いのちの探求 大乗仏典に学ぶH夢幻の万象
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」の九回目になりました。今日は「夢幻(むげん)の万象(ばんしょう)」と題しまして、『金剛般若経』を取り上げることに致しました。略して『金剛経』というふうに呼ばれるこの経典なんですが、日本、中国、それから韓国、こういったところにとっても大きな影響を及ぼした仏典としても有名なお経なんですが、じゃ、その要点は一体どういうところにあるのか。いつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんに、その辺のところをいろいろとお伺いしてまいります。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願いします。
 
草柳:  『金剛経』というのは、それほど分厚い経典ではないそうですけれども、このくらいたくさんの人によって、たくさん注釈書が生まれたお経も、大乗仏典の中ではとても珍しいんだそうですね。
 
鎌田:  そうですね。『法華経』とか、『阿弥陀経』なんかに比べると、一般の方はあまりよく名前を知らないと思いますけど、中国なんかだとたくさんの人がこのお経に注釈を書いているんですね。それで韓国は『金剛経』を大事にしましてね、なんか大きなお寺でやる儀式があるでしょう。『金剛経』を書いた紙を、一種の呪いのようにして、それでみんなに配りましてね。で、やっぱり韓国は圧倒的に『金剛経』が多いんです。日本では『法華経』でしょう。日本の仏教というと、何と言っても『法華経』が一番盛んです。韓国では『金剛経』が。別に『金剛経』による金剛宗というような宗派は別にないんです。ところがやっぱりそういうふうに大きな影響、あるいは中国に泰山(たいざん)という山が―五岳の一つですが―ありますが、その中腹に谷がありまして、その谷の岩に『金剛経』が全部書かれているんです。時代が北朝時代ですから唐よりもっと前の時代、古い時代にもう既に『金剛経』が書かれているんですね。あるいは敦煌(とんこう)から出たいろんな写本を見てみますと、『金剛経』の写本が圧倒的に多いんです。ということは、みんなが筆写して、短いお経ですから、筆写するにも時間はあんまりかかりませんよね。ですからそれを筆写したということは、それだけ人の気持を打つものがあるのかも知れませんね。
 
草柳:  何なんでしょうか?
 
鎌田:  それは一言でいうと、あらゆるものに執着しないで生きましょう、と。とらわれの心というのはダメですよ、ということを説いているんですね。
 
草柳:  ただそれは仏教全体を通して、一番大きな主張となっている考え方ですよね。
 
鎌田:  そうです。ただ『金剛経』の場合は、それを強く否定するんですね。いわゆるとらわれ、そういうものを一言で切るわけです、「それはダメですよ」と。強いんですね。「絶対否定」という哲学の言葉を使えば、絶対否定を通して何かを表そう。何かの真意を伝えよう、と。「絶対否定」というのは、中国の言葉でも「何々に非ず」となるでしょう。だから「何々に非ず」というとビックリしちゃうわけですね。常識的に考えていることを、「そうではない」と、こうやるわけでしょう。それがやっぱり衝撃を受けるんだと思うんですね。
 
草柳:  翻訳がいいんだそうですね。
 
鎌田:  そうです。翻訳は鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の他に、玄奘の訳もありますし、それ以外の人の訳もあるけど、みなさん使っているのは、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳なんですね。『法華経』もちょうど鳩摩羅什(くまらじゅう)訳がいいので使われていると同じなんですね。般若心経だけは、玄奘訳を私たちは称えているんです。しかし圧倒的に読誦経典としては鳩摩羅什(くまらじゅう)訳がいいんですね。羅什の訳文というのは、中国人の感性に訴えたんだと思うんです。情緒的にも頷けるんだと思うんです。ですからそういういい中国の言葉になっているものですから、それでよく読まれたんだろうと思いますね。
 
草柳:  そのお経の中で一番端的に説いているところが、一番結論のところにあるそうですから、そこを最初にちょっと見てみたいと思います。
 
一切の有為(うい)の法は、夢、幻(まぼろし)、泡(あわ)、影(かげ)の如く、露の如く、亦(また)、電(いなずま)の如し。応(まさ)に是(かく)の如きの観(かん)を作(な)すべし。
(金剛経)
 
鎌田:  これは有名な言葉でありまして、「有為の法」というのは、物のことですね。形あるもの。見えるもの。それは夢、幻、泡沫、影のようなものだ、と。あるいは露のようなものだ、と。さらに云えば、電(いなずま)のようなものだ、と。こういうように物事を感じないといけない、と、これも強烈ですよね。形あるものというのは、目の前にあるものでしょう。そして現象しているものでしょう。確かに目で見えるわけです。そういう目で見えるもの、それは夢、幻、影だ、と。一言で切っちゃっているわけですね。だから夢、幻のようなものにとらわれてはいけない、と。こういう意味になっていくわけですね。普通の考え方から言ったら、ビックリしちゃうわけです。目の前にあるもの、この目で見えているもの、それは確実にあるように思うでしょう。それはみんな幻なんだ、と、まず書いてあるわけですね。ですからビックリするわけです。
 
草柳:  勿論日本に入ってきて、日本でも、例えば江戸時代の沢庵(たくあん)禅師(安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。1573-1646)というような人たちは、かなりこのお経に影響されたというか、このお経から学ぶところがたくさんあったという。
 
鎌田:  そうですね。沢庵禅師というと徳川家光(とくがわいえみつ)(江戸幕府の第三代将軍(在職:1623-1651)である)の顧問をやった方ですが、あるいは柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の剣術師範。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流の地位を確立した:1571―1646)の師匠もやりましてね、家光に随分信頼されたんですが、幕府に気に入られなくて、一時出羽の方に流されていました。
 
草柳:  流罪になって、
 
鎌田:  そうです。しかし江戸に帰って来てからは、家光の顧問のような精神的な指導者のような役割をしたんですが、非常にものにとらわれない人で、世間の虚飾(きょしょく)を嫌う人。ですから沢庵の考え方を一番よく表しているのは、沢庵の「遺偈(ゆいげ)」と言いましてね、遺書です。それが現在残っているのを見ますと、「自分が死んだら、志のある人は、たった一本の線香を立ててくれればいい、と。別にいろいろ葬式とか、そういうものをやってくれなくてもいい、と。自分の死体は裏山の野原に埋めて貰えばいい、と。そしてそこにお墓を作らないでくれ」と、そういうようなことを書いているんですね。ですから生きている時にも、何にもとらわれない。衣食住が極端に簡素なんですね。それで、「死んでからも、面倒くさいことは一切要らない」ということを弟子に遺言しまして亡くなった方です。だから、やはり『金剛経』で、先ほど読んだような言葉を実際に生活の中で体現しているんですね、あるいは実行しているんですね。それが沢庵ではないかという感じが致しますね。
 
草柳:  じゃ、その辞世の句を読んでみましょう。
 
まださめぬ 此世(このよ)の夢に夢を見て
  いやはかななる 身のゆくへかな
(沢庵)
 
鎌田:  非常に簡単な辞世の句でありますけれど、この世では夢また夢だ、と。自分ではこの世で暮らしていることは、しっかりした実在があると思うでしょう、実在感が。ところが『金剛経』の教えからみれば、それは夢みたいなものだ、と。そして本当に儚い身の行方だ、ということを言っているんですね。ですから人間の一生なんていうのは、夢のまた夢だ、と。もっと言えば、人間の一生は幻だ、と。八十年なり百年生きているでしょう。しっかりと足を地に付けて生きているわけですが、沢庵からみればそれは夢に過ぎない、と。透徹した人生に対する考え方ですね。沢庵の場合、生きている時もそうだし、死んでからもそうしてくれと。自分が死んでも何にもしないでくれ、というように徹底しているわけですね。
 
草柳:  ただ先ほどの『金剛経』の言葉にしても、今の沢庵の辞世の句にしても、表向きというか、表層のところだけ捉えてしまうと、何となくこう儚いということの方が、どうも先に立ってしまっていますね。
 
鎌田:  儚いというんじゃないんですね。これは徹底的に否定しているわけですね、現在を。形あるものを。だから臨終の時、「夢」の一字を大書きし、余白に小さく「百年三万六千日、弥勒、観音、幾か是非あらん。是も亦夢、非も亦夢、弥勒も夢、観音も亦夢なり。仏云く、応に是の如きの観を作すべし」と書いて、筆を投げ捨てて没した。百年というのを日にちになおすと、三万六千日でしょう。人間の寿命というのも、一生というのも、わずかなんですね。たった三万六千日でしょう。その後に「弥勒も夢、観音も夢」と。そういう菩薩さんたちもみんな夢だ、と。ですから単に世の中が儚いというんじゃ全然ないんですね。直視している。本当の姿の底にあるものを見つめようとしている。世の中の実相を、本当の相(すがた)を見通している。そしてできたのが「夢」の一字なんですね。だから世の中儚いよ、詰まらないよ、と言っているんじゃ全然ない。この世の中は本当に無常なもの、幻のもの。だから人間はどう生きなければいけないか、ということが、裏に隠されているわけですね。生きているうちはどう生きなければならないか、と。それがこういう歌に表れている。ただ沢庵禅師は、この世を夢とみた虚無主義者じゃないか、と思われますが、そうじゃないんですね。それとむしろ対局に立って、生きている時には、ほんとに真剣に一生懸命生きたわけですね。それを間違えると、『金剛経』の考え方自体が虚無主義じゃないかと、とられてしまうんですね。そうじゃなくて、否定した中に何か積極的なエネルギーを、今に生きるエネルギーをそこから汲み出そうというのが、『金剛経』の教えだし、沢庵の考え方でもあるんじゃないか、という感じがしますね。
 
草柳:  それにしても、お墓も要らない。お経も要らない、というのは、大変な徹底ぶりですね。
 
鎌田:  東海一のお師匠様だったわけでしょう。それがそういうことを言ったんじゃ、みなさん困ってしまうわけですが、生きている時も何にも要らない、死んでも何にも要らない、というのが、沢庵の凄い生き方ですね。今の人も少し見習わないと、それは私たちはできませんよ、今現代というのは複雑な生き方していますから。しかしその気持は学ぶことができると思うんです。それじゃ『金剛経』のもう少しお話を進めましょうか。
 
草柳:  『金剛経』の要点の中の要点と言いますか、
 
仏、須菩提(しゅぼだい)に告げたまう。凡そ有(あ)らゆる相(そう)は、皆是れ虚妄(こもう)なり。若(も)し諸相は相に非(あら)ざることを見れば、即(すなわ)ち如来を見たてまつる。・・・如来者とは、従(したが)って来る所も無く、亦(ま)た去る所も無きが故に、如来と名(なづ)くればなり。
(金剛経)
 
鎌田:  須菩提(しゅぼだい)というのはお弟子さんの一人です。これも難しくて、この経文だけを見るとほとんどわかりませんよね、何を言おうとしているのか。「有(あ)らゆる相(そう)」というのは、形のあるものですね。形のあるものは虚妄である。先ほど「幻」とか「影」だとか出てきましたね。それと同じ意味なんです。あらゆる形あるものは本当のものではない。本当の姿ではない。幻に過ぎない。そうなると、「諸相」いろんな形あるもの。形あるものは、それは「相に非(あら)ざることを見れば」ということは、本当の形じゃない、と。ここに花がありますが、その花は本当の花ではない、と。この花の背後には、もっと永遠不滅の理法なり、真理なりがあるんだ、と。そういうものの一つの現れとして、こういう花があるんだ、ということなんですね。そういうことがわかってくると、如来というものもわかってくる、と。それが次に、如来―仏の説明なんです。如来は仏のことでありますが、普通の大乗仏教の考えでは、如来というのは、真如からくる。「真如」実相です。何にもない、真理そのもの。そこから現れてきまして、そして私たちを救ってくれる。私たちを救いますと、また元の真如―実相へ還っていく。だからそれが大乗仏教の如来。ところが『金剛経』では、それを全面否定です。「如来とは何か」というのは、「不来不去(ふらいふきょ)」と言っているんですね。来るところもない、去るところもない。不来不去。普通の大乗仏教の解釈からいうと、そういうふうに現れて来て、私たち救って、またお帰りになる。それを「不来不去」と言っているんですね。「不来不去」という言葉は、「不生不滅」と同じことなんです。絶対だという。
 
草柳:  生じもせず、滅しもしない。
 
鎌田:  それは絶対。現象の背後にある永遠の理法そのものなんですね。だから法というものは、永遠の理法そのもの、と捉えているわけですね。だから普通だと、仏さまというと、人格的に考えたりなんかしますでしょう。私たちを救ってくれると考えるでしょう。『金剛経』の場合には、そうじゃなくて、理法そのもの。しかも不生不滅。不来不去の理法そのもの。それが仏だ、と。だから『金剛経』で言っている仏というのは、目に見えません。
 
草柳:  その辺のところが実はなかなかわかりにくいですね。先ほど先生がおっしゃった今このテーブルの上に花がありますよね。花はこれは花ではあるけれども、しかしそれは花ではない。
 
鎌田:  仮に花の姿をとっているに過ぎない、とこう考えるんですね。あらゆるものに対して全部そういうふうに、仮にこの姿をとっているにすぎない、と。そういうふうに考える。じゃ、本当のものは何かと言ったら、目に見えない一つの理法があるわけですね。そういう理法を正しく把握するのが『金剛経』の目指したものなんですね。
 
草柳:  ということは、つまりこれは現象の一つの現れにすぎないのであって、本質は何か、
 
鎌田:  それを見極めるものが大切だ、と。ところが、私たちは形あるもの、現象のこういうものにやっぱりとらわれるでしょう。これこそが事実だ、と。これこそが実在だ、と思うんですね。『金剛経』はそれは仮の実在、仮にあるもの。本当にあるものは、その背後にあるもの、こう考えるんですね。ですから仏さまの見方もやっぱり違ってきます。それを次の経文で出てくると思うんですがね。
 
草柳:  (も)し色(しき)を以(もっ)て我(われ)を見、音声(おんじょう)を以て我(われ)を求むれば、是(こ)の人は邪道(じゃどう)を行(ぎょう)ずるものにして、如来を見たてまつること能(あた)わざるなり。
(金剛経)
 
鎌田:  これも経文を読んだだけでは、何を言っているのか、まずわからない。『金剛経』というのは何にもわからないお経なんですね。だからかえって魅力があって、これをどう解釈するか、というんで、いろんな人が注釈もするわけですが、この「我」というのは、これ如来―仏さまのことなんですね。仏さまというのは、顔・形がある。それが「色(しき)」なんですね。だから顔・形でもって、それが仏さまだ、と。私たちもいろんな仏さまの仏像を京都や奈良へ行ったりしてお寺なんかで見ますよね。。そうすると、素晴らしいな、と思うでしょう。それでいいお顔をしていると思うでしょう。それは本当の仏じゃない。その次、「音声(おんじょう)を以て我(われ)を求むれば」というのは、今度は仏さまが説法されるでしょう。そういう仏さまの声、説法そういうものが仏さまの声だ、とこう思うと、それは間違いだ、と。「邪道(じゃどう)を行(ぎょう)ずるものにして」というのは、それは間違いだ、と。そういうように仏を考えていたんでは、本当の仏をみることはできません、と、こう言っているんですね。だけど、私たちはやっぱり仏というと、温容な、しかも三十二相を備えた立派な方だと思うんでしょう。形から仏に入るのはいけない。それから仏さまの説法ですね、声。声からまた仏さまを求めるのもいけない、と。だからそういう形とか声とか、そういうものは仏さまの本当の姿ではない、と、こういっているわけです。だからこれは一言でいうと、仏像の否定ですよね。仏像というのは、みんな形があるでしょう。それは本当の仏じゃないと言っている。そうすると、普通の人は『金剛経』のこの経文を見て、じゃ、仏像を拝む必要はないと思うでしょう。それは間違いなんですね。まったく仏さまは目に見えないでしょう。目に見えないものだからこそ、形あるものとして、仏か何かを作らなければいけない。そして形あるものとして作る時には、崇高に作らなければいけませんでしょう。それが仏像なんですね。何にも見えない。何にも見えないから仏さまはどこにもいないというんじゃなくて、仏像を作ることによって、そこにエネルギーが固定化される。集まってくる。形あるものになってくる。そうすると我々は、お寺へ行って仏さまを拝むでしょう。それでいいんですね。
 
草柳:  そうですよね。だってやっぱりいい仏像を見れば、心が洗われるというか、とっても清々しい気持になるじゃありませんか。
 
鎌田:  観音さまでもそうでしょう。いい観音様ね。それから弥勒菩薩だったら、京都の広隆寺に弥勒菩薩があります。あれ見ると美の極致というか、腕の線、なんか思惟像で、こうして考え込んでおられる。勿論ソウルの国立博物館にあるのと形は同じですけど、用材が違うんですね。国立博物館にあるのは金銅仏で、日本にあるのはアカマツを材料にしているわけですが、しかし姿そのものは同じ。私たちはあれを見ることによって、弥勒菩薩がもつ慈しみの心、慈悲の心、そういうものを感得するわけですよ。あるいは美の極致という面から見ても、人間の美しさとは一体何なんだろうか、と。それですから大きな役割を果たしているわけです。しかし『金剛経』は、本質論を言っているわけですよね。本質論から言えば、形あるものが仏さまの本当の姿ではない、と。これもまあわかるんですね。仏さまというのは、形がありません。無相です。但し無相だから無いかというと、そうじゃなくて、一種の宇宙の生命力で、ビシッと遍満(へんまん)しているわけですよ。私たちの人間の目には見えないだけのことなんですね。
 
草柳:  ということは、私たちがそうやって勝れた形があるものを見て、心が動かされる、清々しい気持になる、ということは、つまりその形あるものを通して、何かやっぱり形の無いものを、そこから得ていく、感得していく、ということなんでしょうか。
 
鎌田:  そうです。日本の文化が特にそうですね。形あるものを通して、形無きものを知る。声無き声を聞いて、声無き声を知るとか、そういうことがあるわけですね。例えば中国の蘇東坡(そとうば)(中国北宋代の政治家、詩人、書家:1036-1101)もそうですが、道元禅師(どうげんぜんじ)(鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖:1200-1253)なんかは、山の形が仏さまの姿だ、と。あるいは谷川の流れの響きの音、それが仏さまの音声だ、説法だ、とこう考えているわけですよね。ですからそれはやっぱり自然の姿、自然の声の背後にあるものを言おうとしているわけでしょう。単純に見れば、それは谷川の音ですよ。あるいは山のこういう形ですよ、単純に見ればね。しかしその山の姿そのものが仏さまの姿だ、とわかる感性ですね。こちらの見る人の、それがやはり大切なわけですね。
 
草柳:  確かにあらゆるものにも実体がない、というこの教えを考えると、それだけでは何にもないという感じがしますね。
 
鎌田:  そうです。何にもないというと、ともすると虚無主義になってきますけど、そうじゃないんですね。やっぱり絶対に否定したところに、エネルギーを見出してくるわけですね。それが『金剛経』でも言っているわけです。絶対否定の中から、絶対肯定の強烈なエネルギー、働き、それを教えるのが『金剛経』なんですね。
 
草柳:  そうやってこちら側を主体として、つまり自分がそうやって物事を見ていく時に、あらゆるものには実体がない。あらゆるものには実体がない、というふうに思う自分の心というのは、一体どこにあるわけですか。
 
鎌田:  それはやはり見る人の心の持ちようですね。日蓮上人さまの言葉ですが、「花は心」とこういうんですよ。「花は心、花は心なり」と。だからこの花を見て、心でこの花を見るから本当の花の美しさがわかるし、ですから心でやはり見るわけですね。その心はやっぱり宗教心とか、それから求める心とか、あるいは美を感じる心とか、調和を感じる心とか、そういうものでないといけないわけですね。まったく荒涼とした砂漠のような心じゃ何を見ても、山を見ても、谷川の響きを聞いても、うるさい、と思うだけでしょう。それがやっぱり感性の問題なんですね。それによって仏なり尊いものなりを知ることができる、ということになるわけですよ。それじゃ次を見てみましょう。
 
草柳:  (しき)に住して心を生ずべからず。声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょく)、法(ほう)に住して心を生ずべからず。応(まさ)に住する所無くして而(し)かも其(そ)の心を生ずべし。
(金剛経)
 
鎌田:  これも一番最後の方が重要なんですね。「色、声(しょう)、香(こう)、味(み)、触(しょく)、法(ほう)」というのがありますね。これは般若心経にもありますけれども、「色」というのは形ですね。形あるもの。形あるものに「住して」というのは、とらわれて、という意味なんですね、ここでは。形あるものにとらわれて、心を生じてはいけない。この花の中でも綺麗な花があると、それをちょっと折って持っていこうとかね、美しい紅葉があるとちょっと頂いていこうと思うでしょう。それが美しいんだということは直感で感じますが、その後に自分のものにしようとか、折って持っていこうというと邪心ですよね。そういうようなものを見て、それで心が動かされてはいけない。それで後、声も香りも味も接触も、法というのは物のことです。だからありとあらゆるそういうものに心を動かされてはいけない。私たちはやっぱり声でも綺麗な声を聞くと、やっぱり心が動いていくでしょう。香りでもそうですね。いい匂いを嗅げば、ああ、食べたいなと思うでしょう。全部そうなんですね。接触も同じですね。心よいものに接触するのは楽しいから、そうするとそこに気持が動いていくでしょう。これどれ見てもみんな気持が動いていくんです。それがいけないと、『金剛経』では説くんですね。じゃ、どうしたらいいかというと、心というのは「応(まさ)に住する所無くして」無住だと。心は住する所無くして、その心を生ずべし、と。心というのは、留まらしてはいけない。どっかへ心を留まらせると、留まるとそこに執着が生まれるでしょう。好き嫌いとか、それがいけないと。だから心をどこにも留めないようにしないといけませんよ、というのが、最後の言葉なんですね。この最後の「応(まさ)に住する所無くして而(し)かも其(そ)の心を生ずべし」を「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」と漢字で書きますね。それを上から読むんです。これは非常に有名な言葉で、特に日本人が好んだんですね。これは上から棒読みして、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」とこう読むんです。それを大変に日本人は禅の人であっても、あるいは武道家であっても、心の面を説いているでしょう。ですから非常に関心がこうあるんですね。
 
草柳:  じゃ、その中から代表的なと言いますか、江戸時代の至道無難(しどうぶなん)(現代の臨済宗の中興の祖、白隠禅師の法のうえの祖父にあたります:1603−1676)という人の言葉を見てみましょう。
 
応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)
すみ所無きを心のしるべにて
そのしなじなにまかせぬるかな
(至道無難)
 
鎌田:  この「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」というのは、今の『金剛経』の言葉を上から棒読みしたわけです。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」と棒読みした方が、なんかわかるような気がするんです。口調がよい。わからなくても非常にいいんですね。そんなに長くないし、覚えやすいし、それについて至道無難禅師が歌を書いているわけですね。「すみ所無き」というのは、無住のことです。「すみ所」というのは「住」ですよね。それで住するところが無い、住み所が無い。それが心だ、と。そういう心というものの特徴をよく知らなくちゃいけない、と。それがよくわかってくると、心というのは無住ですよ、と。本当の心というのは、留まるところが無いのが本物ですよ、と。それがわかれば、「その品々(しなじな)に」品はいろんな物ですね。「品々にまかせぬるかな」そうなると、自分の気持を目の前にいる全てのものに委すことができる。ということは、ものになりきることができる。ということは、もっというと、これがいい、あれがいいというような分別をしない。こっちがいい、こっちが悪い、というような分別、区別をしなくなる。物その物を、物そのものとして見るわけですよね。ところが、物そのものを、物そのものとして見ることは、私たちには不可能なんですね。必ず自分の思惑が入ります。どんなものを見てもね。人間みても、人を見ても、虚心に人様を見れるということはなかなかできないでしょう。そして先入観も加わってきますでしょう。そういうものでなくて、虚心に見る、ということなんですね、今のこの至道無難の歌はね。物を虚心に見れるか、ということなんです。必ず虚心に見れなくて、いろんな価値観とか、自分の思惑で物を見るでしょう。いいものがあれば欲しいし、悪いものは捨てようと思うしね。それがすぐ働いちゃうわけです。そういう気持が働かないで、虚心に生きられれば、それが心が住しない、ということだ、と。心というのは、どっかに固着するわけです。どっかに決まるわけですね。どこにも決めてはいけません、という『金剛経』の教えを歌にしたわけなんですね。だけど、こういうのは歌に説明する以外方法がないし、またその歌を聞いても、普通の人はわからないと思うんですね。しかし自分がある程度修養に心掛けていれば、なるほどな、心というものは無住でないといけない。どっかに固着さしちゃいけない。どっかに定着させちゃいけない。しかもその定着、固着するのは、自分の気持でやるでしょう。しかも自分の気持の動きには、自分に対する利害関係、そういうのが働くでしょう。それを無くしましょう、ということなんですね。これできないことですよ。
 
草柳:  そういう姿こそ、というのは、これは理屈としてはわかるんですけどね。
 
鎌田:  実際にできないんですね、なかなか。それを日本の昔の人でも、至道無難もそうですが、やり遂げた人が何人かいるわけですよね。それは一生の修行を通して、だんだんそういうふうになっていくわけですよね。簡単にはなれません。何十年という修行の結果、そういうものにとらわれないような自分になっていくわけですよね。
 
草柳:  この『金剛経』というのは、さっきの沢庵もそうですけれども、禅宗の人には割と親しみがあるようですね。利用するのは禅の人が多いみたいですね。今度紹介するのも道元禅師の歌ですが、それを見てみましょう。
 
水鳥の行くも帰るも跡たえて
されども道は忘れざりけり
(道元)
 
鎌田:  これは水鳥が水の上に浮かんで行ったり来たりしているでしょう。跡はないですよね。しかも自分の道というものはきちんとわかっているんで変なところには行かないわけですよ。跡がないからわからないというのではないですよね。これは水鳥は水だけど、空を飛ぶ鳥もそうですね。いろんな方向へ行っても跡がないでしょう。跡がないけれども、自分の道というものはちゃんと覚えているわけで、鳥でも夕方になればねぐらへ帰っていくわけですよ。どこに跡があるのかという印もないんですね。人間は印がないと、どうも真っ直ぐ帰れませんけどね。鳥は印がなくても、空中でちゃんと帰っていけるんだというんで、「自由自在」「自由無碍」何にもとらわれないということをこの歌で表現しているんですね。本当の理想の世界というのは、こっちへ行ったらぶっつかる。こっちへぶっつかる。そういうのじゃないんだ、と。どこをどう動いていても、まったくぶっつからない。自由な、無碍な、自在な、そういう世界なんだ、ということを、この歌で道元禅師は示そうとしているわけですね。難しいですけどね。私たちはこっちへ行くとこっちへぶっつかり、これではいかんというんで、こっちへ行くとこっちへぶっつかり、また自分の辿ってきた道も、どこをどう行ったんだか忘れちゃうこともありますでしょう。そうじゃないんだ、と。どんなに自由自在に泳ぎ回っても、どんなに自由自在に空を飛んでいても、ちゃんと自分の道は行けるんだ、と。だから「自由自在」というのは、勝手ということと全然違いますよね。勝手に動く、というんじゃない。勝手に動いているんだけど、ちゃんとその中で動いているわけですね。それをこの歌で表そうとしているわけですよね。
 
草柳:  ですから後の「されども道は忘れざりけり」の句が、この歌の場合にはとっても重要な意味をもっているわけですね。。
 
鎌田:  どこへ行ってもいい、というんじゃないんです。きちんとそれをどういうふうに自由に動いていても、自分の道というものをちゃんと歩んでいるんだ、ということですね。
 
草柳:  ただ、「融通無碍」「自由自在」それは単に野放図ということとは違うわけですね。
 
鎌田:  そうですね。自由自在に動いているんだけど、大きな意味の型の中にはきちんと収まっている、と、こういうことになるんですね。
 
草柳:  大きな意味の型の中にきちんと収まる、ということで言えば、先ほど最初の方にお話が出てきた沢庵禅師ですね、江戸時代に徳川家といろいろな関係があって、特に徳川の剣道指南であった柳生家と深い関係があって、その柳生家の、特に二代目、三代目辺りは随分沢庵禅師の考え方に影響されたということがあったそうですね。
 
鎌田:  そうですね。沢庵禅師の教えを受けて、柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は武道の哲学を書いておりますし、沢庵が書いた『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』という本があるんですが、「不動智」というのは、動かない智というんですが、これはとらわれない智なんですね。本当の智慧。本当の智慧というのは、とらわれない。だから不動智なんですね。それを説いた本があって、それの教えを受けて、柳生が後に「殺人刀(せつにんとう)」、それからもう一つは、「活人剣(かつじんけん)」人を活かす剣、両方で『柳生家伝書』というのを書いていますがね。それを見るとまったく沢庵の教えをそのまま受けて、それを武道の哲学にしているんですね。日本の武道史の中で、武道の哲学を打ち出したのは、柳生宗矩を指導したのは沢庵禅師だ、ということになるんですね。その前は武道の哲学というのはあまり要らないんで、強い者が勝てばいい。相手をやっつければいい、というのが考え方だった。それをそうじゃない、というふうに、人はただ殺せばいいというのは間違いで、人を活かす剣というのは何だ、ということを柳生宗矩は考えたんですね。そこの中で有名な言葉がありますので見てみたいと思います。
 
草柳:  心を何処(どこ)に置(お)こうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心を取らるるなり。敵の太刀(たち)に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。我が太刀に心を置けば、我が太刀に心を取らるるなり。・・・兎角(とかく)心の置所はないと云う。
(不動智神妙録)
 
鎌田:  これもよく引用されるんですね。有名な箇所なんですね。心の持ち方ということでしょうか。心をどこに置いたらいいか。相手と対峙した時、心をどこに置いたらいいか、と。「敵の身の働きに心を置けば」ということは、敵の身体の動き、そこに縛られてきますと、それにばかり注目していきますと、相手の身体の動きに自分の心がとらわれてしまう、というんですね。相手の身体の動きだけを見ていますと。それから「敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり」今度は相手の刀に注目するでしょう。刀の動きだけに自分の心をそこへ集中していくと、敵の太刀に自分の心が取られてしまう、と。今度は敵を切ろうと、勝とうと思うでしょう。勝とうと思うところに、自分の気持を置いていくと、そうすると勝とうと思うところに心が取られてしまって、自分の方はお留守になってしまう、と。あるいは自分の刀に心を置けば、今度は自分の刀の持ち方に心を取られてしまうと、敵の動きがわからない。そうなると結論的には、兎にも角にも心の置き所はないんだ、と。それが相対した武道者が、相対した時の心掛けだ、と、沢庵は説いているわけですね。これも実際にはできないんですよ。これは勝れた武道家になると、相手を見るんでも、きちんと相手の目を見ていても、相手の足の動きまでわかるんですね。未熟なうちは、そうじゃないですからね。相手の頭を見ると、頭だけに見えてくるし、太刀を見ると、太刀だけ見えてくるでしょう。ところが本当に達人になると、沢庵は遍満(へんまん)という、満ち溢れている。あらゆるところに充ち満ちているという言葉を使うんです。人間の気がずっと充ち満ちていると、たとい目は相手の目を見ていても全部わかるわけですよね。だからそれを感得していかないといけないんですね。だからもう少しいうと、目で相手を見るんじゃなくて、丹田―腹で、臍下丹田(せいかたんでん)で相手を包み込むようにならなければいけない、と、武道家が説くんですが、まあ難しいことでね、実際そんなことできないんですよ。ところが、ある程度修練―何十年と修練すれば、それが自ずとできるようになって、それが前だけではないですね。後ろの方から人が歩いて来るでしょう。後ろから切られるようになるでしょう。後ろからそれを全部わかるようになるんですね、勝れた武道家は。我々は街を歩いていても、混雑の中を歩いていても、渋谷の駅とか、新宿の駅なんかで、後ろから刺されたとするでしょう。ちょっとわからないんですよね。後ろ見えないもんだから。それが勝れた武道家になると、あるいは江戸時代のこういう人たち、武芸者になると自然にこうわかるんですね。そういうように気が遍満していないといけない、と。だから沢庵がいうことは、こっちに心を留める、こっちに心を留めるというんじゃないんですよ。全体に広がっていくんです。ただ全体に広がっているんだけど、一箇所に留めちゃいけない。一つに留めると、そっちへいっちゃうでしょう。だからそっちへ一つに固まっちゃいけない。だから沢庵は、「凝り固まる心はいけない」と、こういうんです。
 
草柳:  鎌田先生は心得がおありなんですけれども、やっぱり今沢庵が言っているようなことというのは、これはまさに武術というか、武道の極意なんですか。
 
鎌田:  極意というよりも、それは本道ですね。それで沢庵のそういう考え方は、例えば山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)(武士(幕臣)、政治家、思想家。爵位は子爵。剣・禅・書の達人としても知られる:1836-1888)とか、ああいう人にちゃんと時代を経て継承されているんですね。山岡鉄舟は、一刀正伝無刀流(無刀流)というのを晩年に創り出すわけですが、勝負を争わず、というのが重要なんですね。勝ち負けにとらわれない。もっと上の世界を狙おう、というのが山岡鉄舟の考えた考え方なんですね。そういうのはまあ四十年から五十年しないとダメでしょうね。この宮本武蔵が、「修行は朝晩やれ」と。「朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)」というんですがね。「鍛」という字は、「鍛錬」の「鍛」でしょう。それは三年間やれ、と。毎日朝晩。「錬」というのは三十年―三十年やれ、と。で、三十年やると恰好がつきますよ、というのが、宮本武蔵の考え方。だから剣一つ振うのでも、三十年の修練ですね。それから武蔵はさらに三十年かかって習得したものは、三十年間かかって人様に教えないといけない、と。そうすると合わせて六十年でしょう。その前に宮本武蔵は死んじゃうわけですけどね。二十歳でやったとしても八十まで生きないと、それはできないですよね。だからそういうように、長い年月をね―でも長い年月生きているだけではダメですよ―これ毎日毎日の修練、それによってこういう武道の奥義みたいなのがだんだん捉えられていくんだろう、と。それを沢庵は書いているわけですね。それは『金剛経』の「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」ということによっているんでしょうね。十年や二十年やったんじゃ全然ダメなんですね。しかも十年二十年いい加減にやっていたんじゃものにもならない。ものの数にも入らないんですね。やっぱり一つひとつを真剣に気持を込めてやらなくちゃダメなんですね。
 
草柳:  今挙げてきたような人たちというのは、それぞれ『金剛経』が教えるところを身をもって自分で体験、経験をしてきた人たちである。『金剛経』の、今までお話を伺ってきた一つのポイントとしては、「ものにも実体がない」ということを徹底的に見極めなければいけないということ。じゃ、その後というか、それと同時に、今私たちにどうすればいいのか、ということは?
 
鎌田:  そうですね。それを考えるには、道元禅師のお言葉を頼りにした方がいいと思います。
 
草柳:  それじゃ、道元禅師の言葉を、
 
無常迅速生死事大(むじょうじんそくしょうじじだい)と云うなり。返々(かえすがえす)も此の道理を心にわすれずして、只今日今時(こんにちこんじ)ばかりと思うて時光(じこう)をうしなわず、学道(がくどう)に心をいるべきなり。
(正法眼蔵随聞記)
 
鎌田:  これは道元禅師のお言葉なんですが、世の中は無常である、と。生死は速やかにくる、と。返す返すもこの道理を忘れちゃいけない、と。その後が大切なんですね。「只今日今時ばかりと思う」と。これがまた難しいですね。人間は只今が大切なんだ、と。そして時間をムダにしないで、学道に心を集中しなくちゃいけない、と。こういう道元禅師のお言葉の背後に、やはり『金剛経』があるんですね。それが『金剛経』の中の「現在の心も不可得、未来の心も不可得、過去の心も不可得」という言葉が確かにお経にあるんですね。
 
草柳:  それを用意してありますので、それを読んでみましょう。
 
如来は諸心(しょしん)を皆(みな)非心(ひしん)なり、是れを名づけて心と為(な)すと説きたまう。所以(ゆえ)は何(いか)ん。須菩提(しゅぼだい)、過去の心も不可得、現在の心も不可得、未来の心も不可得なればなり。
(金剛経)
 
鎌田:  初めの方は、「心は心でない」とこう言っているんですね。普通「心」というと、なんかあるように思うでしょう。そんなものはないんだ、と。それでこう言ったんですね。「過去の心も不可得、現在の心も不可得、未来の心も不可得だ」と。過去というのはもう既に過ぎ去っていますからね、その心は求めることはできませんね。それから未来というのもまだ来ていないので、その心を求めることもできませんね。現在の心と言っても、絶えず生滅変化していますね。じゃ、現在の心とは何か、と言われても、それは難しいわけです。そうすると、この過去の心と現在の心と未来の心と、何が一番重要ですか、ということを考えないといけないですね。その答えが、先ほどの道元禅師のお言葉なんですね。「今、只今、今」これが道元禅師が現在の心を大切にしましょう、ということを言っているわけです。そしてそれは道元禅師のお言葉ですと、「今日今時」と。人間の時間というのは、今日今時が絶対だ、と。それ以外ないんですね。それは考えてみても、未来というのは希望か何かに過ぎないでしょう。過去はあるのかというと、これは単なる記憶ですよね。あんなことして悪かった、こんなこと失敗したとか、こうすればよかったとか、そんなことばっかりでしょう。そうすると、今あるのは、今日今時。そうなると、道元禅師は何を言わんとしているのかというと、今日今時に集中しないといけない。今日今時にしかないんだから、今やっていることを一生懸命やらなければいけない、ということ以外に方法がない、と言っているわけですね。それは先ほどもお話に、至道無難禅師が、品々となって生きるんだ、というようなことを言っていますが、同じなんですね、みんな。考えてみると、空間的にはこれしかないでしょう、今の時間は。それから時間的には、今しかない。
 
草柳:  一瞬ですね。
 
鎌田:  そうなんです。だから今ここに精神を集中する。それが現在心を生かすんだ、ということになるんですね。そうすると、それの連続が必要なんですね。一回それじゃ集中したけど、後は忘れたというんじゃダメなんですね。ですから昔の禅僧は、御飯を頂く時は御飯を頂くだけで、他のことを考えない、と。御飯を食べながら全然いろんなことをくよくよ考えていてもしょうがない。御飯を頂く時には、ひたすら御飯を頂けばいい、と。歩く時にはひたすら歩いていけばいい。仕事をする時はひたすら仕事をすればいい。それ以上仕事をしながら考えると、雑念になりますし、効率も落ちますし、それからいろんな心の迷いや何かが浮かんできますでしょう。それはよくない、と。ですから道元禅師の場合には、修行―坐禅ということになりますけどね。これを今度は、現在の生活に当て嵌めていろいろ考えていきますと、沢庵禅師がおっしゃるように、あんまりいろんなものにとらわれるといけない。ということは、生活を簡単にしましょう、簡素にしましょう、ということですね。今あらゆるものが氾濫しているでしょう。あれも買いたい、これも買いたいというと、自分の座る場所もなくなりますよね。お家にそういうものを全部並べると。沢庵禅師は、何にも衣食住は求めない。死んでもあの人は求めなかったんですから。着る物は、木綿のもので、冬と夏交代で着れるのがあればいい、と、こういう自分で言っているんですね。ですからそれだけ生活を簡素化していく。そして今に生きることに充実さしていく。現在じゃそういうことできませんけどね。これだけ煩雑で、これだけいろんなものがあると、みんな捨てていくということできませんでしょう。
 
草柳:  ただだけど、今のような生活のスタイルがそのまま続けていけば、もう既にいろいろなところで、それが行き詰まっているということは、もう大方の人が承知しているわけですから、やっぱりここで切り換えていかざるを得ない。切り換えていかなければ、私たちの人類というのは、この後どれだけ生き続けていくことができるか、ということすら危うくなっている時代ですからね。
 
鎌田:  間もなく二十一世紀を迎えますけど、考え方というか、発想の転換を、何らかの意味でしていかないといけない。そうすると、こういう『金剛経』の何を書いてあるかわからないような教えですけれども、そういう見方があるんだ、と。そういう見方を現在にどう生かしていったらいいか、ということですよね。だから仏教がもっている考え方というのは、かえって二十一世紀に少し認め見つめていかないといけないんじゃないかな、という気は致しますね。考えようによっては、非常に恐ろしい思想ですよ、『金剛経』の。「すべては何もないんだ」という、何にもないところからエネルギーを汲み出してこなければいけないわけでしょう。一遍何にもないんだ、と否定することが、現在の我々にとって大切なんですね。あれも欲しい、これも欲しい、これはいい、あれもいい、と抱え込んだら、どうしようもないでしょう。それを一旦切断する、一旦は捨てる。そういうような考え方が、『金剛経』で我々が学ぶものじゃないかと思いますね。
 
草柳:  冒頭『金剛経』というのは難しい教えだ、難解だ、という話がちらっとありましたけれども、でもこうやってお伺いしてまいりますと、『金剛経』が、というよりも仏教全体が、といってもいいのかもわかりませんけれども、もっている今日的な意味合い、そこから今日生きている我々が何を学べばいいのか、ということ、そこのところに繋いでいかないと拙いですね。
 
鎌田:  意味がないと思います。ですから『金剛経』の精神を汲み取るということが大切だろうと思いますですね。
 
草柳:  それは言ってみれば、「今をどう生きるか」ということなんですね。
 
鎌田:  今が大切だ、と。それをいい加減に生きると、とんでもないことになりますよ、と。今に集中するエネルギーを、私たちは学ばなければいけない、ということだと思いますね。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成十一年十二月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである