優劣のかなたに
 
                            国語教師 大 村  は ま
                            ききて  広 瀬  修 子
                                  (アナウンサー)
 
ナレーター:  徳島県鳴門教育大学の図書館には、日本の国語 教育を開拓した教師の名を付けた文庫がありま す。今も整理が続けられている「大村はま文 庫」。公立学校の教員として、独創的な授業を 実践し続けた大村はまさんの足跡が納められて います。教材を生み出すために集めた文献や指 導案、生徒の学習記録など、合わせて一万二千 点あまり、今年九十七歳になる教師に学ぼうと 全国から閲覧者が訪れます。大村さんの五十二年に及ぶ教師生活は、一九二八年、 屈指の教育県で知られた長野の諏訪高等女学校で始まりました。教師自身が、西 田哲学や自然主義文学など独自の研究テーマを持ち、熱心に生徒の指導法を議論 する環境の中で、東京の大学を出たばかりの大村さんは、教師として鍛えられて いった、と言います。当時盛んだった作文教育に力を傾け、睡眠時間を削って、 生徒の作品を読み続ける生活を送りました。一九三八年、大村さんは東京の第八 高等女学校に転任、尊敬する校長に出会います。しかし、戦争が激しさを増す中 で授業は無くなり、弾薬工場での作業や慰問文の指導に追われるようになりまし た。一九四五年、日本は敗戦。大村さんは、一九四七年に誕生した新制中学に自 ら望んで転任します。新しい環境に身を投ずることは、戦争中の教師としての自 分に深い後悔を抱いた大村さんの切実な選択でした。新しく生まれた公立中学校 の現場で、確かな言葉の使い手を育てることこそが、日本に民主主義を根付かせ るため、国語教師としてやらなければならないことだと信じた からです。以後三十年あまり、五つの公立中学で教師を務めた 大村さんは、「大村単元学習」と呼ばれる独自の授業を開拓し ました。教科書だけでなく、幅広いジャンルの本を教材に使い、 調べたり発表したりしながら、言葉の力を育(はぐく)んでいく授業、そ こには能力も興味も異なる生徒一人ひとりを育てていく工夫が 込められていました。五千人の生徒を教え、貴重な実践記録を 残した大村さんは、一九八○年、七十三歳で現場を去りました。 退職の日、最後まで図書室の本を整理していたと言います。
 

 
広瀬:  よろしくお願い致します。大村先生は、今年九十七歳になられて、益々お元気に、 それからお忙しく全国を回っていらっしゃるんですけれども、 教科書だけによる授業を超えて、周到な準備とか計画をした授 業をずーっと作っていらっしゃったわけですけれども、その授 業を二度繰り返しはなさらなかった、ということなんですけれ ども。
 
大村:  そうですね。
 
広瀬:  それはなんか私どもは勿体ないな、というふうな気もするんで すけども。
 
大村:  ええ。自分でも勿体ないと思わないこともないんですけども、 私は、教師が教室にいる一番素敵な気持、これがいい、こうい う気持で教室に居れば、子どもたちと勉強していけるんだとい う、その大切な気持が他人(ひと)と少し違うんです。
 
広瀬:  どんな気持なんですか。
 
大村:  教室へ行って一所懸命やらない人なんて滅多にいるもんじゃありません。けれど もそういう時に「新鮮」ということをとても大事にしていました。「新鮮」とい うことは「どの子にも同じことを言わない」ということでしょう。そのことがま ず第一ですね。若い時に、勿論二度やるという特性があったでしょうね。同じ質 問を出すというようなことが。それはそれで別に構わないかも知れないけれども、 私は、自分がしょうがないんですね。その時誰かがとてもいい発言をしたりして、 クラスが盛り上がって楽しかったことがあったりしますと、それが忘れられない んですね。同じものをやると思い出すんです。そして心の中で、「今年の子ども は、あれと違ってちょっと劣っているかな」って馬鹿なことを考えるんですね、 比較して。私、そういうことが実にいけないことだ、と。教師としては、そうい うことを絶対にしない。それは非常に絶対にしてはいけないことなんです。今の 子どもに全身でぶつかっている気持に傷が入っちゃうんですね。それを絶対に防 がなければならない。それで絶対に防ぐには二度やらないことなんです。前のも のをやらなきゃいいんです。そうしたらいつだって新鮮ですし、それからそんな 詰まらない比較するという、比較して人を見るという、今のその人をキチッと見 ていないという、教師としては非常にダメなことを、自然に何も工夫しなくとも、 新しい教材ならそんなことはありません。おまけに初めてやるものにはなんとな く心配があるものなんです。大丈夫かな、と考えて、こういう指示で大丈夫かな とか、なんかちょっと心配。私は、教室へいく教師は、ちょっと心配というのは、 いいことだと思うんです。中学生というのはちょっぴりでも人に威張られるのが 大嫌いなんです。
 
広瀬:  そういう年頃で、
 
大村:  ええ。自分は劣っていると思っても、とにかく人に威張られることが嫌いなんで すよ。嫌いというのは一等ですよ。私は子どもの前には新鮮で小さな心配を持っ た謙虚な心で向かってくる。それが子どもとほんとにいい関係を作った学習がで きることだなあと、私は骨身に染みて考えている。そうすると、やはり新しい教 材を発見したりして向かっていく時は、新鮮でもあるし、そして謙虚だと思いま す。心配しているんです、ちょっと。
 
広瀬:  トコトン準備をなさって、百パーセントこれで自信満々十分できた。準備万端整 ったというふうに思ってきっと教室にいらっしゃったこともあったと思うんです けれども。
 
大村:  ありますよ、失敗はね。大失敗はあるんです。村田という大変優秀な男の子です。 私は、中学出て初めて男の子というものを知ったんです。ずーっと女学校でした からね。ですから、やや男の子の扱いが下手だったのかも知れませんが。文法と いうのがありますでしょう。「文法は、単元学習では非常にやりにくい。だから 文法はもうストレートにこっちから何段活用ですよ≠ンたいに教えたほうがい い。いいも何もそうしなければできない」という話が研究会でよく出たんです。
 
広瀬:  いわゆる普通の授業のような形で教えるのが相応しいだろうと。
 
大村:  ええ。残念に思いまして、「単元学習というものはそんなもの かしら」と思って、案を練りました。そしてちょっといい案が できた。それで嬉しくなったんです。そこら辺が危ないですよ ね。嬉しくなっちゃったんですね、自分が。それで新しい案を 持って行ったんです。そうしたら、大丈夫で、子どもたちは大 変元気に、文法なんて大抵の子どもは嫌いと言われているのに、 楽しそうにしたんですね。私、嬉しかったんです。それで終わ って黒板を消し始めました。そうしたらなんか小さい声でもに ゃもにゃ言う子がいるんです。「なーぁに! なーぁに!」なん て言いながら、私、得意ですね。そうしたらひょっと見たらそ の子だったんです。「なーぁに!」と私、調子に乗っていまし たら、「先生、ストレートに教えて下さい」と言われたんです。 私、ビックリして、ゾッとして、「はい」と言った切り言葉が 出ない。工夫するはいいけれど、工夫のし過ぎで、くどくって、 出来ている子ども、解った子どもに対してはどうなんだ、とい うことを単元学習の欠陥を非常によく言っているな、と思いま した。更に悲しかったことは、その子は一時間中楽しい顔をしていなかっただろ うと思います。早く終われば、と思っていたでしょうね。だけど、私、その情け ない顔を見たなら、またそんなに後悔しませんけども、その顔を見ていなかった。 だからほんとに授業というのは大変なことですね。しかし、私としては、謙虚な 気持、新鮮な気持で、そういうことが大変心掛けていたことは確かで、二度しな いとか、教科書だけに頼らないとか、いろんなことがあるのはみんなそのためだ ったと思います。
 

 
ナレーター:  大村さんは、一九○六年、明治三十九年に横浜 のクリスチャンの家庭に生まれました。父は女 学校の教頭やキリスト教青年会の主事を務め、 母は外国人宣教師に学んだ英語を子どもたちに 教えてくれました。横浜の元街小学校に入学し たのは、大正デモクラシーの時代でした。大村 さんは教師となってからも、生涯学び続ける姿 勢を崩しませんでした。九十七歳になった今も、 一日一冊のベースでの読書を欠かすことはありません。
 

 
大村:  私は、姉妹(きょうだい)の中で大変不器用だったですね、手がね。父が不器用な人でしたん で、私も遺伝したらしい。
 
広瀬:  そうですか。
 
大村:  それで不器用。それが私にとっても苦になっていました。それで絵を描くなんて いうのは大変で、当時は絵の手本がありまして、それを見て、その通り描くとい うのが流行っていたんですが、私の先生は研究者でもあったでしょうし、デモク ラシーの影響もあって、多少教科書の通りに描いてくるということじゃなく、や って下さった。ちょうど夏になる時で、大きな画用紙に団扇の絵を、丸いところ だけをこういうふうに描いて下さって、「そこに斜めに帯を入れて、そこに植物 を材料にした図案を入れて、そういうのを描いてご覧」と。「まっすぐな線が出 ているけれど、斜めのほうがいい」とおっしゃったんですね。それで「植物を」 とおっしゃった。私ね、宿題になった。お友達と一緒にやや重い気持で、「今日 は図画の宿題、図画の宿題」と思いながら帰りました。家に葡萄棚があったんで す。あんまり広い棚じゃないですけども、葡萄棚があって、葉っぱが茂って、少 し実が付いてきて、そういうのがあったんですね。アッと思いまして、「これが いい。これ描こう。帯模様だから蔓をずーっとやって描こう」と思って、やや嬉 しくなりました。そしてドンドン鉛筆で描いたり消したりして、先生が「水彩の 絵の具を使え」とおっしゃったから、少し塗って見たら、さっきから何遍も消し たりなんかしたからでしょう。汚くなってね。そうしたら自分の下手なことを思 い出して悲しくなって、シクシクと少ししゃくりあげたわけです。そうしたら隣 の部屋に―私の姉は大変器用な人でした、私に比べてね―その 時、肋膜炎で隣の部屋に寝ていたんです。絶対安静で、なんだ か大きな注射針みたいなので、お水を取ったりして、頭が上が らないような、そういう時でした。「持っておいで」と細い声 で言ったんです。
 
広瀬:  お姉様が、
 
大村:  ええ。私、お姉さんが病気のことも忘れて、すぐ持って行ったら、「絵の具持っ ておいで」と言ったんです。私、それを持って行って、涙でクチャクチャの顔で、 お姉さんの病気のことも忘れて揃えました。そうしたらお姉さんが絵の具を溶き ました。紫の綺麗な絵の具を溶いて、そしてそれチョッチョッチョッと触ったと 思ったら、ウンと綺麗になったの、帯模様がね。くっきりこう浮かび上がってき て、「なんて素敵」と思って嬉しくて嬉しくて。そうしたらお姉さんはやっとこ 筆を置いて、「まだ濡れているからすっかり乾くまで広げて置くのよ」と言って くれました。私、勿論捧げるように持って、隣の部屋へ行って、夕方まで乾して おいたんです。先生が、「図画描いてきたか」。「はーい!」ってみんなで、私 も大きな声で、「はーい!」って言いました。「じゃ、持って来い」。みんな出 しに行って、私も出しに行って、その時、広げて出して、「はい!」と言って出 して、とっても嬉しかったんです。私はやっていることがちっとも分かりません でした。明くる日になったら、先生が昨日の図画の中から、「上手なの」と言っ て、黒板の横の掲示板に出して下さった。ヒョッと見たら私のが出ているんです ね。ビックリしましたね。私、図画は褒められたことがなかったから、ハッと思 って。みんなが「はま子さんのいいわね。葡萄なのね。綺麗な葡萄ね」とみんな が言ってね、お友だちも褒めてくれたんです。私が先生にお出しした時に、ハッ と先生も気がつかない筈ないと思います。ひと目見て分かったと思うんです。で すけども、すっかり騙されて下さって何にも言わないで、桜の花を一つだって素 敵なのに、三つもつけて張り出して、みんなに褒められているのを見ていらっし ゃった。あの時、もし先生が、「なんだ!」とおっしゃって、そしてみんなの前 で恥ずかしい行いを言われたりして、私が大恥をかき、泣いて帰るようなことが あったら、私は生涯忘れられない悲しい辛い思い出になったでしょうが、先生は 私を信じてというのか、喜ばして、生涯ね、九十何歳に至まで、先生のその時の お心の動き、教師としてどんなに叱っても構わない場面ではあったけれども、そ れをそんなふうに扱って、私は私の先生のなさって下さったことを生涯感謝して います。そしてそういう思い出を持っていることが嬉しくって、教師のあり方に ついて、いつも「どうあるべきか」ということが、型に嵌らないように、私ね、 お手本にしてきました。そんなことがありました。
 

ナレーター:  一九二五年、大村さんは、東京女子大学高等学 部に入学します。「高い見識と豊かな教養をそ なえた女性を育てたい」という、初代校長・ 新渡戸稲造(にとべいなぞう)の理念を生かした学部でした。「青 年期には、一人自分を見詰める時間が必要であ る」という新渡戸の考えで建てられた全室個室 の寮で、三年間を暮らしました。
 

 
大村:  寮のほうへ入りますと、ほんとの独りで、私独りのお部屋で、 思いっ切り勉強もしたり、考えたり、泣きもし、笑いもし、そ して本を読み、読むも読むわ、私はほんとに一生涯の間の本を 読んだような感じですね。なんかみんなが新しい時代に目を覚 まそうとして、自分で自分を覚まそうとして、何事かしたいよ うな、そういうふうな気持の人が全部友だちでしたね。ですか ら他人(ひと)のお邪魔もしませんが、自分の邪魔もされずに、実に伸 び伸びとした明るい日が過ごせて、思いっ切り勉強ができたと 思いますね。私のいた西寮の二階の二号室というのが、私が出 てから後暫く「勉強室」というあだ名が付いていた。
 
広瀬:  それくらい有名な、
 
大村:  「西寮の勉強室」と言ったら、私が暮らしたところです、って。 私、そこで新渡戸先生がおっしゃったような若き日を過ごした、 と思っています。そしていろんな影響を受けたと思います、友 だちからも。夜を明かして話し合ったこともあったりして、いい青年期だったと 思っています。
 
広瀬:  東京女子大を卒業されて、昭和三年に諏訪高女のほうに、
 
大村:  私、信州へ行って、初めてほんとに大人になったのかも知れま せん。人を見る目というものが大層育った、と思います。
 
広瀬:  その諏訪高女は、随分先生方は議論好きだったようですね。熱 心にいろいろなことを話し合っていらっしゃったようですね。
 
大村:  そうです。それでその頃、「操行点(そうこうてん)」というのが付くんです。
広瀬:  今で言えば、生徒の行動の記録のようなものでしょうか。
 
大村:  そうですね。それで諏訪高女では、通信簿というのを、見たい 人には見せましたが、親であっても子どもであっても。希望し なければ配らなかったんですよ。そういうことがありました。
 
広瀬:  そうですか。
 
大村:  校長の考えであったんですね。それで今、評価が喧しいから、私、思い出したり して、あの先生が今いらっしゃったら、評価論の真っ先に立つだろうなあなんて 思ったりしますけれども。
 
広瀬:  先進的な方だったわけですね。
 
大村:  ええ。それで「操行点」なんですが、それを付ける時に、一人ひとり話題にして 黒板に「大村はま」というふうにまず書くわけです。そしてその「大村はま」に つきまして、誰でも事務室の人まで一緒にやっていますから、気が付いたこと、 見かけたこと、なんかで分かったこと、そういうことを話して操行点を決めてい くんです。
 
広瀬:  全校の先生と事務員さんと皆さんで決めていく。
 
大村:  そうです。みんなビックリするほど教えてなくても、いろんなことを知っていま した。「どういう時、こういうことがあった」っていう。「どういうものを読ん でいた」とか、「こういうことが家庭から耳に入った」とか、とにかく驚くべき もんです。私は、ちっとも観察もできないで、「ああ、そういうことも見ておく のか」と思ったりして、私は国語のことで夢中で、作文で夢中で、そんなことな かったんですが。その時先生方同士議論になるんです。例えば、「大村はまがこ の間こういうことがあった。彼女がこういうところがあっていけない」とか、そ ういうふうにいうと、他の人がその時、「彼女がそういうふうにした事情はなん だ」と聞き質(ただ)したり、それから「何でそれがいけないのか。いけないと決まって いないんじゃないか」。「いや、そういうことは大村はまの場合は、それは必ず 彼女を不幸にするような結果を生んでくる、終いに。そういう人間だから今こう いうことがあってはいけない」。つまり粗末だったりすると、そんなことを言っ たり。そのうちにだんだんお互いが議論して、相手の先生の議論に対して人の評 価をしている。その議論に対して、「あなたの考え方がこうこうでいけない」と か言って、始まるんです。そうすると、相手も承知しませんので、「西田哲学か ら言えば、こうだ」なんて言い出すんです。「そんなものは今持ち出してはいけ ない」とかね、「持ち出すなら、ここんとこですべきなんだ」とかというふうに、 二人が喧嘩になっちゃった。何点にするかが決まるまでには、そういう議論があ った。私は、ほんとに目をパチクリとは、あのことですね。ビックリしてね、目 をパチクリしながらちっとも発言できない。発言できない人を指したりはしませ ん。黙っている人に何も言わないんです。だけども、自分たちは言いたいだけの ことを言って、お互いの人の見方の磨き合いみたいなものですね。
 
広瀬:  時間が随分かかりますよね。
 
大村:  大変です。当時女の先生はなかなか務まらなかった。夜も遅くなります。六時、 七時頃になると、「腹が減ったな」なんて校長さんは言って、有名なお蕎麦を取 って、お蕎麦を食べたら帰るのかと思うとそうじゃない。「さあ、蕎麦食ったか らやろう」と言ってやるんですね。そういうふうにして、いつまでも長く、十時 位になるのはしょっちゅうでしたね。
 
広瀬:  そうですか。
 
大村:  何にもない人を、「可も無し、不可も無し、ご無事な方ですな」なんて言って、 済んだったりすることもあります。「ああいう子どもを今のような言い方をして、 ご無事な方です≠ネんて済ますことが教育をダメにするんだ。無いようでも掘 り出して考えろ」なんて言って、またやり出すでしょう。私は、それを聞いて、 初めて哲学の世界とか、人間を育てるということはどういうことだとか、環境が 人をどのように変えるものだとか、その環境が思わしくない場合にどのように考 えるかとか、とにかく私、他人のことをそんなふうに話したことがないんです、 それまで。みんなと一緒に女子大にいましても、他人をそんなふうに人間の値打 ちをみんなで話し合ってみる、ということがなかったんで、私はほんとに驚きま した。私、ほんとに十年いました時に、十年間生徒でした。
 
広瀬:  そういうことになるわけですね。昭和十三年に、東京へ帰って いらっしゃって、東京の第八高女へ移られたわけですよね。そ こでもまた勉強を続けられたわけですけれども、その頃は読書 会などにもいらっしゃったそうですね。
 
大村:  そうです。たくさん出たんじゃないですけれども、成蹊(せいけい)女学校 という私立の女学校があって、その主事のような方が奥田正造(しょうぞう) 先生という方なんです。その方はお茶の先生です。そして「お 茶を極めることによって、人間を作っていこう」とする成蹊女学校の舎監だった わけですね。ほんとに襖を一つちょっと開けても、「待て!」と言って、開け方 をもう一遍やり直させられるくらいの厳しい人なんです。そして見ただけでも怖 い感じ。私なんか振るいちゃうぐらいなんですね。「自分とこに読書会があるか ら来なさい。木曜日だ」とおっしゃった。私、行かないのも怖いような気がしま したから行きました。私は先生のところへ行きましたけれども、怖いし、なるべ く他の人が来て─八人位いますからね、他の人が来てから行きたいの。先生一人 でいらっしゃるところへ行きたくないんですよね。それで気を付けていたんです。 その日も私ね、玄関でひょっと見たら、お靴があったんです、確か二足。どなた が見えているのかなあと、私は思いましてね、ご挨拶の前にお茶の稽古をしまし て、それから先生の部屋に行って気を付けて襖を少し開けて、お顔なんか見ない で丁寧にお辞儀して、ひょっと見たら、誰も居ない。先生がお一人じゃないです か。「しまった!」と思ったけれど、もうどうしようもありませんので、床の間 に拝礼するんですね。決まった通りにやって座っていたんです。そうしたら先生 が、少ししたら、「ああ、大村さん! 大村さんは生徒に好かれているかなあ」 とおっしゃった。これはまた難題ですよね。「はい。好かれています」なんて言 えないし、「はい、好かれていません」これも言えないし、私ね、どぎまぎとな って、声が出ない。先生がお笑いになって、「そう遠慮しなくってもいいよ。大 村先生、大村先生!」って。「慕われているに違いない」とおっしゃった。私、 またどうしていいか分からないでいましたら、「しかしですな」とおっしゃった。 「しかし、みんなに好かれて」とおっしゃった。「だけどまあ二流三流だなあ」 とおっしゃった。
 
広瀬:  好かれている。いけないんですか?
 
大村:  いけないんですね。
 
広瀬:  どういうことでしょう?
 
大村:  そんなことは大したことじゃない。それで私返事のしようがありません。益々硬 くなって、「はい」ってだけ返事して、座っていたら、仏様の指の話をして下さ った。私一人しかいませんでしたの。「ある泥濘(ぬかるみ)のところを、男が荷車を曳(ひ)いて 行く。そこへ嵌っちゃってなかなか曳けない。いくら曳いてもひいても曳(ひ)けない んで、汗びっしょりになって、非常に苦しんで精一杯曳いているけれど、車はち っとも動かない。その時、仏様はジッとそれをご覧になっていたけれども、ちょ っと指を出して、その荷物にお触りになった。その瞬間に車が泥濘を越えて出て、 車はサラサラと曳かれて行ってしまった。男がホッとして、自分が一所懸命曳い た甲斐があったと思って、車をドンドン曳いて行ってしまった。だからこの男は、 永遠に仏様の指が自分の荷物に触ったことを知らない。こういうのはほんとだな」 とおっしゃった。
 
広瀬:  仏様の指が触ったからこそほんとは車が動いたんだけれども、そのことは知らな い。
 
大村:  そういうふうに、「男は永遠にご恩を思うことも、感謝することもない。自分の 力だったと信じて生きていく。そういうのが本物だな」と。「先生有り難う。ま あ良かったね。そういうふうな生活もそれは人生における幸せだ。だけど、そう でなくて、自分だけで曳いたと思って生きていく。そのほうがこの世の中を生き ていくに強い」という意味でしょうね。私ね、そのうちに「はい」と言って、ろ くに何にも言えないでいるうちに、先生が「あっはっは」なんて言って、他の人 が来たから、お話なさっていたからそれ以上に聞かなかったけれども、私はウン とほんに響きました。
 

 
ナレーター:  東京都大田区立石川台中学校。昨年四月、大村 はま先生は、教師になって四十八回目の新入生 を迎えました。大村さんが、現役最後に務めた 中学校での映像です。授業はいつも図書室で行 われていました。大村さんはテーマに合わせて、 新聞や漫画など幅広いジャンルの教材を用意し ました。生徒たちは、調べたり発表したりしな がら、深く読み取ることや的確に話すことなど 言葉の力を身に付けていきました。大村さんの独自の授業は、幅広い読書を背景 に生み出されていました。私立中学や名門高校からの誘えがありながら、大村さ んは、公立中学という場に拘りました。さま ざまな生徒が集まるごく普通の教室を一人ひ とりを伸ばす学習の場にしたいと願っていた からです。生徒の興味や力の違いを掴んだう えで、大村さんは学び方の手順を具体的に示 した「学習の手引き」を作っていました。そ れは一人ひとりに合った指導ができるよう工 夫されたものでした。全四十七巻の『日本子 供風土記』を使った授業は、著名人が書いた推薦文を手掛かりに本を読んでいく 学習でした。生徒一人ひとりが別々の風土記を担当し、その課題に取り組みまし た。
 

(学習指導現場の映像から)
 
大村:  さて、新村さん。
 
生徒:  はい。
 
大村:  あのね、あなたは最初、山本やすえの何とかという、
 
生徒:  山本やすえという方の
 
大村:  どこの所?
 
生徒:  ここには出稼ぎというのがあるんですけれど、私のやつは茨城県の本なんですけ ど。この推薦には、「日本中の子供たちの正直な思いを正しく表してくれる企画 に違いありません。やはりはやり言葉としての断絶などでは捉えられない深い問 題を私たちに差し出してくれる」そのことが書いてあるんです。
 
大村:  どこがそう?
 
生徒:  僕が気が付いたのは、ある一家の出稼ぎのことを一部なんですけれど、一家のお 父さんが取り入れを終わったりすると、
 
大村:  話を切っていったほうがいいよ。出稼ぎの家のことです
 
生徒:  出稼ぎの家のことです。
 
大村:  それで、お父さんが?
 
生徒:  お父さんが、出稼ぎの会社から手紙がきました。その手紙には、「また今年も会 社で働いて下さい」。そういう手紙なんです。
 
大村:  お父さんの行く気ですか?
 
生徒:  お父さんは、「稲刈りが終わったら行かせて貰います」と書いたんですね。とこ ろが、それを見ていた子供は、「今年からは行けません」などと書いて、お父さ んの手紙を取り替えてしまおうかと思ったんです。
 
大村:  思っただけ?
 
生徒:  思って、それでそこから僕の親子─大人と子どもが一緒に考えていかなければな らない。ちょっとこれには当て嵌まらないかも知れませんけれど、
 
大村:  あのね、お父さんと子供とが、大変気持の違う言葉、ちょっと取ってみて、
 
生徒:  一番気持が違うのは、お父さんの書いた手紙を取り替えてしまおうか。取り替え てしまうということはぜんぜん反対で、
 
大村:  いい文句がない? お父さんは出稼ぎにいくことについて、なに?
 
生徒:  お父さんの出稼ぎ・・・
 
大村:  これどう?
 
生徒:  稲刈りが終わったら
 
大村:  終わったら行かせて貰います=Bそれに対して子供は?
 
生徒:  「行けません」と書いてある。「今年から行けません」。
 
大村:  それですっかり反対ね、大きな断絶なのね。
 

ナレーター:  こうした大村さんの授業は、戦争で焼け野原に なった東京下町の新制中学での体験から生まれ ました。一九四七年、辛うじて焼け残った工業 高校の校舎を借りてスタートした深川第一中学 校。無傷で残った高等女学校を辞め、教科書も 机もない学校に飛び込んだ四十一歳の大村さん は、戦争への苦い思いと切実な願いとを抱いて いました。
 

 
大村:  戦後の教員というのは、いろんな人がいろんな思いで過ごしたと思いますけど、 私はもっとも取り乱した人の一人なんですね。「心ならずも」と言いたいとこだ けど、あんまり心ならずもでもなかったみたいに、非常に一所懸命戦争に参加し たということ。子供たちを励まして、自分も励ましてね、ほんとに戦争に全力で 努力したということ。作業にも行きましたし、千人針もやったし、それから子供 たちの作業の間の指導にも当たったし、本当に非常に一所懸命に戦争に参加しま した。それが全部しないほうが良かったことだったわけでしょう。詰まらないこ とだったことでしょう。ダメだったことだったわけでしょう。ほんとに子供にな んて話していいか分からないし、自分でもどうしようもないような気持でした。 それが慚愧に堪えないというのはちょっと大げさなしゃれた言葉ですけれども ね。嘆いても嘆いても嘆き切れないほど、つまり取り乱していたわけです。戦後 のことがいろいろ進んできましたね。それで新制中学が出来ることになったんで す。昭和二十二年ですね。ですが、私はそれを聞いて、一遍に心が動いちゃった んです。とにかくその頃のはやり言葉は、「民主国家の建設」。「これからはと にかく民主国家の建設にどんなことでもしなければならん」といったような気持 が切なく、私の胸にいっぱいになったわけです。初代の深川一中に校長になって 行く方が、第八高女に見えて、私に、「そういう希望を出しているそうだけど、 私のところへ来てくれませんか」とおっしゃった。私はそういう時でしたから、 「はい。先生のところへお世話になります」って、誰にも相談しないで、私、よ くそんなことできたと思うわ。まだ深川あの辺は全部焼け野原の焼け野原ですか ら、地面のところが、どこがプッと上がるか分からないんです。その下が防空壕 になっていて、そこへ寝ているわけですね。だから歩いて来ると、ポコッと上が ってきて、人の顔がフッと出てくるとかね。怖いですね。それで駅で教頭先生を お待ちして、そして教頭先生と一緒にやっと学校へ着く、といったようなことで したね。帰りは夕方で尚更危ないから、校長はじめ教員揃って団体でもって行か なきゃ、といったような、そんな生活です。
 
広瀬:  ろくに教室も整っていないわけですよね。
 
大村:  ええ。それで枠があっても、床がまだガラスの破片で一杯ですから危ないんです ね。そして机、椅子、そんなものは絶対なんにもない。全部焼けたわけですから ね。一クラス、その当時五十人ちょっといましたね、数としてね。二組一緒に百 人あまりの生徒を私は講堂だか体育館だか、そういうところに集めて、そして授 業することになるんです。
 
広瀬:  男女共学ですし、それまでの女学校とは大分雰囲気が違うんでしょうね。
 
大村:  違うも違わないも別世界。そして戦争中にろくに学校へ行かないし、勉強もしな かった人たちが滅茶苦茶になっているんです、子どもが。それが滅茶苦茶に集ま ったわけ。教科書もなければ、ノートなし、黒板なし、白墨なし、そういうとこ ろですよ。
 
広瀬:  じゃ、先生はどうやって教えよう、と。
 
大村:  こんなになって、騒いでいてね、ガラスを踏まないように、みんながやっとこさ でやっているわけです。私が、「静かに!」なんて言ったって、「静かに」とい う言葉が通じないですよ。大体聞こえないわね。で、ベルを持っていったの。ベ ルでやろうと思って。そうしたら、みんなが、「リーンリーン」と真似するから もっと騒がしくなっちゃった。
 
広瀬:  逆効果だった。
 
大村:  それで私、「立ち往生」って、あのことですね。どうしようもない。ただ教壇に 立って、みんなの騒ぐのを見ていて、悪いけどほんとに人の子か、と思うような 姿でいるのね。これは我慢するしないじゃない。とにかく何にもできないし、怪 我させないだけで精一杯。それで西尾(西尾実:国立国語研究所初代所長)先生 のところへ行ったわけ。電車に乗って行った。そして先生にその様子を話して、 「どうにもならない」って、「いくら考えてもどうしようもない。何にもなくて もやれるけど、お話を聞くこともしないんだし、私にはやっぱり冒険であった。 自分には出来ないことをやろうとしている。だから、いい仕事だと思ったんだけ ど、出来なきゃしようがないんで、そのうちに誰かが怪我をしたり、なんかした ら大変だし」と言って、先生に「声涙ともに下る」って、あのことだわね。多分 泣いていたと思うね。そしてちょっと言葉が、あんまり話して途切れたらば、先 生が、「それだけか」とおっしゃった。「それだけか」。私、ビックリしたけど、 とにかく「はい!」と言ってね、もう「はい」ばっかり。そうしたら先生が、「死 んじゃったりね、病気になったりしたんでは困るけどね」とおっしゃって、「だ けど本物の教師になる時かなあ」とおっしゃった。それで私が窃(ひそ)かに願っていた ように、「そんなのではダメだから、帰ったら良かろう。誰々に話してあげるか ら。高等学校の焼けたところでもいいから移ったら。そういうふうにしたらどう か」と、先生が助けて下さると思い、それをお願いするつもりで行っているわね。
 
広瀬:  女学校に戻れれば、とも思っていらっしゃった。
 
大村:  ええ。だけど、先生がそうおっしゃって、何故だか大きな声でお笑いになったの。 カラカラッと。私、それにハッとしてね。それでとにかく先生にお願いすること はできないんだ。もう先生に頼ってはダメと思いましたから、「先生にいろんな 話を聞いて頂いて、有り難うございました。よろしくお願いします」と言ったか どうか分からない。口をきいたかどうか分かっていない、覚えていないんですね。 でも玄関に出て、先生にお辞儀だけはしたと思います。丁寧にお辞儀して、お家 を出たの。ほんとに「心から泣く」って、あのことだわね。自分が軽率だったん であろうか。出来ないことをしようとしてと思って。しかし、「本物の教師にな る時かな」とおっしゃったのは、私にキチッと心に残った。それで気を少し取り 直して家へ帰ったの。そうしてその晩、どうしようかと思って、何しろやるもの があればいいと思って、本があればいいんだから─そんなものないけれどもね。 新聞の切り抜きを―新聞があったわけじゃないの。みなさんが、「よく新聞があ ったね」とか、いろいろおっしゃってくださるけど、そうじゃない。新聞なんか ないんですよ。だけど、お茶碗とか、お椀とか、何とか包んで疎開になっていく 時に、
 
広瀬:  引っ越す時に、
 
大村:  はい。私、何日か運んだんですよ。その新聞を剥いだわけ。包んであったのを。
 
広瀬:  クチャクチャになっていたのを。
 
大村:  綺麗にして。そして所々、「これいいかなあ」と思うのを切って、約百枚作った んです。
 
広瀬:  百枚、
 
大村:  ええ。そしてただ渡したんじゃダメだからと思って、今から言えば、手引きなん てものじゃないけど、とにかく何とか書いておかなきゃダメだから、古い手引き だけど、「どうしなさい」みたいなことやら、くだらないのだったけど、それを 自分の鉛筆やらなんかで、字の間に書いて、とにかく百枚作った。夜も明けまし た。そしてそれを持って行ったの。騒いでいるのよ。まるで人間の子供の感じが しない。汚い格好をしているのと、両方で。
 
広瀬:  大騒ぎしている。
 
大村:  私ね、それをジッとこう見ていたのね。どうしようかなあと思っていたら、私、 誰だったか分からないけど、名前なんてまだ覚えていない。すーっと飛んで来た 子があったの。私は思わずグッとこういうふうに抱いちゃった。羽交い締めに掴 まえたのよ。とにかく夢中で。そして新聞一枚渡してね、「これをおやり」と言 ったの。そうしたらまた飛んで来るじゃない。掴まえて十人近く掴まえたかな。 そしてそれに一枚ずつ渡したのね。そうしたら、なんとなくね、「俺にくれ!」 というのが来たの。飛んで来ないで。急いで来たけども、別に暴れてはいないの が来て。一人来て、二人来て、三人来ているうちに、だんだん「俺にもくれ!」 って。とにかくなんとなく少しずつ静かになった。それで私ね、ヒョッと先に渡 した子ども、どうしたかなあと思って見たら、その子がガラス戸のところに、ガ ラス割れちゃっているけど、こんな細い鉄のところがあるんです。あそこに当て て、そしてなんだか一所懸命にやっている。
 
広瀬:  そこを台にして書いている。
 
大村:  読んで書いているんです、何かね。私、ヒョッとその子の顔を見た時、何とも綺 麗な顔をして、澄んだ目、人間らしくなっている時の目だわね。それを見たら、 ゾッとしたんです。そしてほんとに驚いた。やっぱり人という者はこういう時、 あんなに騒いでいても、ものを求める。高いものとか、学ぶこととか、そういう ことへの憧れみたいなものはあるんだな、という気持がしたの。それで思わず涙 が出そうになって、隣の部屋―空き部屋で何もないんですよね。そこへ入ったら 思わずわぁっと涙が出たの。その涙と一緒に、この子たちは人間の子供で、なん か教わることを待っている人で、教えることのできる、とにかく人間というもの なんだ、ということがよく分かったのよね。とにかくやることがあって、それが 自分がやれるという時には、こんなふうに豹変するもんだ、ということがよく分 かってね。私、その後うまくいかない授業というものは勿論あるものなんですけ ども、それから後、私はそういう姿を見たので、なんか子どもはダメな時という のは、なにわともあれ、なんと言い訳しても、責任は教師にあるんだということ が腹の底まで沁みちゃった。
 

ナレーター:  鳴門教育大学図書館の特別資料室には、生徒の 学習記録、二千冊が納められています。大村さ んとともに学んだ教え子たちが、自らの学習の 歩みを綴ったものです。生徒たちは授業で配ら れたプリントや、提出した課題を一枚残らず保 存して、日々の授業記録を付けていました。自 分が教室で何を学んだのか。何が足りなかった のか。自分自身の学習の姿を見詰めることで、成長の歩みを確かめ、次の学習の 課題を見出していきました。大村さんは生徒たちの記録を通して、一人ひとりを 更に伸ばしていくための手掛かりを探っていました。
 
大村:  「教育というものは、一人ひとりを育てること だ」と思うんです。束にすることじゃなくて。 ですから、教育が教育になるには、百人居れば 一人ひとりグループにしようとクラスにしよう と、結局は「誰さん」という、その人が成長す ることを願ってするものだと思っているんです ね。出来る子、出来ない子、と二色に分けたり しないで、そういうことが気にならないような、一所懸命な世 界が欲しいんです。今やっていることが面白くて、なんとなく やれて、一所懸命になっていれば、あの人は出来るけど、私は 出来ない子だって、そういうことを考えてもしょうがない。詰 まらないことを考えるという隙間みたいなものがないと思う。 自分は優れていようと、ダメであろうと、自分のできることを 力一杯やって、ここまでやれたという気持の他にはない。だか ら優劣なんていうことの問題にならない。そのことを忘れて、そんなことを考え る隙間がないような、そういうふうにしたいと思う。しかし国語教育の中で、評 価という時は、そういうふうに比べてどっちがいいか。点数「五・四・三・二・ 一」を決める段階みたいに考えているとしたら、評価ということは常にやるなん てわけにいきませんし、あまり楽しい仕事でも、役に立つ仕事でもない。一番役 に立つのは、自分の足りないところ、これからやりたいことの発見じゃないか、 というふうに思います。
 
広瀬:  点数を比べたりするだけじゃなくって、先生のおっしゃる「優劣のかなたの学習」 ということが一番、
 
大村:  そうです。「優劣のかなた」はちょっとしゃれた言葉で、恥ずかしいような気持 もしますけど、私、とにかく優劣をなくするんじゃなくて、向こう優劣の届かな いその先の世界へいくのでなければ、評価と言えないんだ、というふうに思って います。内村(内村鑑三:キリスト教伝道者・思想家)さんの説教書の中に、「祈 りは聞かれるものですか」というのがあった。「聞かれないこともある」と言っ ちゃ大変ですし、それから「絶対聞かれることがある」と言えば、その時のお母 さんが難病の子どもを抱えて、その質問をしているんです。だから、「よくお祈 りをして、して、していれば、子どもは死なないで助かる」ということを言った ことになりまして、それは言えないことでしょう。どうしても絶対に治せるとか、 絶対に死なないで生きていくなんて馬鹿なことを考えること出来ませんので、そ うすると、また信仰がないことにもなると思って、私は、内村先生はなんと応え るかと思ったんです。そうしたら、「祈って、祈って、祈り続けているうちに、 どっちでもよくなるような気持になる」とおっしゃっているんです。「聞かれて も、聞かれなくてもいいような、そういう心境になって、それが救われる、とい うことだ」というふうにおっしゃっていたんです。私、流石(さすが)だと思ってね。そう だなあと。勉強だって随分努力したいい生徒がたくさんいまして、それが思うよ うにいかないことがありました。でも私、いつもそれを思い出して、この人は出 来ても出来なくても、この勉強をここまで続けたこと、ここまでやったことによ って、必ずある一つの平安と言いますか、満足とか、幸せとか、人の非常に言え にくい心境というものをきっと持っただろう。お終いまで「出来ない、出来ない」 と言って、自分を虐めたり、そういうことはなくて、一つの力一杯学んだ人たち に恵まれる。そういう世界があっただろう、 と思います。
 

          (講演の場面から)
 
大村:  いろいろなお話をしたいと思いますが、早口 にならないように気を付けてお話をしたいと 思います。どっちが上手でどっちが下手。そういうことで、神経が草臥(くたび)れてしま っています。学ぶ世界、育っていく世界は、そんなものではないと思います。そ んなものなら育っていける人はありません。
 
 
これは、平成十五年十一月二十三日に、NHK教育テレビの
「こころの時代」で放映されたものである