いのちの探求 大乗仏典に学ぶD如来の正覚
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    白 鳥  元 雄
 
白鳥:  「大乗仏典に学ぶ」の五回目です。今日は『華厳経』を中心にお話を伺ってまいります。『華厳経』は大乗仏教の経典の中でも大変代表的なものの一つとされております。お話はいつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
白鳥:  『華厳経』というのは、大変大部な経典だそうですね。
鎌田:  そうですね。東晋の仏陀跋陀羅(ぶつだばつだら)訳の『六十巻華厳経』と唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳の『八十巻華厳経』と二つありますが、どちらでもかなりの量で、簡単にそれを拝読するということもできないんですね。『法華経』なんかに比べますと、分量が多いので、そしてまた書いてあることが茫漠としていましてね、なかなか普通の常識では捉えられないような世界が書かれているわけですね。
 
白鳥:  そうでございますか。そういう仏典について、一言でその特徴を、という質問するのは、何なんでございますが。
 
鎌田:  『法華経』と比べますと、『法華経』は『妙法蓮華経』でしょう。「妙法」というのは、法を説いているんですね。「法」というのは、「真理」諸法の真理ですね。それを説いている。『華厳経』は、正しい名前が『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』なんですね。「大方広」というのは、「大きい」という意味ですね、「広い大きい」。そして「仏」を説いているんですね。『華厳経』の中心は、仏さまのことを説いている。『法華経』は、真理について説いている。ですから『華厳経』というのは、仏さまのことを説いているんだ、と。それでその下に「華厳」というのは、いろいろな花で飾ることですね。だから仏さまというものを、いろいろな花で飾った、そういう立派な仏さまを説いているんだ、と、こういうふうに理解すると非常に大きなものではありますけどね、『華厳経』は仏さまについて、『法華経』は真理について語っているんだ、というふうに、まず押さえてしまいますと非常に理解し易いんですね。「仏さま」というのは、それも「光だ」と、「光明だ」と。もっと言えば「太陽」ですね。そういうような光明を私たちに与えてくれるもの、そういうものについて、いろいろと説明しているんだ、と。こういうふうに理解すると、『華厳経』も何とか取っつけるんじゃないかということなんですね。
 
白鳥:  「華厳」という文字も美しいお経の名前ですね。
 
鎌田:  そうです。日本でも、「華厳の滝」とか、「華厳」の字が使われることがありますけども、やっぱり花で飾るという。「花」と言ってもいろんな花がありますね。中国の人はボタンのような華やかな花を好みますけど、日本人は割にひっっそりとした花なんかを好むわけでしょう。だからありとあらゆるいろんな花、それで飾られている世界だというと、華厳というのは良い言葉ですよね。花で飾るということですから。
 
白鳥:  この経典の成立はいつ頃なんですか。
 
鎌田:  よくわからないんですね。紀元百年とか二百年の間に小さないろんなお経ができてきて、それからそれが四世紀に、于?(うてん)新疆(しんきょう)ウイグル自治区の和田(ホータン)市)において、現在の形態に集大成されたといわれている。和田(ホータン)は天山南路で、宝石が割によく採れるところなんですね。そこで現存の形に纏められまして、そのお経を中国の人が取りに行って、それから中国に伝わってきます。そして初めに訳されたのが四二○年です。それが「六十巻華厳経」と言いまして、四二○年頃に訳された。それを『六十巻華厳経』と呼んでいる。それから時代がかなり経ちまして、唐の時代に七○○年ちょっと前ですが、やはり訳されまして、それは『八十巻華厳経』とこう呼んでいるんですね。もう一つ『四十巻華厳経』というのがありますが、これは一部分を訳したものです。ですから完全に全部中国語に訳したのは、『八十巻華厳経』と『六十巻華厳経』。『六十巻華厳経』の方が古い訳なもんですから、みなさんそれをよくお読みになって、それでそれに基づいてできた宗派が「華厳宗」とこういうんですね。そして中国で唐の時代に華厳宗というのが成立するんですが、それが日本に伝えられてきます。奈良の東大寺の大仏が『華厳経』の理念によってできているんだ、と。『華厳経』を小さくしたようなお経で『梵網経(ぼんもうきょう)』というのがありますが、そういうようなお経の理念で、奈良の大仏が造られているんだ、と。だからイメージするには、奈良の大仏を思い浮かべて頂きますと、これが『華厳経』のシンボルみたいなものなんですね。そういうふうにイメージしてくださると、素晴らしい仏さまだなということがわかるわけです。
 
白鳥:  そうですね。奈良の東大寺のあの仏さまが造られたのは天平(てんぴょう)時代ですよね、八世紀半ばに日本で造られたものですけども、そういった形で北方仏教と言いますか、入ってきて、すぐに中央アジアのそこでできあがった。
 
鎌田:  ですからお経は、中央アジアでできあがって、それを中国の人たちが研究をしまして、だから四二○年に訳されたものが、七○○年頃になって、華厳宗ができるんですね。
 
白鳥:  比較的早く日本にも到達するんですね。
 
鎌田:  そうです。日本に到達したのは、割に早いんですね。それで奈良時代には『華厳経』が入ってきていますし、また読まれております。そして奈良の大仏がシンボルとして造られていますし、そういう意味で国家の仏教の一つのシンボルなんですね。国の大きな力がないと、ああいう大仏もできません。ですから国家仏教のシンボルとして大仏ができた、というふうに考えて頂きますと、
 
白鳥:  聖武天皇のご命令でできあがっていった大仏ですからね。
 
鎌田:  そうですね。だからその割には『華厳経』というのは大きいので、あまり読まれないんですね、大部すぎて。しかしその考え方は日本の文化の中にも入っておりますし、文化の中というのは、小さなものの中に無限のものを見出そうというのが、茶室なんかでもありますね。日本の華道を考えても、お花のこういう小さなところへ全宇宙を込めるとか、そういう考え方が日本の文化の中にありますね。小さなものの中に無限大のものを引き入れる、という考え方ですね。それがやはり『華厳経』の理念だ、と。そう言えば、これは『華厳経』だということはありませんけどね、微細なもの、小さなものの中に無限の宇宙を含める、というような考え方は、日本文化の一つの特徴だと思うんですね。「極小の中に極大を見る」とかね。ですからやはり『華厳経』の考え方というのも、日本文化の中に流れているんだ、というふうにご理解頂きますと、大体『華厳経』の思想というものをご理解頂けるんじゃないかというふうに思います。
 
白鳥:  では、早速読んでまいりましょうか。
 
如来は此の宝獅子(ほうしし)の座に処(いま)して一切の法に於て最正覚(さいしょうがく)を成(じょう)じたまい、三世(さんぜ)の法の平等なることを了(さと)り、・・・其の身(しん)は遍(あまね)く一切の道場に坐したまいて、悉(ことごと)く一切衆生の所行(しょぎょう)を知る。
(「世間浄眼品」)
 
鎌田:  これが「世間浄眼品(せけんじょうげんぼん)」というのは、『華厳経』の序文に当たるものなんですけどね。如来はこの宝獅子座―仏が座っているのは獅子座と申しますが、宝で飾られました獅子座の上に座って、そこで「最正覚(さいしょうかく)を成(じょう)じたまい」と。もっとも勝れたお悟りをそこで完成された、と。お悟りを得た、ということですね。お悟りを得た結果、三世のものがすべて平等である、と。三世のものがみんな平等であるということがわかる。三世を見通すことができているわけですね。そしてその仏さまの、「其の身(しん)」というのは、仏さまの身体は「遍く一切の道場に坐したまいて」ありとあらゆるところに仏さまというのは坐っておられるんですね。一カ所だけではないんです。悟りを得られたのは、獅子座でありますが、ありとあらゆるところに坐っておられるんですね。そしてありとあらゆるところに坐っていらっしゃいますもんですから、それによってあらゆる私たちの行い、私のことを全部わかってくださるんだ。それは仏さまは、「浄眼品」とありますように、清らかな眼をもっているから、それが可能なわけですね。ですから悟りを開かれたのは、この獅子座でありますが、どこにも仏さまはいらっしゃるわけですね。だから仏さまの住んでいる世界は、「蓮華蔵世界」と言いますけど、それは蓮華の花びら―ハスの花です―そのハスの花に一つずつ仏さまが坐っておられると考えたらいいんですね。そうすると千個の花があれば、千の仏さまが坐っておられる。ということは、私たちのいるどんなところにも、仏さまは、眼には見えないんですが坐っていらっしゃるんですよ、ということなんですね。よく蓮弁(れんべん)のところに仏さまの彫刻なんかもありますけど、あれが具体化しますと、ハスの花の中にたくさん仏さまが坐っていらっしゃる。そう言いますと、私たちのどこにでも仏さまが坐っておられるんだということにもなってまいりますね。
 
白鳥:  それがこの最後の「悉(ことごと)く一切衆生の所行を知る」と。つまり仏さまがどこにも遍くいらっしゃるんだから、民衆の苦しみも何も暮らしの中のすべてをご存じになる。
 
鎌田:  おわかりくださるということ、あるいは見通していらっしゃる、と。だから悪いことをしてもすぐ見通していらっしゃるわけですね。これが冒頭に書かれているということは、仏の普遍性を現しているわけですね。では次にまいりましょうか。
 
白鳥:  仏の光明はあまねく一切の世界海を照らしている。この蓮華蔵世界海のなかにおいては、一々の微塵のなかに、一切の法界を見ることができる。
(「盧舎那仏品」)
 
鎌田:  今お話したことが具体的な経文で書かれてくるわけですね。そうすると仏さまの光明というのが、一切の世界を照らしている。「海」という字がありますが、海のように広い世界、と考えればいいんですね。具体的な世界海という海じゃないんです。海のように広い世界、それを仏さまの光明は照らし出している、と。それは蓮華蔵世界という呼ぶわけなんですね。先ほどお話しましたように、蓮華の―ハスの花の花弁で飾られた世界という意味ですね。そこにまた仏さまが、一々のハスの中に坐っていられるんだ、と。そうしますと、「一々の微塵のなかに、一切の法界を見ることができる」ハスの花一つの中に一つの仏さまがいらっしゃいますね。その仏さまがまた全世界を照らすわけですね。ですから一つの中に一切の世界を見ることができる、と。これは『華厳経』は、後でまた申し上げますが、「一即一切」ということを説くんですね。だから「一つが一切だ」と。それを既にそこに現しているわけです。ほんの「一々の微塵のなかに」小さいものの中に一切の世界が含まれているんだ、と。あるいは小さいそのものの中にいらっしゃる仏さまも、一切の世界をご覧になっているんだ、と。そう考えても構いませんね。ですからここで説かれていることは、『華厳経』の基本的な、「一微塵の中に一切の世界が入っている」という考えですね。それを経文は、詳しく順番に説いて、みなさんにわかって頂こうと説明しているわけですね。次を見てみましょうか。
 
白鳥:  (あまね)く妙光明(みょうこうみょう)を放ちて、遍(あまね)く世の境界を照(てら)すは、浄眼(じょうげん)の一切智にして、自在深広(しんこう)の義なり。一(いち)(よ)く無量と為(な)り、無量能(よ)く一と為り、諸(もろもろ)の衆生の性(しょう)を知りて、一切処に随順(ずいじゅん)す。
(「如来光明覚品」)
 
鎌田:  これが光明を中心にして考えていったわけですね。素晴らしい光明があらゆる世界を照らしている、と。その光明というものは、「浄眼の一切智にして」というのは、仏さまの智慧ですね。仏さまの眼は清らかな眼ですね。清らかな眼から発する光明というものは、仏さまの智慧を現しています。それは「自在深広の義なり」と。その智慧というものは、自在である、自由である、どこにもある。しかもそれは広く深いということです。その次の言葉が、これは光明を喩えて言っているんですが、「一能く無量と為り、無量能(よ)く一と為る」と。一つの光明が、無量の光明になっていく。無量の光明も集めると、一つの光明になっているんだ。だから「一即多、多即一」ということなんですね。無量というのを、多いという字に当て嵌めますと、「一即多、多即一」という、『華厳経』で説く根本の理念が、ここにも説かれているんです。これは光明に喩えていっているわけですね。仏さまの光ですね。例えば太陽の光でもそうですね。一つの光がそれは無限の光となって、地球のもの全部を照らしているわけですしね。そして無限のいろんな光というものも集めると、太陽から発する一つの光になるわけですね。ですから光の面でもこういう説明ができる、と。そして仏さまというものは、そういう光明を放っているんだ、と。それが私たちの「衆生の性を知る」と。私たちの性質なり、私たちの本性なり、そういうものをよくよく見通しているんだ、と。ですから仏さまは光明を照らしながら、どんなところにも随順―随って現れているんだ、ということですね。光で言いますと。あるいはまだ他の意味でいうと、それは随うことですけどね、随順。随うというのは非常に難しい。何故難しいかというと、自分があってはいけませんね。仏さまというのは無心の人ですから、どんなところにも入っていけるわけです。我々が悪心を抱いていても仏さまの光が入ってくださるわけですね。
 
白鳥:  じゃ、仏さまがそこに現れるとか、去るとかということではなくて、常にそこに遍くある。
 
鎌田:  遍くある、と。普遍と同じなんですね、この場合は。だから光明の普遍、仏さま普遍ということは、ここでは光明の普遍、遍く光明が照らし出されている。私たち、いつも太陽のことなんて考えたことありませんが、比喩的に言えば、太陽の光によって地球の生物は一切生かされているわけでしょう。我々も仏さまの光明によって本当は生かされている。だから背中には仏さまの光明を浴びているわけです。ところが誰もそれは自覚しないんですね。信心ができると初めてわかって手を合わすようになるんですが、なかなかそれはわからない。ところがだんだん歳をとってきますと、人生でも自分一人で生きてきたんじゃない、と。やっぱりいろんな方々のお陰で生きてきた。それも人だけじゃありませんよね。もっと広げていきますと、太陽の恩恵なんて考えたことも普段ありませんね。しかし実際は太陽の恩恵を受けて、私たちこうやって生かされているわけです。それと同じように、宇宙のいのちである仏さまの力に包まれて、あるいは抱かれてきているわけなんですね。ちょうど赤ちゃんが母親の手に抱かれているのと同じなんですが、しかし私たちはそういうことを自覚しないんですね。子どもの時はお母さまに抱かれて安心して、そこで眠ることができるんですが、だんだん生意気になってきますと、自分で一切やれるように思うでしょう。そんな人様に抱かれているとか、仏さまに抱かれているとか、そういう気持がなくなるわけです。しかし人間なんか苦しみがあるでしょう。そうするとまたそれが目覚めてくるんですね。ですから本来はそういうふうに光に照らされているわけです。本来仏さまの光に抱かれているわけです。ところが私たちはそれを知らないだけで、自覚しないだけと、こう考えたらどうでしょうかね。
 
白鳥:  この『華厳経』で語られる毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)というのは、遍く存在する光というふうに譬えられている。
 
鎌田:  昔から「光明遍照毘盧舎那仏(こうみょうへんしょうびるしゃなぶつ)」というのは、サンスクリット語で「ヴァイローチャナ」という言葉を「光明遍照」と訳すんですね。光それが遍く照らしている。どんなものにも照らすわけです。ただ私たち自覚しないで、しかも遍く照らすというから人間だけじゃありませんね。自然も照らしているわけだし、土も木もみんなそれでいのちをもっているわけですね。それは石や大地はいのちはないと、私たちの常識では考えますが、やっぱりそれは光に照らし出されているんだ、と。「光明遍照」というのは、宇宙の根本の生命力ですね。それを「仏」と呼ぶわけなんですね。ただ私たちは気が付かないだけなんですね。本当は照らし出されているわけですが、気が付かないで、我が儘勝手に生きているというのが現状だろうと思うんです。
 
白鳥:  『華厳経』は大部の中で繰り返し繰り返しているわけですね。
 
鎌田:  そういうわけです。何故大部になるかというと、みんなわからないんですよ。ですから同じことでも何度も何度もいうと、そうかな、と。だんだんそうかな、と。そのうちに信が固まってくるんですね。じゃ、次を見てみましょう。
 
白鳥:  菩提心を求める心を発するならば、微細な世界が、すなわち大世界であり、大世界がすなわち微細な世界であることがわかるのである。・・・仏の一毛孔(いちもうく)のなかには一切の世界が入り、一切の世界をみることは、仏の一毛孔であることを知る。
(「初発心菩提功徳品」)
 
鎌田:  これも重要な言葉ですね。初めに「菩提心を求める心を発するならば」これはやっぱり悟りを求める心というか、向上する心と言いますか、菩提心というのは何かを求める心ですね。そういうものを求めていますと、微細な世界が、小さな世界がそれが巨大な世界なんだ、と。小さな世界の中に巨大な世界が入っているんだ、と。巨大な世界が逆に小さな世界である、ということがわかってくる、と。これもここに書いてありますが、誰もわからないんですよ。ところがやはり一つの直感と申しますかね、人間がだんだん智慧が高まって、あるいは宗教的な気持が深まってきますと、こういうことがわかってくるんですね。そして「仏の一毛孔」というのは毛穴でございましょう。毛穴の中に全世界が入るんだ、と。全世界を見ることは仏の一毛孔であることを知る。全世界は一毛孔に入る。こういうことなんですね。仏さまの毛穴の中に全世界が入ってしまう。ちょっとこんなことを言っても、奇術のようなことはあり得ない、と言いますがね、実はこれは非常に重要な『華厳経』の根本はここにあるんですね。一つの毛穴の中に全世界が入る、ということなんですね。あるいは全世界を見るには一つの毛穴を見ればいい、と。なかなか理解し難いことでありますが、例えば唐の時代に華厳宗を創りました法蔵(ほうぞう)(643-712)という人がいますが、その方が譬喩で説明しているんです。法蔵という人は、則天武后(そくてんぶこう)という立派な女の天子様がいまして、その人に、「お前さん、『華厳経』の教えを簡単に説明してください」と言われたわけですね。そうしますと、たまたま宮殿の中に黄金でできた獅子があったわけです。その黄金でできた獅子を利用して則天武后に説明をしていくわけですね。どういう説明をしたかというと、「黄金の獅子を、黄金という観点から見てご覧なさい」と天子さんに言ったわけですね。そうすると黄金というと黄色でしょう。そうすると獅子は全部黄色ですよね。そうすると黄色というところに力点をおいて見れば、それは全部黄色、それを「一」と考えたわけですね。すべたは黄色。獅子の手も獅子の足も獅子の顔も耳も全部黄色でしょう。だから黄色という黄金という観点から見たら、それは全部黄金。一もって黄金で貫いているわけですね。ところが見方を変えましょう、と。天子様、今度は獅子の耳を見てください。眼を見てください。口を見てください。手を見てください。足を見てください。みんな形が違うじゃないですか。そうすると、みんな各部は違いますね。それは「多」なんです。いろいろという意味―多。ところがそれはまた黄色になっているわけでしょう、黄金造られているから。黄金という観点からみれば一なんですね―一つ。しかし形はみんな違っているんだ、というように見れば、これは多なんだ、と。そうすると、一という黄金が、多という各部に全部同じものなんだと―本来は。だから「一即多、多即一」なんだと。それで則天武后はわかったかどうかわかりませんがね。一応則天武后は、ウンと言いましてね。それで『金獅子抄(こんじししょう)』という本を書きまして、それが現在残っているんです。その本ではもう少し詳しくいろんな仏教の哲学を使って説明しますが、単純に言えば、今申し上げたようなことなんです。見方を変える。あるいは黄金という観点から全部見通しての考え方と各部という考え方から見通している。そうすると、「一即多」で、各部は全体だ、と。あるいは「一は各部だ」と。一というのを全体と考えてもいいんですね。そうすると「部分即全体、全体即部分」こう考えても構わないんです。
 
白鳥:  しかしこれは人の認識の方法というのを非常に上手く譬喩として使っていらっしゃる。なんかそれの中でものの考え方によって認識というのは変わるんだ、ということをきちんと説いていますね。
 
鎌田:  私たちはもう固定的な認識を絶対化していますよね。ところが語っているのはいろんな見方があるわけですから、それを変えることによって違った見方ができるわけですね。あるいは「一即多」というのを、また別の譬喩で華厳宗は説明するんですね。それは「鏡燈(きょうとう)の譬喩」と言いましてね、どういうことかというと、真ん中にローソクを立てるとしますね。周りに鏡を四方に置きます。それから上下にまた鏡を置きます。そうするとどうなるかと言いますと、四方に全部ローソクの炎が映るでしょう。それから上下にも映るでしょう。今度左側に映ったローソクが反射して右側に映るでしょう。それがまた反射してこう映るでしょう、無限に、縦横無尽に。まさに無数に映ってきますね。本は何かというと、真ん中に立てた一本のローソクですよ。それが無限のローソクを生んでいくわけです。そう考えると真ん中のローソク―一。それは無限に映ったローソク―多と同じだ、と。だから「一即多」になるわけです。それから無限に映ったローソク、それもまた根本を辿っていけば、真ん中に置いた一本のローソク、そうすると「多即一」と、こうなるんですね。ですからこれも譬喩ですけど、「鏡燈の譬え」と言いまして、日本の沢庵禅師なんかもこの譬えを引いて、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に説明したりするんですが、そうするとあんまり仏教学やっていなくても、何となくその話を聞きますと、〈なるほど、そうかな〉という感じはするわけですね。それで使われたわけです。それはまあ譬喩ですけどね。これはしかし譬喩と言っていいだけのもんじゃなくて、我々の現実の存在の姿なんですね。それはどんな小さなものを取り上げても、それはいろんなものと関係しているわけでしょう。だから一つで単独で存在するものはあり得ない。全部関係の中でそれがある、と言えるんですね。ところが私たちの思考法だと、単独の実体というものがあって、先ずそう思っちゃうんですね。ところがそうじゃなくて、全部は関係性という中でその単独のものも生かされているわけです―全部。空間的に考えてもそうですね。だから私たちの人生の実際の生活を考えても確かにそうで、自分一人ではやれないんで、自分が生きているのは人様によって生かされているんだ、ということですね。そう考えますと、あるいはそれを時間的に考えても同じなんです。自分一人でなくて両親があった。そのまた両親があった、というような、時間の連続性、あるいは関係性、そういう中で現在の自分があるんだ、ということになりますと、考え方が違いますね。
 
白鳥:  無限の関係性をもってくる。
 
鎌田:  そうなんです。こういう発想をどうして『華厳経』はできたのか、というと、よくわかりませんけどね。直感的にそう考えたんでしょうね。これは現代私たちにとっても非常に勝れた考え方、あるいは次の時代をリードしていく一つの考え方であるかも知れないんですね。今までは一つのものから発信さして、いろいろ考えて、それを絶対化していくでしょう。そうじゃなくて関係性の中で一つのものもあるんだ、と考えると違ってきます。だから案外『華厳経』というのは、古い古代の思想だ、仏教思想だという面もあるかも知れませんが、かえって次の時代をリードする非常に新しいフレッシュな思想なのかも知れないんですね。考え方ですがね。単に仏教の古い思想だ、というんじゃなくて、考え方が次の思想をリードする何かをもっているかも知れないんですね。じゃ、次に移りましょうか。
 
白鳥:  心は工画師(こうがし)の如く、種種の五陰(ごおん)を画き、一切世界の中に、法として造らざる無し。心(しん)の如く仏も亦(また)(しか)なり、仏(ぶつ)の如く衆生も然(しか)なり、心と仏と及び衆生とは、是(こ)の三差別(さんしゃべつ)(な)し。
(「夜摩天宮菩薩説偈品」)
 
鎌田:  これも『華厳経』の中の有名な言葉なんですね。心というものは、ちょうど絵を描く人のようなもので、いろんなものを描く、と。五蘊(ごうん)というのは、「色受想行識」と般若心経にありますが、物と心と考えてもいいですね。「物と心」の五つの種類でありますけれども、あらゆるものを描くんだ。心はだから物も描くんだ。私たちの感覚であるとか、私たちの感情であるとか、私たちの意識であるとか、そういうものも創っていくんだ。だから「一切世界の中に、法として造らざる無し」だから心が全部造るんだ、と。案外この心というものが、いろんなものを造っているんですよ、とこう言っているわけですね。それじゃ心だけが全部を造っていくのかなというと、そうじゃなくて、心と同じように仏さまもいろんなものを造っていくんだ。じゃ、仏さまがそうするだけじゃなくて、衆生はどうなのかなというと、私たちもいろんなものを造っていくんだ、と。いろんなものを造り出している、いろんなものを描くという意味では、「心」と「仏」と「衆生」という三つのものは現れた姿は違いますが、それは同じだ、と、こう言っているんですね。心の働きも、仏の働きも、衆生の働きも―衆生というのは私たちです―私たちの働きもみんな同じなんだ、と。これが有名な言葉でありまして、もう少し簡単に言いますと、心の働き方によって仏さまにもなりますし、衆生にもなりますよ、ということなんですね。心の持ち方によって、心が清らかになるとするでしょう。そうすると私たちの心が慈悲に現れてくると、仏になるわけでしょう。悪いことを考えるでしょう。いろんな悪いことを考えると衆生になる、というんで、だから心というものは持ち方によって仏さまになったり、衆生になったり、さまざまに変わりますよ、ということを言っているんですね。要するに心を一番中心にして考えるということを言っているわけですね。
 
白鳥:  この冒頭の、「心は工画師(こうがし)の如く」とありましたでしょう。これは先ほど先生がおっしゃった「鏡燈の譬え」、あの譬えと、私、今繋げて考えていたんですよ。そうするとよく、例えば真ん中にあるローソク一本、これは実在すると僕らは考えるじゃありませんか。その鏡に映った無限の影であるというふうに考えて、別々にするんだけど、もしかすると心を工画師として考えれば、真ん中の実在すると考えている灯りそのものも、すべて無限の火と同じものかも知れない、という考え方もできますね。
 
鎌田:  そうなんです。
 
白鳥:  やっぱりほんとに心そのものが、すべての私たちの認識を支配しているというふうに考えてもいいんですかね。
 
鎌田:  構わないですね。仏教はよく唯心論だとか言われているけれども、ヨーロッパの哲学で考える観念論という意味では全然ないんですね。まさにこの『華厳経』で説いているように、心がいろんなものを創りだしていくんだ、ということを言っているんですね、仏教の方ではね。別に観念論という意味で言っているんじゃないですね。心から一切が出てくるとか、そういう意味では全然ないんですね。心の持ち方でいろんな世界がそこに出てくるんですよ、ということを仏教の方ではいうんですね。だから心の持ち方というのは非常に重要だということなんですね。
 
白鳥:  我々のイメージというのも心の持ち方で多様に、工画師の如く多様ですから。
 
鎌田:  多様に創り出すでしょう。ですからいい方へ創りだしていかないと、悪い方へ悪い方へと創りだしていくとダメなんですね。「いいイメージをもつ」ということをよく言いますでしょう、健康法なんかでも。ですからそれも同じことなんですね。心の持ち方によっていろいろと世界が変わってきますよ、ということをここで言おうとしているんですね。
 
白鳥:  そういった意味では、仏も衆生も、そして心を媒介にしながら、この三つというのは差別のない、違いがない。
 
鎌田:  違いがないんですね。そう考えると仏さまも大分近いものになってきますですよね。次の経文に移りましょうか。
 
白鳥:  若し人求めて、三世一切の仏を知らんと欲せば、応当(まさ)に是(かく)の如く観ずべし。心は諸(もろもろ)の如来を造ると。
(「同前」)
 
鎌田:  この通りで、人が求めて、三世一切の仏を知る。仏さまというのを知ろうと思ったら、このように思いなさい、と。「心は諸(もろもろ)の如来を造ると」この最後の一行でいいんですね。他は要りませんので、心がさまざまな仏さまを造るんだと。だから心がさまざまな悪人を造るよりは、心がさまざまの仏さまを造る方が人としていいんですね。やっぱりいろんな国を造っていく。悪魔になってもそれ人間いいですけどね。悪魔で生きるのと、仏と生きるのと、どっちが人間というのは安らかなんだと思うと、やっぱり悪魔で生きるよりは、仏さまで生きる方が安らかじゃないでしょうか。人を殺すことばかり考えて生きているよりは、人様のために何かお役に立たないかと思って生きる方が、心の安らかさの問題ですね。あるいは心の豊かさといってもいいです。ですから経文の、今の最後は「諸(もろもろ)の如来を造ると」。私たちの心が仏さまを造った方がいいんですね。
 
白鳥:  その如来を造る。心を造るにはどうしたらよろしいんでしょうかね。
 
鎌田:  それは心を清らかにしていくわけで、それが「信」ということになる。普通信仰の「信」と言いますと、神様を信ずる。対象的に何かを信ずる。仏教ではそうじゃないんです。「信」というのは、心を清らかにすることなんです。悪いことを思わない。迷いの気持を出さない。心を平らかにしていく。それは心を清らかにすることになるんですね。それがまた『華厳経』は説いていくわけです。じゃ、信というのは、どういうものだ、というのを、経文が次に挙げてまいります。
 
白鳥:  信は是道(これみち)の元(もと)、功徳の母なり、一切諸(もろもろ)の善法を増長し、一切諸の疑惑を除滅して、無上道を示現(じげん)し開発(かいほつ)す。
(「賢首菩薩品」)
 
鎌田:  これは『華厳経』における信の定義です。この言葉が非常に有名な言葉で、いろんなところに引用されます。「信」ということについて、何かいうとみなこの『華厳経』のこの言葉を引用するんですね。「信」というのは、仏道の根本だ、ということですね、まず仏道の根本は信だ、と。「功徳の母」というのは、あらゆる功徳を生む母体だ、と。あらゆる善きこと、あらゆる勝れたこと、そういうことの母体なんだ、と。だから信が根本ということですよね。そして「一切諸の善法を増長し」というわけですから、それによって善いことをますます増していくことができるんだ、と。そして「一切諸の疑惑を除滅して」いろんな疑い、迷い、それを除いてくれるんだ、と。そして最高の道―無上道をそこで現じ、それを開発していくんだ。だから無上道を現したり、それを鍛えていくためにはどうしても信が大切です、ということを言っているんですね。それで信といっても、先ほどちょっと申し上げたように、何かを信ずる。対象的に信ずるというんじゃないんですね。ここに書いてありますように、清らかにしていくこと。だから普通でいう「信」と意味が違うんですね。何かを信ずる。「宗教は信仰だ」なんていう、そういう意味ではないんです。清らかにしていく。心を清らかにしていくことが一番大切だ、と。心を清らかにしていけば、その心が仏を造ることになりますね。「信は如来を造る」とありましたね。だから心を清らかにしていくことが非常に重要で、それが根本ですよ、と。こう教えているわけですね。普通でいう信と違いますね。「自分の心を浄化していく。清らかにしていく。それによって心が仏さまを造っているんだ」というのが、この『華厳経』の教えなんですね。しかしこれは非常にいいことを言っていると思うんです。「心を清らかにすること、それが根本だ」ということは、我々の人生で生きていく上でもそうですよね。心が悪いこと悪いことへと流れていくよりは、いつも心を清らかにしていくということが、どんなにその人の人生を豊かにしていく。安らかにしていく、ということは言えるんですね。だからまんざら、ここの信の定義は当て嵌まっていないんだ、という意味じゃないんですね。まさにその通りで、根本的には心を清らかにしていく。それによって心の中で仏さまの仏心を抱いていく。だから「心を清らかにするということは、仏心を抱いていく」ことにもなるんですね。それを『華厳経』の、これを基本にして、日本の仏教者の方も良い言葉を言っていますので、次に見てみましょう。これは道元禅師のお言葉ですね。
 
白鳥:  仏道を修行する者は、先ず須(すべか)らく仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須(すべか)らく自己、本(もと)より道中にあって、迷惑(めいわく)せず、妄想(もうぞう)せず、顛倒(てんどう)せず、増減(ぞうげん)無く、誤謬(ごびゅう)なきことを信ずべし。かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、よってこれを行ず、乃(すなわ)ち学道の本基(ほんき)なり。
(「学道用心集」)
 
鎌田:  これも非常に有名な道元禅師のお言葉ですね。「信」というものを定義しているわけですが、仏道を修行する者は、仏道を信ずる。「仏道を信ずる」というと、どういうことかと言いますと、それが次に説明してある。その説明は、仏道を信ずる者は、この自分が仏道の真っ直中に本来あるんだ、ということを確信するんですね。
 
白鳥:  「本(もと)より道中にあって」ということですね。
 
鎌田:  自分は仏道の中に生かされているんだ、と。最初に申し上げたように、仏の光明を浴びているんだ、と、同じことなんですね。生かされているんだ、と。そうなるとどうなるかというと、どんなに迷っても、迷ってはいないんだ、と。どんなに妄想しても、それは妄想にならないんだ、と。どんなに逆さまなことを考えても、逆さまにならないんだ、と。
 
白鳥:  「迷惑(めいわく)せず、妄想(もうぞう)せず、顛倒(てんどう)せず」
 
鎌田:  はい。どんなにこう言っても、それは不増不減なんだ、と。仏道の中に生かされているからだ、と。ちょうど玄奘三蔵のお供をして、孫悟空がお経を取りに行きますね。その時に孫悟空が玄奘三蔵のところから逃げて悪戯しようと思って、遠くへ逃げたわけです、?斗雲(きんとうん)に乗ってね。そうしましてやれやれお師匠さまのところから逃げて、ちょっと思い切って悪戯しようと思って、フッと見たら玄奘様の手のひらの中におった、というお話がありますでしょう。それと同じなんですね。仏道の真っ直中にいる。だから手のひらの上で右に行ったり、左に行ったり、悪いことを思ったり、疑いの気持をもったり、そういうことがあっても、それは仏道の中にいて、右に行ったり、左に行ったに過ぎないんで、仏道を決して離れていることじゃないんだ。
 
白鳥:  あるがままの一種の肯定なんですかね。
 
鎌田:  そうなんですね。そうすると『華厳経』で言えば、仏さまの中に抱かれているんだ、と。あるいは仏さまの光明に照らされて、そしてその中で生きているに過ぎない。自分は気の付かないからね。それを道元禅師が言っておられるわけですね。最後の方を見ますと、「増減(ぞうげん)無く、誤謬(ごびゅう)なきことを信ずべし」。だからまったく仏道の中で生かされているんだ、と。「かくの如きの信を生じ、かくの如きの道を明らめ、よってこれを行ず、乃ち学道の本基なり」だからこういう信があることによって、それが道と仏道というものがわかっていくんだ、と。それが学道の根本になる。だから信が大切だ、と言っているんですね。しかも信というのは、自分が仏道の中に生かされていることを確信するんだ、と、こういうことなんです。
 
白鳥:  「信を生じ、道を明らめ、行ず」という言葉が出てきますね。これはつまり信は、今先生のお話のように、自分の今、とにかく遍き仏さまの光の中にいるということを信じなさい、と。
 
鎌田:  それによって坐禅をするとしますね。もし修行する。坐禅も仏さまの坐禅になっているわけですね。そしてお掃除をするにしても、それは仏さまのお掃除になっているわけですね。そうなると一々の修行というのが、御飯を頂くのでも修行になっていくんですね。だから大変なことなんですね。日常生活をやっていることは、あるいは特別に坐禅をすることも、お経を誦(よ)むことも、全部それは仏道の中でやっているわけなんですね。仏さまの身がやっているということになる。普通は自分がやっていることになるでしょう。自分がやっているんじゃないんです。仏さまにやらして頂いている。あるいはもっと言えば、仏さまがやっていらっしゃる。だから坐禅をしても、別に悟りを求めようという必要もなくなってくるわけです。坐禅の姿そのものが仏さまの姿なんですね。何かを求めるためにやるのが普通修行ですが、初めはそれでいいですよ。何かを求めるために、あるいは向上するために、何かやっているでしょう。初めはそれでいいんですが、ある時点でそれがガラリと変わって、いや、自分がやっているんではない。仏さまにやらして頂いているんだ、という価値転換が起こるんですね。それが宗教的な一つの転換点になっているわけです。
 
白鳥:  認識の転換みたいなものですね。
 
鎌田:  はい。それが大切だ。だから道元禅師もほんとにいいことを言っておられるんですね。私たちなんかやると自分のためでしょう。何かを達成するためでしょう。ところが達成したらやらないでしょう。そうじゃないんですね。こういう考え方になると、無限の行道になっていくわけです。学道のための根本の心の持ち方だ、と。そういうものを仏教徒はみんな願うわけですから、『華厳経』の中にそれが「三帰礼文(さんきらいもん)」という形で出てくるわけです。それを最後に見てみましょう。
 
白鳥:  自ら仏に帰せば、当(まさ)に願うべし、衆生、大道を体解(たいげ)して、無上の意を発(おこ)さんと。自(みずか)ら法に帰せば、当に願うべし、衆生、深く経蔵に入りて、智慧海の如くならんと。自ら僧に帰せば、当に願うべし、衆生、大衆を統理して、一切無礙(むげ)ならんと。
(「浄行品 三帰礼文」)
 
鎌田:  修行とか学道の根本というのが信だ、と。それを別な言葉で現すと、人間の一つの誓願になるんですね。願い、誓いと言いますか、それを具体的に表したのが「三帰礼文」と呼ばれるものです。その原形は、『華厳経』の「浄行品(じょうぎょうぼん)」であるんですけども、現在私たちがこの「三帰礼文」を各宗で称えております。この「浄行品」とは、言葉が少しずつ違うのを現在称えているわけです。それは違っていいんです。現在のみなさんが称えている「三帰礼文」でいいんですが、じゃ、本の形はどういう文章かというと、この「浄行品」の文章なんですね。まず仏さまに帰依すれば、「大道を体解(たいげ)して、無上の意を発(おこ)さんと」仏さまに帰依する場合には、仏道というものを自分が体得して、みんなが救われるように、という願いを起こしましょう、と。あるいは「法」というのは、真理です、ここではね。真理に自分が帰依すれば、それはいろいろなお経の中へ入って、そしてお経の教えを頂いて、智慧が大海のように広くなることを願いましょう、と。最後の「僧」というのは、和合のことです。人間複数になると和合しないといけませんね。「和をもって貴しと為す」と言いますように、そういう和合ということに帰依していけば、そうなりますと、一切の人々を統理して、「一切無礙(むげ)」というのは、拘りがない。さわりがない。人と人との間で差別がない。拘りがない、ということが大切だ、と。これを三つの願いにしているわけでありますけれども、仏教徒の基本的な願いであります。ですからいろんな法会やなんかする時も、これを合掌して、まず称えて、それからいろんな法話をしたり、法要をしたりするわけですね。だから「仏」と「法」と「僧」、この三つに私たちが帰依をしていく。そして仏道を自分も体得する。人様にもそれを広めていくとともに、仏道を歩もうというのが大切であるということなんですね。ですから『華厳経』をいろいろ教えを説いてきますけれども、最後はこの三つの願いに集まっていくわけですね。だからこそ現在でもこの「三帰礼文」をみなさん称えていくんだろうと思うんです。
 
白鳥:  宗派を超えて、
 
鎌田:  そうなんです。
 
白鳥:  今日は『華厳経』のお話をしっかりと頂き、どうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年八月十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである