いのちの探求 大乗仏典に学ぶC現世の救い
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    白 鳥  元 雄
 
白鳥:  「大乗仏典に学ぶ」の四回目です。前回と前々回二回にわたりまして、『法華経』の前半と後半について、二回に分けてお伝え致しました。今日は『法華経』の中にありながら、独立した経典として称えられている『観音経』を取り上げてみたいと思います。この『観音経』はご存じの通りたくさんの人に広く信仰されているお経です。お話は東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。いつもの聞き手に回っております草柳さんが病気で休んでおりますので、私が来ております。どうぞよろしくお願い致します。
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
白鳥:  まず『観音経』はどういうお経なのか。その特徴からお話頂けませんか。
 
鎌田:  この前とこの前二回にわたって『法華経』の教えをお話したんですが、『法華経』の教えを実行する菩薩さんたち、それが『観音経』の後半の方に書かれておりまして、例えば常不軽(じょうふきょう)菩薩とか、薬王(やくおう)菩薩とか、あるいは妙音(みょうおん)菩薩、普賢(ふげん)菩薩、いろんな菩薩さん方がいらっしゃるわけですね。その中で観音菩薩が一番人々によく信仰されまして、有名な菩薩さんでありまして、観音菩薩さんのことを書いたのが『観音経』と言われますが、『観世音菩薩普門品第二十五』で、だから第二十五章は観世音菩薩のことを書いたお経である、と。勿論『法華経』の中の一部分なんですね。
 
白鳥:  一章ということですね。
 
鎌田:  一章なんです。ところがそれが観音様が非常に信心をすれば願いを叶えてくれたり、あるいは親しみ深い菩薩なものですから、そこのところだけを取り出しまして、そし『観音経』としてよく読まれるようになったんですね。勿論『観世音菩薩普門品第二十五』は、『法華経』の一つですから、翻訳されたのは鳩摩羅什(くまらじゅう)によりまして、四百六年に翻訳されたんですが、そこだけまたよく読まれるようになって、それで中国でも日本でも、東アジアのいろんな地域で『観音経』として、みなさんそれを読んでいるわけなんです。そういうわけで今日は特に『観音経』を取り上げてお話したい。観音様というと千手(せんじゅ)観音があったり、如意輪(にょいりん)観音があったり、楊柳(ようりゅう)観音があったり、いろんな観音様がありますね。
 
白鳥:  そうですね。非常に美しいお顔立ち、お姿も美しいし、
 
鎌田:  そうなんです。仏像を見ても一番私たち親しみのあるのが観音菩薩のお姿ですね。ですから観音さまというのは我々に一番近い菩薩だ、と。私なんかも若い時は『観音経』と言いますと、何だかあんまり願いを叶えてくれるということだけ説いているでしょう。だから何だか普通の低俗な信仰を説いているのかと思ったんです。ところがだんだん歳をとっていきますと、一番簡単に書いてあること、それが一番深いんだ、と。だから昔から「浅きは深きなり」とこういうんですね。浅いものほど、ちょっと表面を見ると非常に浅薄に見えるでしょう。ところが実際は非常に深い教えなんだ、ということがだんだん年齢をとってきますと、わかるような気が致します。それで今日から、これから『観音経』のお話を進めたいと思います。
 
白鳥:  じゃ、まず冒頭の部分からまいりましょうか。『観音経』の冒頭に、「どうして観世音と名付けられているのか」という、そういった疑問から始まっているわけですね。
 
(そ)の時に無尽意菩薩(むじんにぼさつ)、即ち座より起(た)って、偏(ひとえ)に右の肩を袒(あらわ)にし、合掌し仏に向かいたてまつりて、この言(ことば)を作(な)さく、「世尊(せそん)、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は何の因縁(いんねん)を以(もっ)てか観世音と名づくるやと」。
(「観音経」)
 
鎌田:  これが『観音経』の冒頭ですね。無尽意菩薩という方が、仏さまの説法を聴いておられる代表として―代表格なんですね。たくさん聴衆がいるんですが、その代表格として無尽意菩薩がこうお立ちになって、「無尽意」というのは、尽きることのない心をもって、尽きることのない衆生を救います、と、そういう意味なんですね。いい名前です。尽きることのない心、それをもって尽きることのない私たちを救ってくれるんだ、と、そういう名前なんですね。その方が立ち上がりまして、「偏(ひとえ)に右の肩を袒(あらわ)にし」これはインドの方の服装でもそうだし、お坊さんの場合には袈裟(けさ)というのがありまして、右の肩を出してするんですが、それは智慧を現すんだ、と昔から言われて、それで右の肩を出して、そして合掌して、仏さまに向かわれて、こういう質問をされたんですね。「世尊―仏さまよ、観世音菩薩はどういうわけで観世音と名付けるんですか」と、こういう質問なんですね。だから端的に、「観世音菩薩はどうして観世音というんだ」というように、無尽意菩薩がご質問なされた。それに対してお答えが出てくるわけですね。
 
白鳥:  「善男子(ぜんなんし)よ、若(も)し無量百千満億の衆生ありて、諸の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を聞きて一心に名(みな)を称(とな)えば、観世音菩薩は、即時(ただち)にその音声(おんじょう)を観(かん)じて皆、解脱(まぬが)るることを得せしめん」
(「観音経」)
 
鎌田:  これが今の質問の答えなんですね。「善男子よ」というのは、みなさんよ、ということですね。たくさんの数限りない、「衆生」というのは私たちですが、生きとし生ける私たちみんな苦悩を背負って生きているんだ。これはどんな人もそうですね。現在であっても、生まれてから死ぬまで、それなりに年齢に応じてさまざまな苦しみを受けて生きているわけです。そういう時に「観世音菩薩を聞いて一心に名(みな)を称えれば」観音菩薩のお名前を一心に称えればですね、「観音菩薩は即時(ただち)にその音声(おんじょう)」声を聞いて、そして私たちを救ってくれるんだ、と。ですからここで言っていることの一番重要なのは、「一心称名(いっしんしょうみょう)」ということなんですね。一心に観音菩薩の御名(みな)を称える。だから「南無(なむ)」を付ければ、「南無観世音菩薩」と言ってもいいですしね。一心に「観世音菩薩様」という御名を称える。「称名」というのがここで非常に重要になるんですね。御名(みな)を称える。ただ心で思っているだけではいけないんですね。名前を称えることによって観音菩薩が実在化してくるわけなんですね。ですからここで一心称名ということが一番重要なんですよ、と。そして観世音菩薩という名前なんですが、「世音を観じる」ですね。「世音を観ずる」ということの「世音」というのは、私たちの願いですね。私たちの願いを見てくださる菩薩。あるいは私たちの願いを叶えてくださる菩薩。それで観世音菩薩と、こういうふうに言っているわけですね。ですから一心称名ということが非常に重要になってくるわけですね。御名を称えるということであります。それじゃそういうふうに一心称名をすれば、どういう災難を逃れることができるか、というのを、お経がいろいろ書いていくわけですね。「七難」と言いまして、火難、水難、風難、剣難、悪鬼難、枷鎖(かさ)難、怨賊(おんぞく)難、この七つの難儀をお経は説いていくわけですね。七難というのは、比喩的に言っているんですが、「火難」というのは、火の難なんですが、火が燃え盛りますね、それと同じように私たちの中でも、いつもなんか不満があったりすれば火のように燃え盛りますね。あるいは嫉妬の気持があれば火のように燃えます。そういうのはみんな火に焼かれるような難儀だというんで、火難というわけですね。あるいは「水難」というのは、水に溺れた時に、観音様の御名を称えれば救われるということを説いているんですが、いつも私たち、溺れるということはありますでしょう。いろんなことに溺れてね、遊びに溺れたり、
 
白鳥:  単なる水難だけじゃないですね。
 
鎌田:  「水難」というのは、溺れるということをみんな表している。ただ私たちはいろんなことに溺れますでしょう。悪いことにもつい溺れる。そういう時に観音様の御名を称えるとフッと立ち直るんですね。フッと思い直す。一歩溺れそうになっても、フッと、あ、これは立ち止まらなければいけないな、ということなんですね。あるいは枷鎖(かさ)で縛られている。「首枷(くびかせ)、足枷」それを枷鎖(かさ)なんて言いますがね。こういうようなことも私たちの生きていることそのものが、いろんな首枷、手枷、足枷で縛られていますでしょう。
 
白鳥:  拘束感は随分ありますよね。
 
鎌田:  普段の生活自体が縛られていることなんです。それを観音様の御名を念ずると、そういう拘束から逃れることができる、ということを言っているわけなんですね。ですから「七難」というのは、比喩的に火の難儀だとか、水の難儀だとか、風の難儀だとか、あるいは鬼が出てくるとか、それは鬼だっても比喩的ですが、実際にさまざまな恐ろしいものが私たちの人生では襲ってきますね。恐怖を感じるようなことなんですね。そういう時に観音様の御名を一心に称えれば、そこから逃れることができる。まあ簡単に常識的に言ってしまえば、立ち止まることができるんですね。いろんなものに溺れたり、誘惑があったり、そういう時に一歩立ち止まれるんじゃないか、というので、「南無観世音菩薩」と御名を称える。そうすると気持が落ち着きますので、それで悪いことへ入るのも、そこでなんとか思い止まることができる。人生の中で踏み止まるというのは非常に重要なのですね。
 
白鳥:  例えば「南無観世音菩薩」という称名というものがもつ意味合いについて、やはりなんとなくそれこそ火難とか水難とか風難とか、あるいは剣難とか、そういう形でそういったものから逃れる一種の現世利益、そういったものを非常に具体的に考えてしまう。現世利益的な形で捉える方々が多いですよね。そうじゃないんですね。
 
鎌田:  現世利益と捉えても構えませんが、もっと深いものをもっている。先ほど申し上げましたように「浅きは深きなり」と。一番簡単なこと。だから現世利益として捉えても構わないですが、その時にだんだん深まってくるんですね。「称名」ということをもう少しお話致しますと、目に見えないもの、それを御名を称えることによって現実化してくるということなんですね。だから観世音菩薩は目に見えません。しかしそれをお称えすることによって一体感が生まれてくるんですね。そのために称名ということが重要ではないかと、こういうふうに言われるわけですね。
 
白鳥:  一心に御名を称える。
 
鎌田:  そうなんです。そうすると七つの難儀から逃れることができる、と、こう言っているわけですね。それからさらに人間の欲望の基本的なことでありますが、淫欲、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)の「三つの毒」というのがありまして、そういう「三毒」からも離れることができるということが、次の経文に説かれていくわけですね。
 
白鳥:  「若(も)し衆生有りて、淫欲(いんよく)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬(くぎょう)せば、便(すなわ)ち欲を離るることを得ん。
若し瞋恚(しんに)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち瞋(いか)りを離るることを得ん。若し愚痴(ぐち)多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴(ち)を離るることを得ん」
(「観音経」)
 
鎌田:  これが「三毒難」と、こう普通呼んでいるんですが、三つの毒を離れることができるから、三毒難というわけでありますね。それで一番最初の「淫欲(いんよく)多からん」淫欲というのは普通の淫欲よりももっと多く「貪欲(とんよく)」と言ってもいいと思うんです。
 
白鳥:  「貪(むさぼ)る」という字ですね。
 
鎌田:  「貪り」という字で、淫欲というと性欲の意味でとられますが、もう少し大きな意味で「貪欲」貪りですね。貪りの気持が起こった時に、観世音菩薩を念ずる。そうしますと貪欲を離れることができましょう。第二は、「瞋恚(しんい)」というのは、瞋恚(いかり)ですね。カッと怒ることですね。非常に怒りが起こってきた時に常に観音様のことを思う。一心に称名する。あるいは一心に念ずるとでもいいですね。念ずるというのは、思うことですね。そうすれば怒りを消すことができる。怒りから離れることができる。第三番目には、「愚痴」というのは、愚かと言いますか、こんな筈じゃなかったとか、人生いろいろ愚痴をいうこと多いですよね。そういう時に観世音菩薩のことを思えば、そうすると愚かさ―愚痴というものから離れることができるのではないか。これが「三毒」というんですね。簡単に言いますと、「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」なんですね。一字ずつで言いますと、「貪・瞋・痴」。「貪」は貪り。「瞋」は怒り、「痴」は愚かさ。人間の欲望というのは、限りがありませんので、貪れば次々に貪るようになってまいります。仏教では、「少欲知足(しょうよくちそく)」ということも説きますが、あんまり貪りの気持が酷いと地獄になっていくわけですね。もっと欲しいもっと欲しいという止めどがないわけでしょう。それをただひたすらに追求していったら、世の中のことや人様のことを考えないで、自分だけで貪りの気持をもっていけば、最後は破滅が起こるんですね、それが「貪」。「瞋」は怒りで、私たち怒りというのも、どうしてこんなに怒ったのか、よくわかりませんよね。急にカッと怒りだして、
 
白鳥:  怒った後というのは、心がだんだん荒ぶっていく。自分としても気持がよくないですものね。
 
鎌田:  そしてやっぱりカッとしますので、身体によくありませんし、しかし人間はすぐなんかの怒りというのは、いろんな条件があって、その条件によってパッと怒るわけですよね。怒る気持があっても、観音様のことを思うと、観音様のお顔を浮かべるだけでもカッとしている気持がだんだん穏やかになって静まってまいりますのでね、それで怒りを静めるのにも観音様のことを思いなさい、と。それから「愚かさ」というのは、人間というのはどんどん変わっていきますでしょう。変化していきます。仏教では「無常」と言います。ところがいつまでも同じだと思うんですね。かつていいことがあると、今もその良いことが続いていると、こういうふうに思ったりするんですね。そうじゃなくて、今は今、会社を定年で辞めれば、それはもう定年という時期を迎えたんで、今は今、かつてはこうだったとかね、かつて偉い地位にいったような方だと余計そう思うんですね。かつてはこうだった。今はと。そうすると今の現実を、愚痴をいうわけですよね。しかしいくら言ってもダメなんですね。歳をとって、身体が衰えてまいりますでしょう。そういう時にいくら愚痴っても、若い時は良かったと、いくら胸張っても、それは帰らないんですから、やっぱりその現実、その時に合わせてそれを自覚しないといけないんですね。
 
白鳥:  「愚痴」と言いますと、日本語的にはぶつぶつ不満をいうような感じですけど、こうやって字を分けてみれば、愚かにも、つまり今の状況というものをきちんと、無常の流れみたいなものをきちんと見ていないという非理性的な状態をいうんですね。
 
鎌田:  そうなんです。だから仏教の基本の教えは無常、全てのものは変わっていきますよ、と。人間の肉体でも、いろんな社会的な地位でも変わっていきますよ。それをよく見つめていないといけない。それを見つめていれば、愚痴は出てこない。いくら過去は良かったよ、と言ったところで、今は苦しいんですから、それをむしろ認めてしまえば、今が気が安らかになっていますね。そういう意味で、いつも愚痴を言っているということはやっぱり愚かなんですね。ですから観音様のことを思うということは、やっぱり正しい認識をもって観音様の気持になって欲張らないこと、怒らないこと、愚痴を言わないことというのが、生活の中で非常に大切だと思うんです。だから『観音経』では、七つの難儀の後には、この三毒を説いて、それでこの「貪・瞋・痴」の三毒というのは、非常に大切なことなんですね。それを他の人の言葉や教えを見ながら、話を進めさせて頂きたいと思いますが。
 
白鳥:  「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し。少欲の人は無求無欲なれば、すなわちこの患(うれ)いなし。・・・
少欲を行ずる者は心、すなわち坦然(たんぜん)として憂畏(うい)するところなし。事に触れて余りあり、常に足らざることなし」
(「遺教経」)
 
鎌田:  これが『遺教経』というお経でありまして、お釈迦様が亡くなられる前に、最後の教えを説かれたんですが、その中のお言葉なんですね。「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩もまた多し」欲の多い人、欲の強い人は、自分のための利益だけを求めるようになりますね。そうするとまた苦しみも多いんだ、と。インドで説かれたお経でもよく現実の私たちの今の人間のこととよく合っていますよね。その通りなんですよね。少欲の人はあんまり求めない。そして欲を少なくしてというと苦しみも少なくなる、と。これは本当なんですね。若いうちはなかなか少欲にはなれませんが、だんだんと定年退職して、歳をとってきますと、だんだん無欲になっていきますね。人間って一番強いのは無欲なんですね。怖れるものが、無欲なればなくなってきますし、無欲になることというと、みなさん消極的と考えるでしょう。ところがそうじゃなくて、かえって強いんですね。ほんとに強い力は無欲だからできる、ということにもなるんですね。
 
白鳥:  いろいろな拘りから解放されるという形ですね。
 
鎌田:  そうです。誰でも欲がないと進歩もないし、向上もありません。しかし自分の身分を超えた欲を欠くということはあまりよくない。そして晩年になって、無欲になると経営者であっても、かえって良い仕事ができたり、無欲であるとほんとに力が出てきたりするんですね。だから「少欲を行ずる者は心、すなわち坦然(たんぜん)として憂畏(うい)するところなし」無欲も少欲も同じですが、あんまり貪らない。貪りの気持を持たない。そうすれば「坦然(たんぜん)」というのは、平然として平らかで、心がいつも平らかで、怖れるものがまったくない、と。心が平らかということは非常に必要なんですね。いつも波打ったりしますでしょう。なんか欲を欠いておりますと、波打ちます。それをしないで心がいつも平らかな状態にしていく。そうすれば恐れというものもないんですよ、とこう説いているわけですね。そして「事に触れて余りあり」どんなことがあっても、どんなことに触れても、どんなことに直面しても、余裕がある。「余り」というのは、余裕がある。もっというと、「ゆとり」がある。これが大切なんですね。だから今の時代、生活していると、ゆとりがないでしょう。先ず時間に逐われてね。いろんなことに逐われて、それが「ゆとり」ということが非常に重要なんですね。これ今経済も停滞しておりますが、かえってゆとりをいろんな面で求めること、ですから次の二十一世紀にはゆとりを少しいろんな生活の面でも、気持の面でももつことが必要ですね。私たち、ゆとりなんか、特にバブルの時からありませんで、ただなんかに逐われて生きてまいりましたけれども、やっぱりゆとりというものが必要だ、と。ゆとりを得るためには欲を少なくしなさい、と。このお経で説いているんですね。本当のことです。今一番足りないんです、ゆとりが。
 
白鳥:  先生は二十世紀を四分の三、私も三分の二生きてきましたけれども、例えば日本が生きてきた二十世紀の前半の貧しいところからスタートして、またそれを戦争で失って、もっと貧しいところからもう一遍スタートだったわけですね。そういったところから見れば、今なんか足りている筈なんだけれども、まだまだ欲しい欲しい病が起こってくるのは、やっぱり足ることを知らないんでしょうね。
 
鎌田:  そして一生懸命私たちも働いたわけですが、結局大きいものはいいんだ、と。前へ進むことがいいんだ、と。そういう考え方ですね。そうするとそれでずっと走ってきたわけですね。その最後の結末がバブルの経済を迎えて、それが崩壊した今ですね。今度はやっぱり余裕と言いますか、ゆとりと言いますか、今の生活は一体何なんだったのだろうか、と、みなさん思っただろうと思うんですね。働いた方ほど思っていると思うんですね。そういう意味で『遺教経』の教えというのは、本当のことを言っていると思うんです。
 
白鳥:  その時にやはり観世音を一心に称えることによって、そういった欲しい欲しい病から逃れることができるわけですね。
 
鎌田:  観音様を思い浮かべることでいいですよね。「念ずる」というのは、思うことですね。思えばやっぱり観音様のお顔を見れば、ああいう顔にしたいと思います。それだけで立ち止まりますのでね。このままいったんじゃとんでもない顔になっちゃうと、誰でも思いますよね。ですからこういうことは大切なことだと思うんですね。あとそんなことについて、また鈴木正三(すずきしょうさん)(1579-1655)という江戸時代に武士からお坊さんになられた方ですが、非常にユニークな、そして一般の民衆にも分かり易い教えを説いているんですね。
 
白鳥:  鈴木正三の『反故集(ほごしゅう)』という、
 
鎌田:  そうですね。そういうことでもう一回、愚痴とか何かを、じゃ日本の江戸時代の方はどういうふうに思っていたのかというんで、読んでまいりましょうか。
 
白鳥:  「瞋恚(しんに)より地獄に入事(はいること)、其(その)(ことわり)明也(あきらかなり)。瞋恚より起こる所の念、一(ひとつ)として正路(しょうろ)なる事なし。瞋(いかり)の心強き人は、物毎に憤(いきどお)り強くして、人を憎(にくむ)心甚(はなはだ)し」
(鈴木正三「反故(ほご)集」)
 
鎌田:  これも簡単に日本人の感じで、瞋恚(しんい)―瞋恚(いかり)というものを説明しているんですね。
 
白鳥:  分かり易いですね。
 
鎌田:  はい。分かり易いです。「瞋(しん)」も「恚(い)」も「いかり」ということですが、人間カッとすることによって地獄の中へ入っちゃうんです。心が地獄に入ってしまうということは、その道理は明らかだ、と。だから怒ってはいけないということですね。それで怒りが起こるところの心というものは、それは正しいものがないんだ、と。怒るというのは、間違いなんだ、と。真っ直ぐ進む、正しく生きていれば怒りは起こらないんですけれども、やっぱり怒りというのは邪道なんだということをはっきり言っているんですね。そして怒りの気持の強い人というのは、何でも憤(いきどお)りが強いもんだから、また人を憎む気持も強くなってしまう。人を憎むというのはよくありません。だから単に怒るというんじゃなくて、怒ることに、怒りの気持の強い人は人も憎むんですね。そうすると憎悪(ぞうお)になってきます。それでこの世の中が和合じゃなくて、憎悪になっていきますと、社会生活も家庭内の生活もうまくいかなくなりますね。だから怒るというのは、個人だけが怒るというんじゃないんですね。その影響は、人を憎むようになる。これはよくないんですね。それを鈴木正三が戒めているわけですね。この怒るというのは、個人が勝手に怒っているんじゃない、と。その影響は人を憎むようになる。そうすると和合ということができませんね。それで人を憎んだり、喧嘩したりしていて、社会生活も家庭生活もそれは地獄になってしまいますよ、ということを言っているんですね。
 
白鳥:  自分と適合しない者に対する対し方ですよね。この時にやっぱり怒ってはいけない。ましてそれが感情的にむらむらするような怒りであってはいけないということですね。
 
鎌田:  そうですね。それは正義の怒りというのはありますし、男の人生ではほんとに怒ることもありますけどね、それは滅多にない。普通はただ感情的な怒りでしょう。普通の生活の中で、感情的に怒ってはいけません、と。だからいろんな修養の方法がありますが、自分は怒らない、と。自分は怒りを止めようという修養だけでも大変だと思うんです。どんなことを言われても。あるいは人との争いのもとになる悪口もそうですね。人の悪口を言わない。これ一つでもしっかりと実行していきますと、その人自身が立派にもなりますし、その人の周りが明るくなってきますね。鈴木正三もそういうつもりでここを言っているんだと思うんです。では次に移りましょうか。
 
白鳥:  「愚痴(ぐち)心より畜生道に入事(はいること)、最も分明也(ふんみょうなり)。愚痴なる人は物の理(ことわり)を知らず、唯我身を思(おもう)念耳(ねんのみ)なるが故に、万事理に契事(かなうこと)なし」
(鈴木正三「反故(ほご)集」)
 
鎌田:  愚かな気持というのは、先ほどは怒りは地獄、今度は畜生と。畜生になってしまいますよ、と。そして愚痴なる愚痴をいう人というのは、ものの道理がわからない。「唯我身を思(おもう)念耳(ねんのみ)なるが故に」これが大切なんですね。自分のことばっかり考えている。自分のことを考えて、自分中心に物事を考えている。だから道理に合うようなことができなくなるわけですね。自分の都合のいいこと、自分の立場、自分の身だけのことを思って、それで行動する。それが愚痴だというんですね。
 
白鳥:  確かに「我が身を思う念のみ」というのは、まさに愚かなことですね。
 
鎌田:  そうなんです。
 
白鳥:  そこから出てくる言葉が「愚痴」というわけですね。ぶつぶつ不平不満が、
 
鎌田:  どんな人でも我が身可愛いでしょう。我が身を思うですが、ほどほどがあるんですね。自分のことだけを思って、人のことが一切入らないというとやっぱり拙いんですね。私がこんなになったのは、あの人のお陰だとか、社会が悪いとか、つい言うようになりますでしょう。そうじゃなくて逆に考えて、自分のことばかり考えて生きているから愚痴るようになるんだという、この鈴木正三のお言葉は非常に大切だと思うんです。結局自分のことだけ考えて生きていけば、それは最後は破滅ですね。仏教では、大乗仏教の菩薩の理念は、自分も利するけれども、自分のこともやるけれども、他の人のためにお役に立つように努めないといけない。必ず自分だけじゃいけないんですね。自分の利益を追求するのでも、また他人の利益のことも考えないといけない、というのが菩薩の理想なんですね。やっぱり自分のことばっかり考えていくと、最後はあっちこっちぶっつかってしまいますよね。それを鈴木正三が、やっぱりいけないんだ、と。これは江戸時代の庶民に説いていることだと思うんですけどね。そうすると庶民の人も、こういう鈴木正三のお話を聞いて、ああ、そうか、あんまり愚痴言ってもしょうがないんだということを悟っていくと思うんですね。
 
白鳥:   語りかけとしては非常に分かり易いものですね。
 
鎌田:  そうですね。非常に民衆にわかるように、それはまた『観音経』でちゃんと「三毒難」として説いていることなんですね。だから別に『観音経』の教えによって書いているわけじゃないんでしょうけれども、『観音経』の教えと鈴木正三の教えはピッタリ合うんですね。それで今の私たちの生活の中でも、このことは生きるうえで大切だと思いますね。それでは『観音経』の次の方へまいりましょうか。三十三身に観音様が姿を現すということを経文で言っているわけです。
 
白鳥:  善男子よ、若し国土の衆生ありて、応(まさ)に仏身を以て得度すべき者には、観世音菩薩、即ち仏身を現じて而(しか)も為に法を説き、応に辟支仏(びゃくしぶつ)身を以て得度すべき者には、即ち辟支仏身を現じて而も為に法を説き、応に声聞身(しょうもんしん)を以て得度すべき者には、即ち声聞身を現じて而も為に法を説く。
(「観音経」)
 
鎌田:  これでは難しい仏教の言葉が入ってしまって、みなさん方この経文だけ見たんじゃよくおわかりにならないと思うんですね。「辟支仏(びゃくしぶつ)身」とか、「声聞身(しょうもんしん)」とかありますね。でもこれ「仏身」と「辟支仏(びゃくしぶつ)身」と「声聞身(しょうもんしん)」のことなんですね。三つが対になっているんですね。それで仏身は仏さまのお身体でいいんですが、辟支仏(びゃくしぶつ)身というのは、これは「縁覚(えんがく)」と普通訳すんですが、縁覚身、そして声聞身と。だから仏身、縁覚身、声聞身と。仏身は今申し上げたように仏さまの身体です。縁覚身というのは、縁覚身も声聞身も、これは自分だけの悟りを求める人たちと、こういうことなんですね。自分だけの悟りを求めるんですが、縁覚身というのは十二因縁で、声聞身というのは、四聖諦(ししょうたい)という仏教のお教えがありますが、縁によって悟るのが縁覚ですね。それから教えを聞いて悟るのが声聞身ですね。声を聞くというふうになっていますが、両方とも自分のこと、自分の修行だけしか考えない人で、最後は阿羅漢(あらかん)になって、菩薩とは違うんですね。だから自利だけを重んじて自分の修行をする方々なんですね。それでもやっぱり立派な悟りを得られますので、立派な方と考えていいんです。仏身は当然立派な方ですね。こういうふうに初め三身をあげるわけです。これを三身に観音菩薩が姿を変えて現れると。観音菩薩というのは、応現(おうげん)というんですが、それが重要な働きなんですね。
 
白鳥:  こういうふうに理解してよろしいんですか。つまり仏さまのお声をそのまま受け取れるような人には、仏さまがそのまま現れるんですよ。それからこういうレベルの信仰の人にはこういう仏さまが現れるんだよ、と。こういうレベルはこういう方、その三つの例を挙げていらっしゃると、こう思ってよろしいんですか。
 
鎌田:  それでいいんです。それを三十三身に拡大する。ということは、ありとあらゆる人の姿に観音菩薩がお姿を変えて現れる。観音様というのは、目に見えません。目に見えないからありとあらゆる人たちに姿を変えて現じて、そしてその人たちがそういうふうに応じた教えを私たちにしてくれる。もっと言えば、この世の中でいろんな人に会えますでしょう。全部それは観音様の化身だ、と、こう思えばいいんですね。だからどんな職業の人であっても、その人からなんかお話を聞けばなんか得るところがあるわけですね。それはもう男性とか女性とか、職業の上下、そういうものを問いません。いろんな職業の人、ありとあらゆる人たち、そういう人に観音様は姿を変えて現れるということは、私たちが生きて接触する一切の方々は、観音様だと思えばいいんですね。そうすると接する方が違ってきます。自分にある意味では、害を与えるような方であっても、それはそれでいいんで、そういうふうに形を変えて私たちを試しているんだ、私たちを救うために応援しているんだと思うと、気持が非常に広がってきます。だから観音様が三十三身に姿を変えて現れるんだというよりも、一切のものが観音の現れだ、と、そういうふうに考えるんですね。
 
白鳥:  三十三というのは、もう数字の問題ではなく、多数、あるいはすべてというものの象徴の数字と考えていいわけですね。
 
鎌田:  そうなんです。観音様は目に見えないから、どんなものにも姿を現ずることができるわけです。これはほんとにそうかと言われると、それは考え方、そういうふうにものを理解の仕方、あるいは気持の持ち方なんですね。みなさんに観音様の現れた姿だと思うと、そうしますと、やっぱり違ってきますね。それを虐めるとか、殺すとか、敵として攻撃するとか、そういう気持はやっぱりなくなってきますよ。だから三十三身応現ということを説いているわけです。私はしょっちゅう中国などに行きますと、中国の山へ行きますと、必ず観音様と同じような岩があるんです。立っている。それはみんな観音峰と名付けられているんですね。現在でも中国の名山へ行きますと、必ず観音峰というのはあるんです。それは岩までも観音様のお姿なんだ、と。そう考えますと、人間だけじゃないんですね。森羅万象、全部観音様のお姿が現れているんだ、と。そう感じますと、人間が人間だけ同士じゃなくて、自然に対しても温かい気持をもてるようになりますね。自然というのはただ破壊して利用すればいいんだというのは、やっぱり間違いで、自然と一体になって生きていく道を、一つ二十一世紀は考えていかなければならないということにもなるんですね。別に自然や山川草木が観音様の現れだと考えなくてもいいですけど、これは山は山、石は石、川は川でもいいんですよ。しかしそういうものは観音様の現れだと、東アジアの人たちは中国でも日本でもみんな昔考えたわけですね。
 
白鳥:  特に日本人は、そういう意味で自然に対する優しさというか、尊厳と言いますかね、そういったものは非常に強くもっている民族ですよね。
 
鎌田:  今そういう気持がだんだんなくなりましたけども、日本人の伝統的な文化の中では、そういう考え方が、どんな方でも、別に仏教を勉強していない方でも、古い大木は大切にしようというようなことで、これは神が宿っているんだ、と。神社の杜なんかでも、そういうのを無意識のうちに感じていたんですね。だから三十三身に観音様が姿を現すということは、いろんなありとあらゆる人たちは観音様の応現だと考えればいいし、それからそれを自然の世界まで及ぼしていくことが重要だと思いますね。だからただ単に三十三身で変な荒唐無稽なことを『観音経』は説いているなと思ってはいけないんですね。こんなバカなことはあり得ないというんじゃなくて、いろんな方すべてが観音様が応現なさったと思えば、それは全然違った見方が、だから視点を変えて人間を見る。それから考え方を転換さして自然を見るということが大切だと思うんですね。
 
白鳥:  そういうことを考えれば、三十三身というのは、『観音経』の中でも相当大きなポイントになるわけですね。
 
鎌田:  そうですね。観音様は何にも見えません、宇宙の生命力そのものですから。それが働きとして出ているんだという一種の解釈ですけどね。そんな解釈する必要はないと。山は山、川は川、人間は人間、あらゆる職業の人もそれはそれでいいんだと思えば、それでもいいですよ。しかし一つの人間観―どう人間を考えるか、というのを仏教では説いているわけですね。『観音経』では、どんな人でも観音様の姿の現れたもんですよ、と、こう説いているわけです。それを受け止めるか受け止めないかは別ですがね。しかしいいことを言っているな、といって気にして頂ければ、それだけ違ってくるわけですね。それではまた次にまいりましょうか。
 
白鳥:  「この観世音菩薩摩訶薩(まかさつ)は怖畏(ふい)の急難の中において、能く無畏(むい)を施す。この故に、この婆婆世界に皆これを号(なづ)けて施無畏者(せむいしゃ)となすなり」と。
(「観音経」)
 
鎌田:  これも「施無畏者(せむいしゃ)」という言葉が非常に大切だと思うんですね。この我々恐怖に駆られた時、観音様を信じていますと、無畏とこれが体得できるんですね。どんなものでも怖れない。だから観音様のことを私たち娑婆世界―私たちの世界ですね。私たちが観音様のことを施無畏者と呼んでいます、ということなんですね。無畏を施す方、それがイコール観音様だと、こういうことなんですね。それから「怖畏(ふい)の急難の中」ということは、突然のいろんな危難に遭った時ですね、そういう時に観音様の御名を称える。あるいは観音様を平素信じている。そうしますと怖れがなくなってしまう、と。これはよくあった話で、戦争中に弾丸の飛び交う中を通ったりなんかする時、観音信仰している人は弾に当たっても、それが急所を外れて助かるとか、地震の時に潰されても『観音経』をいつも信じていた方は何とか助かるとか、そういう霊験談と言いますか、それは日本の昔からずっと伝えられているんですね。ですからそれが本当かどうかと、今の人は思いますが、素直にそれを思えば観音様というのは、無畏を施してくださる方だ、と。私たちは、危急存亡の時に立った時に、観音様がこっちへ来いと言われて行くと、それで危難を免れた、ということがよく書かれていますけどね。そんなふうに書かれているから、多分本当だっただろうと思うんですよ。あるいはそうじゃなくて偶然に弾をかわせたんだ、と説明すれば、それは説明ですよ。しかし観音様を信じたんでと思うと、また無限の深みをもつことができるんですね。考え方によるんですが、そんなことは偶然なことで、隣の方は死んだ、私は助かった、ただそれだけのことだ、と言えば、そうですが、それを観音様を信じていたからだということで、また『観音経』を読もうとか、観音様に供養しようとか、という気持になるわけですよね。人間はそういう気持をもつことが宗教心なんですね。それは合理的にどこまでも説明して、それでわかった、といってもいいんですが、しかし人生にはそれで説明できないところもまた出てくるわけなんですね。そういう時に宗教の領域というものがあるわけなんです。
 
白鳥:  私たちも日常の暮らしの中で、ある種の怖れとか、おびえというものをもっている。もしほんとに怖れをなくしてくださる方がいらっしゃるならば、と思うというのはありますよね。
 
鎌田:  そうなんです。それで『観音経』も、後半にいきますと、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」というのを繰り返す。「念彼観音力」というのは、彼の観音の力を念ずれば、ということなんですが、あらゆる苦しみ、あらゆる怖れから逃れることができる、と。この「観音力」というのが重要なんです。力でしょう。エネルギーにならないといけない。だから毎朝『観音経』を称えていますと、エネルギーを身に付けることができます。あるいは「南無観音菩薩」という称名によって、この力、エネルギーを身に付けることができるんですね。しかも彼の観音の力、そういう救済をしてくれる力、無畏を与えてくれる力、それを念ずることが大切なんです。「念ずる」というのは、ただ思うじゃないですね。繰り返し思う。これが必要なんですね。昔から念ずれば現ずる。現ずれば現れるんですね。思う、それもただふっと思うんじゃない。思って思って思うんですね。念ずれば必ず現じるんだ、という考え方があるわけですね。それが観音信仰の力になって、みなさん観音菩薩を信ずる方は、毎朝『観音経』というのをお読みになるんですね。それから観音の霊場というのがございまして、西国の観音霊場とか、関東にもあるんですね。秩父の霊場、そういうものをお詣りされたりもするんですね。観音霊場を訪ねて行ったりするんですね。そして後半の部分ですが、「慈眼視衆生(じげんししゅじょう) 福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」という言葉があります。慈眼をもって衆生を視(み)る、これが観音様。「慈眼」は慈悲の眼です。優しい眼。優しい眼で私たちを視てくれる。これは有り難いんですね。だから西国を巡礼しまして、いろんな観音様があるでしょう。そのお姿をこうして仰いでみると、本当に優しい眼をもって私たちを視てくださる。そして「福聚海無量」というのは、「福」は幸せの幸福の福です。「聚(じゅ)」というのは、「聚(あつ)まる」という字を書きますが、この幸せを与えてくれる、あつまりを与えてくれる海が無量であると。そう思うと、観音様の前でどうしても手を合わせたくなりますね。ですから人によっては、観音様を飾ってお経を読む方もいらっしゃいますが、小さな観音像を身体に付けておられまして、自分の仏様、菩薩さまとして、そしていつも観音様と一緒という方もいらっしゃるわけです。
 
白鳥:  そうですね。観音様は必ず手を開いていらっしゃる。あれが施無畏の意味になっているわけですか。
 
鎌田:  ですからまた観音様を信ずることによって、今までお話したように、欲が少なくなってきます。先ほども申し上げましたように、一番人間の強いのは無欲なんですね。無欲であれば怖れるものがないんですね。それがいろんな欲をもって生きているわけですが、なるべくその欲を小さくしていくと強くなるんですね。
 
白鳥:  そうですね。なんか私たちの中で、「足るを知る」―知足という感覚が凄くこの頃弱くなっていると言いますか、つまり足るということの感覚がどうも私たち失ってしまった感じがするんですね。
 
鎌田:  そして足るというのは、これはある程度足らなくても、物が足らなくても、生活は他人様に比べて質素であっても、やっぱり足るを知るということは、心の充実ですからね。ゆとりでもありますし、心の平安でしょう。それが人間非常に大切なんですね。それが現在まったくそういうことすらなくなってきたのが現実であります。日本人と観音様の信仰というのは、切ってもきれませんし、昔の歌でも、「柳は染む観音微妙(みみょう)の色」とか、「松は吹く説法度生(どしょう)の声」というような古い歌がありまして、柳の緑というのもそれは観音様が染めてくださった。優しいですよね、考え方は。それから松風が吹いておりますでしょう。それは観音様の説法のお声なんだ、というふうに古い日本人の我々の先祖は受け止めていたわけですね。
 
白鳥:  三十三身の教えを日本的に解釈すると、そういうことになりますよね。
 
鎌田:  そうですね。だから昔の人は、松風を聞いても観音様のお声ではないか、と。あるいは柳の緑にしろ、草花の花を見ても、観音様のお姿ではないか、と、こういうふうに感じたわけですね。それは今の人に言わせれば、そういう見方をする必要をまったくないと。そういう必要はまったくないんですが、そういう気持で柳の緑を見たり、松風―松籟(しょうらい)の音を聞くということは、心が豊かになります。心の深みが出てまいります。で、『観音経』というのは通俗信仰と説いた、とこう言われるんですが、決してそうじゃない。最初に申し上げたように、「浅きは深きなり」、本当に簡単なことを説いていることは、無限の深さをそこに内包しているんだ、ということなんですね。なかなかそうは理解できないふしもあるかとも思いますけれども、そういう意味でこの『法華経』の第二十五章の『観音経』というのは重要だと思います。
 
白鳥:  そうですね。特に私、日本人のなんか民族性の中に非常に根ざしている宗教感覚ですよね。
 
鎌田:  ですから時代が二十一世紀を迎えても、やっぱり私は形を変えても、観音信仰というのは我々みんな心の中へ根付いていくんだろうと思いますね。
 
白鳥:  どうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年七月十八日に、NHK教育テレビの
     「ここころの時代」で放映されたものである