いのちの探求 大乗仏典に学ぶJ密教の水源
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」の第十一回目になりました。今回は、「密教の水源」と題しまして、密教についてのお話を進めていくことに致します。密教―密(ひそ)かな教えというふうに書きますが、この密教、特に弘法大師空海(774-835)の教えを中心にして、密教というのは一体どういう教えなのか、ということについて、いつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんにいろいろとお話を伺ってまいります。今回もよろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願いします。
草柳:  我々、密教と言いますと、その言葉の響きもあるでしょうけれども、何となく加持(かじ)とか祈祷(きとう)という言葉とすぐ結び付くんですけれども、じゃ、どういう教えなのか、ということになると、ちょっと取っ付きにくいところがあるんですよね。
 
鎌田:  そうですね。密教というと、護摩を焚いたり、秘密的な匂いがしたりね。ですからみなさん密教というと、難しいな、取っ付きにくいな、と。現代利益のために、病気を治すとか、なんかで加持祈祷して頂くというのはわかりますが、じゃ、密教の本当の教えはどういうもんだ、と。あるいは密教と言っても、やはり仏教が発展してできたものですから、やはり仏教の一つでありますし、そういう意味で密教というのは取っ付きにくいというのが、みなさんの印象だと思いますが、それほど難しいものではないんですね。普通密教の方から分けますと、仏教の教えというのは、「顕教(けんぎょう)」と「密教」と二つに分けるんですね。「顕教」というのは、仮の教え、あるいは方便の教えだ、と。それから「密教」というのは何かというと、仏さまのお悟りをそのまま説いた真実の教えだ、と。だから密教というのは、真実の教え。顕教というのは、仮の教えと、そういうふうに考えて頂いて、じゃ、真実の教えの密教というのは、どんな形で日本に伝わってきたのか、ということになりますと、長い歴史をもっているんですが、初めインドでも真言(しんごん)とか陀羅尼(だらに)のようなものだけはあったわけですね。そういうようなものが中国にも随分前に伝わっている。ところが中国でそういうものが伝わっているけれども、体系としてちゃんと伝わったのは、唐の時代になってしまうんですね。唐の時代になって、『大日経(だいにちきょう)』というんですが、それが先ず完成した密教のお経として伝わってくるわけです。それからその後に『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』とか、いろいろなそういうようなものが伝わってきて、大体伝わってくるのが、七二○、七三○年代ですね。そうすると八世紀のものだとこう考えると理解しいいと思いますね。八世紀の前半に密教の主なちゃんとしたお経が中国に入ってきた、と。だからそういう『大日経』とか『金剛頂経』ができたのも、そんなに古いんじゃないんですね。やっぱり七世紀と考えてもいいかも知れませんが、それが真っ直ぐにインドから中国に入ってきまして、そういうようなお経を基礎にして、中国の密教を大成したのが、不空三蔵(ふくうさんぞう)(705-774)という偉い人なんですね。で、不空三蔵の教えを受けまして、そして恵果(けいか)(746-805)という人がでますが、その恵果という人の教えを真っ直ぐに受けたのが、日本の弘法大師空海なんですね。ですからインドで七世紀にできたお経が、八世紀の前半に中国へ伝わって、それがそのまま八○四、五年頃、恵果からそれを受けて、そして日本に伝えた、と。
 
草柳:  そうすると、じゃ、密教の場合には、インドから中国に渡って、中国でかなりのところまで体系化されて、で、割合時間的にはすぐに日本に入ってきたわけですね。
 
鎌田:  そうです。ですから他の宗派に比べますと、一番インドでお経ができた。中国へ伝わった。それが真っ直ぐに一番時間を掛けないで入ったのが密教なんですね。だから直輸入と、こう考えてもいいんですね。他の天台宗でも、法華経がインドから出てきて、中国で何年か経って天台宗ができますね。あるいは華厳経が中国へ伝わって、それからかなりの年月を経て、華厳宗ができますね。それから日本に入ってきますね。ですから随分時間を経過しているわけです。時間を経過しないで真っ直ぐ入ったというのは、やっぱり密教が一番ストレートに入っているわけですね。
 
草柳:  ほとんど同時に、空海と最澄が中国に渡りますね。その時に、真言密教を日本に伝えたのが空海だ、と。
 
鎌田:  そうなんですね。
 
草柳:  そうすると、空海は当時の恵果(けいか)(746-805)に習っている。
 
鎌田:  そうです。恵果という人は、金剛知→不空三蔵と伝えられた大日経系のものも、金剛頂経系のものも―両部(金剛界・胎蔵界)と言いますが、二つの部門の密教を伝えられた人です。ですから、その両方をちゃんと伝えられた人というのは恵果しかいないんですね。その恵果が亡くなる直前なんですね、空海が長安に来たのは。空海は、最澄と一緒に遣唐使船(けんとうしせん)に乗って行ったんですが、最澄の乗った船は真っ直ぐ港へ入れたんです。ところが空海が乗った船は福建省の福州(ふくしゅう)へ漂着してしまう。それからやっとの思いで長安に行くわけです。そして空海は、いろいろなものを勉強して、情報を集めたり、そして最後に恵果のところへ行くんですが、恵果は、「あなたが来るのを長い間待っていたんだ」と言ってね。そして恵果には、たくさんのお弟子がいるんですが、その中で特に空海に自分の密教を全部伝えたんですね。これはもう大変なことだと思うんです。普通だったら中国の人のお弟子さんがいるわけでしょう。それ以外に海外から留学している優秀な人もいるわけですね。それなのに何故空海を選んで伝えたのか。それはやっぱり空海と恵果というのは、合う素晴らしいものを両方が持っていたんだと思いますね。
 
草柳:  何故空海が密教だったんでしょう。
 
鎌田:  それは密教を日本にいる時、四国にいる時に、四国で密教の修行を自分なりにしていたわけですね。そして密教が一番新しい教えだ、というのは知っていたわけですね。で、留学する前もいろいろ勉強していて、それから向こうへ渡りましたね。そうすると密教というのが、中国でも最先端の教えだ、と。しかも不空三蔵というのは、これは当時の王様に大変に帰依されまして、具体的には五台山金閣寺というのが、現在も残っていますが、全部金で葺いた大きな寺ですね、その当時は。その五台山金閣寺を不空三蔵が造っているんですね。ですから朝廷に信頼されまして、そういう立派な寺を造って、これが時代の最先端の宗教だったんですね。そのちょうど四、五○年前には、則天武公(そくてんぶこう)の時に、華厳宗というのが盛んだった。それはもう無くなってしまいまして、それから玄奘の弟子の慈恩大師基が開いた法相宗(ほっそうしゅう)もとっくになくなってしまいましてね、そうすると、中国の長安で一番流行っているのは密教なんですね。
 
草柳:  非常にトレンディー(trendy:最新流行の)な宗教なわけですね。
 
鎌田:  そうなんです。ですから空海が、「これこそ日本に」と。そして日本にないでしょう。だからこれこそ学んで伝えなくちゃならない、と。そういう情熱をもったんだと思いますね。そして恵果から約半年ですよ、恵果は間もなく亡くなってしまいます。そうすると、空海が全部それを受けて帰ってきたわけですね。現在西安市へ行きますと、青龍寺(せいりゅうじ)という跡がありますが、青龍寺は日本の真言宗で建てた立派なお堂や、それから四国から募金して造った立派なものが残っていますけど、そこに恵果がいたんですね。そこで空海が千載一遇の思いで教えを受けて、そして本当の密教を日本へ伝えたわけですね。
 
草柳:  あれほどの方ですから、空海は、これぞ仏教の真髄というか、これぞ真実の姿ということで、密教を日本へ持ってきたんでしょうけれど、日本に戻って、空海は日本の密教を体系化した、そういう仕事をされたわけですか。
 
鎌田:  『大日経』でも『金剛頂経』でも、密教の経典は、教理の部分と、後はいろんな法具のことを書いた―儀式のことを書いた部分からなっていますが、そういうものをよく消化して、そして本当に素晴らしい哲学体系に作り上げたのは空海の業績ですね。ですからインドで成立した密教のお経が中国へ伝えられ、行法も伝えられた。それを受けながら、哲学体系として完成させた人は空海なんですね。空海の偉大さがそこにあるだろうと思いますね。
 
草柳:  確かに学問と言いますか、宗教ですから学問という言葉が当たるかどうかわかりませんが、密教の教えそのものは、体系ということで考えれば、確かに難しいところはあるかもわかりませんけれども、ただ弘法大師空海があれだけ民衆の中にどんどん入って行って、教えが受け入れられた、ということは、やっぱり密教の教えの中に、当時の民衆が、これだ、というふうに思って飛び付いた要素というのはたくさんあったんでしょうね。
 
鎌田:  そう思いますね。空海は、書道を初め、ありとあらゆるそういう当時の最先端の科学技術も身に付けている。芸術感覚もある。それで日本であれだけの活躍ができたと思うんですね。それでは密教の『大日経』の教えを少し見てみましょう。
 
草柳:  本当は難しくないんだ、ということを、これから少しずつ解き明かしていって貰おうかと思います。
 
鎌田:  密教というと、難しいという先入観がありますが、お経の言葉とか、あるいは空海の書いたものを頼りにしながら、そんなに難しい考え方じゃない。それは勿論密教の儀式とか、潅頂を受けるとか、いろんな法具の使い方、これは難しいですよ。弟子入りしてやらなければできないことでしょう。そうじゃなくて、原理的なもの、考え方、それ自体はそれほど難しいものじゃない、と。それじゃ先ず『大日経』からでも見てみましょう。
 
草柳:  これは中心的な教えというふうに見ていいわけですか。
 
鎌田:  そうですね。
 
草柳:  じゃ、先ずこれから、
 
菩提心を因と為(な)し、
大悲を根本と為し、
方便を究竟(くきょう)と為す。
(大日経住心品)
 
これはどういう意味なんでしょうか。
 
鎌田:  非常に簡単な言葉で、これが『大日経』の「住心品(じゅうしんぼん)」という哲学的なことを書いた部分ですが、その中では一番有名な言葉なんですね。「菩提心」というのは、菩提を求める心ですね。悟りを求める心、それが根本の原因だ、と。それが私たちにないとダメなんですね。それだけが私たちに悟りを求める気持があるんだ、というだけでもまたこれダメなんですね。やっぱり「大悲を根本と為し」仏さまの大悲がそこに動いてこないといけないですね。仏さまの大悲の力がやはり根本にないと、菩提心だけじゃダメなんです。仏さまの大悲の心が私たちに感得できますでしょう。そして初めて本当の宗教的な信心ができていくわけです。「方便を究竟(くきょう)と為す」方便というのは、普通の仏教では教えを人々に説き示すこと、易しく教えを説くことを方便と言いますが、ここではそういう意味ではないんですね。仏の智慧が外に向かっての働きを方便と言っているんです。ですから仏の智慧が私たちを救うために働いていく。それが究極なんだ、と。ですから重要なのは、菩提心、仏の大悲、それから仏の智慧の働きが一切の人々に及んで、人々を救うという方便、その三つが一緒になって、宗教的な行為というものが完成していくんだ、というんで、『大日経』は、一番初めにそういうものをパッと打ち出しているわけですね。この三つが大切ですよ、と。この三つがないと、宗教心、あるいは信心は成り立ちませんよ、というんで、この三つを挙げているわけですね。
 
草柳:  今のこの三つの言葉というのは、まさにその一番大本になる『大日経』の、言ってみれば根本精神というか、それこそ総括したものだ、というふうにみればいいわけですか。
 
鎌田:  そうみればいいんです。ですからこの三つの言葉だけ見ていたんでは、普通の仏教とあんまり変わりませんね。普通の仏教で言っていることを、そのまま言っているんだ、と、そう理解して頂ければいいと思うんですね。
 
草柳:  じゃ、その次の言葉を紹介しましょう。これは空海の言葉ですね。
 
生れ生れ生れ生れて
生の始めに暗く、
死に死に死に死んで
死の終りに冥(くら)し。
(秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)
 
鎌田:  『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』という本ですが、『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』とか、『秘蔵宝鑰』というのは、真言密教が一番上だ、と。それで一番下の教えから順番に真言密教に到達するまでのことを書いた教えでありますが、その中の初めの方の部分にあるものですね。これは有名な言葉なんですね。「生まれ生まれ」と四度も繰り返して、その生まれる前は暗い、と。死んで死んで死んで死のまたその後も暗い、と。これは本当のことですね。私たちは、自分の生まれる前、わかりませんよね。現在の分子生物学やなんかでは遺伝子によって、現在、人化して生まれてきたんだ、というけど、自分自身は生まれる前のことというのは、まったくわからないわけですよね。それで死んだ後も同じくまたまったくわからないわけですね。だから空海はまず、人間というのは、自分が今生きているけれども、その過去といいますか、その前世はまったくわからないんだ、と。それから人間はやがて死んでいきますね。死んだ後というのもまったくわからないんだ、と。まずこれをバーンをぶっつけたわけです。そうすると、どんな人でもこの文章を見ますと、いやぁっ!と思いますよね。なるほど、と。それは自然科学的に解明すれば、遺伝子とか、いろいろ説明は付きますよ、現代の科学では。でもそういう現代の科学の説明では、いくら説明を聞いてもやっぱり自分自身としては、生まれる前わかりませんよね。もっと言えば、三つぐらいまでのことはあんまりよくわかりませんしね。そして歳をとって死んで逝く時、意識が混濁してくれば、もう死ぬということもわかりませんよね。そしてまったくわからない世界に入っていかなければならない。それをバーンとぶっつけられますと、どんな人でも宗教心と言いますかね、そういうものを目覚めさせてくれるんですね。
 
草柳:  ということは、今の空海の言葉は、空海が密教を布教というか、広めるに当たって、まず自分たちの生死の問題を少しじっくり見てみようよ、ということなんですか。
 
鎌田:  そうなんです。本で空海が書いたものは難しいんですけど、例えば人に教えを説く時には、まず人間というものはこういうものですよ、と。人間の生存はこういうものですよ、と。そうすると、誰でもドキッとしますよね。その同じ言葉が、次にまた出てきますから見てみましょう。
 
草柳:  我を生ずる父母(ぶも)も生(しょう)の由来を知らず。生を受くる我が身もまた死の所去(しょこ)を悟らず。過去を顧みれば冥冥としてその首(はじ)めを見ず。未来に臨めば漠々としてその尾(おわり)を尋ねず。
(秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)
 
鎌田:  これも同じことですね。説明するまでもなく、自分の父母も生の由来はわからないんだ、と。それから生をうくる我が身もまた死んでからどうなるということもわからない。同じことを言っているんですね。一つも変わらない。それをただ詳しく言っている。しかしこういうことを初めて聞いた人は、どういうショックを持ちますかね。古代の人でも、こういうことを聞けば、ハッととにかく考えますよね。とにかく考え込みますね。人生というのは、何にも考えないで生きてきたけど、深く考えてくると、自分の過去もわからない、未来もわからない。そうなると、そのわからないものは何か、ということを知りたいと思いますね。そのわからないもの、わからないところこそが本当の真実の姿なんですね。その真実の姿を明らかにするのが密教だ、と。だからこのまったくわからない世界、それを解き明かすのが密教なんだ、と。だから私たちは真実を知らない。真実はこうなんですよ、ということを、まさにこれをとっかかりにして、密教では説いていくわけですよね。
 
草柳:  言うまでもないことでしょうが、これは空海が、自分自身が一番高いところにあって説いているのではなくて、空海ご自身も自分の心の中を探り探っていけば、結局今言ったようなことにぶち当たらざるを得ない。つまり空海自身の反省ということでもあるわけですね。
 
鎌田:  当然そうですね。しかしそういうふうに、わからない世界、それが真実の姿だ、と。真実の世界だ、というので、迫っていかなければいけませんね。そこへ迫っていけば、いろんなことが密教の深いところがわかっていくんだ、ということになるかと思いますね。
 
草柳:  ということを、いわば土台というか、前提にして、じゃ、密教では一体具体的にどういうことを、どういう方法で教えているのか。解き明かしているのか、というところにこれから少し入っていくわけですね。
 
鎌田:  そうですね。原理的なものは、真実の教えというのは、真実とは何なんだ、ということを先ず究めなければいけない。そうしたらどういうふうにして究めるんだという、今度は方法論の問題も出てまいりますね。
 
草柳:  最初にお話がありました、密教というと「加持祈祷」という言葉があるわけですが、じゃ、「加持」ということについて、例えば空海がどういうふうに説明しているか、ということを、先ず最初にこの文章から見てみたいと思うんですが、
 
加持(かじ)とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水(しんすい)に現ずるを加(か)といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持(じ)と名づく。
(即身成仏義)
 
これは有名な「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」というところからですね。
 
鎌田:  そうですね。『即身成仏義』というのも素晴らしい本でありますけれども、そこに加持の定義をしているわけですね。この定義もまた素晴らしいと思うんですよ。加持祈祷というとただ護摩を焚いてお祈りしてなんか御利益を得ればいいんだ、というものではないんですね。「加持とは、如来の大悲」仏さまの大悲、それと「衆生の信心とを表す」私たちの信心とを現すんだ、と。だから如来の大悲と我々の信心とが、どういう関係になったら加持というのか、ということですよね。それが次の言葉を見ますと、「仏日の影、衆生の心水(しんすい)に現ずるを加(か)という」私たちの心の中に、仏さまの影が現れてくるから、と。それから「行者の心水」私たちの心水が、仏日を感じるのを持という、と。だから仏さまを主体に考えるか、行者を主体に考えるか。仏さまを主体に考えると、加という。それから行者を主体と考えると、これは持という、と。どっちでもいいんですがね。要するに仏のいのちと私たちの心とが一つに感応(かんのう)していくわけですね。それを「加持」というわけですね。これは根本の原理なんですね。仏と衆生がそれぞれ感応していかなければいけない。そのためには、私たちの心が澄み切っていないといけない。これは汚れていたらダメでしょう。だから私たちの心が澄み切っていれば、そこへ仏さまの光がこう映ってくるんだ、ということで、だから仏さまの光だけを当てにしていたらいけないわけですね。私たちの心を清らかにする、清浄にする。それが大切である、と。その二つがまったく一つに合一した時に、加持が成り立つ、と。だから仏さまの大悲の力だけではダメ。こっちの気持が汚れていて、受け取る気持がなければダメ。それからこっちが何か受け取る気持があっても、こっちの心が清らかでないとダメ。映すようでないとダメ。泥水ではダメです、映りませんからね。清らかな水でないとダメだ、と、こういうことになるんですね。
 
草柳:  泥水でも照らしてくれるんじゃないかな、と、そんな都合のいいことを考えてはいかんですね。
 
鎌田:  それはもう映らないんですね。泥水では仏さまの光は映らない。清らかな水で鏡のような水になっているから、仏さまの影がそこへ映ってくる。影現(えいげん)とか、影現(ようげん)とか言いますけれども、影がそこに現れてくるということなんですね。
 
草柳:  つまりこちら側からの働きかけ、清くしていく努力や働きかけがなければ決して映らない、ということでしょうかね。
 
鎌田:  そうですね。こちらがダメで、汚れていまして、それで仏さま救ってください、と。仏さまどうぞ現れてください、と。いくら願っても、それは加持にならないですね。加持というのはやっぱりこれ難しいですね。やっぱり私たちは行者として、行をしていかなければなりませんしね。それじゃ次にいきましょうか。
 
草柳:  六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり・・・三蜜(さんみつ)加持すれば速疾(そくしつ)に顕(あら)わる。
(即身成仏義)
 
鎌田:  これもやっぱり「即身成仏義」で、あまりにも有名な言葉で、有名な言葉であるものですから、また言葉自体が難しいものですから、私たちがちょっと読んでも、何のことを言っているんだかまったくわからないんですね。
 
草柳:  「六大」というのは?
 
鎌田:  「六大」というのは、宇宙の構成要素である「地」と「水」と「火」と「風」と「空」の五大(物質的存在の五原素)と「識」(人間の認識作用)とのことをいうんですね。六つの私たちの自然界、私たちの心、そういうものを構成している六つの元素、要素なんですね。その私たちの身体や自然界を構成している、万有を構成している六つの元素が、「無礙にして」これは華厳哲学の言葉ですけど、それが障りがないことを「無礙」と言います。ですからいろんなもの、地であるとか、水であるとか、いろんな要素がありますね、物質を構成している、そういうものがお互いにぶっつかっていたらいけない。ぶっつかっていたら無礙と言わない。それ妨げがない、「常に瑜伽(ゆが)なり」瑜伽(ゆが)というのは、普通は結び付くことの意味で使いますが、ここではそうではなくて挿入する。お互いにそこに通い合う。お互いに挿入する。これもやっぱり華厳の考えでありますが、この世界に存在しているあらゆるものは、互いに融通無碍に絡み合っています、と。先ずそれが世界観の基本なんですね。これは華厳の世界観でもありますけれども、密教の世界観も、この世界観がないと行(ぎょう)がなりたたない。即身成仏できない。だから即身成仏するためには、この身がそのまま仏になるためには、この「六大無礙にして常に瑜伽(ゆが)なり」ということの哲学が確立していないといけないわけですね。そうなると万法全部互いに融通している。だから一つのものを取り上げてきますと、ありとあらゆるものがそれに関連して、みんなそこから縄を付けたように、網の目のように繋がっていくわけですね。そういう、これは万物現象、宇宙その姿が六大無礙なんですね。その後の言葉は、「三蜜(さんみつ)加持すれば速疾(そくしつ)に顕(あら)わる」そうすると今度は、言葉が三蜜というと、普通はわかりませんもので、体と口と心ですね、その三つ。それを密教的な行法によって修行していくというのが「三蜜」でありますが、体はいろいろとこういう円形を結ぶわけでしょう。口では真言を称える。「真言」というのは、真実の言葉ですね。それを称える。じゃ、心はどうなるかというと、心は統一する。三昧に入る。あるいは仏さまのことを観想してもいいですね。自分の心を統一する。三昧になる。そういうものを「三蜜」というんですね。そうすると、三蜜を誰がするのかというと、これは私たちがするんです。私たちが身体を調え、口を調え、そしてまた気持―心を調えていきますと、そうなると、それはそのまま宇宙の真理と合体していく。宇宙の真理も一言で言えば三蜜なんですね。例えば私たち、いろんな形―花の形、葉っぱの形、いろいろありますね。いろんな形で世の中の森羅万象は成り立っていますでしょう。それを抽象化すれば、四角であったり、三角であったり、丸であったり、そういうのを円形でこう型(けい)を結ぶことによって表現できますでしょう。だから宇宙の姿がまず全部調った身蜜―身体の蜜と同じなんですね。それから口で真言を称えるというでしょう。だけど私たちは、例えば谷川の響きを聞いていますね。そうすると、谷川の響きが仏さまの説法ではないか、と思うことがあります。それから寄せては返す波の音があるでしょう。波の音がそのまま念仏の声ではないかな、と思うこともあるんですね。邪念があったらダメですよ。うるさい、と。あるいは松の風が吹くでしょう。なんか素晴らしいものがあるんじゃないか。うるさい、うるさいというのは、気持が汚れていると、そういうものを聞いてもうるさい。だから宇宙そのものが三蜜なんですね。そして宇宙万象というのは、大きな統一力をもっています。その統一力を三昧と言ってもいいわけですよね。だから宇宙そのものの生命力が三蜜なんです。それを今度私たちがこうしてそれを自分の身体の上で具現していく。そうしますと、自分の身体で具現したそれと、宇宙の三蜜とが一つになるでしょう、ピッタリとね。そうなったところが、速疾に成仏する、と。それがそのまま「三蜜(さんみつ)加持すれば速疾(そくしつ)に顕(あら)わる」と。私の三蜜、宇宙の三蜜、それが感応道交して、それが一つになったところが、速疾に顕わる、と。成仏できるんですよ、と。ですからそんな難しい原理で言っているんじゃないんですね。私たちの個人でやること、それがそのまま宇宙の真実の姿に合体すればいいわけですね。その行法として、三蜜というものがあるんだ、と。こう考えると、考え方としては別に難しいことじゃないと思うんですね。
 
草柳:  最初の「六大無礙」という言葉などは、密教を知る鍵になる言葉のような感じですね。
 
鎌田:  そうです。もともとは華厳哲学から取った、華厳の場合にはこれを「法界縁起(ほっかいえんぎ)」とこういうんで、それで密教の場合には「六大縁起」、同じことです。ただ華厳の場合は、それを哲学的に考えるだけ、密教の場合は、それを身体で体現しているわけですね。行法で体現していく。だから密教で一番重要なのは、行法なんですね。それによって迫っていく。それによってまた成仏していく、と。観念じゃないんですね。行法そのものを通じてそうなっていく。それが密教なんです。他の華厳宗とか天台宗とかと違うところなんですね。
 
草柳:  じゃ次をお読みしましょう。
 
法身(ほっしん)の三蜜は繊芥(せんかい)に入れどもせまからず、大虚(たいこ)に亙(わた)れども寛(ひろ)からず。瓦石草木(がせきそうもく)をえらばず、人天鬼畜(にんでんきちく)をきらわず、いずれのところにかあまねからざる。何物をかおさめざらんや。故に等持(とうじ)と名づく。
(吽字義)
 
鎌田:  これも阿吽(あうん)の呼吸の『吽字義(うんじぎ)』という本のお言葉ですが、ちょっと読んだんでは何のことだか見当がつかないんですが、しかし難しいことを言っているんでは一つもないんですね。先ず「法身の三蜜」というのは、「法身」というのは、宇宙の生命力。宇宙の生命が三蜜を備えているというのは、今までお話しましたね。だから宇宙の真実の姿というものは、どんな小さなものの中へ入っても、別にそれが小さくなるわけじゃないんだ、と。それからどんな虚空の中に、大宇宙の中に広がっても、別にそれが広くなったわけじゃないんだ、と。そして宇宙の真実の生命力というものは、草や木や石や、どんなものの中にもそれは入っているんだ、と。あるいは人間だけじゃなくて、天人でも、あるいは鬼畜でも、どんなものにでも、それは嫌わないんだ、と。そうすると、宇宙の真実の生命力、それは法身の三蜜ということでしょう。それはどんなところにも遍く広がっているんだ、と。ですからどんなものも包み込むことができるんだ、と。どんなものも包み込むということを、「故に等持(とうじ)と名づく」等持というのは、「等」は平等ですね。「持」は包み込む。一切を包含している。だから宇宙の真実の生命力、エネルギーはどんなものも包含します、と、そう言っているんですね。別に難しいことじゃないんですね。それを昔の人はこういうように表現しないと、表現力、言葉の問題もありますが、私たちは言葉に引っ掛かりまして、難しいな、これは、なんて思うけど、一つも難しくない。宇宙の生命力は充ち満ち溢れている、と。私たち自身の中にも入っていますし、こういう小さな草花の中にも全部充ち満ち溢れているんだ。そして選ばない。こっちには入ってあげるけど、こっちには入らない、ということはまったくない。それを平等というわけですね。平等というのは、宇宙の生命力だけですよ。あるいはもう少し太陽の光でもそうです。太陽の光は、こっちの人は嫌だから照らさないとか、ということはありませんでしょう。どんな人にもどんな民族にも平等に太陽の光が照らしていく。それと同じなんですね。
 
草柳:  平等ということにしても、それからすべては因縁縁起で成り立っているということについても、今までのお話を伺っておりますと、仏教の他の流れの教えと、根本的というか、一番大本のところではなんら変わるところは、勿論当然ないということがわかりますね。
 
鎌田:  一つも変わらないです。ただ密教の場合には、具体的な行法があります。これはまったく他の宗派にはないし、その時に道具を使いますね。あるいは曼荼羅(まんだら)を使いますね。こういうようなことが他にないんですね。それで私たちはすぐ曼荼羅とか、真言とか、それから道具とか、そういうものだけに目を奪われるんでしょう。密教というのはまったく別のものだ、と。本当に秘密の教えで、人にはわからないんだ、というふうに、錯覚しちゃう。しかし原理、考え方、思想そのものは、普通の仏教と一つも変わらないんですね。それを先ずしっかりと認識しないと、密教が別な仏教じゃないかというように思うようになりますね。そうじゃなくて、やはり原理的には普通の仏教と変わらない。もっと言えば、哲学は華厳哲学なんです。ですから空海は、東大寺の別当をやったり、東大寺では密教の経典を読んだり、それから東大寺でやっているいろんな行事の中には、密教のいろんな行法もなんとなく入っているんですね。ですから哲学は華厳ですけど、じゃ、華厳宗でいいじゃないかというと、華厳は哲学なんですね。頭で考える。それだけでは真理に到達できない。どんなに頭で考えてもそれは哲学。宗教の場合には、行法が必要だ。その行法を体系化したのが、密教のさまざまな潅頂であるとか、いろんな行法だろうと思うんですね。
 
草柳:  その行法の中で、真言の場合には言葉というのは、どんなになっているんですか。
 
鎌田:  言葉というのは非常に重要なんですね。例えば「阿吽」「阿」とか、そういう根本的なものですね。インドではサンスクリットは聖なる言葉でありますし、そういう梵字なんかがもっているそういう言葉に、すべてのものが包含している、と。言葉というのは単なる音声ではない。その言葉自体に、仏の種子(しゅうじ)、仏のいのちが宿っていると、こう考えるわけですね。そうすると、その言葉そのものは大切になりますし、それから真言宗ではいろんな梵字書きますでしょう。あそこに生命力が付加されてくるわけですね。これもまた他の宗派とは違うところで、だから梵字を使うということ、それからいろんな道具を使うようなこと、そういうことも全部、そういう具体的なものの中に仏の生命力を見出し、それをまた私たちは受け止めていく、ということになると思うんですね。
 
草柳:  そんなふうにして山川草木すべてに成仏ということがあり得るというふうに言われても、実際に毎日の暮らしの中で考えると、なかなかそれも難しいことだという気がしないでもないんですね。
 
鎌田:  そうですね。「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」なんていう言葉でも、真言宗でも言いますし、天台宗の理念からも出てきますが、日本人は割に「山川草木悉皆成仏」というと、何となく感覚的にわかるようですね。一種の自然観と申しますか、そういうものを何となくもっている。自然が日本の場合には優しいでしょう。人間を虐めたり、迫害をしたり、強烈な寒暖の差があるとか、そういうことないものですから、何となく自然と融和できるというんで、まあそれは密教の原理でも説明できますし、天台宗の原理でも説明が可能なんですね。ですから自ずとそういうことになっていく、と。普段はそういうことを忘れておりますけど、しかしたまには静かな森林公園でも行って、静かに鳥の声でも聞いていますと、またそういう気持になることもあるわけですよね。
 
草柳:  虚心坦懐になってこういうふうにすれば。
 
鎌田:  普段は満員電車に乗られていましてね、そしてあくせく歩いていますでしょう。そうすると、そういうようなこと一切忘れてしまいますが、たまにはそういう自然と接するようなことがあると、日本の人が昔から考えていたような、そういう考え方に浸ることもできるんじゃないかなという感じは致します。
 
草柳:  次の経典を見てみましょう。
 
法身は常に光明を放って説法したまへども衆生無量劫(むりょうごう)罪垢(ざいく)厚重(こうじゅう)なることあって見ず聞かざること、明鏡浄水の面(おもて)を照らすときは見え、垢翳(くえい)不浄なるときは見るところなきが如し。(弁顕蜜二教論) 
 
鎌田:  これも空海の言葉ですね。「法身説法」ということを言うんですね。普通は法身は説法しないんで、目にも見えない、形もない、声も出さない。しかし空海は法身も説法すると、こういうように考えたわけですね。「衆生無量劫罪垢(ざいく)厚重なることあって見ず聞かざること」ところが私たちは心が汚れておりますでしょう。いろいろな垢で汚れている。だからそれを聞くことができないんですね、虚心に。法身が喋っている、あるいは法身が光を発している、それを感得できない、と、こういうことでしょうかね。どうしてもなんかそれを素直に受け止められないと、それが私たちの気持ちが、「明鏡浄水の面を照らすときは見え」私たちの心が明鏡止水のようになれば、それが映ってくるんだ、と。あるいはまったく垢がなくて清らかになれば、それは見えてくるんだ、と。だからどんなに宇宙の法身そのものが声を出していても、あるいは光を発していても、私たちの気持ちが汚れていると聞こえませんよ、と。映りませんよ、と、こういうことなんですね。それは普通聞く耳を持たなければ、どんなことを聞いても聞こえませんしね。見るものもいろんな心に悩みがあっていれば、どんなものを見ても目に映りません。それは自分の悩みだけに心がとらわれてしまいましてね、それは日常私たちが経験することですが、特に密教の場合で、法身の声を聞くという時には、明鏡止水の心境にならなければならない、と。そういうことにするには、密教の行法をやらなければいけない、と、こういうことになりますね。それではもう一つありますのでお読み頂きましょう。
 
草柳:  近くして見がたきは我が心なり。細にして空に遍ずるは我が仏なり。わが仏は思議しがたし。わが心は広くしてまた大なり。
(十住心論)
 
鎌田:  これも「十住心論」の言葉でありますが、「近くして見がたきは我が心なり」これは本当ですね。自分の心というのは、一番自分に近いんだけれども、その本性、本当の姿というのは見えませんね。それから「細にして空に遍ずるは我が仏なり」仏さまはどうかというと、どんなところにも遍満している。空は虚空(こくう)でもいいですね。虚空に遍満しているのが仏さま。仏さまは普遍、遍満。自分の心というのは近くなんだけどよくわからない。そして仏さまというのは、私たちのはからいを越えたところにある。ですから密教が真実の教えだ、と言いますけれども、私たちの普通の考え方、普通の思考の考え方、そういうものでは捉えられないんですね。真実の姿というのを、私たちは知らない。で、目に見えたもの、頭の中で概念で構成したもの、それだけを真実と思うんですが、実はそうじゃないんだ、と。我が仏、宇宙の生命力というものは、思議することができない。私たちのはからいを超えているんだ、と。で、振り返って自分の心を見ると、「わが心は広くしてまた大なり」私たちの心というのは、小さい小さいそう思っているけれども、そうじゃない、と。自分の心もそれは広がっていけば、宇宙大に広がっているんだ、と。どんなものでも包含するような心になり得るんだ、と。これも素晴らしい考えですね。自分の心は小さいですよ。よくわかりませんよ、で終わりになっちゃう。そうじゃない。これを密教の行法をすることによって、心をどこまでも広く、宇宙の心と一体となる。だから自分の心と宇宙の心が一つになっていくわけですね。そうすると自分の心がどこまでも広がっていく、と、そういうことになってくるお言葉ですね。このままいい言葉だと思います。この私たちの心の本念と申しますか、そういうものは宇宙の心に繋がっているわけですよね。普段は私たちの心は妄想ばっかりで、碌(ろく)でもないことを考えてしかおりませんけれども、その本念は素晴らしいところへ繋がっているんだ、と。広大だ、と。それは悠遠だ、と。そういうふうに空海は考えたんだろうと思いますね。そういう考えが合っているかどうかわかりませんけれども、私たちの現在生きている我々の心というのは、ほんとに目の前のことだけで、心が反応していますね。それを仏教では「分別心」というんですがね。すぐそこにとらわれて。ところがそういう心とは別に、心の本念というものは、宇宙の本当のその中に通じているんだ、ということになると思いますね。ですから密教が難しいというのは、それは行法とか、いろんな儀式とか、そういうものをマスターするのは大変ですよね。一生お師匠さんに付いて学ばなければなかなかできませんね。原理は自分を宇宙と一体化するんだ、と。自己と宇宙との一体化にあるんだ、と。そう考えていきますと、別に普通の仏教とも変わらないことになりますね。例えば、お念仏を称えるのも、自分が念仏を称えるのではない、と。仏さまが称えさしてくれるんだ、と。自分が仏さまにお願いしてするんじゃなくて、仏さまが称えさしてくれるんだ、と。坐禅もそうですね。道元禅師がおっしゃるように、「佛のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ佛となる」仏の方から行われて、ピシッとしっかり背骨を天地を貫くように坐って、そしてピシッと気持を瞑想に入っていくと、その姿そのものが仏さまの姿になっていくんだ、と。それは自分でやるんじゃない、と。仏さまの方からやってくれるんだ、ということで、密教で言えば、それは仏の大悲ですね。仏の大悲にこちらが心水―心の水が感応すればいい、と。一番最初に出てきましたね。ですから同じことなんですね。
 
草柳:  称える言葉は違っても、あるいは方法論は違っても、やっぱり目指すところというのは、何ら変わるところはない、ということなんですね。
 
鎌田:  「即身成仏」という言葉を、救われる、あるいは安心(あんじん)を決定(けつじょう)するというような言葉に置き換えれば、それはもう浄土教であろうとも、禅宗であろうと、みんな共通したものをもっているんですね。ただ密教の難しさというものは、その方法論に、いろんな修法、行法、それが入る。それは普通の人は覗き見ることはできないわけです。ちゃんと密教のお弟子になって修行しなければなかなかわからない。それが難しいと言えば難しい。
 
草柳:  しかしあれだけ空海が、密教の教えを広める。民衆の中にどんどん入っていって、民衆がそれを受け止めた、受け入れた、ということはやはり密教の教えの中に、今自分たちが何を望んでいるのか。何を自分たちは心の拠り所として求めたいのか、ということが実にはっきり出ているのではないかという気が致しますね。
 
鎌田:  そうですね。ですから民衆にも現世利益として受け入れられた、あるいは貴族はまた非常に儀式が荘厳でしょう。非常に尊いですよね。それでまた一種の魅せられますね。ですから貴族もまた密教に興味を持ち、民衆は呪文を称えて身体の病気を治すというような現世利益で入りいいというんで、貴族にも民衆にも受け入れられる。
 
草柳:  その側面もとっても大事なことですよね、宗教というのは。
 
鎌田:  そういうことだと思います。
 
草柳:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成十二年二月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである