いのちの探求 大乗仏典に学ぶ@空に徹する
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
一九二七年、神奈川県鎌倉市生まれ。帝国陸軍軍人より復員後、円覚寺で参禅し、駒澤大学仏教学部に進む。その後、東京大学大学院に進み、華厳学を専攻した。その後、東京大学教授となり、NHKの「こころの時代」で講師を務める傍ら、古巣の駒澤大学や、筑波大学、九州大学、大阪大学、富山大学、大正大学などで非常勤講師として指導に携わり、東京大学を定年退官後、名誉教授となり、愛知学院大学へ転任し、国際仏教学大学院大学の設立に理事として関わり、開校後は教授として指導に当たった。著書に『中国華厳思想史の研究』『禅とはなにか』『中国仏教史』『禅と合気道』『仏教伝来』『観音のきた道』ほか。二○○一年没。
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  この番組では、今日から来年の三月まで十二回にわたりまして、「いのちの探求」というふうに題して、大乗仏典の教えを十二回にわたって取り上げていくことに致しました。十二回このシリーズのお話をして頂きますのは、東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。鎌田さんは、中国、あるいは朝鮮の仏教の流れを研究されていらっしゃいまして、大乗仏教、大乗仏典、大乗の教えをたくさんご本にも表して、大乗とは一体何なのか、教えとは何なのか、ということを明らかにしていらっしゃる、その研究をして方です。どうぞよろしくお願い致します。
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  さて、これから十二回なんですが、今いきなり「大乗仏教」とか「大乗仏典」というふうにお話を始めたんですけれども、同じ仏教でも二千五百年の歴史の中でさまざまな流れがあるわけですね。大乗仏教というのは、その中でどういうふうな位置を占めている教えなんですか。
 
鎌田:  仏教の中で大きく地域的に分けまして、二つに分かれるわけですね。一つは、南の方のスリランカとかタイとかヤンマーとか、ああいうところに伝わっている仏教なんですが、それを地域的には「南方仏教」と呼んでいるわけですね。もう一つは、仏教の中でも西北インドから西域を通りまして中国へ入って、中国で教理の組織やなんかがしっかりできまして、それが朝鮮半島に入り、それから日本にも来たわけですね。そういうのを地域的に見て、インドより北に行っていますね。だから「北方仏教」とこう呼んで、その北方仏教が即ち大乗仏教であるわけですね。ですから大乗仏教は東アジアの世界に広まった仏教で、日本仏教も当然大乗仏教の流れの中で形成されてきたわけです。
 
草柳:  その仏教が、大乗仏教が二十一世紀を目前にした今ですね、もう一度といいますか見直されようとしている。例えば外国なども、アメリカ、勿論ヨーロッパもそうですけれども、非常に注目されているということなんですけれども、その背景というのは一体どんなふうに考えられるのでしょうか。
 
鎌田:  やはり時代の大きな転換期ですね。間もなく二十一世紀になりますし、今まで日本では経済を中心に発展してきましたが、しかし物質というものが中心になってしまいまして、心というものが忘れられてきたりしておりますね。そのために最近は経済的にもいろんな問題が起こってきましたし、私たちもただ豊かになればいいんだというだけではどうにも満たされない。ただ物質欲を満たしていったんでは、それはどうにもならないじゃないか、と。だから貪る哲学から少し考え直して、ある意味ではこれで十分なんだ、と。「知足(ちそく)」という言葉が仏典にもありますが、「足るを知る」という、そういう考えに転換しないといけないんじゃないかな、という感じがしますね。それからもう一つは、いろんな世の中が、こちらのことが起こればすぐこっちにも影響しますね。みんな繋がっているわけです。一つだけで、孤立にそのものが成立して発展していくということはあり得ないんですね。みんな繋がりの中、一言で言えば、「関係性」と言いますが、あるいは「共生(きょうせい)」と言ってもいいですね、そういう考え方の中で、二十一世紀は生きていかなければダメなわけですね。そういう時に大乗仏教では、そういう繋がりの考え方、それを専門の言葉では、「縁起」というような言葉で呼んでいますが、世の中は持ちつ持たれつでできているんだ、と。そういう考え方を基盤にもって、そして世の中生きていかないと、政治も経済もいろんな問題が起こってくるんじゃないか、と。だから今の転換期のこの時代こそ、大乗仏教の考え方を見つめ直す必要があるじゃないか、こういうことでございますね。
 
草柳:  つまり、私は私なんですけれども、それは私だけの命ではないといった、つまり私の命があるのは、他のたくさんの命があるから、それと繋がって始めてあるのだ、と。つまり先生の言葉を借りれば、「因縁」とか「共生」とかということ、そのことに今こそ気付かなければいけない、という。
 
鎌田:  そうでございますね。それはもう時間的に考えても、空間的に考えても、みんな繋がりますね。人間、私一人考えても、時間的に考えれば、先祖がいるんだし、そして遺伝子を受けて、そして私というのが、今この世で生存をしているわけでありますし、空間的には、いくら能力があっても、力があっても、自分でやるんだ、と言っても、なかなか自分一人ではやれないわけですね。必ず人様のいろんなご縁を頂いて、そして人様のお陰を受けて、周りの方、家族の方、あらゆる人たちの関係の中で生かされているわけですね。だから自分自身を考えても、そういう考え方に転換しないといけない、ということだろうと思うんですね。
 
草柳:  これからそういう考え方が、大本になっている大乗仏教のお話を伺っていくわけですけれども、同じ大乗仏教と言っても、さまざまな考え方があろうかと思うんですが、今日のテーマは、「空に徹する」ということですね。
 
鎌田:  今日は第一回でありますので、仏教の一番基本的な考え方、それは「空(そら)」という字を書くんですが、「くう」と読みまして、その内容は「縁起である」と言ってもいいし、とにかく「とらわれない」ということである、と言ってもいいし、そういうような大乗仏教の全体を通ずる一番基本的な考え方、それが空の教えである、と。「空」と言っても、聞いているみなさん方はあんまり馴染みのない言葉と思いますが、それが大乗仏教の一つの、浄土宗であろうと、真宗であろうと、何宗であろうと、一番根底にあるのは、「空」という考え方がある。それで今日は「空」という考え方を、理論的にはどうなんだ、と。それからまたそれを実践的にはどう捉えていったらいいのか、ということですね、「空」を説いたお経やなんかを引用しながらお話を申し上げたいと思います。
 
草柳:  「空」というのは、いわば大乗仏教の、大乗仏典のキーワードというふうに言っていいわけですか。
 
鎌田:  そうですね。それでいいと思います。基本的な考え方。
 
草柳:  じゃ、それが一体どういうものなのか、ということを、追い追い先生にお話を頂くわけですが、まず「空」という言葉、それを一つ説明している一つの仏典をまずご紹介をしてよろしいですか。
 
一切法と一切法相(ほっそう)とは空にして、法の得可(うべ)き無く、能(よ)く得る者も無ければなり。何を以(もっ)ての故に、一切法は空なるが故に。
(「大品般若経太如品」)
 
これはなかなかちょっと読んだだけでは、意味がよくわからないんですが。
 
鎌田:  『大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)』という般若経の中の言葉を取ったわけでありますが、『大品般若経』というのは、鳩摩羅什(くまらじゅう)という方が―五百年の一番初めの方でありますが―五世紀の初めに、訳しておりますお経でありますが、鳩摩羅什という方は、現在でいうと西域の中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区とありますが、そこのクチャの出身なんです。クチャの出身でありますが、お母さんが大変な仏教信者で、それで鳩摩羅什が小さい時にお連れして、そしてインドで勉強して、そしてまたクチャへ帰って来るんですが、中国の方の長安(ちょうあん)にいる王様が、ああいう天才的な偉い人はどうしても中国へ呼びたいというので、何年かかかってやっとお連れして、そして長安でお経を訳したわけです。鳩摩羅什が一番力を注いで訳したのが、「空」に関するお経をいろいろ訳して、その中の一つが、今の『大品般若心経』という大きなお経でありますが、そのお経なんです。その言葉で、「一切法と一切法相とは空にして」と、「一切法」というのは、「法」というのはここでは「ものということ」。だから「あらゆるもの」ですね。「法相」というのは、「ものの形、ものの姿」と言ってもいいんですが、そういうものも全部「空(くう)だ」と。ですから、そのものを自分が得たいと思っても、決して得ることはできないんだ、と。またそれを得た人もないんだ、ということですね。その理由付けと致しまして、「一切のものは空だ」と。もう一度言っているんですね。だから「一切のもの」といいますと、「人間も物も森羅万象、そういう一切の現象としてあるもの、それは空なんだ」と。これが仏教の基本的な考え方ですね。「ありとあらゆるもの、それは本質的には空なんだ」と。こういうことは世界の思想史を見ても、ないわけですよね。そういうことをはっきりいったのは。ただ単純に捉えましてね、すべてのものは何もないんだ、という意味ではないんですね。それも本質的には何もないんだ、ということをわかるようにするわけですけどね。そういうただ何もない、と。虚無だ、というニヒリズムのような考え方で、何もないんだ、というわけではないんですね。それをただ本質的に、あらゆる現象しているものは、本質的に「空」なんだ、とこう言っているわけなんですね。
 
草柳:  ただ常識的に考えますと、「空」というと、何もない、というふうに捉えがちですし、まず今ここに、例えば私はあるんじゃないか。決して無ではない。ある。なのに、だけれども一切は空だ、という、その繋がりがやっぱりなかなか胸に落ちませんね。
 
鎌田:  そうですね。しかし私が今ある、と言っても、それはまず肉体を考えましても、あらゆる細胞から構成されて、この肉体を作っているわけでしょう。精神と肉体と言っても、何が心で、何が体かはっきりわかりません。しかし自分というものを作っている。自分が今現にこうしてあるのは、人様のお陰によってこうして生きていけるわけですね。そう考えますと、この仮のお姿だ、と大乗仏教では考えるわけです。本当にあるように見えるんだけれども、それは因縁によって、仮に生じて、現在あるんだ、と。そういう考え方ですね。だからそれを「因」というのは、原因でありますし、「縁」というのは、条件ですね。そういう原因と条件、それによってここにあるんだ、と。だから仏教では、現象しているものがこうなっている、ということを説くので、その現にあるものがどっからできたとか、神様がお造りになったんだとか、そういうことは説明しないんですね。現にあるものは、ほんとにあるように見えるけれども、それは因と縁が集まって仮にあるんだ、と。例えば日本の慈円(じえん)僧正(鎌倉時代の天台宗僧侶:1155-1225)でございますかね、
 
ひきよせて むすべば柴の庵にて とくればもとの 野はらなりけり
 
という歌がありますね。そうすると、この集めてきて結ぶと芝の庵が出来ますね。ところがそれを全部分解してしまうと、もとの野原になってしまうじゃないか。だから大乗仏教では、すべてのものはそういう因と縁によって仮に集まって存在しているんだ、と。だからそれをバラバラにしてしまえば、実体はないんだ、と。だから空というのを別の言葉で考えれば、ものには実体なし、ということにもなるわけですね。
 
草柳:  だけど、みんなそれぞれは結び合わされている、というふうに捉える。
 
鎌田:  そうですね。そして存在しているものだ、ということですね。ところが私たち凡人の目から見れば、それは実際に存在しているんだ、と思うんですね。ところが大乗仏教の見方からすれば、それは仮の存在なのだ、というふうに考えるんですね。ものの考え方を、大乗仏教というのは、我々の常識的な考え方を逆転された逆転の思想なんですね。あるものはあるんじゃないか、と。どこまでもそれは有だ、と。有(ある)という字を書きまして、思いますが、いや、それは仮の姿として、縁起によって成り立ってそこにあるんだ、と、こういう考えが大乗仏教の教えですね。
 
草柳:  では続けて見てみます。
 
(もろもろ)の因縁生の法は、我即ち是(これ)を空なりと説く。何を以ての故に、衆縁(しゅえん)具足(ぐそく)和合(わごう)して物生ず。是の物は衆因縁(しゅいんねん)に属すが故に自生(じしょう)無く、自生無きが故に空なり。
(「中論観四諦品第二十四」)
 
鎌田:  この言葉は「中論(ちゅうろん)」という本から抜き出した言葉でありますが、「中論」というのも、先ほど申し上げたように、鳩摩羅什が訳したものですね。ですから五世紀の初め、四一○年前前後ですが、訳しているんです。そして「衆(もろもろ)の因縁生の法は」というのは、いろんな因縁によって生じて出来ているものは、自分はこれを「空」と説く、と。お釈迦さんの目から見れば、これは空なんだ、ということを説いているわけですね。「我即ち是(これ)を空なり」我というのは、お釈迦さんですね。お釈迦さんの目から見れば、因縁から成り立っているものは空なんだ、と。あるいは竜樹(りゅうじゅ)(150-250頃)が、我と考えてもいいです。そうすると、龍樹菩薩は、因縁から成り立っているものは空である、と、こう言っているわけですね。その理由として、「衆縁(しゅえん)具足(ぐそく)和合(わごう)して物生ず」と。「衆縁」というのは、いろんなものですね。いろんな因が集まりまして、「具足」というのは、それが集まってきて、そして和合して一つになって、そして物というものが出来ているんだ、と。そういうことです。この目の前にある花でも、さまざまな因縁によって、この花が出来ているんだ、ということですね。だから次を読んでみますと、「是の物は衆因縁(しゅいんねん)に属すが故に自生(じしょう)無く」―「自生」というのは実体です。実体というものがない。実体がないからそれを空というのだ、と。ですから花であってもいずれは散ってしまいますね。因と縁によって、現在はこうやって綺麗に咲いておりますが、何れはそれが無くなれば、条件が無くなれば消えていくわけです。ですからこの「中論」で、龍樹菩薩がお説きになったのは、これはこの「無自生(むじしょう)」ということを言っているわけなんですね、「自生無く」というのは。
 
草柳:  つまり物には実体がないんだ、ということ、
 
鎌田:  そうです。それは現在の自然科学が到達しているところと非常によく似ているんですね。我々の肉体でもそうですね。自分とはどういうものだ、と思って、肉体を分析していけば、分子になってしまいますしね、遺伝子になってしまいますし、どこまでもそういう小さなものから成り立っているわけですね。そしてそれが偶然集まりまして、こうして一個の私という肉体を作っているわけですね。ですから無自生、それが空だ、と大乗仏教はいうわけですね。物には実体がない。それを仮に空と呼んでいるんだ、と、こういうことになりますですね。
 
草柳:  ただ普通の常識と言いますか、例えばこの花はいつまでも綺麗であってほしいと思いますし、私の命はいつまでも消え去ることなく灯し続けたい、というふうに思いますよ、思いたいですよね。だけどそうではない。
 
鎌田:  ですから空というのを、今度は時間的に考えますと、これは無常ということにもなっていくわけですね。無常という常(じょう)というのは永遠でしょう。永遠なるものはない。あるいは変化と言ってもいいですね。すべてのものは変化しているんだ、という考え方ですね。だから時間的にも言えば、無常なんですね。空間的には空なんですね。無自生なんです。だからどういうふうに捉えてもいいんですが、その捉え方の見方というものは一貫しているわけですね。
 
草柳:  「無常」というのも、そう言いますと、キーワードの一つと言いますか。
 
鎌田:  そうなんです。
 
草柳:  ただ無常と言いますと、我々の場合は歴史的にはなんとなく詠嘆的な感じになりますが、実際はそうではなくて、
 
鎌田:  詠嘆的ではなんですね。むしろ知性的に捉えて、すべてのものは変化していく。永遠なるものはないんだ、ということですね。それが悲しいとかと感じるのは、日本的な、日本人の感覚で、『平家物語』なんかに出てくるような言葉が生まれてくるわけが、しかし本来は変化していく、というのを澄んだ目でみればいいわけでありましてね、これは人間の一生を考えてみましても変化していく。それからこの世の中に存在する国家であっても会社であっても、永遠なるものというのはないわけですよ。みんな変遷して、そしていずれは消滅していく、というふうに考えるわけですね。
 
草柳:  周りで起こっていることを見れば、確かにその通りだ、というふうに頭の中ではわかりますし、体験的にも経験的にもわかることだと思うんですが、ただいざ自分のこととなりますと、なかなか今おっしゃった「無自生」と言いますか、実体がないんだ、ということを受け入れがたい。これもその人の気持の常ではないかというふうに思うんですが。
 
鎌田:  例えば自生がないということは、人間の心に起こるさまざまな現象でも同じなんです。例えば「怒る」ということを考えてみましょう。そうすると「怒り」というのは実体があるのか、というとないんですね。たまたまなんかのこう条件があって、今日なるべく怒らないようにやろうとなんて思っていても、なんかの拍子に怒り出すでしょう。そうすれば怒りという実体があるのか、というと、それは条件があって怒っているんで、その条件がなくなってしまえば、怒りというものも収まってしまう。だから怒りというものがあって、ずっと続いていくんだ、ということはあり得ないわけですね。それは因縁によってたまたま怒りが心に起こったというだけなんですね。だから一切のものと、先ほど出てまいりましたけど、それは森羅万象や人間は当然いうんですが、人間の心理現象、心の動き、そういうものも全部含めているわけですね。そしてそれは空なんだ、と。怒りも空、そうすると、ほんとの怒ることも、貪ることも、みんな空なんだ、と大乗仏教ではいうわけですね。なかなか常識では受け入れられませんけれども、しかしよく考えてみると、それが本当の姿じゃないんでしょうかね。
 
草柳:  ただ毎日の生き方というのか、自分のことを考えても、いろんなことに拘りますよね。その拘りからなかなか抜け出すことができない、というのが、多くの生き方というような気がするんですけれども、でもそこから離れようとしないと、なかなか空ということも頭の中ではわかっても、なかなか胸にストンと落ちてこないところというのは多分きっとあるだろうと思いますね。
 
鎌田:  そうだと思いますね。なかなか空だと理論的にもわかっても、やっぱり生活の中では、それが本当に頷けるということは難しいと思いますね。私たちは拘るとか執着するということがありますでしょう。でも拘ったり、執着したり、迷いの気持があるということは、逆に言えば生きていることなんですね。ですから執着することも生きていること、生きていなければ執着しないんですから、それはいいんですが、しかし執着というものの本質は、実はこうなんですよ、と大乗仏教では説くわけですね。次のものを見てみましょう。
 
草柳:  (じゃく)はこれ根を累(わずら)わせるものにして、衆苦(しゅうく)の本(もと)なり。執着するを以ての故に決定(けつじょう)分別を起す。定分別(じょうふんべつ)の故に則(すなわ)ち煩悩を生じ、煩悩の因縁、すなわち業(ごう)を起す。業の因縁の故に則ち生死病死の苦を受く。
(吉蔵「勝鬘宝窟」)
 
鎌田:  これは中国の三論宗の方ですが、法朗(ほうろう)(507-581)という方がおりまして、その人の言葉がここに引用されているわけなんですね。大変にいい言葉でありまして、最初の「著」は執着ですね。で、執着とうのは、根を累(わずら)わせるもの、と。根というのは「六根(ろっこん)」とよくいうでしょう。「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」の「六根」ですね。その「根」というのは、感覚器官ですね。仏教では、それは「眼耳鼻舌身意(げんにびせっしんい)」というんですが、目玉であったり、耳であたっり、そういうものを煩わせるものだ、と。執着すると、いろんな感覚器官が迷ってきます、執着すると。例えば美しいものを見て、ああ、あの花を欲しいなと思うと、迷いが起こりますね。取ったりしますし、あるいは美味しい匂いがしてくると食べたいな、と思うでしょう。ですから執着というものが六根を乱してくる。ほんとは六根はただの感覚器官ですが、何かに執着すると、それを乱してしまう。そして執着があるとどうなるかというと、「衆苦(しゅうく)の本(もと)なり」これは字の通りでありまして、いろんな苦しみがそこから生まれますよ、ということですね。そして「執着するを以ての故に決定分別を起す」決定分別というのは、好きだ嫌いだ。善いんだ悪いんだ。だから執着すると、善いんだ、悪いんだ、それからだんだん自分のものにしたい、と思いますでしょう。ですから執着ということが、善いんだ悪いんだ。是か非か。好きか嫌いか。苦しいから嫌だとか、いろんな気持を起こす。それが決定分別を起こす、と。そしてその分別が決まってきますと、煩悩が起こってくる。迷いですね。迷いが起こってくる。そして迷いが起こってきまして、さまざまな煩悩が、それが因となり縁となり、人間は業を起こしていくわけですね。業というのは、行為のことですが、いろんなことをやるようにやる。そのやった行いが、また自分の中へ溜められまして、また次の悪い行為を起こしていく、ということですね。そうなると、業を起こしていくと、何が起こってくるか、というと、生老病死の苦を受ける、と、こういうことになる。仏教では、「四苦八苦(しくはっく)」と言って、いろんな苦しみを説きますが、その基本になるのが、生老病死なんですね。まず生まれることがどうして苦であるのか、と。これは赤ちゃんが生まれる時、お母さんのお胎(はら)から出て来るのが苦であると考えてもいいですが、実はずっと遺伝子を相続しまして、お母さんの胎内で安らかに生きていたわけでしょう。それがこの世の中へ出てきますと、さまざまな苦しみをもって生きなければいけない。お母さんの胎内にいる時には、ちょうど海水の中に包まれているようでありますし、あまり悩みもそれほどないんだろうと思う。ところがこの世の中に出てくると、小さな赤ちゃんであろうとも、お乳が欲しいとか、いろんな苦しみが生まれてきますね。成長していけば、ますますいろんな苦しみを人間は持つようになります。その中の代表的な苦しみを、「老病死」と言っているわけですね。それで老いていくことが苦である、というのは、現在もこれほどみなさん長寿社会でしょう。そうしますと、定年後が長いですね。それは案外精神的にはさまざまな苦しみを味わってきます。定年になって歳をとる。家族と別れる。それから連れ合いが死んでしまう。そうすると人間は孤独感というものが余計切実になりますね。仕事を離れましたね。そうするとやっぱり第一線から引くわけですから寂しいわけですね。そうすると、もう肉体的にも、家族の関係から言っても、社会的ないろんなことから言っても、まったく孤独になるんですね。ですから精神的には、老いというものもまた苦である、と、お釈迦さんはおっしゃいました。ほんとなんですね。それから病は苦である。これはご説明まったくありませんね。人間は病気になった人は、病気にならない健康な人は病気の人の気持がわからない、とよく言われますが、病気は誰でも一度や二度は経験することでありますし、老いとともにそれは深まっていきますね。それが苦である。そして死が苦であるということも、またこれは実際に死ぬ時は、肉体的にも苦しみますし、そして特にまだ自分が歳が若い場合には、その後家族はどうして暮らしていくのか、と、いろんなことを思いますね。ですから死は当然苦になる。ですからそういう執着ということが、最後に生老病死の苦。生老病死の苦というのは、一言でいうと人生の苦ということです。だから執着が人生の苦の原因である、と。この言葉は言っているわけですね。まさにそうだと思う。ところが執着と拘りというのは、なかなか離れられませんでしょう。それを何とかしていかなくちゃならないというのが、また大乗仏教の教えであるわけですね。
 
草柳:  仏教にはこの四苦に、さらに加えて八苦、「四苦八苦」という言葉がありますね。
 
鎌田:  そうですね。
 
草柳:  人生、つまり生きるということは、苦しみだというふうな教えが、その通りきちんと受け止めればいいんでしょうけれども、そういう言葉があるから多分きっとそうなんでしょうけれど、仏教というのは、何か厭世的な教えではないか、と。
 
鎌田:  話だけ伺っていますと、「人生は苦である」というと、厭世思想と間違いられますね。そうじゃないんです。「人生は苦であるというのは、人生は変化していく」ということなんですね。だからそれを変化と捉えていけばいいと思うんですね。正しい認識なんですね。それを別に厭世思想になるというんじゃなくて、「人生は変化していくんだ。留まるものはないんだ」というふうに考えれば、かえって自分の人生の中で、この一瞬に一生懸命やろう、という気持が起こりますね。そして歳を取れば、あと、例えば七十歳ならば、八十歳まで十年間、十年間というのは、これは三百六十日を十倍した三千六百日ですね。あと三千六百日と考えますと、これ大変です。いや、人生百年と考えても三万六千日でしょう。三万六千日しかないんですよ、与えられている時間はですね。ですから、かえって一生懸命にやらなくちゃいけない、という気持が生まれる。だから決して厭世思想というふうに考えると、仏教の生老病死の苦というのは間違いなんですね。そう捉えてはいけないんだろう、と思います。
 
草柳:  むしろ当然よりよく生きるには、どうすればいいのか、ということの教えであることは間違いないわけですからね。
 
鎌田:  そう考えた方が正しい仏教の理解と思いますね。
 
草柳:  で、今お話をずっと伺ってきて、「空」との繋がりが少し見えてきたような気がするんですが、空ということを、つまりその一人ひとりの人間の実践の場に移せば、それがつまり無自生、つまり執着から離れなければいけない。執着から離れた生き方をしなければいかん、というところに繋がっていくんですか。
 
鎌田:  そうですね。そしてそれを専門の言葉では、「無所得」という言葉で表現するんですね。得るところ無しと書くんですが、とにかく我が物と思っていてはいけませんよ。ところがみんなどんな物でも自分の物は自分の物と思いますよね。ところが我が物と思ってもその物は永続するものではないんだ、と。だから空という一つ理論的な考え方は当然ですね、実践的にはどうしたらいいのか、ということに繋がっていくわけです。
 
草柳:  その空をキーワードにした大乗仏典の中で、これはもう誰でもみなさんご存じの有名な『般若心経』というお経がありますよね。あれはやっぱり根本的な空の教えを端的に表している、というふうにみていいんですか。
 
鎌田:  そうですね。『般若心経』というのは、現在私たちが用いているのは、玄奘三蔵が訳したものを利用しているんですね。玄奘三蔵は、何故『般若心経』を訳したか、と言いますと、自分が昔訳した『般若心経』を称えておりまして、そして砂漠を渡る時に、非常に蜃気楼なんかに遭いまして苦労しているんですね。そういう危難に遭った時に、『般若心経』を称えると、それで救われたんです。本当の湖に案内されたことがあるんですね。ですから玄奘三蔵は、信仰として『般若心経』を信じていたわけです。ですからいろんな人が、この他にも訳していますが、玄奘三蔵も自分も訳した、と。『般若心経』というのは、禅宗の方は、空を教えた短いお経である、と、こう言いますけれども、日本の弘法大師は、『般若心経』は密教のお経だ、と。呪文によって救われるんだ、というふうに考えている。何故そう考えるかというと、最後の方が、「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)」と私たちお経を称える時に言いますね。それはやっぱり呪文だ、と。呪文のお経だ、と。蜜事だ、とこう考えるわけです。それも正しいと思います。ですから『般若心経』は、空を説いた教えだ、と考えることと、あれは信仰のお経と。まず空を説いたお経だと考えますと、ちょっと字幕を見てみましょうか。
 
草柳:  舎利子(しゃりし)よ、色(しき)は空(くう)に異(こと)ならず、空は色に異ならず。色は即ち是(こ)れ空、空は即ち是れ色なり。受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)も亦復(またまた)(かく)の如し。
(「般若心経」)
 
有名な言葉ですね。
 
鎌田:  そうですね。あまりにも有名な言葉で、特に後半の言葉が「色即是空 空即是色」と。これが一番有名で、これはどなたでも知っている言葉でありますし、『般若心経』の空を説いた中心思想というと、これだと思うんです。色というのは形あるものですね。形あるもの、一切のものは空である。そして一切のものが空である、というだけではいけなくて、空という場、これは場という言葉もありませんけれども、空という絶対の場所という、そういうふうに考えれば、そういうところにあるんだけれども、現実としては形あるものとして存在しているんだ、ということですね。で、色は空と、これは絶対否定ですね。形あるものは、無自生、空なんだ、と。これは今までみてまいりました般若経なんかでも言っているわけですね。ところがその空というものも、それはそのまままた現実にあるものなんだ、と。これが専門の言葉で申しますと、「真空妙有(しんくうみょうう)」と言いまして、例えば、ここに花がありますね。花というものは、先ほどからお話しているように、本質的には実体がない。だから空なんだ。空であっても、今現にこの前に花がありますね。現に存在しているから、空であってもそれは有なんだ、と。そのままここに現象として存在しているんだ、という考え方ですね。ですから絶対否定だけではダメで、それをまた絶対的に肯定する面がないといけない、と。そうしないと、ニヒリズムになります。全部虚しい、と考えますね。そうじゃなくて、現にあるものはそのまま認めていかなくちゃならない、という考え方もあるんですね。それが『般若心経』で説いている「色即是空 空即是色」なんですね。だから色だけでとらわれて、これが本当にあるんだ、と思うのは、これはいけないんですね。今度は空だけにとらわれて、すべて全部が何にもないんだ、空っぽだ、と考えるのもいけない、と、こういうことですね。
 
草柳:  つまり「色即是空」と「空即是色」というのは、つまり一対のものとして捉えないと間違ってしまいますよ、と。
 
鎌田:  一つのことを言っているんです。一つのことを表から見ると「色即是空」、裏から見ると「空即是色」、同じことを言っているんですね。だから別にこんなことを言わなくてもかまわないんですが、一応こういうふうに、二通りの見方があるんだ、と。それは同じですよ、ということを言っているわけですね。
 
草柳:  「色即是空」だけだったら、行ったきりになっちゃうわけですね。
 
鎌田:  そうなんです。空っぽになっちゃう。そうすると頼るものがない。人生も無意味になる。現実に存在しているものを見ても全部虚しくなってしまうわけですね。
 
鎌田:  だから、同時に「空、空、空」は、そのまま「色だ」と。
 
草柳:  そのままということが難しいですけどね。しかし「即」というところで、そのままというところで、大きな意味をもっているわけですね。
 
鎌田:  そこが言ってみれば、信のツボみたいなものみたいなものですか。
 
草柳:  そうなんですね。なかなか私たちにはわかりませんけども、悟りを開いた方なんかは、「空即是色」と言えば一発でわかるし、「空即色、色即空」でもわかるし、言わなくたってわかるんですね。
 
鎌田:  先ほど、「般若」という言葉が出てきましたが、「般若波羅蜜多」というのは、その「般若」というのは何のことですか。
 
草柳:  これはインドの言葉で、それを当て嵌めたんです。サンスクリット語の「プラジュニャー」、そういうような言葉を「般若」という字で当て嵌めたんで、あの字自体にはほんとは意味がない。ところが、「般若の面」とか、日本でも盛んに「般若」という言葉を使いますし、ですからみなさん見慣れた言葉でありますが、本当の意味は、智慧ですね。本当の智慧。知識というのではありません。深い人生の智慧というような意味で使っているんですね。「波羅蜜多」というのは、「パーラミター」という言葉を音で当て嵌めたんですが、あちらの岸に行く、と。「到彼岸」と。あちらの岸に行く。あちらの岸というのは、悟りの世界ですね。「彼岸」と言ってもいいです。ですから「お彼岸」というのがございますでしょう。「お彼岸」という春や秋にある行事、あれはまさにパーラミターなんですね。あちらの岸にゆくという本来の意味。あちらの岸というのは、迷いの世界から悟りの世界があちらの岸なんですね。だからあちらの岸へ行くというのは、「波羅蜜多」。ですから「般若波羅蜜多」というのは、正しい智慧によって、この迷いの世界からあちらの悟りの世界に渡りましょう、という意味なんですね。別にあんまり難しくないんですが、ただ音で訳したものを、そのまま言っていますので、何のことかわからないんですけども、そういう意味です。
 
草柳:  先ほどの「真空妙有」というのは、別な言い方をすると、「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」というふうな言い方もあるそうですね。
 
鎌田:  そうなんです。結局「空」というのを、中国の禅僧がそういうような言葉で表現しているんですね。蘇東坡(そとうば)の言葉だと言われているんですが、中国の禅のお坊さん方は、それを好んで使うんですね。「無一物中無尽蔵」であるけれども、その中にありとあらゆるものがあるんだ、と。何にもない、というんじゃなくて、何にもない中に花あり楼台あり、ということなんですね。
 
草柳:  今の『般若心経』に書かれた教えを、きちんと受け止めないと大変なんだよ、ということを諭した経典、諭したと言いますか、それは仏典の中にもあるそうですから、それをご紹介致しましょう。
 
多くの人が後には人の常の道を失い、父母も空なること、兄弟(けいてい)も空なること、上人と云うも空なること、下人と云うも空なること、うやまいもなく、憐(あわれみ)もなきようになる、それはえて勝手の空なり。
(盤珪「心経抄」)
 
これは盤珪(ばんけい)の言葉ですね。
 
鎌田:  江戸時代の盤珪禅師という方で、『仮名法語』をたくさん書いておられる。易しい日本語で仏教の教えを説いているんですね。禅宗系の方ですから、禅宗の立場で説いているわけでありますが、これを読んでみますと、空だということを錯覚して何にもないんだ。それはニヒリズムなんだ、というふうに考えてしまいますと、人間の大切な人倫の道であっても、あるいは父母を敬うこともしなくなりますし、兄弟も空だと、何もしなくてもいいんだ、と。親も親孝行なんていうのは、もっての他だ、と。何にもないんだ、と。だから大乗仏教の教えを誤って理解すると、こういうことになっちゃう。それを盤珪禅師が誡められているわけですね。それで得て勝手の空という言葉を生んでいるわけです。自分勝手の空。自分に都合のいいように、大乗仏教の空を理解しますと、まず人倫が否定されます。何をやってもいいんだ、と。極端にいえば親を殺してもいいんだ、というようなことまでなってしまうわけですね。ところが盤珪禅師は、人倫というものはきちんとあるんだ、と。そういうものを否定するのが、仏教の空ではないんですよ、ということをここで言っているわけですね。だから勝手に空を解釈するのはいけない、と。確かにそうだと思いますね。「空、空」というと、何もないんだ、と考え方になりますと、現在の政治体制でも、社会秩序でも、全部破れていいんだ、と。そして破った、何もなくしたところに本当のものがあるという考え方も一時ありましたね。しかしそういう考え方ではやっぱりいけないんだ、ということを盤珪禅師は説いておられるわけですね。
 
草柳:  釈尊がこうした教えを説いたり、盤珪禅師が今のようなことを言って、気を付けなければ、というふうなことというのは、つまり人間というのは、放っておけばそちらに傾いていってしまう危険をどれほどもっている生き物かわからない、ということがあるからなんですね。
 
鎌田:  そうですね。教育によりまして、ある特定のイデオロギーだけを注入していきますと極端になりますね。右にも左にも、あるいはそういうように極端な考え方というのは大体お釈迦様もそれはいけない、ということを言っているんですね。しかし人間というのは、走りやすいです、どっちかにね。極端の方に。それはいけないんだと誡めているわけですね。
 
草柳:  冒頭のお話とちょっと関連しますけれども、今やっぱりある意味では、二十世紀もほんとにどん詰まりのところにきていて、人間がややもすると、そうしたニヒリズムの世界に陥りがちな状況が周りにいっぱいある。だからこそ今大乗のこうした教えが大切なんだ、というところにどうやら繋がっていくような気が致しますね。
 
鎌田:  そうです。最初に申し上げたように、やはりこれからの二十一世紀は、繋がりを考えていかなくちゃいけないんじゃないか、ということですね。その関連性とかということ、それを「縁起」という言葉で説いているのが、大乗仏教でありまして、そういう縁起というような、この現象の世界の根底は空なんだ、という理論的な根拠を与えているのも大乗仏教なんですね。ですからこれからはそういう考え方は非常に重要になっていくんじゃないか、と思いますね。
 
草柳:  では、また次の仏典をご紹介致します。
 
一切空なるが故に、一微塵(いちみじん)としてさえることがなく、空として色にあらぬことは一つもなきなり。天は天なり、地は地なり、父母兄弟、上も下もありのままなり、故に其れをつまびらかにしらせんとて、色即是空、空即是色と示し玉(たま)うなり。
(「心経抄」)
 
鎌田:  これは盤珪禅師の『般若心経』の解釈の言葉ですね。これなかなかいい言葉ですね。「一微塵(いちみじん)としてさえることがなく」というのは、非常にどんな小さなものであっても、それはそれなりに個性をもって生きているわけですね。ですから一微塵(いちみじん)としても、それは除外したり、差別したりすることはできないんだ、ということを言っているわけですね。しかも一微塵だけじゃありません。天は天だ、と。地は地だ、と。父母兄弟、上下、そういうものはそのままにあるんだ、と。それが色即是空、空即是色なんだ、と、こういうことではっきり決めているわけですね。今までお話申し上げましたことを整理して、大乗仏教も、天は天、地は地、父母兄弟、そういうものをきちんと認めているんだ、ということでいいと思います。
 
草柳:  盤珪という人の教えになるものというのは、分かり易いですね。
 
鎌田:  昔鈴木大拙博士が、盤珪禅師に大変傾倒しておられまして、日本人の書いた一種の仏教なんですね。日本語で書いた仏教なんですね。ですからそのまま原文で読んでも、どなたでもわりに理解し易いんじゃないか、という感じは致します。
 
草柳:  それにしても、今『般若心経』というのは、随分いろんな人に大きな影響を与えたんでしょうね。
 
鎌田:  そうですね。『般若心経』というのは、空を説いたお経だというよりも、唱えることが大切なんですね。「読誦経典(どくじゅきょうてん)」と言いまして、あれを唱えるわけです。ですから現在でも中国の仏教でも、それから韓国ではハングルで唱えているわけですね。日本でも『般若心経』というのはいろんな宗派が唱えているわけですね。宗派どころでもありません。四国を回るお遍路さんでも、『般若心経』を「観自在菩薩」と唱えて、あの『般若心経』を唱えることによって自分のさまざまな苦しみ、拘り、そういうものが消えていくんだ、と思いますね。巡礼をしながら『般若心経』を唱えて歩く。それによって今まで経てきた苦しみ、現在経ている苦しみ、そういうものがなんとなく『般若心経』を唱えている時は、それで消えていくんだ、と思うんです。『般若心経』というのは、空を説いた教えでありますけれども、実践的には密事・呪文なんですね。それによって私たちがいろんな功徳を得ることができる。だから読誦経典として大きな意味があると思うんです。ですから今でも連れ合いの方が亡くなったりすると、お経の本を手に入れまして、『般若心経』を朝仏壇の前で読む方が多いですよね。在家の方でもみなさん『般若心経』なら読める、というんで、『般若心経』というのは非常に素晴らしいお経だと思います。
 
草柳:  短いですね、字数にしたら三百字足らずの。
 
鎌田:  そうです。短いお経で、リズムが良いですね。日本語で読んでも。あれを韓国のお寺で韓国のお坊さんが読んでいるリズムなんか同じなんですね。中国語で北京語で読むのも、福建語で読むのも、みんな聞いていまして、なんか一つのリズムがある。ですから読誦する経典として大きな役割を果たしているんだ、ということだと思いますね。
 
草柳:  じゃ、今日最後の仏典をご紹介することに致しましょう。『菜根譚(さいこんたん)』というのは中国の人の本ですね。
 
鎌田:  中国の本ですが、明の洪自誠(こうじせい)という人が書いたと言われているんですが、人生の書なんです。
 
草柳:  人はただ一念貧私(とんし)なればすなわち剛を銷(け)して柔となし、智を塞(ふさ)ぎて昏(こん)となし、恩を変じて惨(さん)となし、潔(けつ)を染(そ)めて汚(お)となして、一生の人品を懐了(かいりょう)す。故に古人、貧(むさぼ)らざるをもって宝となすは、一世に度越(どえつ)する所以(ゆえん)なり。
(「菜根譚」)
 
鎌田:  この人生の書として江戸時代から日本でもよく読まれまして、一章一章独立しているんで、どこを読んでもかまわない本でありますが、「一念貧私(とんし)」というのは、貪るということですね。貪りでありますと、せっかく強い意志をもって何かをやろうと思っても、それが弱くなってしまいますし、せっかく知恵が磨かれてもそれがダメになってしまいますし、せっかく恩愛の気持をもっても残酷な心に変わってしまいますし、清らかな清廉潔白な気持をもっていても汚れた心になってしまう、と。そして貪るということによって人間の品性をダメにしてしまう、ということなんですね。だから昔の人は、貪らないことが宝だ、と。貪らないということが一番大切だ、ということを『菜根譚』で言っているわけですね。仏教でも当然最初にちょっと申し上げましたけども、貪欲の教えではなくて、満ち足りた知足(ちそく)の教えというのが、これからは重要になってくるんではないか、というお話を申し上げましたが、今日は空ということを説いて、それは繋がりということを再認識するんだ、と。繋がりということがよくわかりますと、人間は感謝の気持ちをもって生きなければならない、という気持にもなるんですね。人様によって自分も生かされている、というふうに考えれば、人様に感謝したい、という気持が起こってくると思うんです。ですから、これからの世の中は繋がりの世の中でありますから、大乗仏教が説いた空の教え、あるいは縁起の教えということが、非常に大きな意味をもってくる、と思うんですね。そういう意味で再認識して頂く必要があるんではないか、というふうに思います。
 
草柳:  すべてのものは、関係性の中で成り立っている、ということですね。
 
鎌田:  そういうことです。
 
草柳:  またそれでは次回よろしくお願い致します。今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年四月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである