共に生きる覚悟
 
                    宗教学者 山 折(やまおり)  哲 雄(てつお)
一九三一年、岩手県生まれ。東北大学インド哲学科卒業。同大学院文学研究科博士課程修了。東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、白鳳女子短期大学学長、京都造形芸術大学大学院長などを経て、現在、国際日本文化研究センター所長。著書に『日本宗教文化の構造と祖型』『仏教とは何か』『神と仏』『臨死の思想』『日本人の霊魂観』『日本人の宗教感覚』『鎮守の森は泣いている』など多数。
 
ナレーター:  宗教学者の山折哲雄さん。今年八十歳になりました。山折さんは、哲学や宗教学、文化人類学など、多彩な分野から「日本人とは何か」。日本人の心のあり方について長年研究を続けてきました。四月半ば、山折さんは東北の被災地を訪ねました。少年時代を岩手県の花巻で、大学時代を仙台で過ごした山折さんにとって、東北地方は心の故郷です。東日本大震災は、山折さんの知人や友人の命を奪いました。この震災をどう捉えればいいのか。山折さんは、惨害の爪痕を目の当たりにして、これまで考えてきた問いを深く見つめ直すことになりました。
 

 
山折:  四月十六、十七、十八日、二泊三日の慌ただしい旅でした。破壊と瓦礫の山の、特に酷い場所をズーッと通って、その風景の中で感じたことが、だんだん喉元を突き上げてきた感覚がありましてね。一口でいうと、「地獄だ」、そういう言葉が出てきましたね。それから賽の河原。神話的な世界、あるいは古代的な世界と思っていたものが、現実に眼前に広がっている。その驚きでしたよね。ただ、その地獄的景観には、仏さんの気配は全然感ずることはできなかった。賽の河原にお地蔵さんの立つ、そういう気配も感ずることはできませんでしたね。それほど徹底した破壊、瓦礫の山だった、ということだと思います。これだけの惨害に巻き込まれて、人間っていったい立ち直れるのだろうか。あるいは立ち直るとしたら、どういうふうにして立ち直っていくのだろうか。これ真っ先に思いましたよね。勿論そのためには、政治や経済の側からのいろんな復興の手立てというのがあるだろうと思います。しかしそれと同時に、それよりももっともっと大事なことがあるだろうと。それはやっぱり被害を受けた方々は勿論そうですけれども、そういうものを同時代に体験した我々全体の問題として考えなければいけないのは、いわゆる精神的な面での立ち直りですよね。心の問題と言っていいかも知れない。あれは石巻でした。海岸沿いに大きなサッカー場がありましてね、これが全体掘り返されていて、仮の土葬場にされていたわけですね。ザッと数えて八百ぐらいのご遺体が埋められる。実際はそうですね、そのうち百体か二百体ぐらいが既に埋められておりまして、若いご夫婦が一組一つのお墓の前にジッと立ち竦(すく)んで拝んでおりましたけれどね。それでお花が添えられている。線香が添えられている。そういうものが全然供えられていないところはまだ身元がわからないんでしょう。土地の人に伺いますと、これはあくまでも仮の埋葬であって、いずれ掘り返して改葬して火葬にされるんです。そういうことをやる方が非常に多い。ただ土葬を仮にして、やがてその後火葬にして、白骨化して、そして手元に引き取ったとしても、気持はなかなか安定しないのではないのか、ということをフッと思いました。それは何故そうかというと、亡くなった方の魂が落ち着くべきところに落ち着いているのか。鎮(しず)まるべきところに鎮まっているのか、というところまで見届けるというか、実感できないと、やっぱり人間というのは最終的な平安な気持にならないのではないか。よく文明というものは何れは自然によって復讐を受ける。その文明を作った人間たちが、やっぱり自然の牙で復讐される。打ち砕かれる。自然の猛威というかな、そういうことも言われてきたし、私も言ってきた。しかしにもかかわらずですよ、眼前に横たわっている自然は、つまり災害の後の自然はもの凄く美しかったですよ。ちょうど晴れた日でした、二日とも。海が凪(な)いで、太陽の光をキラキラと照り返して、遠くに島影が美しく浮かんでいるんですよ。それから振り返ると、瓦礫の山の彼方に美しい山並み、森、緑の連なりがずっと見えるわけでしょう。でもそう思った時、自然の美しさというのは、残酷な美しさだな、と一面では思ったんですが、しかしその数え切れないくらいの犠牲者の方々、そのご遺体が海山川の至るところに投げ出されているわけですよね。そういう人々の御遺族の方は勿論だけれども、亡くなった方々のその魂というものは、結局最後はこの美しい自然によって癒される以外にないな、ということを実感しましたね。そう思った時に、この地震列島、自然災害を常に繰り返してきたこの日本列島に生活してきた我々の祖先たちが、いったいどういうふうにして、そういう災害、自然の恐怖から立ち直ってきたか、ということを考えざるを得ないということです。その時に真っ先に思い浮かぶのは、万葉集の世界なんですよね。で、その万葉時代に詠われた歌の一つが、挽歌―死者を悼む歌ですよね。その万葉集に詠われている挽歌のほとんどは、これいろんな階層の人々の挽歌があそこに収められていますけどもね。ほとんど事故死なんですよ。異常死であり、事故死である。正常な死者の魂を詠った挽歌というのは非常に数が少ない。私は現地に行って、最初にお思い浮かんだ歌があるんですよ。それは大伴家持(おおとものやかもち)のよく知られた歌でした。
 
海行(ゆ)かば 水漬(みず)く屍(かばね) 
山行かば 草生(む)す屍 
大王(おおぎみ)の辺(へ)にこそ死なめ
(かへり)みはせじ
(大伴家持・万葉集)
 
という。戦争中、私も軍国少年だったという記憶もありますし、敗戦の時までこの歌をずっと歌い続けてきた記憶があります。ただこの歌にはある一つのナショナリスティック(nationalistic)な偏向性が込められているということもあって、戦後歌われなくなったんですよね。だけどあの歌の本来の精神と言いますかね、そういうところにはなかったと思うんですね、私は。むしろ惨憺たる災害の前で、打ちのめされた人間が死者を思って、どのように立ち直っていくか。その鎮魂のための歌だと思うんですよ。魂を鎮める。あそこでは「草生(む)す屍(かばね)」「水漬(みず)く屍(かばね)」という「屍(かばね)」という言葉が前面に浮き上がっているわけですけれども、しかもその「屍」というイメージが、今回の大災害において無数のご遺体が山や海に投げ出されている、というイメージと重なってしまう。ちょっと思い出したり、口にするのは躊躇(ためら)われるような残酷なイメージを伴うんですよね、「屍」という言葉は、ですね。しかし大伴家持の時代、万葉集の時代の人々にとっては、あの歌を歌っている時、「水漬く屍」「草生す屍」と言っている時に、死者の遺体から魂が抜け出て、それが山に鎮まったり、海に鎮まったりしている。魂の行方というものをイメージすることのできた人々ですね、古代人・万葉人というのは。ところが現代の我々は、死者の魂をそれだけのリアリティをもって実感できるか、というと、できないわけですよね。できないとすると、眼前に突き付けられるのが屍だけなんですよね。その屍としてのご遺体を前にした時の御遺族の方々の苦しみ悲しみって、どうしたらいいかわからないという、そういう不安な気持ちというのが、私自身の問題としても、そういう問題がありますからね、よくわかるんですね。ここが現代の大災害に際して、それに巻き込まれた人々の苦しいところですね。悲しいところだと思いますよ。そういう点では、死者の魂があの美しい自然に再び鎮まってほしい。そういう願いを込めて、この現実に対する以外ないな、という。それは御遺族の方々も含めて我々自身の問題だろうと思うんですね。
 

 
ナレーター:  震災の一ヶ月後、アメリカ・ワシントンにある大聖堂で、世界の宗教家たちの集まりが持たれました。キリスト教、イスラム教、仏教など、世界の宗教界の代表が宗派を越えて日本の被災者のために祈りを捧げました。この場で、一つの詩が朗読されました。「雨にも負けず、風にも負けず」宮沢賢治(みやざわけんじ)(1896-1933)の詩です。明治二十九年、岩手県に生まれた宮沢賢治。東北の人達の幸せのために生涯を捧げた賢治が、震災を機に、世界から目を向けられるようになっています。賢治と故郷を同じくする山折さんにとっては、自らの生き方の指針として、この背中を追い続けてきた存在でした。
 

 
山折:  実は私の実家の寺のすぐ前に洋品店がありましてね。その洋品店の女将(おかみ)さんが宮沢賢治の一番下の妹さんでした。おシゲさんとおっしゃって、それでその子どもたちと私は遊び友だちでした。寺の境内なんかでよく遊んだもんですが、その洋品店の女将さんがですね、もう賢治その人かと思わせるような穏やかな方で、顔の表情も非常によく似ていてですね、口数が非常に少なくてですね、しかし非常に思慮深いというか、知恵の輝きがやんわりと伝わってくるような、そういうお人柄でしたよね。私は心の底で尊敬していました、親しんでおりました、そのおばさんにですね、賢治を考える時に、いつでもそのおシゲおばさんのイメージが浮かび上がってくるんですよ。特に北上川(きたかみがわ)の、例の「イギリス海岸」と言われる場所。これは宮沢賢治が「イギリス海岸」と言って、生徒たちをよく連れてきたところだということを、我々よく知っていましたからね。そこに行って水泳を致しましたよ。ある夏、私はそこで溺れたんですよ。それで大人二人の方に助けられて、大量の水を吐き出した。そういう経験をしました。その時ですね、助けられた時に、頭の上でもの凄い風がゴウーッと吹いていたことをなんとなく覚えていますね。『風の又三郎』をやっぱり読んでいたからかも知れませんけれどもね。
 
ききて: 今、何故宮沢賢治が注目される人であるのか?
 
山折:  一つは、宮沢賢治の三十八年の生涯をずっと見ていきますと、いろんな人間の可能性に挑戦した跡が見えるということですね。一つは、盛岡高等農林に入って科学者になろうとした。それから卒業してから農学校の先生になったから教師になろうとした。その過程で今度は詩を書いたり童話を書いたりした。文学的世界で仕事をしようとした。やがて「羅須地人協会」と言ったようなものを設立して、農民のために奉仕的な仕事をしようとした。それからもう一つが、やはり宗教家―宗教的な世界の尽きざる関心に生涯突き動かされていた。科学者、教師、詩人、童話作家、農業指導者、宗教家、いろんな問題に手を出したわけです。これは人間本来持っているさまざまな可能性に挑戦した、そういう生き方だったと思いますね。ところがですね、我々が今生きている現代というのは、なんとなく教育を受けたり、学問をしたり、社会に出て職業に就いたり、専門家になるためにそういう修業をしているわけですね。最終的になんらかの専門家になることによって社会的に承認を受ける。一人前であるというふうに言われる。その人間が細分化された専門家の領域にどんどん閉じ込められていってですね、本来人間とは何か。その人間によってどういう社会を創っていくのか、といったような大問題が、どんどん無視されていくというかな、偶(ぐう)人間が増えてしまったということでしょう。その時代にちょうど宮沢賢治が再評価されるようになってきた一つの大きな原因がありますわね。それが一つです。もう一つは、ちょうどここ数十年の間に、環境問題ということが世界的な話題になってきましたよね。その人間世界における共存共栄の関係をどう創るか、という問題もさることながら、植物界、動物界、その他のさまざまな環境的要因と人間の生活というものを、どういうふうに調和させていくか、というのが大問題になっている。大気汚染の問題、温暖化の問題、自然災害の問題もそうですよね。今度の三・一一の災害が起きて、改めて顧みられるようになったということもあるかも知れませんけれども、賢治が生まれた時に、明治の三陸大地震大津波があるわけです。大変な犠牲者が出ているわけですよね。それから賢治が亡くなる前後というのは、これは地震、津波、飢饉、冷害、これが毎年のように発生しているわけですよね。ですからそういう東北が背負っている風土的なマイナスの条件というものを、ずっと背負い続けて生活し、そしてそれをどう悪条件の中で生き抜いていくか、ということを考え続けた人ですよね。賢治が考えてきた考え方というもの、彼が作品の中で表現しようとしてきたことというものは、まさに環境問題に対応できるような深さと広がりをもつものだった、ということがもう一つですね。それをもう少し具体的に申しますと、例えば人間の世界と動物の世界、植物の世界というのは、同等の価値を持つんだ、という考え方です。何も人間だけが重要な存在なんではない。人間中心主義というものと真っ向から対立するような、その根底を掘り崩すような、そういう理念のもとで彼は創作活動をやっていた。実践活動をやっていた、ということが、だんだん明らかになってきて、人間はどういう生き方をしなければならないか、という根本的な問題を考える上で最重要のキーパーソンになってきたような気がしますね。
 

 
ナレーター:  大災害に襲われた東北地方は、これまでも幾多の自然災害に見舞われてきたところです。賢治が生きた明治から昭和にかけての時代も、大地震と大津波が頻発しました。また東北は、昔から干魃や冷害による飢饉のために夥しい犠牲者を出してきました。宮沢賢治は、そうした過酷な東北の風土と向き合い、どうすれば人々が幸福になるのか。そのために自分はどう生きたらいいのかを生涯考え続けました。宮沢賢治は、花巻市の裕福な商家の長男として生まれました。質屋を営む家に、貧しい農家の人たちが出入りする姿を見て賢治は育ちました。賢治は、幼い頃から、自らの境遇を後ろめたいと感じる繊細な子どもでした。青年へと長ずるに連れて、家業への嫌悪感が押さえがたいものとなっていきます。やがて父親への反発から、禅宗やキリスト教などに心の拠り所を求めようとしました。そうした宗教遍歴の後に出会ったのが、法華経でした。人間も動物も、生きとし生けるものにはすべて仏のいのちが息づいている、という法華経の世界観に賢治は大きな影響を受けました。「雨にも負けず」の詩が書き留められたノートです。この詩が綴られたのは、山折哲雄さんが生まれた昭和六年のことでした。「雨にも負けず」には、賢治が目ざそうとした理想の人間像が歌われています。それは欲を捨て切れず、こころざしも全うすることができない自らを苛(さいな)む絶唱でもありました。
 
「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭(かげ)
小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
 
山折:  「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」、「ヒドリ」は「ヒデリ」だという、そういう解釈があるんですが、この通り読みますと、干魃の日照りの時は稲作が上手くいかないので涙を流している、と読むわけですが、同じように「サムサノナツハオロオロアルキ」これは冷害の季節、農民たちにとっては大変嫌な季節なわけで、結局おろおろ歩くしかない。その状況を見て賢治も貰え泣きをしておろおろ歩いている。そういう光景が浮かび上がりますよね。で、結局農業指導なんかをやり、肥料の設計などをやっているわけですけれども、その効果は全く上がらない状況に直面して、〈ああ、自分は無力だ、非力だ〉こう思っている賢治がもう一人いるわけで、そんな賢治が自然にみんなに「デクノボー」と呼ばれても仕方がない、呼ばれたい。いや、実際に俺はデクノボーなんだ、といったような告発に繋がっていく。「ミンナニデクノボートヨバレ」というのは、そういう気持を表した言葉じゃないのか、ということになりますよね。実はこの「デクノボー」という人間のあり方について、私は半世紀の間ずっと考え続けてきたようなところがあって、若い頃は、これを例えば仏教の菩薩、例えば常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という法華経に出てくる有名な菩薩でありますが、どんな人間の前でも謙虚に頭を垂れ、膝を折って、身を慎み、誰の前でも頭を下げて礼拝を怠らない、そういう菩薩。もう一つは、やっぱり宮沢賢治というのは中学生の頃からキリスト教に非常に惹かれていってですね、イエスキリストの人生にも深く惹かれるものをもっていたと思いますよ。最後は人類のために十字架で犠牲になるという、あの物語も、これは賢治に強い影響を与えたと思いますね。ところが、そう考えているうちにもう一つ、いや、待てよと。賢治にはもう一面大事な世界があったのではないのか、と思うようになりました。それは先ほどの環境問題との関係なんですね。世界的に、あるいは社会的に環境という問題が非常に大きく取り上げられるようになった。開発についてどうのこうの、といったように議論がなされるようになる。生物多様性という問題も出てくる。この温暖化、大気汚染の地球上の重要な問題が発生している時に、じゃ、賢治ならばどういうことを言っただろうか、ということを考えた時に、再びこのデクノボーの問題が出てくる。それはどういうことかというと、人間と動物の関係はまったく平等ではないのか、という、そういう観点に立って彼がものを書いているということが新たに浮かび上がってきたわけですよね。人間中心主義というものを根底から覆すような、そういう文学世界というか、新しい賢治はあるぞ、といっていいような、そういう世界を彼は真剣に考えていたということが新たに浮かび上がってきた。それはいわば今日の流行語で言えば、「人間と動物の共生の世界」と言ってしまえば、言えるような世界なんですけれども、例えば『よだかの星』という童話がありますよね。顔の醜い嘴の大きいよだかが空を飛んでいくと、その大きな口の中にいろんな虫が入り込んでくる、飛び込んでくる。そういうものを食べ、殺して、よだかは生きているわけで、そういう自分が嫌になっていってですね、ある時決意するわけですよね。もう自分は口を閉じて虫を食べない。虫を殺すことを止めよう、こう決意して口を閉じて、そのままずっと天上に昇っていって星になるという、この話ですよね。生きるために生き物を食べなければならないという、そういう人間の悲しい矛盾、これは非常に早い段階から賢治という人は気が付いていたわけですけれども、だんだんにそういう人間の生き方というものが耐えられなくなっていくというかな、人間中心主義の生き方はやっぱりどっか間違っている。そういう自責の念にかられていくようになる。別の言葉で言えば、要するに人間界、生物界というのは、食物連鎖の世界ではないかな。食うものは食われる。その無限連鎖の中でしか我々は生きていくことはできない。食物連鎖の原理の中でしか生きていけない人間、それにだんだん耐えられなくなっていくというかな、賢治の思想が耐えられなくなるというよりは、賢治の身体が耐えられなくなる。神経が耐えられなくなっていく。このジレンマですよね。生きているものを食うことなしに一日も生きていけない、という、このジレンマの中でだんだんに宮沢賢治は、もしかすると人間であることをやめたいと思うようになる。人間であることに耐えられないという、そういう苦悩の中でだんだんやめたいと思うようになっている。じゃ、やめるとすれば何になるんだ。自殺をすることか。しかし彼は少なくとも仏教を信仰していた。法華経の世界で永遠の仏という世界を知っているわけですよね。短絡的な自殺ということにいく筈がない、また行けもしない。ここもまたジレンマですよね。本当に死んでしまいたいと思えば、自殺すれすれのところまで行きますよ。また行った人だと思いますね、賢治は。で、その自殺する危機的な状況の手前で立ち止まる時に、現れてきたのがデクノボー。悪い言葉なのかも知れませんけれども、「デク」というのは、「人形」ですよね。あるいは「生きる屍」と言ったらいいのか。しかし「屍」というのはあまりにも無惨だ。デクのように生きる。そしてデクのような人間だと言われる。俺はそれでいいんだ、というところですよね。それを私は八十近くになったということと、七十代の後半を生きている時に、だんだんそういう宮沢賢治の気持ちと言いますかね、心情がわかるようになったというか、感情移入できるようになったのかも知れない。三十七、八歳の賢治と七十代を生きる私ですよ。それがそういう形で共鳴をするということが、何とも複雑な気持ちですけどね、私は。
 

 
ナレーター:  生きるために弱いもの命を奪わなければならない定め。人間誰しも逃れることができない宿命に、賢治は一人心を痛め続けました。そうした賢治の思いを、もっともよく理解したのが妹のトシ子でした。しかしトシ子は、結核のため二十四歳の若さで世を去ります。賢治は死んだトシ子の魂の行方を追い求める中で、森羅万象には命や魂が普く満ちていることを強く感じるようになっていきました。
 

 
山折:  その当時の宮沢賢治の内面世界というか、文学世界というものを評価し理解することのできた人間は、そう居たとはとても思えないんですよね。当時賢治を理解していた人は、妹のトシ子一人だったのではないか。賢治の人間全体を包むような形で生きていたというわけです。そのトシが花巻の女学校の教師をやって、暫くして結核に罹って亡くなるわけです。その時最後の看病をずっと続けたのが、兄の賢治です。ついに亡くなってしまう。それで一年経って、翌年、確か八月ですかね、彼は突然一人で北海道、樺太の旅に出る。これは明らかに妹・トシの魂を逐う、そういう霊呼ばりの旅だったというのが、私の考えなんですよね。その旅の中で、汽車の中で、窓の外を見て、雲がわくと、そこに妹・トシのイメージが立つ。風が吹くとそこに妹・トシの姿が現れる。「トシ子!」と呼ぶ、叫ぶ。そういう経験をしながら、ずっと樺太まで行くわけです。帰って来て、その旅の中で作った詩を纏めて『オホーツク挽歌』という詩にするわけです。それからトシが亡くなった時に、その「永訣の朝」という、あの絶唱とともに作っている詩が『青森挽歌』ですよ。最晩年の賢治が、妹・トシの死に触発されて書いた詩が、そのタイトルに「挽歌」という言葉が付けられている。挽歌というのは、これも万葉集の挽歌、あの挽歌です。死者を悼む、死者を追悼する、という意味ですよね。あの挽歌がレクイエム(requiem:鎮魂曲)ですよね。その妹・トシを追悼する、悼む挽歌、レクイエムも一節一節読んでいくと、明らかに死んだトシの魂との出会いを求めている。できれば目の前にそのイメージが現れて欲しいという、その願いをもって旅をしているということが、実に切実に伝わってくるんですよね。風が吹くとトシが現れる。雲がわくとトシが現れる。オホーツクの、あの大海原の彼方にトシが現れる。そういう詩を読んでおりますと、アッと思ったな。賢治にとってこの天地万物が生命あるものなんだ、と。天地万物が生命あるものであるが故に、その中にトシの魂が鎮まっている。だから自然とともにトシが現れる。自然は単なる自然ではない。自然は生きている。この自然は生きているという感覚が、動物と人間たちを平等に捉える。こういう感覚に自覚的になったのではないのかな、最晩年でもあるから。しかもそれはトシの死ということを媒介にして。それは日本列島に生活をしてきた多くの日本人たちの魂の、いわば故郷としての万葉の世界に通ずる感覚なんですよね。だからこそ挽歌という名前を付けた。ここで千年の歴史が、バーン!と飛んでしまうというか。私が今度の被災地を訪れた時の、あの瓦礫の山と破壊の状況と、にも関わらず美しく晴れ渡ったあの山河の美しさ。それはまさに生き物としての美しさであって、宮沢賢治の最晩年に到達した『オホーツク挽歌』などで詠われている世界とこれが重なるんですね。あの自然の本来持っている二重性のようなものによって、人間は翻弄されたり、逆にそれによって救われたりする。絶望的な自然の暴力ではあるけれども、そこにしか最後の人間を救う世界はないのかも知れないと思いますね。我々がいろんなメディアで目にし、口にする言葉は、人と人との繋がり、人と人との絆ですよ。勿論大事ですよ、これは。ただ大事なことだとは思いますけれどもね、これだけでは十分じゃないと思っている。もう一つの大事な絆、繋がりの世界がある筈だ、と思っている。それは我々人間たちの世界と我々人間を超えた世界との繋がりですよね。目に見えないものとの繋がり。垂直の繋がり、垂直の絆と言ってもいいかも知れない。そういうものへの関心は、まだ希薄ですね。具体的にいえば、死者。今度の問題で言えば、災害で亡くなった方々。さらにもう少し広げて言えば、それが先祖ということにもなるでしょうし、さらに広げれば、それが神々・仏たちということになりますよね。それは目に見えない世界というのは非常に広い。それは人と人との繋がり、人と人との絆だけでは、やっぱり十分に花開かない世界だろうと思いますね。
 

 
ナレーター:  賢治が見つめようとした目に見えない世界との繋がり。日本人が忘れてしまったそうした繋がりを考える上で、山折さんは、鍵になる人物がいると言います。科学者・寺田寅彦(てらだとらひこ)(戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人であり吉村冬彦の筆名もある:、1878-1935)です。賢治と同じ時代に生きた寺田は、日本人は独自の無常観を育み続けてきたと述べています。
 

 
山折:  寺田寅彦は以前から関心をもつ思想家であり、科学者だったわけですけども、昭和十年の段階で、「日本人の自然観」という素晴らしい論文を書いているんですよね。その中で西ヨーロッパの自然と日本列島の自然を比較しているところがある。西ヨーロッパの自然というのは非常に安定している。特にフランス、イギリスというのは地震がほとんどありませんからね。自然が安定しているから、自然を客観的に観察したり、データーを取ったり、そしてそれをもとに征服したりコントロールしたりするんだという。そういう自然科学が発達したんだと言って、それに対して日本列島というのは、もの凄く自然が不安定だ。それは太古の昔から地震がしょっちゅう発生するからだ。その他に台風等々の自然災害が次々に起こってきた。そういう非常に不安定な自然と太古の昔から日本列島人は付き合ってきた、というわけです。その付き合う過程で、一度自然が怒り出す時は、その自然に反抗してはならない。頭を垂れ、膝を屈して、その自然の脅威から我々の生活を如何にして守るか。そのための知恵を積み重ねてきたんだ、と、こういうわけですね。それが日本人の学問だし、日本人の科学だ、とこういうわけです。これがやっぱり凄いと思いましたね。自然と付き合うような学問、これが日本人の本来の学問だった、ということを言っているわけですよ、昭和十年の段階で。もう一つ、その長い間、何千年となく恐ろしい自然の猛威と付き合ってきた結果、「天然の無常観」という感覚を日本人は育てるようになった、ということを寺田寅彦は言っているわけですよね。天然というのは、天然自然に、という意味の天然ですよね。自然との付き合いの中から、それこそ自然に身に付けるようになったのが、無常観だ、ということを言ったわけですよね。で、我々は普通「無常」というと、仏教が六世紀に日本に伝えたものだと思い込んでいるわけですが、仏教が日本に伝える遙か以前から、それこそ太古の昔から「天然の無常観」という、そういう意識というか、感覚を日本人は育ててきた。これは寺田寅彦が言っている。自然科学者・寺田寅彦、地震学者・寺田寅彦がその科学的な認識と同時に、宗教的な真実の一つである無常観というものを同時に捉えていた、ということですね、日本の風土を考える場合に。これは凄いところだなと思ったんですよね。そこへ仏教の無常観が入ってきて、これは重なるわけですよ。しかも仏教の無常観というのは、釈迦が考えた無常観でして、私は三つの原則があると思うんです。一つは、この地上にあるもので永遠なものは一つもない。形あるものは必ず壊れる。人間は生きて死ぬ。これは「無常三原則」だ、と私は言っているんですよね。問題はこの「無常三原則」を否定することのできる人間は誰もいない。客観的な事実です。ところが難しいのは、この「無常三原則」を受け入れる文明と受け入れない文明があるということです。それはヨーロッパ文明というのは受け入れませんよね、この三つの無常原則というものを。これも不思議なことでね、阪神淡路大震災は十六年前ですよ。あの時も今回と同じようにいろんなメディアから取材を受けたり、コメントを求められたりした時に、「無常というものである」と書いたり言ったりしたんですよね。ほとんどメディアの人はこれに強い関心を示しませんでした。被災地の現場に行って、苦しんでいる被災者の方に、世の中無常だよ、と言えるか、という返答が返ってきましたよ、ほとんどね。だからあの頃は、日本人というのは無常嫌いだ。無常はやっぱり戦後ずっとタブー視されてきた言葉だな、ということを痛感しましたよ、十六年前に。歴史的にいうと、この無常という考え方は暗い無常観として受け取られてきた嫌いがあるんですよ。『平家物語』の冒頭に出てくる「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」、滅び行く平家一門に共感同情の涙を流すという。こういう無常観でしょう。だけど、もう一つ、日本人の無常観には明るい無常観という側面がありましてね、それは太陽が西に沈む。翌日になると東から昇ってくる。春になれば花が咲く。明るい未来への期待を喚起する。刺激する。そういう美学というか、美意識も我々のものであったわけですね。自然の移り変わりが無常でもあり、甦りのイメージを伴った無常であるという。そういうところから明るい無常観というものが、同時に我々のものになっていたわけですよ。「国破れて山河在り」というのは、杜甫(とほ)が言った言葉ですけれども、明るいんですよ。「国破れて山河在り」と言って、山河に希望があるよ、と言っているわけですよ。さて今回どうだという問題に我々は今直面しているわけですよね。そう簡単にいくか、という不安感がないわけではない。それは原発がさらにそれに付け加わっているからですがね。しかしやはりこの無常観の二面性をバネにして、生き抜いていく以外にないわけですよね。それは宮沢賢治においては、科学と芸術、宗教、これは力を合わせて新しい世界を創っていこうという、あのメッセージに繋がるんですよね。
 

 
ナレーター:  科学と宗教が寄り添う中で、目ざすべき究極の幸せ。それを考える手掛かりとして、今私たちが目を向けるべき言葉が、賢治の問い掛けの中にあると、山折さんは言います。
 
世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。新たな時代は世界が一(ひとつ)の意識になり生物(いきもの)となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう。求道(ぐどう)すでに道である。
(『農民芸術概論綱要』)
 

 
山折:  あの『農民芸術概論綱要』の中に出てくる「世界がぜんたい幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」あそこで言われている世界というのは、まさにこの目に見える世界と目に見えない世界全体を含んでいると思いますね。それはもう一つ、『農民芸術概論綱要』の世界全体がという、あの言葉で言われなければならないな、と思うのは、賢治の晩年の大作『グスコーブドリの伝記』に出てくるテーマなんですよね。あれこそブドリが孤児になって、最後は冷害で苦しむ農村をどう救済したらいいのか、ということで、火山島に行って、火山を爆発させる。科学者としてのグスコーブドリが、最後自分が死を覚悟して火山島に渡ってスイッチを押して犠牲になる。そうすると、火山が爆発して気温が上昇して、飢餓から脱することができた、というあの話。あれは単に菩薩の行い、イエスキリストのような人類のために犠牲になる行い、というふうに考えてはならない、と私は思うんですよね、賢治の場合は。人間というのは、どんな場合でも、どういう状況の中でも、誰かが犠牲にならなきゃならない運命に置かれている。誰がそれをするのか。賢治自身がずっと考え続けた、と、こう考えるとですね、「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はない」と言った場合の、その個人にブドリはなるのかどうか。一人の個人を犠牲にしなければ世界全体が幸福にならない、ということを描いているのは、『グスコーブドリの伝記』じゃないかと思うんですよね。同時に、しかし、にも関わらずやっぱり「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言わずおれない。ジレンマですよ、これ。このジレンマに最後まで苦しみ続けた。正直に苦しみ続けた。これ凄いと思いますよね。だから今度の災害、そして福島原発の危機等々で、それぞれの現場でいろんな形で犠牲を強いられている人がたくさんおいでになりますよね。初期の段階でアメリカのメディアが、「フクシマ・フィフティ・ヒーロー」とこう言った。五十人の現場で命を賭けて働いている人々に、場合によっては犠牲になって貰わなければいけない。よりよき人類のために盾になって欲しいという、そういう願望というか、欲望が背後にあると思いますよ。このところ特に考えるようになったのは、法華経の譬喩品の中に出てくる「三車火宅の物語」なんです。ある長者の屋敷が燃えているんです。火の手が上がっている。その屋敷の中でたくさんの子どもたちが遊んでいるんだけれども、屋敷が燃えていることに気が付かない。長者がいくら燃えているから、火宅であるから外に出ろ、と言っても出ない。それで致し方なく、その父親の長者は、金銀財宝で飾り立てたおもちゃの車を三つ入口のところに並べるわけですね。子どもはそれを見ると如何にも面白そうだ。それで遊びたいと思う。全員我先がちに屋敷から飛び出して来るわけですね。飛び出して来た子どもたち全員に、今度はもう一つ大きな白い象の本当の車を用意して、その中に全部を乗せて救う、という話ですよ。現実に我々が生きている世界はもう火の車である、と。火宅の世界に我々は生きている。気が付かなければ一緒に全員死んでしまうんだ、と。だけど、救う時には全員一緒に救い出すよ、という、こういう物語ですよね。特に福島原発の問題なんかは、そうだと思いますよね。ヒーローにしちゃいかんわけですよね。ただ、そうするためには、その現場で命を懸けて働いている人々が、本当に生命の危機に瀕した時、全員撤退させるかどうか、という問題が起こってくる。三車火宅の物語の考え方からすれば、全員撤退ですよね。その代わり放射能が全国に広がるかも知れない。そのリスクは全員で担おう、という。これは今日本列島に生きている人間すべてが考えなければならないような、そういう重たい問題だと思いますよね。それを日本の政治がどれだけ自覚しているかどうか、という問題でもあるわけで、あれは「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という、あのメッセージと『グスコーブドリの伝記』が表しているあのテーマ、重いですよ。今日の我々の現実からすればね。ですからグスコーブドリは決してヒーローじゃないんだよ、と。だからこそ「デクノボーと呼ばれたい」という言葉が出てくるかも知れない。犠牲になって、「俺はデクノボーだよ」という、涙が出るよ、これほんとに。共に生きるものは、共にいつ死んでもいい、という覚悟を持つということかも知れませんが、なかなかできないことではありますけどね。それができなければ、せめて生き物たちとの連帯共感の気持としか言いようがないですよね。
 
     これは、平成二十三年六月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである