いのちの探求 大乗仏典に学ぶF捨身の護法
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」の七回目で、今回は『勝鬘経』(しょうまんきょう)という仏典を取り上げてお話を進めていくことに致します。この『勝鬘経』という大乗仏典は、古くは日本では、聖徳太子が『法華経』などと並んで注釈書を書いたお経の一つとしても大変有名なお経なんですが、今日はその仏典を中心にして、「法とは何か」ということについてお話を伺っていくことに致します。私は、これまで三回お休みを頂きましたが、今回からまた復帰をすることになりました。どうぞよろしくお願い致します。お話はいつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。よろしくお願いします。
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  『勝鬘経』というのは、大乗仏典の中ではかなり古くから日本に伝わってきたお経で、しかも形も中身もなかなかユニークなお経なんだそうですね。一言でいうと、どういうところなんですか。
 
鎌田:  そうですね。お経というのは、中心になって仏になる人がいろいろおられるんですね。菩薩であったり、仏さまであったり、在家の居士であったり、あるいはお弟子さんであったりとか、いろんな方がおられますけれども、『勝鬘経』は、ご夫人が主人公になって、そして述べておられますので、ご夫人が主人公のお経というのはあんまりないんですね。そんな意味で大変にユニークである、と。どういうご夫人かというと、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)と言って、夫人でありますが、コーサラ国の波斯匿王(はしのくおう)という王様がいらっしゃいまして、その娘さんでありますけれども、その人を主人公にして、そして説いているわけです。お父さまが仏教を信仰するようになって、そしてお嬢さんも連れて、そして仏さまにお会いになって、それから仏教に帰依をしていった、と。そしてだんだん本当の正しい教えというのがわかってくるわけですね。それをまたご自分で、「こういう教えが正しい教えです」ということを言っていくわけですが、
 
草柳:  要するに在家の奥様なんですね。
 
鎌田:  そうなんですね。別に尼僧さんとか、そういう意味じゃないんですね。在家の方で、だからユニークなわけでしょうね。普通在家の方が主人公というのは、『維摩経(ゆいまぎょう)』なんかも在家の居士である維摩詰(ゆいまきつ)(維摩居士)を主人公にしたものです。在家の男の方が主人公です。でも『勝鬘経』の方は、在家の女の方が主人公だと言うんで大変珍しい。先ほどおっしゃったように、聖徳太子もこのお経を注視しまして、三つのお経―『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である―を注釈をなさっておられるというんで、日本の仏教としても、聖徳太子(574-622)が取り入れられたものですから、非常に初期の時代から伝わっていったものなんですね。
 
草柳:  多分きっとわざわざ選んだのには、それなりの理由がきっとあったんでしょうね。
 
鎌田:  あったんだろうと思いますね。あるいは推古(すいこ)天皇(554-628)が女帝でいらっしゃいますし、そんなことも影響しているからと思いますが、よく事情はわかりませんけどね、とにかく『勝鬘経』を取り上げられたということなんですね。
 
草柳:  その『勝鬘経』の中心的な教えというと、どういうことになるんでしょうか。
 
鎌田:  それはもうお経を見ると、「摂受正法(しょうじゅしょうほう)」ということをよく書いてあって、正しい法を受け入れると。正しい教えを受け入れるということを中心テーマになるわけですが、まず勝鬘夫人がお誓いみたいなものを、こうしたい、と。自分はこういうふうにして修行したいと、十のお誓いをお経に書かれておりますが、それは自分自身が一生懸命に修行して、こういうことを守っていきたい、ということと、
 
草柳:  それはブッダの前で誓いを立てるという形になっているわけですか。
 
鎌田:  はい。そしてまた世の中のためにお役に立つように、こういうこともしたい、と。最後に正法を摂受(しょうじゅ)する。正法を護持する、と。それが十並べてありますけれども、すぐまたそれを三つに整理しまして、お経の中では、どういう三つのお誓いを立てたのか、というんで重要になるわけですね。ちょっとその三つの経文を出してみましょう。
 
草柳:  じゃ、一つずつ読んでまいります。
 
一、この実願をもって無辺の衆生を安慰(あんい)し、この善根をもって一切生において正法智を得よう。
二、われ正法智を得終わって厭(いと)うことのない心をもって衆生のために法を説こう。
三、身命財(しんみょうざい)を捨てて正法を護持しよう。
(「勝鬘経(取意)」)
 
鎌田:  そうですね。これが三つの願いになるわけですが、まず一を見てみますと、この「実願」というのは、真実の願いですね。真実の願いをもって、「無辺の衆生」というのは、数限りなく悩める衆生というものはいるわけですね。救われたいと思っている人たちがいるわけです。それを「安慰(あんい)し」その人たちの気持ちを安心させて慰めて、そして「この善根をもって一切生において正法智を得よう」そうすると、仏の教えを聞けば、「善根」というのは、善い功徳ですね。善を積んだ功徳、そういうものを積み重ねていって、この生涯において、この一生において、自分は必ず正しい教えというもの、あるいは正しい教えの智慧でもいいですが、簡単に言えば、正法だけでもいいです。正しい教えというものを得たいんだ、と。だから一は、とにかく「自分は善根を積んで、生涯にわたって正法を得たい」という強烈な自分の気持ですね。だからこの一は、仏教の言葉を使いますと、「自利行(じりぎょう)」と言って、自ら修行して道を求めるということになっていくわけですね。自分が修行して、そしてだんだんと立派な人になる、と。だからまず第一は、正しい教えを得て、立派な人になりましょう、と。第二は、「われ正法智を得終わって厭(いと)うことのない心をもって衆生のために法を説こう」というんですから、そういう正しい正法の教えがわかってきたら、今度は自分がわかったら、必ず人にそれを教えを説いていくことが大切だ、と。だから衆生のために教えを説こう、と。簡単に言えば、教えを説こう、ということですね。それが自分で得たものを人様にわかって頂こう。もっと簡単に言えば、「利他行(りたぎょう)」なんですね、仏教の言葉を使えば。だから一は、自分のため、二は、人々のために、
 
草柳:  「利他」というのは、字で書けば、他を利するという。
 
鎌田:  そうなんです。自分がせっかくわかった正しい教えでしょう。どうしても人様に伝えたい、という強烈な気持を起こりますね。自分だけ知ったんでは申し訳ない、と。そういう貴い教えを、人様にも教えたいという気が、二番目なんですね。三番目は、これはその正しい教えというものを守らなければいけない。ただ正しい教えを守るには、どういう決心が必要か、というと、「身命財」ですね。命を懸けても守らなければいけない、と。あるいは自分のもっている財産、そういうものを捨てても、正しい教えをいうものを守ることが大切ですよ、と。だから一は、自分のために正法を一生懸命学びましょう、と。二は、自分がわかったら人様に正しい教えを伝えましょう、と。三は、その正しい教えはなんとしても守らなければいけない。こういうことなんですね。正しい教えは、身命財を捨てても―そういう命を捨ててでも守らなければいけない、という強烈な誓いですね。だから「如何に正法ということが重要か」ということなんですね。正法というものが非常に重要だ、と。それは死んでも守るべきものなんだ、ということを言わんとしているわけですね。じゃ、「正法というものの内容は一体何なんだ」ということを、次に出して頂くといいかなと思いますけれども。
 
草柳:  世尊(せそん)、異(い)の波羅蜜(はらみつ)もなく、異の摂受正法(しょうじゅしょうぼう)もなし。摂受正法即ち是(こ)れ波羅蜜(はらみつ)なり。
(「勝鬘経」)
 
「摂受正法(しょうじゅしょうぼう)」というのは、つまり波羅蜜なんですね。
 
鎌田:  そうですね。ここ難しく書いていますけど、じゃ、正法を受け止める、あらゆる実践徳目を摂(おさめ)受ける。そして人様にそれをお伝えするという「摂受正法(しょうじゅしょうぼう)」というのは、一体なんですか、と言ったら、「波羅蜜なんだ」と。非常に簡単明晰ですね。例えば原始仏教では、実践徳目というような「八正道(はっしょうどう)」というのがありますがね。教えは「四正諦(ししょうたい)」。実践徳目としては「八正道」がありますけれども、大乗仏教の方で、「正法」というと何か、というと「波羅蜜」。「波羅蜜」というのはどういうことかというと、 「パーラミター」と言いまして、彼岸に渡る。彼岸に行く。「彼岸」というのは「彼の岸」と書きますね。日本では「お彼岸」というのがありますね、春と秋に。「お彼岸」というのは、みなさんお墓詣りのことだと思いますが、そうじゃなくて、本当は彼岸に達する、と。「彼岸に達する」という「パーラミター」という「彼岸」とは何か、というと、それは「理想の世界、悟りの世界、仏の教えの世界」そこへ行けるようにする。それがお彼岸なんですね。「到彼岸」到というのは到るという字ですから、彼岸に到る。彼岸に渡る。「此の岸」というのは、迷いの世界なんですね。煩悩に満ちている迷いの世界。そこから向こうの彼岸というのは、これは悟りの世界。そこへ行きましょう、ということなんです。
 
草柳:  「此岸(しがん)」というのは、つまり今我々がこうして生きているこの世界。この現実。「波羅蜜」つまり彼岸というのは、そこから離れて、煩悩の世界から離れて、悟りの世界に行くことである。悟りの世界のことですが、その波羅蜜というのは、「六波羅蜜」とか「十波羅蜜」という言葉もあるみたいですが。
 
鎌田:  そうですね。波羅蜜もいろんなのが、
 
草柳:  そこへ行く道、そのためには、これこれこういうことをしなければいけないんだ、ということが書かれてある、と。
 
鎌田:  そうですね。まあ六波羅蜜が代表的なものですから、六波羅蜜がいいと思うんですね。
 
「六波羅蜜」
@布施(ふせ)
A持戒(じかい)
B忍辱(にんにく)
C精進(しょうじん)
D禅定(ぜんじょう)
E智慧(ちえ)
 
一番最初からいきますと、一が、「布施」ですね。そうすると「布施波羅蜜」と。「布施波羅蜜」というのは、仏教では「財施」と「法施」というのがありまして、物を人様に与えるのが財施、教えを与えるのが法施なんですね。ですから物も与える、そして教えも与える。更に「無畏施(むいせ)」と言いまして、無畏を施す。「無畏」というのは、畏れ無しなんですね。畏れることがない。それは観音さまのことなんですけれども、畏れることがない。そういうものを人に施す。いろいろありますけれども、仏教では教えを施す。それが非常に大切だと、こういうことですね。ものを施して人様に役に立つことも、これも当然でありますが、しかし教えを受ける。真理を語って聞かせる。そういうことも一つの施しになるんですね。今「施し」というと、全部物でございましょう。お金を施したり、あるいは困った人に物をあげたり、そういうのを施しと考えますが、本当の施しは教えを施しだ、と。あるいはその人が困っていれば、こういうふうにしたらいいですよ、というようなことを教えてあげることも、それは法施になるわけですね。だから布施というと、なんか物をあげればいいんだ、というんではなくて、物をあげることも必要ですけれども、それ以上に教えを、あるいは役に立つ人生の四摂法(ししょうぼう)(布施・愛語・利行・同事)を、そういうものを親切に教えてあげる。で、それを受け取ることによって無畏―畏れるものがない、ということをその人が得ていくわけでしょう。この布施というのは難しいことですよね。どうしても私たち貪る気持があり、自分のものにしたい、という気持がありますでしょう。それを少しでも人様に分けてあげる、ということはなかなかできないんですね。しかしこの年齢に達しましたら、そういう気持をもつ、そしてそれを布施を行うことによって、自分が豊かになりますね。この人様から頂いたり、収奪したりしただけで晩年を行きますと、人間は惨めになります、かえって。やっぱり人様に与えるというような気持がありますと、あるいは人様の役に立つことを少しでもしたい、という気持がありますと、豊かに気持も大きくなりますし、それが大切なんですね。それでまず第一は、「布施」ということを言っているわけですね。二番目は、「持戒」。「持戒」というのは、これはもう字の通りで、戒を保つことなんですね。よく「戒律」という言葉がございますでしょう。「戒律」という「戒」の方は、自分で自発的にきちんとすることなんですね。「律」というのは、これは規律的な一つの規則とか、なんかあるでしょう。学校なんかでも学則なんていうのがありますね。それに従わないと、いろいろ先生から怒られたりしますね。これは「律」の方なんですね。そうじゃなくて、自分で自分の生活を律する。自分で自発的にこういうことをやっちゃいけない。こういうのをやろうというのが「戒」なんですね。だから「持戒」というものは、自分自身で戒めていかなければいけない。こういう規則が外にあるから、それで守らなければいけない、というんじゃないんですね。自分自身の中から、こういうことをしてはいけない。こういうことをやろうということですね。それがやっぱり弱いと人間だめですね。今学校なんかみても同じだと思うんですね。ただ外から規則で縛ってもやっぱり守りませんでしょう。自分からこうやる気がないと。自分からこういうことをやって自分を少しでも向上しようという気が起こると、それなりに効果が出てくるんですが、それじゃ、どうしてそれを起こすかと、難しいことなんですね。しかし仏教では本来人間の心の中には清らかな素晴らしい心があるから、そういうものから自然にそういう正しいことを行うとか、善いことを行うという気持が生まれてくるんだ、と考えるわけですね。
 
草柳:  仏教ではその辺のところもとても強く主張しているわけですね。
 
鎌田:  そうです。自分の心の中にあるものから、そういうものが自発的に起こってくると、こういうふうに考えるわけですね。その次に三番目は、「忍辱(にんにく)」ですね。これは字をご覧頂くとわかるように「堪え忍ぶ」ことですね。どんな辱めを受けても堪え忍ぶ。これがまたできないことなんですよね。人からバカにされたりすると、すぐカッとするでしょう。しかし昔から忍辱というのは大切だ、と。それでこれは怒りの心を直すんだ、というんですね。怒る気持を抑える。カッとしる気持を堪え忍ぶということで、それが保つことができるんですね。ですから一番この忍辱というのは、人間が生活している上で大切じゃないんでしょうか。よくカッとする人いますね。それは誰でもカッとしますけれども、しかしカッとしないで、それを抑えていく。どんなに辱められても抑えていく、と。その抑える力によって、自分の向上のエネルギーにしていくというんで、昔の人は、「忍の功徳は、持戒や精進よりも勝る」と言っているんですね。忍辱の功徳は大きい、と。堪え忍ぶという、その功徳は大きいんだ、と。今の世の中だとそんなこと言っていると通じないかも知れませんが、やっぱりいろんなことに対して堪え忍ぶ。それはエネルギーですからね。堪え忍ぶエネルギーがなければ、向上のエネルギーも出てこないわけですよね。ちょっとなんかやれば、あ、これは辛いからもうダメだ、というようじゃもうダメでしょう。ですからやっぱり忍辱というのは必要だな、と思いますね。次の四番目は、「精進」。これは当然のことで、精進料理という意味ではなくて、努力すること。努力の継続です。「継続は力なり」というけれども、ほんとにそうだと思いますね。一歩一歩積み重ねをやる。人間は一番強いのは積み重ねです。一気にやったものは、一気に滅んでしまう。しかし着実に毎日積んでいくものは、大きな力になるんですね。だから精進ということは一番重要なことなんですね。
 
草柳:  着実に積み重ねていけば土台だってしっかりしますよね。
 
鎌田:  そうなんです。ところがみなさん、それはなんとなくまどろっこしいというので、一気にやろうと思うでしょう。その一気にやったものは必ず一気に崩れるんですね。
 
草柳:  精進の反対は怠けるですね。
 
鎌田:  怠惰ということになりますが、しかし人間というのは、本来懈怠(けたい)なものですから、怠惰なもので、やっぱり易きについていくでしょう。その易きについていくのを克服する力は何かというと、やっぱり理想なり願いなりを強烈に持たなければダメですね。何にもなければもう本来怠けるようにできていますから。
 
草柳:  そうですね。
 
鎌田:  じゃ、三日も四日も一週間も会社を休んで寝ていると、これもまた案外楽でもないんですね。辛いんですね。案外それも辛い。人間やっぱり活動するようにできていますからね。じゃ、寝ていればいいんだというようにはそう簡単にいかない。だからやっぱり精進ということは大切だと思いますね。それじゃ、五つ目は、「禅定」ですね。これは坐禅による精神統一力でありますが、そう難しく考えなくても集中力です。精神を統一して、集中することが如何に大切かというんですね。そのためには坐禅をして、数息観(すうそくかん)をする。数を数える。そういうこともいいです。あるいは気功法をやることもいいですね。とにかく精神を集中する。あるいは精神を静めていく。気持というのは波立つでしょう。イライラ、それをずっと沈静化していくわけですね。それが禅定。これは坐禅堂だけでなくても普段でもその気持になれば椅子に坐ってもできますし、正座してもできますし、時々気持を落ち着かせる。あるいは気持を集中していく力を養うというんで、何をやるんでもやっぱり必要だと思いますね。最後にそれらを統合するんで、一番最後が「智慧」ですね。これはそういうことを全部行うことができる智慧なんですね。普通の知識とは違います。人生の智慧ですね。今まで五つあるようなことが、それを可能ならしめる頭の働きですね。そういう智慧が必要なわけでしょう。そういう智慧が働かないと、後の五つのことも働かないわけですね。それで仏教では単なる知識は、それは「分別」と言いまして、あんまり良い意味に使わないんですね。こっちとあっちと区別したり、そういうものを分別と言います。そうじゃなくて、もっと根本的な無常をみる、知る智慧であるとか、空を知る智慧であるとか、そういう根本的な智慧をいうわけですね。この六波羅蜜というものが、ここではそれこそが正法だ、と。
 
草柳:  その勝鬘夫人が、「摂受正法(しょうじゅしょうぼう)」とは、今おっしゃった六波羅蜜のことである、と。しかし今この内容を聞いておりますと、どれ一つとってもこれは大変なことだと。ましてやこの六つをきちんと実践する。まさに気の遠くなるような話でもありますね。
 
鎌田:  そうなんです。この六つの徳目を実際に行うには、根本的な一つの考え方がないといけませんね。基本的な一つの哲学が、そういう基本的な根本になる考え方、それを次に『勝鬘経』は述べていくわけですね。ちょっとそれを見てみましょう。
 
草柳:  世間(せけん)言説(ごんせつ)の故に死有(あ)り、生(しょう)(あ)り。死は諸根(しょこん)(え)するなり。生とは新(あらた)に諸根起るなり。如来蔵に生有り、死有るには非ず、如来蔵は有為(うい)の相を離る。如来蔵は常住不変なり。是の故に如来蔵は是れ依(え)たり、是れ持(じ)たり、是れ建立たり。
(「勝鬘経」)
 
こういうふうに「如来像」という言葉が出てくるんですね。
 
鎌田:  そうなんですね。一番最後に「是れ依たり、是れ持たり、是れ建立たり」、これ三つとも意味は同じで、「拠り所、基盤」という意味なんですね。だから「如来像が拠り所になりますよ」と。「如来像が根本ですよ」と。そういうことを言っているわけですね。じゃ、如来蔵とは何か、というのを、その前で説明しているわけですね。「如来蔵は有為(うい)の相を離る」と。この「有為(うい)」というのは形作られた世界、この現実の姿、と言ってもいいですね。この現実の世の中、作られたるもの、そういう姿を離れたものだ、と。そうすると、そういう形あるものを離れたから形がない、と。しかもそれは「常住不変だ」と、永遠な一つの不変な不生不滅な理法そのものだ、というふうに言っているんですね。それをよくわからせるために、前半の経文があるようですね。ですからちょっと見てみますと、人間、生とか死というのをいろいろ考えますね。どういうふうに考えているかというと、「死」というのは「諸根壊するなり」。この「諸根」というのは感覚器官ですね。眼とか鼻とか耳とか、そういうものがみな壊れてしまう。なくなってしまう。確かにそうですね。現在では火葬場で焼いてしまえばまったくなくなってしまう。「生とは何か」というと、新たに眼もあり、耳もあり、いろんな感覚器官が備わってくることなんだ、と。こういうふうに生と死を定義しているわけですね。死は何も無くなること。生というのはちゃんと身体があること。それが生なんだ、と。非常に『勝鬘経』で重要な教えは、一行目にあるんです。「世間(せけん)言説(ごんせつ)の故に死有(あ)り、生(しょう)有(あ)り」と。これなんですね。「言説」というのは、言葉、あるいはさっき申し上げた分別。世の中の常識、私たちの常識、私たちの言葉、あるいは分別、考え、そういうものの中に、死もあり、生もあるんだ、と。こういうことをいうんですね。ちょっと理解し難いので、ちょっと例を挙げますと、江戸時代に虚室生白(きょしつしょうはく)(江戸、宝暦の頃の医者で禅を学んだ人)というお医者さんがおりまして、そのお医者さんが『猿法語(さるほうご)』という本を書いているんです。私のいうのは人間以下だとか、あるいは腹の中では人間以上だと思って、わざわざ猿の教えというふうに書いているのかも知れません。本当の名前はわかりません。しかし虚室生白(きょしつしょうはく)という名前は、これは老子の言葉から取っているんで、そういう方でお医者さんです。その人が言うんですが、「人間には生と死というのは、言葉の世界、あるいは考え方の世界、創りあげたものだ、と。概念に過ぎない」と、まずいうんです。どうしてかというと、赤ちゃんがお母さんの中から生まれてくるでしょう。そうすると、その時はわからないわけですよね。生まれてきた。それが三歳か五歳ぐらいになって、「あんた、お母さんから生まれたお母さんの子どもだよ」と言われたら、「あ、自分はこのお母さんから生まれたんだ」というふうに思いますね。それから今度は、「死というものを考えても、人の死を見るでしょう。それから自分の死も未来に考えるでしょう。人の死を見ているものですから、おばあちゃんの死、両親の死、いろんな人の死を見るでしょう。そうすると、自分もいずれああなって死んでいくんだ、と思うんですね。ところが、この人お医者さんだからいうんですが、「ほんとに死んで、意識が混濁してくると、自分がこれから死んでいくんだというのもなくなるんではないか、と。だから死は死を知らないんじゃないか」と。死ぬ時は、意識がないでしょう。そうすると、死というものを考えることもできないんじゃないか。それから生まれた時には、自分が生まれました、というのはわからないわけですよね。死ぬ時もわからないわけですよね。そうなると、生とか死とかと言っているのは、これは教わって、あるいは未来を予見して、あるいは自分の頭の中で考えて、ただ過去はどうも生まれたらしい、と。未来は死んでいく。しかしそれはそういうふうに自分の分別で考えただけなんだ、と。そうすると、本当は生もなければ、死もないんだ、と。生というのはわからないんだ、と。死もわからないんだ、と。それを江戸時代のお医者さんですが、そういうんですが、そうすると『勝鬘経』では、これを「世間(せけん)言説(ごんせつ)の故に死有(あ)り、生(しょう)有(あ)り」と、一行目にポカンと出していますでしょう。世の中の言葉、あるいは考え方、頭の中で人間には死がありますよ、生がありますよ、と言っているんだ、と。そしてそうであるから、じゃ、本当のものは生死を離れたものですね。その本当のものは何かというと、「如来蔵に生有り、死有るには非ず」なんですね。如来蔵には、生死はない。そうすると「如来蔵というものは何か」というと、そんな「生とか死を離れた永遠のものだ」と。それが即ち「仏」と言ってもいいですね。私たちの煩悩の中にある本当の仏さま、だから如来を蔵しているものですね、私たちは。私たちの中には、煩悩の中には如来がいらっしゃる。仏さまがいらっしゃる。それを今の言葉で言えば、「永遠の生命」、あるいは「宇宙の生命」と考えてもいいですね。そうすると、「宇宙の生命」というものは、生もなければ、死もないですね。勿論消滅を繰り返していくんでしょうけれども、宇宙のエネルギーそのものは、地球がなくなろうと、地球が生まれてこようと、そんなこと関係ない。あらゆるいろんな星を生んだり、消したりしながら動いていくわけでしょう。動いているけれども、その宇宙の生命力というのは不滅なんですね。それは簡単に生じたり、滅したりするものではないですね。それを『勝鬘経』では「如来蔵」とこう読んでいるんですね。「仏」と呼んでかまわないです。
 
草柳:  如来蔵=仏性と、あるいは仏になる可能性をもっているというふうに考えてもいいわけですね。
 
鎌田:  はい。あるいはその根源。「是れ依(え)たり、是れ持(じ)たり」とあるでしょう。「拠り所」。そこからみんな生まれているんですね。我々も、人間も、物も、みんなそっから生まれてきているんだ、ということなんですね。だから如来蔵というものが根本だ、と。「発心」と言ってもいいですね。そういうものが根本で、それは目に見えませんよ。一つのエネルギーそのものですからね。目には見えないけれども、そういうものを土台として、我々が生かされているんだ。あるいは我々に生死があるんだ、と。だから死ぬ前、そして生まれる前、死んだ後、生まれる前、それはそこへ還っていくんだ、ということになりますね。
 
草柳:  この辺がポイントのようなところでしょうけれども、『勝鬘経』というのは、最初に説明があったように、かなり前のお経ですね、同じ大乗仏典といっても。で、日本では江戸時代の、もうそろそろ中期以降の辺りで、同じようなことを言っている方がおられるんですね。
 
鎌田:  今説かれた『勝鬘経』の教えと同じことを、慈雲尊者(じうんそんじゃ)(1718-1805)という方が説いていらっしゃるわけです。慈雲尊者というのは、『十善法語』とか『人となる道』とか、いろんな本を書かれたり、むしろ梵学を、サンスクリットの大家であって、本まで書いている方でありますが、ここでは慈雲尊者の短編集の中からいくつか挙げてみたいと思うんですね。
 
草柳:  十八世紀の方ですね。
 
鎌田:  そうですね。江戸の末期の方ですね。
 
草柳:  (も)し正法に遇(あえ)ば、この身心業(しんじんごう)の影なることをしる。知れば必ず執着をはなる。人我の想ながく絶して、法無我を得(え)、聖城を遠かるまじきなり。
(慈雲「人となる道」)
 
鎌田:  これは『人となる道』という本がありますが、『勝鬘経』でも、「正法、正法」と言っておりましたね、正しい教え。そういうものに遇えば、「この身心業(しんじんごう)の影なることをしる」というのは、これは「私たちの身心というものは業がつくり出したものだ」と、こういうことなんですね。業がつくりだしたもの。「業」というのは、善いことをしたり、悪いことをしたり、朝から晩までいろんなことをしていますね。そういう人間の行為、行動、そういうものがつくりだしたものなんだ、と。そして本当の永遠不滅なものじゃないんですね。業がつくりだしたもの。ところが私たちはそれが本当にあるものだと思うでしょう。実在していると思うでしょう、自分の身体考えて。そうすると、どうするかというと、「知れば必ず執着をはなる」そういうことがわかれば、執着を離れることができるんですが、その逆に、「人我の想ながく絶して」私たちは自分が可愛いとか、自分が永遠に存在すると思うでしょう。それが「人我の想」なんですね。私の身心というのはずっと存続していると思いますね、生きているうちは。そういうものを「絶して、法無我を得(え)」法というのは物です。一切の物は、「無我」というのは、実証がない。それ自体永続していくものがないんだ、ということがわかれば、それは「聖域」仏さまの領域に叶うんだ、ということなんですね。ですから私たちの身心―身体というものを、自己というものが永遠にあるんだと思っているうちはダメだ、と。そういうものは永遠にあるんじゃないんだ、と。仮の姿だ、と。仮に因縁によって出来上がっているんだ、ということがよくわかればいいと、こういうことをいうんですね。
 
草柳:  ただ言い方が『勝鬘経』の言い方とちょっと違いますね。
 
鎌田:  ええ。『勝鬘経』はいきなり「我々の拠り所は如来蔵だ」と、積極的にはっきりと、むしろ実体があるような表現ですが、それでいっているわけです。ところが、慈雲尊者は逆なんです。何にもない。自我もない。ものの本体もない。それを知ることだ、と。それから自我もない。ものの本体もない、ということは、これは虚空と同じ。宇宙の生命と同じ。これは発心と同じ。そういうふうに、否定的に捉えているわけですね。しかし言わんとしているのは同じことなんです。『勝鬘経』では、如来蔵は土台だ、と。それから慈雲尊者の方は、一切は何にもないんだ、と。何にもないことが発心なんですね。仏さまなんですね。それを否定的に捉えて、同じことを言っているんですね。むしろ禅僧がいうような表現ですけどね。
 
草柳:  じゃ、もう一つ慈雲尊者の言葉から、
 
眞正(しんしょう)に仏を礼(らい)するものは、仏の外に自心なく、自心の外に仏なく、仏すなはち自心なり。自心即仏なり。・・・此中、生(しょう)もなく滅もなく、本来成仏して更に別法なし。
(慈雲法語)
 
鎌田:  これも素晴らしい言葉なんですね。本当に「仏を礼する」礼拝するものは、「仏の外に自心なく」仏以外に自分の心というものはない。そして自分の心の外に仏はないということは、自分の心の本来の心、本当の心がそのまま仏なんだ、と。如来蔵というのも、自分の煩悩の中にある仏さまですね。それと同じことでありまして、その自分の本当の心が仏さまなんだ、と。だから「自心即仏なり」というようなことが言えるわけですね。そしてそうなると、もう生もなく、滅もなく、般若心経に「不生不滅」と書かれていますが、不生不滅で、それはもう仏さまのものなんだ、と。だから自分自身の本来の心が仏なんだ、と。こういうふうに言っているわけですね。自分自身の本来の心というのは、『勝鬘経』では「如来蔵」と言っているわけです。だから同じことをこうして慈雲尊者が言っているわけなんですね。慈雲大師の小さな法語でありますけれども、非常に明確ですね。むしろ禅の方がいうようなことを、この人は本来は真言律宗の方なんですけどね。そんなこと関係なく、本当のことを言っている。だから自分の心というのは、煩悩に満ちた自分の心でありますが、その拠り所・基盤は仏である、と。それを『勝鬘経』では、我々の拠り所・基盤、それは如来蔵である、と。みな同じ一つの思考のパターンなんですね。それを慈雲尊者の場合には、割に分かりよく、仏教の本来の考え方に則しながらやっているんで、だから『勝鬘経』の場合には、「如来蔵」という言葉を使いますので、違ったものかなと思いますが、言っていることは同じことなんですね。
 
草柳:  まあ確かにちょっと私どもには、「如来蔵」という言葉があまり身近なものとして感じ取りにくいというところは多少ありますけれども、しかしお話を伺っていれば同じことを言っているんだということがわかりますが、それにしても『勝鬘経』という教えの勝鬘夫人が、縷々こう述べてきていること、「摂受正法(しょうじゅしょうぼう)」身を賭して法を守らなければいけないというのはかなり激しいですね。
 
鎌田:  激しいですね。初めの三つの誓いにもありましたね。最後は正法を護持することなんですね。どんな世の中になっても、どんなに迫害を受けても、正しい教えを守っていく、という決意なんですね。ですから、これは凄い決意ですね。
 
草柳:  勿論歴史の中にもいろいろあったでしょうけれども、特に中国で激しい仏教の迫害があったようですね。
 
鎌田:  中国ではよく廃仏というのがよく行われまして、四回廃仏があって、その中の「北周の廃仏」があります。五七四年頃ですけどね。北周という国がありまして、その北周の武帝という王様が仏教を弾圧したわけです。仏教なんてムダ、お寺はムダ、みんな没収して貴族の邸宅にした方がいい。それからお寺の荘園もみんな要らない。全部取って、それは普通の農民に与えた方がいい。それから若い坊さんもムダ。それは徴兵して全部兵隊にしたらいい。凄いんですよ。それで三百万の坊さんを還俗させたんですね。還俗しない者は皆殺しです。だから衣を着ておれないんですね。そんなものですから、みなさん衣を脱いだり、それから逃げる。それで現在でも陝西省(せんせいしょう)の西安の南の終南山(しゅうなんざん)という山がありますけどね、そこの山にみんな逃げたんです。長安で弾圧食ったでしょう。行き場がない。長安に居たら殺されちゃう。みんな逃げた。それを守った人がいる。それが静藹(じょうあい)(534-578)という人ですけどね。この人は六世紀の方ですね。この方が身を賭して守ったんですね。あんまり素晴らしい人なもんですから武帝が静藹(じょうあい)を呼んで、「お前さん、坊さんやめてくれ。その代わり大臣として国政をやってくれ」と。全部断った。そして終南山の山の中に草庵を作ったりして、逃亡してくる坊さんを受け入れたわけです。ところがやっぱり捜索隊が入って捕まったりするんです。そうすると万事窮するわけですね。そして最後にお弟子さんも離れさして、そして山の中で自殺をされるんですね。その自殺の理由が三つ挙げてありますけれどもね。それは第一には、「自分はあまりに罪深い、と。過ちがあまり人生において多かった」。第二は、「仏法を護ることができなかった」。第三には、「速やかに仏の浄土に行きたい」という、この三つの願いを持ちまして、そして自分で自殺するわけなんですよ。その自害のやり方が凄いんですよ。自分でほんとにできるかどうかわかりませんが、皮をずっと剥いでいくわけ。足も、手も顔も全部、そして腸を抜き出して松の枝に掛けるわけですよ。そして最後に心臓を取って、心臓を白骨と化したような身体でグッと捧げ持って、そして死んでいくんですね。その激しさといい、年齢も四十五歳ですから、まだ盛りですよね。だから出来たんだろうと思いますが、自殺することに意味があるということではないんですが、とにかく護法ができない。正法護持ができない。そのために自分は自殺するんだ、という激しい仏法に殉じていったわけですね。『勝鬘経』にも、命を捨てて、財を捨てて、正法を護りなさい、と。護りましょう、と誓っているわけでしょう。それをそのままやったわけですね。そのままやって、そこにどういう意味があるのか。現在の我々だと、死んでは何もならない、というようにすぐ常識的に思うでしょう。しかしやっぱり仏法の大義に殉じた、と。護法をできなかったと。正法の護持ができなかったんで、自分はそれに殉ずる、というのが、一つの考え方なんですね。強烈な印象を当時も与えたわけです。
 
草柳:  確かに静藹(じょうあい)にしても非常に極端な例ではありますけれども、しかし仏法を護ると言いますか、自分がこれと思ったことに対して、如何にそれと向き合うかということの大切さということについては、勿論そこまで我々ができるかと言ったら、とてもとてもそんなことできませんけども、しかし心構えと言いますか、そのことの大切さというのは、やっぱり伝わってまいりますね。
 
鎌田:  そうですね。そしてそういうことができないけれども、日々の行いの中で、自分がじゃ正法を護持するというのはどういうことか、と。ちょっと道元禅師のお言葉をあげて、それで終わりに致しましょう。
 
草柳:  『修証義(しゅしょうぎ)』からですが、
 
(み)(すで)に私(わたし)に非ず。命は光陰に移されて暫(しばら)くも停(とど)め難し。紅顔いずくへか去りにし。・・・無常たちまち到るときは・・・唯(ただ)獨り黄泉(こうせん)に赴むくのみなり。
(「修證義」)
 
途中ちょっと略してありますが、
 
鎌田:  曹洞宗の『修証義』という経典の中からとってあるわけですが、自分の身も私のものではない、と。それで光陰は無常ですね、ですから若い時の顔もすぐさま年取ってしまうわけだ、と。そして無常がくれば、一人自分は黄泉の国へ逝くだけだ。これは読むだけで意味もよくわかりますが、もう一つお言葉を見て総括したいと思います。
 
草柳:  じゃ、続けてもう一つ読んでみます。
 
(いたず)らに百歳生(い)けらんは、恨むべき日月(じつげつ)なり、悲しむべき形骸(けいがい)なり。・・・此一日の身命(しんめい)は尊ぶべき身命なり。尊ぶべき形骸なり。・・・我等が行持(ぎょうじ)に依りて諸仏の行持見成(けんじょう)し諸仏の大道通達するなり。
(「修證義」)
 
鎌田:  読むと大体わかりますけども、ただ徒に長生きするだけでいいというんじゃないんだ、と。一番大事なことは、この一日の身命を尊ぶんだ、と。その身命―身体についていう方というのは、あんまりいらっしゃらないですね。身体が大切ですよ、と。その自分の今日生かされている身体を粗末にしちゃいけませんよ、と。これは仏さまから与えられた身体でありますから、それはしっかり保っていかなくちゃいけない。ただ、それを形骸(けいがい)としているんじゃなくて、毎日毎日自分も修行して、仏さまの行事を頂いて、そして仏さまの教えに「通達」わかっていくようにすべきだ。ということは要するに、無常であるから、この一日の生かされていることは大切だ、と。だから生かされている今日の命を一生懸命に仏道修行というと大袈裟になりますが、お仕事でいいんですね、それぞれみなさん方のお仕事をしっかりとやっていくことが大切じゃないか。だから『勝鬘経』では、「正法護持」といっていますね。それをもう少し我々の生活に当て嵌めて考えれば、日々の生き方を如何に充実されるか。だから静藹(じょうあい)のようなことはできませんけれども、私たちは正しい教えを護っていく。正しい教えを護っていくというのは、どういうことかというと、毎日毎日の生き方をきちんとしていくんだ、ということになりますね。そうしますと、今日やっている自分の行いというものも、その仏さまの行いと通じ合うようにならないといけない。これなかなかできませんね。毎日毎日やっていることは、大体私たちは怠惰にできていますから碌なことしていないでしょう。しかし少しでも仏さまの道に叶うような生き方を、一日一回でも二回でもいいですから、するように心掛けていくことが大切だ、と。こういう考え方の根本には、無常観というのがありますね。やっぱり無常だから。「無常」というのは何かというと、「すべてのものは変化していく。すべてに移り変わっていく。常なるものは何もない」ということですね。すべては変化していくわけでしょう。そういう中で常なものはない。それを先ず見極めることですね。もう少し言えば、死というと遠くまだまだと思ってね、こうみなさん考えていますが、もう七十越えていけば、いつ倒れるかわからないわけでしょう。ですから死を見つめて生きることも必要なんですね。死をはっきりと嫌うんじゃなくて、はっきりと見つめて、その中で自分は何ができるか、ということを、じゃ、その定年後の人生をボランティアやるのもいいし、自分の思惟を深めていうのもいいし、いろんな生き方がありますね。しかし死を見つめるということによって、毎日の生き方が変わってくるんじゃないでしょうか。あんまり怠惰に、ぐうたらに送れないな、という気持になりますよね。ですから今日拝読した『勝鬘経』なんかの教えも、難しい言葉で書いていますけどね、しかし帰するところは、六波羅蜜を行っていくということは、正しい教えに叶うことを行っていく、ということですね。しかもそれをただ行っているんじゃなくて、その根本には、永遠の真理、永遠の理想、永遠のいのち、というのがあるんだ、と。その永遠のいのちを少しでも求めるというか、あるいは永遠のいのちに生かされていることを自覚していく、生きる。それが大切だ、と。そうすると宗教生活に入れるわけですね。
 
草柳:  さっき出ましたように、分別があるから生もあり、死もある、と。本来如来蔵という考え方に立てば、それは仮のものである、と。
 
鎌田:  そうです。ないものじゃないんです。ちゃんと仮のもの、本当のものはこっちだ、と。それを学ぶのが、仏教を学ぶということになるわけですね。仏教を知らないと、仮のものが本当だと思っちゃう。本当の世界は知らないわけですね。それではやっぱり拙いということになるんですね。ですから『勝鬘経』の教えなり、道元禅師の教えなりを、私たち受け止めて、毎日の生活を一つ充実させる必要があるんではないかなと思うんですね。
 
草柳:  そうですね。毎日の生活、毎日の実践の中に生かしていかなければ意味のないことでしょうからね。
 
鎌田:  意味がないわけですからね。ただこういう教えがあるのか、というだけではダメで、それをじゃ毎日どうやって生かしていくか、というのがそれぞれの方の一つの考え方によりますが、実践になってくるんだろう、と思いますね。
 
草柳:  そうやって強く生きたいですね。
 
鎌田:  そうですね。
 
草柳:  今日はどうも有り難うございました。
 
     これは、平成十一年十月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである