自分の絵で表現したいと思ったんです。その頃山やスキーに行き始めていて、山に夢中になっていたもんで、山の貼り絵を描いたのが、私の最初なんです。絵を描き始めたら、モリは、「私の貼り絵は面白い」と言ってくれたんですよ。それで「油絵でこういう表現できたら大したものだ」と言われたんだけど、油絵になってからは、散々言われて、誉められたことはほとんどなかったですね。私は、モリに、「目を瞑るといろいろ風景が見える」という、なんかそれを話そうとしたら、「言わなくてもわかっている」というんですよ。だからそういう感覚は共通なものを持っていたかも知れませんね。
 
山田:  お父さんが絵を描く様子なんかも見ていましたか。
 
熊谷:  絵を描くところはあまり見ませんでしたが、みんなの他の絵を見て、真面目にいろいろアドバイスしたんですよ。「これはこの色かも知れないけど、実際はこういう色であっても、この色でない方がいい」とかね。それから景色なんか描いても、「絵を描く絵というのは、実在のそのものに比べたら情け無いものであって」とか、いろいろ話しているのは聞いていましたね。入口にある「いねむるモリ」も、六十年ぐらい前のスケッチが元なんですけどね。それから踊り場にある「父と子」という作品も、使っていたちゃぶ台が使わなくなったので、それに彫ったもので、モリと私です。それも居眠りじゃなくて、寝ころんでいて寝ているんですけどね。私は、自分が子どもの時を思い出して、大人って何考えているのかなと思ってね(笑い)描いたんです。この美術館も「熊谷守一美術館」と言いながら、自分の作品を厚かましく並べさせて頂いています。モリが描けなかったものを、私は描きたいんですよ。私はちょっと逆に描きまくり過ぎなんです。だからよく山の絵も描いていますけど、宿からじっくりと風景を見るんじゃなくて、自分がその山に登るとか、それから山スキーで上から滑って、それを表現したいんです。私は行動派というかね、そうですね。
 
山田:  同じ画家として、お父さんの絵を見て、どういうふうに思われますか。
熊谷:  私はやっぱり父の絵が好きですよ。
 
山田:  どういうところが好きですか。
 
熊谷:  存在感があると思うんです。
 
山田:  存在感が?
 
熊谷:  ええ。例えばモリは、「壺の絵でも、壺の載っている台の地球の傾きがわからなくちゃダメだ」と言ったけど、地球の傾きがわかるような絵だと思うんですよ。よけいわからないかな? よく「薄っぺらい絵」ってあるでしょう。なんか筆が滑ったようなね。その正反対だと思うんです。ちゃんとその色と言い、その形がそこにあるんですよ。そこが違うと思いますね。そういうところはやっぱりいいと思います。
 
山田:  第一展示室にあるんですけれども、守一さんが「母子像」という絵を描いてありますね。
 
熊谷:  ありますね。あれは私なんですよ。私が最初の男の子―赤ん坊を抱いて、池袋の家に遊びに来た時に、常々モリに言わせると、私のことを、「ままおっかさんみたい」要するに「継母みたいだ」と言って、母性愛がない、と言っていたんですよ。それが赤ん坊を抱いて来たのを見て非常に新鮮味があると、ギョッとしたらしいんですよ。それで絵を描く気になったらしくって。あの絵は私がモデルだから、「この絵をくれる」と言っていたのに、その頃は画商さんが取り合いで持って行くそうで、アッといううちに持って行かれて、無かったのね。そうしたら、もう一枚描いてくれたんだけど、でも最初の方が良かったみたいです。だからあれが唯一モリが私を描いてくれた絵なんです。赤い服着て、髪が三角みたいなのが私で、赤ん坊が芋虫みたいに抱いているとこなんです。
 

 
ナレーター:  守一は、人間が生まれ、歳を重ね、死んでいく一生を太陽に準えて描いています。人生の黄昏れを夕映えと見た作品。人生の終焉を描いた夕暮れ。亡くなる前年、守一は庭の枯木を描いています。守一の言葉、
 
若い木だけが生きているんじゃないんです。時には枯木も生きているんです。
 
守一最後の油絵となった「アゲ羽蝶」。特に好きだった蝶が絶筆となりました。
 
私って、しみったれですから、いくつになっても命は惜しいです。「今何をしたいか」「何が望みか」とよく聞かれますが、強いて言えば命でしょう。命が惜しくなかったら見事だけれど、残念だな、命が惜しい。もっと生きたいことは生きたい。
 
昭和五十二年、熊谷守一は、自宅で九十七年の人生を閉じました。榧さんは、守一の最期を看取りました。そして守一が、わが子の亡骸を描いたように、榧さんもまた父・守一の死を描いています。
 

 
山田:  九十七歳で亡くなられたんですね。
 
熊谷:  ええ。九十七歳四ヶ月。私はとてもそこまで持ちません。八十歳で、もうじき八十一歳になるんだけど。
 
山田:  そうおっしゃらずに頑張ってください。守一さんはそういうふうに思われるほどお元気でした?
 
熊谷:  そうですね。ちょっと膝が悪かったから、外出はしませんでしたけども、わりと最期まで呆けなかったですね。絶筆となった「アゲ羽蝶」があります。あれは油絵としては二年ぐらい前なんですけど、最期まで書とか墨絵なんかでも、色紙を頼まれて、「九十八歳熊谷守一」と数え年で書いてね。「俺は歳を売り物にしているんだ」なんて言っていましたからね。だから呆けていなかったんですよ。
 
山田:  守一さんの最期をスケッチされたそうですね。
 
熊谷:  ええ。
 
山田:  それはどういう思いからだったんですか。
 
熊谷:  描きたかったんですよ。「守一最期の十日間」って、短文も書いたんだけど、他人に、「何が十日間だ」なんてね。「みんな何年の介護しているのに、十日間なんて介護のうちに入らない」と言われましたけどね(笑い)。
 
山田:  守一さんが亡くなった時、そのお顔を見て思われたことは、どういうことだったでしょうか。
 
熊谷:  そうですね。私はモリが好きだったからね、すごく悲しかったけど、人はみんな死ぬんだな、と思いましたね。絵でも一生懸命描く人でないでしょう。上手い絵を描こうと思わない、という人だから、自分風にゆっくりとやっていたんじゃないですかね。
 
山田:  それは逆に言えば、本当に描きたいものを描くというところでは徹底していたとも言えるわけでしょう。
 
熊谷:  嫌なこととか、そういうことはなるべく避けて避けてね。例えば戦争中だって、ほんと戦争反対なんだけど、「戦争反対」と言って旗を持って行くということではないんですよ。こう避けて避けて、自分の神経に触らないように、ソーッと生きてきた。だから死んだ陽が生まれた時に、「俺に似ていたら生きにくいだろうな」と思ったというのは、そういうことなのね・・・と思います。だから世間一般の価値観と違うものを持っていたから、凄く生きにくかったんじゃないですか・・・と思います。
 
山田:  「世間一般と違うもの」というのは?
 
熊谷:  褒美を貰ったりとか、お金を儲けようとか、そういうことが好きじゃなかった。よく「文化勲章を断った」と略歴まで載っていますけどね。私は、その時一緒に住んでいなかったけど、話を聞いて別に当たり前というか、モリだったらそうだろう、と思ったから、特別なこととは思わなかったですね。母は世間一般の人ですから、それは欲しかったかも知れませんよね。年金も付いているし。だけど私は、そうかな、と思ったんだけど、バカに大々的に略歴に、「何年、文化勲章を辞退する」すると書いてあるんで、ビックリしちゃうんですよね(笑い)。モリだったら、そうだろうな、と思いますね。私の要小学校の通知簿に、「何かでニコニコピンピン、何かで人より」と書いてあったのね。そうしたら、「何じゃ、じゃ、何かで人よりだったら、他の人はどうなんだ」というんですよね。だから人に勝つというのは好きじゃなかった。学生時代は剣道をやっていたんですよ。剣道はけっこう上手かったらしいんですよ。先生には勝つんです、って。で、試合をすると負けるんです、って。全然勝つ気がないから。そういう人だったんですよ。人に勝って、人を掻き退けてこう出る、というのは凄く嫌いだったみたいですね。
 
山田:  守一さんが追い求めた万物のいのちというんですかね、そういうものをほんとに大事にしていくという気風が、今社会的にはとても関心を呼んでいるんじゃないか、という感じがします。
 
熊谷:  そうですね。最初、若い時描いたのは「死」だったかも知れないけど、だんだん「生」ということに関心が強くなったようですね。モリの古い友だちの作曲家が―晩年だと思うんだけどね―「俺はね、もう一回人生をやり直せ、と言ったら、もういいな、とお断りする」と言ったんです。そうしたらモリは、「俺は何度でも生きる」と言っていました。だから生きることも好きで、自分も生きることが好きだから他人も生きさせたいし、小さな昆虫でも、動物でも、生きることを大切にしたいと思ったんじゃないでしょうか。
 
     これは、平成二十二年十二月三月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである