私にとっての「3・11」―フクシマを歩いて
 
                   作 家  (ソ)   京 植(キョンシク)
一九五一年 在日朝鮮人の父母のもと、京都市に生まれる。早稲田大学在学中の一九七一年、二人の兄が留学中のソウルで国家保安法違反容疑で逮捕される(学園浸透スパイ事件)。すぐさま逮捕の不当性を訴えて母や支援者とともに救援活動を展開。一九七四年に早稲田大学第一文学部仏文学科を卒業するも、依然兄弟は獄中にあり、自らも進学を諦めて兄の解放と韓国民主化運動のため活動を継続する。この活動中に母を亡くす。投獄から一七年目の一九八八年に徐俊植が釈放され、一九九○年には徐勝も釈放。長期にわたる救援活動の経験は、その後の思索と文筆活動へとつながっていく。この頃より都内の大学などで「人権」や「マイノリティ」をテーマとした講義を持っている。二○○○年、現在の東京経済大学助教授に就任。著書に、『長くきびしい道のり 徐兄弟・獄中の生』『皇民化政策から指紋押捺まで 在日朝鮮人の「昭和史」』『「民族」を読む 20世紀のアポリア』『分断を生きる 「在日」を超えて』『新しい普遍性へ 対話集』『プリーモ・レーヴィへの旅』『半難民の位置から 戦後責任論争と在日朝鮮人』『ディアスポラ紀行 追放された者のまなざし』ほか。
                    
ナレーター:  東京の郊外国分寺市(こくぶんじし)。作家徐京植さんが教鞭を執る大学です。徐さんは、ゼミで植民地支配などによって少数の立場に置かれた人々の声を取り上げてきました。三月十一日以降原発事故によってさらけ出された社会の問題を見詰めようとしています。その手掛かりとして、徐さんがあげるキーワードがあります。
 

 
徐:  「根こぎ」という言葉があって、ちょっと聞き慣れないかも知れないけど、つまり一個の根を下ろしている植物を徹底的に抜いちゃおうということだ。その生命、生存の基盤そのものを破壊するということだ。この「根こぎ」ということが、人間に対して行われる。人間が人間に対して人間を根こぎにする、ということがあるということですね。その戦争や植民地支配やその他で、世界中に多くの人が根を抜かれて彷徨っているわけですね。ディアスポラ=離散させられた者、難民。パレスチナの人々、まさにそうですね。そういう人々が経験している痛みをですね、なんか数量化したり、物量化して語るわけですね。それだけで語れるようなものじゃないんだということが、放射能という、核というもう一つのですね、こういう現在の経験から、私たちが考察して見るべき問題だ。私はそういうふうに思っているわけです。
 
ナレーター:  徐京植さんは、京都に生まれ育った在日朝鮮人です。祖父が、日本による植民地時代、農民としての生活の場を奪われ、朝鮮半島から渡って来ました。徐さんは、これまでの著作で、自らのアイデンティティの問題と重ね合わせながら、世界で根を引き抜かれてきた人々の言葉を刻んできました。今、原発事故によって生活の基盤を揺さ振られている人々の声を留めようとしています。
 

 
徐:  あの日の経験ということを、その後も何回も想起するんですけれども、これはある意味で象徴的だと思いますが、韓国から知人と言いますか、研究者が日本に来ておりまして、その方は日本に来た翌日にあの地震に遭遇したわけですね。地震の翌日、十二日に私の自宅で食事をするように招待していたんですけど、まあそれをちょっと時間をずらして来て頂く。その方も随分苦労されたんですけど、とにかくお出でになりました。で、私たちの手料理で食事をしている時に、福島で水素爆発というニュースが入って、テレビの画面で原子力発電所が爆発する場面を見ていたわけですね。それはリアリティ―現実感という問題を私自身に考えさせました。つまりいわば破局が到来したということは、一方では強く認識しているわけですね。来るべく破局―前から心配していた破局がついに来たと。しかし他方では、それは画面の向こうにある現実で、私たちはくつろいで食事をしているわけですね。自分がまったく安全な場所にいるわけでもないし、さりとて今すぐに身に迫る危険というものを実感できるわけでもない。まあそういう狭間に宙づりにされているような感覚というのが、その日の感覚です。現実そのものの姿を見ながら、それは非常に非現実的なものに思えるということですね。私は放射能災害、原発災害というものは、そういう本質をもっているんじゃないか。放射能というもの自体が目に見えないということもありますし、それから私たちの感覚や想像力の遠近法というものに、とてもそれが挑戦してくる。福島の第一原発を中心として、こういう半径二十キロとか、三十キロとか、百キロとかという同心円がよく現れますね。テレビの画面にも、新聞にも現れます。例えば東京は大体二百キロ離れているとか、仙台は百キロ圏だとか、だからそれだけ危険度が高いとか低いとかという話ですね。被災地の人が、今経験している恐怖とか、不安とかというものは、私の想像が及ばない、と。その時私が感じている漠然とした不安について、実は大阪とか九州の人は、あんまりわからないと。韓国ならもっとわからないだろう、と。つまりそういう同心円的に遠ざかっていく想像力というものを、私が想像していたわけですね。だけど一方私は、その逆説もあるということを、この頃考え始めているんですね。遠ざかっているからこそ恐怖を自覚することができる。不安を感じることができるという逆説ですね。同心円の中心に近い人たちは、恐怖や不安の実感が強い。強いからこそ、それを直視しまい。それについて考えるのをやめよう。あるいは少しでも楽観的な、つまりつくられた慰めの真実というものを見つけ出してそれに縋ろう、という心理が働くということですね。二百キロ離れている東京から見た時に、その福島の人たちが、私の認識では大変危険なのに、どうして毎日普通の日常が送られるんだろうか、と奇異に思うことがある。しかしもし福島に身を置けば、そういうふうでなければ暮らせないかも知れないということを思うわけですよね。楽観的なものに縋っているのかも知れないんですね。正直に告白すると、やっぱりその頃テレビに出てきて解説する人たちは、相当不確かなことを言ったり、あからさまに気休め的なことを言っていましたけれども、しかしそういうことを言う人がいる以上はそうかも知れないな、というふうに思いたい自分という者もいましたね。だからそういうことから遠ざかっていったところに、一つの真実が見えるということもある、という。だから同心円のパラドックスですね。離れると見えないけど、離れないと見えない、という、こういうことがあるというふうに、私は思います。
 

ナレーター:  原発事故の発生から三ヶ月後、徐さんは、放射線汚染が深刻な地域の内側に初めて足を踏み入れました。東京で抱いてきた感覚を確かめるとともに、そこで実際に暮らす人々の声に耳を澄まそうと考えたのです。
 

徐:  車は緊急時の避難準備区域とされた南相馬市(みなみそうまし)を目指して走っている。六月の雨が福島の土をふっくらと湿らせ、猛々しいほどに植物が生い茂る。目覚ましいほど豊かな日本の自然。しかし線量計の数値は、既に東京を出た時の三十倍を越える。その罪深さを思う。住民の避難が計画されている飯舘(いいたて)を過ぎ南相馬に入る。田植えの時期を過ぎた筈の田は、干上がったまま荒れた表土を曝している。人影がほとんどないその風景の中で、偶然一人草刈りをしている人(清水初雄)を見かけた。
 

 
徐:  こんにちは。すいません。お邪魔します。通りがかってちょっとお姿が見えたもんだから、ずっと飯舘からこっちへ来たら、みんな田圃・畑に手がついていない状態なのに、お一人だけ作業をなさっているので、ちょっと気になって、お話を伺いたらなと。
 
清水:  これだけ刈ったらば、一時にここへ来たんですけど、間もなく一時間になりますからあがります。
 
徐:  そういうふうに時間を決めてなさっている。
清水:  決めてやっています。一時から大体二時までやって、今日の仕事は終わりだ、と。
 
徐:  ご自分で、
 
清水:  決めているの。どなたからも指導を頂いた、そういうことでなくして、私、自分で決めた。
 
徐:  それ以上やると健康によくないだろうということですか。
 
清水:  ええ。
 
徐:  これから水田なさろうとしているんですか。
 
清水:  いや、ここは耕作してはいけないことになっている。田圃の中はこれに放射線が中に仮に入ったとするでしょう。そうすると、田植えしたら放射能の巣でしょう。草からは稲に影響はないから。
 
徐:  勿論そうなんですけど、今から何かを作ろうとなさっている?
 
清水:  いやいや、違う。荒れ放題。要するにこういうように荒れているから刈っているだけ。できればやりたいよ。
 
徐:  やっぱり、手塩に掛けた畑ですから、愛着がおありでしょう。
 
清水:  寂しいもんだどぉ。こうやっておかなならんのだどぉ。
 
徐:  そうでしょうね。
 
清水:  俺は何にも言わないけど、でも実際寂しい。
 
徐:  そうでしょうね。
 
清水:  本来ならば今頃は夜寝ていられんだから。田圃に水かかっている。カエルがギャギャとうるさくて。
 
徐:  あ、なるほど。
 
清水:  水が張っていないから、カエルが騒がないんだよ。うるさくていられんぐらいですがね、普通は。
徐:  カエルたちはどこへ行ったんでしょうね。
 
清水:  どこへ行ったんだか。これはほんとに寂しいぞ。
 
徐:  お邪魔しました。有り難うございました。
 
清水:  私、もうすぐあがるんだから。ご苦労さまでした。
 

 
徐:  私が南相馬市を目指したのは、原発事故の後、周囲のほとんどが自主避難を始める中で、ここから離れようとしなかった人がいることを知ったからだ。
 

徐:  どうもはじめまして。徐と申します。
 
佐々木:  そうですか。はじめまして。佐々木(佐々木孝:南相馬市原町区)です。
 
徐:  お邪魔致します。
 
佐々木:  どうもどうも、遠いところわざわざ。
 

 
徐:  佐々木孝さん。スペイン思想の研究者です。東京の大学を定年退職後、母親の故郷である南相馬に戻り、ここを永住の地と決めたという。震災後、九十八歳の母、息子夫婦と孫を十和田に住む兄の元に送り出し、佐々木さんは、介護が必要になった妻と二人、この家に留まった。電子レンジ、冷蔵庫、ご自身で籠城生活と呼ばれる部屋には、棚一杯の本とともに、生活に必要な家財道具が運び込まれている。佐々木さんはこの部屋から、自分と妻の近況や思いをブログを通じて発信し続けている。私が目を引き付けられたのは、彼の生活を支える「魂の重心」という言葉だった。
 

 
佐々木:  私は何と言いましょうかね、書かないと生活がバラバラに崩れそうになる。
 
徐:  わかりますね。
 
佐々木:  書くことでバランスをとっているというところがあって、ですから大変と言えば大変なんですけどもね。夜家内を寝かせて―今は日中書く時もあるけど―大体は家内を寝かせてからパソコンの前で、そこで思い付いたことを書いていくんですね。そういうことをずっと。書いた時、やっぱり不安でね、で、家内に読んでもらって、「いいよ、パパ」と言われるのが―もうそれで私は終わりなんですよ。それがないのが寂しいですけどね。今ダメです。どうってことないんですよ。つまり言葉が通じても通じなくても、日常生活は別に問題ないですよ。だって記憶の問題だって、私、一方がもっていればいいわけですから。いつも一緒。寝る時も、今一人で立たないから大丈夫だよ。今もそうです。基本的には紐でこうやっています。家内は地震が大嫌い。ちょっと揺れるのもパニックだったんですよ。幸いなことに今回は全然動じなかった。私、ここのところにタッチしながら、もの凄い揺れがきたでしょう。あの時「大丈夫だ!大丈夫だ!」と肩を押さえていたけど、私に言っていたようなもんでね、家内は全然動じなかったですね。だから家内がいることによって、ずっと限りなく重心を低くすることができる。それはそうですね、もしも家内が居なくて、と思ったら、多分別な行動をしていたかも知れませんね。この前もブログに書いたんだけど、例えば英語でいう「ライフ」というのは、訳すれば、二つ大きな「命」と「人生」ですよね―ライフタイム。今、原発のいろんな事故のいろんな処理とかやっているけど、命を大事にするというのは有り難いことだが、だけど一方では人生を非常に軽く見ている。人生が壊される、ということの無念さね。ライフタイムという、それは先祖たちの思いであったり、親しい人たちとの笑いであったり、そういうものが一瞬に消えているわけですね。
 
徐:  「根」という問題ですね。私は、実は一種の、よく俗に「根無し草」と言いますかね、祖父の代に日本に来て、私自身も京都で育ったけど、別に京都に愛着もないしという人間は、こういう出来事があっても、身軽に移動できるかなというふうに思い込んでいたら、決してそうじゃないということを思いまして、我々は、例えば一つの電車に、客室にたまたま乗り合わせている。どこかに来たら、人生が終われば下りるんだけど、乗り合わせている間は、それが少しでもよい環境として、少しでもいい方向に進むような公共的な責任を負っている、と。私は、在日朝鮮人だけど、日本という電車にたまたま乗っている、と。そういうふうにいつも理解していた。
 
佐々木:  国はステートの概念ですね。それは国も風土も人も見えない一つの冷たい概念。次はネーションでしょう。これは民族が入ってきますね。朝鮮の場合は、ネーションとステートがこう分かれているわけです。だけど私はそこの段階も私の国ではないですよ。最終的にはカントリー―お国。それは、それこそ人の顔が見え、先祖が見え、それこそ小鮒釣りし川が見えるという、そのカントリーですよね。テレビちょっと見た画像なんですよ、双葉でお爺さんを看病していたお婆さんが、多分自衛隊員が迎えに行ったんでしょう。そうしたらお婆さんは、「いや、行きません」と。「いや、そんな問題じゃないんだけどな」と若者が呟くんですよ。私は、そんな問題なんですよ、これがね。一番根本の問題にぶつかる。お婆さんが自分の生き方を賭けているんですよね。あのお婆さんがどうなったか実はわからないんですけどね。ただ非常に今回のいろんな映像が流れたけど、その中で私の中ではインパクトがあって、あのお婆さんどうしているのかな、と。つまり一人の人間が国家と対峙(たいじ)しているわけですね。それは立派に対峙しているわけです。その個人の尊厳というのを気付くべきだと思いますよ。
 
徐:  自分の判断で、自分の人生を選びとっていくということからみれば、それは国が要求する自己責任ということとは意味が違うんですよね。
 
佐々木:  そうです。だから「頑張れ日本」というのは有り難いけど、いやちょっと待てよ、と言いたいですね。
 

 
徐:  佐々木さんは、開拓地北海道に嫁いだ母から生まれた。戦争末期、一家は満州に移り、父は官吏になった。戦後引き揚げた南相馬で佐々木さんは育ち、高度成長の時代に上京した。その人生は、近代日本の国家の政策とともに流転を重ねている。最後の行き着き先として選んだ南相馬。そこが放射能に襲われた。
 

 
佐々木:  辛いけど、あの震災を終えたことは貴重だなと思いますね。多分いろんなことが見えるきっかけにはなった、ということがありますよね。やっぱり究極的には、国という問題ですね。私たち一人ひとりで、「国は何か」という問題が突き付けられた筈なんですよ。日本の社会というのは、平常時ではそれこそ非常にいい社会で、それこそ寸分違わずいろんなことがスムーズにいくでしょう。だけどちょっと非常時になれば、これほど非人間的な国はないです。例えば家内のことを、具体的に話をすると、調査に回って来た時に、初めのうちは、「お宅は誰それさんですか? あ、奥さんもいらっしゃいますか。じゃ、いざという時は、奥さんを連れて逃げることはできますね」と、初めは言うでしょうね。だけど同じ瞬間かもわかりませんけども、「あれ、何故奥さんいるんですか? ここに。通達というか、指令書があって、お上の指示では本来居てはいけない、要介護者ですね。「どうしているんですか?」という質問に変わりますよ。つまり法律というものが末端に来ると非常に非情なものになっていくんですよ。だからその恐さをほんとは知らなければいけない。国民を守るものではなくて、国民を監視する側になるんです。一瞬に変わりますよ。だから例えば主人の私だって非国民になりますね。だけど根底に、一番深いところにあるのは、なんというかな、ちょっと恰好言えば自主自由ですよね。それが、「お前、こっちへ行け、こっちへ行け」というふうにされたくない。ブログでちょっとふざけてちょっと書いたんですけど、ドストエフスキーの地下生活者の一杯のコーヒーを飲む自由、それは勿論極端な例なんだけど、ただ人間の自由というのは、それぐらい重いぞ、ということがね。だからそれは後から付けた、自分で何かで、何だろう、と考えた時に、ああ、そう簡単に動くもんか、というのがありましてね。
 

 
徐:  佐々木先生が、もっとも自分にとって重要な価値としての自由。「自らの生を自らが決定する尊厳」ということを、あの困難な状況の中で、とてもにこやかに語っておられたということは、大変印象深いことでした。佐々木先生のその根は、奥さんとの二人の個人的な関係は、私たちの想像を越えるものですけれども、患っておられる奥さんを中心に、その人の生命と生活を最重点に、ということを考える時に、やっぱりこれが根なんですね。それがやっぱり脅かされる。それが保証されない、ということが非常に大きな要素だろうと、私は推察しています。つまり根というのは、何か具体的な形を取っていたり―土地とか、海とか、会社とかという姿をとっているということが通常ですけれども、ここで彼が言っている言葉でいうと、「魂の重心」。自分にとってもっとも大切なもの、自分の生き方を貫いてきた生の形式、といったようなものだとも言えるわけですよね。だからそういう意味で、彼の根は、農民の清水さんの根とは異なるけれども、また共通してもいると。清水さんは、もう今年は作付けできない、ということを、勿論受け入れつつも、その田というものを将来に渡して生かし続けるために、そしてまた自分が七十年間守ってきた自分自身の習慣、自分自身の人生の規律の故に野外作業をしていたわけですね。しかも放射能の危険ということについて無知なわけではなくて、一時間に限定してやっているんだ、ということです。まさに根を抜かれようとしながら、今まさに根こぎにされようとされている人。でも一日一時間の作業をすることによって、根こぎにされることに抵抗している人、というふうに私には見えました。私自身も、私の韓国にいる友人や親戚から、「大丈夫か?」という連絡とか、あるいは「一刻も早く韓国に逃げて来い」というような連絡を受けました。だけどそうしなかった。だからそのことを私は、例えば自分は何故ここを動かないんだろう、ということを考えた時に、繰り返し思い出したのは、ヨーロッパのユダヤ人―ナチスによるユダヤ人絶滅政策の危機がひたひたと迫っているにも拘わらずですね―勿論知識人や、あるいはお金持を持っている人たちは、非常に大量にですけども国外に逃れましたけれども―それでも逃れないまま犠牲になった人たちが数百万人いるわけですね。その人たちは何だったんだ、と。何故動かなかったんだ、ということをわかるようでわからない問題だったんだけど、今回いろいろ考えてみて、なんか少しわかったような気がしました。で、ここで私が思い出すのは、プリーモ・レーヴィ(1919-1987)という人で、イタリアのユダヤ人で、アウシュヴィッツで一年近く強制労働を経験しましたが、辛うじて生き延びて、生還後は文学者になった人です。『アウシュヴィッツは終わらない』という作品が彼の代表作で、日本でもよく読まれていますが、四十年後、一九八七年に自殺されました。これは彼が自殺の前年に書いた自分自身の人生の経験を総括するようなエッセイ集です。ここにこういうことが出てきますね。
 
私たちにされる質問の中で、いつも必ず出てくるものがある。なぜあなたたちは逃げなかったのですか。
彼は、それは一つのステレオタイプであり、歴史を時代錯誤的に見ることである、というふうに、ここで書いています。実際にはお金がないとか、伝(つて)がないとか、そういう人たちにとって、国を出て行くということは簡単なことではないんだ、ということを書いた上で、こういうことを言っています。
 
この村、この町、地方、国は私のものである。そこで生まれたのだし、祖先はそこに眠っている。そこの言葉を話すし、そこの習慣や文化を身につけている。おそらく自分もその文化に貢献している。税金を払っているし、そこの法律を守っている。
そういうものであるだけに、まさに不安をかき立てるような推測はなかなか根付かないのである。極限状態が来るまで、ナチの信徒が家々に侵入してくるまで、兆候を無視し、危険に目をつぶり、都合のいい真実を作り出すやり方を続けていたのである。
 
つまり不安を感じないわけではないんだけれども、今言いましたようなさまざまなその人間を絡め取っている網の目。その人間が簡単には抜くことのできない根というものがあるが故に、危険な兆候をできるだけ軽くみようとしたり、何か気休めの都合のいい真実―それはもう本当の真実ではなく、都合のいい真実なんですけど―そういうものを作り上げて縋ろうとする。そういう心理をプリーモ・レーヴィはここで語っているんですね。これは前から読んでいたんですけど、〈ああ、こういう心理なのか〉ということを、その時思い当たったような気がしました。私が日本に留まってのは、何か楽観していたわけでもなく、諦めていたわけでもなく、自分自身が日本という社会にこう絡め取られているという現実を、普段そんなに気が付かないことを突き付けられたという、そういう意味ですね。逆にいうと、祖父の場合に、根こぎされて日本に来たんだけど、それから三世代のうちに、私はこの社会の網に絡め取られて、この社会に根を下ろすことになっている、と。半ばでも、ということです。具体的にいうと、例えば職業、収入というだけじゃなくて、人間は自分が属している会社とか―私の場合は教員ですが―そういう社会組織と無縁に生きていけるだろうか、ということですね。外国人であるか、日本国民であるかに関わらず、日本社会にその人の生活の根があるということです。それを破壊するということが、どれぐらい暴力的なことであるか、ということですね。
 

 
徐:  放射能は、民族や国籍を問わず、ここに根を下ろしていた人を襲った。郡山市は、学校の校庭の汚染がメディアに大きく取り上げられたところだ。校庭の脇には、表面を削り取った捨て場のない土が、未だに積み上げられていた。市内には、韓国籍、朝鮮籍の子どもたちが学ぶ朝鮮学校もある。しかし東京にいる私には、その被災の実態が伝わってこない。十五人の児童生徒が、八人の先生とここで学んでいる。私が訪ねた時、構内に彼らの姿はなかった。みなここを離れ、新潟の朝鮮学校で合同授業を続け、一月(ひとつき)になるという。留守を預かるのは、理事長の沈(シン)龍漠(リョンハン)さん。かつてはスクールバスの運転手だったという。
 

 
沈:  最初の頃なんかここで植物育てていて、水やりも毎日、それは今回持って行ったんで、
 
徐:  植物も持っていった。
 
沈:  持って行った。
 
徐:  亀は置いておくのに、置いて行きたくないと言いませんでした?
 

 
徐:  沈さんの大切な仕事、それは構内のさまざまな場所の放射線量を計測し記録することである。もっとも数値が高いのが校庭だという。校庭の放射線量は、毎時0・8から0・9マイクロシーベルトを示す。
 

 
徐:  大体ずっとずっとそういう数値ですか。
 
沈:  大体そうです。これですね、0・92と。ここの辺あった。
 

 
徐:  行政の全額負担で校庭の除染を行う基準は1・0。除染を希望しても、朝鮮学校では、費用の半額は自己負担になるという。業者の見積によれば、費用は敷地全体で六百万円を越える。
 

 
沈:  0・1は何ですか? 0・1の差は。1を越さなかったらダメだとかね。そんなの話にならないし、こういうのは絶対、だってうちらがやったことじゃないですね。五センチ削っただけで、ダンプカー十四台なんです。それをまたどこへ置くか。ダンプ十四台ですよ。あそこに置くとしたら、長さ何メートルの高さこんなになるとか。置くとしたら端の方に置くしかないですよね。
 
 
徐:  学校では、沈さんや郡山に残った親たちが協力し合い、自分たちだけでできる除染作業を続けている。毎週週末になると、親元を離れて暮らす低学年の子どもたちが帰って来る。新潟から郡山までは片道およそ三時間。この日運転してきたのは校長先生だった。子どもたちは自宅で一泊し、翌日また新潟へと飛び立つ。
 

 
徐:  今日一晩だけ過ごして、また明日また連れてくる。
 
保護者:  はい。
 
徐:  そうですか。
 
保護者:  美味しくないと、いつも文句いうんですけど、手料理を食べさせて、一緒にお風呂に入って、いろんなこといっぱい話を、今まであったこととか、好きな会話とか。
 

 
徐:  親と先生は、話し合いの末、夏休み明けも新潟で授業を受けさせることを決めた。こうした生活がいつまで続くのか。その見通しは立っていない。朝鮮人が福島に生活の根を下ろした理由は、日本による植民地支配の歴史と切り離せない。一九四五年福島県には一万七千人ほどの朝鮮人がいた。炭坑や鉱山で過酷な労働を強いられた者も多い。郡山市郊外にある高玉(たかたま)金山もそうした現場の一つだった。現在は観光施設として、かつての金の採掘場を見ることができる。坑道の総延長は、およそ八七○キロ。最盛期には、年間一トン以上の金を産出し、昭和の日本三大金山の一つに数えられたという。
 

 
原田:  このライトの当たっている部分。この部分ですね。これが金鉱脈。これが金がずっと延びている帯状のものなんです。
 

 
徐:  保存会長の原田さんは、隠された金山の歴史も伝えたいと語る。朝鮮人の労働の実態は、詳細がわからない。犠牲者の慰霊碑建立を目的に、研究者の協力を得て調査を進めている。
 

 
原田:  聞き取り調査をやっているんです。でもようとして昔の人たちというのは、何というのかなぁ、昔の嫌なことはもう今は話さないという感じの人が多いんですよ。そうでなくてかえって若い人たちの方が、「それははっきりしなければいかん」という人が多いですよ。
 

 
徐:  原田さんが、これまで集めた資料によれば、一九四四年にはおよそ六百人の朝鮮人がここで働いていた。宿舎は二十四時間監視体制で、給料は部屋代などで天引きされ、手元にはわずかしか残らなかった。過酷な労働から逃れようとして捕まると、正座させた足の上に重い鉄のレールを置くなどの処罰を受けたという。
 

 
徐:  大きく二つのことを今感じていますね。今現在この場所に在日朝鮮人を含む外国人たちが生活しているわけですね。放射能被害は、国籍・民族を越えて遍く人々に被害を及ぼすという意味で、日本人が被害を受けているというふうに語るということは、現実とも歴史とも反していると。そのことを歴史を振り返って知る必要があるということが一つです。もう一つは、ここへ来てとてもその感じを深くしましたが、近代国家の基幹産業に―ここは金山ですけど―炭坑とエネルギー部門ですね、基幹産業がいわば植民地主義的な労働システムに支えられているということですね。つまりより窮乏化した場所で、人間をかり集めてきて、そして連れて来て、幾層もの下請け構造の中で労働を強いると。そういう仕組みですね。そういうことが、実は現在の原発で行われているということです。原発労働者ということを見てみますと、これはその方々は放射能被害というもっとも危険な労働に従事するんですけれども、それによって支えられるエネルギー部門というものが、日本近代国家を作ってきたとしたら、四十五年以降、それは引き続き現在まで続いていて、しかも六十年代になって、いわゆるエネルギー政策が石炭から他のものにシフトする、と。六十年代の半ばぐらいから原発が建てられていくという形で継続している、と。
 

ナレーター:  福島に滞在中、徐さんは、ある新聞記事に注目しました。福島県相馬市の五十四歳になる酪農家の自殺です。彼はフィリッピン人の妻との間に二人の子どもを設け、親の代から引き継いだ酪農に汗を流していました。事故後一家でフィリッピンに疎開。しかし一人帰国して、出荷停止となった原乳を一ヶ月の間捨て続けました。借金をして新築したばかりの堆肥小屋の壁には「原発さえなければ」という最後の言葉が残されていました。
 

 
徐:  私がまず感じたことは、この方は殺されたんだ、ということですね。死に追いやられた。根が原発によって引き抜かれたわけです。で、しかもこの震災の後、妻と子どもたちが放射線被害を逃れてフィリッピンに行って、帰国して、この酪農家の方もその後行ったんだけど、そこで自分は暮らせないと感じて戻って来たんですね。その奥さんの、妻の国であるフィリッピンで暮らすようなつもりももったみたいですけど、「言葉も通じないし、暮らせない」ということを言った、とここに書いてありますね。この男性は、根を抜かれた結果、原発によって、いわば難民化されたわけですよね。だけど、それできそうもないと考えて、戻って来られて、ガランとした空き家になっている堆肥小屋で自殺をされました。この方の弔いの時に、フィリッピンから駆け付けた妻子が泣きじゃくっているということを書きましたが、そこに責任ある者の誰か一人でも駆け付けて弔意を表しただろうか。謝罪したんだろうか、ということを思います。ほんとに無慈悲なぐらい徹底的に根こぎにされた、ということですね。だけどこれが一つの例であって、おそらくこの種のことは、他にはたくさんあるに違いない。他にも沢山あるに違いないにも関わらず、私たちは、その親から受け継いだその牛舎で自殺した人の心情、あるいは取り残された妻子の心情、その絶望というものに、どれくらい思いを馳せているか。思いを馳せる時に、それはただ同情としてではなく、先ほどの想像力の同心円ですけれどもね、その同心円の中心まで踏み込んでいきながら、怒りと悲しみというものを自分のものとして、この方を死に追いやったもの、この方の根を根こぎにしたものに対する働きかけ、訴えかけにしていくことが何故できないのか、ということをほんとに思いますね。地震、津波と原発事故を一括りにしていたんですけれども、この両者は同じではないということがわかってきました。で、確かに放射能という、放射能線、核というさまざまな危険があるにも関わらず、使用続けていることの背景には、一つは、利潤追求があります。しかしそれの被害に遭っている人たち―根こぎにされる、場合によっては、生命すら奪われる人たちにとっては、それは明らかな暴力ですね。そういう意味で、これは原発というものは、天災、津波とか、あるいは地震というものとは違う、と。人間が人間を害しているんだ、ということが明らかだ。そのことを認識しなければならないと思います。私のゼミの学生さんの一人が、とても卓抜なことを言いました。「原子力の平和利用」という言葉がよく言われて、「平和利用」という言葉を何となく信じてきたけど、どうもそれは誤魔化しじゃないのか、ということですね。彼がそういうふうに思った理由は、アメリカ政府の公式見解が、広島、長崎への原爆投下が、戦争の終結を早めたし、結果的には被害者を少なく済ませることができたんだ、と。こういう論理にあるということですね。つまり平和実現のために原爆投下が正当化されるというなら、じゃ、原爆投下も平和利用なんだ、という論理もすら成り立つじゃないか、ということですね。つまり人間の、犠牲を受ける人間を数値化して、それが全体からみれば少数なので、これは許されるとか、必要だ、という論理ですね。だから平和利用と軍事利用の間には、境目がないんじゃないのか、という発想です。ここで私が思い出すのは、藤田省三(ふじたしょうぞう)(思想史・政治学者:1927-2003)という政治思想家ですね。その方の「松に聞け―現代文明へのレクイエム」という、短い文章があります。お亡くなりになります暫く前に、人生の最期のご自分の論文集『戦後精神の経験』を編む時に、わざわざ(全体への序章)として入れられたんですね。昭和三十八年(一九六三)に、乗鞍岳(のりくらだけ)に上って行く自動車道路が作られた。その乗鞍自動車道路開発の犠牲者として、実は人間ではないんですけど、ハイマツという植物のことを書いておられます。非常に背が低くて、高地の厳しい自然に立ち向かうためにですね、非常に成長が遅い植物ですね。それを一旦刈ってしまうと、再生することがとても難しい。それが乗鞍の自動車道路を造るために犠牲になった、ということを人を悼むように、ここで悼んで書いておられますが、そのことによって、つまり「風雪に耐えるというような隠された次元が人の認識から奪われた瞬間なんだ」ということをいっておられます。「自然に対する畏敬の念のようなものも倫理も損なわれた」と。しかしそれが一方では経済発展をもたらした。だけど大事なことは、「そのプロセスにいっせいに人々が参加したということなんだ」ということなんですね。安楽への全体主義―「安楽全体主義」というふうに藤田省三さんは呼んでおられます。つまり「より便利な暮らし、より安楽な暮らしを求めるという点については、誰も反対することのできない全体主義が形成される。それがつまり権力とか、資本による押し付けであるというよりは、人々の末端までが進んでそれに参加するような体制が作られた」ということですね。一九四五年までの軍国主義的な全体主義は、広島、長崎の被爆とその放射能被害という形で一端の終止符を打ちました。しかしそれは本当の終止符にはならなかった。そして戦後の高度成長と安楽全体主義という国家路線がですね、福島第一原発という形で、もう一度今回破綻して亀裂をさらけ出したんですね。しかしこれがその近代以降辿ってきた道、二度の放射線被害という亀裂を踏まえて、頭を深く垂れて乗り越えていくという方向に人々の意識が向いているだろうか。原子力発電所や日本のエネルギー政策というものの問題性に気付かなかったという人たちもいるでしょう。その人たちが果たすべき責任は、自分たちの手も汚れている。自分たちも共犯だ、ということによって、問題究明の矛先をゆるめるのではなくて、その人たちが果たすべき責任は、自分たちのライフスタイルを変えることまで含めて、現在まで続いてきたそのシステムを変えるという、その責任を負っているということじゃないでしょうかね。私は、被災当事者たちのモラルというものは、ほんとに驚嘆すべき高いものだと思います。これはいくら称賛しても称賛し過ぎることはない。問題はそれを日本という国家の物語に改修してしまおうとする力、改修されることに抵抗できないで、もう一度全体主義の構成部分になってしまおうという心性、そこが問題だということを言いたいわけです。
 

ナレーター:  徐京植さんが、福島を訪ねた旅の最後は、津波による漂着物が残る南相馬の海でした。福島第一原発まで二十五キロ。緊急時避難準備区域の海岸でした。
 

 
徐:  この場所で気付くことは、不思議なことで、なんかビニールとか、漂流物がここにだけ固まっているよね。何かの意思表示みたいに、まるで一つの信号かサインのようにすら思えるよね。こういう場所に来て見ると、「現実のこととは思えない」とか、「言葉にならない」とか、「言い表せない」とかという、いわばそれ自体がありきたりな常套句になってしまったような感想を抱くんだけど、いわばこの世に根こそぎにされた材木とか、焼けこげた色とか、そこに絡まる無数の石油化学製品とかという、これが私たちの現実の姿なんですよね。非現実的に見えるのがね。そのことを作品上実践した人は、非現実的な言葉、非現実的な形、非現実的な色で語ることしかできないから、現実を語っていないとして退けられるんですね。私たちの想像力や理解力が、それを拒もう拒もう、とするわけです。日本では原民喜(はらたみき)(1905-1951)ですね。そしていわゆる現実主義者たちが凱歌をあげていくわけです。
 

 
ナレーター:  原民喜は、広島で被爆した作家です。命を取り留めた彼は、想像を接する現実を伝えることを使命と定め、執筆を続けました。しかし被爆から六年後自ら命を絶ちます。朝鮮戦争で、アメリカによる三度目の原爆投下が取りざたされた翌年のことでした。作品『夏の花』には、被爆した日に目撃した状景が異様な文体で記されています。
ギラギラの破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカク ヤケダダレタ
ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ
アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ
アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ
 

 
徐:  私は、南相馬の海岸で、この詩を何回も想起し、心の中に反復していました。この詩は、詩自体として、いわば壊れているんですね。「馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ ブスブストケムル電線ノニオイ」という終わり方は壊れているわけですね。これは意図的に壊したのか、壊れてしまったのかまではよくわかりませんが、まさにこうした壊れ方こそが、原民喜が目にした現実、その現実を現す唯一の手段であったということです。つまりこれは、ある正確なルポルタージュを多分最初は志したんでしょうけど、むしろ目の前に広がる光景があまりにも非現実的であるために、正確な報告ということがだんだんできなくなる、その記録なんですね。シュルリアリズム(「超現実」を意味する仏語「シュールレアリスム」(surréalisme)と、それに対応する英語「スーパーリアリズム」(superrealism)が混ざったもの)の絵のような世界が目の前にあると。シュルリアリズムが現実だ、ということですね。シュルレアリズムは、ご存じのように、夢の中、自分の想像の中、妄想の中にある世界のことですけど、夢や想像や妄想が現実になってしまった、ということですね。ということは、逆にそれまで当たり前のものとして思っていたその現実が、嘘っぽいものになるということです。つまり現実と超現実が転倒した世界というのは、私たちがここで現実だと思っている生活、安楽な生活ですね。友人たちと食事を楽しみながらテレビの向こうに見ている世界、というものが現実ではないということを示しているわけですね。あのシュルリアリズムに見える世界こそが本当の世界なんだ。それは原発から二十五キロ離れた場所であり、その原発では、今も収拾困難な、恐らく長期に亘って収拾不可能な形での損壊が進み、放射線が撒き散らされ続けているということです。そのことを直視するということは、とても大変に困難なことですね。人間にそれができるのか、という根本的な問いが、プリーモ・レーヴィの投げかけた問いであり、原民喜の投げかけた問いです。しかし人間にはそれができないんだという、結論を下ろしてしまったとしたら、その瞬間にあらゆる希望が断ち切られます。ですからプリーモ・レーヴィにしろ、原民喜にしろ、その困難というものを身をもって表現しながら、私たちに警告している人たちなんですね。「お前が現実だと思っている現実は現実ではない」ということを、そして「どんなに辛くてもどんなに不安でも現実を超現実的な現実を見ろ」ということを言い残した人たちです。しかしその証人たちは、重んじられず、尊重されず、二人ともいずれも自ら命を絶ちました。私は、今の時点で、今までの歴史の中に、ヨーロッパにおいても、日本においても、そのように証人たちが証言を重ねたあげく、消耗しきって自殺するということが重ねられてきた以上、今回だけはそのことが免れるというふうには思うことができません。既にこの酪農家の方は、一人の証人なんですね。この酪農家の証言を、私たちが受け取るだろうか。日本の多くの人が受け取るだろうか。そのことを考えると、私は少しも楽観的な気持になれません。特に、例えばイタリアでの国民投票(イタリア国民投票(六月十四日結果)原発再開反対票九十四・〇五パーセントを占め圧勝)での結果をヒステリーだというふうな、あるいは原発に対する拒否感覚をアレルギーだというふうな、そういう表現をする人たちがいます。それは意図的にそういうことをしている人たちもいるし、もっと多くの場合は、自分自身の安心を得たいためにそう考えようとしているんですね。日本で起きた原発事故は、日本という地域に限り、日本国籍保有者に限って害を与えるわけではない。南相馬の海でも申しましたけれども、海にはそういう境界はない。そこに溢れ出たものは、地球を損ね、全人類を損ね、そして藤田さんがいうハイマツではありませんけれども、あらゆる他者を損ねるわけですよね。そういう出来事がしでかされたのだ、ということの前に、ほんとに恐怖して、身を震わせる思いで反省をしなければならない。深く精察しなければならない。そういうふうに私は思います。一番最後に、先ほどの藤田さんの「松に聞け」という文章の最後の結び言葉をご紹介したいと思うんです。
 
此の土壇場の危機の時代においては犠牲への鎮魂歌は自らの耳に快適な歌としてではなく
精魂込めた「他者の認識」として現れなければならない。その認識としてのレクイエムのみが辛うじて蘇生への鍵を包蔵している、というべきであろう。
 
藤田省三さんは、高度成長の出発期―一九六三年にこういうふうに考えられました。私は今その終末期に、一つの終焉の時にこの言葉を是非想起したいと思います。
 
     これは、平成二十三年八月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである