いのちの探求 大乗仏典に学ぶK修道の教訓
 
                   東京大学名誉教授 鎌 田(かまた)  茂 雄(しげお)
                   き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「大乗仏典に学ぶ」、去年の四月から毎月一回、シリーズとして放送してまいりましたが、今回が十二回目、最終回となりました。今回は一年間の纏めということで、「修道の教訓」と題しました。文字通り道を修めるための教えということなんですが、つまりは我々がよりよく生きるための心構えというふうに言ってもいいのかもわかりません。そのことが大乗仏教の経典の中では、どのように説かれているのかといったことを中心に、いつものように東京大学名誉教授の鎌田茂雄さんにお願いしてお話を進めてまいりたいと思います。よろしくお願い致します。
 
鎌田:  よろしくお願いします。
 
草柳:  いよいよ最終回になりましたが、アッという間ですか。
 
鎌田:  そうですね。一年というのは夢みたいなものですから、始めたと思ったら終わりで、どの大乗仏教でも同じようなことが書いてあるんですけれども、この修行するのはどういう心掛けが大切か、と。修行の心得ですね、そういうようなものを説いたお経がありますので、それを中心にして、仏教をどういうふうに理解して、どういうふうにそれを実践していけばいいのか、というようなことを考えていきたいということですね。
 
草柳:  いわば実践原理ということになりますでしょうか。
 
鎌田:  そうですね。実践はなかなかできませんけどね。やっぱり仏教の実践というのは、最低限こういうことは大切なんだ、と。そういうようなことを説いているわけです。
 
草柳:  で、そこで今日のお話の中心になる仏典は、どういうものなんでしょうか。
 
鎌田:  『遺教経(ゆいきょうぎょう)』というお経と『四十二章経(しじゅうにしょうきょう)』というお経で、『遺教経』というお経はお釈迦様がお亡くなりになる前に、最後に遺言のようにお話になったお経なんですね。『四十二章経』というのは、中国で創られたお経ですけれども、いろんなお経の中から四十二章取り出してきまして、それがまた仏教を実践するのに役立つようなことが書いてあるんですね。それを集めて一つのお経にしたのが『四十二章経』。昔からこれにもう一つ、『?山警策(いさんきょうさく)』という名前の本ですが、短い本ですが、それを加えて「仏祖三経(ぶっそさんぎょう)」と言いまして、禅宗ではよく昔から音読している。その中では重要なのがこの二つですから、それを取り上げてやっていきましょう。まず一番初めに『遺教経』を取り上げてみましょう。
 
草柳:  世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり。憂悩(うのう)を懐(いだ)くこと勿(なか)れ、世相是(かく)の如し。当(まさ)に勤(つと)めて精進して早く解脱を求め、智慧の明(みょう)を以て、諸々の痴闇(ちあん)を滅すべし。世は実に危脆(ちぜい)なり、牢強(ろうごう)なる者(は)なし
(遺教経)
 
鎌田:  字の通りですね。世の中というのは無常である、と。そして会うものは必ず離れなければなりません、と。これは本当のことですね。どんなに最後まで会っていたいと思っても、片方が亡くなれば、それで会いなくなりますし、それから「憂脳を懐く勿れ」だからといって、一々苦しみ悩んではいけないんだ、と。「世は皆無常なり」ということをはっきり知っていれば、そうすればそういうことに対しても、心が苦しまなくなるんだ、と。「世相是の如し」世の中の姿も同じですね。去年と今年ではどんどん変わっていきますし、また来年では変わっていきますし、現在の十年は昔の一年ぐらいで変わっていきますでしょう。だからこのお経が言っている通りなんですね。そして「当に勤めて精進」精進というのは努力することなんですね。努力して早く解脱を求め、早く悟りを求め、「解脱」というのは、悟りのことですが、悟りを求めて智慧の光で以てもろもろの暗闇をなくせ、と。それから智慧の灯、智慧の明かりということが非常に重要になるわけですね。それをもって暗闇を照らすんだ、と。そして振り返って世の中をみると、「実に危脆(ちぜい)なり、牢強(ろうごう)なる者(は)なし」これも実感が伴いますね。それはお経ができた大昔も、今も世の中というのはほんとに脆いんですね。強い強いと思っていても、あの人は強い強いなんて思っていても、アッという間に消えてしまって、すぐ亡くなってお知らせを受けるというようなこと、しょっちゅうですよね。ですから世の中のものは危脆。強いもの、永久に強いもの、どこまでも続くものというようなものはまったくないんだ、と。これが仏教の根本の教えを説いているわけですね。
 
草柳:  「世はみな無常なり」無常と見る、無常と知る、ということがもっとも大切なことなんだという。
 
鎌田:  そうなんですね。自分自身を含んで、世の中の一切のものも含んで、それから世間も世界も全部含めて、世の中というものは永劫に続くものはないということ、即ち無常ですね。これをしっかりと見ること、見定めること、これが仏教的な考え方に入る一つの大きな特徴だと、こういうことになるわけですね。
 
草柳:  いわば心構えの最大の眼目がここにあるということなんでしょうけれども、何故無常と知ることが大事なんですか。
 
鎌田:  それは永久に続くと考えますと、何でもそれを当てになりますし、愛情であっても永久に続くと思うし、自分の肉体であっても、病気もしないで永久に続くと思いますね。そういうことがいけないわけですね。そうじゃないんだ、と。実際は脆いんだというのを認識しますと、そうするとあの親しい人が死んだ時でも、これは悲しいことは悲しいです。肉親にとってはどんなに悲しんでも、その悲しみを救うことはできませんね。しかし世の中が無常だということをよく認識していますと、たとい自分のお子さんが亡くなっても、そこに一つの諦めと言いますか、そういうものだ、という気持が落ち着いてきますね。ですから無常を知るということが非常に重要なんですね。
 
草柳:  その無常の中でも、やはり最たるものというのは、やはり人の生き死にですね。
 
鎌田:  そうですね。やはり仏教は主に人間の生死(しょうじ)の方に重点を移していますが、しかし世間のもの、世界の一切のもの、そういうものも無常であると言っているわけですね。それじゃ他のお経を見てみましょう。
 
草柳:  これは『四十二章経』からですね、
 
仏、諸(もろもろ)の沙門に問いたまわく、「人のいのちは幾(いくば)くの間に在りや」と。対(こた)えて曰(いわ)く、「数日の間にあり」と。仏言(のたま)わく、「子(なんじ)(いま)だよく道を為(な)さず」と。・・・また一沙門に問いたまう。「人の命は幾(いくば)くの間に在りや」と。対(こた)えて曰く、「呼吸の間にあり」と。仏言わく、「善いかな、汝は道を為せる者と謂う可し」と。
(四十二章経第三十七章)
 
鎌田:  これは有名な言葉で、仏さまがいろんな修行者に聞いたわけです。「人のいのちというのは、どのくらいの間にあるものか」と言いましたら、まあ「数日の間」と短めに言ったんでしょうね。「数十年」と言ったっていいんですが、まあ「数日の間だ」と言ったんでしょう。そうしたら仏さまが、「お前さんはまだ本当の道ということがわかっていません」と。そうしまして、また一人の修行者に聞いたわけです。「人のいのちというのは、どのくらいの間のものだ」と。そうしましたら、「呼吸の間にあり」と、そう言ったんですね。そうしましたら、「お前さんはよく道というものがわかっている」と、こういうのが問題で、数日の間でも、食事の間でもいいんですよ。しかし人間のいのちというのは、よく考えたら、一瞬一瞬の間なんですね。私はよく知りませんけど、生まれた時、「おぎゃっ」という時には息を吸い取るんじゃないですかね、吐くというよりも。そしてお亡くなりになる時には、また最後にご臨終ですよ、と言われる時には、息を一息、グッと飲み込むんではないんですかね。よく知りません。これはお医者さんに聞かないと、合っているか合っていないかわかりませんが、しかし本当に息を一息吸い込む、吐く、その一瞬の間がいのちなんですね。普段は心臓の悪い方とか、呼吸の肺の悪い方とかは、いろいろお考えになっていらっしゃるでしょうけど、健康体の人なんというのは、呼吸ということを考えていないでしょう。呼吸なんていうのは、自然に吸って自然に吐いているんだ、と考えるでしょうけど、そうじゃないんですね。呼吸というものもこれも大きないのちから与えられているものですから、それで自然に吸ったり自然に吐いたりすることができるわけなんですね。特に普通意識していませんが、呼吸法というようなものを意識するようになりますと、それがよくわかってきまして、呼吸というのは、まず吐くことが大切なんだ、と。吐けば必ず吸えるようになりますでしょう。だから呼吸の第一歩は、吐くことなんですね。吐いて吐いて吐き抜けば、必ず入ってくるんですね。この呼吸というものは、インドの医学でも中国の道教の医学でも、あるいはそういうものの影響を受けた仏典でも、非常によく研究していまして、呼吸というものは大事だというんで、それぞれ修練をするわけです。特に武道をやる人とか、それから芸道をやる人は、この呼吸ができないと技ができないわけですね。技を掛ける時、打つ時は、これは息を吐いていきますね。息を止めたらダメなんですね。息を吐き続けていかないと、技はうまくできないんですね。
 
草柳:  今、「人のいのちは呼吸の間にある」というふうに答えて、「お前はよくわかっている」と言ったことは、つまりどういうことを?
 
鎌田:  それは、「人命は一瞬一瞬」ということですね。「人命は呼吸の間だ」ということは、人命は一瞬。長いものじゃないですよ。今日生きているからと言って、明日も続くものではないですよ。一瞬一瞬が人命。一瞬一瞬の呼吸によって、私たちは新しいいのちを与えられているわけですよ。細胞を新しくして頂いているわけですから、ですから「人命はどのくらいの間か」とこう言われた時に、それは「一呼吸の間だ」ということは、これはまさに「一瞬だ」とこういうことになりますね。
 
草柳:  しかも常にそこに留まっているものではない。
 
鎌田:  次々次へ変わっていく一瞬ですね。それが最後に、一瞬を大事にして生きなくちゃいけない、という考えにも通じていくわけですね。だから呼吸法というのは非常に重要なんですね。現在では、呼吸法というのはあまり重要視しませんがね。これは江戸の中頃から、武道者でも、芸道者でも、呼吸ということは生命の中核ですから非常に研究しているわけですね。それじゃ次を見てみましょうか。
 
草柳:  これは劉廷芝(りゅうていし)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わる)ですね、
 
洛陽(らくよう)城東(じょうとう) 桃李(とうり)の花(洛陽城東桃李花)
飛び來たり飛び去り 誰(た)が家にか落ちん (飛來飛去落誰家)
・・・・・
今年花落ちて顔色改まり(今年花落顔色改)
明年花開いて復た誰か在らん(明年花開復誰在)
・・・・・
年年歳歳 花は相似たり(年年歳歳花相似)
歳歳年年 人は同じからず(歳歳年年人不同)
言を寄す 全盛の紅顔子(寄言全盛紅顏子)
(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁 (應憐半死白頭翁)
(劉廷芝の詩「代悲白頭翁」)
 
鎌田:  それは劉廷芝のものとして『唐詩選』にも載っていますけどね。いろんな問題があって、特に「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」これが名句なんですね。この二つの句をある人が、「ください」と言って、それを断ったりして殺されたというような説もありますけれども、それほど「年々歳々花は相似たり、歳々年々人同じからず」いい言葉ですよね。まさにこの通りで、今までは仏教のお経からいろんな話をもってきたんですが、今度は、劉廷芝は唐の初めの頃の人でありますが、劉廷芝が唐の漢詩の中でこういうことを言っているんだということですね。一番初めは、洛陽城(らくようじょう)(現河南省洛陽市)ですね。そこの東側に桃やスモモの花が咲き乱れて、その花が飛び来たり、飛び散っているんですね。それが誰の家に落ちるかわからない。「今年花落ちて顔色改まり、明年花開いて復た誰か在らん」花と人と対しているわけですね。今日は花落ちて、花はまた来年咲く花は、色も形も変わってきますね。今年の花は今年の花だけ。だから花も今年の花と来年の花とは変わりますね。人間見てください。来年花が開いた時に、その時誰がその花を見ているのか。洛陽というのは、桃や花も有名ですが、いろんな大きな立派な花がたくさんありまして、花の都なんですね。ですからその花をみんな見に集まるわけです。いろいろの花のシーズンになると、みんなが集まる。だからやっぱりこういうことが詩の中へ詠われてくるんでしょうね。ボタンの花が五月の初めに咲くんです。現在も洛陽城の洛陽公園にそのボタンの花がありまして、そこへ見に行きますと、若い中国のお嬢さんや旦那さんがカメラに収まって、ボタンの花と一緒に撮っていますね。でもそのボタンは来年咲くかどうかわからない。それでも今年のボタンとはまた違うんだ、と。また人間は変わっていく。その二人は来年は離婚しているかも知れませんし、片っ方がどうにかなっているかも知れません。で、ありますので、年々歳々と、先ほどの文句ですね。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」花はしかしまだ似ていますよね。桃でもボタンでもね、毎年似ています。しかし人間見てください。人間はどんどん歳をとってきます。変わってきます。ですからその次の二句も年寄りの人と若い人を対比して言っているわけですから、全盛時代の若い人はいろんなことを勝手に言ったりして、わが世の春として全盛時代を謳歌しているわけですね。それに対して、半死白髪の人になってしまえば、それはなんとも憐れむべしだ、と。しかし必ず全盛時代の若い人も必ず白髪の人になっていくわけですよね。そういうことを中国人なりに、割に現実的に、仏教のように無常とか、無常なるものは苦であるとか、あまりそういうことを言わないんですね。花と人間をこう対比しながら、でもこの唐の詩を見ますと、ほんとにそうだなと思いますよね。まさに人間も花と対すれば、その通りだとわかるわけですね。だから中国人がこういう詩を創ってくださいますと、具体的で現実的で私たちでもよくわかりますね。
 
草柳:  人の一生にしても、若い時、全盛の時が当然あって、勿論それからだんだん老いていくわけですけれども、その全盛の時を惜しむ、懐かしむ気持と、それからでもやっぱり人間というのはだんだん老いていくものだよという、その心情と言いますか、心境と言いますか、そういったものは実によくわかりますね。
 
鎌田:  そうです。だからいろんなところに引かれるんですね、この通りだと思ってね。それで感慨に耽るんですが、それでまだ自分は若くて全盛時代なんて思っても、アッという間ですからね、三十年や五十年は。またアッという間に気が付いたら、自分はもう白髪の翁になっているわけでしょう。ですからこれはやはり仏教というものを直接表した詩ではありませんけれども、自然と人間とを比べながら、そういう移り変わりの激しさ、大きさ、そういうものを描いているんだろう、というふうに思われますね。
 
草柳:  人間の生死も、山川草木、虫や獣に至るまで、すべてがこの世の中のありとあらゆるものが無常である。つまり常ならずということを知る。そのことによって、じゃ、一体どういうふうにしたらいいのか、ということになるわけですね。
 
鎌田:  次を見てみましょうか。
 
草柳:  生死の大事を了畢(りょうひつ)せんとおもはば、まず無上菩提心をおこすべし、菩提心とは観無常の心是れ也。
(大智「仮名法語」)
 
鎌田:  短い言葉ではありますが、大智(だいち)禅師(鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧:1290-1367)というのは、大変に偉いお師匠さまで、大智禅師の創った『十二時法語』なんかを、今でも読んだりしておりますが、文章も非常に簡単でありまして、「生死の大事を了畢せんとおもはば」生死の一大事、それをわかろうとすれば、「無上菩提心をおこすべし」最高の悟りを求める気持―向上心ですね―悟りを求める向上心を起こしなさい、と。それで菩提心というのは、「観無常の心是れ也」一番重要なのは、無常を観ずる心だ、と。無常ということをよく見つめなさい、と。それから菩提心というものが起きてくるんですよ、という意味ですね。ですから今まで言っていることと同じようなことを、簡潔に禅僧らしく言っているんだな、という感じがしますね。だから観無常ということ、観無常心ということ、これが出発点だ、と。それがないと道を求めるという気も起こりませんよ、ということですね。現代の世の中では、観無常心と言ったってわかりませんしね。そんなに無常で刹那なら、刹那の快楽を求めるのがいいんだ、というような考え方も当然起こってまいりますし、一種の刹那主義と言いますか、刹那的な快楽主義と言いますか、それがもう人生それでいいんだ、というような間違った考えが起こりますが、それは無常を観ずる心というものの取り違えになっている。仏教では無常を観ずれば、どこまでも自分の身を修めて、そして立派な人間になっていこう、と。人としての人生は如何に生きるべきか。人生ってそう簡単なものではないんだ、と。せっかく生を受けた人生を、どう生きたらいいのか。ところがインドにもあったんですが、刹那的な享楽主義になりますと、無常だからもう快楽を尽くそう、ということになって、刹那的な快楽を追い求めるようになるんですね。しかしそれは間違いである、と、仏教の方では説くんですね。快楽というのはどんなに追い求めてもきりがない。そして快楽というものは、その極致においてなんと虚しいものだ、ということがわかるんだ、というふうに、仏教では教えているわけですよね。
 
草柳:  ただ刹那的な享楽にしても、あるいはさまざまな欲望にしても、煩悩にしても、人の、これは常として、いつそれがそれぞれ自分の心の中に入り込んでくるかわからない。というよりも、むしろしょっちゅうそれに苛(さいな)まれているのが、またこれも人間の常でないか、という気がするんですね。
 
鎌田:  それは昔も今もまったく同じですね。だから昔もそういう人がいた。今もいる。そういう中でまた正しい人生とは何なのか、と。どう生きなければならないのか、と考える人もいる、と。それでいいと思うんですけどね。その次を見てみましょう。
 
草柳:  仏言(のたま)わく、財・色の人に於けるや、譬(たと)えば小児の刀を貧(むさぼ)りて刃(やいば)の蜜を甜(な)めんに、一食の美(あま)さに足らずして、然(しか)も舌を截(き)るの患(うれい)有るが如し。
(四十二章経第二十章)
 
鎌田:  これも譬え話でも大変いい譬え話ですよね。仏さまがおっしゃるように、「財・色」というのは、「財」は財力ですね。財産ですね。「色」は色欲ですね。色の欲望。色に対する欲望ですね。男が女の人を追い求め、女の人が男の人を求めるような、そういう欲望ですね。そういうものは限りがないということなんですよね。ちょうど子どもが刃に蜜を塗って、それを舐めるとあまりに美味しいでしょう。あまりにも美味しいから一生懸命舐めるわけですね。そして舐めすぎると舌を切ってしまうわけですね。これもよく書けていますよね。「一食の美(あま)さに足らずして」それに引きずられて、ついには自分の舌を切るに至るんだ、と。ということは、財を貪ることも、それから性欲を貪ることも、それは限りがなくてはいけないんで、無限に追い求めていったらどうなるかというと、自分で蜜を舐めすぎて、口を切るようになるんですよ、と。諫めでしょうね。
 
草柳:  人間の欲望には限りがない、ということへの誡めなんでしょうけれども。
 
鎌田:  大変上手に戒めとして。途中で止められないですね。甘いものを、美味しいものを、そういうものは途中で止められない。最後まで追求していくわけですね。
 
草柳:  自分自身のことを考えればよくわかるんですけれども、人間というのは如何に弱いもので、しかもだらしないものか、ということなんでしょうね。
 
鎌田:  そうですね。それはタバコを吸っている人に「タバコを吸うのを止めなさい」と言っても、お酒を飲む人に「あまり呑まないようにしなさい」と言っても、なかなか「はい、止めます」と、なかなか止められないでしょう。それと同じなんですね。欲望というものは恐ろしいもので、自分じゃ止めようと思うんだけど、自分以外のものがなんとなくそうさせているのかも知りませんね。あるいは比喩的にいうと、自分の肩の上になんか小さな鬼が乗っていましてね、それでタバコを止めよう、止めようと思っても、その小さな鬼がタバコ好きで、パッとその人からその人に吸わして、実際は鬼がみんな吸っている。あるいはお酒も同じで、実際にはその人が飲むんだけど、実はその人が飲んでいるのではなくて、背中へ止まっている鬼が全部飲んでいるんですね。鬼が飲ましているんですね。だからその人が悪いんじゃなくて、鬼が悪いんで、背中へ止まっている鬼がいけないんだ、と、こういうことにもなりますよね、考え方によっては。だからそれほど欲望を制御するということは難しいことだなあ、ということがよくわかりますね。
 
草柳:  色欲については、こんなことを言っています。
 
色欲(しきよく)は火のごとく熾(さかん)なれども、一念(いちねん)、病時(びょうじ)に及ばば、便ち興(きょう)は寒灰(かんかい)に似たり。名利は飴(あめ)のごとく甘けれども、一想(いっそう)、死地に到らば、便ち味は嚼蝋(しゃくろう)の如し。故に、人、常に死を憂(うれ)え病を慮(おもんばか)らば亦幻業(げんぎょう)を消して道心を長ずべし。
(菜根譚)
 
この『菜根譚』というのは?
 
鎌田:  これは中国の明(みん)の洪自誠(こうじせい)という人なんですが、その人が書いたものなんですね。初めその人は科挙の試験を通りまして、高級役人になったんですが、高級役人が嫌になったんですね。高級役人に嫌にならない人もいるでしょうけれども、高級役人をある程度やると嫌になって、田舎へ隠棲したりしてしまう人がいるんですね。
 
草柳:  洪自誠もそうだったわけですね。
 
鎌田:  そうなんです。そして仏教や道教や儒教の勉強を始めまして、そしていろんな人生の書を書いてみよう、と。それで人生の書を書いたのがこの『菜根譚』なんですね。「菜根譚」という意味は、人生の中で菜っ葉の根を食べたことのある人の話は、人生の真実を穿っている。ところが菜っ葉の根を食べたことのない人は、人生をわからない、と。「菜っ葉の根」と言っても、大根のようなものではなくて、小さな小松菜とかあるでしょう。根は普通切って捨ててしまうでしょう。その根を集めて食べる。今で言えば、お店へ行って食パンの縁の耳のところだけを頂いて来て、そこだけを食べて飢えをおさえている。そういう人は、人生の貧とか、苦しみとか、食べることの大切さ、そういうことがよくわかっている。だからそういう人でないと人生を語るに足らない。
 
草柳:  洪自誠という人は、まさしく人生の達人なんでしょうけれども、今のこれはどういうふうなことを言っているんですか。
 
鎌田:  洪自誠は、役人の時はそうじゃなかったけど、役人を辞めて、しばらくこういう思いをしたんでしょうね。村人にそういう菜っ葉を貰って、それでなんとか生きていた。そういう隠棲生活です。そういう隠者のような―自分で働かないですから―隠者のような生活をした時に書いた人生の書です。『菜根譚』というのはいろんな分野の方がよく読むものですね。
 
草柳:  「色欲(しきよく)は火のごとく熾(さかん)なれども、一念、病時に及ばば」この「病時に及ばば」というのは?
 
鎌田:  病気のことを考えなさい、と。だから色欲というのは、非常に強いですよね。それで無我夢中になりますでしょう。しかしその時に、自分がそれで脳梗塞を起こしたり、脳溢血を起こしたり、心筋梗塞を起こしたり、そういうことを考えれば、「興(きょう)は寒灰(かんかい)に似たり」その「興」というのは、快楽ですね。興味とか快楽は、冷たい灰と同じになっちゃう。要するに、「興ざめ」という。途端に興ざめになっちゃう。それから今度は、「名利」というのは、名声でありますけれども、飴のように甘い。けれども、死ぬことを考えてご覧なさい、と。そうすれば、それは蝋を噛むような漠々としたものになってしまう。何の味もない、と。名利というのは、生きている時には飴のようにいいんですね。現在の日本でも名利というと、勲章だとかそういうのがいろいろありますけども、そういうようなものは飴のように甘いけど、死んだ時―墓に書く人もいらっしゃいますけどね―墓にそれを書いても、後で読んだ人が、「ああ、そうか」というだけで、どうっていうことで、それはまったく意味がない、と。だから人間というものは、まず考えることは死ぬこと。次に考えることは、病気になるということ。だから死ぬことと、病気になったこと、これを考えていますと、それは色欲も名利もどっかへ飛んでいってしまいますよ、ということですね。確かに本当ですね。どっちも非常に強いものですけど、一遍死を考えて、それから病のことを考えると、色欲どころじゃなくなりますので、そのまま人間、廃人になったりすることになってしまいますでしょう。そうなると、色欲どころじゃないんですね。そういうことを『菜根譚』は言っている。『菜根譚』は仏教の本ではありませんけれども、中国人が考える人生の書であると、こういうふうにご理解頂ければいいと思うんですね。
 
草柳:  最後に「幻業(げんぎょう)を消して道心を長ずべし」という言葉がありましたでしょう。「幻業(げんぎょう)を消して道心を長ずべし」ここはどういうふうに見ればいいんですか。
 
鎌田:  「幻業」というのは、幻。色欲も幻。それから名誉も名利も幻でしょう。幻をみんな追い求めているわけですよ。そして本当の姿、実体というものがよくわかってくるんですよ、と、そういうことなんですね。そして道心―道を求めるというか、まともに生きるにはどうしたらいいか、ということを考えるようになるんだ、と。そういうふうに理解して頂ければいいと思うんですね。だから死と病のことを考えると、変な雑念は消えますよ、ということなんですね。
 
草柳:  死を思い、病を思い、そして常に無常である。観無常心ということが揃ってくれば、同時に道心―道を求める心が湧いてくる、起こってくる、という道筋でなければいけないのだということなのでしょうか。
 
鎌田:  そうですね。やっぱり道心、例えばまったく病気に罹らない人と、なんか病気に罹ったことのある人は違いますよね。病気に罹った人に対する思いやりというか、なんとなくね。全然病気に罹らない人というのは、それは幸せなんですが、幸せなんだけど、ある意味では不幸なんですね。そうすると、病の苦しみとか、人間は病の時に何を考えるのかと、そういうことをまったく意識しませんので、自分は強いんだというんで、強い強いで押していけるわけでしょう。それもまた人間半端になってしまうんですね。だから病ということ、死ということ、これは時々人間は考えた方がいいというのが、またこの『菜根譚』の教えですね。
 
草柳:  そして自分は痛みがなければ、人の痛みというのは、なかなかわからないものなんでしょうから。
 
鎌田:  絶対にわからないものですからね。
 
草柳:  その欲望、煩悩、そういったものを、じゃ、なくそうと言ったって、なくせるものではないわけですね。じゃ、それをどういうふうにすることが大切なのだ、というふうに言っているわけですか。
 
鎌田:  やっぱり節度ですね。節度が大切。全部それをなくしてしまえ、というんじゃないんですね。大乗仏教では、節度を保って、正しい目的のためにエネルギーは注いで、悪い目的のためにエネルギーを注いではいけない、と。節度が非常に重要になりますね。
 
草柳:  コントロールですか。
 
鎌田:  そうです。それを次に見てみましょう。
 
草柳:  汝等(なんじら)比丘(びく)、当(まさ)に知るべし。多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦(また)多し。少欲の人は無求(むぐ)無欲(むよく)なれば則(すなわ)ち此の患(うれ)い無し・・・少欲を行ずる者は、心則ち担然(たんねん)として憂畏(うい)する所なし。事に触れて余りあり、常に足らざること無し。
(遺教経)
 
これは先ほどの『遺教経』の中にあるものですね。
 
鎌田:  そうですね。『遺教経』の中の有名な言葉でありますが、「お前たち、修行者よ、次のことを知りなさい」と。欲望の強い人は、利益、名利―利益を追求することも強いんですね。利益を追求することが強いということも、苦しみもまたそれだけ多くなってしまうわけですね。それに反対に、「少欲の人は無求(むぐ)無欲(むよく)なれば則(すなわ)ち此の患(うれ)い無し」あんまり欲望を貪らない人は、無求(むぐ)無欲求めず、欲望も少ない、というのであるから、こういう心配もない、と。「少欲を行ずる者は、心則ち担然(たんねん)として憂畏(うい)する所なし」少欲、あまり欲望を貪らない人というのは、心はいつも平静、平坦、平らかであって、別にそこで憂えることもない、と。「事に触れて余りあり」どんなことに対しても、余裕が出てまいります。「常に足らざること無し」余裕が生まれてくるということは、足らないということがないんだ、ということですね。ここでは、多欲の人と少欲の人を対比して説明しているんですね。多欲の人は苦しみますよ、と。少欲の人の方が楽ですよ、と。それは人生でも本当ですね。あんまり欲望を多くしますと、それだけ苦しんでいかなくちゃならない。ただこういうことが言えるのは、さっきの『菜根譚』と同じで、ある程度人生を経てこないと、まだ人生の三十ぐらいでは、これからやるんだという人が少欲でも困るんだけど、これからやるんだという人は多欲で、何でもやってみよう、と。それが五十越してきますと、あるいは六十越してきますと、多欲というのはあまり意味がないんだ、と。少欲の方が心が穏やかに生きていけるんだ、と。これがまた定年後にもなると、余計それは切実に感じるわけですよね。だんだん静まりかえっている段階になりますよね。初めのうちはどんな欲望をもって、大いにやっていいんですよ、若い時はね。しかしそれは達成されません。達成されないと限界を感じますね。そうすると、じゃどういうふうに制御して、どういうふうに展開していったらいいのか、と、こういう気持になりますよ。
 
草柳:  じゃ、それを次の言葉で見てみたいと思います。
 
汝等比丘、若し諸(もろもろ)の苦悩を脱せんと欲せば当(まさ)に知足を観ずべし。・・・不知足の者は富めりと雖(いえど)も而も貧(まず)し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽(ひ)かれて知足の者の為に憐憫(れんみん)せらる。是(これ)を知足と名(なづ)く。
(遺教経)
 
鎌田:  これも名文ですね。私は、これを見ていまして、「知足の人は貧しと雖も而も富めり」これはいい言葉だと思いますね。要するに、満ち足りている人というのは、外面は貧しいんだけれども、しかし富んでいるんだ、と。この言葉の中で、これだけがよくわかればそれでいい、と思うんですね。足ることを知る。そういう人は貧しいと雖も富めるんだ、と。それから逆に、不知足の人は、これはどうしようもないですね。足りない、足りないという人は、どこまでも追い求めていっても足りない、と。これでいい、これで十分だ、と思うと全然違ってくるわけですよね。昔の禅林で昼食を頂くことがありますでしょう。その時にお経を称えて、お粥と沢庵のようなものを頂くわけですが、若い人には足りないと思いますが、十分だ、と。これをもって自分の身体を養っていくんだというと、それは有り難いですよね。そしてそれで足ることを知っているわけですよね。足ることを知っているということは、生活のすべてにわたると思うんですね。過度じゃなくて、「知足の哲学」。これからの時代はやっぱり「知足の哲学」に入っているんじゃないでしょうか。過度に自然を破壊して、人間の欲望を満たすために、得たい、得たい、それは取りたい。そして消費するんだ、ということでは、これはもう環境が保てませんので、いずれは破壊されてしまいますね。そうじゃなくて、ある程度人間の欲望も、足りることを知りながら、その中で生きていかないと、どうしようもなくなる時代がくると思いますね。そして私たちは幸いにお金さえあれば、どんな美味しいものでも食べられるでしょう。ところが南アフリカの人とか、東南アジアの人とか、食べられない人もたくさんいるわけですから、そういう人たちは、食べたいと思っても食べられないでしょう。一方では食べてはどんどん捨てているでしょう。これはやっぱり人間全体として考えると、大きな矛盾を含んでいるわけですよね。ですからやっぱりなんか「知足の哲学」というのをこれから考えていかないと、経済学にしても知足の経済学ですね、どんどんいろんなものを作ってどんどん売ればいいと、そういう時代はとっくに終わったわけですから、ある程度みんなが満足できる範囲で作ればいいんですね。それ以上は作る必要ないし、そしてまた会社もある程度の利益をそれによって得ていけばいいんだ、というように物事を考え直していかないと、これ突き進んで欲望ばっかりぶっつけあっていったら、やっていけないんではないかな、と思いますね。
 
草柳:  ですから日本の現状に引き比べて考えてみても、バブルを経験し、バブルの崩壊を経験して、つまりこの「少欲知足」という言葉は、実に今日的な課題だ、と言った方がよくわかりますね。
 
鎌田:  次に道元禅師のお言葉を最後に出して終わりに致しましょう。
 
草柳:  これは『正法眼蔵随聞記』からですが、
 
無常迅速生死事大(むじょうじんそくしょうじじだい)と云うなり。返々(かえすがえす)も此の道理を心にわすれずして、只(ただ)今日今時(こんにちこんじ)ばかりと思うて時光(じこう)をうしなわず、学道に心をいるべきなり。
(正法眼蔵随聞記巻二)
 
鎌田:  これも今まで『遺教経』とか、いろんな言葉に出てきたのを上手く纏めていますね。無常迅速である、と。だからこのことをしっかりと忘れずに、重要なのはその後なんですね。「只今日今時ばかりと思うて時光をうしなわず、学道に心をいるべきなり」時間的には今日今時ですよね。空間的には今ここにいる場所ですよね。ですから「只今」というものが一番大切なんだ、と。只今を充実さして生きること、そこに学道の心構えは極めるんではないか。これが道元禅師のお言葉ですね。「今日今時を大切に生きましょう」ということですね。先ほどもちょっと触れましたけど、今日今時を刹那的な快楽主義に自分の身を任せない。今日今時をしっかりと目標を定めて生きていく、と。そこに仏教の考え方があるということなんですね。今日できなければ明日やればいい。今日やれないものは明日と。明日明日と、回すことは簡単ですが、そうじゃなくて、今日のことは今日やる。そして只今やる、と。そういう修行のやり方を、道元禅師は言っておられるわけですね。なかなかできませんけど、毎日をそういうふうに思えば、朝起きる時でも違います。今日やるべきことは何か、と。今日はこれをやる、と。そう思って元気を出して起きるのと、今日やるべきことは何もない、と。やらなくてもいいんだ、と。寝ていてもいいんだ、と言うんで、朝を迎えるんだと随分違うと思いますね。四月からずっと大乗仏教のいろんな法華経とか、華厳経とか、大日経とか、いろんなものを集めてやってきましたが、結局は帰するところはこういうところでありまして、大乗仏教としては、「欲望は知足を知ること」欲望の制限ね。と言って、無理にそれを断絶するとか、禁則するというんじゃなくて、知足を知る、と。これが大切ですよね。それから修行法としては、毎日毎日を充実して生きていく。それでいいんじゃないかと思いますね。
 
草柳:  ただ今日のお話の中心になった無常ということで言えば、この世の中は自分の生死も含めてすべて無常なんだから、だから何をやっても人の迷惑さえなければ、何をやってもいい、ということの方へ走るのか、あるいはそれとも無常だからこそ、かえって一瞬一瞬を大切にして生きなければいけない、ということの方に身をおいていくのか、その差というのは、とっても大きいと思いますね。
 
鎌田:  大きいと思いますね。それは宗教教育とか、そういう教育面、あるいは家庭教育とか、そういうものを通じて、そういう方向へいかないと、とんでもない人間ができあがっていくわけですね。利己主義であって、自分のことばっかり考えて。ところが人間って、自分てないんですよ。全部人様によって生かされている自分なんですよ。だからそういうふうに考えますと、やっぱり人間というのが、字の通りで、「共生」ですよね。共に生きていかなければなりませんでしょう。共に生きていくためには、最低限の、しかもしっかりとした根源の倫理がある筈です。倫理と申しますかね、宗教的にいうと、五戒(仏教において在家の信者が守るべきとされる基本的な五つの戒のことで、より一般的には在家の五戒などと呼ばれる。不殺生戒(生き物を殺してはいけない)、不偸盗戒( 他人のものを盗んではいけない)、不邪淫戒(自分の妻(または夫)以外と交わってはいけない)、不妄語戒(嘘をついてはいけない)、不飲酒戒(酒を飲んではいけない)とか、そういう戒律みたいなものがあるんですね。そういうものを踏み破っていければ、これは人間社会の破滅ですからね。人間は生存する意味はなくなっていくわけですね。そういうことでも、今後は注意をしまして、どうしても無常というと刹那主義、快楽主義、我が儘主義というふうになっていくわけですね。そうじゃなくて、無常だからこそ、毎日を真剣に生きていかなくちゃならないんだ、と。そういうふうに毎日を真剣にいかなくちゃならないんだ、と考えると、やっぱり人間は、人間の生きる目的だとか、人生の意味とか、そういうものを考えざるを得なくなると思いますね。ですから大乗仏教のいろんな経典を通じて、いのちの探求ということをしたわけですが、それは生きるいのちの探求ですね。そういうふうに私は考えます。
 
草柳:  「衆縁和合」という言葉もありましたけれども、決して一人で生きているものではない。一人の生ではない、ということの大切さということも、お話の中でとってもよくわかりました。一年間にわたってほんとに有り難うございました。
 
鎌田:  有り難うございました。
 
     これは、平成十二年三月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである