いのちの探求 大乗仏典に学ぶB仏の永遠性
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」の三回目です。前回は『法華経』を取り上げたんですが、『法華経』の前半の部分、「平等の教え」ということでお話を伺ってまいりました。今回はその『法華経』の後半の部分、「仏の不滅性」ということで、「仏の永遠性」というテーマでいつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんにいろいろとお話をして頂くことに致します。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願い致します。
草柳:  さて、前回が前半の部分、そして今回は後半の部分なんですが、『法華経』というのは、全部で二十八品―二十八章と言ってもいいかと思うんですが―できているわけですね。今日の「永遠のいのち」というのは、後半のどの部分が中心になるんですか。
 
鎌田:  『法華経』を二つに、昔から分けまして、前の部分を「迹門(しゃくもん)」、後の部分を「本門(ほんもん)」と。今日は「本門」の中の一番重要だと言われます「如来寿量品(にょらいじゅりょうぼん)」というのがありますので、そこでは「永遠の仏様というのは何か」ということを説明しているわけです。それを中心に今日はお話をさせて頂きたいと思いますが。
 
草柳:  今日の本題に入る前に、ちょっと前回のおさらいをしたいんですけれども、前回の前半の部分というのは、「平等の教え」ということだったですね。
 
鎌田:  「平等の教え」ということで、お話申し上げたんですが、前半は「一切のいろいろなものの本当の相(すがた)は何か」と。専門の言葉を使いますと、「諸法の実相」と言いますが、「ものの本当の姿というのは、どういうものか」ということをお話したわけですね。あるいはものの本当の姿ということで、日本の言葉だと「自然」と書きまして、「じねん」と読むんですが、もう少し分かり易く言いますと、「ありのままの姿」と言うんでしょうか、そんなのをちょっとお話申し上げたわけですね。確か歌がありましたんで、今回もその歌を出して頂きまして、
 
草柳:  白露のおのが相(すがた)をそのままに紅葉におけば紅の色
 
という歌でしたね。
 
鎌田:  この「白露」―「朝露」でもいいですが、それが紅葉の上に朝露が乗りますね、そうすると紅に見えますし、新緑の青葉の上に朝露が乗りますね、そうすれば緑に見えますね。白露そのものはまったく変わらないんですが、その状況に応じていろんな色に見えると。ですからものの本当の相(すがた)というものは、「そのまま」「ありのまま」あるわけですが、私たちがいろいろ色眼鏡で見ますね、そうしますと、「こうも見えるし、ああも見える」と。また私たちは自分の都合のいいような目で見ますでしょう。ですからどうしてもいろんな自分に都合よく見えるんですね。そういうことを今の歌は表しているわけでありまして、本来は「ありのままの相(すがた)」というのが本当で、それを私たちはなかなか見ることができない、ということですね。何故見ることができないのかというと、自分のメガネを通して、色眼鏡を通して、そしてものをどうしても見てしまうんですね。それは自分に都合のいいようにどなたでも見るもんですから、それでいろんな色に見えてしまう。しかし本当の相(すがた)というものが正しいんであって、本当の相(すがた)をきちんと見る方は仏さまの目なんですね。それじゃ仏様というのは一体どういうものなのか、と。この前では、「仏さまのいのち」とか、「仏さまとはどういうものか」ということは、あまり説明がなかったわけで、今日はその「本門」の方に入りまして、本当の仏の相(すがた)というのは、どういうことなんだ、ということをきちんと理解しまして、それによって正しく仏さまを信じるというのは、どういう意味があるのか、というようなことをお話したいと思いますが。
 
草柳:  それが今日のテーマの「仏の永遠性」ということになるわけですけれども、今おっしゃるように、前半の方を「迹門」、後半の方を「本門」と。今日は「本門」の方のお話なんですが、その「迹門」と「本門」というのは、どういうふうな関係なんですか。
 
鎌田:  「迹門」というのは、現れた仏さまについて説いているわけですね。この世に現れましたお釈迦さまを中心に説いているわけですね。本門というのは、本当の仏さまについて説いているんですね。昔から「本門」「迹門」と分けまして、「迹門」の方が前で、「本門」の方が後で、「迹門」の方が一つの方便の教えで、「本門」という方が、本当の教えだというふうに考えても構いませんが、日蓮聖人がそれを強調なさるわけでありますけれども、二つ両方あって『法華経』というものは完成するわけで、「本門」の方がよくて、「迹門」は前座だというんじゃなくて、「迹門」も「本門」も両方合わさって『法華経』の教えというものは完成するんだ、と。そういうふうに理解したらいいと思いますね。
 
草柳:  しかし、二つに分けて捉えるというのは、どういう意味があるわけですか。
 
鎌田:  それは二つに分けた方が理解しいいし、それから方便という考え方が大乗仏教にありまして、そういう方便という考え方がないとよくわからないんですね。だからよくわかるためには方便の教えも必要だし、それから隠されていた本当の教えも必要だし、だから前座と本番と言ってもいいんですが―比重はないんですね―ただ二つに分けただけで、それが一つになって、『法華経』というものが一体化して本当の教えになっているわけですね。
 
草柳:  じゃ、先ず最初の「如来寿量品」から読んでみたいと思います。
 
我仏を得てより来(このかた)、経(へ)たる所の諸の劫数(ごうしゅ)は、無量百千万億載阿僧祇(さいあそうぎ)なり。常に法を説いて無数億の衆生を教化して、仏道に入れしむ。爾(しこう)してより来(このかた)、無量劫なり。衆生を度(ど)せんが為の故に方便して、涅槃(ねはん)を現わすも、而(しか)も実(じつ)には滅度(めつど)せずして、常に此(ここ)に住(じゅう)して法を説く。
(「法華経」如来寿量品)
 
鎌田:  ちょっと字を見ただけではよくわからないんですが、「我仏を得てより来(このかた)、経(へ)たる所の諸の劫数(ごうしゅ)は、無量百千万億載阿僧祇(さいあそうぎ)」これは無限ということですね。言葉にあまりとらわれないでいいんですが、自分がこの仏さまになってから無限の時間が経ちました、ということですね。その間に「常に法を説いて無数億の衆生を教化して、仏道に入れしむ」その間に、「法」というのは、教えですが、教えを説きまして、この「無数億」というのは、たくさんの、無限の、ということですね。たくさんの私たちを教えてくれまして、そして私たちを仏道の中に入らせてくれました。それからずっとまた経っているということですね。「爾してより来」ずっとそれから現在に至るまで、やはり無限の時間が経っているんだ、と。そして仏さまは衆生を、「度せん」というのは、救うですが、衆生を救うために方便として、仮にこうした方がよくみなさん納得してくださるだろうというんで、涅槃に入られた。涅槃に入られたというのは、お亡くなりになるわけですね。入られたけれども、実際には仏さまというものは、お釈迦さまは決して亡くなっておられるんじゃないんだ、と。いつも今もここにおられまして、教えを説いてくださっているんだ、と。仏さまというのは、八十歳でお亡くなりになったんですね、歴史上は。そうすると、あ、お釈迦さまというのはもうお亡くなりになっちゃって、今は居ないんだ、というふうに考えますね。それでこういう経文を出して、しかしお亡くなりになったというのは、仮の方便で、本当はずっと無限の過去から無限の未来まで続いている仏さまが、本当の相(すがた)なんだ、と。ブッダ釈尊は亡くなっておりますから、それは仮にお亡くなりになったんだ、ということをこの経文は言おうとしているんですね。それで「医師の譬え」と言いまして、お医者さんの譬え話を、そこでお経は説明をするんです。それはどういうことかと言いますと、今の私たちはなかなか理解し難いんですが、当時のインドのお話だと現実性を帯びている話だと思います。それは大変な聡明なお医者さんがおられまして、そして仕事でよそへ行っておられた。それが家に帰って来て見たら、子どもたちがみんな毒水を飲んで苦しんでいるんですね。これは大変だというんで、薬を調合したわけです。ところが子どもたちは毒が回っているもんですから、これを飲まないといけないということがわからない。それで飲まない。それでお医者さんは困り果てまして、それじゃ方便をちょっと考えよう、というんで、子どもにこう言ったんです。「私はもう先があまりない。間もなく死ぬかも知れん」と。そしてまた旅に出て行ったわけですね。そして旅に出て行って、その旅先から使いの者を子どもたちにあげたんです。そのお使いは何と言ったかというと、「お父さんは死にましたよ」。旅先でお父さんは亡くなっているんだ、と伝えた。するとですね、子どもたちはビックリしたわけです。お父さんが亡くなってしまった。これは大変だ。それではお父さまがお作りになったこの薬を飲んでみなくちゃいけないんだ、というんで、その薬を頂いた。そうしましたら、毒がなくなりまして、病気が治った、ということなんですね。その治ったところへ、このお父さまが帰って来られまして、「いや、実は自分は死んではいなかったんだ。お前たちに薬を飲んで貰うために、仮に自分は死んだ、というふうに伝えたんだ」と言ったんですね。これがまあ医者の譬喩ですね。お医者さまの譬え話なんですが、それは一体何を言っているのかというと、そのお医者さまというのは、お釈迦さまなんですね。それから子どもというのは、私たちなんですね。だからお釈迦さまが、私たちに本当の良い薬、それは『法華経』の教えなんですね。残したいために、あるいは伝えたいために、聞いてくれるために、そこに仮に一時亡くなったといったわけです。で、それと同じように、この世に現れましたお釈迦さまも入滅されまして、亡くなられたわけだ、と。それは残された教えを私たちが本当に受け止めるための方便として姿を隠された、と。それがこの経文の内容なんですね。ですから譬喩が当たっているかどうかわかりませんが、要するに仏さまの教えというものを、私たちに信じさせるために、仮に姿を隠された、ということを言っているわけですね。そうすると、仮に姿を隠された仏さまとは別に、何か永遠の仏さまというものがないと拙いですね。そこでその次の段階で、いや仮に姿を隠された仏さまは、それは仮の仏さまで、本当の仏さまというのは、実はこうなんですよ、というのを、次に説くわけなんですね。
 
草柳:  それでは次の「如来寿量品」からお読み致しますが、先ほどの最後の文句も、「常に此に住して法を説く」ということがまさにそうだと思うんですが、
 
(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念を作(な)す。「何を以てか衆生をして無上道(むじょうどう)に入り、速(すみやか)に仏身(ぶっしん)に成就することを得せしめん」と。
(如来寿量品)
 
鎌田:  仏さまがどうして私たちをもっとも勝れた教え―無上道ですね、そこに入って仏心を完成させることができるであろうか、ということなんですね。仏さまは、私たちにまず無上道に入られること。私たちにも仏のいのちというものがわかるようにすること。それを願ってこういうふうに言っておられるわけですね。「是(こ)の念を作(な)す」というのは、こういうふうにいつも願っておりますよ、ということなんですね。だから私たちはこういうものを見ると、それでは最高の道というものを求めてみよう、という気になりますでしょう。それでこういうふうに言っているんです。仏さまの温かい、私たちを救おうという気持がこういう言葉で現れているわけです。
 
草柳:  「永遠のいのちがある。永遠の生命があるのだ」ということを本当に信じられたら、どのくらい気持が安まるか、という気がするんですけれども、果たして、じゃ、その永遠のいのちというのは、どういうふうにすればその中に自分の身を投ずることができるのか。信じることができるのか。その辺が多分きっとポイントだろうと思うんですが。
 
鎌田:  ですから「如来寿量品」というのは、永遠のいのちを説くわけですが、その前に「従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)」というのがありまして、その後に「分別功徳品(ふんべつくどくほん)」というのがありまして、その三つで構成されているんですね。日蓮聖人の説によりますと、中心になるのは、「如来寿量品」ですが、前に「従地湧出品」というのがあって、そして「分別功徳品」がその後に―十七章ですが―あって、それでこの説明が成り立っていくんだ、と、そういうふうに言っているんですね。それで、じゃ「従地湧出品」というのは―「湧出」と書きますが―何を説いているのかというと、「地涌(じゆ)の菩薩」と言いまして、地面から湧き出てくるところの菩薩について説いている。それは我々の世の中とまったく関係のない天上の菩薩じゃないんですね。この地面から、自分の足下から本当に姿を現してくる菩薩さま。そういう人が非常に大切なんだ、と。そういう人によって教えが説かれていくんだ、と。そうすると、この現実の世の中に本当に役立つ菩薩さまというと、私たちは現実に苦しみをもっていますね。悩みをもっていますね。そういうものに答えてくれる菩薩さまたちだ、と。そういうものがまず現れてくるんですね。そして、じゃ現実に私たちの悩みを救ってくれる菩薩さまだけではなくて、その背後にある何か永遠の仏さまというものがあるんじゃないか、ということを考えるんですね。この現実にいて、教えを説いてくれる菩薩さまだけじゃ、私たちなんとなく物足らない。それは現実の悩みを本当に考えてくれるんで有り難いですが、それだけでは物足らない。そうすると、どうしても「如来寿量品」で、永遠のいのちの仏というのを説かないと拙いな、ということになるんですね。それで永遠の仏のいのちというものを説明した後で、それでは先ほど申し上げたように、永遠の生命に参入する。それを本当にわかる為には、どうしたらいいか、というのを説いたのが、「分別功徳品」なんですね。だから現実の菩薩たち、それから永遠の仏のいのち、それからそれに到達するため、あるいはそれに入るためには、どうしたらいいのか、というので、三つの章が成り立っているんですね。大変巧妙にできていると思うんです。
 
草柳:  今おっしゃる「分別功徳品」の章が、どうすれば永遠のいのちを信じることができるか、ということを説いているわけですか。
 
鎌田:  そうです。ですからそれをちょっと経文を見て頂ければと思いますが、
 
草柳:  仏寿(ぶつじゅ)の無量(むりょう)なることを聞いて、一切、皆(み)な歓喜(かんぎ)す。仏の御名(みな)、十方(じっぽう)に聞こえて、広く衆生を饒益(にょうやく)したもう。一切善根(いっさいぜんこん)を具(ぐ)して、以って無上の心(しん)を助(たす)く。
(分別功徳品)
 
鎌田:  これは「如来寿量品」の後の、そこに出てまいっておりますように、「分別功徳品」ですね。これは「仏寿」仏の寿命というものは永遠だ、ということを教えて頂いたわけですね。それでみんなが心から喜びを持った、と。仏さまのいのちというのは、永遠なんだ、というのを聞いて、みんな喜んだわけですね。そして「仏の御名(みな)、十方(じっぽう)に聞こえ」仏のお名前が、みんな仏さまというのは素晴らしいんだ、ということがわかった。そして仏さまというものは、「衆生を饒益(にょうやく)」―饒益(にょうやく)というのは、利益を与えてくれることなんですね。ですから私たちにこの利益を与えてくださるんです、ということですね。そうすると、私たちはどうしたらいいかというと、「善根」というのは善い行いを積むことなんですね。善い行いをだんだん積んでいきますと、それが根になって、そして善い功徳を頂くことができるんですね。だから善い行為を行って、そして自分の無上の心を、それによって助けていくんだ、と。「無上の心」というのは、この上ない心、悟りを求める心ですね。あるいは永遠の仏を知ろうとする心ですね。そういうものを助けるためには、私たちが善い行為を積んでいかなければいけない、ということを言っているんです。そしてこの無上の心を助けるために、さまざまなことを行っていかなければいけないんですね。それを「分別功徳品」で説いていくわけです。「無上の心」というのは、最高の悟りを求める気持、ということですね。最高の心。私たちの心にはいろんな心がありますよね。普段の仕事でも、立派にその仕事をやっていこうとか、いろんな気持があります。願いがあります。そういう中で無上の願いは何かというと、仏さまの命を知ることなんだ、と。あるいは自分が悟りを求めて仏になることなんだ、と。だから仏さまになること、これが成りたいと思う気持、これが無上の心なんですね。そういうものを助けるためには、いろんなことをやっていかなければいけない。一言で言えば、善根ですね。それをまた「分別功徳品」では、「こういうこともやらなければいけない。こういうこともやらなければいけない」と説いているんです。それが普通大乗仏教では、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と言いまして、六つのやり方があるんですが、「分別功徳品」ではその中の五つを挙げていくわけですね。
 
草柳:  確かに今のお話の中で、善根―善い行いを積んでいく。一生懸命念ずる。そのことで大きないのちというか、全宇宙の存在みたいなものを、大いなるいのちを知ることができるのだ、というふうにおっしゃる。『法華経』は説いているみたいなんですけれども、ただやはり我々はどうしてもなかなか自分自身が自分のいのちを生きているんだ、というところからやっぱり抜けきれない部分があるんですよね。
 
鎌田:  それはもうしょうがないんですね。しかし本当は自分というのが自分ではなくて、もっと大きないのちに支えられている自分だ、ということを仏教では説くんですね。例えば呼吸一つ考えて頂きますと、息を吸い込むということは、天地の空気、命を頂くわけでしょう。それから息を吐くということは、自分の中にあるものを天地に吐いていくわけですね。ですから自分と天地というもの、あるいは「虚空(こくう)」と言ってもいいんですよ。「虚空のいのち」というものは、一つに通っているわけなんですね。だから「自分だと思っている自分の身体も、実は虚空、天地の一部分に過ぎない」わけですよね。それは虚空―呼吸一つ考えて見てもそうだし、それから時間的に考えますと、宇宙がいつから始まったかわかりませんが、ハワイの望遠鏡から見ますと、五十億光年の銀河がわかると言っていますでしょう。そうすると空間的にも無限ですよね。時間的にもある意味では無限ですね。そういう宇宙の生命力がありまして、その中から私というものが、幸い父母から生まれてきましてね、それは遺伝子を持って生まれてきて、そして人化になって生まれているわけでしょう。そしてそれも七十年とか、八十年とか、百年とか、虚空のいのちから分かれて生まれてきて、この世で生きて、働いていくわけですが、いずれはまた虚空の中に消えていくわけですね。だから虚空自体は永遠なものですね。そういう永遠の生命からちょっと分かれて、この一生を終わりまして、そしてまた虚空の中に還っていくんだ、と考えるんですね。そうすると、人間の、私のいのちで私の身体には違いないんですが、この私の身体がそういう自分だけのものではない。大きないのちの一部である、と。それは空間的にも無限の中の一粒に過ぎませんね。時間的には永遠の生命の中の一微塵と―仏教では「微塵」と―ゴミですね、過ぎない、ということがわかりますと、また違ってくるわけですね。
 
草柳:  もし自分がそうした果てしもない大宇宙の中に抱えられて生きているんだ、というふうに思うことができれば、例えば苦しみだとか、悲しみだとか、人間の今の生きているこの世界の中のことが、実にまあいいんだよ、いいんだよ、というふうに思えるのではないか、という気がしますね。
 
鎌田:  そうですね。そうすると人間がこの世でやっているいろんな悩みや苦しみがありますが、そういうものも本当に小さな泡に過ぎない。しかしその小さな小さな泡が自分自身を苦しめて自分を藻掻くわけですがね、しかしその背後には永遠のいのちというものがあるんだ。それをまあ『法華経』では、「永遠の如来のいのち」「仏の生命」というふうに呼んでいるわけですが、それをまずしっかりと認めることですね。それによって気持が変わってきます。それじゃ具体的にどういうようなことをやって善根を積むのか、というようなことが次に、六波羅蜜の話にもなってくるわけでありますが、その前に経文をちょっと出して頂けますでしょうか。
 
草柳:  われら衆生の仏性と、・・・三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理を、「妙法蓮華経」と名づけたるなり。
(法華初心成仏抄)
 
鎌田:  これは日蓮聖人のお言葉ですが、その前にちょっとご説明申し上げますと、「分別功徳品」では何を説いたかというと、まず二つあるんですね。第一は、「無生法忍(むしょうほうにん)」ということを知ること。第二は、「聞持陀羅尼(もんじだらに)」ということを知ること。これを説いているんですね。「聞持陀羅尼(もんじだらに)」の普通「陀羅尼」というと、真言の密事のことですね。ここでは密事のことではなくて、悪を抑えて善を行う力をいうんですね。「聞持」というのは、よく聞いて、それを保つこと。ですから悪を行わないで、善をしっかり行う。そういう力を蓄えていくんだ、ということが「聞持陀羅尼」ということなんですね。「総持寺(そうじじ)」という「総持」という言葉がありますが、この陀羅尼を「総持」と訳すこともあるんですね。聞いて保つ。よくそれを持っていく。保つというのは難しいことでありましてね。ただ聞いても忘れてしまいますでしょう。それをしっかりと自分が自分の中へ入れまして、それを持続していく。それが聞持なんですね。ただ聞くだけではダメで、やっぱりそれを持続していかなくちゃいけないんですね。もう一つは「無生法忍」ですね。「無生法忍」という言葉もわかり難い言葉ですが、無生の教えですね。「無生」というのは、「不生不滅」と同じことでありまして、「不生不滅」ということを「無生」とも言い換えて、仏心というのは不生不滅であるんだ、ということの教えを―「忍」というのはこれは言偏を付け頂くとおわかり頂けるんですが、認めること。そうだと納得すること。そうだと確認すること。そういうふうに考えますと、仏さまの生命というものは、不生不滅であるということをしっかりと認めることなんですね。それが「無生法忍」。ですから無生法忍ということと聞持陀羅尼。無生法忍で仏の生命が不生不滅だということがよく納得できるでしょう。それからそうなれば、自分は善い行いを積んでいかなくちゃいけない。それが聞持陀羅尼なんですね。この二つが非常に重要な働きになってくるわけなんですね。そしてそれをさらに分別功徳品では、五つの「波羅蜜(はらみつ)」ということで説いていく。これはもう普通の大乗仏教と同じでありますから、詳しくは申し上げませんが、一番目が「布施」ですね。布施をするとか、ものを人様に与えるとか、あるいは教えを人様に教えてあげるとか、それが「布施」ですね。二番目が「戒」です。「戒」というのは、生活を正して規則正しい生活を行う。三番目は「忍辱(にんにく)」というのは、怒らないことですね。私たちすぐにカッとしますが、それをしない。なるべく忍んでいかなくちゃいけない。四番目が「精進」と言いまして、一生懸命に努力をして少しでも昨日の自分よりは今日の自分の方がいいんだ、ということでしょうかね。五番目が「禅定(ぜんじょう)」と言って、心を統一すること。心がいつも千々に乱れますでしょう。それを統一していく。こういう五つのやり方がありますが、それを統合しているのは「般若波羅蜜」と言って、智慧の働きによって、それを行っている。ですから聞持陀羅尼で述べている善いことをしなさいという力は、どうしたら養われるのかと言いますと、今の並べたような六波羅蜜の項目をやっていきなさい。これは『法華経』では普通の大乗仏教でも同じでありますが、一体善いことって何か、というのはわかりませんよね、抽象的で。それを具体的に教えているわけです。その五つか六つの条目を出せば、あ、こういうことを生活の中で気を付けていけばいいんだ、と。それを気を付けることが善いことを積むこと。それが聞持陀羅尼と。それを積み重ねることによって、仏の永遠の生命を信ずる気持がより確固としていくわけですね。より固まっていく。また逆に仏の永遠の生命というものを信ずれば、こういうことを行えるようになるんですね。永遠の生命の中に生かされている自分と考えれば、やっぱり自分というものは自分だけの我が儘で世の中は送れませんよ。みんな人様のお陰で成り立っているんだし、もっと言えば時間的には先祖様のお陰で、こう自分が今あるわけですしね。ですから時間的にも空間的にもみんなそういう縁で生かされているということで、今度は感謝の念が出てきますね。
 
草柳:  ですからその辺のところがしっかり自分の身体で頷くことができれば、仏教というのは非常に積極的な教えだ、というふうに受け取れるわけですね。
 
鎌田:  そうですね。単なるニヒリズムというか、無常無常というと、厭世主義になるでしょう。そうじゃなくて、より積極的な、そういうものを本当に認識することによって、より人生を積極的に、前向きに生きる力が湧いてくる、と。こういうことになると思うんですね。そして先ほど日蓮さまのお言葉が出ましたので、その前に天台大師とか、伝教大師のお話をちょっとさせて頂きたいと思います。いきなり日蓮聖人を、先に出しましたけれども、それであそこの中の言葉はそのままでかまわないんですけれども、それに至る前に、『法華経』を天台大師智(ちぎ)(538-597)という中国の偉いお坊さんが『法華経』によって天台宗を創った。天台大師は大変に動乱の時代に生きたものですから、『法華経』に救われたわけですが、天台大師の教えというのは、『法華経』の哲学と、それから坐禅のやり方を纏めたんですね。「止観(しかん)」と専門の言葉で申しますが、心をどうやって統一したらいいか、と。それを今度は伝教大師最澄が中国へまいりまして、そして教えを直接受けたんではありませんが、天台大師より六代目の方のそのまたお弟子さんから受けたんですが、伝教大師は『法華経』だけではなくて、禅の教えも受けたし、一部分ですが、密教の教えも受けておりますし、戒律の教えも受けているんで、『法華経』だけというんじゃないんですね。ところが比叡山を開きまして、日本仏教の基ができていくわけですが、そこでみなさん鎌倉仏教の方々も比叡山で勉強しましてね、日蓮聖人もやはり比叡山で勉強されて、そして後にああいうものを開いていかれるわけですけれども、日蓮聖人は天台大師や伝教大師とどこか違うかというと、『法華経』だけなんですね。『法華経』の信心というか、『法華経』の行者と言いますか、『法華経』の信仰で生きられたわけですね。ですから信心という面から言えば、やはり日蓮聖人が一番強いわけですね。
 
草柳:  日蓮聖人=法華経というふうな感じなわけですね。
 
鎌田:  もうみなさん「南無妙法蓮華経」と言えば、日蓮聖人ですから、
 
草柳:  でもちょっと不思議なんですけれども、『法華経』というのは、遡れば日本の歴史の中で、聖徳大師時代に、聖徳大師が『法華経』の注釈書を書いていますでしょう。あれは六世紀ですね。それから延々と日蓮聖人、現在に至っているわけですけれども、やはり『法華経』の教えというのは、日本人の心情と言いますか、合っているんですか。
 
鎌田:  非常に合うんですね。隣の中国では『法華経』はそれほど重用されませんし、韓国でもあまり『法華経』は重用しない。ですから日本人が『法華経』を、本当に『法華経』のいのちを頂いて、そして切り開いていって、新しい日蓮宗というものを創った。それじゃ先ほどの言葉をちょっと、
 
草柳:  われら衆生の仏性と、・・・三世の諸仏の解(さとり)の妙法と一体不二なる理を、「妙法蓮華経」と名づけたるなり。
(法華初心成仏抄)
 
鎌田:  これも有名な言葉でありますが、我々の中にある仏性ですね、仏さまになる可能性でありますが、仏さまの心と言ってもいいですがね。それと三世の諸仏がお悟りになられました妙法、これは正しい真理ですね、正しい真理と一つだという道理こそが、妙法蓮華経なんだ、と。そうなりますと、日蓮聖人にとって、「妙法蓮華経」というものは、それそのものが「仏さまのいのち」なんですね。だから「妙法蓮華経」と字で書いたものと言うんじゃなくて、字で書いたそのものが『法華経』の一字一字がこれが仏さまなんだ。だから妙法蓮華経というのは、仏の生命そのものなんですね。だから「南無妙法蓮華経」という場合には、仏の生命に自分は帰入するんだ、というんで称えるわけですね。『法華経』が仏心だと考えてもいいんですね。なかなかそういう考え方は難しいと思いますが、日蓮聖人だからそれをはっきりと言い切ったんですね。いのちが『法華経』の中に通っているわけです。だから「南無妙法蓮華経」という称題が自然に湧き起こってくるわけですね。これがただ文字が書いてあるお経だというんじゃ、そういうふうに起こってきません。それこそが仏のいのちそのもの、それと一つになっていくんだというんで、こういうお言葉が生まれてくると思うんです。これはやっぱり天台大師でも、そういう言葉ではおっしゃらないわけですよ。もう一つありますでしょうか。
 
草柳:  次をお読み致しますが、
 
行学の二道をはげみ候べし。行学たえなば仏法はあるべからず・・・行学は信心よりおこるべく候。
(諸法実相鈔)
 
鎌田:  これも非常に有名な言葉でありまして、行と学、二つを励まなくちゃいけないんだ、と。しかし一番大切なのは「行」と「学」がありますけれども、信心だということを言っているんですね。普通はただ行学じゃなくて、学ぶだけでいいでしょう。ところが学ぶだけではやっぱりいけないんです。学道というと勉強すればいいんだ、と。お経の研究をすればいいんだ、というんじゃダメで、行がないといけない。だからもっと現代的に言えば、実践と理論。理論と実践の両方やらなければいけない。ただ知識として『法華経』を知っているだけじゃダメ。それを実行しなければいけない、というんで、この「行学の二道」と、こう言っているんですね。それで日蓮聖人がおっしゃるのは、この「行学二道」のどっちも絶えてしまえば、それは仏法はなくなるんだ。両方大切だ、ということを言っているんですね。そして「その行と学は何から起こるかと言ったら、信心から起こるんだ」。そうすると日蓮聖人にとって一番大切なのは「信心」ということになりますね。『法華経』に対する信心、それが確固としてないと行学も行えないということになりますね。これは非常に有名な言葉でありまして、特に学問だけやってもダメ、知識だけではダメ、頭だけで理解してもダメ。むしろ実行すること、あるいは具体的に言えば、称題を称えることになりますね、日蓮聖人の場合はね。そういうふうにそれを実行することですね。『法華経』の行者になること。『法華経』をただ頭で理解するんじゃなくて、『法華経』の教えを自分が体念して、それを少しでも行うこと、行ずること、それを強調しておられるんですね。なかなか単に『法華経』の内容を読んで理解するということは、何とか勉強すればできますが、それを自分自身が自分の身体で本当に行っていくとなるとなかなかできません。一つだってできません。いろいろ『法華経』の中で教えを説いておりますし、さっきも分別功徳品の中で波羅蜜のことも説いておりますが、その波羅蜜の一つだってできないですよ。例えば「忍辱」とあるでしょう。堪え忍ぶんだ、と。人からバカにされたりすると、どんな人でもカッとしますでしょう。自分を無視されたり。そういう時に如何にして堪え忍ぶかということを、一つだってできないんですよ。この前の時間もお話した常不軽菩薩が、どんな人でも拝むんだという。これをやってみろ、と言われたらできないんです。人間は相手によって区別したりしますでしょう。それをどんな人に対しても―位の上の人に対しても、あるいは自分の部下の人に対しても、同じようにできないんですよ。そういうことも常不軽菩薩はやったわけでしょう。どれ一つとっても、行うとなるとできない。言うは易いですよ。あるいは頭で理解することは易いですよ。しかしそれを本当に行うことはできない。だから行道と学道と両方しっかりやらなければいかん、と。その二つを支えるのは信心だ、と、こう言っているわけですね。
 
草柳:  しかもその当時鎌倉仏教のそうそうたる祖師たちがいっぱい綺羅星の如くいた中で、これだけ自分の信念を、「法華経の中にこそ真理がある」と言って、今のようにもの凄い力強い言葉で言えるというのは、日蓮聖人というのは大変な人だったんですね。
 
鎌田:  やはり『法華経』に書いてあるお経の言葉が、自分のとピッタリ合うのがいくつかあるんですね。だから自分こそ使命感を頂いているんだ、と。『法華経』を広めなければならないんだ、と。それは『法華経』の中の言葉が、自分自身を説いているんだ、というふうにお感じになったんでしょうね。それでいろんなお経を読んで勉強されましたけれども、『法華経』でなければダメだ、と。『法華経』でなければ日本国は救われない。『法華経』でなければ個人の安心立命もないと、こう言い切ったんですね。だから当然他の宗派の悪口もその勢いでやったものですから、他の宗派からは猛烈に攻撃を受けたわけです。「お前、そんな独りで勝手なことを言っていいのか」と言うんだけど、それを言えば言うほど『法華経』の中に「迫害を受けて、罵詈雑言を受けて、石を投げられて、と、そういうことに必ず遭います」と。そうすると自分が遭っているわけでしょう。まさに私は使命をもって生まれたんだ、という確信が余計深まっていくわけですね。それが強烈な信念となって、ああいう生き方ができたんだろうと思います。
 
草柳:  じゃ、次を読んでみます。
 
魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅(あんら)樹の花は多くさけども菓(み)になるは少なし。人も又此くの如し。菩提心を発(おこ)す人は多けれども退せずして実(まこと)の道に入る人は少なし。都(すべ)て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぶらかされ、事にふれて移りやすき物なり。
(松野殿御返事)
 
鎌田:  これも有名なお言葉でありますが、魚の子どもはたくさん卵が産まれますけれども、成長して魚になるのは少ないわけですね。あるいは菴羅(あんら)樹―マンゴーの木ですが、これも花はたくさん咲きますが、その中で実になるのは少ない、と。日蓮聖人は譬喩が非常に上手です。非常に巧みに比喩をあげてこられますが、人間も同じだと。「菩提心を発(おこ)す人は多けれども」やろう、向上しよう、悟りを求めよう、それじゃ仏教がわかったからやってみようという気持を発(おこ)す人は多いんですが、その次が重要なんです。「退せずして実(まこと)の道に入る人は少なし」この「退せずして」というのが非常に重要なんですね。退かない。最後まで読んでしまいますと、「都(すべ)て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぶらかされ」この私たちが、向上の気持をもっても、よくなろうという、そういう気持をもっても、たまたまいろんな条件や因縁が起こりまして、しかもそれが悪縁なんですね。そしてそれにたぶらかされまして、ダメになってしまうんだ、ということなんです。私たち、何かやろうと、向上しようと、あるいはもっと高度なことでしたら仏の道を求めようというような気持を発しますね。しかしすぐいろんな条件でダメになっちゃう。私たちも普段の生活でもそうです。いろいろ健康法なんか聞いてね、じゃ、明日からやってみようと思っても大抵二、三日で、今日は雨が降ったからやめだとか、いうんでダメでしょう。それを悪縁と言っているわけですね。さまざまの悪しき条件、それがしょっちゅう取り巻いている。それを今度は自分で都合良く解釈するんですね。あ、これだからダメで、自分自身を納得させる。これが私たちなんです。それを日蓮聖人さまは諫(いさ)められまして、それじゃいけないんだ、と。不退の心をもたないといけないんだ、と。退かない、これが大切だと思うんです。仏教でも修行の階段を考える時に、不退の位というのを考えますが非常に難しいですね。私たちは何日か向上しようと思っていろんなことをやりますでしょう。ところが不退のところへいく前に戻っちゃうんですね。例えば武道でも、スポーツでも、芸道でも、なんか始めるでしょう、人に言われて。そうすると三月ぐらいやってね、それでやめてしまう。もうダメ。一年やってやめてしまう。ダメなんですね。やっぱり不退に入るのはどんなに少なくとも三年かかるんですね。三年なんか続けておりますと、なんとか戻らないようになる。戻らないということが非常に重要なんですね。大抵は戻って元の木阿弥になっちゃう。それではやっぱりいけないわけで、これはもう武道とか芸道とかスポーツ、みな同じですよね。健康法も同じだと思うんです。二、三日やったんじゃダメで、不退のところへ入っていかないといけないんだ、と。
 
草柳:  「不退転」という言葉がありますよね。
 
鎌田:  そうです。まさにそこに入るのは大変です。不退に入るためには三年間継続しなければダメです。毎日毎日ね、積み重ねがないとダメです。積み重ねがあれば不退に入れるんですね。お経のお言葉でもちょっと似たのがありますので挙げて頂けますか。
 
草柳:  若し行者の心、しばしば懈(おこた)り廃すれば、譬(たと)えば火を鑚(き)りて未だ熟せずして息(や)むが如し。火を得んと欲すと雖(いえど)も火を得べきこと難(かた)し。
(遺教経)
 
鎌田:  これは「遺教経」というお釈迦様が亡くなる前に残された教えを説いたお経でありますけれども、行者の心ですね、修行をする人の気持が、「しばしば懈(おこた)り廃すれば」時々やめてしまう。時々怠けてしまう、ということはちょうど火を熾(おこ)そうと、昔木を擦って火を熾(おこ)しましたね。そういうふうに一生懸命擦っているんですが、まだ火が完全にできる前に途中で止めてしまう。そうすると火は熾(おこ)りませんね。ダメになってしまう。それと同じように、火を本当に得ようと思えば最後までやり遂げなければいけないわけでしょう。最後まで木を擦らなければいけない。ところが途中で止めれば火はそれで得られない。まったく私たちが物事を行う時はこの気持が大切ですよ、と。途中で止める。これが一番いけないというのを、このお経は一言で言っているんですね。ところが私たちは途中で止めることが多いんですよ。何度もね、これはダメだと思うと、途中で止めちゃいますでしょう。ですから途中で止めない。一旦志を立てたら、ある年月ですね、ある時間ずっと続けないといけないんですね。続けられるというのが、それが一つの立派さなんですね。物事を途中で止めないで続けてやれるという気持。それをもつことが発心になるんだろうと思いますね。ですから日蓮聖人のお言葉でも、今のお経のお言葉でも非常にいいことを言っているんですね。途中で止めてはいけない。日蓮聖人は、それが不退転のところ、退かないところまで到達しないといけませんよ、と、こういっているわけですね。で、日蓮聖人がおっしゃるのは信心であるし、お経で説いているのは修行なんですがね。それは信心も修行も当然そうですが、それをもっと拡大しましてね、私たちが普段やっていること、それに十分に適用ができると思うんですね。ですからどんなことであっても、ある程度の段階に達するまでは、継続して不退のところまでいかなくちゃいけない、ということが大切だと思うんです。
 
草柳:  ブッダが八十歳で亡くなられる前の最後の言葉として弟子たちに、「修行を怠るなかれ」という言葉がありますね。
 
鎌田:  そうです。それに尽きるんですね。仏教の場合には、信心の問題、あるいは修行の問題でいうわけですが、それだけじゃなくて、人生すべてそうですね。人生すべて元気なうち、身体が動くうちは何かをやっていかなくちゃいけない。たとい身体が不自由になっても、気持はこう動かせますので、人間はどんなことがあっても止めたらダメですね。中国の医学の言葉ですが、「流水腐らず」という言葉がありますが、流れる水というのは、腐らない。水が停滞しますと澱むでしょう。そうすると腐ってしまう。魚も棲めない。ところが水も流れていれば大丈夫なんですね。それと同じように、人間の私たちの身体も絶えず流水の状況にしなければいけない、ということなんですね。しかし元気なうちはそれできますよ。しかし足が悪くとも、手が悪くとも、どっか内蔵が悪くとも、その場合にはお医者さんにかかったり、入院したりしなければなりません。しかし少しでも動かすことを意識することが必要なんだと思うんですね。その中国の「流水腐らず」という言葉は、それをいうわけです。意識するだけでも、そこだけ動くわけですよ。そういう気持が人間の身体にとっても大切だ、と。今日のお話は身体のことを言っているんじゃありませんがね。信心の問題、修行の問題を、日蓮聖人さまがああいうふうにお説きになっているわけでありますが、それ修行の問題とか、信心の問題に限らず、あらゆる生きる人生の生活の中に、それを日蓮さまのお言葉を頂きたいと思いますね。
 
草柳:  そして今日のテーマで言えば、私たちは本当に果てのない大宇宙の中で、永遠のいのちの中で生かされているんだ、ということを、そのことを知るということが大切なことで、それを知ることによって安心立命と言いますか、そういう境地に、そういう境涯にいける、いくことができるということを知るということですね。
 
鎌田:  ええ。確信すると申しますかね、自分で自覚すると申しますか、それによって新しい生きる喜びが生まれてくるということですね。そういう意味で、『法華経』が説いている永遠の仏陀、仏陀の生命の永遠性というのは、私たちの心の安心の支えになるわけです。基本になるわけです。そういう意味で今日の話も非常に大切だろうと思うんです。
 
草柳:  次回は『観音経』についてですね。『観音経』のどういうところが次回のポイントですか。
 
鎌田:  それでは現実に働いて、私たちの苦しみを救ってくださる観音様とは、いったいどういうお方かと。普通「観音様、観音様」とよく言いますでしょう。「じゃ、観音さまとは何ですか。どういう方ですか」と言われると、ちょっとみなさん、わからないんで、それをまた『法華経』が見事に解き明かしてくれるわけですね。そのことを次回でお話して、『法華経』もその三回で大体重要なところが終わることができるのではないかというふうに考えております。
 
草柳:  観音信仰ということも随分広く行き渡っているわけでしょうから。
 
鎌田:  はい。みなさん、観音様と言えば、観音の巡礼をしたり致しますでしょう。ですから重要なテーマであると思います。
 
草柳:  じゃ、また次回もよろしくお願い致します。今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年六月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである