いのちの探求 大乗仏典に学ぶI浄土の荘厳
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」の十回目になりました。今回は「浄土の荘厳(しょうごん)」と題して、古くから私たち日本人にとても大きな影響を与えてきた阿弥陀仏の信仰について、『阿弥陀経』(あみだきょう)、あるいは『無量寿経』(むりょうじゅきょう)といったお経を中心にして、いつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんにいろいろとお話を伺ってまいることに致します。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願いします。
 
草柳:  今回は、「浄土の荘厳」というテーマなんですけれども、阿弥陀仏ぐらい私たち日本人の生活と密接に結び付いている教えというか、仏教というのは、大乗仏教の中ではとても珍しいというか、ほんとに古くからなんですね。
 
鎌田:  そうです。日本人には、いろんな仏さまがあっても、阿弥陀様というと非常に懐かしいですよね。京都や奈良の方に行っても良い阿弥陀如来の仏像があったりしますでしょう。あるいは「二十五菩薩の来迎図」とか、あるいはそういう練り供養とか、現在でも行われておりますでしょう。ですから阿弥陀仏様というと、私たちの生活では一番親しい仏さまだと思いますね。中国の敦煌なんかへ行きますと、やっぱり浄土教の関係の変相図(へんそうず)が多いんです。それで非常に綺麗なのは『観無量寿経』の変相図(へんそうず)とか、『観無量寿経』というと、浄土教の中でも韋提希夫人(いだいけぶにん)が苦しんだり、王様(頻婆娑羅王(びんばしゃらおう))が幽閉されるでしょう。それも子どもが、王子(阿闍世(あじゃせ)太子)さまが幽閉するでしょう、親を。それを今度は助けようと思って、韋提希夫人も幽閉されるでしょう。そういう悲惨な物語ですよね。子どもが親を幽閉するというんですから。そういう中から浄土教の信仰が説かれていくわけですが、『観無量寿経』は、十六の観想―観法があるんですね。敦煌なんかの変相図(へんそうず)を見ていますと、ずっと十六それがあって、あ、これが十六観かなと思って、そうすると「日想観(にっそうかん)」と言ってね、太陽が沈んでいくでしょう。その姿を見て観想しながら、浄土を思い浮かべる観想図。太陽が沈むというのは非常に荘厳でしょう。私もアンコールワットとか、ミャンマーのバガンの仏塔の上でそれを見た思いがありますがね。やっぱりああいうところで陽が沈んで行きますと、素晴らしい、それを見ているだけでも気持が洗われていきますしね。だからそういうような、それを絵にしていくということなんですね。これからお話していく『阿弥陀経』『無量寿経』『仏説観無量寿経』その三つを「浄土三部経」と言って、浄土教の一番の中心になるお経ですね。一番古いのは『無量寿経』ですが、それが三世紀の中頃。『観無量寿経』は四五○年頃で、そのずっと後です、それでもかなり古い。中国の古い時代に訳されて、『阿弥陀経』はこれからお話しますが、私たち鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳しました四○○年ちょっと後に訳されたものを使ってやっているわけです。
 
草柳:  その中で阿弥陀仏はどういうふうに書かれていますか。
 
鎌田:  まずそれじゃ『阿弥陀経』の経文を見てみましょう。
 
草柳:  その時に、仏、長老舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽と曰(い)う。その土(ど)に仏まします。阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。
(阿弥陀経)
 
鎌田:  舎利弗に仏さまが言ったわけですが、「西方に、十万億の仏土を過ぎて」たくさんの仏国土、仏土を過ぎて、なおそこに世界がある、と。それを名付けて極楽というのである、と。極楽というのは、苦しみもない。ただ楽のみがある、という意味ですけどね。極楽がある、と。その土に仏がいらっしゃいます、と。それを「阿弥陀」と言っているんだ、と。そしてその阿弥陀仏は今現に極楽において教えを説いていらっしゃいます、というのが、経文の意味でね。まずこれは阿弥陀さんというのがどこにいるか、ということをまず、そうすると西方の極楽にいらっしゃるんだ、ということなんでしょうね。
 
草柳:  その「阿弥陀」という名前は、そもそもどういう意味なんですか。
 
鎌田:  それはまたお経に出てきますので、お経の文を出して見てまいりましょう。
 
草柳:  舎利弗(しゃりほつ)、かの仏の光明、無量にして、十万の国を照らすに障礙(しょうげ)するところなし。このゆえに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民(にんみん)も、無量無辺阿僧祇劫(あそうぎこう)なり。かるがゆえに阿弥陀と名づく。舎利弗、阿弥陀仏、成仏より己方(このかた)、いまに十劫(じゅうごう)なり。
(阿弥陀経)
 
随分舎利弗に呼び掛けていますね。
 
鎌田:  そうなんですね。そして阿弥陀さまというのは、どういう仏さまだ、ということを、この文章を見てみますと、最初の前半と後半とあるわけですね。前半の方は何が書いてあるかというと、「光明が無量である」と。「無量光」ということを最初に言っているんですね。後半の方は今度は、「寿命が無量である」というから、「無量寿」ということを言っているわけですね。インドの言葉で二つありますが、「アミターバ(無量光)」光明が無量と「アミターユス(無量寿)」寿命が無量―というのが阿弥陀様の特性である、と。それで「無量無辺阿僧祇劫(あそうぎこう)」という難しい言葉を使ってありますが、無限の時間ということですね。そうしますと、「無量光」というと光ですね。それは空間的に無限に輝いていくわけですね。それから「無量寿」というと、今度は時間的ですね。永遠の生命ですね。無限の光明と永遠の生命をもった仏さま、それが阿弥陀仏ということなんだ、と、こういうことになりますね。ですから阿弥陀というのは何だろう、と。日本語ではよく「阿弥陀」というのを使いますよね。
 
草柳:  しょっちゅういろんなところで使っていますね。
 
鎌田:  それはどういう意味で使われているのかよくかわからないんですが、本当の阿弥陀ということ、阿弥陀仏という時には、無量光仏、無量の寿仏なんですね。永遠の無限の光、永遠の寿命、こう考えればいいわけですね。それを両方を備えられているのが阿弥陀様だ、ということになりますね。
 
草柳:  その阿弥陀仏も、かつては菩薩の時代があったわけですが、どうしてじゃ仏になったのか。その辺の経緯もこのお経の中には書かれてあるわけですか。
 
鎌田:  それは『無量寿経』に説かれてくるわけですね。この法蔵(ほうぞう)菩薩というのが、阿弥陀様の昔のお名前です。その法蔵菩薩が修行致しまして、そして「四十八願」と言いますが、四十八の願を立てるわけですね。その願がちゃんとできるまでは、自分は成仏しない、と誓いを述べられるわけですね。
 
草柳:  誰に願を掛けるんですか。
 
鎌田:  それは世自在王仏(せいじざいおうぶつ)という仏さまに願を掛けられるわけですね。だからその仏さまにお会いして、自分は四十八の願を掛けます、と。そしてその四十八の願が達成されるまでは成仏致しません、というのが四十八の願なんですね。だから『無量寿経』というのは、別の名前で「四十八願経」と言われて、三世紀の中頃訳された「浄土三部経」の中でも古いものですが、「四十八願」というのは、第一がこうですよ、第二がこうですよ、第三がこうですよ、というのが順番に説かれていくわけです。
 
草柳:  例えばどんなものがあるんですか。
 
鎌田:  その中で第一願は、自分は地獄、餓鬼、畜生、そういうものがある限りは成仏しない、ということですね。重要なのは十二願と十三願というのは、仏さまのお姿を言っているんですね。光明が無限で、あらゆる国を照らされるようにならなくちゃ自分は悟りを得れない、と。あるいは寿命が無限にならなければ、自分は成仏しない、と。ただ一番重要なのは昔から「十八願だ」とこう言われているんですね。だから十八願を見てみましょう。
 
草柳:  じゃ、まずこれを見てお話を進めたいと思います。
 
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽(しんぎょう)して我が国に生まれんと欲(おも)うて、乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯(ただ)五逆(ごぎゃく)と正法(しょうぼう)を誹謗(ひぼう)せんをば除く。
(無量寿経)
 
鎌田:  自分が仏さまになるために、「十方衆生、心を至し」至心という言葉がありますが、真の心をもって「信楽(しんぎょう)」というのは、信じ願う。「楽(ぎょう)」というのは、楽しいという字を書いていますが、仏典では「ぎょう」と読む時には、願う意味なんですね。信じ願って、「我が国に生まれんと欲(おも)うて」浄土に生まれようと思いまして、お念仏を称えるわけですね。もし浄土に生まれなければ、自分は決してお悟りを取らない、と。ただし五逆と正法を誹謗するものは除くんだ、と。「五逆(ごぎゃく)」というのは、大変な重い犯罪でありまして、母を殺したり、父を殺したり、聖者を殺したり、あるいは仏さまのお身体を傷付けたり、あるいはお坊さんたちが和合(わごう)で生活しているのを乱したり、そういうことの五つの重い罪があると。あるいは「正法(しょうぼう)」というのは、仏法のことですが、仏法の悪口をいう人、そういう人は除く、と、一応言っているわけですよね。
 
草柳:  その四十八願の中で、何故どうして十八願が特に重要だ、というふうになるんですか。
 
鎌田:  後、十八願「念仏往生の願」、十九願「至心発願(ししんほつがん)の願」、二十願「至心廻向(ししんえこう)の願」とあるんですよ。それで十八、十九、二十というのは、昔から重視されまして、その中でも特に十八願が一番重視されるんですね。浄土に生まれようと思ったならば、「十念せん」と。お念仏を称える、と。お念仏が生まれれば、必ず浄土に生まれる、と言うんで、十八願は「念仏往生の願」と昔から言われているんですね。十九願は、よく「臨終現前の願」とも言いまして、阿弥陀様が、自分が死ぬ時に菩薩を連れてお迎えに来てくださる、というのが十九願。二十願は、「欲生果遂の願」とも昔から言われまして、生まれ変わり死に変わり、そして必ず救われるようになります、という願いなんですね。ただやっぱり「念仏往生の願」というように、念仏を称えていれば必ず往生できるんだ、と。重い罪を犯した人はダメですけれども、普通の私たちが念仏さえ称えていれば必ず浄土に生まれることができるんだ、ということを明らかにした願いである、というんで、十八願が重視されるんですね。ですから人によって、十九願の方がいい、と。それはいろいろ見解があるんだそうですけれども、まあ浄土教を考えると、十八願が大切だなあということですね。
 
草柳:  日本のお祖師さんたちは、やっぱり十八願こそが、というふうに言ってきたわけですね。
 
鎌田:  そうですね。お祖師たちが、「念仏往生の願」と名付けていますので、念仏すれば往生できるんだ、ということをはっきり示した願いである、ということなんでしょうね。
 
草柳:  そして阿弥陀仏の前身ある法蔵菩薩は、この願が成就することによって仏になるわけですね。
 
鎌田:  そうなんですね。だから願がちゃんと果たせなければ、自分は仏にならない、とこういっているわけですね。じゃ、そういうことをまた経文の終わりの方で纏めていますから、ちょっと経文を見てみましょう。
 
草柳:  もろもろの衆生ありて、その名号(みょうごう)を聞きて、信心歓喜(かんぎ)せんこと乃至(ないし)一念せん。至心に廻向(えこう)して、かの国に生まれんと願わば、すなわち往生することを得て、不退転(ふたいてん)に住せん。
(無量寿経)
 
鎌田:  これも一種の結論ですね。私たちが名号を聞いて、そして「信心歓喜せんこと乃至一念せん」信心というのが非常に重要なんですね。これはまた最後の方でも信心というのが、親鸞聖人のお言葉で出てまいりますけれども、名号を聞いて、信心が本当の歓びをもつ、そして一念する。「南無阿弥陀仏」とこう称えるわけですね。そういうことによって、「南無阿弥陀仏」と称える称名の功徳を心から廻向する。浄土に振り向けるわけです。「南無阿弥陀仏」というその念仏の功徳を浄土に振り向ける。それが廻向ということなんですね。そして「かの国に生まれんと願わば」浄土に、極楽に生まれようと思うならば、すなわち往生することができて、「不退転に住せん」というのが重要なんですね。最後の言葉ですが、絶対にそこから戻らない。そこへ入ってしまう。浄土へ往生することが決まっているわけですね。戻らない。「不退転」というのは、仏教でもいろんなところで使いますが、一度そこへ入ってしまえば絶対に戻らないという、そういうことなんですね。これは大変なことだと思うんですよ。お念仏を称える。それで浄土に生まれることができる。そして決して戻らない、という確信ですね。それが「信心」ということになるんでしょうけどもね。
 
草柳:  しかし絶対に戻らないという確信を持つということは、大変なことですね。
 
鎌田:  大変なことなんですね。ですからそこに至るためにはやはり至心に信楽しないといけない。「至心」というのは真心でしょう。「信楽」はそれを信じ、それを願わないといけない。これはなかなかなれませんね。どういう時にほんとにそういう気持になれるのかというのは、また後の方でお話を進めたいと思いますが、他のお経からも見てみましょう。
 
草柳:  振り返ってというか、つまり自分が足下を見た時に、こちら側でももうほんとのドロドロの生活をしているわけですから。
 
鎌田:  そうなんです。そういう人が念仏をすれば往生できるのか、と誰でもが疑問を持ちますでしょう。それはまた後からお話を進めたいと思いますが、ついでに『無量寿経』の中に大変いい言葉がありますので、ちょっと見てみようと思います。
 
草柳:  人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し。独り去り独り来(きた)りて、行(ぎょう)に当(あた)り、苦楽の地に至り赴(おもむ)く。身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし。
(無量寿経)
 
鎌田:  これも有名な言葉なんですね。我々は愛欲の航海の真っ直中にある、ということをお祖師様も言われていらっしゃる方がいますが、まさに欲望と煩悩の中にのたうち回っているわけです。その中で人間は独りで生まれてきて、独りで働いて、そして独りで死んでいくんですね。それで独りでこの世に現れてきて、独りでまたどこかへ消えていくわけですね。そしてそういう人生を送っていくわけでありますが、「苦楽の地に至り赴(おもむ)く」というんで、一生の人間の進んでいく道というのは、まさに苦楽の地にいくだけなんですね。苦楽と言っても、楽の方はあんまりないんですね。苦しい方に至り赴くんですね。それで自分の「身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」この最後の一句が重要ですね。誰もこれを代わってくれる人はいない。自分は独りで生まれて、死んでいかなければいけないんだ、と。それを代わってくれる人はいませんね。私はもうちょっと長生きしたいから、あなた、代わりに死んでくれ、とも言いませんしね。そんなようなものではございませんでしょう。人間の死というのは、大宇宙の大生命力のその力の中で死んでいくわけですよね。それが衰えていく。それによって死んでいくわけでしょう。ですからこれは誰にも代わって貰うことはできない。で、自分独りで寂しいから一緒に死んでいこう、ということもできませんね。誰かと一緒に死ねば別ですが、普通は独りで息を引き取っていかなければいけない。だからこれこそが人生の現実ですよ、と。この『無量寿経』で示しているわけですね。そういう「独生独死独去独来(どくしょうどくしどくこどくらい)」ですが、独りで生まれて独りで死んでいく。これをしっかりとまず認める。そしてしっかりと見つめることですね。これからほんとに生きる道、生きる力が、かえって出てくるんだと思うんです。独りで生まれて独りで死んでいくというと、なんか悲しいような気がしますが。
 
草柳:  やっぱり切ないし儚いものだという気がしますね。
 
鎌田:  そうじゃないんです。むしろ積極的な、それをまず認めましょう、と。それによってかえって、自分は独り生まれて独りで死んでいくんだ、ということをはっきりと認識すれば、そういう意味でほんとに生きる力が出てくるんじゃないですか。甘えもなくなりますしね。それから病気になった時でも、そういうものだ、ということをしっかりと認めること。それをお経が言っているんですね。それを認めると、これ自分がこれを受けるんで、誰も代わってくれるものもいないんだとなれば、どうしますか。病気になった時、苦しい時、どうしてもお念仏を称えたくなりますね。それをお経は言わんとしているわけですね。もうお念仏を称える以外方法がないというのが、その人にもわかってくるわけですね。それで有名な言葉をお経は言っているわけです。このお経の言葉を受けて、日本の鎌倉時代の一遍上人(いっぺんしょうにん)(鎌倉中期の僧、時宗の開祖:1239-1289)がいい言葉を言っていますので続いて見てみましょう。
 
草柳:  生ぜしもひとりなり。死するも独りなり。されば人と共に住するも独なり。・・・おのづから相(あい)あふ時もわかれても、ひとりはいつもひとりなりけり。
(一遍上人語録)
 
鎌田:  これも一遍上人の語録の言葉でありますが、非常に有名で、明らかにお経を踏まえているとうことがわかりますね。先ほどのお経をそのまま和語と言いますか、日本語にして言っておられるわけです。一遍上人というと藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)とゆかりがあり、遊行上人とも言われますし、日本中歩いてお念仏を広めた方でありますが、あるいは踊り念仏をやった方で、「捨て聖(ひじり)」とも言われますし、ありとあらゆるものを捨ててしまって、初めは武士の血を継いだご出身でありますが、結婚しまして、妻子も捨てて、そして旅に出て熊野で霊験を受けまして、それからお念仏を広めるため仲間と一緒に踊り念仏をしたり、日本中回っています。東北地方から九州までいろんなところを回っていますし、鎌倉なんかも行っていますし、全国を歩いているんですが、最後は自分の遺体は野に捨てて獣に施してください、と、こう言っているんですね。最後は書写山(しょしゃざん)を目指したわけですね。書写山というのは、姫路市の郊外にある山で、比叡山が東にありますね。だから西の比叡山と言われるような山で、鬱蒼とした大きな杉の木が聳えているんですね。そこへ最後はお行きになって亡くなるつもりだったんですが、その途中でお亡くなりになったようですけれども、まさに一切を捨てて歩いた方ですね。
 
草柳:  一遍上人という方は、十三世紀の鎌倉時代の人なんですけども、この時代にもう徹底的に自分を見つめて、虚飾の部分をどんどん捨てていったら、こういう境涯に達したということですか。
 
鎌田:  そうなんですね。そして今の文章に出てくるように、「生ぜしもひとりなり。死するも独りなり」と、これは先ほどのお経の言葉と同じですね。その次が、「人と共に住するも独なり」他の人と居ても、人間は絶対孤独なんだ、と。親友とか仲の良い友だちと夜付き合ったり、お酒を飲んだりしているでしょう。非常に交流して仲が良い、心が通い合っていると思うけれども、どんなに人と一緒にいても、やっぱり自分は独りなんだ、と。あるいはこの人と会うことも、あるいは別れることも、いつも独りは独りだ、と。だからもう愛し合う人が一緒になってもやっぱり独りなんだ、ということを自覚していたんですね。ほんとに強いんですね、それが。一番強いのは、自分は独りだ、ということを心底から見つめること、それが人間の一番の強さになる。また逆にそれを思えば思うほど、人には優しくしてあげないといけない。人には慈悲の気持をもって接しないといけない、という気になるんですね。相手の人も独りでしょう。こっちも独りでしょう。だからこそほんとに慈しむ気持を相手に持たなければいけない、ということになりますね。だからこれは独り主義で、俺は独りだと言っているんじゃ決してないんですね。まずそれをしっかり自覚することによって、かえって人は人で、お互いに慈しまなければいけない。優しい気持ちを相手に持たなければいけない、ということになってくるんですね。
 
草柳:  やっぱりあの時代に、ああいうことをするということは大変なことで、一遍上人だって然(そ)う然(そ)う楽なことはないどころか、もう大変な生活だったと思うんですが、そういう中でやっぱり自分一人のことではなくて、他の人たち、周りの人たちを救済しなければという、そういうエネルギーというのはどこから来るんですかね。
 
鎌田:  やっぱり本当の意味の慈悲心でしょうね。慈悲の気持。仏さまの光というのは、それは慈悲心だ、とよく言われますけどね。だからこそああしてみんなが集まって来たんじゃないですか。黙っていてもついて来るわけですよね。踊り念仏の会があると、老若男女、そしてお侍さんもいれば、貴族の人もいるし、女官の人もいるし、身分の賤しい人もいます。それがみんなついて来て、輪になって踊っていたわけですね。だからそれだけを引き付ける強烈な力を持っていたんだ、と思うんですね。その人たちを組織して、一種の政治的な叛乱を起こそうとか、そういうものはまったくないわけですよね。本当に仏さまの慈悲の光をみなさんも浴びてください、それによって救われてください、と。ですから一遍上人がこの亡くなる時に、入水自殺をしようとする人がいたわけです。それで自分の死後は死んではいけませんよ、と、こう諫(いさ)めているんですがね。やっぱりそういうふうに後を追って行こうという気持が信者の中にあったわけですよね。そういう凄い人だなということは言えると思うんです。
 
草柳:  ただ人間というのは、結局は独りなんだ、と。いつまで経っても独りなんだ、と。独りで生まれて独りで死ぬ。そのことは真実として、そこのところをきちんと凝視というか、見なければダメだ。ただそういう徹底的に独りだ、ということの中で、どういうふうにすれば救済というか、救いというのは出てくるんですか。
 
鎌田:  それは中国の浄土教を大成した善導(ぜんどう)大師とか、そういう人たちの教えをちょっと見てみたいと思うんですね。今一遍上人は日本の方ですが、浄土教を大成したのは、中国では善導大師という方で、曇鸞(どんらん)さま、道綽(どうしゃく)さまと、南北朝の時代から、随・唐と続いて善導大師は七世紀の初頭の時代に長安を中心に活躍した方ですが、その教えを次に見てみましょう。
 
草柳:  善導と言いますと、後になって日本の法然上人がとっても善導大師の教えに大きな影響を受けたようですね。
 
鎌田:  法然上人は、「偏(ひとえ)に善導による」と言いまして、夢で見て、善導大師に帰依したと言われます。国も離れていますし、時代も違いますが、善導大師の浄土教の教えは真っ直ぐ法然上人に伝わっていくわけですね。それから親鸞聖人が出てこられるわけですが、とにかく日本の浄土教も、善導大師が基盤になるわけですね、源流と申しますか。善導大師の教えをちょっと見てみましょう。
 
草柳:  深心(じんしん)というは即ちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。一には決定(けつじょう)して深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと。二つには決定して深く信ず。彼の阿弥陀仏、四十八願をもて衆生を摂受(しょうじゅ)したもう。疑いなく、うらおもいなく彼の願力に乗じて定(さだ)んで往生を得と。
(善導「観経疏」)
 
鎌田:  長い文章でわかりにくいと思いますが、初めの方は、「深心(じんしん)」ということを説明をしているわけで、深く信ずるんだ、と。それには二つがある、と。先ず第一は、決定(けつじょう)して深く信ずる。この「決定(けつじょう)」というのが大変なんですね。近代語では「けってい」と読みますが、決定(けつじょう)という。「安心決定(あんじんけつじょう)」とか「信心決定(しんじんけつじょう)」非常な強さを持つ言葉なんですね。それはまず第一は、どういうことかと言うと、自分は罪悪生死の凡夫だ、と。先ず罪人だ、と。もう罪悪に充ちた凡夫だ、と。そして昔から愛欲の世界、煩悩の世界、罪の世界に常に没している、と。そういう愛欲の世界の中、煩悩の世界の中を、常に流転して、そしてこの世俗を離れてちゃんとしたところへ出ていく、と。悟りの世界に出る、というような縁(えにし)もまったくないんだ、と。ということは、もう先ず人間は永遠に救われないんだ、と。永遠に罪人なんだ、と。そしてそれは罪悪煩悩に充ち満ちているんだ、ということの自覚ですね。第一は、それを信ずること。信ずるというよりも自覚する、確信することですね。じゃ、第二には、また「決定(けつじょう)」という言葉がありますが、固く信ずるんだ、と。何を信ずるかというと、今度は阿弥陀仏が四十八願をもって我々を救ってくれる。「摂受(しょうじゅ)」というのは、慈悲によって我々を救い取ってくれる。摂(おさめ)受(う)ける、と。受け入れることですね。阿弥陀仏は全部私たちを受け入れてくれる。それが摂受(しょうじゅ)ということなんですね。そうすると「疑いなく」なんらの疑問もなく、「うら思いなく」何の気持もなく、何の思うこともなく、そしてただひたすらに阿弥陀仏に願力を乗(じょう)じて定(さだ)んで往生をすることができるのである、と。これは善導様の『観経疏(かんぎょうしょ)』という本の中の言葉なんですね。『観経』を注釈した本が『観経疏(かんぎょうしょ)』と言いますが。だから一番目は、徹底的に自分は罪悪の凡夫、それを自覚すること。二番目は、だからこそ我々は行くべき道がない。救われる道もない。自分は徹底的にダメなんだ、と。そうしたらどうしたらいいかというと、阿弥陀仏は四十八願で我々を救ってくださる、とおっしゃっているんではないか。だから私たちは、何の疑いもなく、阿弥陀様の四十八願の中にのって、そして極楽に往生すればいい、ということを言っているんですね。これは凄いと思うんですよ。まず凡夫であること、永遠に救われないんだ、ということをまず自覚しなさい、と、こう言っているわけでしょう。絶対に救われないとなれば、どうしたらいいですか。後はお念仏を称えるしか方法がないんですね。どこにも行く道がない。もうお念仏を称えて、そして救われるしかない。幸い阿弥陀様は、念仏を称えれば必ず救われますよ、と約束してくださっているじゃないか、と。それを先ず信じましょう、ということになるんですね。ですからこの善導大師のお言葉というのは凄いです。だから善導大師は、終南山(しゅうなんざん)の麓の方の悟真寺(ごしんじ)というところで随分修行されていまして、それから長安の街で光明寺(こうみょうじ)というところへ行きまして、そして教えを説かれた。みんな付いてきますよ、ビックリして。今までも浄土教というのはありますがね。念仏を何回も何回もたくさん称えなさいとか、そういう教えはありますよね。それがそんなことを言わない。まず永遠に救われないということを自分で自覚しなさい、と。そう言われれば、なるほど、と思いますよね、聞いている聴衆は。そしてそれではこの善導大師のおっしゃるように、阿弥陀仏の願いよって、私たちも念仏を称えましょう、と。それが声となって出てきたわけですね。「南無阿弥陀仏」という、そのお念仏がはっきりして、声となってくるのは、やっぱり善導大師からなんですね。それでお前たちも救われますよ、と言ったわけです。
 
草柳:  鎌田先生のガイドブックの中にこういう一節があるんですけれども、「人間世界の悲しい現実がなければ、法に出会うことができない」と書き方をなさっていらっしゃるんですが、今の善導大師の前半のところで、もう徹底して自分を罪悪凡夫の人間なんだ、ということを覚悟しない限りは、
 
鎌田:  ダメなんでしょうね。でもそれに到達するためには、ある程度自分で修行したり、ある程度仏教の勉強したり、ある程度いろんな修行をすれば、仏になれるじゃないか、と思ったんですね、誰でもそうですが。そしてやっているうちにだんだん絶対に自分は救われないんだ、と。自分はダメなんだ、ということを本当にわかってくるわけです。そこで大転換が起こるんですね。宗教的に言えば、廻心(えしん)というか、大転換が起こって、それによって決定(けつじょう)していくわけなんですね。大転換が起こらなければなれないんですね。当時七世紀ですから、随から唐に入ったばかりで、戦乱は漸く治まってきましたけど、やっぱり大変な世の中ですよね。そういう中で庶民は生活も苦しいし、権力者からは奪取されているでしょう。そういう中で「お念仏を称えれば救われるんだ」と言われると、これ庶民は飛び付きますよ。あ、そうなのか、と。
 
草柳:  ですから多分に当時の政治的な背景とか、社会的な背景と言ったものと結び付いて、非常に濃く結び付いていることはわかるんですけれども、ただ今までお話を伺ってきたように、ともかくその前段として徹底的な絶望がなければ救われたくたって救われないんだという。そこから先ほどの話になると、今度は信心ということになるんですか。
 
鎌田:  なってきますね。それで追い詰められていく姿を、善導大師はまた譬喩で、二つの川のそこへ白道が通っているという譬喩で説明するわけです。そういう説明を聞くと、なるほど、と、みなさんわかるんですね。それをちょっと出してみましょうか。
 
草柳:  我が今廻(かえ)るとも亦死なん。住(とどま)るとも亦死なん。去るとも亦死なん。一種として死をまぬがれず。我に寧(むし)ろ此の道を尋ねて前に向って去らん。既に此の道あり。必ず応(まさ)に渡(わた)るべしと。
(観経疏)
 
鎌田:  これは「白道(びゃくどう)の譬喩(ひゆ)」と言いまして、設定は東の岸は苦しみの世界で、西の岸には極楽浄土があるんですね。そこに白道―一つの道が真ん中に通っているんですね。その道の両側が水の河と火の河なんですね。その火と水が道を洗っているわけです。火がパッと押し寄せてくるでしょう。あるいは水が押し寄せてくるでしょう。水は何を表すかというと、人間の貪りの気持だ、と。じゃ、火は何を表すかというと、人間の怒りと憎しみ、憎悪ですね。そうするとこっちから火がパッと来る。こっちから水がかかってくる。そしてその後ろの方は何があるかというと、盗賊がいる、猛獣がいる。そうすると旅人はどうしますか。後ろを振り返ると、猛獣盗賊がいる。そして真っ直ぐに一筋の細い白い道が繋がっているんですが、火の河と水の河でしょう。それが襲いかかってくるでしょう。誰でも立ち竦(すく)みますよ。いや、これはどっちへ行ってもダメだ。この道は渡れない、と思いますでしょう。その時に、「決定(けつじょう)して渡れ」というんで、決心して渡っていくわけですね。それが譬喩なんですね。一遍上人なんか言っておられますが、「真ん中の白道は、南無阿弥陀なんだ、と。水と火の二つの河は、私たちの心なんだ」と、こういうふうに言って、そして「二つの河におかされないのが名号南無阿弥陀≠ネんだ」と。だから旅人は「南無阿弥陀仏」と名号を称えていけば、火にも焼かれない、水にも侵されない。そして向こうへ渡ることができるんですね。向こう岸というのは何かというと、極楽浄土なんですね。それを譬喩で説明しているわけです。人間は、だから絶対絶命に立った時、どうしますか。後ろを見ると、これは帰れない。両側もどうしようもない。しかし向こうにはなんか光が輝く安全な国があるんではないかと思いますね。だからそこへ突き進む決心がつくわけですよね。そしてたとえば天上から声でも聞こえて「お前、立ち止まらないでいいんだぞ。真っ直ぐ進みなさい」と言われれば、もうこれ絶対絶命でしょう。絶対絶命になった時に、行く道が一つある。それはお念仏の道なんですね。「南無阿弥陀仏の道」ということになって、それが真ん中の道ということで、そして西方の浄土へ入っていける。譬喩なんですね。譬喩なんだけど、非常に上手に譬喩をつくっていますよ。普通こういう譬喩を、もし当時の光明寺を中心にして、長安の庶民が聞いた時、あ、そうか、と。私たちはもう絶対絶命なんだ。これで行くしかないんだ、と。お念仏でいくしかないんだ、と。やっぱり善導大師のお話を聞いた人たちは思うんじゃないでしょうか。これだ!と。南無阿弥陀仏しかない、ということですね。それが人々が善導大師をお慕いしていたことなんでしょうね。その道一筋に行くしかないというは、絶対絶命ということですね。一種の飛び込みですよね。そうなると決心して、善導大師がおっしゃってくださるんだから、それならばお念仏でいこうということになりますからね、その説法を聞いていまして。おそらく優しい言葉で当時の民衆にもこれをお話されたんだと思うんですね。その善導大師の教えを受けた日本で言えば法然上人、親鸞聖人ですが、その親鸞聖人のお言葉をちょっと見てみましょうか。
 
草柳:  これは親鸞聖人の和讃から言葉なんですが、
 
弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取(せっしゅ)不捨(ふうしゃ)の利益(りやく)にて
無上覚(むじょうかく)をば悟るなり
(親鸞和讃)
 
鎌田:  これは有名な『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』からですが、親鸞聖人さまは難しい『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』のようなご本も書いておられますが、晩年にはいろんな和讃を書いて―和讃というのは誰がこれを読んでもすぐわかるんで説明要りませんよね。阿弥陀仏の本願を信じなさい、と。本願を信じる人はみんな阿弥陀様のどんな人でも摂取(せっしゅ)―引き取ってくださって、誰一人捨てることがないんだ、というような、そういう御利益があって、それによって悟りを開きましょう、と。読んだだけで、誰でもわかりますね。親鸞聖人さまは、「正像末和讃」これを創られた時には八十五歳と伝えられているんですね。それでこれは夢告(むこく)―夢で感得したと言いますか、心も体も真っ直ぐに透明になって、そういう時にこういう和讃をすっと出てこられたと思うんですね。ちょうどその前の八十四歳の時ですが、長男の善鸞(ぜんらん)さまを義絶(ぎぜつ)しているんですね。大体歳が八十歳過ぎて、今で言えば百歳ぐらいですよ。当時の八十五歳というのは、百歳越えているかも知れない。そういう歳で自分の子どもに背(そむ)かれたというか、自分の子どもを義絶するでしょう。大変な苦しみだと思うんですよ。自分の子を義絶する、その苦しみ。その苦しみを経て、その苦しみがずっと透明になっていくんでしょうね。そして夢で感得なさったんですね。それがこの和讃でありますが、しかし八十を越えて、こういうことができるというのは凄いエネルギーだと思うんですね。なかなか今の人でも八十を越えてくるとだんだん頭も身体も衰えていくでしょう。それが「教行信証」でも何度も手を入れておられるし、晩年にこういう和讃を次から次へと創られているでしょう。そういうエネルギーがどこから出たのかわかりませんけども、こうして親鸞様は言っておられるんですね。それでここの中で、「信じる」とか、「本願信じる人はみな」というんで、「信」ということがよく説かれてきますが、例えば『歎異抄』を拝読していましても、「弥陀の本願には老少善悪(ろうしょうぜんあく)のひとをえらばれず。ただ信心を要(よう)とすとしるべし」弥陀の本願には老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をまったく選ぶことはないんだ、と。ただ信心を必要とするんだ、と。「信心」ということをしっかりと言っているんですね。そして信心というものが、これが一体どこから起こってくるのか、というのが大切なんです。同じく『歎異抄』なんかを見てみますと、この法然上人様の仰せでは、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり」仏さま―如来から賜った信心なんですね。自分が仏さまを信じるというんじゃないんですね。信心は仏さまの呼び声なんですね。仏さまから頂いているんですね。だからもう強いんですね。自分をまったく越えた仏さまの呼び声なんだ、と。現代的に言えば、大宇宙の生命力をそのまま頂いて、その声に耳を傾けていくんだ、ということになりますね。そうすると、「自然法爾(じねんほうに)」という言葉がありますが、これは自らのはからいを全くなくさなければ現れてくる力じゃないんですね。しかし人間にはそういう大宇宙の生命力、本当の仏さまの力から頂いたもの、そういうものが本来備わっているんですね。そして親鸞聖人であるとか、偉いお祖師方はそういうものを自然(じねん)に中から出てきているんですね。先ほど話が出た一遍上人さまなんかでもそうですね。「ただ南無阿弥陀仏≠フ六字、他に自分の体も心もない」とこういっている。そうすると名号が一遍なんだ、と。体も心も全部名号になっちゃうんですね。しかしこれも凄い思想ですよね。何だ単純な思想じゃないか、と思うかも知れませんが、そうじゃないんです。あらゆるものを求めて、求め抜いて、最後に名号が「一遍それ自身だ」と言っているんですね。あるいは一遍上人さまのお言葉ですが、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」いろんな仏教のお経を勉強しましたね。浄土三部経も勉強しました。ありとあらゆるものを勉強して、みんな尽き果てた、と。何に尽き果てたのか、と言ったら、それは「南無阿弥陀仏」になりはてる、と。凄い思想ですね。そんな単純なことをよくできると思うかも知れませんが、それは本当に求めた人生があったからですね。何かを求めた。宗教者であるから仏さまを求めたとか、宗教的な安心を求めたとか、いろんなことがあったと思うんです。それは親鸞聖人さまも、法然上人さま、一遍上人さま、みんな大変な時代を生き抜いているわけでしょう。法然上人さまも流されていますし、親鸞聖人さまも流されていますでしょう。一種の罪人としての流浪の旅を経験しているわけですよね。そういう人生を経ながら、尚かつ最後にこういうところに到達していくんですね。だから人間の信心というのは大変な力だと思うんです。現在の私たちは、知性的な分別によっていろんなことを考えるでしょう。そういうものは自分の知性のはからいを越えた、もっと言えば大いなる力に呼び止められた、大いなる力が自然に発してきたそういうものなんでしょうね。
 
草柳:  よく大乗仏教の話をする時に、「他力」であるとか、あるいは「自力」という言葉が出てまいりますけれども、つまり親鸞聖人や一遍上人が今お話のような境涯に達するというところまでいくと、これは「自力」とか「他力」とかという問題ではないような気がするんですけれども。
 
鎌田:  簡単に自力とか他力じゃないんですね。また自力の行き着くところも他力になりますし、他力と言っても、それは自力と同じなんですね。だから自力とか他力とか、分けることをまったく越えた、ただ一真実の道なんですね。それを「自然法爾」というような言葉で表現しますが、現代に生きる私たちは、なかなかそういう信心というのはできませんけれども、しかし人生の、先ほど申し上げましたように、独りで生まれて独りで死んでいくんだ、と。そしてどんなに愛し合っても、人間は独りなんだ、と。これをしっかりと認めることによって、あるいは自覚することによって、やっぱり信心の道というのは開けていくんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  それは何回目かにお話が出た、たとえば「自浄其意(じじょうごい)」(七仏通戒偈)ということにも通じていくことではないかと思うんですけれども。
 
鎌田:  当然そうです。
 
草柳:  自らを浄めていかなければいけない。そのことに向かって、それこそ自力で懸命になって、その道を進もうとしない限りはやっぱりなかなか見えてこないということなんでしょうね。
 
鎌田:  ですから自力を使い果たして、自力を本当に使い果たした時に、他力の大いなる力がそこからまた出てくるわけですね。それによって人間は自ずとお念仏でき、自ずと合掌できるようになると思うんですね。合掌したり、お念仏するのは、自分が何かを信ずるんじゃないんですよ。合掌せしめられる、念仏せしめられるわけで、仏さまの声が念仏となって現れてくるわけですよね。ですから浄土教というのも凄い教えだと思います。インドで西暦前後に浄土三部経ができて、中国でお祖師さまができて、善導大師という方が出て、それをまた日本のお祖師さま方が受けて、浄土教というのは日本に定着したわけですが、あるいは今でも中国にも定着しているわけですが、東アジアの人たちをそれによって救っているわけですね。
 
草柳:  それにしても、一番最初に話があったように、日本人と阿弥陀仏、阿弥陀仏信仰というのは、これは生活の中に溶け込んでいるというか、入り込んでいると言ってもいいかもわからないぐらいですね。
 
鎌田:  阿弥陀様と一緒に生きているというのが日本人だ、と思いますね。
 
草柳:  次回は今度は、密教についてのお話ということになるわけですね。また次回もよろしくお願い致します。どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成十二年一月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである