福音書のことば F神の結びを、人は離してはならない
 
                     上智大学教授 雨 宮(あめみや)  慧(さとし)
                     き き て  草 柳  隆 三
 
草柳:  「福音書のことば」の七回目です。今回は男と女の問題を取り上げることに致しました。聖書においては、男女―男と女はまったく平等なもの、というふうにされているんですが、結婚、あるいは離婚については、どのように考えているのか。とりわけイエスはそれをどういうふうに見ていたのか、ということを中心にしてお話を伺ってまいります。いつものように上智大学教授の雨宮慧さんです。よろしくお願い致します。
 
雨宮:  よろしくお願い致します。
草柳:  今日は男と女の問題ということで、結婚、あるいは離婚というのは、最近、多分これは全国的というか、世界的な傾向なんでしょうけれども、少し風潮が変わってきたみたいですね。
 
雨宮:  あ、そうですか。
 
草柳:  結婚に対する考え方とか、離婚に対する考え方が―日本の場合にも、このところ離婚率というのが少し減ってきているんですね。カトリック圏ではどうなんですか、離婚ということについては?
 
雨宮:  そうですね。カトリックでは離婚は許されない、ということなんですね。ですからどうにもならない場合というのは、どうしてもありますですよね。そういう場合には、結婚が成立していなかったんだ、ということを証明する方法で、だから離婚ということは本来あり得ないわけです。
 
草柳:  そうですか。基本的に許されていない、ということですか。
 
雨宮:  そういうことになりますですね。
 
草柳:  イエスの立場はどうだったんですか。
 
雨宮:  それが今日のテーマになるんだと思うんですが、イエスはこの離婚を、「神の根本的な意思から考えるならば、離婚はあり得ない」ということを考えていたと思います。
 
草柳:  まず最初に紹介していきたいと思うんですけれども、結婚、離婚ということを取り上げた部分―特に離婚のことですね―を読んでみましょう。これはマタイの福音書の中の一節で、ちょっと長いですけれども、最初から読んでみます。
 
ファリサイ派(註:ユダヤ教の律法(戒律)を厳格に解釈し、それに全力で忠実であろうとした人々)の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
 
という内容なんですが、最初から少しずつちょっと説明をして頂けませんでしょうか。
 
雨宮:  ファリサイ派の人々が近寄って、イエスを試そうとしたわけですよね。
 
草柳:  何を試そうとしたんですか。
 
雨宮:  そうですね。イエスをおそらく陥れよう。イエスは律法をきちっと守っていない、ということを、みんなに占めそうとして、と言った意味だと思います。何か理由があれば夫が離縁することは律法に適っているでしょうか。律法に適っているかどうか、ということが、ファリサイ派にとってはもっとも大事なことだったわけです。そして、それに対してイエスは答えているわけですけれども、「あなたたちは読んだことがないのか。」勿論旧約聖書のことを指しているわけです。旧約聖書には、「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」とあるわけですね。「創世記」の言葉になるわけですけれども、「創世記」の一章と二章に、二つの別の創造の物語があります。この「初めから人を男と女にお造りになった」。この言葉は、「創世記」の一章の方の創造物語にある言葉です。さらにイエスは、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」こちらの言葉は、「創世記」の二章の方の創造物語に書かれている言葉です。ですからイエスは、ファリサイ派の人々に対して、「創世記」の一章と「創世記」の二章の創造物語から、二つの言葉を取り上げて、一体なんだ。男と女があって一人なんだ。そういうことを述べようとしている、ということなわけですね。最後に、「神が結び合わせてくださったものを、二人が結ばれる」ということの中には、「神の意思があるんだ。その神が結び合わせてくださったものを、人が離すということは許されない」とイエスは説いた、ということだと思います。
 
草柳:  ここではっきりイエスは離婚をしてはならない、ということを言っているわけですね。
 
雨宮:  そういうことになりますですね。
 
草柳:  これがイエスの基本的な立場で、今話に出てきた「創世記」については、この後詳しくまたお話を伺っていきますが、そうすると、この後にも多分出てくると思うんですけれども、モーセの話が出てきますね。
 
雨宮:  この後にモーセの話が出てくるわけですが、モーセということで、何を指しているかというと、「申命記(しんめいき)」を具体的には指していると思います。「申命記」に登場する「私は」神の私ではなくて、モーセの私なんですね。というのは、「申命記」はこのヨルダン川東岸に辿り着いた民に向けて、モーセが遺言のように語った指示とされていますので、従ってそこに使われている「私は」モーセの私であって、そこでファリサイ派の人々は、「モーセは離縁を許しているではないか」というふうに語ったわけです。確かに「申命記」には、それは書かれております。
 
草柳:  この辺のことについては、イエスは一体どういうふうに答えているのか。これはまた後で見ていきますけれども。「創世記」というのは、旧約聖書の一番最初、そもそも国の興り、事の起こりはどうだったのか、を書いているわけですね。
 
雨宮:  そういうことですね。大事なのは、ユダヤ人たちは、「旧約聖書」という言葉を使いません。代わりに旧約聖書を三つの部分に分けて、「律法」「預言者」「諸書」という三つの部分に分けて旧約聖書のことを述べるんですけれども、「律法」と言われている部分は、「創世記」から「申命記」まで、ということになります。ですから「創世記」を読んでみますと、いわゆる我々が律法と考えるようなものは何一つない、と言っていいわけです。先ほどおっしゃったように、イスラエルというものはどのように出来上がっていったか、ということについて書いている、と言っていいわけです。物語なんですね。しかしそれも「律法」と呼ばれる部分の中に入っているわけです。ですから、ファリサイ派の人々とイエスの違いを理解するために重要だと思われることは、「律法」という言葉には、狭い意味の場合と広い意味の場合がある。広い意味の場合には、「創世記」から「申命記」までのことを律法と呼ぶ。そこには物語も書かれているわけです。その物語も律法、つまり「律法」という言葉は、「神の指示」ということになりますので、単に掟を通してだけでなく、「物語を通しても神の指示」―律法があるということなわけですね。ファリサイ派の人々は、「律法」という時には、多分それをもっと狭くとって、いわゆる掟の部分を指している、ということになるだろうと思います。
 
草柳:  先ほどの中に、「初めから」という言葉がありましたですね。イエスはそれを大分根拠にしている、ということなのでしょうか。
 
雨宮:  そういうことですね。「初めから」というのは、イエスにとってはとても大事なことだったと思います。ファリサイ派の人々が、「律法に適っているかどうか」ということを問題にするのに対して、イエスは、「初めが何であったか」ということを大事にする、ということだと思います。
 
草柳:  「初めから」というのは、先ほどの中で、「あなたがたはちゃんと読んでいるのか」。つまり「創世記」のその部分に、「初めから」が出てくるわけですね。初めからそうだったわけではないんだ、と。言ってみれば、モーセというのは、この時に、こういう言い方をしたというのは、いわばちょっと便宜的な感じだったんでしょうか。
 
雨宮:  そうですね。イエスの言葉によると、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」ということですよね。で、モーセは、この離縁状を書け、ということを述べるわけですけれども、「離縁状を渡して離縁するように命じた」というのは、離縁状を書いている間に神様の思いに気付いて、やっぱり止めようと考えるかも知れない。モーセはそういうふうに説いた、というふうに考えるべきではないかと思います。
 
草柳:  そうすると、離縁、離婚の問題については、基本的にイエスと、それからイエスを試そうとした人たちの立場の論拠はちょっと違っていた、ということでしょうか。
 
雨宮:  全然違っていた、ということになりますですね。
 
草柳:  イエスの方は、今言われるように、「創世記」の中の物語からですね。
 
雨宮:  そうですね。
 
草柳:  一方ファリサイ派の人々は、とにかく律法だ、と。掟ですね。
 
雨宮:  そうですね。「申命記」を取り上げていますね。
 
草柳:  さてそれで、「創世記」の内容なんですけれども、一と二とあるわけですか。
 
雨宮:  「創世記」の一章に伝えられている創造物語と、「創世記」の二章に伝えられている創造物語。それはおそらく時代の違う二つの別の創造物語だっただろう、ということなわけです。
 
草柳:  その特徴は何なんですか。
 
雨宮:  「創世記」の一章の方に伝えられている創造物語は、いろいろな違いがあるんですけれども、まず「神」という言葉を使います。それに対して「創世記」二章の方は、「主」、イスラエルの人たちは、多分「ヤーヴェ」と発音したのではないか、と言われている神の呼び名なんですけれども、その言葉が現れる。神についての名前が違っている。それから今読む文に出てくるわけなんですが、「創世記」一章の方では、「創造する」という言葉が出てまいりまして、ヘブライ語では「バーラー」という言葉なんですが、
 
草柳:  創造するは、勿論造り出すことですね。
 
雨宮:  そうですね。その「バーラー」という言葉は、極めて特徴のある言葉でして、人間が主語になることは決してない言葉なんです。神が必ず主語になる言葉なんですね。ところが、「創世記」二章の方には、そういう言葉は使われていない、ということなんです。そこから別の物語だ、ということなんですね。
 
草柳:  この辺は有名なところなんですが、神は一日目に、「光の創造」される。









 

一日目 光の創造
二日目 原初の水を上と下に分け、大空が創造される
三日目 下の水が集められ、大地が創造され、そこにさまざまな植物
が創造される
四日目 天の大空に太陽、月、星が創造される
五日目 魚と鳥が創造される
六日目 地の獣や家畜が創造され、人間が創造される
七日目 創造が完成し、神は仕事を離れ、安息なさった
 
そうやって、二日目、三日目、四日目というふうに、それぞれ大地を造ったり、あるいは植物を造ったり、という順番があるわけですね。
 
雨宮:  人は六日目に造られます。七日目は神の安息ということですから、全力を尽くして神は天地万物を造った、ということなんでしょうね。「七日目には安息した」と書かれております。で、この創造の業(わざ)の最後―六日目の一番最後に人間が造られていきます。
 
草柳:  創造の最後の日に人間が創られた、ということは、きっとまた何か意味があるわけでしょうね。
 
雨宮:  大きな意味があると思いますね。
 
草柳:  それまでに大地が造られ、太陽が造られ、星が造られ、月が造られ、というふうに順番になっていくわけですね。
 
雨宮:  そういうことですね。
 
草柳:  そしてその後になるでしょうか、ここを読んでみたいんですが、これも勿論一章の中ですね。
 
雨宮:  そうですね。
 
草柳:  神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚(うお)、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
 
これが六日目の内容なんですね。
 
雨宮:  そうですね。六日目の最後のこととして、これが書かれています。
 
草柳:  ここの特徴は何なんでしょうか。
 
雨宮:  そうですね。まず「人を造ろう」という部分に傍線が付けられておりますけれども、これは他の被造物の創造とまったく異なっている、ということを示したかったわけです。この人間の創造以外については、すべて命令形が使われております。「光あれ」というような言い方がされています。そうすると、「光があった」ということになるんですが、人間の創造に関してだけは、「人を造ろう」話者の意思を表す言い方がされている、ということですね。そこに注意を払いたかったんですけれども、何故命令形ではなくて、「造ろう」と言っているのか、というと、命令形を使うということは、躊躇なく次々と造っていった、ということでしょうね。ところが「造ろう」と表現しているのは、「やはり造ろう」という意味ではないか。「やはり造ろう」ということだとすると、神は光の創造から始めて、次々と万物を造っていくわけですけれども、その間に、「人を造ろうか造るまいか、思案した」ということではないか、と思います。何故思案をしていたか、というと、神のこの言葉の後に、「支配させよう」という言葉が出てまいりますよね。ですから造られた被造物を、どのように維持管理したら良いか。それを巡って神は考えていた、ということではないのか。勿論神ご自身が、造られたものを支配し、管理するならば、間違いは起こらないわけですよね。でも自分で造っておいたものを自分で支配する、というのは面白味がないと言いますかね、大したことではない、と言ったらいいでしょうか。で、「人を造ろう。やっぱり人を造って、人に支配維持管理させよう」と、神は考えた、ということなんだろう、と思います。ですから先ほどお話くださったように、人間の創造というのは、この「創世記」一章の物語の中では、実に重要なものとして語られている、ということだと思います。
 
草柳:  そして、今の最後の部分ですと、雨宮さんが逐語的に訳して下さっているんですが、
 
雨宮:  「神は御自分にかたどって」以下の部分ですけれども、逐語訳を見てみますと、こんなふうになっています。
 
創造した 神は 人を 彼の像において。
像において 神は 創造した 彼を。
男性 そして女性を 彼は創造した 彼らを。
 
ヘブライ語の語順というのは、普通動詞が最初にまいります。だから最初の文章は普通の語順通りに「創造した」という言葉で始まります。これが先ほど申し上げた「バーラー」という言葉です。ですから主語は、「神」になっています。「神は創造した 人を 彼の像において」彼の像に従って、というような意味になるのかと思いますが、人を創造した。二行目と言いますか、二つ目の文章なんですが、これは「創造した」という動詞の前に、「像において」という言葉を置いておりますね。だから「神は彼を 人を創造したんだけれども、それは神の像において創造したんだ」ということを述べている、ということだと思います。そして最後の三番目の文章ですが、今度は「創造した」という動詞の前に、「男性、そして女性を創造した」と、目的語を最初に置きましたですね、ですから第一番目の文章では、ごくごく一般的に人の創造について述べ、二つ目の文章では、その創造は神の像に従ってのことだ、ということに重点を置き、最後にその人とは誰か、ということを、男性、そして女性を、という言葉で表していることだと思います。
 
草柳:  そうすると、ここでは人というのは、男性と女性を合わせたというか、一緒にした、と言っているわけですか。
 
雨宮:  そういうことですね。ですからとても面白いと思いますのは、もう一度逐語訳のパターンを見ますと、
 
創造した 神は 人を 彼の像において。
像において 神は 創造した 彼を。
男性 そして女性を 彼は創造した 彼らを。
 
一番目の文章では、「人を創造した」これは単数形で書かれています。だから二行目では、「彼を」というように単数形で受け取っています。しかし三番目の文章では、一つ目の文章で、人と表したものを、「男性、そして女性」と言い換えておりますね。で、最後に「彼は創造した 彼らを」というふうに複数形の代名詞で、男性と女性を受け取っています。ですから人は男性と女性で人であって、それでいて彼ら別々の存在なんだ、と主張しているんだと思います。
 
草柳:  すると、先ほどのマタイの文章の中に、「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」というのが、つまりまさにこのことなんですか。
 
雨宮:  このことなんですね。ですから初めから神が考えていたことは、「男と女があって人間なのであって、それでいて別々の存在だ」。少々奇妙といえば奇妙なんですが、そういった主張が行われている、ということだと思います。
 
草柳:  次に「創世記」のもう一つ、二章の方から見てみたいんですが、その二章と一章の何か違いってあるんですか。
 
雨宮:  二章の方は、大変有名な「人のあばら骨から女が造られた」という、あの物語は二章の方の物語です。だからいろんな解釈が可能だと思いますけれども、素直に読むと、一章の方では、男と女が同時に造られている、ということだと思います。二章の方では、男の肋骨から―人という言葉を使っているんですが、男の意味にもなりますので―男の肋骨から女が造り上げられた、ということになりますので、同時的に造られてはいない、ということになりますね。
 
草柳:  何故、にもかかわらず、男女が一体なのか、ということがちょっとわからないんですが、まず二章の方をちょっと読んでみます。二章でこんな書き方をしているんですが、
 
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」・・・
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。
これこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 
勿論書き方は違いますね、一章とは。
 
雨宮:  そうですね。違いますですね。ただもっとも重要なのは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。この「彼に合う助ける者」という表現がとっても大事かな、と思います。この「助ける者」というと、日本語では、「助手」とか、「補助者」といったイメージになるかと思うんですが、しかしこの言葉は、旧約聖書の中では、「神は我らの助けて」というふうに使われる場合がありますので、むしろ人間よりは神に使うことが多いと言ってもよい言葉ですから、決して助手ではない、補助者ではない、ということですよね。しかも「彼に合う」と訳している言葉なんですが、これは「彼と向き合うことができる者」というような意味になりますので、ほんとにパートナーということが表されているんだと思うんです。ですから「彼に合う助ける者」というのは、男の補助者として女が造られる、ということなのではなくて、まさに向き合って語り合うべき者として造られる、ということだと思います。
 
草柳:  そして、どういうふうにして造られていったのか、ということが、かなり具体的に書かれていますね。
 
雨宮:  具体的に書かれていますね。ですから二章の方の特徴は、非常に親和的と言ったらよろしいでしょうかね。そういう表現の仕方をしていまして、「深い眠りに落とされた」麻酔代わりということなのか、あるいはこの「深い眠り」という言葉は、神からくるようなとても深い眠り、爆睡(ばくすい)というようなことを表しますんで、女の創造に関して覗き込んではいけない者、というような意味合いで使っている可能性もあると思います。で、「人が眠り込むとあばら骨の一部を抜き取り」と書いてありますね。確かに「あばら骨」という表現が使われているんですけれども、男は―人は何で造られたか、というと、地の塵によって造られた、ということになっていますから、ですからあばら骨であるから使えるべきだ、ということは、すぐには言えない、ということだと思います。むしろあばら骨は心臓を保護する骨ですから、人間にとって、男にとってもっとも重要な関わりを持つものといった意味で、「あばら骨」という言葉を使っている可能性があると思います。そしてさらに注目することは、「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った、ついにこれこそ」ついにこれこそ、と述べていますよね。この「ついに」とか、「これこそ」と表現の中に、探し求めていた自分に合う助け手ですね、これに出会った時の喜びが表されているんだと思います。そして「私の骨の骨、私の肉の肉」この関わりの深さをこういった表現で表そうとしていると思うんですね。そしてさらに「イシャー(女)と呼ぼう、まさにイシュ(男)から取られたから」男と女の関わりの深さは名称からもわかる、と言っているんだと思います。「イシュ(男)」に対して「イシャー(女)」非常に近い音ですよね。そこからもわかる、ということを言いたいのではないかなと思います。
 
草柳:  そしてこの部分でも最後に、「こういうわけで、男は父母を離れて二人は一体となる」ということになっているわけですね。
 
雨宮:  そうですね。これをイエスは引用したわけですね。
 
草柳:  イエスの「神が結んだ者を離してはならない」が、今回のタイトルなんですけれども、その最大の根拠はここにあったわけですか。
 
雨宮:  そういうことですね。
 
草柳:  それで「律法こそ」と言っていたファリサイ派の人たちは、これで納得をするわけですか。
 
雨宮:  いや、納得しないと思いますね。彼らにとっては、律法こそすべてですから、物語の部分に書かれていることは、いわば物語だ、ということで終わってしまっているんじゃないでしょうかね。むしろ掟として述べられたことに何があるか。それを中心におくべきだ、と考えているのだと思います。
 
草柳:  一番最初のところで、ファリサイ派の人たちがイエスを陥れようというのか、イエスをやりこめよう、という話がありましたですね。ここのところなんですけれども。これは一番最初に見て頂いた部分なんですけれども、「読んだことがないのか」というのは、何回も言うようですけれども、つまり「創世記」をあなた方読んだことがないのか、ということですね。
 
雨宮:  そうですね。「創世記」を含めても、ということなんでしょうけれども、イエスにとっては確かに「創世記」が重要だ、ということなんではないでしょうか。
 
草柳:  ファリサイ派の人たちだって、勿論読んでいない筈は当然ないわけですから、だけど敢えてそれをおいといて、イエスにこういう論争を挑んだというのは、とにかくイエスを何とかしてやっつけたい、ということだったんでしょうか。
 
雨宮:  そうでしょうね。ですからイエスに事ある毎に、「離縁というのは良くない。不自然なことだ」ということを語っていたのでしょうね。それは「申命記」の「離縁状を書いて離縁ができる」という文章と違いますので、何とかやり込めたいと思ったんではないでしょうか。
 
草柳:  しかしこの辺のところまでは、ファリサイ派の人たちは、聖書の世界に引き込んでしまえば、イエスに勝てるのではないか、と思っていた節が多分にあったわけでしょうか。
 
雨宮:  当然そうだと思いますですね。
 
草柳:  しかし、「モーセは、離縁状を渡して、離縁するように命じたのですか」と聞きていますでしょう。それに対して確かにそういう事実というか、くだりがあるわけでしょう。
 
雨宮:  あります。
 
草柳:  そこをファリサイ派の人たちは盾に取って、というんでしょうか、その文言をちょっと読んでみたいと思うんですが、これは「申命記」の中に、
 
人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
 
つまりこういうことがあるんじゃないか、と。これが根拠になったわけですか。
 
雨宮:  そうですね。これが「申命記」ですから、モーセが神の教えとして説いた言葉ですね。ですからモーセは、離縁状を書けば離縁ができる、と言っているではないか。お前の言っていることはおかしい、とイエスに問い掛けた、ということになりますでしょうね。
 
草柳:  少しわからないというか、疑問の点があるんですが、なんとなくファリサイ派の人たちは少しわからず屋のことを言っているんじゃないかな、というふうに、ちらっとそんなふうに思えるんですが、ただ律法というのを、この人たちの根拠にしている律法というのを、当然神の意思を教える、ということでしょう。
 
雨宮:  そうです。
 
草柳:  しかもイエスは律法そのものを別に否定しているわけではありませんよね。
 
雨宮:  していませんですね。
 
草柳:  何故こういうことになるわけですか。
 
雨宮:  ですからこの方向性なんではないんでしょうか。律法というものをどちらの方向に向かって読んでいくか、ということだ、と言ったらばいいでしょうかね。つまりイエスは、律法を神が与えた時に、神が何を求めているのかを考えよう、ということだと思います。それが先ほどおっしゃった、「初めから」という表現に表されている、ということだと思います。しかしファリサイ派の人々は、自分たちの現実に上手く合わせるためには、どうしたらいいか、という発想なんだと思います。ですから男女が一緒に生活を始めたという時に、いろいろな問題が起こるというのは確かなことでしょうね。そして場合によってはなかなか修復できないと言いますか、問題が生ずるということだってあり得るわけですよね。その場合に、どう処理したら良いのか、ということの発想がファリサイ派の方の発想、ということになりますですかね。
 
草柳:  そうすると、ファリサイ派の人たちの発想の方が、より何となく現実的だ、という感じがするんですが。
 
雨宮:  現実的といえば現実的なんですけれども、それは人間の勝手気ままさを許してしまうことになるのではないのか、ということでしょうね。人間の勝手気ままになってしまうと、神の意思というものはおろそかにされる、ということになりますよね。ですからイエスが求めていたのは、神の意思がどこにあったのか、を考えることによって、自分のあり方をよくよく見直すべきだ、というふうに述べているのではないかと思います。
 
草柳:  ファリサイ派、つまり律法を重んじる一派の人たちは、つまり律法をどういうふうに適用するか、ということの方に重きをおいている、ということになるわけですね。
 
雨宮:  そういうことになると思います。
 
草柳:  それに対してイエスの方は、勿論律法を否定しているわけではなくて、律法の精神というか、
 
雨宮:  そうですね。根源といいますかね。その掟を与えることによって、神が求めているもの、ということでしょうかね。それをイエスはあくまでも追求しようとしている、ということではないかと思います。ですから基本には、人間をどう見るか、ということが横たわっているのかなと思います。人間のあり方と言いますかね、つまり勝手気ままさを認めるわけにはいかない。神の意思に従うべきだ、というのが、イエスの考え方です。それに対して掟の中に神の意思が表れているんだから、掟をどうやって現実に合わせるかを考えるべきだ、というのが、ファリサイ派の立場、ということになるかと思います。
 
草柳:  ただ今回のテーマになっている結婚とか、特に離婚ということについて言えば、イエスは、「男女が一体だ」というふうに言われているかもわかりませんけれども、現実の問題に少し引きまして考えてみると、男性がいて、女性がいて、一緒に生活をしていく上で、例えばいろいろな齟齬(そご)が生じたり、諍(いさか)いがあったりというのは、これはやむを得ないというか、当たり前のことだと思うんですよね。
 
雨宮:  そうでしょうね。当たり前になっていると思いますし、私も時々そういう例にぶつかることがあるんですが、その時に、「ああ、これはもう別れるよりかしょうがないんじゃないだろうか」と思うような時もあります。ただ自分の勝手ではないのか、ということを、もう一度考え直す必要というのはあるんじゃないかと思います。
 
草柳:  イエスにしても、その辺の、いわば人間の現実といったことは十分承知のうえで、それは言っていることだろうと思うんですけれども、今「人間の勝手」という話が出ましたですね。確かにそういうことがあって、いろいろな問題が起こってくるということはわかるんですけれども、ただ意図的にというか、邪(よこしま)な考えではなくて、一生懸命やっているんだけれども、そうなってしまった、ということはいくらでもありますよね。
 
雨宮:  あり得ますね。
 
草柳:  イエスの基本的な立場というのは、それも実はあまり認めていない、ということですか。
 
雨宮:  カトリックの聖職者というのは、独身ということになっています。私も独身なんですが、いろいろな例を見ていると、ほんとに大変だろうなあというのは、ちょっと語弊があるかも知れませんが、思うことがありますけれども、それでも私は、神の意思に従うということは、凄く重要なのではないかな、と思いますけれどもね。でも「絶対にいけないか」と言われたならば、どうも何とも、という感じですけれどもね。
 
草柳:  今問題にしている問題というのは、こんなふうな言い方で言えるんでしょうか、つまり神の側に立っているのか、あるいは人の側に引きつけたこととして、この問題を捉えるのか、ということでしょうか。
 
雨宮:  そういうことでしょう。おっしゃる通りですね。
 
草柳:  ファリサイ派の人たちは、どちらかというと、勿論彼を認めていないわけでしょうけれども、人の側にはこんな問題があるんだという、そのそちらの方がより強く出ている、ということでしょうか。
 
雨宮:  そう言ってもいいでしょうね。
 
草柳:  またイザヤ書から少し読んでみたいと思うんですが、イザヤ書というのは―イザヤというのは預言者ですよね。
 
雨宮:  そうです。紀元前八世紀の預言者です。
 
草柳:  そのイザヤ書の中の一節なんですが、
 
主は言われた。
「この民は、口でわたしに近づき
唇でわたしを敬(うやま)うが、
心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを畏(おそ)れ敬うとしても
それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び
驚くべき業(わざ)を重ねて、この民を驚かす。
賢者の知恵は滅び
聡明な者の分別は隠される。」
 
この場合の「主」は、勿論「神」ですね。
 
雨宮:  そうです。
 
草柳:  何を言っているんですか。
 
雨宮:  「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」ということですから、神はこの民は偽善家だ、というふうに言っているわけでしょうね。民が自分の偽善に気付いていればあまり問題がない、と言っていいかと思うんですけれども、気付いていない場合には大きな問題になりますよね。神の目から見て、偽善と写っているのに、本人たちはそう考えていない、ということになりますから。この言葉から考えますと、終わりから四行目以下を読んでみますと、「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす」この原文を見ますと、「驚かせる」という言葉が、動詞と名詞を使ってなんですが、実は三回使われています。ですから、どうしても驚かすんだ、ということを、神が言っているわけですね。「驚かす」という言葉を使っているということは、民は自分の偽善にまったく気付いていない、ということでしょうね。だから驚かせなければいけない。驚かせて、そして口でも心でも神に近づくということがあってほしい、ということなわけでしょうね。この民は偽善に陥っているのに、どうしてそれに気付いていないか、というと、ちょうど中程になりますけれども、「彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」と書いていますよね。ですから神の戒めを無意識のうちに、人間が作り出した戒めに変えてしまっている、ということなんだと思うんですね。人間の戒めに変えてしまえば、人間にとっては非常に楽になる、ということでしょうね。しかし神から見れば、確かに口や唇では私を敬っているけれども、心は遠く離れてしまっている、ということになりますですね。こういった人間観、つまり知らず知らずのうちに、人間は神から離れているんだ、と言ったらばいいでしょうかね。偽善という言葉はあまり良くないかも知れませんが、本人は神を敬っているつもりで遠く離れている、ということになってしまうんだ、というのは、聖書の基本的な人間観ではないか、と私は思います。
 
草柳:  人間の戒めを、というこの部分というのは、すり替えてしまう。
 
雨宮:  すり替えている、ということだと思います。自分たちの都合のいいというのも、これも一種の語弊があるかも知れませんが、人間の都合のいいような戒めに変えている、ということですね。
 
草柳:  ただそれは悪意で変えるのではなくて、むしろ善意で変えてしまう。
 
雨宮:  善意ですね。ですから、ある神父さんがこういうふうにおっしゃいましたですね。「人間は真面目に間違っている」ということを言っていたことがあります。確かに真面目なんですよね。しかし神から見ると間違っている、ということですね。
 
草柳:  それは相当しんどいことですね。
 
雨宮:  しんどいことだと思います。よほど意識して、神の思いがどこにあるのか、ということを探し求めなければならない、ということです。ですから聖書は、「神を信じなさい」という言葉よりは、「神を探し求めなさい」という言葉の方が多く使われている、と思います。
 
草柳:  イエスが今のイザヤ書のこの部分を引用したというのは、相当重い意味があるんですね。
 
雨宮:  そうですね。イエスはファリサイ派を批判するために、今の部分を引用しているんですけれども、確かにイエスの生き方とファリサイ派の人々の生き方の違いを鮮明にしようとしている、ということなんでしょうかね。
 
草柳:  それに続いて、その後こういっているんですが、
 
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
 
これはマルコの福音書の中のイエスの言葉ですね。
 
雨宮:  そうですね。「あなた方」と呼ばれているのは、ファリサイ派の人たちです。ファリサイ派の人たちに対して、イエスは厳しく批判した、ということなわけですね。
 
草柳:  ここのところも解説をして頂けますか。
 
雨宮:  「神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。ファリサイ派の人たちは、実は律法として文章になっているものだけではなくて、口伝で語り継がれてきたことも律法として取り上げています。それを意識するのかと思いますけれども、「神の掟を捨ててしまって、人間が自分の都合のいいように、神の掟をねじ曲げたものを固く守っている」という意味に取ることもできる、と思います。「更に、イエスは言われた。あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」。掟を通して神が求めていることを見ようとしないで、自分たちの都合に合わせて神の掟をねじ曲げている、といいますかね、勿論無意識のうちに、ということになるわけでしょうけれども。その例として、「申命記」を初めとする掟の中には、「父と母を敬い、父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである、と言っているのに、あなたたちは便法を作り上げてしまっている。それがどういうことかというと、「もし、だれかが父または母に対して、あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」。鍵なのは、「コルバン」という言葉だと思いますが、それが「神への供え物」というふうに言い換えられていますね。ですから父母に差し出さなければならない物とか、お金というものは、当然あるわけでしょうけれども、それはコルバン、つまり神に捧げた物であって、聖なるものであるから、神のための物、つまり聖なる物になっているから、人間に差し出すことはできません、と言ってしまえば、もう何もしないで済むんだ、と言っているわけです。確かにファリサイ派の掟の中には、こういった考え方がたくさん出ている、ということなわけですね。
 
草柳:  しかし、「そのコルバン」というのは、何を意味しているんでしょうか。
 
雨宮:  例えば父親をひそかに憎んでいる息子がいたとしますね。勿論金銭や品物を差し出さなければいけない、ということはわかっているわけですけれども、憎む心があるわけですから、したくない、ということもあり得ますですよね。そうすると、コルバンと言ってしまえば、もう神に捧げられた物であって、人間が手を付けられない物になりますので、父親に差し出すわけにはいかない、ということになりますですよね。ですから抜け道と言いますか、使おうと思えば、こういったファリサイ派のような考え方というのは、神の掟を確かにないがしろにしてしまう使い方ができる、ということになりますですね。
 
草柳:  今回は、「ファリサイ派」という言葉が随分出てきたんですけれども、このグループというか、派というのは、勿論律法を中心にして当然信仰すべき、あるいは生きてきた、ほんとに生きているわけですけれども、かなり言ってみれば律法至上主義的なところが非常に強いでしょうか。
 
雨宮:  そうですね。律法至上主義なんですね。しかも律法と言った時に、当然このモーセの時代とイエスの時代には大きな隔たりがあるわけですから、社会がどんどん変わっていきますですよね。古代ですから変化がそれほど大きくないとしても、十世紀以上の違いがあるわけですから。ですから社会情勢は変わっていたわけですよね。そうすると伝えられてきた文言と、それから社会情勢の間にずれが出てきますよね。そのずれを直す方法として、ファリサイ派が考えたのは、掟を解釈していく、という方法です。例えば憲法というのがありますよね。それを現実に合わせるために、解釈をコロコロ変えていったわけですよね。それと同じようなことだ、と言っていいかと思います。ですから、もう一方でエッセネ派と呼ばれるユダヤ系の一派があったんですが、その人たちは文言通りの生活をしようとして荒れ野に出て行った。修道院のような生活をしたんですけれども、対照的な対処の仕方と言っていいでしょうね。イエスはどうやらエッセネ派と関係があったらしい、ということなんですけれども、
 
草柳:  今日は結婚、特に離婚のことについて、聖書はどういうふうに見てきたのか。イエスはどういうふうにそれを捉えてきたのか、ということを伺ってきたわけなんですが、もう一度ここでおさらいをしてみたいんですけれども、律法を中心にして、つまりファリサイ派の人たちが言っていることもわかるんですけれども、ただそれは律法を自分に都合の良いように解釈をしているのではないか。それに対してイエスは、もう一度一番根源のところに戻ったらどうか。戻らなければいけないのではないか、と。その角逐だったわけですか。
 
雨宮:  そうですね。そういって良いと思います。ですから人間が、イザヤが述べているように、「知らず知らずのうちに神の掟を人間の掟に変えているんだ」ということが確かだとしますと、「原点がどこにあったか、ということを常に思い起こすことが大事だ」ということになりますですよね。イエスの立場は、そういう立場なんだ、と言っていいかと思います。
 
草柳:  そしてその文言で言えば、イエスは「創世記」の中のあの部分を取り上げて、男と女というのは、元々一つのものなんだ。
 
雨宮:  そうなんですね。そういうことなんですね。
 
草柳:  それが主張の一番根本にあることなんですか。
 
雨宮:  そういうことですね。だから「男と女があって、初めて一人の人間なんだ」という考え方だと思います。でもそれでいて「別々なんだ」と言っているわけですから、ほんとに難しいことだと言えば難しいことなんですけれども。だからこそ神の意思がどこにあったのかをよくよく見る必要がある、と説いているんだと思います。
 
草柳:  確かにモーセは、離縁があっても、離縁状を書いて、その離縁ということはあり得るだろう、と。それは決して否定はしていないわけですね。だけれども、しかしそれはイエスの立場からすれば、仕方がない、やむを得ず、ということであって、根源はやっぱり違うんだ、ということを言い続けたということでしょうか。
 
雨宮:  そうですね。ですからイエスが根本的に何を考えているか、ということだと思いますですけれども、「我々は神の意思に従うべきなんだ」ということを最大の原則にしている、ということになるんだと思います。
 
草柳:  そうすると、今回のテーマ、「神が結ばれた者を離してはならない」という、この命題の背後のところには、人は神がまったく男、女、一緒にして、人として造ったものだ。人からすれば、こちら側からすれば、造られたものだ。造られたものが造ったものに対して一体何が言えるのか、ということなんでしょうか。
 
雨宮:  そういうことですね。イザヤのお言葉の中に、「陶器師によって造られた器が、不十分だといって、陶器師に文句を言うだろうか」という言葉があります。だから今おっしゃった通りで、造られたもの、ということを認めますと、そうすると神の意思というものを最後まで求めなければならない、ということになりますですよね。
 
草柳:  その神の意思ということでいえば、律法だって途中でちょっとお話が出ましたけれども、言ってみれば神の意思ですよね。
 
雨宮:  そうです。
 
草柳:  神の意思の教えということですよね。
 
雨宮:  ただコルバンの例のように、コルバンそのものは別に悪いことではないんですけれども、人間がそれを悪用することができる、ということですよね。ですから例えばモーセが、「離縁状を書いて」と述べたのは、それまでは離縁状なしに勝手に男が女を去らせることができたわけです。せめて離縁状を書け、と言っているわけですよね。ですからその勝手さというものに歯止めを掛けようとしているのが離縁状ということだと思うんですね。ですから、いわば離縁状を書いて、というのは、神様が譲歩した、ということになりますでしょうかね。
 
草柳:  しかし今日のお話を伺っていますと、ファリサイ派の人たちの主張というのもわからないではない。人間の現実を考えると、この問題ってもの凄く難しいですね。
 
雨宮:  難しいですね。ほんとに難しいです。ですから最終的な結論がどうなるにしても、例えば別れざるを得ない、というような結論になるにしても、まずは自分たちの初めが何だったのかを考えるべきだ、というのが、イエスの根本姿勢なんだろうと思います。
 
草柳:  どうも今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十二年十月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである