出会いは希望の光
 
                 カトリック大阪大司教区司祭 神 田(かんだ)  裕(ひろし)
一九五三年兵庫県尼崎市生まれ。京都外国語大学外国語学部英米語学科、上智大学神学部神学課卒業。一九八八年カトリック司祭に叙階、一九九一年たかとり教会赴任(二○○七年まで)。一九九五年一月十七日阪神淡路大震災が発生した時、全国から救援に駆けつけたボランティアがたかとり教会に集まり、FMわぃわぃをはじめ在日外国人に対する復興支援などの活動団体が生れ育ち、これらをネットワークする形で二○○○年NPO法人たかとりコミュニティセンター(TCC)が結成され、同年理事長に就任。二○○七年からカトリック大阪大司教区 教区本部事務局長を務める。
                 き き て         中 村  宏
 
ナレーター:  東北地方を中心に広い範囲に大きな爪痕を残した東日本大震災。その被災地に関西から幾度となく足を運び、支援に取り組んでいる一人の神父がいます。カトリック大阪祭司教区の神田裕さん、五十三歳。神田さん自身、阪神淡路大震災の被災者です。一九九五年一月十七日、当時神田さんが神父を務めていた神戸市長田区のカトリックたかとり教会は、激しい揺れにより、一部の建物を除いて倒壊。やがて近所の火が燃え移り、教会と周辺の街並みは焼け野原となりました。しかし地震の直後から、焼け落ちた教会を目ざして多くのボランティアが駆け付けました。教会はほどなく新規の高齢者や外国人を支援する多くの市民グループが活動する基地のようになりました。この基地では、日本語がわからない外国人に向けて、さまざまな外国語で生活情報を発信するコミュニティFM放送局が設立されるなど、行政機関とは別の視点で、地域の復興を支える多様な活動が行われました。阪神淡路大震災から十六年。教会の敷地にできた復興の基地は、NPO法人の資格を取得して、「たかとりコミュニティセンター」となりました。阪神淡路大震災の時に始まった活動も続いています。活動の一つ、コミュニティFMは、今もスペイン語、ベトナム語、韓国、朝鮮語など、日本語を含む十の言語で放送を行っています。カトリックの神父で、たかとりコミュニティセンターも理事長も務める神田裕さんに、自らの震災体験と東日本大震災に寄せる思いをたかとり教会で聞きます。
 

 
中村:  私は初めてこちらにお邪魔したんですけれども、一つの敷地の中に教会があって、コミュニティセンターがあって、さっきからいろんな人が出入りしているんですね。
 
神田:  そうですね。
 
中村:  非常に開放的ですね。
 
神田:  そうですね。基本は教会なんですけども、中にNPOが十六年前の震災から活動を続けていまして、それが今十団体ぐらいになって、引き続き活動が続いているんですね。そういう意味では、教会というのはどちらかというと、土、日が人の出入りが多いんですけれども、普段から毎日いろんな人が出入りしています。
 
中村:  ということは、この敷地の中、二つの顔をもっているということになりますけれども、神田さんも二つの顔をもっていらっしゃいまして、カトリック大阪大司教区の事務局長という立場と、それからこのたかとりコミュニティセンターの理事長を兼務されているわけですね。
 
神田:  はい。やっていることは同じですよね。今のたかとりコミュニティセンターの活動も震災から始まった、いわゆる「まちづくり・人づくり」そういうものの延長で活動が続けられていますけれども、幅広くいうと、教会も、いわば「人づくり・まちづくり」というふうに自分では思っていますから、そういう意味では同じことをやっているのかなというふうに思っています。
 
中村:  東日本大震災が起きまして、現地にいらっしゃったそうですね。
 
神田:  そうですね。
 
中村:  実際にご覧になって、どんな感想をお持ちになりました?
 
神田:  一言、私たちも震災でも瓦礫の様子は、勿論ずっと見てきたんですけども、津波の被害というのは初めてだったので、これほどまでに酷いことになるのかというのは、驚きでしたね。
 
中村:  具体的にはどこにお入りになって、そして神田さんとしてはどういう動きをされているんですか。
 
神田:  私らが震災になった時に、全国からいろんな人たちがボランティアで手伝いに来てくださっていて、その人たちの中に、今の東北地方の人たちがたくさんおられて、そのうちのお一人の人に具体的に出会うことができて、松島町―仙台の少し北になるんですが―その方から連絡がありまして、で、すぐに松島町及びその周辺の状況を報告くださって、で、私たちもじゃ一度そちらへということで行かして頂いたんですね。松島町自身は、沖合の島に守られて、周辺の地域に比べると、被害はそんなに大きくはなかったんですけども、そこから隣―東松島市、そして石巻の方面に行くと、もうガラッと様子が変わっていて、街そのものがなかった感じだったですね。松島町を一つの拠点として、その周辺の何か関わりをすることができないかな、というふうに模索し始めたところですけど。
 
中村:  具体的にされたことがあるんですか。
 
神田:  まずお金集めて贈るということなんですが、それとはまた違った切り口で、ここには災害時に立ち上がったコミュニティFM放送局もありますので、そのスタッフたちと一緒に現地入りしましてね、で、切り口は外国籍の人たちに情報伝達をということで、向こうへ行きまして、現地の様子もいろいろ調べて、スタッフたちはしょっちゅう向こうへ現地入りしていろいろ手伝わして貰っているんですけど。
 
中村:  そうすると、あちらにもコミュニティFMを作ろうという気運があったんですね。
 
神田:  臨時の災害FMが二十数カ所一気に立ち上がりましたから、そこへ訪問に行って、いろいろ私たちも同じようにやってきましたんで、なんか役に立つことができれば、ということと、それと多言語で情報を流す支援ができないか、というふうに言ってきていますね。
 

ナレーター:  阪神淡路大震災で作り上げたいくつもの国の言葉で放送を出すFM局のノウハウ。神田さんたちは、このノウハウを活かした支援活動を続けています。被災地で集められた災害情報を、神戸のコミュニティセンターでさまざまな外国語に翻訳、読み上げた音声をデジタル化して被災地に送り返す活動をしています。
 

 
中村:  こちらには日本語の情報を各国語に変えるそういうスタッフもノウハウもあるので、こちらで録音をとって、それを今インターネットで送っておられる?
 
神田:  インターネットで送れますからね。
 
中村:  便利な時代になりましたね。
 
神田:  便利ですね。ちょうど十六年前はそんなことできなかったですけどね。そういう意味では便利になっています。
 
中村:  今何カ国語ぐらいに対応しているんですか。
 
神田:  現地に送っているのは、翻訳数でいうと、五言語ぐらいだと思うんですが、ここそのものの翻訳はたしか二十六言語。ネットワークでのチームを作っているんですけどね。いろんな繋がりの中で、こういう災害があったり、日常でもそうなんですけども、多言語に翻訳する必要があれば、そのネットワークの仲間たちが動いてくれて対応しているんです。もう私たちはどれぐらいの効果かというのは返ってこないのでわからないんですけれども、とにかくまず私たちが必要だというふうに、私たちが思ったことをまずするということで。
 
中村:  これから東日本大震災の被災地では、復興―まちづくりということになるんですが、神田さんのこの神戸での経験からどんなことを大切にしていってほしいと思っておられますか。
 
神田:  神戸からたくさんボランティアの人たちが現地入りしているんですけども、まず最初に気を付けないといけないな、と思っていたのが、私たちは神戸で勿論体験はしているんですけども、それがそのまま現地で活かせるかというのは、イコールじゃないですよね。逆にあまり私たちがそういう感じで行くと、現地の人にとっては、「私たちは私たちだから、そっとしておいてくれ」というみたいなことにもなりかねないんで、慎重に思っているんですけども。私たちが実際に当時思っていた時に、まちづくり、勿論していかなければあかんですけども、一言で、「まちづくり」は「だちづくり」だな、というふうに、合言葉で言っていたんですね。「友だち」の「だち」のことですね。「まちづくり」は「だちづくり」だというふうに言っていて、勿論インフラ整備とか、いろいろあるんですけども、基本はやっぱり仲間―一緒に住んでいたんで、これから一緒に立ち上がっていかん仲間が友だちになっていく、という。それが大前提になかったら、一つになっていけないんで、それは意識的に大事にしてきましたね。家もないし、財産もそれこそなくなって、おまけに家族まで亡くなって、それでじゃみんなで「まつづくりを」という時に、やっぱりしんどいというか、毎日の会議そのものが苦痛というか、そんな感じでギスギスするというか、疲れ果ててしまう。でも私の近く―ここ野田北部という地域なんですけども、やっぱりホッと一息、一緒にお茶飲んだり、それこそお酒飲んだりして、で、会議の終わった後に、そういうひと時があって、それはもう一つ大事にしてきましたよ。その会議ではまちづくりのインフラ整備も含めて、シビアな話があるんですけども、その後に一緒にまたお酒飲みながら―別に酒飲まなくてもいいんですけれども、すぐ帰らないでね、お茶でも飲みながら語る一時というのが凄く支えになってきたかな、というふうに思うんですね。
 
中村:  それはご自身の体験からそういう思うように?
 
神田:  そうなんですね。だからそういうのがだんだん今まで以上に地域の人たちと繋がりが深くなって、そうすることで初めてまちづくりというのがスタートするように思いましたね。
 
 
ナレーター:  神田さんは、阪神淡路大震災からの復興では、地域との繋がりを中心においてきました。その背景には、地震の直後、自らがとった行動への深い反省があります。
 

 
神田:  それは私自身が、凄く苦い体験なんですけれども、震災の時はこの街に住み始めてちょうどまる四年が経っていたんですね。で、地震があって、街が燃えて、教会もその後燃えていくんですけれども、まちづくりの活動―地域の会議がある時に、凄く気持ち的には穴があったら入りたい思いが最初ずっとあったんですよ。
 
中村:  どうしてですか?
 
神田:  会議をすればするほどね。それは何故かと言ったら、会議が終わった後に一服しますよね。一服した時に、最初はみんな眉間に皺を寄せたような感じなんだけれども、そのうちだんだん時が経ってくると、当日の話も素直にできるようになってくるんですね。それを聞いていると、「あそこの病院の寝ている人たち、みんなで運び出したよな」とか、「あそこで埋まっている人をみんなで助けたよな」とか、というふうな話がだんだんこう思い出すように出てきましたね。で、最初のボランティアの活動というのは、同じ地域の隣近所の人たちなんですよね。それが最初のボランティアの活動なんだけれども、実はそれを聞くと、私自身ができなかった、と。地震の当日に、近所では潰れた家に下敷きになっている人たちもいたし、近所の病院も寝た切りの人たちが居て、みんな救出活動をしていたんですけれども、私自身はできなくって―できなくって、というのは、後々何故かな、と考えた時に、地域に関心がなかった。もともと地域との交わりがなかったし、隣にどんな顔の人が住んでいるか知らなかった。自分のことばっかり、どっちかと言ったら、考えていたような自分がありましてね。だんだん街の人たちと、そうやって後の復興のまちづくりで少しずつ関わらして貰って、で、最初ちょっと恥ずかしい思いをしたんですけれども、自分としてはもう二度とこんな恥ずかしい思いはしたくない、というふうに思いましてね。まずやっぱり地域の人たちとやっぱり顔見知りになって、友だちになって、そういうところから始めよう、というふうに自分自身は思いましてね。で、そういう形で震災後のまちづくりに関わらして貰ったんだけども、仲間が増えると自分自身の大きな励みにもなりますしね、そういうことがとっても大事だ、と。言葉では日常そういうことを言っているんですよ。「隣人愛をしましょう」とかね。ところが自分自身そうやって振り返った時に、あ、自分の身の回りの隣近所のことを考えると、全然自分はそれを実践というか、行動に移し得ていなかったな、ということに気がついて、そういうのがなんか凄くああいう震災の中で歩んでいく自分の大きな原動力になっていましたね。
 

ナレーター:  阪神淡路大震災をきっかけに、地域の人々と積極的に関わるようになったという神田さん。震災のすぐ後から、常に首にタオルを掛けるようになりました。それは震災に対する強い思いの現れです。
 

 
中村:  震災直後のその体験が、神田さんの活動の、あるいは考え方の原点になったわけですね。
 
神田:  そうですね。
 
中村:  で、ちょっと気になっているんですけども、首に巻いてあるタオルとなんか関係があるんですか。
 
神田:  タオルのことをよく言われるんですけどね。便利でね、当時は水も電気もガスもきていませんでしたし、冬場で寒かったですからね。朝起きると、それでちょっと顔を拭いて、首に巻けば襟巻きの代わりにもなるし、怪我をしたらそれで括れるしということで、便利なもので、誰でもやるんだろうと思うんだけども、首に巻いていたら、どうも神父がタオルを首に巻いていると、異様に見えるみたいで、なんかそれだけが目立っちゃったんですね。便利に使っていたタオルだったんですよ。ある時、あれはほとんど一年ぐらい経とうとしていた最初のクリスマスの頃だったんですけども、ちっちゃな箱が届きましてね。その小さな箱の中に、開けてみたらお手紙が入っていて、見たら九州の方のおばあちゃんみたいで、そのおばあちゃんがお手紙くださって、「神田さん、初めまして。でも私ははじめましてじゃないんです。あなたに実際会ったこともないけど、新聞見たらこの間出てきていたし、雑誌でも見たし、テレビ付けたら出てきていたし」と言って、「だから初めてじゃないんです。ところでいつ新聞でも、雑誌でも、テレビでも、いつ見ても首にタオル掛けている」と。その最後の一行が「ちゃんとそのタオル洗っていますか?」と言って、そのおばあちゃんが書いてはって、なんか凄く心温まるお手紙だったんですね。その箱にタオルが二十個ぐらい入っていましてね。タオルだけ。そのタオルも多分周辺の人たちに呼び掛けて集めてくださったんだろうと思うんですが、いろんな商店の名前書いてあったり、学校の名前書いてあったり、ビニールに入っていた。それを頂いて、それが凄く私にしたら嬉しかった。いろんな物資届けられたけど、今でもこういうふうに思っているぐらいですから、とっても印象深いお手紙と物資だったんですね。神戸の場合は都市部の震災だったんですけども、それでも被災地にいてると、やっぱり周りと閉ざされていましてね。孤独感もあって、もしかしたらだんだん時経ってくると、なんか見捨てられているんじゃないかとか、見放されているんじゃないかみたいな、そんな不安も実はいつも裏腹であったりもするんです。あのタオル頂いた時に、九州の方のおばあちゃんだけど、こうやって届けてくださって、何かずっと応援してくださっているんや、見てくださっているんや、というお思いが凄く嬉しくって、それ以来タオルは単に汗拭きのタオルじゃなくって、なんかおばあちゃんの応援グッズみたいな大きな支えになって、それ以来そういう思いでずっとこのタオル付けてきているんですわ。もう癖みたいになっていて離せないんですが、ただもう十六年も経っていますから、日常の生活のいろんな仕事をしている時に、「タオルを外してくれませんか」と言われるんで、ちょっと状況に応じて付けていない時もあるんですけど。それともう一つは、ここはたかとり救援基地から始まって、たかとりコミュニティセンターになっているんですけども、神戸の地震はもう十六年半経ちましたけども、阪神淡路大震災は終わっていない、という思いはやっぱりありますよね。決して終わっていない、と。何が終わっていないか、と言ったら、被害が終わっていないんじゃなくて、あの震災をきっかけに始まった人と人の繋がりとか、動きとか、思いとか、それと震災に負けんと新しい街を作っていくんやとか、そういうような思い、それは終わっていない。今も続いている。そういう意味では、地震は負の財産だったけれども、そこから神戸の人たちが、それに負けんように新しいものを創っていくんやという、そういう思いは、十六年や二十年で終わらないんですよね。もしかしたらずっとそれで神戸のまちづくりというのは続いていくのかも知れないし、そう考えるとずっと死ぬまではずせないな、なんて思ったりもしているんです。
 
ナレーター:  四年前に新しい建物ができた神戸のたかとり教会。中には教会の歩みを記録した写真が数多く貼られています。特に目を引くのが、阪神淡路大震災の時のもの。幸いにも焼け残ったキリスト像は、人々の心の支えになりました。炎に包まれる教会を背に立ち竦(すく)む神田さんの姿もあります。
 

 
中村:  震災の時の写真もありました。初日は何をしていらっしゃったんですか。
 
神田:  初日はそれこそ燃え尽きていく街を、ただ呆然と見ていて立ちつくしていた、という感じですかね。地域の人たちは、それぞれ身近な人たちを捜して、声掛け合って救援活動をしていたんですけども、私は初日はできなかったですね。
 
中村:  「地域との繋がりが希薄であった」という話がありましたが、地域の繋がりを持とう、というふうには思っていらっしゃったんですか。
 
神田:  思いとしては、実はあるんですよ。もうそれは神父になる前から、教会だけの狭い世界ではダメだ、というふうな思いはずっとありましてね。神父になってからも、なんか教会とはもっと越えた地域社会と繋がれば、という思いは勿論ありますし、ミサの中でも聖書を読んで、「隣人を愛しましょう」とか言っているにも関わらず、現実は信者さん以外の接点というのは、ほとんどない、というのが現実だったんですよ。なかなか地域と一緒に何か、ということを、そう再々考えられなかったし、そういう出会いもなかったんですね。思いは実はあったんですけど、でも震災の時に、結局は自分が救援活動ができなかった、ということが、思いはあっても現実は、誰も隣近所の人たちのことを知り得なかった、という。まあそこでちょっと落ち込んだんですけどね。
 
中村:  そういう教会が救援基地になっていく、ということは、どういうふうにしてなっていったんですか。
 
神田:  仲間たち何人かがいましたんで、教会の瓦礫の片づけを先ずし始めて戻ったんですが、その後近くにいる信者さんも何人か、そしてもう既に次の日からはリック抱えてお水とか、おにぎりとか、懐中電灯とか、持って被災地に入って来てくださったボランティアの人たちがいて、少しずつそうやってこの現場で出会いが生まれていって、そうこうするうちにだんだん物資も教会の方に集まるようになって、人が集まって、物が集まってくると、じゃ、これを避難場やお家でずっと頑張っている人たちもいらっしゃったので、そこには食事も何にも回ってこなかったんで、そういうところへ物資を届けるというふうに、みんなで決めて、それが最初の初動の動きですね。
 
中村:  何人ぐらいここに集まって来たんですか。
 
神田:  ボランティアの人たちですか? ピーク時はこの敷地の中に二百人近くいて、活動は続けられていました。その後に瓦礫も片づいた後に、ボランティアの人たちが自ら自分たちの宿泊する建物を先ず作って、それでだんだん基地を作っていくんですけども。
 
中村:  二百人近くの人たちが、みなさんそれぞれあまり知らない同士ですよね。
 
神田:  そうです。ここへ来てみんな出会っていきますね。自然にボランティアの人たちのリーダーもできたりして、この中ではもうあまり本名を知らなくて、みんななんかニックネームで呼び合っていて、ここで友だちになった人もたくさんおられましてね。
 
中村:  じゃ、明日何をしようとか、これからどうしていこう、というような話もみなさん集まって、輪になってしたわけですか。
 
神田:  そうですね。その中でもリーダーがミーティングをして、今必要なこと、避難場のこととか、仮説住宅のこととか、特に独り暮らしのお年寄りの人たちが多い街でしたので、そういう人たちを順繰りに様子を見て回ることとか、後は外国籍の人が多くって、ここの教会はベトナムの人たちが多かったので、そのベトナムの人たちの情報支援も、そのことで集まってくださったりとか、まあその時その時に、今必要なものをみんな自ら見て探して、で、形にしていった。それまでそういう大きな災害は近隣になくて、「ボランティア」という言葉もその時初めて大きく取り上げられたりしましたけども、ほんとに一から作っていったような時でしたね。今でこそ何か与えられた仕事をこなすみたいな形になっていますけど、あの時はそうじゃなくて、自分で何をするかというのを、自分で見て捜して形にしていった、ということでしたね。
 

ナレーター:  教会にできた基地を舞台に繰り広げられた救援活動。そのうちの一つ「コミュニティFM」は、震災から一年後に「FMわぃわぃ」となり、地域に住む外国人が必要とする文化情報と生活情報を発信し続けてきました。背景には外国人が多く暮らすという地域の事情もありました。
 

 
神田:  神戸ですし、特にこの長田は、外国籍の人たちが多い。アジアの人たちが多かったんですね。まあ韓国の人たちや中国、そしてベトナムの人たちが同じように震災に遭って、同じように避難場で暮らしていたんですが、神戸市とか兵庫県から情報がくるんですけども、当初日本語だけだったので、彼らがその情報を得ることがなかなか難しい。それでいろいろ言葉のできるボランティアの人たちが、じゃ、日本語で受けた情報を、ベトナム語や韓国語に翻訳をして、そして最初はそれをプリントアウトして、大切な行政情報、それを各テントや避難場に配って行くという。その活動が最初から始まっていたんですが、ある時それを今度は、じゃ、情報を電波に載せて多言語で発信すればもっと効率がいいんじゃないか、と。
 
中村:  そうすると、日本語のわからない人たちでも喜んだんじゃないですか。
 
神田:  そうですね。いろいろ情報がわからないというのが不安ですからね。言葉がわからないというのは不安なものですから、そういう意味ではいろいろ励みになったんじゃないかな、と思うんですけど。
 
中村:  そういうふうにみんなで集まってわいわいしながらいろんなことが決まって実行されていくわけですね。で、神田さんもその中に入っている。そういうのを見たり参加したりして、なんかどんなことを感じました?
 
神田:  最初は途方に暮れていたんですけども、そうやって一人集まり、二人集まり、で、集まってくださった人たちがまた自分でいろんなことを考えて、不思議なことに普通では考えられないような、イメージとしてこう夢をよくもつじゃないですか。〈こうあればいい〉って。あの時というのは、〈こうあればいいな〉と思ったことがもう具現化してしまうという、不思議なことでしたよ。いろんなことがなんか夢を持てば、それこそそれが十年先じゃなくて、明日にはそれが具体化している、というようなことだったですよね。
 
中村:  周りは焼けた家や壊れた家がまだ残っているわけですね。その中になんかそういうものが見えたんですか―夢が。
 
神田:  そうですね。先ほどのまちづくりの街の会議の時も、先の見えない、どうやって道路の巾を広げてとかというのが、同時に始まりますから、終わってからはできるだけ笑いの絶えないようにしていましたよね。そういう中でだんだんみんな大変なんだけども、勇気貰ってきた、という。それとあと、全国から来てくださいますよ。全国から来てくださって、そこに出会いがあるわけで、それもこれまでなかったことですものね。北は北海道から、南は九州、沖縄の人たちが、今ここに居てはる。で、一緒の目的に向かって救援活動をしているというのは、想像だにしなかったことで、その現実を見た時に、なんか不思議な光景やな、と。でもその中から少しずつ何か新しいものが生み出されていくという実感もあって、周りは瓦礫ですけども、それを感じることで、みんな不思議な体験をして、あの時の勇気は貰ってきてたんじゃないかと思うんです。
 
中村:  もう焼けた家や壊れた家で、もう絶望の中だったんですよね。
 
神田:  絶望のどん底ですものね。
 
中村:  その中でなんか心の中に夢のような世界が、
 
神田:  心の中にですね。勿論絶望と隣り合わせなんだけども、多分一人でいたら、もう絶望だけで終わっていたかも知れないんですけども、それこそ声を掛けてくださって、「君たち、大丈夫か!」と言ってお水持って来てくださったその出会い。なんかそれだけで感動したり、勇気貰ったり、というのがあって、それがこう積み重なって、少しずつ大変な時を乗り越えてこれたんじゃないか、と思うんですけど。
 
中村:  いろんな出会い、いい出会いがあったんですね。
 
神田:  そうですね。いろんな出会いがありましたね。当時よく言っていたんですけど、「人生三回ぐらい繰り返さんと出会いない人に、この一年間で出会ったよね」みたいな、それだけたくさんの人たちと出会わせて貰ったですね。今でもその出会いが続いている人たちがいてますから。そういう意味ではその震災の時に出会った時の人たちというのは、人生の宝物かな、と思ったりもしていますけども。
 
中村:  人の繋がりが繋がりを生んで、網の目のように繋がっていく、と。
 
神田:  そうですね。ほんとに網の目みたいでしたものね。この人と繋がったら、その人の今度仲間が来てくれたりとか、不思議でしたよね。人なんて生きているのは、出会いがなかったら全然赤の他人なんだけど、急に人口が増えたわけじゃないけど、急に出会いが増えるというのも不思議な話で、普段どんだけ出会っていなかったんだな、というのはよくわかりましたけどね。
 
中村:  大変な災害でしたけれども、一方ではそういうことが起きた。
 
神田:  そうです。実にそうだったんですね。「なんか神様も見捨てたものやないよな」というのもよく言っていたんですが、絶望のどん底というか、自然災害の中でもうすべてのものを失って、まあ基本的にはそれで終わり、というふうに思うんですけども、でも終わりじゃなくて、「あなたの始まりや」という。口では言えるんですけど、なかなかそのただ中にいてる時というのは、希望みたいなものは見えないんですが、でもそれは、人との出会いがすべてだったのかな、と思いますけどね。
 

ナレーター:  人と人とが出会い、関わり合うことで、さまざまなことが形になっていく毎日。神田さんはその中に、自分が追い求める理想的な世界をみた、と言います。
 

 
神田:  自分自身が驚いた世界という方が当たっているかな、と思うんですけど、いろんな出会いがあったというのもあるし、あとこれは神戸の人たちみなさんおっしゃっていましたけど、なんか妙に優しくなれたみたいな、今まであまり声も掛けなかった者同士が声を掛けているし、初めて出会った人にも「大丈夫やった?」とか、「お水ある?」とか、なんか優しく声を掛け合うことができたみたいですね。で、ああいうのを瓦礫の中で体験していて、ある意味不思議な体験だったんですけど、キリスト教の用語の中で、「神の国」という一つの理想の形を表現するんですけども、あの時はある意味、「神の国」みたいなものを垣間見たのかな、というふうに思ったんですね。でもそれは、ある意味一瞬というか、暫くするとまたそれは消えてなくなっていくんですけども、でも確かになんかそういう体験をしたな、というのは、みんなもっていましてね。
 
中村:  それはほんの暫くの出来事だったんですね。
 
神田:  今からみたら瞬きほどの瞬間だったんですかね。期間的に言うたら最初の瓦礫が片づく頃までと言った方がいいかも知れないんですけども。不思議な体験があったんですね。それはもう一番大変だった時期に感じたことで、それからだんだん毎日瓦礫が片づいて復興への道にいくんですけども、それと同時にその不思議な体験をしたあの瞬間というのは、だんだん遠くになっていくんです。それはその震災前と今とでは違っていた。何が違っていたか、というたら、実際にそれを体験した時があった。それは大きなことで、だからゼロじゃないんや、と。人が優しくなれる、お互い声を掛け合うことができたというのは、できたんだ、と。次は、じゃ、それに向けて、まちづくりや人づくりというものの方向性というか、体験したんだから、あったんだから、今度はじゃつくっていこうよ、という。それが今のたかとり救援基地、たかとりコミュニティセンターが、十六年経っても活動が続いているんですけども、原動力としては、あの時に体験したことは幻じゃないんや、と。後は自分でそれをつくっていけばいいんやという、そういうのが根底にありますね、みんなの。
 
中村:  そうすると災害はご免ですけれども、その時の人々の気持ちの繋がりというものを、もう一度つくっていきたいということですか。
 
神田:  そうですね。別に災害が起こらないとダメ、じゃない筈ですから、だからそれはみんなが意識すれば、必ずそういうまちづくりというか、社会はできていく筈やという、少し自信めいたものがひそかにあって、それに向けて、じゃ、目標はこうや、というところが決まったんで、そっちに向けて、照準をずらさないように歩んでいくだけかな、と思っているんですけど。
 

ナレーター:  神田さんが、四年前から仏教の僧侶と合同で一月十七日に行っている阪神淡路大震災の追悼式。神田さんは、地震の直後から、仏教、神道、プロテスタントなど、宗教や宗派を超えた交流を重ねてきました。他の宗教を信仰する人々との交流を続けることで、自らの信仰への思いはかえって深まったと言います。
 

 
神田:  ボランティアの人たちの中で、よく見たら、「あなたはお坊さんやった」。よく聞いたら、「牧師さんやった」とか、「お前は神父やったんか。魚屋の兄ちゃんやと思っていたわ」とか、それで後よく見たら、「あんたは宮司さんやったんやね」とか、こんな出会いは今までなかったですね。同じ活動をしている中で、宗教を超えて同じ目的で動いていたというのも、それも別に誰かが呼び掛けたわけじゃなくて、自らが進んで動いていた仲間が、実はそうやった、と。それぞれみんな宗教に関わって、それを生きる指針にというか、生き方探しで、宗教に関わっているけど、でも客観的にみたら、それぞれ宗旨は違っていて、へたすると宗教同士が何か向かい合っていてみたいな世の中になってしまいますけども、でも震災の時にそうやって出会った仲間は、やっぱり宗教を超えても同じ方向を向いていた仲間で、何かあるんですね、向かっていく方向が。それは言葉にすると何かわからないけど、平和つくっていこうとか、いい世の中にしていこうとか、そういうことなんかも知れないし、もっと言えばここの活動の中で言えば、外国籍の人や高齢者の人というのは、いわゆる社会の中では弱い立場にある人たちという枠になっていて、そういう人たちがやっぱり活かされるまちづくりでないと、本当の意味での街じゃない、という。で、それでまちづくりというのが成り立っていくんだけども、そういう思いは、別にどの宗教がじゃなくて、それぞれの宗教に関わっている人たちが、共通で目的にすることでないかしらと。それもなんか震災の中で気付いていったというか、出会っていったというか、これは宗教を超えて一緒になんかやっている。ともすれば、自分の信念がなくなってしまったんかみたいに言われたりするんですが、そうじゃなくて、自分のやっぱり生き方探しは、どっかに関わって生きるというのは、かわりはないんだけれども、決してそれはお互いが排除しあうことでもないし、向かい合うことでもないし、一緒の同じ方向を目ざすことで、肩並べて一緒に歩める仲間なんやというのを気が付かせてもらったのも、この地震だったですね。
 
中村:  何か宗派が違う、あるいは別の宗教であると、何か抵抗というのはなかったですか。
 
神田:  最初はあるんですよ。最初はあるんですが、それこそ「宗教者やったんだね」ということがわかって、その切り口で別の集まりが始まるんですね。震災ちょうど一年経った頃だったんですが、で、何をしてきたかというと、一ヶ月に一度集まろうよ、と。で、最初はお坊さんのお寺に集まって、で、仏像の前で食事を奥さんに作って頂いて、みんなで食べながら、そのお寺の話を聞くんですよ。いろんな質問したりする。その次は神社に行って、神社の社務所でまた食事を一緒にして、今度はプロテスタントの牧師さんのお家へ行って、また奥さんのお世話になって食事を作ってもらって一緒に食べながら牧師さんの話を聞く、と。今度はたかとり教会に来て、神父は結婚していないので、作る人はいないんですけど、自分で作っているんですけども、近くでコロッケ買って来てとかね、そうやって順番にそこのいてはるところへお邪魔して、その話を聞いて、少しずつそういうのをずっと続けて、何回もクルクル廻るんですが、そうやってくると、だんだん壁みたいなのが取れて、今までわだかまりのあったものも少しずつ取れてきて、で、もう宗教が違う云々じゃなくて、さっきの「まちづくり」は「だちづくり」じゃないけれども、宗教を超えて友だちになってきたんですね。今まで出会わなかった人たちと出会って、そうやって一緒に食事をして、仲間になっていくことで、どうなったかと言ったら、私は神父ですけども、もっと神父に対する拘りが深くなってきたんですよ。お坊さんも逆にもっとお坊さんになっていくし、プロテスタントの牧師さんももっとプロテスタントの牧師さんになっていくし、これも不思議だったんですが、何かこう仲よくすると曖昧になるというふうな思いで、なんかどっか壁を作ったりするんだけど、そうじゃなくて、関われば関わって、仲よくなればなるほど、実はもっと自分が、何でこの宗教に拘って生き方を考えているんや、というのが、もっと自分に逆に返ってきますよね。で、お坊さんはお坊さんで、自分で選んだ道をもっと深めていく。そういう自分の拘った生き方に真摯に向かって生きている姿が素敵だなと思うんですよ。それはなんか自分の生き方を選んで大事にして生きている姿そのものは、どの宗教を超えても共通のものがやっぱりあるのかな、と。中途半端じゃなくてね。それは何か決して排他的じゃなくて、何か全部を纏めて、足して、十で割って、みたいな、そんな生き方じゃなくて、なんかに拘って生きていたわけで、それがやっぱりその生き方のなんか真面目さというか、真摯さみたいなものが、逆にお互いに見えたりして、尊敬の念を持ちますよね。それは決して排他じゃない。かと言って、混じり、自分がぶれるわけでもなくて、半分キリスト教で、半分仏教の考えになったみたいな、そうじゃなくて、やっぱりキリスト教に拘っていたら、キリスト教に拘った生き方だけども、それは相手の違う生き方をしている人たちが、じゃ、それはいらないんじゃなくて、やっぱり尊敬の対象になってきたという。それが震災後に出会って、宗教者の仲間たちに得たものだったし、それもこれから大いに自分の信仰そのものを豊かにしてくれることだろうと思っていますね。
 
中村:  では、神田さんが拘っているということって何ですか。
 
神田:  拘っていることですか? 私はもう小さい時というか、生まれ落ちるなり、カトリックの世界にどっぷりで、小さい時から教会へ親に連れて行かれて、ずっと日曜日は教会で過ごしてみたいな、で、何かずっと小さい時からずっとそうしていって、他の宗教のことは全然知りませんから、宗教というふうな拘りは全然なかったんですけども、教会へ行けば、それこそ老若男女(ろうにゃくなんにょ)、多国籍のいろんな国の人たちと、いろんな年齢の人たちが一同に会している。そういう場所というのはあんまり教会以外になかったですね。学校へ行っても同じ世代だし、そういう意味で、自分の拘りとしてはなんか年齢も国籍も超えて一つになられる場所というのが、イメージ的には教会かな、と。そういうものの豊かさみたいなものを凄く感じていて、その拘りでずっとこの世界でやっていこうと思っていたんですが、それが今度は年齢も国籍も宗派も超えて、宗教も超えて、もっと違った人たちと出会えていく。もっと違う切り口があるんや、というふうに思って、とにかく何か、先ほどの「神の国」の話じゃないですけれども、同じ人としてというか、ふっと素直になったら、誰とでも優しく声を掛け合いて、というふうな、あの瞬間の体験みたいなものが、それはこんな今の世の中で、宗教とかいろんな切り口もこう分け隔てているけれども、でも必ず超えたところで誰とでも繋がって、声を掛け合って、何か一つの目的に向かうことができるという。拘りといったら、そこにあくまでも拘っているかな、というふうに、自分では思っているんですけど。
 
中村:  で、東日本大震災の被災地は、どんな復興の形、どんなまちづくりをしていってほしいなと思いますか。
 
神田:  最初は東北に震災後入って行った時に、一つ感じたことがありますてね。それは私たち、関西人じゃないですか。私も関西で生まれ育って、地震も関西で遭って、その中でずっとやってきたんですが、初めて今度関東を越えて東北で、そこで被災地の人たちと出会いを求めていくんですけども、最初に感じたのが、やっぱり同じ日本なんだけども、場所がこう離れると文化も違うんやな、と。勿論言葉も違いますし、習慣とか、ものの考え方も同じ日本だけども、なんか違うんだな、と。神戸と同じような考えで、そのままを向こうへもっていっても、多分ダメなんだろうな、というのを凄く感じましてね。最初はちょっと勇気がなくなったんですよ。何にもできないな、と思って。でもよく考えたら、神戸で震災を迎えた時に、ほんとに国籍が違ったり、宗教が違っても、でも一緒に同じ方向でやってきた仲間がおると思った時に、きっとこれまた時が経って、こうやって関わりをもっていけば、関西と東北の人たちも、なんかもっと文化を超えていい出会いがこれからたくさん生まれて、それは関西と東北だけじゃなくて、九州と東北もそうだろうし、北海道と東北もそうだろうと思うんだけども、あの東北地方の人たちが、もしかしたらこの震災で、今はまさにいろんな文化の人たちとの出会いがあると思うんですね。それはその瞬間はちょっとしんどいんやと思うんです、違ったものと出会っていくというのは。でも私たちがやっぱり信じているのは、違うからやっぱり豊かやし、違うからこそ今まで自分がもっていなかったものを与えて貰えるし、なんか喜びみたいなものが少しずつわかってきたら、今の大震災もきっとそれぞれが勇気を貰って立ち上がっていけれるんじゃないかしら、と。私たちも、このことを、この痛みを通して東北の人たちとやっぱり文化を超えて出会っていきたいな、と。私たちもこれから学ぶことがたくさんあるでしょうから、そういう思いで、自分たちのもし経験が何か伝えられるんなら、違った習慣や文化や宗教とか、を超えて、一つになられたんや、という思いを何か伝えていけたらな、というふうに思っているんです。
 
中村:  ということは、今度は東北と東日本の被災地と繋がって、また網の目のように繋がっていく。
 
神田:  そうですね。そういうことを考えると、実はわくわくするんですけども、それは結果的にわくわくできたらいいんですけども、真っ直中の時はやっぱり目の前のことで精一杯ですから、それを少しずつ乗り越えていかなあかんのでしょうけども、きっと時が経って振り返った時に、勿論大変なんだけども、でもなんか災害がやっぱり人の出会いを生んで、また新たな生き方が始まったんや、という、きっとそういう大きな恵みみたいなものを感じれる時が必ずくるというふうに思いますね。
 
     これは、平成二十三年七月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである