いのちの探求 大乗仏典に学ぶE無限の求道
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    白 鳥  元 雄
 
白鳥:  「大乗仏典に学ぶ」の六回目になりました。前回から大乗仏教の代表的な経典の一つ、『華厳経』を中心にお話を伺っております。前回はこの『華厳経』の前半の部から、仏の世界についてお話を伺いました。今回はそれに続きまして、仏の世界に至る菩薩の修行について、東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんにお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
白鳥:  菩薩―これはやはり道を求めて修行する人。この菩薩の修行にもいろんな段階があるわけですか。
 
鎌田:  そうですね。菩薩というのは、自分が修行していくと同時に、自分が得たものを人様に伝える、というようなことをするわけですね。まあ一言で言えば、求道者でありますが―道を求める人ですね―無限に向上していこうというのを、菩薩と呼んでいるわけですね。前半では仏さまのことをお話申し上げましたね。『華厳経』の仏さまというのは、宇宙の生命そのものだ、と。そういう根本的な仏さまなんですが、じゃ、根本的な仏さまというものに近づくにはどうしたらいいか、というのを後半で説いていくわけですね。『華厳経』の中でも、「十地品(じゅうじぼん)」というのがありましてね、それは菩薩にも修行の段階がある、と。物事には何でも段階がありますね。初めから順番に上がって、それで一番上の位に上がるという段階がありますので、それを『華厳経』でも十地品というところで説いて、それじゃ、そういう段階を具体的に昇っていくような人がいるかどうか、と。そういう具体的な人を、今度は善財童子(ぜんざいどうじ)という一人の求道者に当て嵌めまして、そして入法界品(にゅうほっかいぼん)という章があるんですが、そうするとそこでは具体的に善財童子がどういう先生のところへついて、そしてだんだん道を究めていく、自分の境地を高めていく、ということを後半で説いていくわけですね。
 
白鳥:  前半が一つの、いわばいろんな修行のステージの概論であり、後半がその実践編という感じになるわけですね。
 
鎌田:  そうです。要するにこういう十の段階がありますよ、というのを、まず説明して、それから一番後半で、それじゃ「法界」というのは真理の領域ですが、そういう真理の世界に入っていくには、具体的にはどういうふうに道を求めているのか、ということを説いているわけですね。だからまず十地品というのを見て、どんな構成になっているんだろうと、それを簡単に理解して、その後にじゃ善財童子の求道の物語というのは、どういうことなんだ、ということを見ていくと、大体の輪郭がわかると思うんですね。それでは十地品の言葉を出して頂きましょうか。
 
白鳥:  十地は是れ一切の仏法の根本にして、菩薩具足して、此の十地を行ぜば、能(よ)く一切の智慧を得ん。
(「華厳経」十地品)
 
鎌田:  これが十地品の言葉なんですが、「地」というのは、何かを生むものですね。そこから種を蒔けば、そこから何か生まれていく。そういう意味で母胎(ぼたい)ですね。母なり大地と言いますか、それが十段階(@歓喜地(かんぎじ)A離垢地(りくじ)B明地(みょうじ)C?地(えんじ)D難勝地(なんしょうじ)E現前地(げんぜんじ)F遠行地(えんぎょうじ)G不動地(ふどうじ)H善慧地(ぜんねじ)I法雲地(ほううんじ))に分かれて、専門的な言葉を使いますと、「歓喜地(かんぎじ)」というのが第一でありまして、第十番目は法雨地(ほううんじ)というんですが、これは呼び方が十種ありまして、それぞれのところでどういうことを行ったらいいか、と。あるいはその段階ではどういうことがわかればいいか、ということを順番に説明していくわけですね。だから「十地」というのは、一切の仏法の根本というのは、この段階で説かれていることをちゃんとわかって、それをまた実行していけばだんだんと智慧が得られますよ、と。ですからこの「十地」で説いていることをしっかりと受けて、そしてそれを一つずつ理解し、修行していけば必ず智慧を得ることができますよ、と。十分に修行していく。「具足」というのは、具わらないといけない。ただちょっと読んで、「あ、わかった」というんじゃなくて、やはり実行していかないといけないですね。そして「十地を行ぜば」ということですから、これを実践していけば、必ず立派な智慧を得ることができますよ、ということなんですね。
 
白鳥:  その第一ステージが、さっきの先生のお言葉ですが、「歓喜地」というところから始まるわけですね。
 
鎌田:  一番初め、「歓喜地」と呼ぶのは、「歓喜」というのは歓ぶという字を書きますけどね。やはり宗教的に何かを得ますね。そうすると、ただ嬉しいというんじゃなくて、心の中から湧き上がってくるような歓びがありますね。私たちの普段の実践でも、何をやってもなんか一生懸命何かを始めると、なんか喜びが湧いてくることがありますね。ただ「嬉しい」とか「楽しい」とかいうんじゃなくて、心の中からなんか大いなる喜びがある。
 
白鳥:  それが「歓喜」という言葉で言われているわけですね。
 
鎌田:  そうなんです。それが宗教的な意味で目覚めるわけ。宗教的に目覚めると、やはり心の中から静かな喜びではありますけれども、何か湧き上がってまいりますね。それを「歓喜地」と呼んでいるわけですね。
 
白鳥:  次の経文をまた読んでみましょう。
 
常に慈悲心を行じ、恒(つね)に信有りて恭敬(くぎょう)し、慚愧(ざんき)の功徳備わり、昼夜に善法を増し、功徳の実利を楽(ねが)いて諸欲を楽(ねが)わず。
(「十地品」)
 
鎌田:  まず一番大切なのは、慈悲心を行うことだ、と。「慈悲」というのは相手に対する思いやりですね。昔の仏教では、「慈」と「悲」と分けて相手に喜びを与えることとか、相手の悲しみを除くこととか、と説明しますが、慈しみの気持というんでいいと思うですね。相手を労(いたわ)る気持だ、と。慈しみの気持を持てばいいと、行ずればいい、と。「信有りて恭敬(くぎょう)し」信というのは、この前の時間にもお話しましたが、心が清らかにすることなんですね。心を清らかにして、そして「慚愧(ざんき)の功徳備わり」慚愧(ざんき)というのは、恥じいることですね。自分のやったことを恥じいること。一日の生活を見ましても、どんな人でも恥じることが多いですよね。もうこれで何にも恥じることがないというような人はいないわけで、やったことに対して、こういうことをやってしまった、と恥じいるわけですね。そしてそういう恥じ入ることによって、その功徳が積み重なっていきます。そうすると、いつも善いことを行おうという気になってくるわけですね。そして善いことを行う。それの「功徳の実利を楽(ねが)いて諸欲を楽(ねが)わず」ということは、「善根功徳(ぜんこんくどく)」という言葉が、仏教にはありますが、善根を積んで、そしてその徳をだんだんと積むことによって、「実利を楽(ねが)いて」ということは、利益ということなんです。勝れた利益。勝れた利益を願って、「諸欲を楽(ねが)わず」ということは、欲望を欲しいままにすることはしないと。ですから簡単に言えば、自分がこういうことをやってはいけなかったな、と反省して、そしてそれじゃ善いことをしようかな、とこう思って、そして他の欲望を抑えながら善いことを実践していく、ということなんですね。だからまず反省して、それから善いことを行うと。
 
白鳥:  善いことというのは?
 
鎌田:  それは別に特定の決まりはありませんが、すぐ後にそれは具体的には「四摂法(ししょうぼう)」ということですよ、という説明がつきますが、まあ善というのは貪らないことなんですね。それから瞋らないことなんですね。そういうような気持によって行うこと。具体的には、「四摂法」という形で、後に説かれてくるわけですね。「四摂法」というのは、四つの徳目ですけどね。何かと言いますと、「布施(ふせ)」「愛語(あいご)」「利行(りぎょう)」「同事(どうじ)」ということなんですね。
「布施」というのは、何かと言いますと、物を人様に差し上げること、あるいは自分が知った教えを人様に説くこと、こういうわかりましたと、こういう仏教の教えがあります、というのを人に説明することが布施なんですね。布施には、物と心と二つありますね。普通布施というと、物だけ考えるでしょう。物を与えればいいんだ、と。人間というのは、物だけじゃないんですね。気持を与える。親切な気持を与える。それを両方合しまして、「布施」という。
「愛語」というのは、優しい言葉を掛けることなんですね。これも相手を怒ったり、怒った言葉を投げつけたりするよりは、やっぱり優しい言葉を相手に掛ける。労りの言葉を掛ける。これがまた人間というのは、それによって有り難いと思うんですね。物だけではないんですね。何か優しい言葉を掛けられると、それじゃ自分もやってみようという気にもなりますしね。それを「愛語」と言います。
「利行」というのは、これは自分の身体、口、心、そういうところで行っている善によって人々に御利益を与えると。「利行」というのは、一言で言えば、それによって人様に役立つことなんですね。優しい言葉もそうだし、それから、例えば身体の悪い方をちょっと介護してあげるとか、道を歩いていてもちょっと支えてあげるとか、たったそれだけでも人様に役に立ちますね。相手を駅の階段で突き飛ばすとか、そうじゃなくて、少し避けてあげるとか、あるいはご老人でだったら支えてあげる。そういうことが「利行」というわけですね。
「同事」というのは、同じ事なんですね。相手と同じことをしている。ということは、相手の立場に自分も立つことなんです。「同じ事」と書きますけどね。やっぱり相手の立場に立って考えてあげるとか、それから相手の立場にちょとでも立ってあげるというと、随分違いますでしょう。だから人生というのは、いろんな職業を経た人、いろんなことを経験した人、こういう人は人様のことがよくわかるんですね。そうじゃなくて何だか真っ直ぐに人生を送ってしまうと、人様の他のことわかりません。そうすると同事ということができないんですね。しかしそれはできなくても推し量ることはできますでしょう。ああいうことをやっておられるけどね、と言って、それを推量することはできます。そうしたらその立場に立って物事を考えてあげましょう、と。それによってお互いに共同することができますね。一緒にやろう、と。「同事」というのは、簡単に言えば、一緒にやろう、ということなんですね。俺は俺、お前はお前、というんじゃなくて、自分もあなたもみんな一緒に事をやりましょう、というのが、「同事」なんですね。
どれ一つとっても、具体的な行動ですね。善というのは、抽象的に考えれば、悪いことをしない。欲をもたない。ところが具体的には、大乗仏教では四摂法を説くんで、この中の一つでもやれれば大したものだと思うんです。布施一つにしてもなかなかできません。
 
白鳥:  これは先ほどの「昼夜に善法を増し」という、この内容なんですね。
 
鎌田:  そうなんです。この四つをいつも行うことができれば、これはもうそれだけで菩薩様ですよ。それだけでお顔も菩薩様のようなお顔になれるわけですよね。
 
白鳥:  ほんとに十分の一でもあれば、日本の社会も随分住みよくなるんじゃないかなと思いますね。
 
鎌田:  今はこういうのがほとんどないでしょう。こういうものを人から聞いたこともないわけですよ。しかし大乗仏教では、こういうことが大切ですよ、と。こういうことを行わなければいけませんよ、と。そういうふうに言っているわけですね。それではまた次の言葉を見てみましょう。
 
白鳥:  (な)す所の一切の善根は、皆衆生を度(ど)せんが為の故に、一切の衆生の為の安楽を求めんが故に、一切の衆生を利益せんが為の故に。
(「十地品」)
 
鎌田:  ですから今の四摂法でもそうですね。「作(な)す所の一切の善根」善い行為の種ですね。具体的には四摂法でもいいです。それは「皆衆生を度せんが為の故に」度すというのは、救うということで、お役に立つということですね。だからみなさんのお役に立つためにやるんだ、と。そして「一切の衆生の為の安楽を求めんが故に」そうしますと、相手のみなさんたちもみんな気持が安らかになりますよね。四摂法をもって接せられれば、どんな人でも気持が安らかになりますでしょう。そして「一切の衆生を利益せんが為の故に」それがみなさんにお役に立つんだ、と。確かに四摂法のどれをとっても、これはほんとにみなさんにお役に立つことだと思います。この一つでも現在の荒涼たる荒廃した世の中で、ほんの少しでもそういう気持をもてば、世の中が随分平になると言いますか、爽やかになると言いますか、笑顔が甦ってくるんじゃないか、という感じですね。
 
白鳥:  今この十地品に書かれている辺りは、先ほどの十のステージと、先生おっしゃいましたけど、どの辺の段階なんですか。
 
鎌田:  これはかなり進んでいかないとダメですね。三、四つとこう経てきて、五つぐらいになる段階だと、まずこういう人様にお役に立つようなことをしようと。それを「難勝地(なんしょうじ)」と言うんですね。欲望、迷いというのは、なかなか断じ難いでしょう。だから「難」ですね。そして欲望無明に勝つことが大切だというんで、「難勝地(なんしょうじ)」と言うんですね。人様に仕えると、四摂法を実行することだと、自分自身の欲望というのは大分減ってまいりますよね。抑えることができますでしょう。自分よりも人様に、とこういう姿勢になりますからね。それで「難勝地」までいくと、今度は一番十地品の中心になる第六地に入るわけですね。
 
白鳥:  これは「現前地(げんぜんじ)」と言われていますですね。
 
鎌田:  そうです。「第六現前地」と。ここへ来るともうずっと思想も深まるし、境地も深まるんですね。それが第六現前地。この第六現前地には、非常に重要な言葉が載っておりまして、古来から『華厳経』というと、第六現前地の言葉を引くほど重要なんです。ですからその言葉をまず見てみましょう。
 
白鳥:  三界は虚妄(こもう)にして、但(ただ)(これ)一心の作(さ)なり。十二縁分(えんぶん)は是(これ)(みな)(しん)に依(よ)る。・・・是(かく)の如くなれば則(すなわ)ち生死(しょうじ)は、但(ただ)心より起る。心若し滅することを得ば、生死も則ち亦(また)尽きん。
(「十地品」)
 
鎌田:  「三界虚妄但是一心作(さんかいこもうたんぜいっしんさ)」とこう読みましてね、非常に有名な言葉なんです。「三界」というのは、三つの世界でありますが、この世の中と考えていいと思うんですね。この現実は、この世界は、「虚妄にして」いつわりの世界だ、と。誤った世界だ。どうして誤った世界かというと、それはただ自分の気持が作ったんだ、と。自分の心の持ち方でこの現実の世の中というのが出来上がってきているんだ、ということを、まず最初にポンと出しているわけですね。それから「十二縁分」というのは、この「十二因縁」という仏教の術語でありますが、「無明(むみょう)」から始まりまして、「老死」で終わる十二の迷いの態形を説明しているんですね。一つひとつを覚える必要ありませんので、要するに人間の迷いの生存。この生存というのは大体迷いでしょう。それが、「十二縁分は是皆心に依(よ)る」心の持ち方で迷いというものは生まれてくるんだ、と。そして後半の方をみますと、そうであるから、「生死は」というのは、これは迷いの世界は、生き死には、ということですが、迷いの世界というものは、心の持ち方によって起こってくるんだ、と。だから「心若し滅する」という、「心」というのは、この迷いの心です。間違った心、迷いの心がもし無くなれば、そうすれば「生死もまた尽きん」というのは、迷いの生存というのもなくなる。まあ一言で言えば、持ち方によって我々の迷いの世界が生まれているんですよ、と。だから心の持ち方を正しくすれば、その迷いの世界も消えていくんですよ、ということなんですね。要するに、我々の現実の迷いというのは、全部心が作ったものだ、と、そう言っているわけですね。別にこの前の時間も言いましたが、ヨーロッパで言っている観念論とか、そういう意味じゃないんですね。気持の持ち方によって、迷いというのはあるんだ、と。確かにそうですよね。気持が悪い方に動いていけば、そこに悪い世界ができてきますし、気持が清らかになっていけば、そこには安らかな世界が出てきますのでね。専門の言葉では、「妄心(もうじん)」とかそう言いますけどね。間違った誤った心と言いますがね。「真」と「妄」とありますが、「妄」の方ですね。妄心によってこの生存の世界をつくりあげているんだ、と。苦しみの世界を。だから人間というのは、心の持ち方が大切なんですね。心の持ち方を誤ると、とんでもない世界をそこへつくりあげる。ですから心の世界が間違いば、そこから地獄もつくっていくわけですね。自分で、自分が地獄をつくりだすということがよくありますね。ですから心の持ち方というのは非常に大切ですよ、と。じゃ、それを具体的に、迷いを離れるにはどうしたらいいか、というのは、経文が次に説いておりますので、それを見てみましょうか。
 
白鳥:  「第八不動地(ふどうじ)」になるわけですね。
 
不動地に入るを名(なづ)けて深行(しんぎょう)の菩薩と為す。一切世間の測(はか)ること能(あた)わざる所にして、一切の相を離れ、一切の想(そう)と、一切の貧著(とんじゃく)とを離れ、一切の声聞(しょうもん)、辟支仏(びゃくしぶつ)の壊(やぶ)ること能わざる所なり。
(「十地品」)
 
鎌田:  「不動地」と、いい言葉なんですね。そこで動かない。あるいは「不退地」と言ってもいいんですね。退かない。「不退」と言っても、「不動」と言っても同じことですが、そこへ入ってしまえば、これは深く修行した菩薩だ、と。それを「深行の菩薩」とこう言っているわけですね。そこの境地に入ってしまえば、普通の私たちの世間の常識では、それは測ることができないほど深い素晴らしい高い境地なんですね。それを具体的に、「一切の相を離れ」形あるものに執着をしない。それから「一切の想」同じ発音でありますが、これは妄想ですね。その次の「貧著(とんじゃく)」というのは貪り、執着、そういうものを離れていくわけですね。最後は声聞、「辟支仏(びゃくしぶつ)」というのは、縁覚のことですが、これは「声聞」も「縁覚」も自分の悟りだけを求める人たち、人様にお役に立つことはしないで、自分だけ良ければいいと。そういう人は決してこういう不動地の境地を破ることはできないんだと。自分だけのことを考えて生きている人は、不動地というような素晴らしい境地をもうそこを犯すことができないんだ、と。もう少し言いますと、自分だけの悟りを求める人たちのグループよりも、大乗仏教の菩薩の人のために役立とうという人たちの教えの方がいいんだ、ということをここで言おうとしているわけですね。だけどそれはどうでもいいことでありますが、一番重要なのは妄想と執着、貧欲、そういうものを離れて、どんなにそういうものから誘いがあっても動かないんだ、ということなんですね。
 
白鳥:  羨ましいような心境ですね。
 
鎌田:  私たちはすぐ何でも誘いがあると、すぐそっちへ行っちゃいますでしょう。ですからそれを動かない。誘いがあっても、悪魔が笑顔でよって来ても、なかなか誘われないというような境地が望ましい。それはもう不動地、不退地、絶対もうそこから動かないんだ、と。退かないんだ、と。これまで来るのは大変ですね。
 
白鳥:  これが第八ステージですね。
 
鎌田:  そうなんです。だから最初からかなりいろんな修行をしながら、やっとここまで来れば、もう戻らない。後は一番上まで極めればいいんだ、ということになりますね。そして一番上の状態になると、どういう状態になるかというのが、次に経文、「法雨地(ほううんじ)」に説かれてくるわけですね。
 
白鳥:  法雲地に住すれば、一仏の所(みもと)に於(おい)て、能(よ)く大法明の雨を受け、二仏、三仏、乃至不可説、不可説の仏、一念の中に於て、皆能(よ)く是(かく)の如きの諸仏の大法の雲雨(うんう)を堪受(かんじゅ)す。是の故に此の地を法雲地と名(なづ)けたり。
(「十地品」)
 
鎌田:  これが第十番目で、一番高い境地で、これを超えればもう仏地に入って、仏さまになっちゃうんですね。菩薩としてはこれが最高の位になるわけですね。その法雨地というところに入れば、仏さまの一仏の所(みもと)において、そこから真理の教えの雨を受ける、と。真理の雨を浴びるわけですね。それから一仏だけじゃなくて、二仏、三仏、さまざまの数え切れないような仏さまの教えの雨も受けるわけですね。「潅頂(かんちょう)」という言葉があるでしょう。よく水を頭に掛ける。あるいは四月八日の仏さまの誕生日は甘茶を掛けたりしますでしょう。そういうふうに考えて頂いて、これ真理の雨ですね。真理の雨を受けるんだと。そうならば「一念の中に於いて」私たちの心の中において、「諸仏の大法」大いなる仏法の雨をそこで受けるんだ、と。受けることができるんだ、と。それで法雨地と言うんだと。だから「法雨地」という意味は、「法」は真理なんですね。真理の雲から雨が落ちてくる。そうするとその雨も真理でしょう。だから私たちがたくさんの仏さまから真理の雨をこう受けるんだ、と。まあ大変な境地ですよね。なかなかここまではとても私たちいくら修行しても行けませんしね。しかし理想とすれば、そういう仏さまの真理の雨を受けるんだ、と。潅頂を受けるんだ、と。頭にこうお水を受けるんだと思えば、それでいいんで、ですからここまでくれば一番上でありますから、不退地で、不動地で動かないでしょう。そしてここへくればもうそれは完成したということなんですね。
 
白鳥:  「歓喜地」から始まって、最終の第十ステージの「法雨地」ですね。この法雨地に至るまで、これが十地品、つまり十地の章ということで解説されているわけですね。
 
鎌田:  そうなんですね。そしてそういうものを具体的に、じゃ、実行するとなると、どういうふうに考えたらいいのか、というのが、次の後半ですね。その善財童子の求道ということの話になりますけれども。
 
白鳥:  これは章が変わるわけですか。
 
鎌田:  変わるわけです。「入法界品(にゅうほっかいぼん)」と言いましてね、「入法界」ですから、法界に入るでしょう。法界というのは、真理の領域なんですね。そこへ一人の求道者である善財童子が順番に先生を訪ねていくわけですね。そして先生を訪ねていくわけですが、善財童子というのは長者の子どもなんですね。長者のお子さんですが、仏教を求めようと発心して、そして五十三人の先生方を訪ねていくわけです。五十五カ所と五十三人の先生方―ダブル方もいらっしゃるので―を訪ねる。そしてこれは善財童子の求道の絵巻としまして、日本の東大寺なんかにもいくつか善財童子の求道の物語を絵にしたものが残っております。ですからそういうものを見ますと、善財童子が一人ひとり立派な先生のところへ行って教えを受ける。ところがその先生は文殊菩薩とか菩薩さんであることは当然ですね。それから比丘とか比丘尼とかお坊さんであったり、庵主(あんじゅ)さんであったりすることも当然ですが、在家の信者の方もいらっしゃる。神様もいらっしゃる。お医者さんもいらっしゃる。天女もいらっしゃる。外道(げどう)もいらっしゃる。ありとあらゆる人たちがいるんです。女の方がかなりの数いらっしゃる。だから女の方も善知識と言って先生なんですね。それから外道の方でも先生ということは、この世の中で生きているあらゆる職業の人、それはみんな先生なんですね。いろんな職業がこの世の中にありますでしょう。それ全部先生なんです。何故かというと、一つの職業を一生懸命やっていますでしょう。なんか得ることありますよ。どんなことをやっていましても巧みなんですね。大工さんなんかでも名人芸の方がいらっしゃるでしょう。そういう方はそれだけを一生やって、それによって素晴らしいものを作り出す。そうするとその人は何かをもっているわけです。だから逆に言いますと、善財童子が五十三人の先生を訪ねたというのは、この世の中に存在する人は全部先生なんだということなんですね。どんな方でもこちらが求める気持があれば、その人から何かを教えて頂くわけですね。そう思うと気持が大きくなりますね。普通はみなさん先生とは思えませんでしょう。それを気持を広げまして、どんな方でも先生である。どんな方でも自分は何かその人から教えを受けることができるんだと思うと違ってきます。そういう目で見れば、ほんとにどんな方でも何かをもっているわけですよ。そうすると、まあ善知識とそれを呼ぶわけですが、善知識というのを具体的に、それじゃいろんな人が善知識だと、今お話しましたが、道を求める人はまず善知識に付かなくちゃならないと言ったのが明恵上人なんですね。日本の明恵上人というのは、栂尾(とがのお)の高山寺というのがございますでしょう。あそこで修行された方で、あの方は一生戒律を守りまして、そして清らかな生活を送って、そして道を求めた方なんです。華厳宗の方なんですがね。その人が善知識というものがどんなに大切だということを言っておられるんです。
 
白鳥:  読んでみましょう。
 
「学道の人は善知識(ぜんちしき)の辺に居せずば、成じ難(かた)かるべし。誠に深切の志を立て、行道を励むべくば、真正(しんしょう)の知識の為に頭目随脳(ずもくずいのう)をも惜まず、・・・只(ただ)久長(きゅうちょう)の志を提(ひっさげ)て、今日極めずば明日、今月悟らずば来月、今年相応せずば明年、今生証せずば来生と、深く退屈せず、火を鑚(さ)すが如くすべし」
(明恵上人伝記 巻上)
 
鎌田:  これも明恵上人の伝記に出てくる、特に後半が有名な言葉なんですが、道を求める人はまず善知識の側に居なくちゃいけない、と。そうしないと道は完成しない。だから立派な先生の側に仕えるべきだ、と。そして「親切の志を立て」深く徹底した、「切」というのは、徹底したですね、深いだけじゃいけない。徹底した、やり遂げるぞという、そういう志を立てて、「行道を励むべくば」修行をしていけば、「真正(しんしょう)の知識の為に」善知識の為には、自分の「頭目随脳(ずもくずいのう)」全身全霊、全部を惜しまないで捧げていかなければいけない。だからお師匠さんに自分を投げ入れるわけですね。これはもう武道や芸道は、みなそうなんですね。お師匠さまに本当に仕える、と。お師匠さまの中へ自分を全部投げ込んでしまうという気持がないと、これを宗教的な修行でも、武道でも芸道でもできないわけですね。で、「久長の志」無限の志ですね。すぐ明日というんじゃなくて、長い理想の志を立てて、後は字の通りでありまして、これがなかなかできないんですよ。我々の仕事でも、今日やるべき事は今日やらなければいけない、延ばしちゃいけない。ところがみんな明日やればいい、明日もあると。あるいは今年できなければ来年もあると。ところが明恵上人はそういうのはいけないんだ、と。今日は今日切り、明日は明日切り、今年は今年切り。だから今を大切にしなさい、と。「火を鑚(さ)す」というのは、火を鑚(き)ることなんですね。錐揉みし火を熾(おこ)す。けっこう回しますでしょう。だからそのように熾すように、これは「火をきる、鑚(さ)す」というのは、途中で止めたらダメです。恒にこう熾していくには、不断、無限、連続ということなんですね。だからこのお言葉は無限の修行。だから善財童子が善知識を求めて修行していったと同じように、我々もどんなことでも道を求める。あるいはこれは宗教的な道を求めるだけではありません。学問でも芸道でも武道でも、ありとあらゆるもの、普通の技術であっても、このような気持で毎日毎日を今日切りと思って、今を大切に生きなければいけない、と。これは道元禅師を初め鎌倉仏教の祖師方はみなそう言っておられるんですね。今が大切、明日に仕事を延ばしちゃいけない。それは我々はいつも延ばして暮らしておりますが、今が大切、今を充実する。だから今を充実するということはなかなかできないんですね。それがやっぱりこういう仏教の教えを日本人が受け入れまして、『華厳経』の入法界品の教えを受け入れまして、そして明恵上人はこういうお言葉を吐いているわけですね。だからこれは明恵上人ご自身がこういうことをお書きになって、自分の励み、自戒にしたと同時に、また人様にも、あるいはお弟子さまにも、こういうふうにしなさいと言っているんだと思うんです。こういう自分自身を戒める気持も、今のお言葉に含んでいるわけですね。私たちには耳が痛いですけども、まあ鎌倉時代の祖師たちは、そういう気持で求めていたんだなということがわかると思うんですね。同じ鎌倉仏教というと、これと同じことを、「今が大切、今時只今を、修行を一生懸命しましょう」とおっしゃったのは道元禅師ですね。
 
白鳥:  明恵上人のすぐ後ですね。
 
鎌田:  そうですね。道元禅師のお言葉もちょっと見てみましょうか。
 
白鳥:  これは『正法眼蔵』の中の一節ですね。
 
仏法には修証一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなわち本証の全体なり。
(「正法眼蔵」弁道話)
 
鎌田:  これも有名な言葉でありまして、「修」というのは修行する過程ですね。「証」というのは悟りですね。修行する過程も、その結果到達したものも同じだ、と。ですからいつも修行ということは、悟りの上で修行しているんだ、ということなんですね。何かこう求めていって、そして悟りに到達して、それでいいというのは間違いだ、と。「初心の弁道」最初に志を立てて、道を行うことも、最後に悟りを開いた時の境地も、それはみな同じなんだ、と。ということは、目的のために何かをやってはいけない、と。目的のためにそれに到達するための方法として坐禅をするんだ、というんじゃないんだ、と。坐禅をしているその姿そのものが、それが仏さまの姿なんだ、と。そうなるとこれ大変なことなんですね。いつも修行ということになるんですね。だからある程度やって目的に到達すればそれでいいんだというんじゃ全然ないわけです。これは「只今只今、一瞬一瞬がいつも修行だ」と。大変な考え方ですね。そうなると無限の修行と言いますか、無限の求道と言いますか、そういうことになっちゃうんですね。これでいい、というのはないわけです。初めも終わりも全部それぞれが修行なんだ、というのでやるわけですよね。ですから普通だと悟りを開くために坐禅を組む、というふうに考えますでしょう。そうじゃなくて坐禅をすること、それが悟りの姿そのままなんだ、と。仏さまの姿そのままなんだ、と。そうなると限りありませんよね。無限、いつも。「無限」ということは、別の言葉で言えば、「只今」なんですよね。只今一瞬一瞬が修行。これはできないことなんですね。一瞬一瞬が修行ということは、それはもう常人じゃなかなかできない。すぐちょっと休まして頂くとか、そしてもういいでしょう、と。五年やったからいいでしょう。十年やったからいいでしょう。二十年やったからいいでしょう。そうじゃないんですね。二十年やっても、一年やっても、それまったく同じなんだ、と。初心も大切だ、と。ちょうど道元禅師の教えを受けた世阿弥(ぜあみ)という方がいらっしゃいますがね。その方の有名な言葉で、「初心忘るべからず」という言葉があるんです。これがやっぱり同じなんですね。それで世阿弥は、「初心忘るべからず」をまた説明していきます。そして「是非初心忘るべからず」と言いましてね、それは若い時の初心も忘れちゃいけない。十年の初心も忘れちゃいけない。老年の初心も忘れちゃいけない。ということは、同じなんです。道元禅師と同じなんですね。あくまで死ぬまで初心だ、と。死ぬまで初心でやるということは、これ大変なことでございましょう。それでそういう考えがどうしてできたかというと、『華厳経』の中にそういう言葉があるんですね。『華厳経』の中に、「初発心時便成正覚(しょほっしんじべんじょうしょうがく)」初発心の時、すなわち正覚を成ず、と。これが『華厳経』の言葉にあるんですね。これと同じなんですね。初めて発心した時に、その中に悟りが入っている、と。だから初めの発心がなければ何もないわけでしょう。発心するということ、初めて何かをやるという時に、完成したものがその中に備わっているんだ、と。そうなると最初にやろうと決心する初発心というのが如何に重要か。私たちなんか始めるでしょう。始める時の気持が大切なんですね。ところが慣れてくると、どんなことをやっていてもすぐ忘れちゃうんです、初めの決心を。
 
白鳥:  まさに「初心忘れるべからず」なんですけどね。
 
鎌田:  そうなんです。みな忘れてしまう。それで最初は純粋な気持ちでやるんだけど、すぐ忘れちゃう。そうじゃない。最初の純粋な気持ちをいつでも思い起こしなさい。あるいは最初に始めた気持になっていつもやりなさい。これは芸道でも武道でもそうでしょうね。慣れというのは恐ろしいでしょうし、慣れると全身全霊をそこへ注がないようになる。そしていい加減になります。ところが初めてどんどんとやった時は大変な緊張感を持つでしょう。純粋なその気持をどんなことをやっても忘れてはいけませんよ、というのを『華厳経』で説いているんですね。『華厳経』では、こういう仏教の言葉で説いているわけですが、日本人がそれを受け入れてきますと、もう少し修行ということに対する深い考察になっていくわけですね。ですから最初が大切。最初の気持をどんなにやっていても失わない。いつも最初の気持で物事をやっていく。なかなかできませんけどね。しかしそういう気持でやらなければ、芸道でも武道でも絶対ダメですよね。そういう気持でいつも初心という気持ですね。そういう日本人が『華厳経』の思想を受け入れてきたわけですが、また『華厳経』の思想で念仏を取り立てた人がいますので、その言葉を出してみましょうか。
 
白鳥:  良忍(りょうにん)の言葉ですね。
 
一人一切人 一切人一人
一行一切行 一切行一行
(良忍 融通円門章)
 
鎌田:  これは良忍(平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖:1073-1132)が開創の融通念仏宗ですが、江戸時代に良賀(りょうが)という人が、『融通円門章』というのを書きまして、良忍の言葉を引用しているわけなんですね。やはり『華厳経』の思想と、それから浄土三部経の思想で、良忍はこういう思想を創っていったんですね。良忍と言いますと、大原の、来迎院(らいごういん)というのがございますが、それを開いた方で、声明の方でも中興した偉い人でありますが、こういうようなことを言ったんです。一人で念仏を称えますけど、それは一人の念仏ではない、と。一切の人の念仏になる、と。それから一切の人々の念仏も、また一人の念仏になる、と。凄い考えですよね。
 
白鳥:  融通念仏宗の一つの大きな考え方なんですね。
 
鎌田:  特徴なんですね。『華厳経』の考え方を受けているわけですね。だから一人で称える念仏の功徳も、多くの人で称える念仏の功徳もみんな融通していくんだ、ということですね。そうなると一人の行をやっていることも一切に通ずるんだ、と。一切に通ずる行もまた自分一人の行と同じなんだ、ということははっきりと大乗仏教の理想である菩薩の理想で、自分一人だけの修行するんじゃないですよ。一人の修行もみんなの修行だ、と。そうしますと、たった一人の修行がみんなの修行ということになるといい加減にできませんよね。みんなの修行を、自分が称える念仏も一切の人々のお念仏と融通しているんだと思うと、いい加減に称えられませんね。だから一人が一切に通じていく、ということなんですね。日本人というのは、『華厳経』の考え方を非常に巧みに取り入れまして、日本的にそれを展開していくわけです。だから日本的に展開していくとなると、近代では西田哲学で有名な西田幾多郎博士がいらっしゃいますが、西田幾多郎博士のお言葉もちょっと見てみまようか。
 
白鳥:  西田幾多郎さんの『善の研究』の中の一節ですね。
 
眞の善とは唯一つあるのみである。即ち眞の自己を知るといふに盡きている。我々の眞の自己は宇宙の本體である。眞の自己を知れば啻(ただ)に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本體と融合し神意と冥合するのである。
(西田幾多郎「善の研究」)
 
鎌田:  これも『善の研究』というのは、昔は大変によく読まれたんです。敗戦後も岩波書店の前に並んで買い求めた時期もあるんですが、しかし戦後はほとんど無視されてきたんですが、最近はまた西田哲学というのを別な面から見直すようになってまいりました。昔は『善の研究』というと、高等学校の学生は文化、理科を問わず、みな読んだ本なんですね。その中の有名な言葉なんですが、真の善はただ一つだ、と。それは真の自己を知るんだと。我々の真の自己というのは、そのまま宇宙の本体だ、と。『華厳経』でいうと、宇宙の本体は毘盧舎那仏です。宇宙の生命そのものですね。だから我々の自己は、そのまま宇宙の生命である毘盧舎那仏に通じているんだ、と。そして自分自身の本当の自己を知れば、それは自分自身を知ったことだけじゃなくて、人類一切の善、すべての善と融合しているんだ。先ほどの良忍の言葉の「一人一切人」なんですね。「一行一切行」なんですね。それを西田哲学はこういう近代の哲学用語を使って説明しているんですが、同じことなんですね。「宇宙の本體と融合し神意と冥合するのである」宇宙の本体は『華厳経』で言えば、毘盧舎那仏なんです。それと一つになっている。だから自分自身というものは、毘盧舎那仏と一つ。それから他の人も毘盧舎那仏に通じている。そうすると自分も他の人もみんな宇宙本体に通じているというのが、西田哲学の考え方ですね。それで西田哲学も「一即一切、一切即一」というような『華厳経』の理念を哲学論文集の第七に「和の論理と宗教的世界観」という論文がありますが、そういう中では縦横に使っておられるんですね。ちょうど西田博士とご親友であられた鈴木大拙(すずきだいせつ)博士は、やっぱり華厳というものを非常に重視されておられまして、華厳のこういう考えというものは、古代の仏教の『華厳経』の思想というんではなくて、現代にも通じるんだ、ということを鈴木大拙博士も言っておられるんですね。というよりも、次の世代というのは『華厳経』の思想、華厳の思想というものを考えていかないと、人類は大変な財産を失うんだ、ということも言っておられるんですね。ですから西田哲学にしろ、鈴木大拙博士の仏教学、禅学にしても、みんなそういう『華厳経』の理念というものを中にもっておられるという感じですね。今はあんまり顧みられておりませんが、しかし戦後一時期あれだけ下火であった西田哲学も、また違った目で読まれる時代がくるんではないか、と思うんです。だから日本人の中には、そういう『華厳経』の思想というのは何となく脈打っている。
 
白鳥:  そうですね。いろんな芸術論の形をとったり、仏教論を創ったり哲学になったり、いろんな形で、まさに先ほどの善財童子じゃありませんけども、五十三の言説になっているかも知れませんですね。
 
鎌田:  そうなんですね。ですからお茶やお華でも同じですね。この極小の中に無限のものを入れる、というような考え方、極小は極大であるとか、小さな茶室の中に無限の宇宙がそこに入る、というような考え方。ですから日本の思想の中に、あるいは芸術の中に、はっきりとこれは『華厳経』のものですよ、とは言っていませんけど、しかしそういう『華厳経』で説いている「一即一切、一切即一」という考え方がなんとなく染み込んでいるんじゃないかなという感じがするんですね。そうしないと、日本の文化、あるいは日本の芸術がわからないんじゃないかという感じがするんですね。ただもとは『華厳経』だということは別に言いませんけど、しかしなんかそういう考え方が日本の文化や芸術の中に流れているんじゃないかなという感じは致しますね。だからそういうものが思想として現れると、先ほどの明恵上人であるし、良忍であるし、あるいは近代では西田哲学であるし、あるいは鈴木禅学であるし、そういうものの中にみんな入っているんじゃないかな。そうすると『華厳経』というのは、古代の仏教の思想で、今役に立たないというんじゃなくて、やっぱり再認識する必要があるんじゃないかな、という感じは致しますね。
 
白鳥:  先ほどの十地品の中で、最初に「歓喜地」というのがありましたでしょう。やはり最初、まさに初心ですね。ここの歓びというお話をなさいましたけどね。
 
鎌田:  そうなんです。そしてその初心の歓びをずっと持ち続けること、これが案外できるようでできないんです。しかしそれこそが本当の意味で『華厳経』の精神を体得したことになるんだろう、ということなると思いますね。
 
白鳥:  まさに菩提心と言いますかね、真実への接近が「一切諸仏の種子(しゅうじ)となす」という言葉がございますけども、ほんとに種子が一番大事な最初の初心になるわけですね。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年九月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである