いのちの探求 大乗仏典に学ぶA平等の教え
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「いのちの探求 大乗仏典に学ぶ」の今回は二回目です。今日のテーマは、「平等の教え」ということなんですが、仏教のもっとも基本的な教えに、この「平等」という考え方があるわけですが、特に『法華経』、この『法華経』という経典は、代表的な経典だ、というふうに言われております。今日はこの『法華経』を中心にお話を進めていくことに致します。お話をしてくださいますのは、東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  『法華経』というのは、とっても仏教の経典の中では有名なお経だということなんですが、大体いつ頃できたものなんですか。
 
鎌田:  はっきりはわからないんですけどね。九年前後、一世紀頃と言われているんですが、『法華経』というのは、日本人もどなたでも『法華経』というのは知っていらっしゃいますね。一番大乗仏教の経典の中ではよく知られたお経だと、こういうふうに思われますね。そしてインドでできました『法華経』が四百何年かに鳩摩羅什(くまらじゅう)という人が翻訳致しました。それが「妙法蓮華経」なんですね。現在でも中国の人でも、日本の方でも、みんな鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』、これを読誦(どくじゅ)しているんですね。鳩摩羅什の訳したのは、サンスクリットの原典とは若干違う部分もあると言われているんですが、訳した言葉の中国語自体が大変流麗なんですね。ですから読誦経典としては非常にいいというので普及していったんだろうと思いますね。
 
草柳:  読んで唱える時には、とても調子のいい。
 
鎌田:  そうですね。やはりまた文章がいいのと、読誦するだけではなくて、何か思想を掴むにも名文で綴っているんですね、それで流行したんだと思いますね。それが日本に受け入れられまして、最初に聖徳太子が『法華経』の注釈をお書きになった。ですから日本仏教の一番初めから『法華経』というのは有名になったわけですね。そしてさらに中国へ留学しまして、そして天台山(てんだいさん)国清寺(こくせいじ)というのがありますがね、そういうところを回りまして、中国の天台宗を日本にもってきた方が最澄(さいちょう)(767-822)ですね、伝教大師(でんぎょうだいし)ですが、それがやはり『法華経』を中心にして日本の天台宗をつくっていったわけですね。それから比叡山というのが、それから日本の仏教の母胎のようになっていきましてね、それで鎌倉仏教の祖師方でもみんな比叡山で勉強してね、ですから比叡山からいろんな方々が出てくるわけですけれども、そういう意味で仏教史の方から見ても、『法華経』というのは非常に重要なわけですね。
 
草柳:  そうすると、じゃ『法華経』というのは、聖徳太子以降の日本の仏教の流れの中では、とっても大きなバックボーンを形成した経典の一つと、
 
鎌田:  そう考えていいと思いますね。だから『法華経』というのは、中国でも天台大師がそれに基づいて哲学をつくられましたけど、中国人は、じゃ『法華経』で全部いいかと言うと、そうでもないんですね。中国人は『法華経』以外のものを信仰します。ところが日本に入りますと圧倒的に『法華経』なんですね。ですから『法華経』というのは、日本仏教史と貫いているのは当然ですが、それ以外に日本の文学だとか、いろんなところに影響を与えている。ですから、『法華経』が一番受け入れられて栄えたのは日本だ、といってもいいんですね。中国でもない。勿論インドでもない。日本の文化の中で花開いたお経である、とこう考えていいと思うんですね。
 
草柳:  多分それだけ『法華経』の内容というのが、『法華経』が説くところというのは日本人にある意味では非常に受け入れられやすいところもあった、ということなんですか。
 
鎌田:  というふうに考えていいと思いますね。
 
草柳:  大乗仏典といっても、勿論『法華経』だけではなくて、経典というのはたくさんあるわけでしょう。『法華経』が何故それだけ日本に根付いたのか。『法華経』の、まあ言ってみれば、ポイントみたいなところはどういうところなんでしょうか。
 
鎌田:  『法華経』というのは、普通の経典に比べますと短いですよね。言っていることが非常に簡単明瞭なんですね、一言でいうと。しかも後半の部分なんかみますと、それがそのまま信仰のお経にもなっていくわけですね。理論的、哲学的には、譬喩を使って説いていますので非常に分かり良いんですね。どんな人でも救われる、と。で、わかりいい。そうすると、入り良い。しかも後半の方の部分になりますと、それが読誦経典としても意味をもってくる。そういう意味で信仰の書として非常にいいんではないかと思いますね。それが日本でも、『法華経』が非常にみなさんに信仰された理由になっているんだと思いますね。
 
草柳:  今回と来月の次回も、『法華経』を中心にお話を伺うんで、もう少し詳しくお聞きしたいんですけれども、「平等の教え」その平等の教えはもっとも代表するのが『法華経』だ、というふうに最初にご紹介したんですけど、どういうふうな構成になっているんですか。
 
鎌田:  『法華経』というのは、大きく二つの部分からなっている、とみなさんおっしゃるんですね。それは本門(ほんもん)と迹門(しゃくもん)だと、こういうふうに言っているわけです。「本門」というのは、本質を説いた部分ということですね。それから「迹門」というのは、これは本門の迹(あと)を辿ったものだということになるわけですね。「迹(あと)の門」と書いてありますね。だから本体の働きを示したものだ、と。本門というのは、何を説いているかというと、「久遠実成(くおんじつじょう)」と言いまして、永遠の仏さまを説いている、と。「迹門」というのは、これは本門の仏さまがこの世に現れてきまして、そして衆生を救っていくんだ、と。衆生を救っていく場合、当時の「二乗(にじょう)」と言いまして、「声聞乗(しょうもんじょう)」仏陀の説法を聞いて悟った人々、「縁覚乗(えんかくじょう)」仏陀の教えによらず、自分独りで悟った人々という。この人たちは、自分の悟りを求めることを主眼にして、あまり他人を救うということを考えないんですね。そういう自分だけが救われればいい、というような、二乗の人たちも仏に成ります、ということを説いたのが迹門なんですね。だから迹門の中で、どんな人でも仏になれますよ、と。成仏できますよ、というのを辿っていきますと、次に本門で、それでは本当の永遠の仏さまとは、どういう仏さまなんだ、というのを明らかにしていくわけですね。だから迹門は手掛かりを求めて、そして本質の世界に入って行くんだ、というふうに考えたらいいと思うんですね。
 
草柳:  そういうふうに読み解いていったのが、日蓮聖人(1222-1282)なんだそうですね。
 
鎌田:  はい。本門、迹門に分けて説明した方が入り良いというんで、そういうふうに分けたんですね。今回は、その迹門の中で、いろいろ平等というのを、どういうふうに説いているのか、ということをお話したいと思うんです。
 
草柳:  全体として、このお経を貫いているのは何でしょうか。
 
鎌田:  それは永遠の仏です、と、その働きですね。その働きというのは、どんな人でも救うという働きですね。どんな人でも救う、というのは非常に難しい考え方ですね。人間にはいろんな人たちがいますでしょう。それをどんな人でも救われるんだ、ということを説いているのが『法華経』の狙いですね。
 
草柳:  何章かに分かれているんですが、その中でまず最初に、『法華経』化城喩品をまず最初にご紹介してみます。
 
「願わくは、この功徳を以って普(あまね)く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」
(「法華経」化城喩品(けじょうゆぼん)
 
鎌田:  これはあまりにも有名なお経の言葉で、廻向(えこう)する時の最後にみなさん唱えるんですね。それで合掌して、みなさん一緒に唱えるわけなんですが、自分が積んだいろんな功徳、あるいは善根ですね、そういうものを普く一切の人たちに及ぼしているんだ。そして自分とみんなと、みんな仏道の完成を願っていくんだ。ここに端的に現れているのは、自分一人の救いじゃない。声聞乗と縁覚乗は自分だけが救われればいい。ところがどんな人も一緒に救われるんだ。だから人と一緒に共生していくという考え方が出てくるわけですね。自分だけではない。まあこの世の中を見ていますと、自分一人では生きていけませんしね、みんなみなさんの御恩によって生きているわけですから、そう思って、自分が救われるのを目ざすんじゃない、と。みんなと一緒に仏になる道を探すんだ。もっと言えば、みんなのために尽くすことが、自分が救われる道なんだ、という考え方ですね。もう少し簡単にいうと、声聞乗の方と縁覚乗の方、これは「自利(じり)」自分を利する。自分のことだけ考えて生きているわけですね。ところが『法華経』の狙った人たちは、一切の方々と一緒にともに成仏する。あるいは一切の方々に尽くすんだ、という考え方ですね。例えば常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)なんていう方が、『法華経』の、これは後の方に説かれるわけですが、常に軽んじないというのは、何を軽んじないかというと、どんな人でも人を軽んじない。何故、じゃ、どんな人に対しても軽んじないのか、ということは、どんな人でも仏になる可能性をもっているんだ。専門の言葉で「仏性(ぶっしょう)」と言いますが、どんな方でも仏性をもっている。その仏性を拝むんだ、と。だから常不軽菩薩という方は、どんな方に対しても拝むんですね。拝まれた人は気持が悪いですよね、知らない人に拝まれると。ところが何故拝むか。みんな尊いんだ、と。みんな仏になる素質をもっておられる。ですからたとい今現実には貧しい方であっても、いろいろ困っている方であっても、みんな尊いんだ、というので拝んだんですね。これは素晴らしい考え方だと思うんですね。『法華経』を全部貫いているのは、常不軽菩薩の考え方だと言ってもいいと思うんです。大体どんな人でも、いつでも軽んじないというのは、なかなかできるものではないんですね。どうしても自分が偉いとか、人と自分を比べてみたりして、人を羨んだり、自分がまたダメだと思ったりすることが多いでしょう。そうじゃなくて、人間は本質的にみんな平等なんだ、と。何故平等なのか。それはみんな仏になる可能性をもってからなんだ。だから尊いんだ、という考え方ですね。それが『法華経』を貫いているわけなんです。そして今の経文の文句も、一切みなさんと一緒に成仏する道を求めましょう。そういうことが文章になって書かれてくるわけですね。だから今の経文はそう長いもんではありませんけれども、『法華経』の願いを、見事に簡単に表していると、そう考えていいんではないかと思いますね。
 
草柳:  そこで今日のお話の中心は迹門の方だとおっしゃいました。その迹門の方ではどういうことが骨格として書かれているんでしょうか。
 
鎌田:  迹門の方は、譬喩が多いんですね。まず「方便品」というのがありますが、ですから「方便品」から見ていったらどうでしょうか。
 
草柳:  じゃ、まずその中から一つ選んで読んでみます。
 
「舎利弗(しゃりほつ)よ、汝等は当(まさ)に一心に信解(しんげ)して仏語を受持(じゅじ)すべし。諸(もろもろ)の仏、如来の言には虚妄(こもう)なし。余乗(よじょう)あることなく、唯(ただ)、一仏乗(いちぶつじょう)のみなればなり」
(「方便品」)
 
これはどういうことでしょうか。
 
鎌田:  これも有名なところなんですが、お釈迦様が、「舎利弗よ」と呼び掛けているわけですね。そしてお前たちは一心に信じなさい、と。信じて理解しなさい、と。そして仏さまの言葉というものを頂きなさい、ということですね。「受持」というのは、保つ、持つことですが、それを頂きなさい、と。そしてもろもろの仏、如来の言葉には、仏さまたちの言葉には虚妄(こもう)がない。偽りがない。嘘がない。ということは逆に、仏さまのお言葉は真実を説いているんだ、ということになりますね。そして「余乗」というのは、ここでは「二乗」のことなんですね。「二乗」というのは、「声聞乗」と「縁覚乗」。声聞乗も縁覚乗も、自分だけの悟りを求めるんですが、昔から声聞乗という方は、四諦(したい)という教えを聞いて悟る人、縁覚乗という人たちは、十二縁起を聞いて悟りを開く、というようなことも言われておりますが、要するにどちらも自分だけの悟り、自分だけの安心(あんじん)、それを求めているわけですね。そういう声聞乗と縁覚乗というようなものではなくて、「唯、一仏乗のみなればなり」一番大切なのは、仏さまの説いた教えである、ということを言っているんですね。で、私たちは、仏さまの言葉には誤りがない、とこう言っているわけですから、その真実を説いている仏さまのお言葉に従って、その教えを信じましょう、ということなんですね。三乗と言いましてね、二乗は声聞と縁覚でしょう。それに菩薩と加えて三乗。その上に本当の正しい仏法、それが「一仏乗」。「一」というのは、一つという意味ではなくて、これは「唯一」と言ってもいいですけど、「絶対」ということですね。絶対の真実だ、というんで「一」付けたわけです。ですから声聞の人も、縁覚の人も、菩薩の人も、最後は一仏乗を目ざさないといけないんだ、と。それは本当の教えだからと、こういうことになりますね。本当の教えを目ざして、その教えを信解(しんげ)するんだ、と。だから声聞の教えとか、縁覚の教えとか、そういうものではなくて、仏さまの説いた教えを信じるんだ、というので、今の経文が書かれているわけですね。
 
草柳:  でも、声聞とか縁覚という、つまり自分自身の悟りのため、ということを別に否定しているわけではないでしょう。
 
鎌田:  それはそれでかまわないわけですが、しかし人間というものは、自分だけのことを考えていたら、最後は自分も救われないんですね。それは人間の人生を見てもそうでしょう。自分のことだけ考えてやっていれば、それは自分も不幸になっているんですね。他の方々のために、いろんなことを考えて差し上げる。あるいは尽くす。そういう気持が自分もまた救ってくれることになるんですね。ですから別にそれはそういうことはダメですよ。声聞乗、縁覚乗はダメですよ、というんではなくて、声聞乗の人も縁覚乗の人も、菩薩の道を志した人も、みんな一仏乗に入ってください、と。本当の教えの方へ来てください、と、そういうことなんですね。それをまたいろいろと説いているわけですが、もう一つ方便品の言葉があると思うんですが、
 
草柳:  「十如是(じゅうにょぜ)」という、
 
「十如是」
仏の成就したまえる所は、
第一希有(けう)難解(なんげ)の法なり。
(ただ)仏と仏のみ乃(いま)し能(よ)く諸法の
実相を究(きわ)め尽したまえばなり。
所謂(いわゆる)諸法の如是相(にょぜそう)・如是性(しょう)
如是体(たい)・如是力(りき)・如是作(さ)
如是因(いん)・如是縁(えん)・如是果(か)
如是報(ほう)・如是本末(ほんまつ)究竟(くきょう)等なり。
(「方便品」)
 
鎌田:  ちょっと難しそうな言葉ですが、またそれを天台大師(538-597)がこういう組織をして、天台教学でも重要な教えになっていくわけですが、まあ書いてあることはどうということではないんですね。仏が完成された、あるいはお悟りになったものは、大変に稀有、それは珍しい滅多にないことであるし、「難解(なんげ)」というのは、私たちの凡夫ではなかなか理解し難いという。「法」というのは、教えですね。なかなか難しい教えですよね。凡夫には難しいんですが、それは何故かというと、ただ仏と仏だけが諸法の実相を究め尽くしておられるからである、と。この仏さまだけが、諸法の実相というものを究め尽くしているからだ、と。「諸法の実相」というのは、これが『法華経』の思想の中でも非常に重要になるんですね。そして後の天台教学になりますと、やっぱり諸法実相というのは重要になるんですね。「諸法」の「法」というのは、物ですね。だからいろんな物、一切の物の、「実相」というのは、真実の姿。そうすると一切の物の真実の姿は何かと、それを究め尽くしたのは、仏さまだけなんだ、ということを言っているんですね。だから私たち凡夫にとっては、それが大変難しいことになるんですね。そしてそれでは「諸法の実相」というのは、具体的にはどういうことかというのが、如是相、如是性以下なんですね。これは是(かく)の如きの「相」というのは、形、形相ですね。「性」というのは、特性、性質。「体」というのは本体。「力」というのは、能力、力ですね。それから「作」というのは、作用。「さゆう」と読みますけどね。普通で言えば、働きのことですね。「因」は、原因。「縁」は条件ですね。それから「果」は、結果。それから「報」は、果報ですね。そして最後に、「如是本末」是の如き、「本末」。「本」というのは、本質。「末」というのは、現象ですね。本質と現象が、「究竟(くきょう)」というのは、それが最後に一つになる、と。ですからいろいろ説いてあるのが、本質的なことも説いているし、働きも説いているし、あるいは現象の部分の形のことも説いている。そういうものが、全部最後には、本質も現象も一つとなってすべて平等なんだ、という考え方なんですね。だから字を見てみますと、非常に難しいように感じまして、難しいなと思うんですが、確かにそこに凡夫にとっては、「難解の法だ」と書いていますから、私たちにとっては難しいことなんですね。しかし仏さまはそれはちゃんとわかっておられる。こういうように、本質も働きも、その原因も結果も現象も本質もみんなわかって、しかもこれが本当にものの真実の姿だ、と言い切ることは大変だと思う。そうすると、真実の姿というのを、これをまた別の形でどういうふうに表現しているのか、と。
 
草柳:  この場合の「かくの如し」と、「如是」かくの如し、というのは、まさにかくのごとしなんでしょうけど、そのままなんですか。
 
鎌田:  そのままにある。普通「そのままにあるもの」ってないんですよ。私たちも、「もののそのまま」というのは見えないんです。みんな自分の色眼鏡を掛けるでしょう。それで自分に都合のいいように見るでしょう。それからまた自分と他人と比べるでしょう。なんでもそういう目で見るもんですから、こっちが勝れている、こっちが劣っているとかというふうに見てしまう。ものの真実というものは見えないんですね。それを仏さまの目からみると、それがはっきりと見える。私たち凡夫の目から見ると、それがよく見えない、こういうことなんですね。
 
草柳:  もの、あるいは事象というのは、そのものとしてあるんだけれども、でもそれは人間が見た場合、我々が見た場合に、「そのもの」というふうになかなか見えないものなんだ、ということですか。
 
鎌田:  必ず自分の色眼鏡で見ますので、あるいは自分に都合のいいように見ますので、だからそのもの自体は見えない。「如是」というのは、「そのまま」ということなんですね。で、先ほど並べたいろんな言葉も、そのままの形、そのままの姿、そのままのエネルギー、そのままの働きと、こんなような意味になるんですね。そういうものをはっきりと見える目をもっているのは、仏さまだけだ、とこういっているわけなんですね。しかし私たちも、だんだんそういうことを教えて頂いて、それでは自分の色眼鏡を外して、虚心にそういうものを見ることができないかな、というふうに努力をしていくことが、仏さまの道に近づいていくことになるわけですね。
 
草柳:  一木一草に至るまで、あるがまま、そのままで見るようにしなさい、と。
 
鎌田:  ところが、私たち凡夫はそういきませんので、どんなものをみても、自分にとってどういうものかと考えますよね。だから例えば人様を見ても、やっぱり自分の色眼鏡で見ます。好きだ、嫌いだ、という目でみますし、あるいは自分に好都合な方だとか、自分にとって嫌な方だとか、そういう目で見るんですね。じゃ、その人の本当の姿は何か、と言ったらよくわからないんですよ、実際はね。そういうものを見通してくださるのが仏さまの目だ、と、こういうことになるんですね。ですから難しく書いておりますが、「そのまま」ということなんですね。別の言葉でいうと、自然法爾(じねんほうに)とか、いろんな言葉がありますがね。人間はなかなか自然法爾(じねんほうに)になれませんのでね。自分自身にとっても、どうしても肩肘張るんですよ。グッとこう肩肘張りますでしょう。構えるでしょう。才能でもよく見せたいと思ったりね。どうせ大してないのによく見せたい。力もあるんだというように頑張るんでしょう。そうじゃないんですね。自然体というのが一番大切なんだ、と。
 
草柳:  そういう自然体というのはこういうものなんだ、という歌があります。
 
鎌田:  それではちょっと読んで見ましょうか。
 
白露のおのが姿をそのままに紅葉におけば紅の色
 
これは昔の歌らしいんですが、朝露をみなさん考えて頂ければいいと思うんですね。朝露が紅葉の上に一滴留まりますね。そうすると、白露は赤く見えますね。それが今のような五月の新緑の葉の上に露が留まりますね。そうすると、そのもともとは何にもない色なんだけれども、それは緑に見えますね。ですから白露自体が本当の姿で、それは赤でもない、緑でもない、茶色でもない。しかし私たちはそれを見る時には、全部色が付いて見えるんですね。色が付いて見えるというのが、これが凡夫の目なんですね。仏さまが見ると、それは白露なんです。私たちが見ると、それは赤い露であったり、緑の露であったりするんですね。だからそのように、私たちは自分のメガネでものを見てしまう。白露ということがわからないわけですよね。本当は白露なんだけど、紅の露ではないか。緑の露ではないか。それは間違いだ、と。で、諸法の実相というのは、それを白露と見ることなんだ、と。こういう歌の意味なんですね。歌は比喩的に言っているわけですが、しかし諸法の実相というのは、なかなか説明ができないんですよ。いろんなものの真実の姿といってもね。それを昔の人はこういう歌で巧みに表現しているんですね。ですから昔の人は歌をみて、ああそうか、と。仏さまは白露とはわかっていらっしゃる。私たちはそれを紅の露と思ってしまう。緑の露と思ってしまう。それはいけないんだ、ということだけでもわかれば、だんだん仏さまの道に近づいていくわけですね。
 
草柳:  そういう教えを仏教の経典というのはもういろんな言い方とか、いろんな表し方で言っているわけですけれども、仏教というのは、他のものもそうなんでしょうけれども、譬えとか譬喩がほんとに多いですね。
 
鎌田:  そうです。特にお経の場合は譬えで固めて、何故かというと、譬え話というのは具体的ですから、何だかわかったような気がするんですね。だからいろんなものを書く時、譬えでやるわけです。特に『法華経』の場合は、非常に譬え話が多いんですね。迹門の方に特に多いんですね。それをちょっと見てみましょうか。
 
草柳:  今度ご紹介するのは、まさに「譬喩品」でありますから、
 
三界(さんがい)は安きことなし、なお火宅の如し。
衆苦(しゅうく)充満して、甚だ怖畏(ふい)すべし。・・・
今、此の三界は、皆是れ我が有(う)なり。
其の中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾が子なり。
(しか)も今、此の処は、諸(もろもろ)の患難(うれい)多し。
唯だ我一人のみ、能(よ)く救護(くご)を為す。
(「譬喩品」)
 
鎌田:  これは「譬喩品」の有名な言葉なんですね。まずこの「三界は安きことなし」というのは、いろんなところに引かれてきます。「なお火宅の如し」で、「三界火宅」という言葉が、日本の文学なんかでも現れてありますが、「三界」というのは、「欲界、色界、無色界」と、教理的には説明がありますが、この場合はそういうことではなくて、この世、この人間世界は、というような意味なんですね。この世はと、この世界は私たちが住んでいる迷いの世界、それを三界と、ここでは言っているわけですね。そして「安きことなし」本当ですね。私たちが住んでいる世界というのは、一週間も、一瞬間も心が安まることありませんね。だから「安きことなし」、それはちょうど火の点いた家の中にいるようなもんだ、と。もう火が点いた家にいても、それが気が付かないことがありますが、それほど安らかなところではない、と。その理由が次に説明してありまして、「衆苦(しゅうく)充満し」さまざまな苦しみが、私たちの世界の中にはいっぱいだ、と。これは説明をする必要がありますね。本当なんですね。どなたさまもお感じなことでありますし、特に現代のように目まぐるしい世の中になりますと、ますますいろんな苦しみが増えてきているわけなんですね。「甚だ怖畏(ふい)すべし」と。これは畏るべきことだ、と。だから現代に当て嵌めてもピッタリ当て嵌まるんですね、この言葉は。そして「今、此の三界は、皆是れ我が有(う)なり」我がというのは、仏さまのことですね。そういう火の点いたような安らかではない三界でありますが、それはみんな自分の中に入っているんだ。自分のものなんだ、と。仏さまはそれをちゃんと抱いてくださっているんだ、という意味ですね。そうなりますと、この苦しい世界の中で生きている衆生というのは、私たちのことですが、私たちは、「悉(ことごと)く是れ吾が子なり」仏さまから見ると、仏さまの子だ、と。「赤子(しゃくし)」という言葉がありますが、あるいは「仏子(ぶっし)」という言葉もありますがね、我らみんな仏の子なんだ、ということを、そこで言っているわけです。しかも「今、此の処は、諸(もろもろ)の患難(うれい)多し」だからと言っても現実のこの世の中は、さまざまな患難(うれい)悲しみ苦しみがいっぱいではないか、と。そして悩んでいる私たちを救ってくれるのも、「唯だ我一人のみ」自分というのは仏さまですね。それを救い得るのは仏さまだけだ、とこう言っているわけです。だから「能(よ)く救護(くご)を為す」自分はそういう悩んでいる衆生たちを我が子として救ってあげるんだ、という、大変に有り難い譬喩なんですね。
 
草柳:  仏さまの言葉というのは、今日のテーマ、まさにそのものなんですね。
 
鎌田:  そうなんです。仏さまの前では、みんな平等。仏さまはこの人は嫌いだから救わない。この人は嫌だから救わない、ということはまったくないんですね。どんな方でも自分の懐の中へ入っている方だ、と。だから自分はその苦しみを救いあげていくんだ、ということなんですね。だからこれを読めば、ああそうか、と気が付くわけですね。自分は仏の子なんだ、ということをまず気が付きますね。それでは仏さまの教えを信じてみよう、という気にもなりますね。次を見てみましょうか。
 
草柳:  我一切を観(み)ること、普(あまね)く皆平等にして、彼此(ひし)愛憎の心あることなし。我貧著(とんじゃく)なく、而し限礙(げんげ)なし。恒(つね)に一切の為に、平等に法を説く。一人の為にするが如く、衆多のためにも而然(またしか)なり。
(「薬草喩品(やくそうゆほん)」)
 
鎌田:  これは非常に有り難い言葉だと思うんですね。「我一切を観(み)ること、普(あまね)く皆平等」我というのは、仏さまですね。これが大切なんですね。私たち凡人は決して平等に人を見れないんですね。自分の好きな人、嫌いな人、そういうふうに区別していくわけですね。ところが仏さまは、どんな人を見ても、みんな平等に見れるんだ、と。有り難いことだと思うんですね。「彼此(ひし)愛憎の心あることなし」と、こっちの人が好きだ、こっちの人は大変に憎しみを持つ、というようなことがまったくないんですね。だから凡夫と仏さまというのは、如何に違うか、ということをよく表しているんです。「我貧著(とんじゃく)なく」仏さまというものは、この人は善い、この人は可愛い、というような執着がない。ところが私たち人間は、人様を見て、この人は好きな人、この人は嫌いな人、すぐにそうなるんですね。ところが仏にはそういう執着がない。「限礙(げんげ)なし」というのは、限定がない。人を全体として捉えないで一部分だけ見てこう捉えたりしますでしょう。人を限定しない、全面的にその人をみよう、ということですね。「恒(つね)に一切の為に、平等に法を説く」だからどんな人のためにも、自分は平等に教えを説くんだ、と。この人は嫌いだから、お前には説かないよ。こっちの人は好きだから、あなたには説くよ、というようなことは絶対にない。平等に法を説くんだ、と。そしてそれは「一人の為にするが如く、衆多のためにも而然(またしか)なり」一人のために説くのも、みんなに説くのも、みんな同じなんだよ。これが平等なんですね。なかなかこれできないことだと思うんですよ。どうしても自分の可愛いお子さんに対してはこうだけど、他のお子さんに対してはやっぱり無意識のうちに差別があったりするのが私たちですね。それをそうじゃなくて、どんな人に対しても平等に教えを説いていくんだ、と。決して限定をしない。無限定の世界ですね。しかし、こういうことを考えるというのは素晴らしい考えだと思うんです、仏教というのはね。無限定にこの人間を考えて扱っていこう、ということですから、そういう考えがここに見事に出ているわけですね。
 
草柳:  そういうことの根底には、一番最初にお話がありましたけれども、人は誰でも、たとい悪人であっても、仏性というか、仏の心をもっているんだから、ということに当然繋がっていくだろうと思うんですけれども。
 
鎌田:  そうですね。例えば仏さまに危害を加えようとしたような悪人と言われる提婆達多(だいばだった)とか、あるいは竜王んおわずか八歳の娘でも、そういうような人たちもみんな仏になれるんだ、ということを『法華経』では言っているんですね。だからどんな人も、悪いことをした人であっても、また仏になる道はあるんだ、ということを言っているんですね。あるいはもっと広く根源的にみると、全部が仏さまの中に包まれているんだ、と。悪いことをやる人でも、それは仏の子なんだ、という考え方ですね。
 
草柳:  今の「薬草譬品」とありましたですね。薬草の譬えというのは、何故こういうふうな、
 
鎌田:  それはいろんな植物ね。植物園を考えて頂けますと、いろんな薬草が生えていますね。その薬草はみんな違いますね。みんな違っても、それは同じ雨を受けて、そして育っているわけですね。育ったものは、いろんな種類があり、いろんな区別があります。しかし降り注いでくる雨そのものは同じなんですね。確かその譬喩もあったのではないかなと。
 
草柳:  いろんな譬えを引き出しながら平等ということを教えているわけですね。これは『華厳経』の方ですか。
 
鎌田:  ただ同じことを言っているんですね。これはたまたま『華厳経』から取っているんですが、読んで頂きましょうか。
 
草柳:  猶大地は一なれども、能く種類の芽を生じ、地性に別異無きが如く。諸仏の法も是の如し。
(「華厳経」菩提明難品)
 
鎌田:  これは『華厳経』でありますが、言っていることは同じなんですね。大地は一つ、そしてその中からいろんな種類の植物が芽を出していますね。それで芽を出した植物はみんな違うわけですね。雑草もあるし、こういう草もあるし、こういう薬草もあるし、こういう花もあります。しかし大地自体の性質というものは同じなんですね。それと仏さまの教えも同じだ、と。だから仏さまの教えを、ここでは大地に喩えている。しかもそれは一つである、平等である。しかしその教えを受けて、受け止める我々は違っても、大地は一つ。大地から生える草はみんな違う。大地は一つ。一つというのは、それは仏さまの教え。違うというのは、私たちなんですね。ですから『華厳経』でこういうことを言っていても、今まで『法華経』でこうして文字を出したのも同じことを言っているんだ、と。ご理解頂ければいいと思うんですね。
 
草柳:  仏教の教えの一番基本的なところには、平等ということがあるというのは、これは全体を貫いていることなんでしょうから、それをいろんな言い方で、いろんなお経の中に込めている。
 
鎌田:  このお経だからこう説くという面もあるけど、そうじゃなくて共通なものもみんなあるわけですね。ですから別に『華厳経』で説いていても、『法華経』で説いていても同じことを言っているんですね。
 
草柳:  ただ教える、教えの平等というのは、それは一つであっても、今おっしゃるように、受け止める我々の方は、これはいろんな人間がいて、いろんな受け止め方をする。これは当然と言えば当然ですね。
 
鎌田:  当然ですね。それは私たちの能力が違いますのでね。そうすると同じ仏さまの教えであっても、それを受け止め方が違いますよね。これはしょうがないですね。同じお話を伺っても、今までの人生の経験や教育や、その人のいろんな考え方、その違いによって、やっぱり受け止め方が変わりますので、それは当然。しかし仏さまの教えというのは、区別したり、差別したりは決してしていないんだ、と。どこまでも平等に教えを説いているんだ、と、こういうことは言えると思いますね。
 
草柳:  よく釈尊が、説法の中で段階的な教えということを言っていたようなんですが、それはつまり受け止め方はそれぞれ人によって違う。教えは平等なんだけれども、段階によって教え方を変えていく、というふうな言い方をする。
 
鎌田:  それは方便と言いまして、相手に応じて、そして教えの説き方を変えるわけです。例えばお子さんにいう場合と、大人の人にいう場合とでは、やっぱり表現を変えないと受け止めてくれないもんですから、それは仏さまは見事なものですね。対機説法(たいきせっぽう)とこう呼ぶんですけど、その人その人の立場、その人その人の境遇、それに応じてわかるようにお話してくださったと、こう考えればいいと思いますね。
 
草柳:  しかし、「一人の為にするが如く、衆多のためにも而然(またしか)なり」と、さっきありましたが、一人のために為すことが、それがすべてのことに向かっていることなんだ、という凄いことなんですね。
 
鎌田:  凄いことです。どうしてそういう考え方や、そういう発想が大昔に起こったのか、というのは不思議でしょうがないですね。もうそのまま現代にも通ずる考え方なんですね。
 
草柳:  もともとこの『法華経』という教えが、インドから中国に伝わって、で、中国から日本へという経路を辿ったわけでしょう。中国では、天台山があるところが『法華経』の中心地なんですか。
 
鎌田:  そうですね。やはり『法華経』は天台大師以前にもいろいろ研究されまして、その研究の成果が聖徳太子もそれを利用したりしているんですが、一番『法華経』を中心に哲学的に組織したのは天台大師だと、こういっていいと思うんですね。天台大師は難しい教学と、後は坐禅のやり方なんかを説いたわけですが、まあ中国人は天台大師は一番いいとして、それを受け止めていたわけです。
 
草柳:  今までずっとお話を伺ってきた平等という、平等の心とは一体何なのか、というのを、もっとも端的に現しているエピソードが五台山にあるそうですね。
 
鎌田:  五台山というのは、山西省(さんせいしょう)にありまして、天台山というのは浙江省(せっこうしょう)にありまして、共に仏教聖地なんです。日本のお坊さまが中国へ留学しますでしょう。必ず天台山、五台山と回られるんですね。ですから仏教の聖地という意味ではまったく同じと考えていいんですね。たまたま平等の心ということで、エピソードがあるのは、五台山の方なんですね。五台山というのは、山が五つありましてね―三千メートルぐらいの山ですが、ある点から上は、もう高山植物だけなんです。そこをたくさんの日本のお坊さまも旅をしておりますが、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)という方が『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』という本を書いているんですが、その中で五台山のことを実に詳しく書いているんですね。その中に「平等の心」ということを紹介してくださっているんですね。円仁というのは大変偉い方で、ああいう旅行記を残しておりますので、それによってちょうど八百四十年前後の中国のいろんな状態がわかっている。それで八百四十何年かには、廃仏が行われまして、仏教弾圧、撲滅、それを実に詳しく書いておられるんですね。だから私たちも円仁さんの記録によっていろんなことがわかる。たまたま円仁さんがこの五台山に入っていったわけですね。そうしましたら、供養していたんですね。供養というのは、ある信者の方が、五台山のお坊さんたちに御飯を供養していたんですね。そうすると、お坊さん方が並んで、そしてまた在家の方にも供養したんでしょうかね。そうしましたら、その中に貧しい人も来ているわけです。そういうところの中に一人の女の方が来ておりまして、ちょうどお子さんがお胎にできていたわけですね。そうしまして、供養するお坊さんが順番に並んでいるものですから、お粥をこう出しているわけでしょう。そしてそのお胎にお子さんがある方にも一杯あげたわけです。そうしましたら、その女の方が、「私は、実はこのお胎の中に子どもがいる。だからもう一杯子どもの分をください」と言ったんですね。そうしましたら、施主の方が、「いや、それはダメです。一人ずつに御飯を差し上げているんで、お胎の子はまだ生まれていないんだから差し上げられません」というふうに言いましたら、「それならお胎の子どもに頂けないんなら、自分もそれは頂かない」と言うや否や、食堂の入口に出て行った。そうしたら、その女の方が、「アッ!」と言って空中に浮かんだんですね。文殊菩薩になった。文殊菩薩は金毛の獅子に乗って、空中高く昇って行かれた。それは実は女の人は、五台山の文殊菩薩の化身であったんですね。文殊菩薩が女の人に姿を変えて、そして平等の心を五台山のお坊さんたち、あるいは供養する布施する方、信者方に教えようと思っていらっしゃったようですね。ですからみんなはそれでビックリしまして、文殊菩薩が姿を変えて、平等の教えを教えに来てくださったんだ。みんな文殊菩薩に対して拝んだわけですね。そういうエピソードを、慈覚大師は伝えまして、その後で五台山というものは、この山に入るものは自然(じねん)に平等の心を起こし得るんだ、と。五台山には、人間が平等になるような、そういう素晴らしい霊気があるんだ、ということを記しているんですね。これは大変に有り難い教えでありますが、平等の心とは何かということを、具体的にそれをまた慈覚大師が記述しておられるんですね。
 
草柳:  そのエピソードで表されるところが『法華経』の基本的なというか、根本的な考え方の平等ということですね。
 
鎌田:  そうですね。そういう中国のエピソードでありますが、日本人はみんな歌でよく表現して、日本人は情緒的ですからその歌を見て知るわけですね。一つ歌を出してみましょう。
 
おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのずからなる法(のり)のみすがた
 
これも古歌と言われるんですが、「おもしろや」というのは、なんと深い趣があることであろう、ということですね。秋になると、紅葉が散っていきますね。春となると花が咲いていきますね。これは天地自然の法則だと言えば、それでもいいんですけれども、昔の仏教の人や、昔の日本人は、それは自ずからなる法の御姿だ、と。「法(のり)」というのは、真理。この場合は真理の姿。真実の姿なんだ、と。しかもそれを「自ずからなる」と言っているのがいいですね。この自然ということですね。自然法爾(じねんほうに)という言葉がありますが、作為を加えない。そのままの姿だ、と。私たちは、秋になって紅葉を見ても、春になって花が咲いても、いや季節の変わり目でこうなったんだ、と思うだけですが、古代の日本人は、そこへ仏のいのちを感じたわけですね。花が咲くのも、紅葉になるのも、天地自然の法則ではありますが、それは仏さまの真実の御心がそのまま現れているんだ、と。あるいは平等の御心が、そのままそこに現れているんだ、と、こういうことになるようですね。ですから歌で日本人はこういうものを現していくわけですね。そして今の歌は、『法華経』で説く諸法実相、これを歌った歌だと、昔から日本では言われているんですね。ああ、これが諸法実相か、と。何だ、これは当たり前のことじゃないかと、私たちは受け止めますが、その当たり前のことが、当たり前に行われていくこと、これが一切のものの真実なんだ、と。昔の人は感じていたようですね。単なる自然現象だと割り切るのも構えませんけれども、それだけでは人間の心の豊かさというのはないんですね。一輪の花を見ても、紅葉も散るのを見ても、そこに何かを感得する。そこに心の余裕といいますかね、心の豊かさと言いますか、そういうものがあると思うんですね。ですから諸法の実相というのは、ものの真実の姿を如何にしたら見れるのか。それを仏さまが『法華経』で説いていかれるわけですから、私たちはその教えを少しでも理解して、そして仏の道を少しでも行うようにすればいいのではないかと、こういうふうに感じますけどね。
 
草柳:  今現代に生きる私どもというのは、今世紀の科学文明の恩恵を受けて、物質的にはまあまあ豊かになったという満足感は、多分多くの人たちがもっている。だけれども、その代償と言いますか、やっぱり失ったものも、その大きさというのも、これはやっぱり気が付かなければいけないことだと思います。もう気が付き始めているのではないかという気がするんですね。
 
鎌田:  今もうみなさん、それ気が付いて、いろんな考え方を変えていかなければならない、と。あるいは自然に対する考え方、あるいは環境に対する考え方もだんだんと変えていかないと、とんでもない破滅がくる、ということですね。ですから今こそこういう私たちの先輩が歌ったような気持を改めて学んでいく必要があるんではないか、という感じは強く持ちますね。心というものの豊かさを少しみんなで求めていかないといけないという感じが致します。
 
草柳:  そういう意味でも、今日取り上げた『法華経』の教えというのは、今日的な意味がとってもたくさん詰まっていると考えた方が良さそうですね。今日は迹門の話を中心にして、次回は後半の本門の方のお話が中心になるわけですね。じゃ、また来月よろしくお願い致します。今日はどうも有り難うございました。
 
鎌田:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年五月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである