いのちの探求 大乗仏典に学ぶG沈黙の真理
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」今回は八回目になりますが、今日は『維摩経』(ゆいまきょう)(一般に用いられるのは鳩摩羅什訳『維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)』である)を中心にお話を進めていくことに致します。この『維摩経』というのは、大乗仏典の中でもとてもよく知られた経典で、前回この時間で、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』を取り上げてお話を致しましたけれども、その『勝鬘経』、あるいは『法華経』と並んで聖徳太子が注釈を加えた三経義疏(さんぎょうぎしょ)の一つとしてもよく知られているお経で、大乗仏典の精神をとてもよく伝えているということで、後に世に広く影響を与えたお経でもある。そのお経を取り上げるんですが、お話はいつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんです。今回もよろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  『維摩経』は、大乗仏典の中でも前回取り上げた『勝鬘経』と並んで、かなりたくさんある大乗仏典の中ではちょっとユニークなんだそうですね。
 
鎌田:  そうですね。『勝鬘経』は、勝鬘夫人という在家のご夫人がお説きになっていますね。それと同じで『維摩経』というのは、維摩詰(ゆいまきつ)―維摩居士(ゆいまこじ)と普通呼びますけど、維摩という人が説いたお経なんですね。この人も「居士(こじ)」と言われるのは、在家の信者なんですね。だから在家の方なんですね。在家の方で長者さんであられたんですが、仏教を信仰しまして、そして仏教の教えを広めた方でありますけれども、どこまでも在家の方というのが『維摩経』の特徴ですね。ですから在家の方が主人公になっている。普通は仏さまとか、菩薩さまとか、あるいは仏弟子とか、そういう方がお説きになるのが多いんですが、在家の方が説いていると。敦煌(とんこう)にも維摩居士の壁画がいくつかありますし、中国人は「竹林の七賢(しちけん)」という隠者ですか、文学や何かを楽しんで隠棲して、そういうような人のイメージと、維摩居士のイメージをダブらせているんですね。だから中国でも『維摩経』というのは随分読まれたんじゃないでしょうか。
 
草柳:  比較的親しみをもって迎えられたお経だったわけですね。
 
鎌田:  そうですね。だからいろんなところに『維摩経』が影響しているんだ、といんで、そういう意味でユニークだと言っていいと思うんですね。
 
草柳:  今日はそれをいろいろと解き明かして分かり易くお話して頂くわけなんですが、端的にまず最初に一言、何を目指したお経なんですか。
 
鎌田:  人間が悩める人たちを救うというのは、どういうことなのか、ということです。だから人間が生きるために必要なお経だ、と考えたらいいんじゃないかと思いますね。人生いろんな悩みをもって生きていますね。そういうことに対して、何か救いはないか、と。あるいは何か心の糧になるものはないか、という心の糧を与えてくれるお経だと、そう理解したらいいかと思いますね。
 
草柳:  お膳立てと言いますか、舞台装置はどうなっているんですか。
 
鎌田:  舞台装置は、維摩居士という人が主役でありますが、その維摩居士に対して、お釈迦様のお弟子たち―文殊菩薩とか、いろんな菩薩さんたちが問答する。あるいは維摩居士がその病気になったという舞台装置が一番目にあるものですから、今度はいろんな人が維摩居士をお見舞いに行くわけですね。そういうようなお膳立てで、だから主役は維摩居士ですが、質問者は仏さまのお弟子である舎利弗(しゃりほつ)であるとか、それから文殊菩薩を初めとするいろんな菩薩さま方である、と。そういう人が維摩居士にいろいろ質問し、問答し、そして維摩居士が答えている中で、だんだんと大乗仏教の真実とは何か、ということを解き明かそうと、こういうことなんですね。
 
草柳:  普通は専門家に、在家の者が質問するという形が多いようですけれども、これは逆に在家が主人公で、専門家が在家に問答を挑むという形なんですか。
 
鎌田:  そうなんですね。しかも専門家も立派に悟りを開かれた仏さまのお弟子であるとか、菩薩さんの中でも非常に智慧が勝れている文殊菩薩であるとか、そういう専門家が質問していくわけですからね、答える維摩の方も大変だと思いますね。
 
草柳:  でも面白い舞台装置ですね。
 
鎌田:  そういう設定で、特別なお経だ、というのを、みなさんに知らしめているわけですね。
 
草柳:  じゃ、順を追って少しいきたいと思いますが、最初はこれは「舎利弗さんよ」という呼び掛けですから、今おっしゃった十大弟子の一人の舎利弗に向かって言っている言葉ですね。
 
「舎利弗さんよ、そのように坐禅しているばかりが安坐(あんざ)なのではない。そもそも安坐なるものは、もろもろの心のはたらきを滅した定(じょう)のままで、すぐれた立ち振舞いを行うのが安坐である。つまり、深い禅定の境地にありながら、普通の日常生活を行うのが安坐である」
(弟子品第三)
 
鎌田:  「舎利弗」というと、お弟子さんで「智慧第一」と言われているわけです。その人が静かな場所で坐禅を組んでいたんですね。そうしたら維摩居士が通りすがりまして、それで舎利弗に言ったわけです。言った文句がこれなんですね。「舎利弗さん、あんた何をやっているんですか。そういう静かなところで坐禅ばかりしているのが、本当の坐禅でないんですよ、と。そして本当の坐禅というものは、「心の働きを滅した定のままで」心の働きを滅した定のまま、ということは、雑念がなくなって、心が統一されて、そしてしかも勝れた立ち振る舞いを行うのが本当の坐禅だ、と。普通の日常行動をそんままやれるのが本当の坐禅だ、と。一言で言えば、禅定の境地にありながら、普段の日常生活をする。それが本当の坐禅だ。ところが舎利弗さんの方は、そう考えませんでしょう。こう静かな林の中で瞑想していれば、これ一番いいことでしょう。だからそれが本当に仏の道に叶う、悟りを開く一番いい方法だ、と思っていたわけです。そうしたら側に来てね、「あなた、それが本当の坐禅だと思ったら間違いですよ、と。本当の坐禅というのは、坐って瞑想しているだけじゃないんだ、と。その精神の統一力を日常生活に生かしていかなければいけない」と、こういうことをいうんですね。ですからただ瞑想しているのがいんじゃない、と。普通の生活そのものの中に、その瞑想の力、あるいは統一の力、それが生きていないといけないんだ、と、こういうことをいうんですね。まあ禅の言葉でも、「日々是好日」とか、毎日毎日が生きていないといかん。ということは、今日も充実していきます、と。明日も充実していきます、と。そういう生活を毎日しているのが、それがそのまま坐禅でないといけないんだ、と。だから特別なところで坐るのが坐禅じゃなくて、日常の生活に生きていないといけない、と、こういうことを維摩は言うわけですね。それは動く禅でもありますし、実際いろんな日常生活をしているわけでしょう。それをしながらも心の統一力は、そのまま保っている、と。もっと言えば、いろんな日常の生活というのは、いろんなことがありますでしょう。現在の世の中だと、ファックスやいろんな情報が次々入る。そのために「こうしよう、ああしよう」といつも揺れ動いているわけでしょう。それは当然なんです。揺れ動いていてもいいから、その中へ確固とした不動の精神がないといけない、と。もっと簡単に言えば、落ち着いた気持ちがないといけない。いろんなものに振り回されて、パァッと浮ついていると、それはダメだ、と。やっぱりしっかりした統一の心をもっていないといけない、と。それが出来れば動く禅になるわけですよね。だから静かな禅もあります。それから動く禅もあります。それが一つになっていないといけない。片っ方だけをとってはいけない、と、こういうことになると思うんですね。それで舎利弗が坐禅をしているところへ行って、「あなた、それが本当の禅だと思ったら間違いですよ、と。普段の生活の中にそれがいかされていないとダメですよ」と、こういうふうに言ったわけですね。
 
草柳:  動と静の両極ですね。
 
鎌田:  そうです。両極を含んでいないといけない。それが一つでないといけない。ところが、我々は、「動と静」というと、「静―定(じょう)」そっちばっかりにいいと思うでしょう。あるいは「動がいい」となると、動だけがいいと思うでしょう。そうでなくて、「動静不二」と、昔から言うんですね。なかなかできないことです、これは。日常の中にそれを活かしていくということは至難なんですね。それを維摩居士が、「そうしなければいけませんよ」と、舎利弗に言うわけです。舎利弗は、「いやぁ、これは維摩にやられたな」と。
 
草柳:  智慧第一の舎利弗をぎゃふんと。
 
鎌田:  そうなんです。これは参ったと思ったんでしょうね。
 
草柳:  じゃ、次を見てみましょう。
これは迦栴廷(かせんねん)という人が、今度は次に維摩から諭されたというところなんですが、
 
「迦栴廷(かせんねん)さんよ。生滅の心行(しんぎょう)をもって実相の法を説いてはならない。あらゆる現象は根本に於て不生不滅である。これが無常ということの本義である」
(弟子品第三)
 
鎌田:  そうですね。迦栴廷(かせんねん)さんというのも、これもやっぱり仏さまのお弟子で、これは「論議第一」と言われる智慧のある方なんですね。その方に言ったわけですね。迦栴廷(かせんねん)さんというのは、どういう主張をしているか、というと、「生滅の心行」心行というのは、心の働きですね。生じたり滅したりしている心の働き。それで本当の姿を説いてはいけない、と。生滅するというのは、煩悩みたいなものですよね。絶えず心が揺れ動いている。それだけを捉えて言ってはいけない、と。じゃ、本当は何かというと、現象の根本には、不生不滅がある、と。般若心経を読みますと、「不生不滅」と言いますでしょう。それが真理だ、と。だから不生不滅ということが無常なんだ、と。ですから不生不滅ということがわからないと、無常ということはわからないですよ、と、そういう主張していたんですね。それであらゆる現象というものは、根本において不生不滅である。これが無常ということの本義である、と。迦栴廷(かせんねん)さんの方は、生滅の心行だけで移り変わることを言っていたわけですね。それに対して維摩居士は、不生不滅ということと、生滅ということと、二つを両方捉えていかないといけないんですよ、と、こういったわけですね。結局一番いい例は、水と波です。こう波が立っていますね、これが生滅です。それから波が立っていなくて、静かに水がこう停滞していますね、これが不生不滅です。本当の水の姿というものは、波立つ面と、それからジッとしている面と、両方がないといけませんね。それを迦栴廷(かせんねん)は、この動いている面、波の立っている面だけを捉えて無常と考えたわけですね。それを維摩居士は、そうじゃない、と。波立つ面と、それから中の面と、その両方全部捉えて初めてわかるんだ、と。だから水の姿というのは、波立つのも水でしょう。ジッとしているのも水でしょう。波が収まって、それで水なんですね。だからそういうふうに考えないといけません、と。
 
草柳:  そうすると、今の維摩居士の答えの中で、無常というのは、維摩居士の捉える無常というのは、つまり両方引っくるめたものを言っている、と。
 
鎌田:  そうなんです。「生滅」と「不生滅」と、片っ方だけで捉えちゃいけない、と。両方引っくるめて考えないと、本当の無常ということはわからないんですよ、と。そうすると、やっぱり迦栴廷(かせんねん)さんは、ビックリしちゃうわけですよ。「移り変わる」というんですから、生滅だけでいいでしょう。だけど不生滅と生滅と、両方を捉えていく。一緒に考えていく。そうしないと、本当の無常はわかりませんよ、と。これはやっぱりがっくりするわけですね、言われた方は。そういうものかなぁ、と思ったわけです。
 
草柳:  初めの例も、今の例も、維摩居士としては同じことを言っている?
 
鎌田:  同じことを言っているんですね。そして舎利弗さんにしろ、迦栴廷(かせんねん)にしろ、小乗の仏教徒ですから、片っ方でそれでもいいと。片っ方に真理がある、と。ところが維摩居士は、片面だけではいけないんだ。それと相反する面ですね。その両面を捉えていかないといけないですよ、と、こう言いたいんでしょうね。
 
草柳:  十大弟子の二人まで批判されてしまったわけですね。
 
鎌田:  そうすると、仏弟子たちが、維摩居士から見ると、まだまだ、とこういうことなんです。だからお経がそういうふうに設定して、そう創っているんですが、本当とは別でしょうけどね。お経はそういう設定で、仏さまのお弟子たちが維摩居士にやり込められている、ということなんですね。
 
草柳:  仏典、経典というのは、本当は分かり易くなければ多分きっといけないことなんでしょうから、できるだけ分かり易く説こうとして、いろんな装置を、仕組みを創りながら書かれているわけでしょうけども。
 
鎌田:  むしろ舞台装置をそういうふうにしているわけです。
 
草柳:  ストーリーの展開としては、二人はそれで批判されてしまった。
 
鎌田:  いよいよこれはダメだ、と。敵わない、と。太刀打ちできない、と。そういうふうに二人は思ったわけですね。そして誰か、「維摩居士が病気だ」ということを噂で聞いたわけでしょう。お見舞いに「お前行って来い」というと、「いや、過去にこういうふうにやり込められたことがある、と。こういうふうに維摩居士に言われている。だからどうも私たちは行くのは遠慮したい」と。「お見舞いに行くのは遠慮したい。他の人に行かしてください」と、仏さまにいうわけですよね。
 
草柳:  この維摩居士が、この話の展開の中で、自らを病気というふうに設定をしていることは、どういうことですか。
 
鎌田:  これはやっぱり私たちみんなが心を病んでいるわけでしょう。維摩居士も私たちと同じように病んでいないといけないんですね。それから人生考えると、病―病気ということは、誰でもが経験することですが、それによっていろんなことを考えますよね。今まで思い付かなかった健康な時とは、全然考えなかったことがわかってくることがあるんですね。それで私たちは心の病をもっている。じゃ、それを救う維摩居士も、心の病がないといけない。あるいは病気でないといけない。それでまあ『維摩経』の作者は、維摩居士が病気ですよ、ということを設定したんですね。そうすると、病気ならば、と聞いたから、みんなお見舞いに行かなくちゃいけない、と。じゃ、お見舞いに行くのは、誰が行ったらいいか、と言って、「舎利弗、あんた行っていらっしゃい」とか、「迦栴廷(かせんねん)、あんた行っていらっしゃい」と言ったら、二人は、「実は過去にこういうことがあった、と。やり込められたことがある、と。どうも行きたくないんだ」ということなんですね。それじゃ、もっと立派な維摩居士に太刀打ちできる人をお見舞いに行かしたらどうだろう、ということに、舞台が設定が変わっていくわけですね。
 
草柳:  そして最初にお話のあったいよいよ文殊菩薩が、ということになるんですね。
 
鎌田:  そうですね。
 
草柳:  これは周りの人たちからして見れば、大変な見物(みもの)になるだろう、というふうに。
 
鎌田:  そして、「文殊の智慧」というでしょう。だから智慧の勝れた文殊菩薩が行けば、そうすると維摩居士となんか問答が起こっても、それは維摩居士に負けない、と。文殊菩薩のことだから、維摩居士をやり込めてしまうんじゃないか、と、こういうふうにみなさん期待したんです。ですから文殊と維摩の対面ということは、これは凄い場面だ、と。敦煌(とんこう)で絵に描かれているのも、それです。維摩居士と文殊が対決している絵なんですね。だからみなさん、これは見物だ、と思ったんじゃないですか。その対面というか、論争を是非とも見なければいけない、と、こう考えたんだと思いますね。
 
草柳:  それで最初に文殊菩薩が、維摩居士のところに見舞いに行って、先ず最初に何を訊いたんですか。
 
鎌田:  それは次に経文を見ながら進めていったらと思います。
 
草柳:  「痴(ち)と有愛(うあい)より、即ち我が病(やまい)生ず」つまり維摩居士は病気という設定になっているわけですから、「あなた、なぜ病気なんですか?」ということに対する答えなんでしょうね。
 
(ち)と有愛(うあい)より、即ち我が病(やまい)生ず。一切衆生の病むを以って、是(こ)の故に我れ病む。若し一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅せん。所以(ゆえ)は何(いか)ん、菩薩は衆生の為めの故に生死(しょうじ)に入る。生死有らば則ち病あり。若し衆生にして病を離るるを得ば、則ち菩薩も復(ま)た病無けん。
(たと)えば長者に唯(た)だ一子(いっし)有り。其(そ)の子、病を得て父母(ぶも)(ま)た病む。若し子の病癒えなば父母も亦た癒えるが如し。菩薩も是(かく)の如し。・・・又た是の病、何の所因より起こるやと言わば、菩薩の病は大悲を以て起こるなり。
(文殊師利問疾品第五)
 
鎌田:  最初に「文殊」の意味をちょっと申し上げて、それから総括してみましょう。「どうして病気で休んでいるんでしょうか?」と、文殊菩薩が訊いたわけですね。そうしましたら、維摩居士が、「痴(ち)と有愛(うあい)より、即ち我が病(やまい)生ず」痴と有愛というのは、一言でいうと、愛着、執着ですね。とらわれ。とらわれによって自分の病が生じたんだ、と。そしてどうしてか、というと、一切の衆生が病むから自分も病むんだ、と。もし一切の衆生のみなさん方の病がなくなれば、自分の病もなくなるんだ、と。それはどういうわけか、ということを、次に説明して、「菩薩は衆生の為めの故に生死(しょうじ)に入る」菩薩というものは、衆生のために生死の苦しみ―生死というのは、生老病死の苦しみのことですね―生老病死の苦しみに入るんだ、と。で、生老病死の苦しみがあるから、そこに病も起こるんだ、と。もし衆生が病を離れることができれば、そうすれば菩薩も病はなくなる、と。衆生に病がなくなれば、自分も病がなくなるんだ、と。それはちょうど長者に一人のお子さんがいたと。そのお子さんが病に罹ると、それはご両親も病んでしまうんですね。お子さんが病気だと心配します。ですからご両親も病んでしまう、と。もしお子さんの病が治れば、ご両親の病も治ってしまうようなもんだ、と。ですから親と子と同じようなことが、菩薩と衆生の関係でもあるし、維摩居士と衆生との関係でもあるわけですね。そして「又た是の病、何の所因より起こるやと言わば」どうして自分の病は、どういうわけで起こったのかというと、この菩薩の病は、大悲があるから起こるんだ、と。大悲というのは、偉大な慈悲ですね。憐れみの気持ですね。それがあるから起こるんだ、と。衆生を愛するという強烈な慈悲の気持、慈しみの気持、それがあるからこそ病が起こってくるんだ、と、こういうことですね。
 
草柳:  最後の菩薩の病は、大悲をもって起こる、ということが、ここではとっても大切なことなんですね。
 
鎌田:  そうなんですね。大悲というのは、衆生を憐れむ気持ですね。衆生は、どうして憐れむのかと申しますと、それは生老病死―生死と言ってもいいですが―それに苦しむわけです、私たちは。そういうものを何とかして治してあげよう。何とかして救ってあげよう。これが菩薩なんですね。あるいは維摩居士自身もそうなんですね。ですから衆生にそういう苦しみがある限り、自分の病というものは治らないんだ、と。ですから、それは一言で言えば、衆生愛、人間愛。人間愛と言いますか、みんなを救ってあげようという慈悲心。それがあるから自分も病が起こるんだ、と、こういうことなんですね。だから悩んでいる人たちの気持ちを救ってあげようという、そういう慈悲心がなければ、病に罹る筈がないですね。衆生がみんな悩んでいますね。勝手に悩めばいいや、とこう思うんですが、そうじゃない。その心の苦しみ、それを何とか治してあげよう、という気持が大悲なんですね。そうすると、自分もまた病んでくるわけです。それはちょうど親子の関係と同じですね。あるいは経文では、お父さまが出ていましたが、これは母親と子どものことを考えますと、子どもが病気になれば、母親もそれで悩みますね。それと同じように、衆生が病気になれば、菩薩も悩むんだ、という大乗仏教の典型的な考え方を、ここで出そう、と、こういうことなんですね。
 
草柳:  悩みがなければ、相手の悩みもわかりませんよね。
 
鎌田:  そうなんですね。共感ができませんでしょう。だから衆生の苦しみを共感できるためには、自分も苦しまなければいけない、と、そういうことになるんですね。ですから大乗仏教の理念を見事に出しているんですね。そんな悩む人がいくらいてもいいじゃないか、と。自分は自分で瞑想して、悟りを開けばそれでいいんだというんじゃないんですね。みんなが苦しんでいる。自分もまたその苦しみを分かたなければいけない。だから自分も病に罹るわけですね。病というと、具体的ですから、よくわかるわけです。心の病もあるし、身体の病もあるし、病というのは、心と身体の病ですが、それについてまた経文が展開していくと思うんですね。
 
草柳:  文殊「居士の病気はどういう相(すがた)≠しているのですか」
維摩「わたしの病気には形がない。見ることもできないのです」
文殊「あなたの病気は身体と一つになっているのですか、それとも心と一つになっているのですか」
維摩「身体と一つになっているわけではありません。身体とはなれているから。しかし、こころと一つになっているわけでもありません。こころは幻のようなものだからです」
(文殊師利問疾品第五)
 
鎌田:  これはやはり文殊菩薩との問答なんですね。文殊菩薩の方では、まず、「あなたさまの病気はどういう病気でしょうか?」と、こう訊いたわけですね。そうしたら維摩居士は、「私の病気には形がないんだ、と。だから見ることもできないんだ」と。そうしたら文殊菩薩が、「あなたの病気は、身体と一つになっているのか? 心と一つになっているのか?」と言ったら、「別に身体と一つになっているわけでもないし、心と一つになっているわけでもない」。これもまた重要なことを言っているんですね。それは東洋では、「身心不二(しんじんふに)」とこういうんですね。身体と心というのは、二つに分けられない。あるいは「身心一如(しんじんいちにょ)」という言葉もありますが、身体を取り出す、あるいは心だけを取り出すと、抽象的なものになってしまって、生きた本当の人間というのは、いつも身体と心と一つですね。気持が滅入ってくると、身体も調子が悪くなりますしね。また身体が調子が悪くなれば、気持も滅入ってきますでしょう。鬱(うつ)になってまいりますね。これは私たち普段経験することなんです。ですから身心一如の立場というのは非常に重要なわけですね。東洋医学では、身心不二ということを原則として治療するわけですね。
 
草柳:  境界がない。わからない。
 
鎌田:  一つという。例えば東洋医学では、森全体を見て―人間の身体を森に喩えて―森全体を見るわけです。西洋医学は、森を構成する一本一本の木を見て、この木は大丈夫か、この木は病気か、と。ところが、東洋医学は循環を重んずるので、心と体を一つに見て考えますね。ですからこの『維摩経』のこの答えも、身心不二という東洋の伝統的な考え方を踏まえているわけですね。「あなたさま、なんで病気なんですか?」と。「身体が悪いんですか? 心が悪いんですか?」というと、維摩居士は、「そうじゃないんだ、と。両方一つなんだ、と。そして病気になっているんだ」ということなんですね。これは東洋医学的に考えれば、身体と心は一つで、そこから病気が起こっているというのは、正しいことだと思います。分離してはいけないんですね。それを質問する方は、つい分離して、「お身体が悪いんですか? あるいは心が具合悪いんですか?」というと、維摩居士は、「そうじゃないんだ、と。これは一つであって、病気になっているんだ」と、こう答えたわけですね。
 
草柳:  じゃ、どうすれば、その病を、生死を和らげることができるか。その苦しみを和らげることができるのか。癒すことができるのか。その辺の問答はどうなんですか?
 
鎌田:  それはまた経文を辿りながら見てみましょう。
 
草柳:  これは最後のところに「至道無難(しどうぶなん)」とありますが、至道無難という人は?
 
鎌田:  江戸時代の臨済宗のお坊さんですね。
 
草柳:  その至道無難が言っている言葉で、
 
物にじゅくする時あるべし。・・・慈悲も同じ事なり。じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひをしらず、じひしてじひしらぬとき、佛といふなり。
(至道無難「即心記」)
 
鎌田:  これは至道無難という方は、正受老人(しょうじゅろうじん)という偉い長野県のお坊さんですが、その方のお師匠さんですけどね。これは先ほど、経文に出てきた「大悲」をもう少し説明しているんですね。「衆生が病む。それを救うのは自分に大悲があるからだ」というのがありましたね。大悲の気持が衆生を救おうという気持なんだ、と。じゃ、本当の大悲というのは何か、というと、ただ憐れみの気持をもてばいい。あるいは愛情をもってその人を救えばいい、というだけじゃないんですね。非常に難しい。その難しさを、ここで書いているわけです。「物にじゅくする時あるべし」じゅくするというのは、円熟の熟です。慈悲も同じだ、と。「慈悲するうちは、慈悲に心あり」と。自分は、その人を愛していますよ、という時には、それはまだダメなんですね。そういう気持でやっているのはいけない。本当に慈悲の気持が円熟してくると、あるいは慈悲の気持になり切ってくると、自分で慈悲をしている。この人は愛している。愛情からこうしているということもないんだ、と。それを最後に「慈悲して慈悲知らぬ時、仏というなり」ちょうどお母さまが、無条件でお子様を愛していますね。そういうのはまさに慈悲して慈悲を知らない、と。別にこの子をなんとかしたいと思ってやるわけじゃありませんしね。そして赤ちゃん育てる時、見ていますと、赤ちゃんにお粥をこう食べて貰いたいと思うと、母親もア〜ンと口を開けるでしょう。赤ちゃんのア〜ンと開けますね。あるいは赤ちゃんが口を開ければ、お母さまもア〜ンと開けますね。こういうのが一つになっている。別に可愛がっているとか、慈悲しているとか、愛情があるとか、いうんじゃないんですね。これは変な譬えでありますけれども。
 
草柳:  でもわかります。例えば子どもがほんとに大熱出してウンウン苦しんでいる時には、母親も無条件にその子どもに代わってあげたいと思う。そこにはほんとに何の打算も、なんのとらわれもなく、多分やっていることだと思います。
 
鎌田:  それとまったく同じ。そうすると、もうそれは慈悲とかなんかじゃないんですよ。それを「大悲」と呼ぶわけです。だから仏教でいう「大悲」というのは、無条件の愛情ですね。
 
草柳:  自分がいいことをしていると思ってしているうちは、それがまたとらわれているというんですね。
 
鎌田:  それはまだ愛情とか、慈悲とか、自分で善いことをしているというふうに、そこにとらわれている。そういうものは本当じゃない。だから維摩居士が、衆生の苦しみ、身心の病気に対して、自分も心を苦しめているというのは、今の無条件の慈悲なんですね。それを仏教では、大悲と呼ぶんですが、なかなかできないことですよね。でも先ほどお話申し上げた、お母さんと子どもの例を考えれば、何となくわかる気がするんですね。だから人間というのは、そういう尊いものをもっている。普段はものを忘れてしまって、自分の欲望とか、利益のためだけで動いていますが、人間にはそういう無条件の一つの愛のようなもの、慈悲のようなものがあるんですね。それを維摩居士がここで言っているわけなんですね。あるいは至道無難という方は、それを日本語で、「慈悲して慈悲を知らず」というのは、愛情を注いでも、自分が愛情を注いでいるということをまったく知らないでやっている、ということなんですね。
 
草柳:  だけど、そういうとらわれから、自分を解放することはできるのかどうか、ということが、
 
鎌田:  それは非常に難しいですが、こういう仏教の話を聞くと、あ、そういう人間には尊い気持もあるんだ、と。我々が普段心で考えていることとは、別の理想世界があるんだ、ということがよくわかりますね。そういうものを、あると知っている人と、そんなものは全然無視して生きているのではやっぱり違ってくるんですね。
 
草柳:  じゃ、維摩の、さらに次の教えに進んで見てみましょう。
 
舎利弗(しゃりほつ)、諸仏菩薩に解脱(げだつ)有り、不可思議と名(なづ)く。若(も)し菩薩是(こ)の解脱に住(じゅう)すれば、須弥(しゅみ)の高広(こうこう)を以(もっ)て芥子(けし)の中に内(い)るるに増減する所無し。
(不思議品第六)
 
これはどういう意味なんでしょうか。
 
鎌田:  これは『維摩経』の中の一つの有名な文言ですが、語句の意味を取りますと、「舎利弗よ」と、菩薩に不可思議解脱と名付ける本当の悟りがある、と。本当の悟り、それは不可思議、私のはからいを超えた、私たちの分別では理解ができない、私たちの常識では理解できない。そういう意味なんですね。もし菩薩が、この不思議解脱の中に入ることができれば、須弥(しゅみ)というのは須弥山、山の名前ですね。仏教でいうんですが、まあエベレストみたいな大きな山、日本で言えば富士山のような大きな山ですね。そういう大きな山を芥子粒の中に入れてみると、その芥子粒がそれによって増すわけでもない。じゃ、須弥山という高い山がそれによって減るわけでもない、というのが、この文字の上の意味ですね。ところがこの文字面をどんなに辿っても、内容はよく理解がつかないんですね。例えば須弥山を大宇宙に喩えてみますね。大宇宙の中には、たくさん星雲がありますね。銀河系もその一つですね。そのまた銀河系の中のほんの一つに、我々の太陽系がありますね。その中に地球がありますね。そうすると、大宇宙から見れば、地球なんていうのは芥子粒ですよね。その芥子粒の地球の中にも、海があり、山があり、人間もあり、さまざまなものがその中にいるわけですね。ですから芥子粒の中にもいろんなものがいるけども、狭い狭いという意識はないわけですね。なんとか地球という中で生きている、と。そして今度大宇宙を考えますと、大宇宙の生命力から地球も出てきたわけでしょう。だから芥子粒みたいな地球にも大宇宙の生命力が流れているわけですよね。時間的に言えば、これは大変な、何億光年という、それを経てこうしているわけでしょう。今度は地球の代わりに、人間の身体を考えてみましょう。そうすると、人間の身体もやっぱり地球から見れば芥子粒ですよね。その芥子粒である私たちの身体の中には、やっぱりたくさんの細胞から成り立っているわけでしょう、何億という。そういう細胞の一つひとつが生命力をもっているわけですね。だから我々の地球から見れば、芥子粒のような人間、その中にも大変なものが含まれているわけですね。そうすると、人間もまた地球を超えて大宇宙の生命力を頂いているわけですよね。進化の過程で、遺伝子はずっと継承しているわけですから、そう考えますと、私たちの芥子粒のような人体の中にも無限の宇宙が入っているんだ、とも言えるわけですよ。ですから無限の宇宙と私たちの小さな小さな人間の身体、これは通じ合っているわけですね。そう考えますと、私たちの常識では、物というのは、大きい物と小さい物があるように思うでしょう。ところが大きな大宇宙の生命力から見れば、物に大小なしですよね。地球は大きくて、人間は小さい。細胞は小さいというようなことは、それは頭で考えて、分別の世界で考えているだけなんですね。実際には大きい物も小さい物もみんな融通しているわけですね。通い合っているわけですね。そういうことを『維摩経』で説いているわけなんです。
 
草柳:  ただ一方で考えれば、そういうふうに我々には分別する力があるからこそ、文明や文化が栄えてこられたという側面もあるわけなんですけれども、でもその分別というのは、これはあくまで自分を中心というか、自分から対象を見た時に分別をするという働きがあるわけで、もっと広い、今先生がおっしゃるような大宇宙というところでみれば、それはもう大も小もないということになるわけですね。
 
鎌田:  そうなんですね。一言でいうと、物に大小なし。大小区別するのは、私たちの知性がするわけですよね。しかしそういうことも非常に大切ですよ。区別がなければ、もう認識もできませんし、いろいろ自然科学はそれによって発展してきているわけですから。しかしその分別の世界と、もう一つは無分別の世界、この無分別の世界を「仏の世界」と呼んでいるわけですね。あるいは「宇宙の生命力」と呼んでもいいと思うんです。そういうところへ立ってみれば、物には大きいとか小さいとかない、一つの生命力がそれを貫いている、と。大きいものも小さいものもみんなそれは互いに融通しているんだ、という、このまったく常識とは違う一つの世界観ですが、一つのものの考え方、それが『維摩経』で説いているわけですね。だから我々の常識からいうと、こんなことはあり得ないと思いますが、『維摩経』から言えば、そういう見方こそが真実なんだ、と。そういう見方こそがものの本当の姿を見ているんだ、ということにもなるんですね。私たちは、自分の立場から社会を見、世界をこう見て、あるいは他人を見たりしているでしょう。ところが仏教の立場というのは、宇宙から自分の見ていく、というふうに考えてもいいんですね。だから立場の逆転である、といってもいいんですね。発想の逆転である、と、『維摩経』はそう考えてもいいわけです。私たちは自分から対象的にものを見ていくでしょう。そうじゃなくて、全宇宙から自分の存在を見ていく。だから宇宙からものを見ていくという逆転の考え方、これが『維摩経』で説いているんだ、といったら、どうでしょうか。
 
草柳:  ということは、そのことが、つまりとらわれから解き放された世界というふうにみる、ということになるわけですね。
 
鎌田:  はい。こちら小さいものよりは大きいものがいいとか、短いものよりも長いものがいいとか、そういうので、私たちは生きていますけれども、そういうとらわれから離れて、大きな視野から見てみよう、と。次に菩薩たちが登場して、いろんな質問を維摩居士にしていきますので、それをちょっと見てみましょう。
 
草柳:  法自在菩薩「生滅は二つが対立することです。もともとは本来不生でありますから、滅することはありません。万物は不生であると確信すること、これが不二法門(ふにほうもん)に入ることです」
 
鎌田:  これは「不二法門」というのは、どういうことかというのを、まあ菩薩さんたちがそれぞれお答えをしているわけですね。維摩居士に対して、「不二」というのは、こういうことですよ、と。その先ず一つなんですね。そうすると、「本来不生不滅ということがわかれば不二法門に入れるんですよ」というふうに、この菩薩さんは答えたんですね。生滅と不生滅というのがあるんですが、不生不滅ということこそが、不二法門だ、と。そうするとちょっといいような答えでしょう。そうするとこっちを捨てて永遠の生命そのもの、それが本当だ、というふうに答えた。聞いていると、そうかな、と思いますよね。ところがそれはまだまだなんですね。不二ということは、それではまだダメで、そんな不二の考え方では、本当の大乗仏教の真実というものはわかっていない、と。じゃ、次の菩薩さんはなんと言ったか、ということですね。
 
草柳:  善意菩薩「生死と涅槃は対立しています。もし生死の本性を見れば、本来生死なく束縛するものもなく、解脱もなく生滅もありません。このように得心するならば、これが不二法門に入ることです」
 
鎌田:  この菩薩さんももう少し進歩していたんですね。生死というものの本性、本質、それを見なくちゃいけないんだ、と。そういう立場に立てば、本来生死というものはないんだ、と。束縛もないんだ、と。解脱もないんだ、と。生滅もないんだ、と。そういう本来的な立場、それこそが不二の法門だ、と。これもちょっといいようでしょう。生滅の世界を離れて、本来の永遠不滅な真理そのもの、そういうものこそが不二法門だ、と。これもまあそうかな、と、人は一遍そう思っちゃうんですね。ところがまだまだそこではいけないというので、次に文殊菩薩がいよいよ、他の菩薩じゃダメで、文殊菩薩のご登場を願って、本当の不二法門を説明して貰いましょう、ということなんですね。
 
草柳:  文殊菩薩「わたしの考えでは、すべての事柄(一切法)は言葉なく、示すことなく、識ることなく、もろもろの問答を離れております。これが不二法門に入ることです」
 
鎌田:  これがやはり文殊菩薩の答えというのは凄いですね。本当の真理というのは、無言だ、と。言葉で表現できない。示すことも、知ることもできない、と。一切の問答を離れたところに真理があります、と、こう言ったんですね。もうこれで決まったようなものですね。言葉では表現できないんですよ、と。本当の真理は、言葉を超えたところにある。言葉で表現できないところにある。ところが、この文殊菩薩もダメなんです、維摩から見ると。何故ダメかというと、「本当の真理は、無言無説ですよ」と言っているわけでしょう、喋っているわけでしょう。だから「無言無説ですよ」と言っているから、これは喋っているわけですよね。それはまだまだダメなんですね。じゃ、最高の、維摩居士の不二法門という大乗仏教の究極の教えは何か、というのが、最後に出てくるわけです。
 
草柳:  時に維摩詰は黙然として言無し。文殊師利、歎じて曰わく、「善きかな、善きかな。乃至(ないし)、文字、語言有ること無し。是れ真に不二の法門に入るなり」
(入不二法門品第九)
 
鎌田:  これで維摩居士の答えが出てきたわけですが、「維摩居士は黙然として言無し」一言も言わないんですね。これは昔から「維摩の一黙(いちもく)」と言いまして、大変有名な、『維摩経』の一つの有名な文言であるわけですが、黙っているわけですね。そうすると、文殊菩薩が黙って一言も言わない維摩の姿を見て、これだ、と。これは素晴らしい、と。これこそ「文字、語言有ること無し」まったく言葉を発しない維摩居士の姿を見て、これこそが不二の法門だ、と。そうすると究極の真理は、無言なんですね。黙然として、一言も言わない。これが維摩の答えだったわけですね。文殊菩薩は言ってしまったわけです。無言の説が一番真理ですよ、と。言葉で言えないということが真理ですよ、と言ってしまった。ダメなんですね、言ってしまったから。それに対して維摩居士は、一言も言わない。これが『維摩経』の決まりになるわけですね。やっぱり言葉というのは、表現されたものというのは、真実の一つなんですね。一部分なんですね。言葉で表現できたものは、それそのもの自体の本当のものではないんですね。そういうことを、『維摩経』は教えようとしているわけです。だから最後に維摩居士が、一言も言わない。じゃ、一言も言わないのがいいのかな、というと、そうでもないんです。黙っているのも、言うのも、両方超えた世界があるわけですね。それを不二というわけです。黙っていることだったら、これは誰でもできますよね。それから言うこともできますでしょう。言うことと、黙っていることを超えた世界が不二なんだ、と。これが仏の世界なんですね。先ほどから言っている無分別の世界なんですね。
 
草柳:  その無分別の不二の世界を知ることによって、悟ることによって、『維摩経』というのは、結局全体を通して、何を言おうとしているんですか。
 
鎌田:  そういう不二の世界、無分別の世界というものを、私たちはまずそこに足場を置いて、そしていろんなものを見ていく。そうしますと、先ず一番気が付くのは、衆生はみんな生老病死で苦しんでいるということがわかりますね。それに対して、菩薩さんや維摩居士は、この生老病死で苦しんでいる衆生の気持になって、自分もまたそれに苦しみ、そして共にそういう苦しみのない世界を目指しましょう、ということなんですね。ですから先ほどもあったように、衆生が病むから自分も病むんだ、と。そうすると、衆生が苦しんでいるから自分も苦しむ。そして衆生の苦しみを救えば、自分の苦しみもなくなる、と。そういう一つの悲願ですね。なかなか人間がそこまでいけませんけれども、そういう理想の一つの悲願、それが人間の世界では非常に大切だ、ということを、このお経は言っているわけですね。私たちにとっては、それは高い高い理想の世界ですね。なかなかできませんね。しかしそこに一歩でも近づくような悲願をもっていきましょう、と。そして共に生きていく。共に苦しみながら、共に生きていく世界を目指しましょう、というのが、『維摩経』の狙いであろう、とこう思いますね。
 
草柳:  煩悩、生老病死、そういうとらわれが完全に、そのとらわれから自分が解放されるということは、おそらくきっとなんだろうと思うんですね。でも『維摩経』が目指した理想の世界―先生おっちゃるその世界を目指して一歩でも近づこうというふうに努力をしていくということの中に、やっぱり生きる意味を見出していかないといけないのではないか、という。
 
鎌田:  『維摩経』は、我々がよりよく生きるための教えを説いた教典である、と、こういうふうに言っていいと思いますですね。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成十一年十一月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである